ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

今日のAMRITAチャンネル「勉強会講話『ジュニャーナヨーガにけるサンヤマ、バクティヨーガにおけるサンヤマ』」

2019-01-31 20:26:01 | 松川先生のお話
今日のAMRITAチャンネルは、「勉強会講話より『ジュニャーナヨーガにけるサンヤマ、バクティヨーガにおけるサンヤマ』」
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「KAINCHI MAHA MANTRA」をアップしました

2019-01-31 18:28:59 | お知らせ
「KAINCHI MAHA MANTRA」をアップしました。よかったらお聞きください^^


「KAINCHI MAHA MANTRA」


Vocal:Keisho.Matsukawa
Harmonium:Yuri.T
Drums:T.Takahashi
Guitar:Yuta.Nakano
Violin:S.Matsuoka
Bass:H.Miura

※他のキールタンライブについてはこちらをどうぞ

※オリジナルの日本語のキールタンはこちら







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「何を拝むべきか」

2019-01-30 18:55:42 | 解説・バガヴァッド・ギーター


◎何を拝むべきか

【本文】
 神々を拝む者は、その神々のもとに行く。霊を拝む者は、その霊のもとへと行く。 
 しかしわたしを拝む者は、わたしのもとへとやってくる。


 これもさっき言ったのと同じだけどね。それぞれのカルマによって、それぞれの何とか様とかを拝むわけだけど――だからみなさんもね、例えばそれぞれ仏教とかヨーガとか興味あるだろうけど、信仰の対象というのは考えた方がいいね。
 例えば、日本ではいろんな何とか神とか何とか様とかいろいろあるけども、単純にわれわれに幸福を与えてくれる天の神とか、そういうのはあまり拝まない方がいいね。
 「霊を拝む者は」ってあるけども、だから現代的な先祖供養とか――お釈迦様もね、これはみなさん知っているか分からないけども、お釈迦様は先祖供養を禁止しています。それは戒律で設けているんです。死んだ霊を供養してはいけないと。それは仏教の話でいったら、死んだ人は生まれ変わるわけだから。生まれ変わっているのに、死んだ霊に供養しているっていうのは、その人は生まれ変わっているんだけど、明らかに霊の世界ってあるんだね。これは仏教ではプレータって言うんだけど。霊の世界と縁ができてしまうんだね。その霊の世界にわれわれも生まれ変わってしまうかもしれない。つまり簡単にいえば、幽霊になるということです。幽霊っていうのは、死んだ人がみんな幽霊になっているんじゃないんです。幽霊って実はね、みなさんのもっと知っている言葉でいうと「餓鬼」なんです。よく餓鬼っていうよね。餓鬼界っていうんだけど。
 つまり地獄・餓鬼・動物――これを仏教で三悪趣といって、三つの悪い世界というんだけど。この餓鬼って、日本で餓鬼っていうと、おなかがでかい、おなかを空かせた鬼みたいなのがよく描かれるけど、ああいうんじゃなくて、餓鬼って幽霊のことなんです。その世界があるんだね。
 だから現代みたいに、いろんな霊能者が「なんとかの霊が憑いている」とか、ああいうのを信じていろいろやってると、霊の世界に行ってしまいます、その人が。霊の世界と縁ができるから。
 ではなくて、合格祈願とかね、あるいは現世的な願望成就とか、そういう神様にお祈りしていると、せいぜいそれくらいの天の神の元に行くだろうと。じゃなくて、もうちょっと高い菩薩とか、あるいは観音様とか、衆生を救うみたいな、そういう菩薩の世界に帰依していると、当然その菩薩の世界に行くだろうと。われわれが思念をして、そして心を向けた方向にわれわれは行くわけだね、当然。
 もちろん、だからといって、条件は必要だよ。天の神を祈ってても、徳がなければ当然天には行けない。単純に下の世界に落ちるかもしれない。逆に言うと、その人がいくら徳を積んでても、その人の祈りの対象が欲望の天だったら、欲望の天以上には行けないということだね。さっきも言ったように、欲望の天の中で、徳を使い果たして終わってしまう。だから祈りの対象というかな、帰依の対象は間違えないようにしなさいということですね。
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今日のAMRITAチャンネル「聖典朗読『入菩提行論』第一章~第五章」

2019-01-30 17:53:12 | 今日のAMRITAチャンネル

今日のAMRITAチャンネルは、「聖典朗読『入菩提行論』第1章~第5章」」です。
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入菩提行論の歌 The Song of Bodhicaryavatara PART1 第一章~第四章

