ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

「すべてのすべて」

2018-11-30 19:40:07 | 解説・バガヴァッド・ギーター



◎すべてのすべて

【本文】
 だが、聖なる性質を有する偉大なる魂は、わたしを万物の起源にして不滅の存在と知り、
 不動の信念をもってわたしを礼拝する。

 この人たちは、常にわたしを賛嘆し、不動の志を持って精進し、
 わたしの前に恭しく身をかがめ、常に信愛の念をもって礼拝する。

 自分の得た叡智をわたしに供養する人々も、わたしを全一なる至高者としてあがめ、
 唯一の存在でありながらも種々の相をとり、宇宙に偏在する主なりとして礼拝する。

 わたしはヴェーダ祭式であり、供養であり、薬草であり、
 かつマントラであり、ミルクであり、供物でもある。

 わたしはこの宇宙の父であり、母であり、万有を支える太祖でもある。
 またわたしは人の知るべき究極の存在であり、万物を浄化するものであり、もろもろの聖典でもある。

 わたしはすべての最終目的であり、保護者であり、主であり、目撃者である。またすべての住処、避難所、友人でもある。
 さらにわたしはすべての起源であり、消滅であり、基礎であり、宝庫であり、そして不滅の種子でもある。

 わたしは熱を与え、雨を止め、雨を降らせる。
 わたしは不死であり、また死でもある。さらに目に見える存在であり、かつ目に見えない存在でもある。




 はい。まあ、結局、全部だよと(笑)。いろんな形で言っているわけだけど(笑)。
 そして聖なる性質を持つ偉大な魂は、不動の信念を持って礼拝し、そして自分の得た叡智を供養するんだと。
 結局、修行としては、やっぱりバクティ・ヨーガにおいては、供養の修行って一番いいね。
 供養の修行っていうのは、あらゆるものを供養する。それは自分の執着の対象も、清らかなものもけがれたものも、すべては供養だと。この基本概念というか、基本的な態度ができてたらいいね。
 供養っていうのはもちろん、最初の段階ではイメージでいいんだけども。
 例えば自分の食事もそうだけども、あるいはいろんな楽しみ、あるいはいろんな景色もそうだけど――自分が経験するあらゆるものは、供養なんだと。すべては供養だと。
 あるいは修行自体も供養だと。そして修行によって得た何か悟りがあったとして、それも、「おれは悟った。すごい」――じゃなくて、これもまた供物として捧げると。
 もうすべてが供養だと。あるいは何か自分が執着してたりしたら、それは供養だと。あるいは、例えば誰かに対して怒っちゃったと。ああ、これも供養すると(笑)。ね。
 全部供養するんだっていう考えあるんだね。
 これはバクティ・ヨーガの一つの基礎だね。
 だから完全な最終の悟りを得たら、供養さえも必要なくなるんだけど。一体化するから。その前っていうのは、われわれは徹底的に自分の人生、あるいは自分のすべての行為を供物として考える。だから捧げているんだって考えながら、あらゆる行為を行なうんだね。
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ゴーヴィンダ・ムケルジーの家において(1)

2018-11-30 19:13:57 | 松川先生のお話



ラーマクリシュナの福音


「ゴーヴィンダ・ムケルジーの家において」


1883年2月18日(日)


 シュリー・ラーマクリシュナは、カルカッタに近いベルガリヤのゴーヴィンダ・ムケルジーの家にお着きになった。今日は日曜日で、ファルグン月七日。キリスト歴1883年2月18日。マーグ白分12日目。ナレンドラ、ラームをはじめ信者たちも来ていたし、近所の家の隣人たち何人かも来ていた。7、8時ごろ、最初にタクルは、ナレンドラたちと一緒にキールタンに合わせて歌って踊られた。キールタンが終わると一同は座った。大勢が師に敬礼をした。ときおり彼はおっしゃった。『神の前に頭を下げよ。』
 それから、
『あのお方がこれら一切のものになっていらっしゃる。だけど、ある場所には特別によくあらわれておられる。たとえば聖者のところみたいにね。悪人もいるし、虎やライオンだっているじゃないか、とお前たちは言うかもしれん。そりゃ、虎神様を抱きしめる必要は全くないんでね。遠くの方から挨拶をして通り過ぎればいいんだよ。水を見てごらん。飲める水、祭事に使うことができる水、沐浴に使う水、いろいろある。皿洗いだけにしか使われない水もある。』

