ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第13回(13)

2019-10-30 22:28:50 | 勉強会より抜粋


◎サーキャ・バーヴァについて


 はい。じゃあだいぶ今日は長くなっちゃったんで、最後に、全体的に質問があったら質問聞いて終わりにしましょう。
 はい、今日の話と関係があってもなくてもいいので、何か質問その他ある人いますか?


(S)以前の勉強会のアドブターナンダのところで、「神と結ぶ関係は三つある」といって、「わたしは神」と「わたしの神」と「神のしもべ」って三つあったと思うんですけども、自分は「わたしの神」が一番しっくりくるような気がするんですが、その場合は……


 ん? わたしの神って例えばどういう感じ?


(S)わたしのクリシュナ早くここに来てって。


(一同笑)


 それはね、それはいいけども、それはオッケーだけど、その背景には、「わたしは神のもの」ね。アドブターナンダが勧めているやつね。それがやっぱりなきゃいけないんだね。その上での「わたしのクリシュナ」と。これだったら全然かまわない。逆に言うと、例えば「わたしのクリシュナ」、これはこれでオッケーです。で、それが、ちょっとこう欠けのあるものにならないように、まずは「わたしは神のもの」っていう前提が必要なんだね。
 つまり「わたしのクリシュナ」っていう境地にある人も、もちろんそこはもう乗り越えてるんです。乗り越えているっていうかベースにはあるんだね。
 何回も言っているけど、バクティヨーガ・サーダナーの教えにあるね、ダーシャって言われる、つまり「しもべのバクティ」っていうのがある。このしもべのバクティっていうのは、いろいろある中の一つじゃないんです。どのバクティにいく人も、絶対このしもべのバクティっていうのはベースには持たなきゃいけないんです。これを持った上で、例えば「わたしのクリシュナ」みたいな感じになるんだね。
 つまり例えば――例えば例をあげるとさ、ブラフマーナンダみたいな、ああいう「クリシュナの永遠の友達」みたいのがあったとしても、その根底はもちろんしもべなんですよね。根底にあるのはクリシュナのしもべであると。で、クリシュナのしもべであって、クリシュナのためだったら命もいらないと。それぐらいの全てを捧げている上で、さらにその上に乗っかっている感覚として――あれはいわゆるサーキャっていうわけですけども。友情に似た感覚っていうか。そういう感じで、「ああ、わたしの最愛なるクリシュナよ!」ってならなきゃいけない。それが、表面だけ「最愛なるクリシュナよ」って言って――クリシュナが振り向いてくれなかったら「じゃあいいや」みたいなところとかね(笑)。あるいはクリシュナのために命なんて投げ出せない。つまりそれが現世的な世俗的な、エゴイスティックな――エゴイスティックな恋愛とか親子感情でもあるよね。「わたしの何々ちゃん」――で、この裏側にエゴがある場合、相手のために自分を投げ出すっていうのができない。ただエゴで「わたしの」――これは駄目なんです。だから背景に、何度も言うけど「わたしは神のものである」と。「わたしは神の道具であって、神がもし――ミーラーバーイーが言うように、たとえ奴隷として売られようとも、それが神の意思ならば全くそれは喜びである」ぐらいの投げ出し感の上に、「わたしの神よ」なんだね。だからそれが自信があるんだったらいいけどね。
 でもアドブターナンダが言ってらっしゃるのは、われわれの心っていうのはいつもそういったエゴに逃げたがるから。あるいは傲慢さが生まれちゃうから。だからそれを自分でチェックしてたらいいね。
 だから、まあS君の場合はそれはそれで両方持ってたらいいと思う。つまり「わたしのクリシュナ」っていうイメージをいつも抱きつつ、でも同時に自分はしもべでもあると。
 あのさ、「リトルクリシュナ」のアニメとか観ても分かるでしょ? あそこでサーキャといわれる友達っていうのは――まあつまりサーキャの感情っていうのはね、『バクティヨーガ・サーダナー』にも書いてあるけど、なんていうかな、恐れがないんだね。恐れがないっていうのは、普通で言ったらさ、客観的に見たらすごいことをクリシュナはやっているわけですよ。例えばなんか巨大な鳥のお化けが現われたりとかね。巨大な蛇が現われたりして、で、それをクリシュナはバーンとやっつけるわけだよ。そうすると友達たちは、「やったね! クリシュナ!」みたいな感じで(笑)。


(一同笑)


 「すごいやあ!」みたいな。もっと驚けって感じでしょ(笑)?


(一同笑)


 普通だったら、普通の感情だったら、「ははー」って感じですよ。「あなた様は!」「いや、わたしはもうあなたに近づけません」と。「あなた様はそんな偉大な方だとは知りませんでした! ははー」って感じになるけど、彼らは「やったね!」みたいな感じでこう肩を抱き合って(笑)、「すごいや!」みたいな感じで。これがサーキャなんだね。
 でも彼らは、あれ見たら分かるけども完全にしもべでしょ? ある意味。いつもクリシュナがリーダーとなって――アニメでも面白いけどさ、なんだっけあれ、なんかの悪魔が現われたときに、「大変だ! クリシュナ! なんとかして!」って言って、「なんとかするから、じゃあみんな、目をつぶって伏せてなよ!」って言ったら、「分かった!」とか言って伏せるわけだね。完全に言うことを聞いている(笑)。つまり、すべてクリシュナの言葉は自分にとって絶対であると。すべて投げ出すっていうのは、そんなのはもう当たり前になっているんです。彼らっていうかあの境地はね。その上で、恐れなき友愛みたいな感じっていうか。神に対してもその、恐れなきっていうと変だけども――まあ別の言い方をすれば、驚かない。神の化身がね、どんな奇跡を見せたとしても――まあ言ってみれば、空飛んだって、あるいは分身を出したって、全然驚かないんだね。驚かないっていうか、「すごいやあ!」みたいな感じでね(笑)。「すごいやクリシュナ!」みたいな感じで終わってしまうっていうかね。あのゴーピーたちもそうだし、あと村のお母さん方もそうだね。そんな雰囲気の世界なので。それはそれでかまわない。
 で、もう一回言うけども、それが似非サーキャにならないようにするには、背景に、基本はしもべだと。それは当たり前の話であると。それを忘れないように念正智すればいいと思う。