2019-01-30 09:15:38 | 松川先生のお話
入菩提行論の歌 The Song of Bodhicaryavatara PART1 第一章~第四章
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ エピソードⅠ 第9話」

2019-01-29 21:21:38 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAMRITAチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ エピソードⅠ 第9話」です。

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パトゥル・リンポチェの生涯と教え(71)

2019-01-28 21:27:44 | 聖者の生涯



◎パトゥル、トムのマハーシッダから教えを受ける


 弟子であり法友であるケンポ・ペマ・ドルジェに同行して、パトゥルはカトクを去り、チョイン・ランドル(ツォプ・ドゥプチェン・チョイン・ランドル)から教えを受けるために、東トムタルに向けて出発した。チョイン・ランドルは、タクチェン・ギャルポ山の険しい岩場の傾斜面にある隠遁所に住んでいた。高い悟りを得た修行者である彼は、トムのマハーシッダとしても知られていた。
 休み休み旅を続けながら、パトゥルとケンポは、黒湖(ツォ・ナクマ)の岸を歩き、ワシュル・トムゴにある「トムゴの城壁」と呼ばれる氷河に辿り着いた。
 そして最終的に彼らは、シャル・シンゴと、片側に獰猛な岩の女王(タツェン・ギャルモ)として知られる切り立った崖を持つ聖山が連なる雪山の山脈に到着したのだった。
 チョイン・ランドルは、広範囲にわたる正式な教育を受けておらず、カトク・ニンマの伝統に則ってカトク僧院でカマとテルマを学んだ。これらを学び終えると、全生涯を瞑想修行に捧げた。彼はシンプルに生きた。古い羊の皮のコートと質素なチュニック(臀部あるいは膝まであるゆったりとしたシャツ)を羽織って暖をとり、昼夜、瞑想の敷物の上で瞑想修行に没頭した。
 彼はロンサル・ニンポのカトク系統の宝の教えを専門に追及した。パトゥルとケンポが懇願したのは、その教えだったのである。
 チョイン・ランドルは、修行の結果として、ゾクチェンの教えの最高段階、「絶対なる本性に溶け込み、現象が枯渇する」と呼ばれるステージに達したのだった。彼の多くの弟子の中には、ティメー・シンキョン三世(ジグメ・ヨンテン・ゴンポ1837-1898)、カトク・シトゥ二世、ニャクラ・ペマ・ドゥンドゥル(後に虹の身体を得た)がいた。
 パトゥルとケンポは、チョイン・ランドルの面前にやってきて、三礼を捧げると、ロンサル・ニンポなどのカトク系統に則ったゾクチェンの教えを正式に懇願した。
 チョイン・ランドルは同意した。
 最初の日、チョイン・ランドルは前行における教えを与えることから始めた。彼は胸の所で合掌して、「心をダルマに向けるための四つの思考」に関するいくつかの詞章を唱えたあと、再びその最初の詞章をゆっくりと三度唱えた。

「ああ! 六道輪廻の中で、有暇を得ることは稀なことだ。
 人間に生まれて、ダルマに出会うことは稀なことだ。
 道を見い出すということは、貴重な宝石を見つけたようなもの。
 これらの貴重な機会を無駄にしてはならない!
 修行の真髄を一生懸命学びなさい!」

 涙が、この偉大なる師の頬を伝った。これらの言葉を聞いて、師の涙を見たパトゥルも同様に涙を流した。チョイン・ランドルはしばらくずっと黙っていた。
 これが初日に与えられた教えだった。

 二日目、チョイン・ランドルは同じように、経典に頼らず、自分の経験を直接用いて教えを説いた。
 彼は言った。

「衆生の人生は、崖から流れ落ちる滝のように、あっという間に過ぎ去る。」
 
 チョイン・ランドルは両手を合わせて少しの間動きを止め、涙を流した。それからまた続けた。

「与えられた有暇のチャンスを無駄にするな!
 人生を無駄に費やしてはならない!」

 チョイン・ランドルとパトゥルの眼から涙が溢れ出るのを見て、ケンポ・ペマは唖然とした。

「これらの教えを完全に熟知している偉大なる学者パトゥル・リンポチェ――このような偉大なヨーギーが、最も基礎的な教えを思って感動し、涙を流すとは! 今の教えは、まったくもって未成熟だ――冒頭もなければ結論もなく、体系もない――解説もまったくないではないか! ただ人間に生まれた稀有さを考えただけで、この二人の偉大なる修行者たちは深く感動して、涙を流している!」
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パトゥル・リンポチェの生涯と教え(70)

