ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

今日のAMRITAチャンネル「キールタン・イメージビデオ」

2018-12-31 23:15:18 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAMRITAチャンネルは、「キールタン・イメージビデオ」です。




曲目


1.MISSION【NEW!】
2.TOWNSHIP HARE KRISHNA
3.OM NAMO BHAGAVATE
4.PREMA CHALISA
5.空からの使者
6.入菩提行論PART1 THE SONG OF BODHICARYAVATARA
7.入菩提行論PART3 忍辱の完成 THE PERFECTION OF Forbearance
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「完全なる神への礼拝」

2018-12-31 09:13:44 | 解説・バガヴァッド・ギーター



◎完全なる神への礼拝

【本文】
 また深い信仰心をもって他の神々を拝む人々もいるが、
 実は彼らもまた、正しい方法ではないのだが、やはりわたしを拝んでいることになるのである。

 なぜなら、わたしだけがあらゆる種類の供養の受け取り主だからである。
 しかし他の神々を拝む者たちは、こうしたわたしの実相を知らぬため、みな輪廻転生を繰り返すこととなる。


 ここで私とかあるいは他の神々といわれているのは、名前ではありません。概念だね。
 例えばいろんな宗教やいろんな宗派で、私の神はこうですと。この神はこうこうこういう性質をもっているんですと。こういう恩恵を与えてくれるんですよっていう概念がある。それに対して拝んでる。つまりね、クリシュナというか完全なる神というのは、われわれに無量の恩恵を注いでいます。ちょうど太陽のように、無限の恩恵を注ぎ続けているんだけど、こっち側がさっき言ったフィルターを作るんだね。そのものの見方を制限するんです。制限するっていうことは、制限したその穴からしか恩恵を受けられない。
 最悪の場合は、完全にドームで覆うと。ドームで覆うんだけど、ある程度の信仰を持っている人は、そのドームにちょっと穴を開ける。それは三角形だったり、四角だったりする。例えば屋根に三角形の穴を開けた人は、三角形の光の恩恵を受ける。これがここで書かれていることだね。自分の観念どおりの恩恵しか受けられない。
 ということは、最高の恩恵を受けようとしたらどうすればいいのか――観念を壊さなきゃいけない(笑)。つまり、自分の「こうです。こうだから信仰するんです」とか、「私はこうしたいんです」とか、そんなのは全部捨てて、完全に委ねなきゃいけない。
 修行においてもこれはそうなんだね。ちょっと話がずれるけど、悟りをみなさんが得たいと思うときも全く同じで、まず自分の中に先にね、「私のイメージする悟りはこうです」とか、「私のイメージする修行はこうです」というのがあると、実際に師匠が弟子を悟らせようとする場合に、「ちょっと話が違います」と(笑)。「私はそういうイメージじゃなかったんです」ってなると(笑)、本当の悟りは得られない。その人がイメージしているものは得られるけどね。そのイメージっていうのは、さっきから言っているように、もともと無智なんだから、無智な自分がしたイメージなんて、大したものじゃない。本質とは全然違うんだね。それにこだわっていると、駄目なんです。
 修行がだんだん進む間に、明らかに修行が進んでるっていうのが分かるんだけど、そこで起きる自分の精神状態が、前にイメージしていたものと全然違うんです。悟りとか、修行が進んでこの段階にくるとこうだろうなーとなんとなくイメージしていたものと、全然違うのが来る。これははっきり言って、全然違います。馬と柿ほど違います(笑)。
 「馬と柿ほど違う」ってどういう意味かっていうと、例えば「馬とシマウマほど違う」っていうなら分かるよね。馬とシマウマってどうなんだろうね。生物学的にかなり違うのかな。まあ、よく分からないけど、同じ馬という名前で、縞があると。それくらい違う。それはまだ比較の対象内だよね。「馬と柿」ってなったら(笑)、比較の対象外なんだよね(笑)。果物と動物だから(笑)。違うとか違わないとか、そういう世界じゃないっていうか――でも、それくらいなんです。「おれは悟りって、こう思ってたけど」――つまり、馬だと思ってたけど、シマウマだった――そういう問題じゃないんです。「馬だと思ってたら柿だったんだ!」っていう(笑)、そういう世界なんだね。
 でもそこで、例えば心の中で赤い柿みたいなものが出てきて、「え? 柿なの?」って思った時に(笑)、あまり観念が強すぎると、これを追いやっちゃうんだね。「え、ちょっと柿じゃないだろう」と。本当は柿が悟りなんだけども、馬だと思い込んでるから、そこでシマウマが出たくらいだったら許せるんだけど、柿が出てきたりすると(笑)、「ちょっとそれは違うだろう」となってしまう。だから悟りを求める上でもこれは駄目なんです。完全に自分を投げ出さないとね。
 じゃなくて、多くの人の場合は、限定した自分の観念内での信仰というのがある。「こうなんですよ」と。「こうでなきゃ私は駄目なんですよ」――この中でやっている人たちっていうのは、それはそれで悪くはないんだけども、その限定された恩恵しか受けられない。だから観念の放棄っていうのが、悟りには絶対に必要だね。
 これは論理的に言っても分かるでしょ。だって、観念を超えたところに悟りがあるんだから、観念内で「悟りとはこうだと思います」。――そこから一歩も出なかったら、当然悟りは得られない。それは単純なる観念の中の遊びに過ぎないというかな。
 でも、ここで言っているのは、その観念内での――例えばさっきのたとえで言うと、壁が貼られてて、そこに三角形の穴だけ開いたと。三角形の穴だけ開いて、「私はこの三角形の神を信じているんです」って言っても、そこから入ってくるのは太陽の光じゃないですか。それと全く同じで、われわれが「なんとか神!」とか言って供養してても、間違った観念的な供養であったとして、受け取り手は全部この絶対なるバガヴァーンなんです。絶対なるバガヴァーンが受け取っているんだけど、やっている人たちは「なんとか様」とか、違う名前で違う概念でやってるんだけども、ただバガヴァーンだけが受け取っているんだよと。しかしその観念的な枠組みがあるから、枠組みに則った恩恵しか受けられないんだということだね。
 だから逆に言うと、われわれが完全に自分の観念を捨て去って、完全なるこの――自分ではよく分からないけど、この宇宙の本質である存在に対して、あらゆる考え方を捨てて帰依するっていう道をとったならば、最高のすべての恩恵が受けられるんだと。
 ちょうどそれは裸になって家から飛び出たようなものだね。家の中にいて、こういう感じかなって穴を開けている状態じゃなくて、「わかりました!」と。素っ裸になってぱーっと出た状態。
 そういう意味では、修行っていうのは、特にこのバクティ・ヨーガとか悟りの修行っていうのは、「服を脱ぐ」ということだと言ってもいい。服を脱ぐんだね。服を着るんじゃないんです。現代人の考え方だと、服を着るっていう考えの方が多い。私は修行に入りましたと。じゃあこのような服を着ましょうと。どうでしょう、悟ってますかと。ね(笑)。これはどうでしょう――そうじゃなくて、いかに脱ぐかなんだね。
 師匠は弟子の服を引っぺがしていくんです。弟子は、この修行の道に入ったらこういういい服着れるなと思ったから、師匠について行ったら、いきなり脱がされると(笑)。話が違いますと(笑)。これが修行の道なんだね。だから着せられると思ってたら脱がされるっていう状況に陥ったときに、「どうぞ」って言えるかなんです。これが修行のポイントです(笑)。ちょっと抽象的だけどね。自分の観念と全く違うことが起きたときに、どうぞって言えるかだね。でも結局そういうことなんだね。素っ裸になって、家から出て、完全に自己を委ねられるか――これが限定的な神への礼拝と、完全なる神への礼拝の違いだね。

