安倍総理をヒトラーになぞらえるツイッターの議論を見ていて、自分がドイツ現代史をまったく知らないことに気づく。いずれも2015年に刊行された新書だが、石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』とリチャード・ベッセル(大山晶訳)『ナチスの戦争1918−1949』を購入。いまの自分の関心と既述スタイルから、より前者に好感を持った。硬派な内容を新書で出す講談社現代新書と中公新書は立派。以下は、前者+石田勇治「ナチ・ドイツと現代日本〜ヒトラーは「恣意的な憲法解釈」から生まれた」『本2015年9月号』。
19世紀以来のドイツ社会は、保守的・市民的(ブルジョワ)・労働者・カトリックという4つのミリュー(部分社会)に分かれていた。ナチ党は、すべての社会階層から支持を得るべくそれぞれにふさわしい主張をした(カトリック→マルクス主義、労働者→資本家と金権政治、農村→都市政治家…)。共通していたのは、不満をユダヤ人に向ける扇動と、ヴァイマル共和国の議会政治家への批判だった。ナチ党は「民族の名誉」も前面に押し出した。結果、ナチ党は1930年9月選挙において、政党得票率18.3%・国会第2党へと躍進した。
1932年3月の共和国大統領選挙では、ナチ党はヒトラーを擁立した。一次投票では当選者が決まらず、決選投票において53%を得たヒンデンブルグが第3代共和国大統領に再選された。敗れたヒトラーは37%を得た。
同年7月の国会選挙において、ナチ党は37.3%の得票を得て国会第1党となった。この選挙では共産党も得票率14.3%と躍進した。
8月13日、大統領ヒンデンブルグはヒトラーと接見し、副首相のポストを提供すると伝えた。しかし、ヒトラーはこの申入れを拒んだ。
9月、ナチ党等の賛成で内閣不信任案が可決された。首相パーペンは、大統領とともに国会を解散した。
しかし、11月に実施された国会選挙では、ナチ党の得票率は33.1%・議席数196(総数584)と落ち込んだ。党勢が伸び悩んだのは、ヒトラーが具合的な成果を何も出せていないことにあった(他の原因として、投票率の4ポイントダウン、ベルリン交通局のストライキに加わったことへの中間層・保守層の幻滅、ナチ党急進に危機感を覚えた保守層の離反、経済状況の好転)。他方、共産党は16.8%とさらに躍進した。
ナチ党と共産党を合わせると過半数を超える状況は変わらず、国会は相変わらず麻痺状態だった。ヒンデンブルグはパーペン首相を更迭し、軍人であるシュライヒャーを首相に任命した。
共産党の躍進を脅威に感じる財界からは、ヒンデンブルグの元に「ヒトラーを首相に」という請願が届いていた。前首相パーペンは、新政権樹立に向けてヒトラーと接触を続けていた。パーペンは、ヒンデンブルグに「ヒトラー首相」を認めさせるため、ナチ党とともに右派統一戦線の再建・副首相にはパーペンが就任・保守派領袖の入閣・ナチ党からの入閣は最小限にする、との青写真を描き、閣僚名簿をヒンデンブルグに手渡した。パーペンら保守派は、ヒトラーを利用して「議会制民主主義を終わらせる」「急進左派勢力の抑えつけ」「強いドイツ(再軍備・軍拡)」を実現する、達成後はヒンデンブルグの力でヒトラーを制限から追い出す、と目論んでいた。保守派の3つの目標は、ヒトラーが求めていたことでもあった。
1933年1月30日、ヒンデンブルグは、ヒトラーを首相に任命した。