2019-01-28 21:17:28 | 聖者の生涯



◎ギャルモ・ロンの東の山峡からやって来たギャルワンへの助言


 ここに、教えを実践したいと願う者たちに向けて書かれたいくつかの要点がある。

・・・

 まずは、教えを実践したいのだが実践できていないという場合、まだ誓いを十分に強く立てることができていないのである。狂人のようにがむしゃらに、徹底的な決意をしなければならない。資格ある師の助言に耳を傾け、その他の人の助言には耳を傾けてはならない。
 この心からの誓いを立てた後、心を調御するために「心をダルマに向かわせる四つの考え」を用いて、前行を始めなさい。
 次に、あなたに良いことや悪いこと、何が起ころうとも、一般の俗世間に心を奪われることは、まったくゴマの粒ほども意味がないと見極めなさい。
 輪廻の一般的な事柄に対し、――まるで肝臓炎を患っている人が、脂ぎった大量の食事を給仕されるときのように――ある意味自然に嫌悪感をもって見ることができるようになるまでは、あなたはおそらく、扉に尻尾をはさまれた雄牛のように、活動過多な世捨て人になるであろう。
 もし、ほんの一時的な放棄の衝動に駆られて世俗の活動を放棄する気になったとしても、あなたは結局、「悟ったヨーギーになり損ねた男」、「疲れ切った偉大な瞑想家」という結果に終わることになるだろう。それはあたかも、固くなって駄目になったブーツを水に浸して、いつか再び柔らかくなるという期待を抱いている者の如くである。
 「心をダルマに向かわせる四つの考え」を完全に理解し、世俗の生活を本当に放棄できるようになるまでは、マントラを唱えたり、修行のために世俗の活動を放棄したりする必要はない。これは重要なことである。
 逆に言うと、輪廻に対して失望するという確固とした経験、放棄の本当の感覚、不変の信仰心、強い確信の感覚の経験が始まったら、あなたは、他者の意見にまったく影響されなくなる――つまり、第一ステップを踏み出したのである。
 このときは、友や敵から遠離し、計画を捨て、友やパートナーの意見に左右されることなく、世俗的な義務として為さねばならぬことをすべて無視すべきときなのだ。これは、上司と部下を無視すべきときである。これは、罠にかかった野生動物が自由の身となるために尽力するように、自力で運命の手綱をとり、逃げ出すべきときなのである。

 修行の核について言うと、身体と言葉を使った修行は、最も効果的というわけではない。心を使った修行の方がより一層効果的なのだ。まるで身体と言葉が召使いで、心はその主人の如くである。

 修行の目的について言うと、根(帰依と菩提心を培うこと)がなくては、木(誓いと教え)は育たないということを理解しなさい。そしてそれらがなくては、花(見解と行為)が咲くことはなく、果実(生起と完成の段階)は実らない。
 ダルマの完全なる道の源は、帰依と菩提心を培うことである。これら二つは、八万四千あるダルマと九つの段階的乗り物の根である。これら二つは、道の土台であり、エッセンスであり、本幹でもあり、生命力でもある。これらなしでは、ダルマはただの死体に過ぎない(あるいは死体の欠片に過ぎないとさえ言える)。何のエッセンスも含まないものになってしまうのだ。
 これらの二つの根については、多くのことが語られている。簡潔に言うならば、帰依とは、至高なる三宝に対する完全なる信を培うことである。菩提心を培うということは、無数の衆生が、かつての生においては自分の両親だったことがあるということを知って、そのときから彼らを幸福にしたいという願いを決して捨てないと誓い、究極的には彼らのためにブッダの境地に到達しようと決意することである。

 羊の毛を掴もうとするのではなく、羊の足をしっかりと掴め。つまり、言葉に捕らわれるのではなく、しっかりと実践せよ。師から教えを受け、グルヨーガ(グルの究極なる本性と合一する)、ポワ(意識の移し替え)などの、あなたがアビシェーカを授かった、ダイレクトでスピーディーな道の修行を実践しなさい。
 しかしもしどうしてもそれらができない場合は、善き心でマニ・マントラを唱えなさい。それで十分である。

 絶え間なき精進と過酷な忍辱という生命力に突き動かされて道を進まない限りは、たとえ九乗の経典についてよく知っていたとしても、一生でブッダの境地に到達することはできないだろう。
 
 いつかあなたは、三宝をいう言葉を聞くだけで悟りの境地に達するということを理解し、確信を持ちなさい。




 シュリー・シンハにて、パルゲ著
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第12回(2)

