こんにちは!よこみち孝弘です

衆議院議員よこみち孝弘の国会・地域活動をお伝えします

対馬孝且様のご冥福をお祈りいたします。

2012年02月13日 | Weblog

 戦後の北海道労働運動の先駆的な役割を果たされ、その後、参議院議員として数多くのご功績を残されました「対馬孝且」さんが、去る2月7日ご逝去されました。

葬儀委員長として2月9日のお通夜で次のような挨拶を述べました。

 

 喪主、親族になり代わりまして、一言ご挨拶申し上げます。

 本日は、皆様にはご多忙中のところ、ご焼香、ご参拝を賜り、かつまた、過分なるご香料、ご供花、ご供物をいただきまして、誠に有難く厚くお礼申し上げます。

 「対っちゃん」との愛称でみんなに親しまれ、豆タンクのように“ずっても、はっても”と北海道中を走りまわり、大衆の声に耳を傾け、みんなに愛された大衆政治家、対馬先生が亡くなられました。「波乱万丈」の生涯を終えられた先生に心から哀悼の誠をささげご冥福をお祈りいたします。

 

 対馬先生が、その生涯をかけて大衆のために尽力された足跡は極めて大きいものがあり、その偉大さを改めて認識するところです。国会の18年間“物価問題のつしま”と言われたように「福祉灯油」の実現を求め「北海道価格」の解消に努力されました。

 また炭鉱が次々と閉山していくなかで、産炭地の振興や働く人々の雇用問題に取り組まれて、そして何より“季節労働者の人々の通年雇用”や“積雪寒冷地給付金”などにどれほど力をつくされたことか、どれほど多くの人々が救われたことかわかりません。

 

 また私にとっては、対馬先生には全道労協事務局長として、私の父の知事選挙、私の衆議院選挙に際して並々ならぬ御支援をいただき、また社会党北海道本部委員長として私の知事選挙を指導していただきました。親子二代にわたりお世話になりました。長い間の御厚情に心からの感謝を申し上げます。

 

 ここで、慣例によりまして故人の経歴を簡単にご紹介させていただきます。

 故人は、大正14年3月10日、北海道苫前郡初山別村豊岬(トヨサキ)で、漁業を営む父亀吉、母スサさんの長男としてお生れになりました。初山別村風連小学校4年(11歳)の時、父亀吉さんが船から転落した人を助けるため海に飛び込んだのが原因で、急性肺炎になり他界しました。

 

 その後、ご家族とともに小樽市の叔母のところに移転し、苦難の少年時代が始まりました。昭和12年小樽市潮見台小学校入学。昭和14年苦労する母を助け「丁稚奉公」しながら小樽市第一尋常高等小学校高等科を卒業しました。この時の思い出を故人はこう語っていました。

 昼間は叔母の家具屋の手伝い、朝、夕は新聞配達しながら学校に通った。当時10枚、20枚の「ふすま」を問屋まで運ぶのに大八車を引いていたが、そんな私の姿に目をとめた小樽新聞(現在の北海道新聞)の工藤さんという記者が、「荷車が歩く」という見出しで「少年対馬孝且、大八車見えるが本人姿は見えず、長男として家を支え苦労しながら学校に通う」という内容の記事を載せ、学校で評判になったが、私にとって、これが大きな励みになった。このころ医者や商人の子供と自分の境遇と比べ、子供心に職業の良し悪しで何故、差があるのか思ったものです、と語っています。

 

 昭和16年太平洋戦争が始まりましたが、故人は東洋木製飛行機工場で働きながら、旧制潮陵中学夜間部に編入し、昭和18年に志願して軍隊に入隊し、札幌月寒連隊に配属されました。

 その後、終戦になり、昭和20年10月に復員し、母親のいた美唄市に落着きました。

 昭和21年2月に三井鉱山美唄鉱業所に入社し、同年5月に三井美唄炭鉱労働組合青年部長になりました。この時故人は復員して自分の生きる針路を決めかねていた時、本屋でイギリス労働運動の歴史と出会い、子供の頃の生活の思い出と重なり、日本の再建は労働運動以外にないと語っていたとのことです。そのころの北海道の炭鉱労働運動は、道内各地の炭鉱(ヤマ)で労働争議が次々と起こっていました。

 

 昭和23年5月アキヱ夫人と結婚。夫人は家庭を守り、故人は労働運動、政治活動と多忙を極めていました。三井美唄炭鉱労働組合では、教宣部長、調査部長、書記次長を経て、昭和25年5月書記長に就任しました。25才の時のことです。

 

 昭和28年に砂川、芦別、美唄三山の首切り攻撃があり、この時歴史的な三鉱連「英雄なき113日の闘い」を指導し、この結果、11月に会社の指名解雇は撤回されました。

 この他にも「占領政策に反対するストライキを中止しろ」「トラブルメーカーのツシマをやめさせろ」など占領中は占領軍からの攻撃もあったが、これを跳ね返した、という有名な話もあります。