近所の人「その通りでございます。ときに、ヴェーダーンタの教義はどういうものでしょうか?」

シュリー・ラーマクリシュナ「ヴェーダーンタは、『私は彼なり』――ブラフマンが実在であって、世界は幻なのだ、と言う。この『私』さえも幻、思い違いなのだ。ただ至高のブラフマンだけがある、と言う。
 けれどもね、”私”というものはどうしてもなくならないよ。だから、『私は神の召使い』、『私はあのお方の子供』、『私はあのお方の信者』、こう思っているのがたいそういいことなんだ。
 今のようなこういう時代には、バクティヨーガが一番いいのだ。バクティを通じてあのお方に触れることができる。肉体の自覚があるからこそ、この世の知恵(相対意識)だ。形、味、におい、手触り、音など。これは皆、対象物だ。この知覚をなくすることは、とてつもなく難しいからね。この世間知がある限り、”われは彼(ブラフマン)なり(ソーハム)”じゃないし、そんなふうに言ってはいけない。
 本物の世捨て人なら、ごくわずかしか世間知はない。しかし世間の人は常にそれらの中に巻き込まれている。それだから大方、普通の人間は、”私は神様の召使い”と感じるのがいいんだよ。」

近所の人「師よ、私たちは罪びとでござます。どうなるのでしょうか。」

シュリー・ラーマクリシュナ「あのお方の御名を称えて彼の栄光を歌えば、体についたすべての罪は、飛んで行ってしまうよ。身体の木に罪という小鳥がとまっているのだ。称名とキールタンは手を拍つようなものだ。手を叩けば木の上の鳥が皆飛び立つように、そっくりそれと同じこと、あらゆる罪は、あのお方の御名を称えてほめたたえることで消えてしまう。
 また、牧場にあるため池が、太陽の熱で自然に蒸発していくだろう。同様に、罪のため池の水も、神の御名とキールタンで干上がってしまう。
 毎日、アヴィヤーサ(訓練)をおこなわなければいけない。このあいだ、サーカスを見たが、ひとりのイギリス人の女が片足で一頭の馬の上に立っていた。あれまでになるには、どんなに練習したことか。
 それから、あのお方に会いたいと思ったら、少なくとも一回はそのために心の底から泣くこと。
 これらが二つの方法だ――訓練と、そして情熱(毎日たゆまず実行すること)、つまり、『彼』に会いたくて居ても立っても居られない魂の不安だ。」


【ベルガリヤ村の人がチャクラの歌を歌い、シュリー・ラーマクリシュナ、サマーディに入る】

 シュリー・ラーマクリシュナは、二階の部屋のベランダで、信者たちと共に昼食をとられた。時間は一時ごろである。皆の食事が終わるか終わらないうちに、一信者が下の中庭で歌い始めた。

 お目覚めなさい お目覚めなさい マーよ!
 なんと長い間、眠ってこられたこと

 タクルは、この歌を聞かれてサマーディに入られた。身体は全く静止し、手は食物の皿に触れたまま、絵の中の人物のようになられた。もちろん、もう召し上がることはなさらない。長いこと経って、やや平常に降りてきて、こうおっしゃった。「下に行く、下に行く。」
 一人の信者が、非常に用心しながら彼を階下に導いた。
 中庭では、皆が神の御名を称えて、キールタンを歌いながら踊っていた。座るための敷物も広げてあった。タクルはまだ半サマーディの状態で、歌手のそばに行かれてお座りになった。歌い手は、今しがた歌い終わったところである。タクルは非常に厳かな口調で彼に、「母の御名をもう一度聞きたいのですが」とおっしゃった。
 歌い手は歌った。

