猛暑のJR山手駅で、会いたかった方達と
ついに会うことができた。
沖縄生まれの比嘉マリアさん、森田美千代さん、
東京生まれの竹田賢一さん。
年齢は異なるが、三人ともアメリカ人を父に
日本人を母に持つ日米のハーフ。
フェイスブック友達の羽月雅人さんが繋いでくださった。
三人とも、根岸外国人墓地に建つ慰霊碑に
ぜひともお参りしたいと、遠くからいらしたのだ。
ちゃんとご案内しなきゃ、と思うあまり
私は待ち合わせの時間を間違え、一時間も早く
山手駅に着いてしまった。
午前9時半。喫茶店も開いていない。
バス停のベンチに腰掛け、隣に座っていた
お婆さんとお喋り。
83才。このあたりで生まれ育ったが、
若いときと違って、坂がたいへん。
これからバスで本牧の商店街へ買い出しに行くとか。
「戦争の時もここだったのよ。
空襲がひどくなってからは箱根に疎開してたけどね。
あんたはどこだったの?」
「どこって、生まれですか?」
「いや、疎開先よ」
「あ、私、戦後生まれなんです」
う~む、そうは見えなかったのか……。
そうするうちにバスが来て、
お婆さんは去った。
10時半を挟み、小学校6年のお孫さんを
連れた森田さん、竹田さん、羽月さんが到着。
最後に比嘉マリアさんが駆けてきてハグ!
羽月さん以外は、みな初対面。
揃って坂道を上り、根岸外国人墓地へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/d7/b5962b2ac54ed05b45f84c6e3a65d235.jpg)
今年の4月、沖縄県うるま市で、元米兵による
日本人女性強姦致死事件が起きた。
その事件を受けた沖縄県民大会を前に、
マリアさんをインタビューした記事が
沖縄タイムズの一面に大きく紹介された。
1975年、七才だったマリアさんは母親と
二人きりでキャンプ・ハンセンに近い金武町に
暮らしていた。
アメリカ人の父親は国へ帰ってしまい、
マリアさんはこの時点で、父の顔も見たことがない。
ある夜、その家が何人もの米兵達に取り囲まれ
窓から覗き込まれ、卑猥な言葉を浴びせられ
いまにも戸が蹴破られそうになった。
母は必死でマリアさんを隠し、警察に通報した。
が、警察は行けないという。
「どうして! 誰に助けを求めればいいの!」
という母親の叫び声が、マリアさんの耳にこびりついている。
もう駄目だ、と思ったその時、米軍警察が駆けつけた。
マリアさん母子はあやうく難を逃れたが
沖縄ではそんな事件が、いまだに後をたたない。
「それでも、私はこうして生きてる。
だけど、米軍がらみのハーフとして生まれたんだもの、
一歩間違えば、この墓地に眠る赤ちゃんが
私だったかもしれない。
そう思うと、どうしてもこの慰霊碑に会いたくて」
終戦直後の横浜、そしてハーフとして生まれた
多くの子ども達のことを、私は「天使はブルースを歌う」
というノンフィクションに書いた。
彼女もそれを読んでくれたのだ。
マリアさんはずっと、インタビューや自身の書いた
記事で、沖縄やハーフの思いを語り続けている。
彼女は声を上げて泣きながら
慰霊碑に花を捧げた。
この日、ここに集った人達みんなが、
同じ思いで手を合わせた。
墓地はいつものように、ひっそりと静まりかえっている。
なにかを語りかけるかのように、数匹の蝶が舞う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/77/ca43a4cf6d14cb38fb170ca2fdc5040c.jpg)
駅近くのレストランへ移動してランチ。
その後、近くの喫茶店へ場所を変え、
尽きせぬ話を続けた。
三人それぞれの人生が、あまりに鮮烈で
私は当分、カルチャー・ショックが収まりそうにない。
8月にまた会いましょうと約束して
夕暮れの迫る山手をあとにした。
マリアさんがお土産にくださった
沖縄の「ちんすこう」。
初めて食べたけど、これ、おいしいねぇ、
食べ始めると止まらない!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/6e/dfc01d8bcf1513da3824eb307851848b.jpg)