(S)ありがとうございます。


 あの、何度も言うけどね、バクティのいろんな様相っていうのは、よく段階的に書かれているけれども、実際にはあれ、段階っていうよりはタイプです。
 わたしはね、わたしは今言った、確かに「わたしのクリシュナ、友よ」みたいのも好きなんだけどね。ラーマクリシュナとかもいろんなモードで修行してたみたいだけど。やっぱりわたしは、まあラーマクリシュナもそうだけどさ、個人的にはしもべが好きですね、やっぱりね。それはタイプがあるから。皆さんは皆さんのしっくりくるのでかまわない。でも、しっくりくるのを行くときも、何度も言うけどね、それが似非的なものにならないように、ちゃんと基本を押さえた上で、しっくりくるムードをバクティで進めていったらいいね。
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覚者の心の宝(終)

2019-10-28 20:42:05 | 経典の言葉・聖者の言葉



 最初のパートは、この堕落した時代の生き方に対する、悲しみの演説である。
 これは、わたし自身に対する叱責である。
 この嘆きは、わたしに深く影響を及ぼした。
 あなたも同じように感じるかもしれないと思い、今、それをあなたに与えた。

 
 もしそうではなく、あなたが、自分の見解と瞑想が崇高であると自身を持っており、
 世俗的なものと修行を結合する方法についての賢い考え、
 そしてすべての衆生を救うための問題点を解決する手段、
 もしそれらすべてをすでにあなたが持っているというのならば、お詫び申し上げます。


 二番目のパートは、見解と瞑想についての論文である。――
 もちろん、わたしはまだ経験も悟りも得ていない。――
 わたしは単に、教えの美点についてのわたしの理解を提出しただけである。
 全智者であられる父と息子の尊い系統のその教えを。


 三番目のパートは、一切を放棄して修行することへのわたしの勧告である。
 あなたは要点をとらえそこなうだろうが、それはまさにそれ自身で滑り抜けるだろう。
 それは、ブッダ方と菩薩方の教えと、全く矛盾しないものである。
 それを実践してくれるなら、本当にあなたに感謝しよう。


 この「初め、中間、終わりの高潔な講話」は、
 白い岩の勝利の峰の、シッダの洞窟において書かれた。
 旧友の懇願に抵抗しきれなかったがゆえに、
 五毒に焼かれた、このみすぼらしい老人、アブ・タルポによって。


 わたしは無駄口をたたきすぎてしまったようだ。しかし、それがどうした?
 わたしのテーマは、大いなる価値と的確な意味、そしてそこから生じる功徳を、
 あなたと、三界のすべての衆生にささげることである。
 この教えに触発されて、我々のすべての願いが実現しますように!
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覚者の心の宝(56)

2019-10-28 20:36:35 | 経典の言葉・聖者の言葉


 もしあなたが自分の心をチェックし続けるならば
 あなたが為すことのすべてが、完璧な道となる。
 何百とあるすべての生きた教えの中で、これはまさしくその精髄である。
 すべてをこの一点に集約させ、六音節のマントラを唱えよ。
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覚者の心の宝(55)

2019-10-28 17:55:14 | 経典の言葉・聖者の言葉


 六音節のマントラは完璧なダルマであるが、
 おしゃべりをしたり、キョロキョロしながら唱えても、実を結ぶことはない。
 単に唱える回数だけにとらわれるならば、完全に要点をとらえそこなう。
 気を散らさずに自分の心を見つめて、六音節のマントラを唱えよ。
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心の本性

2019-10-26 21:40:08 | 松川先生のお話




 あらゆる現象は神の意思であり、カルマの流れ。
 ただの流れ。
 経験する知覚も、感情も、思考も、それらはカルマによって作られたただの現象に過ぎない。
 例えば機械やAIも何かを認識し、分析し、それにより様々な作用が生じるように、
 それらはただの出来事、作用にすぎない。
 そのようなただの現象を、「わたしが知覚している」「わたしの感情である」「わたしが考えている」などと錯覚しているのだ。

 ところでいったい、誰が錯覚しているのか?