 お目覚めなさい お目覚めなさい マーよ!
 なんと長い間、眠ってこられたこと

 サハスラーラまで昇るのが あなたのつとめ
 主シヴァのもと 千枚花弁の蓮華まで

 六つの階段を速やかに通り
 悲苦をすべて除き去り
 かの霊妙壮麗なる至上の意識に――
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第59話 後編「"忠義"」」

2018-11-30 18:46:33 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAMRITAチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第59話 後編「"忠義"」」です。
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ハヌマーン・チャリサ(HanumanChalisa) & あなたの愛に

2018-11-30 08:46:23 | 松川先生のお話
ハヌマーン・チャリサ(HanumanChalisa) & あなたの愛に
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SITARAM2016 VAVAHA PANCHAMI

2018-11-30 08:31:58 | 松川先生のお話
SITARAM2016 VAVAHA PANCHAMI
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強くあれ

2018-11-29 20:23:58 | 経典の言葉・聖者の言葉




 まず最初に、若者たちは強くなければならない。
 宗教はその後からついてくる。
 強くあれ、若き友たちよ。これは君たちへのアドバイスである。
 君たちはギーターの学習よりもサッカーを通じての方が天に近づけるだろう。
 これは大胆な言葉である。しかし私はこの言葉を伝えなければならない。私は君たちが好きなのだ。
 私はどこに問題があるかわかっている。
 私はわずかばかりの経験を得たのだ。
 君たちは二の腕の筋肉をもう少し鍛えた方が、ギーターをより良く理解できるだろう。
 君たちは内に力強い血を流せば、クリシュナの並外れた天性や強大な強さをより良く理解するだろう。
 肉体が両足でしっかりで立つようになり、君が「自分は男である」と理解するならば、君はより良くウパニシャッドを理解できるようになり、真我の栄光を理解できるようになるだろう。



 ――ヴィヴェーカーナンダ
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今日のAMRITAチャンネル「勉強会講話より「ヴィヴェーカーナンダがアメリカの少数の弟子たちに対して説いた教え」20181128」

2018-11-29 17:33:17 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAMRITAチャンネルは、「勉強会講話より「ヴィヴェーカーナンダがアメリカの少数の弟子たちに対して説いた教え」20181128」です。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第11回(3)

2018-11-29 09:29:40 | 勉強会より抜粋


◎自分の安楽にとらわれない大慈悲心

 はい。で、二番目が、「また別の法もある。それは、自分の安楽にとらわれない大慈悲心である」――はい。これも簡単な言葉ですけどね。「安楽にとらわれない」――ここでいう安楽っていうのは、もちろん現世的な安楽もそうだけど、修行の安楽ってありますよね。つまり、ある程度修行を進めると、当然自分の心は安らかになり、そして、まあ修行によってはね、体も安らかになり、そして、なんていうかな、カルマも浄化されてくるから幸せになってくると。しかしもちろん菩薩っていうのは、自分のために修行してるんじゃないんだと。ね。自分がある程度心が安定していたとしても、何度も言うように、自分と縁のある多くの衆生が苦しんでるとしたら、それはもう菩薩にとっては苦しみ以外の何ものでもないと。それを考えることですね。これがまあ二番目のことですね。
 それからこの「安楽にとらわれない」っていうのは、これはとてもやっぱりその、重要なことだと思うね。ここで安楽とか安らぎっていうのは、まあいろんな意味があると考えてください。うん。いろんな意味があるけど、まあ一言で言うと、「安楽にとらわれない」と。つまり、菩薩が安楽を求めたら終わりです。ちょっと厳しい言い方ですけどね。菩薩が安楽を求めたら終わりである。
 わたしはよく、昔そういうことを考えたことがある。まあわたしも、もともとどっちかっていうと、安楽っていうかな……が好きな方だから。安楽って、いろんな意味の安楽ね。人生における安らぎとか、あるいは一時的ないろんな心の安定っていうかな。うん。でもそんなものを菩薩が求めだしたら、それはもう菩薩ではないと。ね。自分の心と戦い、あるいは衆生のために、自分だけではなく、周りのカルマを破壊するために戦うと。そこで多くの苦悩や、多くの心の、まあ、なんていうかな、乱れが生じるだろうと。それで当たり前なんだと。修行者っていうのはね。決して中途半端な安楽なんて――完全な安楽はいいですよ、もちろん。完全な仏陀の境地の安楽っていうのは最終的に求めなきゃいけないんだけど、中途半端な、ちょっと心が安定したとかね、ちょっとカルマが良くなって、いい状態になった――そんなのにとらわれてちゃ駄目なんだね。もっともっと、ね、進みたいと。もっともっと衆生に恩恵を与えたいと。そのために――まあだから、修行ってそういう意味では、自分の安楽を作っては壊し、作っては壊しの繰り返しだね。作っては壊すことによって、もちろん次の、さらに大きな安楽を得るわけだよね。そしたらそれも――壊すってわざと壊すわけじゃないんだけど、その安楽にとらわれないってことだね。とらわれずに自分の修行を進める。あるいは、衆生のために生きることをすると。そうするとそれによって壊れるかもしれない。でもその次に現われるのは、またより大きな安楽です。
 これはまあこの中でまだちょっとピンと来ない人もいるかもしれないけども、まあそういうもんだと思ってください。
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BABA HANUMAN ババ ハヌマーン