2019-01-27 10:28:54 | 勉強会より抜粋

◎自らの安楽にとらわれない・他者に安楽を与える

 はい、じゃあ「正法」――正しいダルマをしっかりと修め取る方法の第一として、まず「自らの安楽にとらわれない」。で、これはもちろん、二番目の「他者に安楽を与える」っていうことと、まあセットになっているわけですけども。
 もちろん菩薩道、大乗の法っていうのは、他者に安らぎを与える。この安らぎっていうのはいろんな広い意味があるね。究極の安らぎはもちろん悟りを与えるっていうことだけども。でももちろん、相手の状態とか現象に応じて、当然いろんな意味での安らぎを与えると。
 まあ『安らぎを見つける三部作』ってあるけども、本当の意味での心の安らぎ、これは究極の贈り物ですけども。まあそこまでいかなくても、もちろん日常において「ああ、みんな幸福ですか?」と。「さあ、みんな、困っている人いませんか?」と。――まあ、だからちょっとしたことでもいいんですよ。誰か、ちょっとお茶がなかったらお茶くんであげるとか、そんなんでもいい。
 だから『入菩提行論』とかを読めば分かると思うけど、完全にここにおける背景は、自我と他者を入れ替えるってことなんだね。自分のことはわれわれはすごく安楽を気を使うじゃないですか。うん。で、人に文句を言ったりするわけだね。特に家族とかそういうのあるよね。「お母さん! お母さん、お味噌汁がないよ!」とかね(笑)。「お母さん、このごはんちょっと固いよ」と。つまり、いかに自分が安楽であるか。つまり自分はもう本当においしいごはんを食べなきゃいけないと。あるいは自分は、例えばなんていうかな、時間を誰にも邪魔されてはいけないと。自分はこのような安楽な生活をしなきゃいけないっていう、もうそれで頭がいっぱいであると。で、それで、それを人に要求したりするわけだけど、これを逆転させるわけです。これを、この気持ちを他人に全部向ける。「さあ、みんな安楽かな?」と。「さあ、みんなちゃんと幸福かな?」と。
 もちろん何度も言うけども、究極の悟りという安らぎに達してくれれば一番いいんだけども、まだそこまでいかなくても――もう一回言うよ、自我にわれわれが持つような、安楽を気にする気持ちね。われわれは自我の安楽をいつも気にしている。うん。どうやって――表面的には考えないよ。表面的にはそんなこと考えないけども、潜在意識はいつも考えているわけだね――さあ、いつもどれだけわたしは安楽でいられるだろうかと。わたしの安楽に欠けはないだろうかと。わたしがちょっとでも苦しむのは許せない。こういう気持ちを持つわけですね(笑)。
 だからね、修行者っていうのは、もちろん極端な苦行はする必要はないんだけど、ただ、なんていうかな、特に現代人ってちょっと安楽にかなり偏っているので、ほどほどの苦行はするくらいの気持ちでいいんです。うん。『入菩提行論』じゃないけども、ちょっとなんか苦しいことがあったらそれは、苦行っていうかな、自分の心を鍛える機会だ、ぐらいに思ったらいいね。
 まあ、これはちょっと例を挙げづらいんだけど、別にこれはやれって言っているわけじゃないけどね、例として、あんまりいい例は挙げられないけども、例えば雨が降ったと。ちょっとぐらいなら濡れてりゃいい。ね。寒いと、ちょっとぐらいなら凍えてりゃいい(笑)。例えばの話ですけどね。あるいは暑かったらそれはまあ、ちょっとぐらいだったらその暑さを受け入れてね、耐えればいいと。だからちょっとぐらい、なんか自分の中に不便さとか、あるいはちょっとこう安楽じゃない状態が生じたとしても、まあそれは当たり前っていうか、神が与えてくださったものとして喜んで受け入れると。こういう訓練が必要なんだね。