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「実写ドラマ・マハーバーラタ 第83話」をアップしました

2019-10-25 19:42:17 | 今日のAMRITAチャンネル
「実写ドラマ・マハーバーラタ 第83話」をアップしました。
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パトゥル・リンポチェの生涯と教え(111)

2019-10-24 23:07:43 | 聖者の生涯



◎パトゥルの”普通ではない旅”


 あるとき、近くに数人の人がいるときに、パトゥルは日課であるマンジュシュリー・ナーマ・サンギーティの読誦を行なっていた。彼はいつも通りに、それをチベット語で唱えていた。
 読誦が進むにつれ、それを聞いていた人々は、突然、唱えている声がチベット語からサンスクリット語に変わり、そのまま流暢に最後まで唱えてたのを聞いて、驚いた。
 パトゥルは少しすると、元の自分に戻ってきたようだった。そしてまるでそれを説明するように、こう言った。

「気が付くと、あそこにいたんだ! ナーラーンダーに!」

 知っての通り、ナーラーンダーとは、千年前にシャーンティデーヴァが教えを説いたというインドの有名な仏教大学である! 

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覚者の心の宝(54)

2019-10-24 19:39:18 | 経典の言葉・聖者の言葉

 あなたの人生は、沈みゆく夕日のように、尽きていく。
 死は、夕暮れの影のように襲ってくる。
 今、残されたあなたの人生は、影が消え去ろうとするときのように、素早く消えるだろう。
 時間を無駄にしている暇はない――六音節のマントラを唱えよ。




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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第13回(12)

2019-10-22 22:12:48 | 勉強会より抜粋


◎懺悔、回向

 はい。で、八番が、

「毎日夜寝る前に今日一日を振り返り、悪業の懺悔を行なう。」

「逆に善行に関しては随喜を行なう。」

「ときどきは師や聖者に直接、あるいはメールなどで懺悔を行なう。」

――って書いてるけど、具体的な指示だね(笑)。


(一同笑)


 ときどきは聖者や師に懺悔を行なうと。これもとてもいいね。もちろんね、そうじゃなくて日々は心の中でかまわないよ。日々心の中で神や仏陀や師をイメージして毎日懺悔をすると。もちろん一日最低一回。で、可能な人はもちろん何回もやってください。三時間に一回でも一時間に一回でもかまわない。徹底的に懺悔し続けるといいね。懺悔と随喜ね。

 はい。で、九番目、

「夜寝る前に回向をする。」

 「今日一日の善や修行の功徳が、自分と衆生の完全なる悟りに振り向けられますように」と祈りを捧げてから、今日の修行を終わって睡眠につくと。

 はい。で、十番はちょっと冗談みたいな話ですけどね。「といっても忘れるだろうからこれを一日一回は読む」と。ただまあ冗談じゃなくて実際に皆さん、このサマンタバドラの行をしっかりやりたいと思ったら、実際に読んでもいいかもしれない。それによって実際に一日の実践項目を忘れないようにするといいね。

 はい。ちょっと長くなっちゃいましたが、これを――もう一回言うよ、徹底的に行なうと。これだけでも皆さんは――今日はちょっとシンプルに言いますよ。最初に言った、四無量心。四無量心の追求。それから今言った――まあ言ってみれば項目としては簡単ですよね。簡単な項目を毎日徹底的に行なうと。これをやるだけでも、皆さんが別に難しい経典とかを学ばなくても、このサマンタバドラの道、あるいは菩薩の道っていうものを実際的にどんどん進んでいくことができると思う。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第13回(11)

2019-10-20 10:31:26 | 勉強会より抜粋


◎念正智

 はい。そして六番目、

「聖典学習を時間を決めてしっかり行なう。師がいる人はときどき師の下へ行き、教えを聞く。」

 ――まあこういう勉強会に参加するとかも含めて、そして勉強会がない日も時間を決めて――忙しい人もね、少しはちゃんと経典学習を行なうと。

 はい。七番、

「日々自分の心と言葉をチェックし、教えとずれないように注意する。同時にそのときに……」

 ――あの、つまりこれはいろいろ書いてありますが、結局何を言いたいかっていうと、念正智のことですね。で、念正智って、いつも言っているように、いろんなパターンの念正智があるわけで。で、それは――まあ言ってみればなんでもいいです。ここで「フィーリングに応じて」って書いてあるけど、念正智っていろいろあるから、これじゃなきゃいけないっていうのはない。で、そのときに出てきた、なんでもいいので念正智すればいい。
 その念正智のパターンがここに書いてある、まず「教えからずれていないかの念正智」。「さあ、わたしは教えじゃない心の働きをやっていないかな?」あるいは「行動とか言葉が教えとずれてないかな?」。逆に言うと、百パーセント――最近アップした「サーダナーの指針の花輪」にもあったけども、一インチもずれないと。一インチっていうのはどれぐらいだっけ(笑)? 三センチぐらいかな? 一ミリでもいい。一ミリでもずれないと。この教えの理想がバシッとはまったところから、一ミリでもずれてはいけない。それくらいの厳しい気持ちで自分を念正智する。

 そして、「すべての衆生への平等なる四無量心がずれていないか念正智する」。これは今の発展形ですけどね。みんなを愛しているか。嫌悪が出ていないか。本当の意味でみんなの幸福を願っているのか。嫉妬が出ていないか。こういったことを日々念正智する。

 「師や神や仏陀への讃嘆」。これは逆に、日々讃嘆し続けるということですね。「ああ、師よ」と。「神よ」と。「仏陀よ」と。「おお、なんと素晴らしんだ!」と。これはバクティヨーガ的な、まあつまり「勝利あれ!」「ジャヤ!」っていう雰囲気だね。だからこれ、歌を歌い続けるでもいいですよ。そういう感じで讃嘆し続ける。