2018-11-28 22:49:02 | 松川先生のお話
BABA HANUMAN ババ ハヌマーン
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パトゥル・リンポチェの生涯と教え(47)

2018-11-28 18:51:25 | 聖者の生涯

◎パトゥル、森の中で教えを与える


 人里離れたアリの森で、パトゥルは三年以上の年月をかけて、ニョシュル・ルントク、そしてミンヤク・クンサン・ソナムなどの幸運な弟子たちに、ロンチェンパの「安らぎを見つけるための三部作」についての多岐にわたる教えを与えた。まずは、パートⅠ「心」から教えを説き始めた。
 まずパトゥルは、読誦による伝授と口頭による解説を与えた。次に、実際の瞑想方法の指示を与えた。それから、今しがた学んだ瞑想を実践させるために、弟子たちを送り出した。
 パトゥルは、それぞれの修行に完全に精通するようにと、弟子たちに要求した。
 弟子たちが瞑想を終えると、パトゥルは弟子一人一人と会って、瞑想中に起こった個々の経験を聞き、それぞれの弟子に個人的な助言を与えた。


 三年以上の年月をかけて、パトゥルは教えを与えた。最初の年、教えの伝授は夏に始まり、準備修行の解説から行なわれた。天候は温暖で、地元の遊牧民たちが修行者たちのために食糧の布施をしてくれていたので、食糧はたくさんあった。
 時が経つにつれ、天候は悪くなり、食糧は少なくなっていった。
 スルカルという名の白ツツジの根で、彼らはお茶を淹れた。パトゥルはそれを三身茶(三つのカーヤのお茶)と呼んだ。一つのお茶に三身(ニルマーナカーヤ【変化身】、サンボーガカーヤ【報身】、ダルマカーヤ【法身】)が含まれており、それぞれが、変化身茶、報身茶、法身茶というわけである。
 朝のニルマーナカーヤ茶は、濃く出て、色も香りも味も強い。昼のサンボーガカーヤ茶は、朝食のときに淹れたお茶に水を足してつくる。晩のダルマカーヤ茶は、昼の薄くなったお茶の残りからつくるのである。実際、そのお茶は、普通のお湯とほとんど変わらなかった。無色、無味、無臭だったのである。

 パトゥルはおどけてこう言った。

「ダルマカーヤとは、本質的な実体を持たない絶対なる本性――これこそダルマカーヤ茶だ。このお茶には、まさにほとんど何の実体もない!」


 師と弟子たちは、何周間もの間を、何の固形物も食べずに、三身茶だけで過ごした。そして冬が終わるまでには、食糧は非常に少なくなってしまった。
 そのときは、彼らは朝食に少量のツァンパとお茶、そして昼食には少量のツァンパの練り粉だけで生活した。
 そして最後には、それも尽きた。
 一、二度、彼らは冬の間に餓死した野生動物の死体を見つけた。あるときは、遊牧民が捨てた畜牛の死体を見つけた。そのような動物の死体は、一般的には食べるには臭すぎる。だが彼らはそれらでスープを作り、食べたのだった。