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「私が見たブラフマーナンダ」より「我が師」(14)

2018-12-31 09:04:37 | 聖者の生涯



 
次に、わたし(スワミ・プラバーヴァーナンダ)の訓練がどのように始まったのかということを述べることにしましょう。
 

マハラジの個人秘書であったスワミ・シャンカラーナンダは、ある朝、わたしに紙切れ――何かの受領書――を手渡すと、こう言いました。



「駅に行って、これを駅長に渡してきてください。」



 
こうしてわたしは詳細を尋ねることなく、その受領書を持っていきました。
 
その道の途中、この特別な任務の対処に慣れている若いブラフマチャーリに出会いました。



「この受領書を駅長に渡したら、どうすればいいのですか?」

 

わたしはこのように彼に尋ねました。

すると彼はこう返答しました。



「ああ、あなたは何もすることはないですよ。駅長にただその受領書を渡せばいいのです。小包が送られてきたら、彼がそれを届けてくれますから。」



 よってわたしはそのように行ない、帰りました。
 
わたしが僧院に戻ると、僧院の全員がわたしを待ち構えていました。



「あれ、魚の入った小包はどこですか?」



と彼らは尋ねてきました。




「魚?」

とわたしは言いました。

 
私は、
お使いに行った肝心な理由が、マハラジのためにカルカッタから送られてきた新鮮な魚が入った小包を取りに行くことだったということを、誰からも知らされていなかったのです。

 そういうわけで、スワミ・シャンカラーナンダは直ちに小包を取りに行くために馬車を手配されました。

 その日一日中、マハラジはわたしに小言を言い続けました。


 もちろんわたしは、自分は全くもって無実だったと思っていましたが!

 



夕方、マハラジとスワーミー・トゥリヤーナンダが食事をとられていたときのことでした。わたしはその傍に座り、扇ぎながら虫を払いのけていました。

マハラジは、まだわたしに小言を言っていました。


 スワミ・トゥリヤーナンダは、わたしにこうお尋ねになりました。



「君は、なぜマハラジがこうして君をお叱りになっているのか、分かっているかい?」



「いいえ、はっきり言って、全く分かりません。」

と、わたしは答えました。




「いいかね……」

とスワミ・トゥリヤーナンダは言うと、こう続けられました。




「弟子には三つの段階がある――
 グルがある事をするようにと指示を出したとき、
その弟子はその指示を実行する。これは三番目の弟子だ。
 

二番目の弟子は、グルが指示を与える前に、グルの意思を読み取り、その仕事をなすことができる。

 