 「あるいは師や神や仏陀を頭頂や心臓に観想する」――これはいわゆるスマラナってやつね。実際にイメージとしてグッと忘れないと。ずーっと、頭でも心臓でもいいんですけど、あるいは目の前でもいいので、ずーっとそのヴィジョン、あるいはその思いっていうかな、それをずーっと持ち続けると。もちろんこれは神の御名を唱えるでもいい。「ラーム、ラーム、ラーム……」「クリシュナ、クリシュナ、クリシュナ……」「シヴァ、シヴァ……」――こういった感じで忘れないでもいいよ。あるいは「ブッダ、ブッダ……」「グル、グル、グル……」でもかまわない。

 「素晴らしいものや執着の対象を心で供養する」。はい、これは日々目にする――これはなんでもいい。例えば「ああ、今日は晴れていて素晴らしい景色だな」と。この素晴らしさを供養すると。「ああ、気持ちいい空気だなあ」。ああ、供養すると。あるいはさっき言った、おいしい食べ物を供養すると。「ああ、今日は洗濯したきれいな服を着る」と。このきれいな服を供養すると。もうなんでもかまわない。自分が五感で経験した素晴らしいものを供養するということですね。はい。

 そして「教えへの強い欲求」ね。これはさっき言ったことですね。

 「神や仏陀と実際に相まみえたいと強く願う」――これもさっき言ったこと。これを、もうラーマクリシュナのように、さあわたしは本当に、ラーマクリシュナやその他の聖者がそうだったように、本当にありありと神や仏陀を見たいと。
 あの、ラーマクリシュナってもちろんカーリー女神をいつもありありと見てたわけだけど、それだけじゃなくていろんな神を普通に見てるんだね。例えばあるときはラーマとシーターを普通に見て、あるときはクリシュナとラーダーを見て。で、面白いのがさ、前も何かに書いたけど、子供のラーマの話ってあるんだよね。ラーマクリシュナがドッキネッショルにいるときに、別のある聖者が近くにやってきた。その聖者は小さな子供のラーマの像を持っていたわけだけど、それはただの像ではなくて、もう彼にとっては――あのゴーパーラ・マーみたいな感じでね、普通に、子供のラーマが普通に歩き回っていたと。で、いつもその子供のラーマを自分の、つまり自分の主、信仰の対象であると同時に、本当の自分の子供のように愛し、面倒みてたっていうんだね。普通にいろいろ料理も作ってあげて食べさせると。で、それは――何度も言うけど、理解できないかもしれないけど――妄想じゃないんです。本当なんです。
 で、それのさらに面白い話がね、この子供のラーマがラーマクリシュナを気に入っちゃった(笑)。つまりラーマクリシュナとその聖者で共通認識としてのラーマがいたんです。で、その聖者がある時期から、その自分が信仰していた子供のラーマが見当たらないっていうんですね。ラーマクリシュナのもとに行ってみると、ラーマクリシュナのところにいるっていうんだね(笑)。ラーマクリシュナを気に入っちゃって、ラーマクリシュナのところを離れないと。その聖者は叱ってね、「うちはこっちでしょって言ったでしょ!」って、子供のラーマを連れて帰るっていう(笑)。連れて帰るんだけどいつもラーマクリシュナのもとに行ってしまうと。で、ラーマクリシュナも面白いもんで、子供のラーマがいつもそばに来ててね、で、すごい腕白だからたまに怒っちゃうらしいんだね。これもなんか描写があったんだけど、一緒に沐浴してたらしいんだね。で、子供のラーマがふざけてずーっと出てこないと。で、ラーマクリシュナはちょっと――変な話なんだけど、親子の感情みたいな感じでちょっとカッときちゃって、「そんなことをする子はこうだ!」って子供のラーマの顔を水にずーっとつけちゃったらしくて。それでハッとして、「わたしはなんてことをしたんだ! ごめんよ!」ってこう、抱きしめたっていう話があって(笑)。そんだけリアルな世界なんだね。そんだけリアルな世界で――しかも、もう一回言うよ、一人じゃないんですよ。ラーマクリシュナだけの妄想でもないし、一人の聖者の妄想でもなくて、お互いに奪い合っているみたいな感じなんだね。奪い合っているみたいな感じがあって、それがしばらく続いたと。
 そして最終的にその聖者が、ちょっとステージ上がったんですね。さらにステージが上がって、その聖者が涙ながらにラーマクリシュナのところに最後にやってきてね、「わたしは今まで間違っていた」と。つまりわたしの愛する子供のラーマ、彼はあなたを――つまりラーマクリシュナを本当に愛してらっしゃると。彼の喜びはわたしの喜びだと。この子供のラーマがあなたのところに本当にいたいと思って、それで幸せなんだったら、それこそがわたしの喜びなんです、もうわたしにはなんの苦しみもありませんって言って、去って行ったんだね。そのときに、ヴィジョンではなくて子供のラーマの象徴として、実際に動いてたといわれる像があるんですけど、その像をラーマクリシュナのところに置いていったんだね。で、それからラーマクリシュナの回想としてそれがあるんですけど、最後のラーマクリシュナの結びとして、「それ以来、あの子はずっとここにいるんだ」みたいなことが書いてあって(笑)。普通に、なんというかな、神秘的なというか神の世界が日常化しているんだね。ああいう大聖者っていうのはね。
 もう一回言うけども、それを願わなきゃいけない。それは現実に可能なんだと。そこまでの境地に至るのは可能だし、そこまでいって初めてわれわれは神の愛が分かるし、あるいはわたしと神の本当の意味での関係っていうのが確立されるし。
 で、それを、何度も言うように、今そうじゃないことが許せない、と。我慢できないと。そんな、わたしはもちろん今の理想としてね、「ああ神よ、神よ」――これは素晴らしいんだけど、でもそれが、そのようなまだ自分の中途半端なイメージでしかないことが許せない。もっともっとリアルでありたいと。もっともっとわたしはこの現実的な、世俗的な目を捨ててリアルに神を見る目を得たいと。心を得たいと。このような強烈な願望を持たなきゃいけない。これを絶え間なくラーマクリシュナみたいに持つんだね。はい、これが一つ。
 そしてもう一つは、さっきの請願、懇願ね。「師や聖者がこの世に長くお留まりになるようにと強く願う」と。で、もう一回言うけど、これらのいずれか、もしくはさらに派生することでもいいけども、それで心をいっぱいにするっていうことです。逆に言うとそれ以外の世俗的な、あるいはエゴに基づいた感情、思いが一切入らないようにすると。
 皆さん、だから念正智っいうのは、まず第一に自己チェックがあるよね。自己チェックすれば分かると思うけど、自己チェックっていうのはさ、つまり何度も言っているけど、別に――つまり現代的な、最近流行っているね、現代的なテーラワーダ的なやり方で、例えば自分が「歩いている、歩いている」とか「呼吸している」とか、そういう自己チェックではない。ここで言っているのはそうじゃなくて、「自分の心が外れていないかな?」っていうチェックです。自分の心が理想以外のことを考えていないかな? どうでもいいことを考えていないかな? あるいはボーッとしてないなかな?――で、それをやると、ほとんど、九十九パーセントどうでもいいことを考えている。あるいはボーッとしているって分かるでしょ? 皆さん本当にチェックしてみてください。あるいはね、時間決めてチェックしてもいい。――ピピッピピッってやってね、アラームにして、十分後でも三十分後でもいい。「ピピ!」――そのときに考えてたか? だいたい変なこと考えてる。変なことっていうかどうでもいいことね。「さっきの店員の表情!」とかね(笑)。