 教えがすべて説き終わる頃に、恐ろしい赤痢という伝染病が谷で流行り出した。そのときパトゥルは、弟子を散らばらせて、さらに森の奥へと入り、独居修行をして暮らすように指示した。


 伝染病から避難してきた人々が、森に流れてきはじめた。パトゥルは彼らに教えを説き、ここにとどまってダルマを実践するようにと促した。最終的にパトゥルは、弟子のパルチェン・ドルジェに命じて、それぞれの隠遁場所に散らばっていた弟子たちを呼び戻させた。


 戻ってきたとき、彼らの体はガリガリになっていた。法衣と経典以外、彼らは何も持っていなかったのである。彼らの振舞いは穏やかで、落ち着いていた。彼らは長い外套を着ており、僧の杖と托鉢用のお椀を持ち歩いていた。パトゥルは嬉しそうに、焚いたお香を振りながら彼らを出迎え、こう言った。

「なんてこったい! お前たちはまるで、古のインドのビクシュ(乞食修行者)ではないか!」




 月歴の五月の頃になると、高原地帯の草原に草が生い茂り、緑色に変わった。地元の遊牧民たちは、また食糧をたくさん手に入れ、再び定期的に布施ができるようになった。ある者は巨大な『ツ』――ドリのバター、チーズ、糖蜜を輪っかの形に固めて作るおいしいケーキ菓子――を作って、パトゥルに供養した。
 パトゥルは、ツの供物は弟子たちで分けるように指示をした。その日は、皆がたくさんの食事の供養を受け、火を起こす必要さえなかった。
 後にルントクはこのように批評した。

「最近の修行者は、精進が足りない。修行環境は良いのだが、それを生かすことができていないのだ。もったいない! 私の時代には、われわれは常に苦難と対峙していたのに、それでも全員が修行を一生懸命行なっていた。今は修行環境が良いのだから、できるだけ多く修行を行ないなさい。」


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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第11回(2)

2018-11-28 14:55:45 | 勉強会より抜粋


◎菩提心を忘れることなく、怠惰でなくあること

 はい。で、まあその上で見ていきますが、そのような菩薩が「大乗を修め取る法は、菩提心を忘れることなく、怠惰でなくあることである」と。これはもう書いてあるとおりですね。まず菩提心を忘れない。菩提心の定義はいつも言うように……じゃあY君、菩提心の定義は?