しかし最上の弟子は、グルが思惟される前にさえ、彼が望まれることをなすことができるのだ。
 マハラジは、君にそのような最上の弟子になってほしいと願っておられるのだよ。」

 すると、マハラジはこう述べられました。



「その通りだ、兄弟。わたしは年を取ったので、彼らはわたしの話を聞こうとしないのだよ。しかし今、この子の脳に智慧を注ぎ込んでくれたね!」
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パトゥル・リンポチェの生涯と教え(60)

2018-12-31 08:48:30 | 聖者の生涯




◎パトゥル、チョーギャム・リンパに対する信頼を表わす


 パトゥルの頼みで、チョーギャム・リンパは、サンギェー・リンパによる「ラマ・ゴンドゥ(すべてのグルの智慧の心の結合)」をパトゥルに伝授した。伝授が終わると、パトゥルは、伝授への感謝の気持ちとして曼荼羅を捧げた。パトゥルは、弟子たちに対してこう言った。


「チョーギャム・リンパは本物のテルトンだと、わたしは確信している。この者のテルマには、一点のけがれもない。今日、われわれはテルトン・チョーギャム・デチェン・リンパから、このアビシェーカを受けるという幸運にあずかった。それは、サンギェー・リンパご自身から授かるのと一緒だ。彼は、われわれの時代を生きるパドマサンバヴァの真の化身である。
 通常わたしは、原典の教えを比類のないものとして信じる。今広まっているテルマはそんなに信じていないし、それらの瞑想法を実践してヴィジョンや経験が得られたことはほとんどない。しかし、このテルマに則って実践したら、修行が進歩したという明らかなるサインが現われたのだ――サーダナーに述べられているサインを伴った夢や純粋なヴィジョンがな。したがって、わたしのような普通の人間には他者を判断するのは難しいが、わたしはこれらのテルマが本物であると信じている。」


 パトゥルはめったに人を称賛しなかったので、彼のチョーギャム・リンパへの惜しみない称賛は、チョーギャム・リンパが正真正銘のテルトンであるという評判を打ち立てる一助となったのであった。
 そしてチョーギャム・リンパはパトゥルを、二つのテルマ――「すべてのブッダの完全なる純粋な結合」と「三つの一族の神髄」――の霊的な相続者に任命した。
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パトゥル・リンポチェの生涯と教え(59)

2018-12-29 18:19:23 | 聖者の生涯


◎パトゥルとチョーギャル・リンパ


 原生の氷河地帯の崖の斜面で、偉大なるテルトンであるチョーギャル・リンパが、「最高の至福、すべてのブッダの結合」の体系の一部であるテルマの教えを発見した。
このとき、チョーギャル・リンパはゾクチェン僧院の近くで暮らしていた。そして彼と共にヨンゲ・ミンギュル・ドルジェのトゥルクが暮らしており、訪問者を迎え、調理をし、お茶を作ったりして、チョーギャル・リンパの従者として仕え、彼のお世話をしていた。
 ある日の明け方、チョーギャル・リンパが従者のヨンゲ・ミンギュルに言った。


「今日、偉大なる師パトゥル・リンポチェがここに来られる。どうか、特別なおもてなしをしておくれ。」


 しばらくして、チョーギャル・リンパにお茶を出した後、ヨンゲが師の部屋から出ていくと、訪問者が来たことに気づいた。体格の大きい、鼻の高い老人であった。ゴロクの遊牧民のような格好をしており、ラマの衣は着ていなかった。老人が羽織っている簡素なコートは羊の皮でできており、脇のところの毛がはげていて、赤いフェルトの布で塞がれていた。


「チョーギャム・リンパに会いに来た。」


 老人はそう言って、中に入ろうとした。
 テルトン・チョーギャル・リンパは、突然の訪問者は絶対に入れさせなかった。ましてや、許可も取らずに入ろうとする者など尚更のことである。それゆえに、ヨンゲは扉を閉めて、こう言った。


「お待ちを、お待ちを! そういったことは許されておりません。まずはラマにご報告をしなくては。」


 「どいてくれ!」


 老人はそう言って、ヨンゲを脇に押しのけようとした。ヨンゲは老人の袖を掴んで、強くこう言った。


「突然の訪問者は入れることができないのです!」


 老人は後ろに下がり、二人は取っ組み合いを始めた。


 突然、ある考えがヨンゲの脳裏をよぎった。


「たぶん、このゴロクの老人は、普通の老人ではない。一旦中に入って、師にお聞きした方がよさそうだ。」


 そのとき、先ほど「今日の訪問者」について師から言われていたことを思い出したが、ヨンゲは、見るからに偉大な師のような方が来られるのだろうと思い込んでいた。
 ヨンゲが後ろを振り向くと、チョーギャム・リンパが部屋から出てきた。その偉大なるテルトンは全力で走ってきて、老いた遊牧民に向かって全身を投げ出して礼拝をした。老人も礼拝していた。


 ヨンゲは後に、このことについて話してくれた。


「それから、お二人がお互いに礼拝をし合った後、彼らは二頭のヤクのように、頭を触れ合わせておられた。」
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第11回(10)

2018-12-29 11:47:09 | 勉強会より抜粋




◎大いなる誇りを持って突き抜ける


 はい。じゃあいったんね、これで終わりにして、全体的に質問ある人いますか? 特にないかな?

