コメントありがとうございます。
いまこさん、ブログは、毎日書くことに決めてるので、続けられるようなことで、そうでなければ、ふわっと忘れてるかもしれません。
JUNJUNさん、昨日もWALLOPにメッセージありがとうございました。「だっら」のジャケットの僕も象の物真似ですよ。来月また元気いっぱいお会いしましょう。
というわけで、久保田洋司、昨日はWALLOP、Gakuさんの「Night Music Land」に生出演。
「E♭」と「抱き合って眠ろう」を歌いました。
終わって帰って、再放送を見て、自己反省会をいつもしています。
昨日の場合は、オープニングで客席から、Gakuさんにチャチャ入れ過ぎて、邪魔をしたのは、良くなかったなと。
歌ってる時は、ギターをすこし間違えたのと、カメラ目線が少なかったかな。
もう少し、ゆっくり、はきはき話したい、とか。
再放送が見れるので、いろいろ確認できていいなと思います。
昨日は、番組後すぐ移動して、打ち合わせがあり、テンション高いまま、帰って資料に目を通すうち、朝。
朝から、いつも楽しみな、万葉集の講座にも行ってきました。
前にここにも書いたことのある、巻一の16のお話がたっぷり。
非常に、興味深く、面白く聞きました。
冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山をしみ 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ嘆く そこし恨めし 秋山我は
天皇(天智天皇)が内大臣藤原朝臣(鎌足)に、春山に咲き乱れるいろいろな花のあでやかさと秋山をいろどる様々な木の葉の美しさと、どちらの方に深い趣があるかとお尋ねになったときに、額田王が歌で判定した歌。
(冬ごもり) 春がやって来ると 鳴いていなかった 鳥も来て鳴きます 咲いていなかった花も咲いていますが、山が茂っているので 入って取りもせず 草が深いので 手にとってもみませぬ 秋山の 木の葉を見ては 黄色く色づいたのは 手に取って賞(め)でます 青いのはそのままにして嘆きます その点だけが残念です なんといっても秋山が良いと思います わたしは
天智天皇の時代といえば、668年から672年。
当時日本には、四季を楽しむ感覚はなくて、それは、漢詩を模倣した、一部のエリートの感覚だった、と。
窪田空穂の「万葉集評釈」からの文を、教わりました。非常に興味深いです。
これ↓ (一部旧漢字に変換できず)
【評】この歌の題詞である春秋の優劣論は、近江朝が文化の面で、時代的にいかに尖端を行かうとしてゐたかを思はせるものである。農業國であるわが國では、自然現象は、信頼と畏怖とを一つにしたもので、萬人の胸に、等しく重厭となつてのしかかつてきてゐたものである。さうした自然現象を、距離を置いてみて、美と感ずるといふ餘裕などなかつたと思はれる。まして自然美の代表を春秋として、美といふ觀點からその優劣を論ずるなどいふことは自然發生としてはあるべからざることで、これは一に漢文學の模倣だつたのである。すなはち、漢文學の教養をもつてゐる貴族が、文雅な遊戯として行つたにすぎないことだつたのである。
なるほど!
それで、16番歌の、非論理的展開と、論理的展開についてのお話も、とっても面白かったんです。
非論理的判定だとすると、
作者は、春秋同価値の迷いの中にあって、聞き手の反応を意識し、何とか結論をださねばならないところへ追い込まれる。
確かに、そんな風にも見えます。
しかし、初期万葉の代表的歌人が、何の考えもないままに歌を作っただろうか?
論理的判定だとすれば、
結論は最初から作者の意識の中にあった。その基準は手に取って賞美できるかどうか。
結論への持って行き方が腕の見せどころ。
聞き手を意識し、自らの判定を最後まで明かさず「迷い」を持ってうたっているようにみせる。
しかし、歌全体の構想が「秋山」に向かって収劍していく論理性を備えている。
文字で記されていない、聞くうたにおいて、はじめて可能な歌の構成。
などなど、教わったこと、そのまま丸写し。
もっともっと面白いこといっぱいだったんですが、とても書ききれません。
今日はこれで。
素敵な一日になりますように。
美しい明日へ心をこめて歌っています。
洋司