(Y)不撓不屈の心。


 ん? 不撓不屈の心。それは最後の補助的な言葉だね。


(Y)どんな人も見放さないっていうこと。


 まあ、っていうかね、そうなんだけど、菩提心の定義は「自分がみんなのために仏陀になる」――この決意なんだね。で、そこにおいて不撓不屈なんです。つまりその、みんなを救うっていうことが、机上の空論ではなく、あるいはただのムードではなく、本当に救うと。ね。本当に救うとしたら、おれが仏陀になるしか方法はないと。あるいは仏陀までまだいけなくても、できるだけ修行進めるしか方法はないと。で、当然仏陀への道っていうのはなかなか厳しいと。険しいと。しかし、「みんなのためだったら、絶対おれは仏陀になるんだ!」っていう不撓不屈の心だね。これが菩提心ね。
 で、これを「忘れることなく、怠惰でなくあることである」と。怠惰でなくっていうのは、さっきの話ともつながるけども――まあ簡単に言いますよ。つまり「みんなを救いたい」と。そのためには、特に自分と縁のある者を救うには、わたしの覚醒が必要であると。ね。特にできれば――できればっていうか、最終的にわたしは早く仏陀にならなきゃいけない。仏陀になることで、やっと本当の意味で縁ある衆生を引き上げることができると。しかし、チンタラやってたらいつ仏陀になれるか分からない。よって死に物狂いで、もう全精力を傾けて、あらゆるエネルギー、意識をそこに振り向けて「仏陀になるぞ!」と。
 で、この意識を例えば一回でも持った人は、もう完全に菩薩なんです。しかし多くの人はそれをすぐ忘れてしまうわけだね。だからそれを忘れないっていうこと。決して忘れない。寝ても起きてもそのことを考える。パッと起きて、朝起きたら、「お! おはようございます」と(笑)。ね。「あれ? おれまだ仏陀じゃないじゃん!」と(笑)。「え? まだ仏陀になってないの?」と。「じゃあ、おれの縁のある人たちどうするの?」と。ね。「おれが怠けてるおかげで、例えば、ね、本来ならばあと十回くらい生まれ変わって救われたはずの吉田君が、あと百回生まれ変わらなきゃいけないかもしれない」と。「これはちょっとかわいそう過ぎる」と。「あと十回くらいで終わらせてやりたい」と。「あるいはできるならば今生で終わらせれば最高だ」と。「そのためにはそのすべては自分にかかってる」と。ね。
 皆さんはさ、そうだな、目に見えるものに対しては――もちろんここにいる人たちっていうのは心優しいだろうから――いろんな慈悲を持ちやすいですよね。この間の地震もそうだけども、あるいはいろんな病気の人とか、いろいろあるだろうけど。ただ皆さんが、本気で心から仏教やヨーガの真理を信じたとしたら、みんな悲惨な人ばっかりですよ、周り。全員悲惨ですよ。だってこれから果てしない輪廻を繰り返さなきゃいけないんだよ。しかもなんの、なんていうか、ダルマもなくですよ。これ悲惨でしょ? 自分に当てはめたらどう思います? ダルマのない人生を――しかも今生人間だから良かったけど、動物とか地獄とかも含めてね、いろんなそういう世界を、なんていうかな、こう、いつ終わるとも知れず、死んで生まれ変わりを繰り返さなきゃいけないんだよ。これはちょっとかわいそう過ぎると。本当にもうなんとかしてあげなきゃいけないと。
 で、ここでポイントは、なんとかできるんです。なんとかできないことっていっぱいあるよね。例えばテレビとかで悲惨ないろんな事故とか観てて、でも自分はちょっとなんとかできないと。でも皆さんと縁のある人を輪廻から救うことは、なんとかできるんです。皆さん自身が頑張れば。皆さん自身がステージアップして、仏陀に少しでも近付けば、その彼らの輪廻も短縮されるわけだね。で、それを忘れない。「わたしの修行っていうのは自分だけのものじゃないんだ」と。「縁のある者たちのものなんだ」と。「だから一刻も早く、一分一秒を惜しんで、仏陀への道を歩まなきゃいけないんだ」と。そうするともう、怠惰になってる暇はないんだね(笑)。時間がない。これを、こういう生き方、こういう考え方を日々することによって、まず第一に大乗を修め取れますよと。つまり、菩薩道というものが、自分の中にしっかり根付きますよっていうのが、この一番目の教えですね。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ エピソードⅠ 第2話」

2018-11-27 21:18:37 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAMRITAチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ エピソードⅠ 第2話」です。
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バクティヨーガの歌 【改訂版】

2018-11-27 21:08:42 | 松川先生のお話
バクティヨーガの歌 【改訂版】
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今日のAMRITAチャンネル「キールタン・イメージビデオ」

2018-11-26 19:30:32 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAMRITAチャンネルは、「キールタン・イメージビデオ」です。


曲目


1.DIVINE GURU -OM SHRI SHAKTI DURGA-
2.MOUNTAIN HARE Krishna
3.月光
4.SHRI KRISHNA GOVINDA HARE MURARI
5.Maitri
6.JAY JAY MA DURGA
7.入菩提行論の歌PART1 THE SONG OF BODHICARYAVATARA
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スムーズに動く体・心・頭