 今日はまあ大事な話をいろいろたくさんしましたが、その中でも大事な――最もね、大事なことをいくつか言うと、まず一つは、一番最初に言ったね、「われは菩薩である」と。あるいは、「神の子である」と。完全にわれわれの人生っていうのは、そのために生まれてきたんだと。そういう自信を持つと。もう傲慢なぐらいでかまわない。自信を持ってください。ね。つまりその誇りのもとに生きると。もちろん低いプライドは駄目ですよ。低いプライドは捨てて、誇りを持って生きる。
 あのさ、一般的によく修行とか、あるいは宗教とかの世界で、例えば仏教とかヨーガやってる人も、「おれは修行者なんだから、みんなとは違う」っていう、そういう選民意識っていうか、そういったのを持っちゃ駄目だっていう人がいるけど、そんなことはありません。もちろんね、そういう、なんていうかな、低い、けがれた選民意識みたいなプライドは駄目なんだけど、そんなことは当たり前です。そんなことは皆さん分かってるでしょ? そういうみんなを蔑むような気持ちを持っちゃいけないなんて、そんなのは言われなくたって分かってます(笑)。ね。だからそんなのは、それが分からない人にはそう言ったらいいけども、皆さんはそんなのは分かってる。それは分かったうえで、正しいプライドを持ってください。「われは菩薩である」と。ね。「われは何にも、悪魔にもやられない、煩悩にも負けない、どんなけがれにも侵食されない神の子である」と。「神のしもべである」と。「誰がわれわれに勝てるか」と。あるいは「われわれの人生っていうのは、ただそのためだけに捧げられてるんだ」と。「だからわたしは偉大なこの道を誇りを持って歩こう」という気持ちをしっかり自信として持ったらいいね。だからそれを常に忘れないようにしてください。
 まあラーマクリシュナもよくそういうことを言うけどね。ライオンが羊の子に育てられて、まるで自分が羊のようにピャーピャー泣いてると。でも鏡で自分をライオンだと分かって、やっとガオーッっと咆えると。ね。このような状態に今皆さんはいるんだね。うん。だからそれを誇りを持ってください。「われは菩薩なり!」と。で、その「われは菩薩なり」っていう心によって、日々けがれを打ち砕くんだよ。なんか変なことやりそうになったときにね、例えば誰かを嫉妬しそうになったと。あるいは、お供物自分が小っちゃくてムッとしたときに、


(一同笑)


 「なんでおれだけ小っちゃいの?」っていうときに、「われは菩薩なり」と(笑)。


(一同笑)


 「菩薩がお供物の小ささなんか気にとめるか」と。「いや、逆に自分が小さい方を取りたいっていうのが菩薩じゃないか」と。で、そこで頑張るんでもないんだよ。「あ、そうだ! 菩薩はこうだから頑張ろう!」じゃなくて、「おれ菩薩だから!」と。ね。「まかせて!」と。ね。「おれ、ちっちゃいので喜びだよ」と。ね。そういう、なんていうかな、純粋なっていうか、単純なというか、感じになれるといいんだね。誇りによってね。
 で、これは、なれるんです。ちょっとはそこで、もちろん心の背伸びみたいのがある。でもね、さっきも言ったけど、菩薩っていうのは、ちょっと頑張るぐらいでいいんですよ、修行っていうのは。当たり前だけどね。背伸びするぐらい、頑張るぐらいでいいんだよ。うん。ちょっと、なんていうかな、冷汗かきながらね、「いやあ、菩薩ですから!」(笑)。ちょっとウーッてなってるんだけど、「大丈夫? 大丈夫? 今苦しくなかった?」「そんなわけないじゃないですか!」と(笑)。「そんなわけないじゃないですか、バカにしないでください」と。ね。ちょっとはやっぱり苦しい。あるいはちょっとはなんかこう、「え? ちょっと勘弁してくれよ」みたいのが出てくるんだけど、でも背伸びするんだね。「え? バカにしないでください」と。「菩薩ですよ」と。「わたしは――何度も言うけども――何生も前から菩薩道歩いてきてるし、もしかすると前生ラーマクリシュナの弟子だったかもしれないし。あるいはもっと過去において、シャーンティデーヴァの弟子だったかもしれないし。いや、それどころかクリシュナの友達だったかもしれないし(笑)。ね。ラーマ様のために尽くしたこともあったことがあったかもしれない、このわたしが、お供物が小さいとか、そんなんで心動かすと思いますか?」と。「わっはっは」と。でもちょっとは動いてるんだけど(笑)。


(一同笑)


