アメリカの黒人奴隷制

2022-01-05 22:44:30 | 政治史・思想史

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[植民地時代]

・イギリス領北アメリカの南部に入植したイギリス人は、当初、本国の白人年季契約奉公人を使用してプランテーションでの強制労働を行わせた。白人年季奉公人は本国の下層民であり、急増していたタバコ栽培を支える主要な労働力となった。黒人奴隷は1619年には導入されたものの、その数は白人年季奉公人に劣後していた。□アルマ102,123-4

・1670年代から白人年季奉公人の確保が次第に困難となる一方、黒人奴隷価格は低下していき、18世紀に入ると両者の数は逆転した。ヴァージニアでは1662年に初めて黒人奴隷の終身年季に法的承認が与えられ、1705年、それまでの関連法を整理統合した「奉公人・奴隷法」が成立して奴隷法制が完成した。□アルマ124、和田62-4

・[1]奴隷は終身の状態とされ、年季で限定された強制労働とは区別された。[2]奴隷である母親から産まれた子も奴隷とされた。[3]奴隷法制の対象となるのは特定の人種(売買された黒人、黒人と白人の混血、アメリカインディアン、アメリカインディアンの混血)に限られた。[4]奴隷は牛馬と同じく動産とみなされた。□楪4、和田62-4

 

[独立革命期]

・革命戦争時のイギリス側(忠誠派)は黒人を兵力の一部として利用し、遅れてアメリカ側(愛国派)も黒人に武器を与えて動員した。最終的にはアメリカ側兵力の1.6%を黒人が占めるようになった。□和田140

・革命期にはイギリスからの輸入を断つ意味も込めて13の全ての邦(states)で黒人奴隷の輸入が禁止又は停止され、一部で輸入再開があったものの1800年頃までには輸入の禁止停止が確立した。さらに1780年にペンシルヴェニア州で奴隷制の漸進的廃止が決まり、ニューイングランド地方や中部では1800年頃までに廃止の方向が決まった。□和田140

・トマス・ジェファソンが1776年に起草した独立宣言の草案段階では、イギリス政府の「悪政」の例として奴隷貿易の非人道さが指摘された。もっとも、1788年に発効した合衆国憲法には、奴隷制を前提とした規定がある:1条2節3項「…各州の人口は、自由人の総数に、その他の全ての者の数の5分の3を加えることにより算出する。…」、1条9節1項「…合衆国議会は、1808年より前において、現存する州のいずれかが受け入れを適当と認める人々の移住及び輸入を禁止してはならない。…」※土井真一訳 □和田113,156

・初代大統領ワシントン、第3代ジェファソン、第4代マディソン、第5代ジェイムズ・モンローはいずれもヴァージニア州出身であり、奴隷を使う大プランテーションの経営者だった。ジェファソンは奴隷制度と非難しつつも自身が所有する奴隷を解放することはなく、女性奴隷であるサリー・ヘミングスとの間に数人の子をもうけた。□和田208-9、JMV82

 

[19世紀前半]

・18世紀末に、綿花の繊維から種子を取り除く「綿繰り機(cotton gin)」が発明された。この発明によって単繊維の綿花を市場向けに生産することが可能となり、綿花栽培は、大西洋岸のサウスカロライナ州やジョージア州から、メキシコ湾岸のアラバマ州・ミシシッピ州・ルイジアナ州へと拡大していった。1840年には、南部での綿花生産高は世界の6割を占めるようになった。南部産の綿花は主にニューヨークの海運業者を通じてイギリスに送られ、ランカシャーなどの工場で織物に加工された。□貴堂37-40

・憲法1条9節に関連して、1807年、1808年1月以降の奴隷輸入を禁止する連邦法が成立した。主要商品作物が綿花へと集中する中、奴隷制が衰退傾向にあった大西洋沿岸州から低南部へ奴隷の転売が盛んに行われたほか、若い女性奴隷の多産による自然増によって奴隷人口は増加していった。□貴堂37-40