(一同笑)

 本当にどうでもいいこと考えている。あるいは昔のこととかね。「あんなことやられちゃった」とかね。あるいは妄想であったり。まあ妄想って、神聖な妄想だったらいいんだけど。あの、いつも言うけど神聖な妄想はどんどんしてかまいませんよ。神と自分が遊んでいる妄想とかね。あるいは修行どんどん進めて、こういうふうな菩薩になろうとかね。そういうのは素晴らしい。じゃなくて世俗的な妄想、あるいはどうでもいいようなイメージの展開。
 わたしもね、本当に何度も言っているけど、妄想家だったっていうかイメージ人間だったから、若いころ、もうくだらないこといっぱい考えてたね。本当にどうでもいいこと。「なんでそんなこと考えるの?」みたいな――例えばわたしプロレスが好きだったからさ、「新日本プロレスの歴史」とか考えてたんだね(笑)。新日本プロレスの歴史をずっとたどってんの。「なんのために?」って感じだけど(笑)。でもそれって、人間の性向としてあるんだね。自分の中にあるデータを反芻するっていうか。反芻してなんかこうくだらない時間が過ぎていくっていうかな。昨日見たドラマの反芻であったりとかね。あるいはそこから生じる未来への世俗的なイメージであったりとかね。で、そういうのを許さない。だから逆にいうと、さっきも言ったように神聖であればなんでもいいんです。ここに書いてような神聖なパターンであればなんでもいいから、日々心にそれをイメージし続ける。そうじゃないものの侵入を許さないっていうかな。これが念正智ね。

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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第13回(10)

2019-10-18 21:16:00 | 勉強会より抜粋


◎食事の供養

 はい。

「食事をする前に必ずその食物を師や仏陀に供養するイメージをする。」

「食実中も、自分が食べているのではなく師や神や仏陀に捧げている観想をしながら食事をする。」

 あの、カイラスでは……そうだな、わたし自体がそうだったからっていうのもあるんだけど、あんまり食事について厳しいことは言わないですね。例えばあれ食っちゃいけないとか、あんまり厳しく言わないし。あるいはあんまり食い過ぎるなとも言わない。特に食い過ぎるなに関しては、もちろん実際には小食の方がいいんだけども、小食っていうのはだんだん自然になっていけばいいわけであって。
 わたしもさ、ちょっとこう言うと言い訳になっちゃうけど、あの、O型だからわたし――全然言い訳になってないんだけど(笑)。


(一同笑)


 O型の人っていうのはやっぱり見てると、食物中心なんだね、煩悩がね。食物中心っていうか、食えば頑張れるみたいなところがあって。食わないとやってらんないみたいなところがあって(笑)。そういうところわたし昔あったから、自分で食べ物を抑えるっていうよりは、まあ食べて頑張るようなところがあった。で、それはそれでかまわない。しかし――だから例えば皆さんこの中でね、例えば人を嫌悪する――「いや、それは駄目だ!」と。「嫌悪は滅しなさい」と。あるいは、例えば性を漏らしてしまうと。「いや、それは性エネルギーっていうのはクンダリニーだから、それは絶対やめなさい」と。これはバシバシってなるわけだけど。あるいは、「いやあ、テレビいつも見ているんです」「いや、そんな情報いっぱい入れてどうすんだ」と。「瞑想やっても意味なくなっちゃうじゃないか」と。「できるだけそういったテレビとか見ないようにしなさい!」――こう言うけども、例えばY君とかが「ラーメン大好きでやめられないです」「ああ、別にいいよ」と(笑)。


