先日の記事を書いたものの、どうもすっきりしなかった。法律家が行う因果関係の有無の判断過程を、論理学の目からどうやって評価したらよいのかが曖昧なままで残された。結局、以下のようにまとめることができるだろうか(例のごとく、野矢茂樹『入門!論理学』に多くを負う)。
代表的な2つの命題算、自然推論とトートロジーの体系を考えよう。「ならば」は、前者ではその導入則と除去則という推論規則として、後者では意味論的に解釈された演算子として登場する。ところが、これらは同じではない。
「ならば」の導入則(=演繹定理)とは、仮定Aから出発して演繹的推論を重ね、Bに至ることができれば、「AならばB」が成り立つ(真である)、という推論規則をいう。このとき、「Aが成り立てば常にBが成り立つ」という関係が示されたので、「AはBの十分条件である」「BはAの必要条件である」ということができる。
他方、トートロジーにおける「ならば」は、単なる演算子に過ぎない。自然推論のような(文字通り自然に納得できる)使い方とは程遠い。「AならばB」の真偽は、AとBとの真偽の組み合わせによって機械的に決定される。したがって、仮に「AならばB」が真であっても、そこからAとBとがどのような関係にあるのかはわからない(「横井が留年するならば総理が辞職する」という命題を考えよ)。この文脈で、「十分条件・必要条件」を語ることはできない。
長くなったが刑法の因果関係論の話に戻ろう。ここでは、論理学のような演繹的推論ではなく、われわれが日常的に行っているような、もっと緩い推論(「推理」と呼ぼう)が行われる。裁判官は、カツトシの死をヨコイの殴打に帰責してよいか、という意味での「殴打」と「死」との関係を探求するのである。
ここで2つのアプロウチが考えられる。伝統的には、周知の条件公式が援用される。裁判官は、「もしヨコイの殴打がなかったら・・・」と仮定し、ヨコイの死因や当時の具体的状況等を勘案し、「カツトシの死はなかっただろう」と結論する。繰り返すが、このような推理は、論理学が要求する推論とは呼べない(別の裁判官が判断すれば異なった結論を出しただろう)。しかし、「ヨコイの殴打がなかったならば、かなりの高確率で、ヨコイの死はなかっただろう」と言えるならば、それを「ヨコイの殴打はカツトシの死の必要条件であった。」と言い換えることは不当ではない。
これに対し、ヨコイの殴打とカツトシの死との関係を、ストレートに探求する立場もあろう。これは、条件公式とは違い、「現実になされたヨコイの殴打」を分析し、その行為のもつ危険性が、「カツトシのその死」となって発現したものと評価できるかを考える。やはり、この推理(評価)は、厳密な意味での演繹的推論ではない。しかし、「現実になされたヨコイの殴打が、カツトシの死に相当程度寄与しただろう」と言えるならば、それを「ヨコイの殴打はカツトシの死の十分条件であった。」と言い換えることはやはり不当ではない。
まとめ。法的因果関係を探求する作業は、時間軸の前後にならぶある行為とある結果との関係を、「その結果発生の責任をその行為に負わせてよいか?」という観点から推理することである。他方、厳密な演繹的推論は、時間差が観念できない命題AB間の論理的関係を探求するものであり、両者は似て非なるものである。しかし、そのことを自覚しているならば、演繹的推論に似たものとして論理学の概念を借用し、「行為が結果の必要条件(十分条件)であった」と語っても構わない。
追記:なお、自然推論の除去則に登場する「ならば」は、①導入則のようにABの関係を教えてくれる「ならば」でもよいし、②トートロジーのような、単なる演算子としての「ならば」でも構わない。要するに、ABの関係を詮索することなく、「AならばB」と「A」という2つの命題から、ならばの除去則を用いて「B」という結論を得ることができるのである。
代表的な2つの命題算、自然推論とトートロジーの体系を考えよう。「ならば」は、前者ではその導入則と除去則という推論規則として、後者では意味論的に解釈された演算子として登場する。ところが、これらは同じではない。
「ならば」の導入則(=演繹定理)とは、仮定Aから出発して演繹的推論を重ね、Bに至ることができれば、「AならばB」が成り立つ(真である)、という推論規則をいう。このとき、「Aが成り立てば常にBが成り立つ」という関係が示されたので、「AはBの十分条件である」「BはAの必要条件である」ということができる。
他方、トートロジーにおける「ならば」は、単なる演算子に過ぎない。自然推論のような(文字通り自然に納得できる)使い方とは程遠い。「AならばB」の真偽は、AとBとの真偽の組み合わせによって機械的に決定される。したがって、仮に「AならばB」が真であっても、そこからAとBとがどのような関係にあるのかはわからない(「横井が留年するならば総理が辞職する」という命題を考えよ)。この文脈で、「十分条件・必要条件」を語ることはできない。