・憲法制定以降、連邦議会では奴隷制問題を論ずることを避けてきた。しかし、モンロー政権下の1819年2月に旧ルイジアナ地方のミズーリ住民から奴隷州として連邦加入が請願されると、連邦議会において「ミズーリにおける奴隷の漸進的開放の当否」という形で奴隷制問題が議論された。1819年12月に北部のメイン住民からマサチューセッツ州からの分離独立と自由州としての連邦加入が請願されると、1820年、下院議長ヘンリー・クレイの調停により、「メイン州を自由州、ミズーリ州を奴隷州として加入させ、旧ルイジアナ地方ではミズーリ州の南の境界線(北緯36度30分)より以北では奴隷制は認めない」とするミズーリ妥協が成立した。□貴堂16-8、アルマ23,224

・1819年には自由黒人をアフリカに帰還させるための予算が組まれた。1821年にはアフリカ西海岸にリベリア植民地を獲得し、約20年間に4000人弱の黒人がリベリアに送還された。□貴堂32-4

・ミズーリ妥協によって自由州と奴隷州の数はいずれも12となり、以降も両州のバランスは維持され、1848年のアメリカ・メキシコ戦争の終戦時点で両州の数は各15になっていた。□貴堂16-8,58、アルマ23,224

・1848年にアメリカ・メキシコ戦争が終結し、アメリカは、メキシコから、ニューメキシコ地方とカリフォルニアを買収した。1849年の憲法制定会議では、カリフォルニア州を自由州として連邦に加入させることをめぐって南北の緊張が高まり、結局、「準州となるユタやニューメキシコが州に昇格する際には住民主権によって奴隷制の是非を決定する」「より強力な逃亡奴隷法を制定する」等と抱き合わせで妥協的にカリフォルニア州の加入が決まった。□貴堂50-2,61-2

 

[1850年代]

・北部での「奴隷制即時廃止運動」は高まりをみせ、かつて逃亡奴隷であった黒人女性ハリエット・タブマンに代表される活動家は「地下鉄道(Underground Railroad)」を組織し、黒人奴隷の逃亡を援助した。1830年から1860年の間に、7万から10万人の奴隷逃亡者が北部に逃げるのを支援したと推計されている。□貴堂62-3、JMV74-7

・白人女性ハリエット・ストウが1952年に出版した『アンクル・トムズ・キャビン(アンクルトムの小屋)』がわずか10か月の間に30万部以上のベストセラーとなった。「uncle(aunt)」とは、白人による男性奴隷(女性奴隷)の呼称である。同書は奴隷制の非人道性を訴え、北部人の共感を掻き立てた。イギリス王室でも同書は話題にのぼり、イギリスはあえてカナダ国境を閉鎖しなかった。□貴堂62-3、JMV80-2,87

・1854年、中西部イリノイ州選出の上院議員スティーブン・ダグラスが提出した「カンザス・ネブラスカ法」が成立した。同法は、中西部アイオワ州の西を「ネブラスカ準州」、中西部ミズーリ州の西を「カンザス準州」と組織し、自由州か奴隷州になるかを住民主権に委ねる内容だった。この内容は、ミズーリ妥協に反して北緯36度30分より北の地域(ネブラスカ、カンザス)も奴隷州とする余地を認めるものであり、南部議員に歓迎された。□貴堂63-5

・住民主権が導入されたカンザス準州では、奴隷制反対派と隣のミズーリ州からやってきた奴隷派支持派が武力衝突を繰り返し、1856年には死者を出す「カンザスの流血」が起きた。同年、共和党の上院議員チャールズ・サムナーが、議場内で奴隷擁護派のブレストン・ブルックリンに殴打されて重傷を負う「サムナーの流血」も起きた。□貴堂70-1

・ドレッド・スコット事件:1836年より、連邦最高裁長官はジョン・マーシャルからロジャー・トーニーへ変わっていた。黒人奴隷ドレッド・スコットが自由人としての身分を訴えた事件において、トーニーは、奴隷主の奴隷に対する財産権を認める判断を下した。□貴堂71-2

 

[南北戦争期]

・1960年、共和党は、大統領候補に無名のエイブラハム・リンカンを指名した。民主党は候補者を一本化できずに南北へ分裂し、結果的に4名の候補者の中からリンカンが当選した。リンカンの当選を受けて南部は衝撃を受け、1860年12月から1861年2月にかけて、サウスカロライナ州、ミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州が連邦から離脱し、ジェファーソン・デイビスを大統領とする「アメリカ連合国(the Confederate States of America)」が結成された。南部連合は、奴隷所有権の保証をうたった独自の憲法を採択した。□貴堂77-8、JMV96