 で、自分に対しては、何度も言うけども無頓着になる。自分のことは、まあつまり勘定に入れないっていうかな。じゃなくて周りの人のことを、昔のっていうかエゴに満ちてた自分がいつも自分のことを心配してたような気持ちで周りを見るわけだね。「ああ、あの人大丈夫かな?」「この人、大丈夫かな?」「この人、なんかちょっと苦しんでないかな?」と。
 もちろんこれをね、もうちょっとレベルを上げて、周りが修行者だった場合は、そういった目で見てもいいですよ。例えば、「ああ、この人苦しんでいるけど、修行者だからカルマ落ちていいな」とかね(笑)。これはこれであるかもしれない。でも、それはベースにはもちろん愛があるわけだね。ベースに愛があって、でも相手の条件に応じてそう言っているだけであって、意地悪で言っているわけじゃない。ベースには本当に、みんな幸福になってほしいなっていうそのものすごい、なんていうか、細かい気遣いがあって。で、その相手の状況に応じてそれを見るわけだね。
 はい。だからこの、セットと考えていいわけだけど、「他者に安楽を与える」と。逆に「自分の安楽にはとらわれない」と。で、この、特に「自分の安楽にとらわれる」っていうのはさ、今言ったみたいに「、わたしは修行者なんだ」って思ってても、すぐにね、なんかこう引きずり込まれるんだね。人間の心って弱いからさ、なんていうかな……逆にね、いろいろこうカルマの浄化がきて、苦しい状況にあるときって結構いいんです、逆に。あるいは貧しい状況とかね。結構、「わたしは修行者だ」ってなるんだけど、逆にちょっと快楽の――よくさ、魔っていうのは修行者を――北風と太陽じゃないけど――苦しみと快楽両方によって攻撃してくるっていうね。で、結構苦しみの攻撃は耐えりゃいいからいいんだけど、快楽の攻撃はわれわれはコロッといってしまうんだね(笑)。ちょっとずつちょっとずつ前よりも贅沢ができるようになってきたり、前よりも心が、なんていうかな、安楽を得られるような状況になってきたりすると、だんだんそれに慣れてきちゃって。で、逆にもう、それでなけりゃいられないような感じになってしまう。これはちょっと駄目だね。
 だからといって、何度も言うけども現代において極端な苦行をする必要はない。例えばナーグ・マハーシャヤみたいに、もみ殻だけ食うとかね(笑)。それはちょっとやり過ぎだから。だからまあお釈迦様みたいに――お釈迦様っていうのはさ、こういう教えがあってね。昔――まあつまり仏教以外のある修行者がね、お釈迦様は多くの信者、弟子たちに称賛されていると。あるいは敬愛されていると。それはなぜなんだっていう話があって。で、その修行者は仏教の本質が分かってなかったんで、「ああ、お釈迦様は本当にいつも小食でね、粗末な物ばかり食べて、いつも森の中とか粗末なところで寝て、いつもそのように質素で苦行生活を送っているから弟子たちに尊敬されているんでしょうね」って言ったんだね。それに対してお釈迦様は、「そんなことはない」と。「わたしは確かに例えば托鉢をしてね、何も食べられないときもあるけども、王様に招待されて大変なご馳走を食べるときもある」と。「あるいは森の中で寝るときもあるけども、在家のお金持ちの信者に招待されてすごい屋敷で寝ることもある」と。だからそこをなんか表面的な、なんていうかな、苦行をしているとか貧しくしていること自体に本質があるわけじゃないんだね。つまりお釈迦様はもう、なんでもオッケーなんです(笑)。うん。全くとらわれていないというか。普通の人だったら例えば、さっきも言ったようにね、毎日――わたしもそうだな、数年前まで、毎日納豆だけのときもあった(笑)。毎日納豆。数か月間そういう日々があったね。うん。毎日納豆しか食わない。納豆だけっていうか、ごはんは食べるよ。ごはんと納豆だけで生きてたときがあったんだけど(笑)。で、それが例えば普通になってしまったら、普通じゃないですか。あるいはまあ、納豆はおいしいからさ(笑)、