ついに会うことができた。
沖縄生まれの比嘉マリアさん、森田美千代さん、
東京生まれの竹田賢一さん。
年齢は異なるが、三人ともアメリカ人を父に
日本人を母に持つ日米のハーフ。
フェイスブック友達の羽月雅人さんが繋いでくださった。
三人とも、根岸外国人墓地に建つ慰霊碑に
ぜひともお参りしたいと、遠くからいらしたのだ。
ちゃんとご案内しなきゃ、と思うあまり
私は待ち合わせの時間を間違え、一時間も早く
山手駅に着いてしまった。
午前9時半。喫茶店も開いていない。
バス停のベンチに腰掛け、隣に座っていた
お婆さんとお喋り。
83才。このあたりで生まれ育ったが、
若いときと違って、坂がたいへん。
これからバスで本牧の商店街へ買い出しに行くとか。
「戦争の時もここだったのよ。
空襲がひどくなってからは箱根に疎開してたけどね。
あんたはどこだったの?」
「どこって、生まれですか?」
「いや、疎開先よ」
「あ、私、戦後生まれなんです」
う~む、そうは見えなかったのか……。
そうするうちにバスが来て、
お婆さんは去った。
10時半を挟み、小学校6年のお孫さんを
連れた森田さん、竹田さん、羽月さんが到着。
最後に比嘉マリアさんが駆けてきてハグ!
羽月さん以外は、みな初対面。
揃って坂道を上り、根岸外国人墓地へ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/d7/b5962b2ac54ed05b45f84c6e3a65d235.jpg)
今年の4月、沖縄県うるま市で、元米兵による
日本人女性強姦致死事件が起きた。
その事件を受けた沖縄県民大会を前に、
マリアさんをインタビューした記事が
沖縄タイムズの一面に大きく紹介された。
1975年、七才だったマリアさんは母親と
二人きりでキャンプ・ハンセンに近い金武町に
暮らしていた。
アメリカ人の父親は国へ帰ってしまい、
マリアさんはこの時点で、父の顔も見たことがない。
ある夜、その家が何人もの米兵達に取り囲まれ
窓から覗き込まれ、卑猥な言葉を浴びせられ
いまにも戸が蹴破られそうになった。
母は必死でマリアさんを隠し、警察に通報した。
が、警察は行けないという。
「どうして! 誰に助けを求めればいいの!」
という母親の叫び声が、マリアさんの耳にこびりついている。
もう駄目だ、と思ったその時、米軍警察が駆けつけた。
マリアさん母子はあやうく難を逃れたが
沖縄ではそんな事件が、いまだに後をたたない。
「それでも、私はこうして生きてる。
だけど、米軍がらみのハーフとして生まれたんだもの、
一歩間違えば、この墓地に眠る赤ちゃんが
私だったかもしれない。
そう思うと、どうしてもこの慰霊碑に会いたくて」
終戦直後の横浜、そしてハーフとして生まれた
多くの子ども達のことを、私は「天使はブルースを歌う」
というノンフィクションに書いた。
彼女もそれを読んでくれたのだ。
マリアさんはずっと、インタビューや自身の書いた
記事で、沖縄やハーフの思いを語り続けている。
彼女は声を上げて泣きながら
慰霊碑に花を捧げた。
この日、ここに集った人達みんなが、
同じ思いで手を合わせた。
墓地はいつものように、ひっそりと静まりかえっている。
なにかを語りかけるかのように、数匹の蝶が舞う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/77/ca43a4cf6d14cb38fb170ca2fdc5040c.jpg)
駅近くのレストランへ移動してランチ。
その後、近くの喫茶店へ場所を変え、
尽きせぬ話を続けた。
三人それぞれの人生が、あまりに鮮烈で
私は当分、カルチャー・ショックが収まりそうにない。
8月にまた会いましょうと約束して
夕暮れの迫る山手をあとにした。
マリアさんがお土産にくださった
沖縄の「ちんすこう」。
初めて食べたけど、これ、おいしいねぇ、
食べ始めると止まらない!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/13/6e/dfc01d8bcf1513da3824eb307851848b.jpg)