長くなったが刑法の因果関係論の話に戻ろう。ここでは、論理学のような演繹的推論ではなく、われわれが日常的に行っているような、もっと緩い推論(「推理」と呼ぼう)が行われる。裁判官は、カツトシの死をヨコイの殴打に帰責してよいか、という意味での「殴打」と「死」との関係を探求するのである。
ここで2つのアプロウチが考えられる。伝統的には、周知の条件公式が援用される。裁判官は、「もしヨコイの殴打がなかったら・・・」と仮定し、ヨコイの死因や当時の具体的状況等を勘案し、「カツトシの死はなかっただろう」と結論する。繰り返すが、このような推理は、論理学が要求する推論とは呼べない(別の裁判官が判断すれば異なった結論を出しただろう)。しかし、「ヨコイの殴打がなかったならば、かなりの高確率で、ヨコイの死はなかっただろう」と言えるならば、それを「ヨコイの殴打はカツトシの死の必要条件であった。」と言い換えることは不当ではない。
これに対し、ヨコイの殴打とカツトシの死との関係を、ストレートに探求する立場もあろう。これは、条件公式とは違い、「現実になされたヨコイの殴打」を分析し、その行為のもつ危険性が、「カツトシのその死」となって発現したものと評価できるかを考える。やはり、この推理(評価)は、厳密な意味での演繹的推論ではない。しかし、「現実になされたヨコイの殴打が、カツトシの死に相当程度寄与しただろう」と言えるならば、それを「ヨコイの殴打はカツトシの死の十分条件であった。」と言い換えることはやはり不当ではない。
まとめ。法的因果関係を探求する作業は、時間軸の前後にならぶある行為とある結果との関係を、「その結果発生の責任をその行為に負わせてよいか?」という観点から推理することである。他方、厳密な演繹的推論は、時間差が観念できない命題AB間の論理的関係を探求するものであり、両者は似て非なるものである。しかし、そのことを自覚しているならば、演繹的推論に似たものとして論理学の概念を借用し、「行為が結果の必要条件(十分条件)であった」と語っても構わない。
追記:なお、自然推論の除去則に登場する「ならば」は、①導入則のようにABの関係を教えてくれる「ならば」でもよいし、②トートロジーのような、単なる演算子としての「ならば」でも構わない。要するに、ABの関係を詮索することなく、「AならばB」と「A」という2つの命題から、ならばの除去則を用いて「B」という結論を得ることができるのである。
>このとき、「Aが成り立てば常にBが成り立つ」という関係が示されたので、「AはBの十分条件である」「BはAの必要条件である」ということができる。
とありますが、例えば「晴れたらワンピースを買う」について、「BはAの必要条件である」はおかしくないでしょうか?
つまり「B(ワンピースを買う)は、A(晴れる)の、必要条件である」ということになりますが、別に、ワンピースを買わなくても、晴れますよね??
コメントありがとうございます。
Unknownさんの疑問は、「晴れたらワンピースを買う」という日本語をどのような命題だと理解するか、という問題だと思います。
つまり、Unknownさんの例は、ヨコヤマさんの行動を観察したところ、天気が晴れている日には必ずワンピースを買いに行くということがわかった、という現象を指しているはずでです(【晴れ→ワンピース】)。集合論で言えば、「晴れ」という小さい円の全体が、「ワンピース」という大きな円にすっぽりと包まれている状態です。
これを十分条件という言葉で表現すれば、「天気が晴れることは、ヨコヤマがワンピースを買うことの十分(=100%)条件だ」となります。
反対にこの世界では、ヨコヤマさんがワンピースを買っていな日は、絶対に晴れていないはずです。つまり、晴れだと言えるためには、少なくともヨコヤマさんがワンピースを買っていることが必要です(もちろん、ワンピースを買っていたとしても晴れでない可能性はあります)。これを「晴れであるためには、ヨコヤマさんがワンピースを買うことが必要条件だ」と言います。
ざっと野矢入門を読み返しましたが、以上の十分条件・必要条件のことは書いていないようです。ちなみに、ブログ本文にかかわる箇所はpp108-118です。
※高校生でありながら既にこのような話題に関心を持たれていることに感嘆しました。法律の勉強がんばっって下さい。
あ~、なるほど、対偶ですね!納得致しました
該当のページまでありがとうございます
丁寧なご返信をどうもありがとうございました!
おかげ様で理解が進みました