(一同笑)


 「供養しなさい」と。うん。供養しなさい。で、これは何度も言っているけどさ、もしそれを皆さんが例えば本気で受け入れたら、食いしん坊であればあるほど修行は進むっていうことになるよ。だって――わたし今、小食だけどさ、結構――あんまり食べられない人がいたら、供養の瞑想あんまりできないですね。うん。ちょっとで終わってしまう。で、もしすごい大食漢だとしたら、食っている間ずっと供養できるから。「供養します、ああ、供養します、ああ……」(笑)。


(一同笑)


 で、もしいろんなものが好きな人がいたとしたら、いろんなものが供養できるよね(笑)。「ああ、供養します、供養します」。
 だから、なんていうかな、もちろん自分の中で、できるだけこう欲望を抑えるという気持ちは大事なんだけど、どうしても駄目な場合ね、抑えられない場合は、別に極端に抑える必要はない。食べ物に関してはですよ。食べ物に関しては、どちらかというとそれよりは、今よりも何倍も供養の気持ちを強めてください。ここに書いてあるように、自分が食べているんじゃないんだと。自分が身体を祭壇として供養しているんだと。
 例えば、だからそれはいつも言うように、「おいしい!」でかまわない。原始仏教とか原始ヨーガ的な発想は、どちらかというと味覚を否定する。「これは『おいしい』というのは幻影である」と。「味覚とはなんなんだ」と。「ただの過去の経験の追体験に過ぎない」と。「ただそれは舌に生じている刺激に過ぎない」とか言って食べるわけだけど、この大乗仏教や密教の供養の発想はそれはしなくていい。おいしさを充分味わってください。「うめー!」と。ね(笑)。「この美味しさを供養します!」と。だって美味しくなきゃ失礼でしょ? 供養なんだから。「おいしい!」と。「この喜びを供養します」と。「この素晴らしい供物を供養します」。
 で、何回か言っているけどね、それを本気でやると、わたしの経験でいうと、一般の味覚はちょっと減ってきます。で、もうちょっと内的な味覚っていうか内的なエクスタシーが増えていきます。だからちょっと食べるって行為が変わってくるんだね。前の、舌に依存した食べ物のおいしさじゃなくて、もうちょっと内的なエクスタシーみたいのが増大してくるっていうかな。だから逆に、食べ物の執着がだんだん減ってくる。供養をしっかりやっているとね。
 でもこれもね、何度も言っているけどさ、こういったことっていうのは、一つ一つやり続けることが大事なんだね。やり続けるか、あるいはたまにやるか、あるいは忘れてほとんどやらないかでは全然違う。だからこの供養の瞑想も、われわれは一日、多い人では三回食べている人もいるかもしれない。あるいはまあ二回、一回かもしれないけど、少なくとも毎日最低一回は食べるよね。――っていうことは、一回はできるってことです。この素晴らしい供養の瞑想がね。だからそれを習慣としたらいい。
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「実写ドラマ・マハーバーラタ 第82話 後編」をアップしました

2019-10-18 21:04:31 | 今日のAMRITAチャンネル
「実写ドラマ・マハーバーラタ 第82話 後編」をアップしました。


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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第13回(9)

2019-10-18 19:31:05 | 勉強会より抜粋


◎具体的にやるべきこと

 はい。で、その次が総論ってのいうのがありますが、ただ、そういってもなかなか日々これをどうするんだっていうのがあるので、ちょっと具体的にやるべきものをまとめましたっていうのが次のところですね。
 はい、まず一、

「家に祭壇を作り、毎朝起きたら必ず水、お香、燈明などを捧げる。」

 ――かなり具体的な話が出てきたけど(笑)。かなり具体的なアドバイスだけど、でもこういうのも大事です。あの、儀式的にね、よくヒンドゥー教とか仏教ではやるけども。まあもちろん、これをやらなければ駄目だとは言わないよ。やらなければもう終わりだ、までは、そこまでは言わないけども、でもまあやったらいいってことですね。だからぜひ自分の、なんていうかな、サマンタバドラの行の一つの実践として、これをやったらいいね。

 はい。次に、

「ときどきは師や聖者に対して実際にお金や物品や食物の布施を行なう。」

 布施とか供養っていうのはもちろん心の問題なので、実際にはね、いつも言っているように、マンダラ供養なり、あるいは祭壇への供養とかでも十分なんです、本当はね。心が完璧に供養の気持ちで満たされていればね。でもわれわれのエゴってずるいから、実はすごい貪りとかエゴが強くて、あるいは高い存在へのそういう供養とかの気持ちがあまりないと。でもかたちだけやって満足している場合があるからね。だからそれは日々打ち破んなきゃいけないんで、実際には具体的に、本当にそのような布施の実践、供養の実践もしたらいいね。もちろんそれはときどきでもいいし、じゃなくて常に全力でできるとしたらそれはそれで素晴らしい。

 はい。次に、

「時間を決めて五体投地を行なう。」

 はい、これは礼拝行のね、一つの一番いい修行法として五体投地がありますので、これも――まあ加行もらっている人はその加行どおりにそれをやればいいし、加行にこれが入っていない人も、自分で決めてね、それは三十分でも一時間でもいいし、もちろん十分とかでもかまわない。自分で決めて、決めた時間に礼拝を行なうというのを習性としたらいいですね。