(一同笑)


 納豆はおいしいから(笑)、もっと質素でもいいよ。もっと質素でもいい。ごはんも食えない。例えばね。本当にパンの耳しか食べられない食事があったとしてね、でもそれでも大丈夫なんです、普通はね。これが修行だと思ってね。でも例えばそこでいったん豪華な食事を経験する、あるいはすごい粗末な生活をしてたんだけど、いったん贅沢な暮らしを経験してしまうと、やはりちょっとそっちに流されてしまう、普通はね。でもお釈迦様は全く頓着がなかったんだね。今日豪華な食事で、明日食事抜きだとしても、全く心が動かない。あるいは今日宮殿に住み、明日森の中に寝なきゃいけなかったとしても、全く、そこはなんの、心は反応もしないっていうかな。
 だから現代の日本っていうのは、いつも言うように非常に快楽に、あるいは贅沢に偏った世界なので――つまりその、「ああ最近、わたしあまり最近贅沢できないんですよ」っていう人ですら、例えば東南アジアとかから見たら王様みたいな感じですからね(笑)。東南アジアの貧しい人達から見たら、例えばY君とかが「最近ちょっとなかなか経済的に」とか言ってたとしても、王様みたいな生活に見える。だからそのような世界で生きているから、何度も言うように極端な苦行はこの現代に合わないわけだけど、とらわれない修行っていうのはしたらいいね。うん。
 あるいはその、自分の心が「さあ、快楽を追い過ぎていないかな?」と。何度も言うように、与えられた、自然に与えられたものが――日本人ってつまり、ちょっと天界のカルマがあるからさ、自然に――小さいころから自然に与えられたものが結構贅沢だったりするわけです。もうこれはしょうがないっていうか、与えられたものならオッケーです。しかしそれを追い求めない。あるいはその、なんていうかな、もっともっと増大させようと思わない。人間の欲求ってそれがあるからね。
 例えばね、貧しいときは「いや、これだけ食べられれば満足です」って言ってたのが、それが普通になると、「いや、もっとおいしいものないでしょうか」と。ね。よくその、グルメツアーとかね、いろいろあるわけだけど。食べ歩きとかね。つまり、いかにおいしいものを求めるかってふうにいってしまう。あるいはいかに贅沢なものを求めるか、あるいはいかに安楽を追求するかっていうふうに拡大しがちになるんですね。だからそこには一切関わらない。放っておくっていうかな。ただ自然に与えられたものでわたしはオッケーなんです、という思いを常に持ってたらいい。
 これはだから念正智が必要ですね。自分の心をいつもチェックして、「さあ、わたしは安楽に執着していないかな?」あるいは「苦しみを嫌がっていないかな?」――それはしっかりとチェックした方がいいね。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第63話 後編「戦いの前夜」」

2019-01-25 20:13:17 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAMRITAチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第63話 後編「戦いの前夜」」です。
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入菩提行論の歌 The Song of Bodhicaryavatara PART3 第六章「忍辱の完成」 THE PERFECTION OF Forbearance

2019-01-24 09:36:33 | 松川先生のお話
入菩提行論の歌 The Song of Bodhicaryavatara PART3 第六章「忍辱の完成」 THE PERFECTION OF Forbearance
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パトゥル・リンポチェの生涯と教え(69)

2019-01-24 07:13:30 | 聖者の生涯


◎修行の秘訣


 パトゥルは弟子たちにこう言った。

「おまえたちはいつもわたしに教えを乞うているが、教えを受けても、意識的にそれらを実践に移すことをしていないだろう。おまえたちが実践さえしていれば、最高の弟子は一日で結果を出していただろう。中程度の器の弟子は、一か月で結果を出していただろう。そして劣っている弟子でさえ、一年以内に結果を出していただろう。
 おまえたちは要点を理解しなくてはならない。実践していて何も起こらなかったら、それはおまえたちが要点を理解していないということだ。菩薩のドムトンパは、『教学と思索と瞑想を一体化させることが、ダルマの修行の紛れもない秘訣である』とおっしゃっている。」

 パトゥルは一、二回説法をすると、こう言った。

「さあ、おまえたちはこれによく慣れ親しむ必要がある。」

 そしてそれ以上教えを与えることなく、長期間、弟子たちを実践のために送り出すのだった。
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バクティの精髄(27)

2019-01-23 14:55:09 | 経典の言葉・聖者の言葉



◎パラーバクティ(至高のバクティ)


 パラーバクティ(至高のバクティ)は、バクティの最高のかたちである。
 サンダルの粉、花、アーラティで神像を礼拝することから始まる普通のバクティは、最終的にパラーバクティに至る。


 このタイプのバクタは、神像を礼拝しない。
 彼はベルを鳴らさない。
 彼は額にティラカをつけない。
 彼は寺院を訪ねない。
 彼は巡礼をしない。
 彼はなんの規則や慣習にも縛られない。
 ヴァイディーバクティが完全な成長を遂げると、パラーバクティとなる。
 ヴァイディーバクティとは、規律に則って行なうバクティである。


 パラーバクティに確立されたバクタにとっては、全世界がヴリンダーヴァンである。
 彼は、主ハリあるいは主クリシュナを至るところに見る。


 ナマールヴァールは、これを経験した。

 彼は大地を抱きしめ、こう言った。

「おお! これはヴァーマナの大地だ!」

 彼は空を指さして、叫んだ。

「見よ! 主のヴァイクンタがある!」

 彼は涼しいそよ風を抱きしめて、こう言った。

「これは、わがアチュタ(クリシュナ)だ!」

 彼は故意に炎を抱きしめ、こう言った。

「おお、不滅のアナンタよ!」

 彼は海に向かって手をあげ、叫んだ。

「見よ! わが主が休息されている海である!」

 彼は丘を指差して、こう言った。

「おいでください、荘厳たるハリよ! ほら、わがヴィシュヌが来られた!」

 彼は、巨大な黒雲を見ると、こう言った。

「あれは、わが主クリシュナだ!」



 ナーマデーヴァは、パラーバクティのバクタであった。
 彼は至るところに主クリシュナを見ていた。
 干からびたパンをくわえて逃げる犬を、彼はギーを塗ってそのパンを柔らかくしようと、ギーが入ったカップを持って追いかけた。
 彼は犬の中にも主クリシュナを見ていたのだ。