 背伸びして。「いやあ!」とね。あるいは人からバーッて言われたとしても、「いや、そんなんでわたしがなんか嫌悪したりすると思いますか?」と。「バカにしないでください」と。「わたしにはね、偉大な師がついていらっしゃるんですよ」というぐらいでちょうどいいです。うん。これによって日々の、なんていうかな、けがれとか、悪しきカルマを打ち破る。
 だからそうじゃなくて、「おれって駄目なやつなんだけど、修行しなきゃいけないんだよな……」――これじゃ打ち破れませんよ、そりゃあ。「おれ駄目なんだよな。おれカルマ悪いんだよな。でも修行って、これやらなきゃいけないんでしょ?」――こんなんじゃ(笑)、打ち破れるわけないよね。ちょっとはできるかもしれないけど、なかなか難しいですよね。
 で、もう一回言うけども、しかも人生は短い。ね。人生は短いんだったら――ちょっとまた別の角度から言うけどね、「おれは菩薩だ!」って、これは事実なんだけど――一応夢って言うけどね、一応夢っていう言い方で言うけども――「おれは菩薩である」と。「完全なる神のしもべである!」っていう夢を見て突き抜ければいい。ね。一つのこれ言い方としてね。自分で、「え? そうなのかな?」って思っても、そんなのはもう排除してください。その大いなる誇りを持って突き抜けてください。何度も言うけど、短いから。人生ってね。
 仮にですよ、これ、わたし事実だって言ってるけども、仮にこの中に一人ぐらいそうじゃない人がいたとしてもね(笑)、かまわない。仮に違ったとしても、それで突き抜けたら、そのメリットっていうのは大変大きい。うん。みんなは実は何生も修行してる菩薩だったけども、一人だけ全然菩薩じゃなくて(笑)、今生やっと始めた――今生初めて菩薩の道を歩んだ人だったんだけど、みんなと同じで、「お、そうか」ってやって(笑)。


(一同笑)


 「菩薩だ!」ってやって(笑)。


(一同笑)


 「おれに誰がかなうか!」と。でも本当は全然駄目なんだよ。全然駄目だからもうボロボロになってるんだけど、その誇りによって、「バカにしないでください。菩薩ですから全然大丈夫です」って言って突き抜けられたら、それはメリット大きいですよ。その人の人生っていうのは、その誇りによって守られたものになるから。だからそれが第一の話ね。




◎祈り

 で、第二に重要な話は、祈りの話ね。これも何度も言ってるけども、皆さんが祈るとき、そこに神はいらっしゃいます。あるいは皆さんが神を本当に――本当にっていうのは、もう一回言うけど、強さっていうよりは方向性としてね、本当に神のことを純粋に思ったときっていうのは、神はいます、そこに。あるいはね、もっと言うとね、神の話をしただけでもいます、そこに。何度も言うけど、来るっていうんじゃないんだよ。いるんです。神の話をしたとき、もしくはわれわれが神を心に浮かべたときっていうのは、いるんです、普通に。うん。
 で、それを信じ、そして祈る。ね。なんかあったら祈ればいいんです、変な話。まさにその、お母さんみたいなもんだね。うん。赤子とお母さん。われわれは赤ちゃんだと。ね。赤ちゃんなんだから、お母さん呼んで当然でしょ? あるいは赤ちゃんなんだから、それはなんか言えば叶えてくれるよ。それくらいの、なんていうか、捧げた心っていうかな。
 だからこの今の、一と二の教えを身につけるだけでも、皆さんの苦悩はかなりなくなるはずです。「おれは菩薩だ!」っていう気持ちと、「なんかあったら祈れば絶対大丈夫」っていう気持ち。これがあれば、まあ相当苦しみなくなるでしょうね。あるいは不安とか恐怖とかなくなるでしょう。
 じゃなくて、それをやってもなくなんないってことはありえないんだけど、やらないから駄目なんだね。もしくは忘れるとか、あるいはその方向性を間違えるんだね。さっきも言ったように、言葉上では祈ってても、それを否定する気持ちをいっぱい修習するとかね。「どうせ……」みたいな感じ。あるいはさっき言ったみたいに、菩薩の誇りを忘れるとかね。これによってどんどん苦しみに入っていく。で、「ああ、なんか、先生が言ったことやったけど全然だな」ってなってしまう。それはやってないんです。
 だからそれはぜひその、また――まあ何度も言ってることではあるけども、あらためて実践したらいいね。菩薩の誇りを持つ。そして神の実在と、そして祈りの力を信じ、祈ると。ね。
 簡単でしょ? 大乗仏教とかバクティヨーガって、簡単なんです。よく言われるんだけど、易行、つまり「易」って安易の易ね。つまり簡単な行と。最もやさしい、できるだけ、この苦界において、カリユガにおいて、衆生が目覚めることができる、やさしい道を至高者は表わしてくれている。それが大乗仏教であり、バクティヨーガなんだね。
 しかしやさしいんだけど、みんなやらないんだね(笑)、なぜかね。だってやさしいって――もう一回言うよ。「誇りを持て」と。「菩薩であれ」と。そしてもう一つは、「祈れ」と。それだけでいい。だからこれを真剣にやるだけでも、皆さんの人生っていうかな、魂の道っていうのは大きく変わってくるでしょう。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第11回(9)