 はい。そして、

「神や仏陀への賛歌などを知っている人は一日一回はそれをやる」

と。まあカイラスではいっぱい賛歌を提供しているから、自分の好きなやつでかまわないので、しっかり日々歌ったらいいですね。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第13回(8)

2019-10-16 21:17:35 | 勉強会より抜粋


◎サマンタバドラの行

 はい。ちょっと四無量心について長くなり過ぎちゃったんで、最後にこのサマンタバドラの行ね。これはエッセイ集の『融通無碍』にも載っているので、読んだことある人いると思いますが。まあちょっとあまり時間ないのでパーッと表面的に見ていきましょうね。
 はい。じゃちょっと時間がないんでわたしが読みますね。
 大乗仏教の修行の一つにサマンタバドラの行というものがありますと。で、それはチベットで「七支の供養」っていうのは有名ですけども、実際にはさまざまなバリエーションがあるわけですね。で、それを、現代的に、わたし自身の経験も含めて、簡単にそれを十項目にまとめましたと。
 はい。で、一番が「礼拝」ね。実際に五体投地など礼拝行を行なうと。あるいは日々祭壇などに礼拝をする。あるいは常に心に神や仏陀を思うと。
 二番目が「讃嘆」。神や仏陀や聖者や師などの素晴らしさを日々心に思い讃嘆する。実際にその素晴らしさを口に出したり、あるいはうちでやっているみたいに歌を歌ったりすると。何があっても神、仏陀、聖者、師の素晴らしさ、完璧さを思い感謝すると。この「何があっても」っていうのはとても大事です。さっき言った「喜」とも関わってきますけども。例えば日々いろんな苦しみが出たり、あるいは疑念が出たり、いろんな心の屈折が出たりしたときに、それを決して――もちろん衆生に向けても駄目だけども――衆生に向けても駄目で、当然自分の尊敬すべき師や神や仏陀に向けるなんてあってはならない。何があってもそれは自分のカルマの悪さであって、あるいは自分の未熟さであって。神は完璧なんだと、この讃嘆の心を持ち続ける。
 はい、「供養」――供養は実際に、具体的に師や聖者にお金や物品や食物などを供養したり、あるいはイメージの中で素晴らしいものを供養したり、あるいは執着しているものを供養したり、あるいはさまざまな日々の経験自体を、心の中で日々供養するということですね。
 はい。四番目が「教えどおり生きる」。念正智の世界だね。
 五番目が「懺悔」。
 六番目が随喜。はい。この辺はいつも瞑想でやっているから分かりますね、つまり懺悔と同時に、逆に自分の修行の進歩や、あるいは自分が今修行できていることへの喜びね、こういったものを心から喜ぶと。ね。で、感謝するということですね。
 はい。七番目が「教えの請願」ね。真の教えというものに対する強い欲求を持つと。で、「欲求するだけでは駄目で、今与えられた教えの実践の項目を完璧に達成しようと努力すべきである」と書いてありますが、つまりこれは、さっき言ったように、学者になってもしょうがない。あるいは皆さんは教えのコレクターになってもしょうがないわけですね。教えのコレクターじゃなくて、一つ一つをちゃんと身に付けないといけない。一つ一つを身に付けると、そうですね、当然次の課題がやってきます。そういうやり方の方が実際はいいね。
 教えをもちろん――まあだから、例えばカイラスだったらカイラスで皆さんに与えている教学っていうのは、まあ結構厳選しているところがある。つまりわたしの見解もあって、「あ、これは利益があるだろう」と。まあ逆に言うと、これは要らないっていうのはあんまり出さないというか。これが利益あるだろうってのをバーンとこう出していると。で、その一つでもいい。あるいは複数でもいいけども、しっかりと教学し、あるいは実践し、自分のものにしようと考える。あるいは一つ一つの修行法でもいいですよ。修行法自体もちゃんと自分のものにしようと考えると。それによって、早くこれを達成し、より高い教えを得たいと。あるいはより高い、あるいはより真髄的な教えも早く伝授してもらえるように頑張ろうと。このような気持ちで一つ一つの教えを達成していくのが大事ですね。
 だから、もう一回言うけど、単純にコレクターみたいに教えの項目だけを集めてもしょうがない。一つ一つをいかに達成するかだね。
 はい、八番目が「見神、及び化身の請願」。これはまあいくつかのパターンがありますと。まず第一に共通してなさなきゃいけないのは、ラーマクリシュナもそうだったように、神や仏陀を見神したい。つまり直接お会いしたい。「どうかわたしの前に現われてください」という強い要求と祈りを持ち続ける。
 次に、まだ師と出会っていない人は「そのような具体的にわたしを導いてくれる師よ、どうか現われてください」と日々懇願し続けると。
 三番目、実際に今師がいる人は、その師が去らないように、つまり肉体を捨ててどこかへ行ってしまわないように、できるだけ長くこの世にお留まりくださいと請願すると。
 で、ちょっと付け加えになりますが、師ではなくても尊敬している聖者っていうのが今地上にいるとして、その聖者方にもそのような請願ね。できるだけ長くお留まりくださいと考えると。このような心の強い請願心ですね。これを持ち続けるっていうことですね。
 はい、九番目が「平等なる智」。これはさっき言ったのと同じですね。損得勘定のない、そして誰も抜けのない平等なる完全な慈悲、慈愛の訓練をし続けると。
 はい。で、十番目に、これらの日々の実践によって積まれた功徳、エネルギーを、すべての衆生の悟りと幸福に回向するということですね。
 はい、これが「サマンタバドラの行」の、まあまとめたやつですね。で、これを全力で極めるっていうことですね。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第13回(7)