 ツカラムも、そのようなバクタであった。
 彼はこう言った。

「砂糖がサトウキビジュースに遍満しているように、主クリシュナは全世界に遍満している。」


 プラフラーダは柱の中にハリを見、父に『主ハリは柱の中におわします』と言った。
 プラフラーダの信仰は、信仰の最高のかたちである。

 パラーバクティは、一日や二日で到達できるようなものではない。
 それを開発するためには、長い年月を要する。
 人は、バクティの基礎階梯を修めなくてはならない。
 寺院を訪れ、巡礼し、花やサンダルの粉を捧げ、アーラティを行なわなくてはならない。
 バクタに奉仕し、ジャパ、キールタン、瞑想を行なわなくてはならない。
 ナヴァヴィダーバクティ(九つの信仰のムード)を実践しなくてはならない。
 ラーマーヤナ、バーガヴァタ、あるいはその他のバクティを扱った聖典を学ばなくてはならない。
 霊性の進化は、段階的になされる。
 罪で硬くなった心は、柔軟にならなくてはならない。
 バクティ修行の道は、信、随喜、熱意をもって、完璧に修めなければならない。
 そうして初めて、ヴァイディーバクティ(規律に則って行なうバクティ)はパラーバクティ(至高の信仰)へと成長するのだ。
 クリシュナの栄光を聞きそして歌うことで、彼への自然な愛の感情が生まれる。
 この愛の感情(ラティ)が強烈になると、バーヴァ、プレーマ、マハーバーヴァと呼ばれるものになる。
 
 あるブラフマジュニャーニはこう言っている。

「サルヴァム・カルヴィダム・ブラフマー――すべてはまさにブラフマンである。」


 パラーバクティのバクタは、こう宣言している。

「サルヴァム・ヴィシュヌマーヤム・ジャガット――全宇宙はヴィシュヌただ御一人しか存在しない。」


「ヴァースデーヴァハ・サルヴァム・イティ――まさにすべてがヴァースデーヴァ。」


 パラーバクティとジュニャーナは同一なのである。

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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ エピソードⅠ 第8話」

2019-01-22 21:11:40 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAMRITAチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ エピソードⅠ 第8話」です。

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クリシュナ物語の要約(35)「ナンダとヤショーダーの悲しみを慰める」

2019-01-22 19:45:51 | 経典の言葉・聖者の言葉


(35)ナンダとヤショーダーの悲しみを慰める


 クリシュナの親しき友であるウッダヴァは、ヴリシュニ族の中でも最も傑出した者でした。彼はクリシュナの父のヴァスデーヴァの弟に当たるデーヴァーバーガの息子で、クリシュナのいとこにあたり、クリシュナより少しだけ年上でした。また、彼は聖仙ブリハスパティの直弟子であり、優れた知性の持ち主でした。

 あるときクリシュナは、最愛の友であり最高の献身者であるウッダヴァの手を取ると、次のように言いました。

「ああ、やさしきウッダヴァよ、今から私の父が暮らすヴラジャに出かけていって、私の両親を喜ばせてくれないだろうか? そして私との別離に悲しむゴーピーたちに、私からの伝言を伝えて、彼女たちを慰めてあげてほしいのだ。
 彼女たちは自分の心を、いや、すべてを私にゆだねて、すべてのものを私に放棄したのだ。そして私に対して、自分たちの命をも捧げているのだ。
 最愛の者である私が遠くで暮らすため、ゴークラの女性たちは、私だけを思い続けて、別離の苦しみにやつれて、すべてを失念してしまっているのだ。
 彼女たちは私だけに心を没頭させて、私が帰ってくるという約束だけを頼りに、何とか命を保っている状態なのだ。」

 こうしてウッダヴァはクリシュナからゴーピーたちへの伝言を受け取ると、ゴークラへと出発しました。
 そして太陽が沈み始める頃、ウッダヴァはゴークラに到着しました。
 家の玄関にクリシュナのしもべのウッダヴァが立つのを見て、ナンダは大いに喜び、彼をクリシュナそのもののように見て心からの礼拝を捧げると、愛を込めて彼を抱きしめました。
 そしてナンダはウッダヴァを心地よい長椅子に座らせ、最高の食事を施した後、こう話しかけたのでした。