 

 昭和33年8月、日本炭鉱労働組合北海道地方本部事務局長に就任し、王子争議闘争の指揮・指導など、縦横無尽の手腕を発揮しました。特にこのころ、炭鉱のスクラップアンドビルドの政策が出現し、炭鉱(ヤマ)を守るため、政策転換闘争を展開し安保闘争とも重なり、大変な苦労があったのではと推察します。

 昭和38年9月 全北海道労働組合協議会事務局長に就任し、中小労働者の闘いや全道各地区労の強化など数多くの実績を残しました。

 昭和49年7月 全北海道労働組合協議会事務局長10年間の活動を終え、参議院議員に立候補。初戦の選挙は厳しいと思われていましたが、404136票(404.136票)を取り、堂々3位の当選を果たし「ずってもはっても」大衆政治家対馬孝且が誕生しました。

 

 その後の2回の選挙も道民の高い支持を得て当選し、昭和49年から平成4年7月まで、国会では社会労働委員長、国民生活・経済に関する調査特別委員長、建設委員長、懲罰委員長などなど、3期18年間参議院議員を務めたことは皆様ご存知のところでございます。

 党派を超える人脈を持ち、昭和61年7月には日本社会党参議院国会対策委員長として活躍され、平成3年7月には日本社会党・護憲共同参議院議員会長にも就任されました。

 そして参議院議員3期18年、議員活動に全力を挙げて取り組んでこられ、たくさんの人たちから惜しまれながら議員活動に幕を下ろしたのであります。

 平成4年9月、功労議員として参議院議長より表彰されたほか、平成7年4月には、勲二等旭日重光章を受章されております。

 故人は、大衆政治家 対馬孝且写真集「ずってもはっても」の中で、常に大衆の世論が政治の源であること、また国会議員としての、何よりの心残りは消えゆくヤマの灯を守れなかったこと、うれしかったのは横路道政の誕生だったとのべられています。

 

 対馬先生の生涯は、北海道の戦後労働運動の歴史そのものであり又、平和と民主主義を求め、働く人々の権利の実現のために闘われた歴史であります。この御功績は高く評価されるものであり、決して忘れてはなりません。

 

 故人はその後、長男 徳昭(のりあき)さんがひきいるジャパンケアグループの法人の一つである学校法人つしま記念学園の総長に就任されました。

 議員の現役時代には、徳昭さんが事業の経営をしていること、拡大することに一貫して反対しておられましたが、引退後、グループ入りしてから、グループがこんなに社会に役立つ仕事をしているのかと理解され、それ以降は一番の理解者に変わったのであります。

 

 平成11年3月に脳梗塞で倒れられ、中村記念病院に4カ月入院されたのち、リハビリのために7月に老人保健施設「げんきのでる里」に入所され、翌年には有料老人ホームハッピーⅡ、介護の必要度が増し特別養護老人ホーム「幸栄の里」、そして有料老人ホーム「天(てん)」の完成に伴い入居され、終の住処として生活を楽しんでおられたそうです。これらの施設は、いずれもご長男徳昭さんが経営されている所であり、職員の人達も懸命に介護をしていただきました。

 

 平成23年9月に体調を崩され、札幌しらかば台病院に入院されました。年が明け1月19日に状態が悪化し、呼吸不全になり、主治医の湯浅ドクターをはじめ、スタッフの方々の最善の治療とご家族の手厚い看護にも関わらず、平成24年2月7日23時49分、その88歳の生涯を終えられたのであります。故人のお世話は、アキエ夫人が体調を崩されていることから、ご長女由利子さんが仕事のかたわら献身的に尽くされました。

 

 ご家族ご親族の皆様のお悲しみはさぞかしと推察申し上げお慰めの言葉もありません。

 残されましたご家族は、奥様、ご長男の徳昭さん、ご長女の由利子さん、それぞれご家族をお持ちになって、立派な社会人としてご活躍中であり、この点は故人も心残りなく旅立たれたことと思います。特に、ご長男の徳昭さんは高齢者福祉の分野で日本の中でも大変なご活躍中で、今年4月に国の制度として施行されます「24時間定期巡回・随時対応サービス」の開発者であります

どうぞ故人に寄せられましたご厚情を残されたご家族にも賜りますように宜しくお願い申し上げます。

 このあとは、近親者のみにてお通夜をいたしますので、皆様方には随時お引き取り願います。

 なお、明日は午前10時から告別式、11時30分出棺の予定となっておりますので、皆様方には何かとご多忙中とは存じますが、ご焼香、ご参拝いただければ幸いと存じます。

 本日は本当に有難うございました。遺族になりかわり一言お礼申し上げまして、ご挨拶とさせていただきます。

 

ジャンル:
ウェブログ
この記事についてブログを書く
« 第63回全国植樹祭特別委員会 | トップ | 旭山桜の開花 »
最近の画像もっと見る

Weblog」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事