2019-10-16 21:11:06 | 勉強会より抜粋


◎捨

 そして四番目として――まあ四番目っていうのは、これは全部に関わってくるわけですけど――「捨」。つまり自分は捨てると。つまり、今言ったことのいわゆる背景として――ここでいう自分っていうのはもちろんエゴのことね。エゴの損得、エゴの苦楽、エゴのメリット・デメリット、これはどうでもいいと。うん。
 ラーマクリシュナがやっていた神への祈りの仕方として、「おお、神よ」と。「あなたの徳と、あなたの不徳、どっちもいりません」と。「あなたの清らかさと、あなたの与えてくれるけがれ、どちらもいりません」と。「ただ、あなたへの愛だけをお与えください」ってあるね。これは別の角度からの「捨」ですけども。つまり、二元的なわれわれの「こうなりたい、これは嫌だ」っていうものを、もちろんエゴ的なものも含め、あるいは宗教的、修行的達成も含めて放棄するんです。
 「じゃあ何のために修行しているんですか?」――一つは、今言った菩薩道でいうと、みんなのため。ただみんなのためにありたいと。で、もう一つは、何のためとかない。まあ言ってみれば神への愛のためっていうかな。損得勘定じゃない神への愛のために、それがまだ達成されていない自分を、その状態に持っていきたいがためにやっているだけであって。
 世俗的なエゴはもちろん、そうじゃなくて自分がニルヴァーナに入りたいとか、自分がその苦悩の世界から脱却したいっていうのも、もうそれもどうでもいいんだと。とにかくみんなのための存在でありたいと。あるいはバクティ的に言えば、ただの神の道具でありたいと。そこまで自分を、まあ純粋化っていったら変だけども、理想に近づけたいって感じですね。
 だから、ちょっともう一回言うけど、全部に行き渡る背景として、自分のエゴ、あるいは自分の中のさまざまな二元的な「こうなったらいいな、こういうのは嫌だな」――こんなのはどうでもいいと。つまり、宮沢賢治の言い方で言えば、自分のことは勘定に入れない、とかね。もしくは一番後の勘定に入れると。一番あとに考えると。で、何度も言うよ――みんなの幸福を願うと。みんなのために修行すると。はい。この、言ってみればシンプルな四つの柱、四つの四無量心ね。これを全力でやると。これだけでも皆さんは、ここで書かれている菩薩道、あるいはサマンタバドラ行というものを達成するでしょう。
 要はあとはやるかやらないかだね。あるいはその一つ一つを、具体的にどれだけ極め尽くす気持ちがあるかどうかですね。
 だから何度も言うけどね、ちょっといろいろ言ったけど、シンプルに言うと、やっぱり決意と忍辱が大事ですね。決意と忍辱。最初の、やるんだっていう決意。これを日々持ち続ける。そして忍辱。忍辱もだから、最初から覚悟しているといいね。つまりその、やはり耐える期間って必要です。っていうのは、自分のカルマを変えなきゃいけない。自分が生まれ変わらなきゃいけないから、当然いろんな意味での苦しみに耐える。苦しみっていうのはその実際の苦しみだけじゃなくて、自分のエゴや概念とちょっとぶつかるようないろんな現象が起きる。そこで、本当はこうしなきゃいけないんだけどエゴはこうしたいと。でもこれ、耐えているうちにやっぱり変わります。でも耐えないと変わらないんだね。っていうのは、ある程度のやっぱり期間が必要だから。
 忍辱の力がない人は、いつも言っているけど、「あれ、あと五分耐えれば良かったのに」と。あと五分耐えればY君は「ニューY」として(笑)、生まれ変わったのに、「また? また五分前でやめたの?」と。「また一からやり直しですね」と。つまりこれが、よく分かっていないというかね。忍辱の大事さを分かっていない。
 だからわたしね、本当に何度も言っているけど、今年の最初にもなんか言ったような気がするけど、いろんな人見てて、もちろん自分も含めていろんな人見てて、この忍辱、ね、「クシャーンティ」とか「カンティ」とか言いますが、この忍辱という要素というのは非常に重要です。これはぜひ皆さんの肝に銘じてほしいね。忍辱。
 この忍辱っていうのは、もう一回言うけど、あの、果てなき忍辱ですよ。限定なしです。ただ実際には、結果的には限定あるんですけどね。でも限定ある気持ちだとできません。だから一生耐えるぐらいの気持ちでいくと、もちろんある期間でパッと抜けます。でも自分のカルマ内でここまでとか思っていると抜けられないんだね。だから気持ちとしては一生ぐらいの気持ちで。まあいつも言うように、一生だまされてもいいぐらいの気持ちだね。「六十年経ったんだけどまだですか?」っていう(笑)、その状況が来るかもしれないけど、それでもいいんだと、別にね。それでもいいぐらいの気持ちで、一生耐え続ける気持ちで、自分のカルマとの戦いをこう耐え続けるっていうかな。
 はい。この決意と忍辱を一つの柱としつつ、四無量心の実践を行なうと。これはとても素晴らしい、具体的な要素ですね。
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