2018-11-26 16:18:33 | 松川先生のお話

 昨日の勉強会でも話した内容だが、覚書として書いておく。

 最近、おそらく様々な条件が重なって体調が悪い日が続き、またエネルギー的にも体力的にも少し弱っていた。もうすぐ仙台勉強会なのに大丈夫かと思っていたが、勉強会当日である昨日の朝、いきなり劇的にエネルギーが回復し、良い状態になった。

 この「良い状態」というのは、いってみれば生命力が強まり、かつ気道が通り、体中を歓喜に満ちた生命力が縦横無尽にスムーズに動いている状態である。

 さて、このような状態についてはわたしも何度も話したり書いたりしているが、この同じ言葉で表わされる状態にも、実際は様々なパターンがある。パターンといってもそれらが同時に発生するのも可能であり、それらすべてのパターンが同時発生すればとても素晴らしいが、一つだけ起動していても素晴らしい。

 この状態は、身体においても、心においても、頭にもおいても「スムーズ」な状態である。

 身体においてスムーズというのは、体を少し動かすだけで指先まで歓喜のエネルギーがスムーズに走る。何の詰まりもなく、身体というよりもその本質であるエネルギーの流れが融通無碍、自由自在に動いて体を動かしているような状態だ。
 歓喜のエネルギーといっても、圧倒されるような歓喜ではない。圧倒されるような歓喜が生じたときは、気絶しそうになるほどエクスタシーに包まれ、制御不能になる。しかしそうではなく、その強烈なエネルギーが制御され、練られ、スムーズに運用されている状態である。
 もしアスリートや武術家がこの状態を得るならば、素晴らしい達人になれるのではないかと思う。

 ちなみに、このスムーズに身体全体を駆け巡っている歓喜のエネルギーが増大し、飽和状態になったとき、サマーディという究極の瞑想状態に入る。これはクンダリニーヨーガによるサマーディの入り方である。

 ところで、何度か書いているが、単に気道を通したりエネルギーを充実させたりするだけなら、仏教・ヨーガ・仙道等の修行に励めばある程度達成できる可能性はあるが、そこにこのような強烈で純粋な歓喜を加えるには、徳を積むこと、慈悲の行、そしてバクティヨーガなどが不可欠だ。特に最も重要性が高いのはバクティヨーガである。

 心においてスムーズというのは――もちろんこれには実際には心の修行も不可欠だが、エネルギー的に気が通ってくるだけでも、それと連動してある程度の心のスムーズさが起きる。これはつまり、心の様々な引っかかりやとらわれがなくなり、自由な心の状態になるということだ。

 頭においてスムーズというのは、何かを考えるときの様々なこだわりやとらわれがなくなり、非常にクリアな状態で、自由な発想、深い思索ができるということだ。

 正しくヨーガや仏教(密教)の修行に励むと、悟りまで行かなくても、これらの状態があらわれてくるはずだ。この状態が完璧でなくても、その何分の一課を得ただけでも――つまり身体・心・頭が今より少しでもスムーズに動くようになっただけでも、かなり幸せであり、また人生における自由度が増すだろう。
 よってぜひバクティヨーガとともに様々なヨーガ修行に励むことによって、多くの人にこの状態を獲得してほしいと思います。


 ところで、結局このようにしてつじつま合わせのように、仙台勉強会の当日の朝にエネルギー状態は非常によくなったわけだが、新幹線で仙台に到着し、仙台駅でトイレに入ろうとしたとき、会話しながら歩いてくる三人組のおじさんとすれ違った。そしてそのおじさんの一人がわたしとすれ違いざま、「ただの道具だ」と言った(笑)。

 彼らがどういう話の文脈で「ただの道具だ」と言ったのかわからないが(笑)……何らかの職人風の人たちだったので、仕事の道具についての話だったのかもしれないが、「神のただの道具になる」というのはバクティヨーガにおける重要なキーワードの一つなので、示唆としてありがたくいただいた。神のただの道具になりきることによって、今回のように、必要なときには必要なコンディションが自然に与えられるのだろう。


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