・リンカンは、1861年3月4日の大統領就任演説において、南部奴隷制への不干渉を表明した。しかし、4月12日に、サウスカロライナ州内にあって孤立した連邦側のサムター要塞が南部連合軍に砲撃され、4年に及ぶ「内戦(the Civil War:邦訳では南北戦争)」が勃発した。これを機に、ヴァージニア州、アーカンソー州、ノースカロライナ州、テネシー州も次々に連邦を離脱し、南部連合は計11州となった。□貴堂79-81

・南部奴隷制不干渉を継続していたリンカンは、1862年9月22日、連邦軍最高司令官の名で「奴隷解放予備宣言」を布告した。この布告に対しても南部連合が連邦復帰をしなかったため、1863年1月1日、リンカンは「奴隷解放宣言(Emancipation Proclamation)」を布告し、連合国下の奴隷が自由人となることを宣言した。ただし、北部についたミズーリやケンタッキーなど境界州の奴隷は解放されなかった。また、奴隷解放宣言と伴って徴兵登録法が出されたが、徴兵の対象とされる北部の白人貧困層は黒人へ怒りを向けた。ゲティスバーグで多数の死者が出たとの知らせをきっかけに、ニューヨークでは約5万人の白人が黒人居住区を襲撃した。□貴堂90-6、JMV98-100

・1863年11月、リンカンは、南北の激戦地となったペンシルヴェニア州のゲティスバーグで演説し、「government of the people, by the people, for the people」と述べたほか、「union」ではなくあえて「nation」と5回繰り返した。□貴堂100-2

・戦時下の1864年の大統領選挙では、リンカンが、民主党候補ジョージ・マクラレンを大差で破り再選した。1865年3月、南軍が降伏して内戦は事実上の終戦を迎えた。4月9日、南軍のロバート・E・リー将軍が北軍のユリシーズ・S・グラント将軍に降伏した。終戦直後の4月14日、リンカンは狙撃されて翌日に死亡した。□貴堂102-4、JMV105-6

・この4年間で北軍の36万人が戦死し、戦場の大半となった南部では25万人が死亡した。□JMV102

 

[南北戦争後]

・終戦直前の1865年1月、奴隷解放宣言を明文化した憲法修正第13条が成立し、戦後直後の1865年12月に批准した。□貴堂118-9

・1865年末、かつて南軍の将軍であったネイサン・ベッドフォード・フォレストらによって、テネシー州で「クー・クラックス・クラン(KKK)」が結成された。当初、KKKは白人大衆層に支持され、黒人への暴力や資産の破壊を行なった。KKKの攻撃は黒人へ同情的な白人にも向けられた。映画『風とともに去りぬ』ではKKKが美化されて描かれているものの、実際のKKKは違法なテロリスト集団だった。連邦政府の取締りにより、KKKの活動は1872年にいったん収束した。□JMV116-20

・リンカンの暗殺により、終戦後の再建は、南部テネシー州出身の民主党所属でありながら連邦離脱に反対した副大統領アンドリュー・ジョンソンが担った。ジョンソンは南部宥和策を採ったため、共和党急進派と対立した。急進派は、法の下の平等をうたった憲法修正第14条を成立させた。□貴堂120-35

 

有賀夏紀・油井大三郎編『アメリカの歴史』(有斐閣アルマ)[2003]

楪博行「アメリカにおける奴隷制度とその変遷-植民地奴隷法制の形成とその根拠」[2005]

有賀貞『ヒストリカル・ガイド アメリカ〔改訂新版〕』[2012]

和田光弘『植民地から建国へ 19世紀初頭まで シリーズ アメリカ合衆国史(1)』[2019]

貴堂嘉之『南北戦争の時代 19世紀 シリーズ アメリカ合衆国史(2)』[2019]

ジェームズ・M・バーダマン(森本豊富訳)『アメリカ黒人史ー奴隷制からBLMまで』[2020]

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