ナザレのイエス

2021-07-19 23:27:16 | 政治史・思想史

[イエスの生誕]

・現在の研究では、イエスの生誕年は「西暦(Anno Domini)1年」より少し前であり、紀元前7年か紀元前4年だったと推測されている。その誕生日は5月20日、1月6日などと推測されている(「12月25日」はペルシア起源の太陽神ミトラの冬至の祭りであり、イエスの磔刑から300年以上が経った時にクリスマスと決められた)。□山我25、小田垣38-9

・イエスの生誕場所も諸説あるが、彼がイスラエル北部のガリラヤ地方のナザレという町で育ったことがわかっているため、歴史的イエス研究の立場からは「ナザレのイエス」と呼称する。□山我25-6、小田垣39

・イエスは、父ヨセフ、母マリアの子として生まれ、4人の弟と2人以上の妹がいた。青年時代には一木材加工業者として平凡な一市民として暮らしていた。□高尾24-5、山我25-6、上村204

 

[洗礼者ヨハネからの受洗]

・当時のユダヤでは黙示的な終末論が流行してきた。出家修行者であったヨハネは、形骸したユダヤ教の繰り返される洗礼を否定し、一度限りの最後の禊としてヨルダン川で身体をひたす洗礼を授けており、すなわち「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝え」ていた。イエスは、突然、家族を棄ててナザレを出てヨハネの元に行き、彼から洗礼を受けた。□山我26-7、高尾25、田上24-5、上村204-6

・イエスがヨハネの弟子になってまもなく、ヨハネはガリラヤの領主ヘロデ・アンテパスを批判したため捕らえられた。これを機に、当時30歳頃だったイエスは、単身で故郷ガリラヤに帰って独立して宣教活動を開始した。□山我28

 

[ガリラヤでの宣教活動]

・ガリラヤでのイエスは、ユダヤ教の伝統に則り、安息日(金曜日日没~土曜日日没)に会堂(シナゴーグ)に入って宣教を行った。□山我28-9

・神の国:イエスの宣教は、ユダヤ教的な時間的な二世界論を前提とした「神の国(basileia tou theou:神の王的支配)」の到来が切迫している、との確信に基づいていた。ヨハネの説く「天の国」が恐るべき神の裁きという陰惨なイメージであったのと比べると、イエスの「神の国」は、貧しい者・飢える者・泣く者が解放される「福音(euangelion)」であった。厳格な律法(torah:旧約聖書のうちの創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)の遵守を重んじるユダヤ教では、律法を守ることの難しい農民・漁師・貧者、罪の報いとみなされた病人、安息日にも働く徴税人や娼婦を「罪人」として蔑んでいた。イエスはこの宗教的価値観を転換させ、あえてこの「罪人」の側に立って「神の国」が到来して彼らが解放されると説いた。□山我29-35、竹下22、田上25-8

・愛:イエスは、律法のうちでもっとも重要な掟として「神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」の2つを挙げ、「愛(agape)」を強調した。□山我41-3、竹下191-2

・律法至上主義の批判:当時のユダヤ教では律法主義が増大し、守るべき条項は一日で613項目にも及んだ。イエスは自身が「律法を完成する」と称し、形式主義的律法解釈は人間を律法の奴隷に貶めるものとして批判した。□山我38-40、高尾24、小田垣43-7

・イエスのガリラヤでの宣教活動は2~3年間つづき、この間、イエスにつき従う信奉者が出てきた。最側近となる12名の弟子を「十二使徒」と呼ぶ。その筆頭格がペトロ(アラム語でKepa、ギリシヤ語でPetros:「岩」の意味)である。□山我44-5

 

[エルサレム上り]

・紀元30年の春、イエスは、弟子を連れてユダヤ教の中心地であるエルサレムへ向かった。□山我45-7

・宮清め:当時のエルサレム神殿では、両替人や供犠用の動物などを売る商人が営業をしていた。これを見たイエスは、暴力に訴えて商人たちを境内から追い出した。ユダヤ教の指導者たちのイエスに対する敵意は高まった。□山我48-50

・ユダの裏切り:ユダヤ教の指導者たちがイエスの殺害を企てている時、十二使徒の1人であるイスカリオテのユダが指導者たちの元を訪れ、イエスを引き渡すことを申し出た。ユダがイエスを裏切った動機はよくわからない。□山我50-1、竹下193-5

 

[最後の晩餐]

・ユダヤ教では、祖先の出エジプトを記念して春に「過越祭(ペサハ、pesach)」を祝う習慣がある。イエスは、十二使徒を集めて質素な食事会を行い、パンを配って「わたしの体」、葡萄酒の杯を回して「わたしの血」と呼んだ。□山我51-2

・晩餐後、イエスの一行はエルサレムの東のオリーブ山の麓にあるゲツセマネの園に向かった。イエスは一人で最後の祈りを神に捧げ、間近に迫った自分の死をひどく恐れ、神に助命を嘆願した。□山我52-3

・弟子たちが眠り込んでしまうと、ユダが群衆を手引きしてやってきた。暗闇の中で、ユダはイエスの頬に接吻をし、これを合図として群衆はイエスを捕らえた。イエスの弟子たちはイエスを見捨てて逃げ出し、筆頭格のペトロもイエスとの関係を三度にわたって否定した。□山我53

 

[裁判]

・捕らえれたイエスは、まず、ユダヤ教の大祭司(最高聖職者)が裁判長を務める宗教裁判にかけられた。「お前はメシアなのか」という問いに対するイエスの答えは福音書間の齟齬があるが、結論として、イエスはメシアを僭称する神への冒涜者と烙印された。□山我54-5

・当時のユダヤはローマ帝国の属州であり、ユダヤ教の指導者にはイエスを死刑にする権限がなかった。そこでイエスは、ついでローマ帝国の政治裁判を受けることになり、ユダヤ教の指導者たちは、イエスはローマの支配に反逆する政治犯だと訴えた。ユダヤ総督ポンテオ・ピラトは「お前がユダヤ人の王なのか」と尋ね、イエスは曖昧な答えを発した。ピラトは群衆を満足させるため、イエスを、彼の磔刑を求める群衆に引き渡した。□山我55-6

 

[磔刑]

・紀元30年4月7日の金曜日、イエスは、エルサレム城外のゴルゴタの丘にて、ローマに反逆した非ローマ人の政治犯に適用される磔刑に処せられた。イエスの最後の言葉は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」であった。□山我56-8、高尾34-5

 

[イエスの復活信仰]

・当時のユダヤ教徒の大半は復活を信じていた。イエスの死後、多くの人々の間に、イエスが復活したという強い確信が同時多発的に生じた。そこでは、イエスは3日目の日曜日の朝に復活し、40日間にわたって神の国について教えた後、オリーブ山から天に上げられた、とされる。□山我60-71、高尾38-9

・イエスを見捨てて四散していた弟子たちは、復活信仰に促されるようにエルサレムへ帰還し、最初のキリスト教共同体であるエルサレム初代教会が生まれた。□山我71-2

 

小田垣雅也『キリスト教の歴史』[1995]

高尾利数『キリスト教を知る事典』[1996]

竹下節子『知の教科書 キリスト教』[2002]

上村静『旧約聖書と新約聖書 「聖書」とは何か』[2011]

☆山我哲雄『キリスト教入門』[2014]

田上雅徳『入門講義 キリスト教と政治』[2015]

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