2018-12-29 09:01:23 | 勉強会より抜粋


◎身命を惜しまずに、正法を希求する

 「身命を惜しまずに、正法を希求する」――ね。つまり単純に言うと、教えは命より大事だっていうことです。われわれはさ、ちょっとこういうこと言うと問題があるかもしれないけど、小さいころからの教育によって、命が一番大事だって教えられちゃってるけども、そんなことはありません。昔は違ったよね。昔の日本っていうのは、当然命より大事なものがいっぱいあった。例えば武士の世界のときもそうだし、あるいは戦争やってるときもそうだけども、命より大事なものっていっぱい規定されてたよね。だってさ、よく考えてみてください。われわれは――われわれっていうか、普通はですよ、普通は、なんで生まれたか、なんで死ぬのか、誰も分からないでしょ? 修行して悟らない限り分かりません。なんで生まれたか、なんで死ぬのか分からないし、しかもですよ、全員死ぬんですよ。全員死にます。なんでそれで命が大事だって言える? もちろんそれぞれがいろんな人生観を持って、いろいろこじつけてるけどね。もちろんわれわれの中に死にたくないっていう気持ちがある。だからそれを正当化して「命は大事だ」って言ってるわけだけど、理論的にはよく分からない。なんで命が大事なの? あの延命とかもそうだよね。もしかすると寿命で今死んだ方が良かったかもしれない人もいるかもしれない。
 わたしももし、不治の病とかにかかって体も動かなくなったら、無理な延命はしたくないね(笑)。パイプつながれてさ――あの、もちろん教えがまだ説けるとかだったらいいけども、全然しゃべれなくて、体も動かなくてね、ベッドでこんな感じで(笑)。それで一年、二年生きたってしょうがない。早く次の救済のところに行った方がいい場合もあるかもしれない。
 なんか、日常においてやっぱりそういった死の問題ってタブー視されるから、ちょっとこうみんな踏み込めないところがあると思うんだけど。でもよく考えたら、生が一番大事なんてことないんだね。命が一番大事なんてことはない。で、何度も言ってるけども、お釈迦様は「真理を実践せずに百年生きたってしょうがない」と。「それよりは真理を実践して、一日生きた方がいい」って言ってる。つまりこの言葉っていうのは詞的に説かれてるから、みんなあまりピンとこないのかもしれないけど、リアルに言うとこういうことですよ――「今日真理を実践したら、あなた死にますよ」と。「でも実践しなかったら百年生きられますよ」と。「でも真理から遠ざかりますよ」と。「どうしますか?」っていう話なんです。それは前者でしょう。当たり前でしょうっていう話なんだね。「今日死ぬとしても真理とりますよ」と。「今日死ぬとしても教えとりますよ」と。
 お釈迦様の前生の話でも――何度も言ってるからちょっと端折るけど、あるよね、その――ある怪物が現われて、教えを説いて、続きを聞きたかったら自分の命を差し出さなきゃいけないっていう場面があってね。そこでお釈迦様は喜んで差し出すんだね。「あ、そんなんでいいんですか」と。「え、わたしの体差し出すだけでいいんですか?」と。「それだけでその最高の真理が聞けるんだったら、ぜひ教えて欲しい」と。で、契約をして、その怪物が教えを説いて。説いたらそのお釈迦様は、「約束どおり、わたしはもうすぐ死ななきゃいけないから」って言って、しばらくその教えの歓喜に浸ってね、「ああ……素晴らしい教えだ!」と。「ああ……!」って歓喜に浸って、で、できるだけそれにみんなが触れられるように、そこら中にその教えを書き留めて、で、約束どおり身を投げるっていう話があるんだね。つまりそれくらい、なんていうかな、教えっていうものが、身命――ちょっとこういうこと言うとあれだけども、命とは比べ物にならないと。われわれが教えに巡り合うこと、教えを手にすること、教えを学べること、教えを実践できることっていうのは、単純に生きるっていうこととは比較にならないってことだっていうことだね。
 まあ、もちろん輪廻転生観があるからね、そもそもね。だから死イコール終わりではないので。またそのような生き方をした人は、より教えと、あるいは聖なる魂や至高者と結びついたかたちで、また生まれるでしょう。だからそこら辺のその、なんていうかな、価値観のトリックに引っかからないようにしたらいいんだね。何よりも大事なものは、誠実に理想を貫くこと。いつもの言い方をするとね。その前には、ほかのものは一切重要ではない。命さえも重要ではない――というぐらいの、気持ちを日々持ったらいいね。

 はい。で、「熱心に道を求め、成就する」。まあこれはこのままですけどね。
 はい。まあだから、前半の方はだいたい教えを広めるっていうことに関してね、そしてその教え自体を、素晴らしい甘露だと思い、そして自分を癒す良薬だと思い、そして何よりも大事な、その教えを命に代えてでも求め続けると。で、実際にそれを成就、達成すると。このようなことを日々考え、生きていたならば、その人は正法を修め取る――つまりダルマというものが、自分とは違うものなんじゃなくて、ダルマそのものになるっていうかな。うん。ダルマを自分の中に――完全に一つになりますよと。浸透しますよっていうことですね。
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「THE MAN IN BLUE MAHA MANTRA」をアップしました

2018-12-28 21:18:15 | お知らせ
「THE MAN IN BLUE MAHA MANTRA」をアップしました。よかったらお聞きください^^


「THE MAN IN BLUE MAHA MANTRA」


Vocal:Keisho.Matsukawa
Harmonium:Yuri.T
Drums:T.Takahashi
Guitar:Yuta.Nakano
Violin:S.Matsuoka
Bass:H.Miura

※他のキールタンライブについてはこちらをどうぞ

※オリジナルの日本語のキールタンはこちら




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今日のアムリタチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第61話 後編「母からの最後の戒め」」