「ああ、ウッダヴァよ。私たちの親しき友であるクリシュナは、今でも元気にしているだろうか? 彼は友人や親しい者たちに囲まれながら、家族とともに楽しく暮らしているんだろうね。
 ダルマを守るヤドゥ族を憎み続けたあの邪悪なカンサは、自分の罪故に、家来とともに死んでしまったのだった。
 ああ、今でもクリシュナは、私や母ヤショーダー、遊び友達や牛飼いなど、彼を守護者と見たヴラジャの人々を、そして牛飼いやヴリンダーヴァナの森、ゴーヴァルダナの丘を覚えているだろうか?
 クリシュナは再びここに戻ってきて、友人や親族に元気な顔を見せてくれるだろうか? そうすれば私たちはもう一度、高い鼻に笑みを浮かべた、あの子の顔を見ることができるのに!
 私たちはクリシュナに助けられて、森の火事や嵐、豪雨、悪魔アリシュタや大蛇など、それら超えがたき災難を克服できたのだった。
 ああ、愛するウッダヴァよ、私たちはクリシュナが行なったことや、あの子の陽気な眼やほほえみ、あの子との会話を思い出すと、もうとても仕事などできなくなるのだ。
 クリシュナの足跡で飾られた丘や河、森や遊び場を見ただけで、私たちの心はあの子の事でいっぱいになってしまうんだ。
 聖仙ガルガ様がそう言われたように、クリシュナとバララーマの二人は、神々の何か重大な目的を果たすためにこの地上に降りてきた、神々の中の最高者じゃないかと、私にはそう思えるんだ。
 一万頭の象の力を持つあのカンサや、強大な格闘家たち、そして象のクヴァラヤーピーダを、あの二人はライオンが獣を殺すように、戯れるようにして殺してしまったのだ。
 そしてクリシュナは、ゴーヴァルダナの丘を、片手で一週間も支え続けたのだった。
 また、悪魔プラランバやデーヌカ、アリシュタ、トリナーヴァルタ、バカなど、神々やアスラまでも打ち負かした者たちを、あの子は戯れるようにして殺してしまったのだ!」

 クリシュナが行なったことを思い出すうちに、ナンダはクリシュナへの愛に心を満たされていき、こみ上げる愛の思いに圧倒されて、ついに沈黙してしまいました。
 そしてヤショーダーも、ナンダがクリシュナの事を話すのを聞くと、眼からあふれるように涙を流して、クリシュナへの深い愛ゆえに、胸からは自然と乳が流れ出たのでした。
 
 ナンダとヤショーダーがクリシュナに対して抱く、このように素晴らしい愛の姿を見ると、ウッダヴァは大いに喜んで、次のように話し始めました。

「万物の創造主であるナーラーヤナに、そのように深い愛を抱かれたあなた方お二人は、ああ、この世で最も称えられるべき者と言えるでしょう!
 クリシュナとバララーマの二人は、この宇宙の原因であり、真我と根本原質でもあられるのです。あのお二人は、自分自身は永遠なるものであるものの、すべての被造物の中に入られて、それらを支配されているのです。
 自分が死ぬまさにその瞬間に、ただ一瞬でもクリシュナに心を向けたなら、蓄積された彼のカルマは燃やし尽くされ、ブラフマンと一つになり、太陽のような輝きを手に入れて、最高の帰るべき場所に至ることができるのです。
 ヤドゥ族の守護者であるクリシュナは、必ずや近いうちにヴラジャに来られて、あなた方ご両親に喜びをもたらされるでしょう。
 カンサを倒した後には必ずここに戻ってくるという約束を、クリシュナは必ず果たされるでしょう。
 それ故、ああ、祝福されしお方よ、どうかもう悲しまないでください。あの方は、すべての被造物の中に住んでおられるのです。
 あのお方は、何にも執着を持たずに、誰一人として憎くもなく、誰にも平等であり、父も母もなく、妻も子供も、親族もありません。
 あのお方自身はカルマに縛られぬものの、徳ある人々を守護するために、神々や人間や他の生き物として、幾度もこの世に降誕されるのです。
 不生の主は三グナを超越されており、決してそれらに影響されません。しかしそれでも主は、サットヴァとラジャスとタマスを身に帯びて、それらを用いて、戯れにこの宇宙を、創造、維持、そして吸収されるのです。
 バガヴァーンであるクリシュナは、ただあなただけの息子ではありません。あのお方はすべての人の息子であり、すべての人の父であり、母であり、すべてのものにとっての全能の主であられるのです。」
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