2018-12-28 19:21:32 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAMRITAチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第61話 後編「母からの最後の戒め」」です。

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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第11回(8)

2018-12-26 15:08:52 | 勉強会より抜粋



◎正法は甘露のようであると思う

 「正法は甘露のようであると思う」。ね。甘露――つまり、ここでいう甘露っていうのは、大変おいしい、あるいは大変気持ちいい、あるいは大変エクスタシーを与えるものっていうことですね。つまり、教えに対してそういうイメージを持たなきゃいけない。つまり、「教え、なんか難しいな」――じゃなくて、「ああ、教え!」と「わたしにも教えください!」と。「ああ、教えというのは本当に」――まあ、ここにいる人はだいたいそういうことを当然味わったことあると思うんだね。「本当にダルマっていうのは素晴らしい」と。本当に――方向性は人によるだろうけど、「本当にバクティの教えっていうのは素晴らしい」と。あるいは、「本当に菩薩の教えっていうのは、いつ聞いても本当に心から涙があふれる」と。ね。「それだけでわたしはいいんです」と。こういう気持ちね。これを大事にする。
 あるいは人によっては――昔、わたし、ある修行者がこういうのを聞いて――何かって言うと――わたし前から言ってるけど、今はそうでもないけど、特に昔、原始仏教とかちょっとピンとこないときがあったんだね。自分なりに研究してたんだけど、原始仏教とかちょっと、なんていうかな、ちょっとこう――自分はやっぱりバクティとか、クンダリニーヨーガとか、あるいは密教とかが好きだったから。原始仏教的な方向性ってピンとこないところがあったんだけど、でも原始仏教大好きなある修行者がいて、で、彼がなんか、本当にもう、ちょっとこう歓喜に浸ってね、経典を読んでて、「戒律っていいよなあ」みたいな(笑)。


(一同笑)


 戒律が細かく書いてあってね。「何々してはならない。何々してはならない。」「ああ! 本当にエクスタシーだ!」みたいな感じで言ってるんだね。「ああ、やっぱり人によって違うんだ」って思って(笑)。


(一同笑)


 わたしはどっちかっていうと、そのころは、なんていうか――まあ原始仏教の戒律ってすごく細かくて厳しいから、「これしてはならない、してはならない」ってなると、なんかちょっと堅苦しいなっていう感じがあって。それよりもバクティ的な、こう、解放的な方が好きだったんだけど。でもその人は、「これをしてはならない。決してこれをしてはならない」っていっぱい、グーッってあるのを読むと「はあ……!」ってなるらしいんだね(笑)。


(一同笑)


 それはだから、なんていうか、前生からのタイプによるからね。でもそれも一つのダルマの歓喜ですよね。でもそれもわたしもちょっとは分かる気がする。あの、なんていうかな、戒律――戒律だけじゃなくて、ダルマに対して縛られる喜びってあるよね。変な話なんだけど。「これやらなきゃいけないの?」みたいな(笑)。「あ、これやんなきゃいけないだな」みたいな、そういう喜びみたいなものがある。「これが教えか!」みたいなね。うん。それもあるよね。
 だからわれわれにとって、甘露のようなものなんだと。教えっていうのはね。で、それは皆さんは多分、エッセンス的にそれをつかんでると思うから、それをもっともっと大事にしたらいいね。世の中のどんな快楽よりも、教え、ダルマの快楽っていうのは、もう計り知れないと。「それにわたしは今、出合っているんだ」と。「これを逃してなるものか」っていうかな。そういう気持ちですね。



◎正法は良薬のようであると思う

 はい。そして、「良薬」。「良薬」っていうのは、これは甘露っていうのはその、どっちかっていうと、気持ちの問題ですけど、「良薬」っていうのはこれは理論的な問題として、つまり実際に、「わたしは今、病にかかっているようなもんだ」と。つまり、さっき言ったように、わたしは真我が正体なんだけども、全然なんか、わけわかんない煩悩の世界に迷い混んでると。これは完全に病気であると。で、これを実際に治してくれるのがダルマ、教えなんだと。ね。つまりよく言われるよね。グルが先生で、ダルマが薬であると。そして修行の実践が治療であると。このイメージをちゃんと待たなきゃいけない。だからまさにこの教えっていうのは、素晴らしい薬なんだと。決して、その表面だけただ学べばいいもんじゃないんだと。それを飲んで――飲むイコール教えを実践するっていうことだけど――飲んで初めて、それが自分の煩悩の病を浄化してくれ、わたしを目覚めさせてくれるんだっていうイメージをしっかり持つっていうことですね。



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12・22 SATSANGA

2018-12-26 05:58:16 | 松川先生のお話
12・22 SATSANGA
DATTATREYA JAYANTI
ANNAPURNA JAYANTI
MARGASHIRSHA PURUNIMA
BIRTHDAY OF SARADA DEVI
CHRISTMAS









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安らぎを見つけるための三部作 パート3(1)「夢」②

2018-12-26 05:16:48 | 松川先生のお話



すべては存在しないのに
苦しみか喜びのどちらかが、そこで経験されます。

過去になしてきた行為に基づいて、身体、地位、苦楽の範囲、その他が決定される。
つまり自己がなしてきた善に基づいて幸福が、悪に基づいて苦しみが経験されるのです。

さまざまな絵の具の色合いによって作られた一つの絵のように、
過去に自分自身がなしたさまざまな善悪の行為によって、現在のさまざまな苦楽の模様があります。

こうして一つの心が、輪廻という夢の中で、さまざまな姿であらわれる。
そしてそのあらわれを真実と錯覚することによって、
誤ったあらわれは、止まることなく流れつづける。

ああ! 
架空のものの集積にすぎない、この「現実」と呼ばれる世界は
まさに夢のようなものなのです。



さまざまなあらわれに満ちた、この夢のような世界。
通常の認識作用が消え、睡眠に入ったときにあらわれる夢の世界は
単なる内的情報が作り出す、偽りのあらわれにすぎません。

同様に、この現実と呼ばれる世界の経験も、すべては心が見ている偽りの夢であり
このただ一つの心の本性以外に、他の何ものも、どこにも存在しません。
すべての外界のあらわれは、勝者(ブッダ)が「誤った概念による幻影」と呼んだものなのです。



まさしく、麻薬を飲み込んだときのように
多様にあらわれるすべての現象は、幻覚に過ぎません。

われわれは、本質的な正しい認識力を失っているので
心の前にあらわれるすべての存在は、誤りなのです。

輪廻の六つの世界の生命体も
本当のことを言えば、どこにも存在していません。
この真実を、ただちに理解してください!


誤った概念により、誤った現われに対して、誤った干渉をし始めたそのときから
その誤りは、どんどん増大し続けてきました。

真実も誤りも超越した、非二元性の智慧
独存する内在的なその智慧を、確実に悟らなければなりません。

六道もなく、六道の衆生もいない
この広大な広がりの中で
何が何から解脱するのでしょうか
空の広がりのような、仏陀の心を知ってください。
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「Om namo BHAGAVATE -Everywhere I Go I Feel KRISHNA-」をアップしました

2018-12-26 04:09:39 | お知らせ
「OM NAMO BHAGAVATE -Everywhere I go I feel KRISHNA-」をアップしました。よかったらお聞きください^^


「OM NAMO BHAGAVATE ―EVERYWHERE I GO I FEEL KRISHNA―」


Vocal:Keisho.Matsukawa
Keyboard:Yuri.T
Drums:T.Takahashi
Guitar:Yuta.Nakano
Violin:S.Matsuoka
Bass:H.Miura

※他のキールタンライブについてはこちらをどうぞ

※オリジナルの日本語のキールタンはこちら




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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ エピソードⅠ 第6話」

2018-12-26 03:48:26 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAMRITAチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ エピソードⅠ 第6話」です。

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「経験」③

2018-12-25 21:01:14 | 安らぎを見つけるための三部作・2「瞑想」


◎第二のプロセス――輝き

 第二に、『輝き』との遭遇があります。

 まずあなたは、自分の心臓のチャクラから生じた光が、外に向かって拡がり、全宇宙を包み込む様子をイメージしなければなりません。
 全世界がその純粋な光の中へと溶解し、次に呼吸とともにそれらがあなたの鼻を通してあなたの中へと引き込まれ、左右の気道を経て中央の気道へと至ると観想します。
 その純粋な光が心臓の真ん中にとどまり、それがどんどん凝縮されていき、小さな光の球になります。 
 その光を更に小さく更に精妙にしていくと、
 突然、心の中に、輝きと透明さと解放性が生起します。
 心のその透明な輝きは、心に関するどんな概念的な制限も受けません。

 これはその輝きと解放性において本質的に純粋な認識であり、
 その完全性において心の本性の経験です。

 あなたは、あなたの中に現われ出たこの悟りの光を、どこへも分散させずに、あなたの心の中へ溶解させなければなりません。
 そうすれば、心はその輝きと透明さの中で安定します。
 この光の境地を出来るだけ長く保った後で、息を吐きます。
 そして息を吐くときは、呼吸とともに不浄物が両鼻腔から出ていくと観想するならば、病魔と魔による妨害は霧散します。
 息を吸うことと吐くことは、ゆっくりと行なうことが重要です。


 あなたが暫くの間、これらを昼となく夜となく練習することによって、
 睡眠時の夢は止み、代わりに睡眠時に光の経験をするようになります。
 するとあなたは、自分の内側も外側も、まるで輝く月やランプ、蛍や星の光などのような五色の光につつみ込まれているのを見るでしょう。
 心がしっかりとこの輝きの領域に落ち着くとき、内面の寂静が生じます。


 あなたがこの状態に慣れ親しむならば、次の四つの経験をするでしょう。

①心で認識するものは何であれ、きらきらとして開け放たれた光輝として感じられます。

②昼も夜も、あなたはこの輝きの領域に留まります。

③心のその輝きと透明さは、潜在意識の概念によって動揺することはありません。

④概念的思考の干渉なしに拡がり続ける純粋な識別智が生まれます。


 さらにこの状態に慣れ親しむと、
 より高度な経験である、この世のヴェールの背後にあるものをはっきりと見る力が生じるでしょう。
 これは、静寂であり深遠なる導きの本質です。
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