ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

ライトエッセイ か・・・カンダ・アーサナ

2018-09-30 21:22:09 | 松川先生のお話

 座った姿勢から両足先をへその方に引き上げて、足の甲と甲を合わせるアーサナ。
 アーサナの中でも難易度の高いものだと思うが、わたしはもともと膝や足首が柔らかかったのか、特に練習しないでもできた。

 しかしこれは一般的にはなかなか難しく、また誰もが習得しなければいけないというものではないので、積極的にヨーガ教室などで教えることはない。
 ただ、以前に一般向けのヨーガ講習会などをよく行なっていたときには、アーサナの説明の中の「つかみ」としてよく行なっていた(笑)。「お~すごい!」と注目させておいて、それに関連するもう少し深い話に持っていくわけですね(笑)

 そしてこれと一緒によく実演していたのが「ムーラバンダ・アーサナ」。これはカンダ・アーサナとは逆に、がっせき(両足の裏を合わせた状態)からかかとをへそのほうに持っていき、つま先立ち(膝も床についている)になり、さらにそこからつま先を後方に回転させて、かかとを前、つま先を後ろに向けた状態でその上に座る。
 これは写真を撮っていなかったのが残念だが、これもわたしは得意だった。そしてこれはカンダ・アーサナに比べても非常に簡単に感じたので、誰でもできるものだと思っていた(笑)。一見難しく、すごいことをやっているように見えるけど、実はこれはけっこう簡単なんですよ、と言ってみんなの注目を集め、そこから深い話に持っていっていた。

 ところで最近、ヨーガ教室で、積極的には教えていなくても、カンダ・アーサナができる人が何人か出てきた。しかしカンダ・アーサナはできる彼らも、ムーラバンダ・アーサナはなかなか難しいと言う。そこで初めて、「え、ムーラバンダ・アーサナのほうが難しかったのか!」と気づいたのだった(笑)。


 ムーラバンダ・アーサナは、性エネルギーのコントロールに効果があるという。
 またカンダ・アーサナは性エネルギーの強化とコントロール、消化力の強化、そして肝臓と脾臓の病気に効果があるという。

 しかしそれらの目的は他のアーサナや呼吸法その他の修行でも補えるので、必ずしも労力をかけてこれらのアーサナを練習する必要はないと思う。

 また、習得したいと思って練習する場合も、もともと膝や足首が極度に柔軟な人以外は、気を付けて慎重に行なった方がいいだろう。アーサナの写真集などで有名なN氏も、撮影のために寒い気候の中でカンダ・アーサナをやろうとしたら、足を骨折してしまったそうだ。

 ところで、フェイスブックなどで欧米のヨーガ関係者などが、よく中国雑技団のような「びっくりアーサナ」の写真をアップしているが、あれはどうかと思う(笑)。たしかに「すごい」とは思うけど、「ああなりたい」とは思わないんじゃないかな(笑)。あそこまでいくとちょっと気持ち悪くて引いてしまう、という写真もよくある。ヨーガのアーサナは体を極度に柔軟にすることが目的ではないし、びっくりアーサナショーが目的でもない(笑)。
 
 まあわたしも上記のようにいくつかのアーサナを「びっくりアーサナ」として話のとっかかりに使ったりはしていたけれど(笑)。でもそこばかりを追究する方向には向かってほしくないですね。
 インドでも一時期「びっくりアーサナ」を見世物とする似非ハタヨーギーたちが横行し、彼らは真に道を求める人々からは敬遠されていたようですね。
 「ラーマクリシュナの福音」の中でも、ハタヨーガが色物として見られていたらしい記述が出てくる。しかし本来のハタヨーガは色物ではなく、もともとクンダリニーヨーガと同義と言ってもいいが、密教的に生命エネルギーの覚醒と上昇を最大限に利用して解脱を目指す崇高な道である。ラーマクリシュナの教えにも、このクンダリニーヨーガ的な、エネルギーがチャクラを貫いて上昇し、サマーディ、あるいは神との合一に向かうプロセスの話がよく出てくる。これはクンダリニーヨーガであり、また本来のハタヨーガが目指しているところだ。しかしラーマクリシュナは「あのように体とか健康とかばかりに目を向けていると、神に到達できない」などと言って、ハタヨーガを否定しているのだ。しかしラーマクリシュナが説いている教え自体には、上述のようにハタヨーガの真髄的な教えがよく出てくるのだ(笑)。
 これはどういうことか? それはつまりその当時「ハタヨーガ」として認識されていたもの(巷のハタヨーギーたちがよくやっていたもの)と、本来のハタヨーガの真髄とに、かなり乖離があったということだろう。


 ところでまた全く話は飛びますが、今年の一月、わたしは中指の腱を左右から支えている筋の一つを切ってしまいました。
 きっかけは、お風呂に入っているときに、指についた粉か何かをとろうとして、指を弾くような、いわゆるデコピンのような(笑)動作をしたのですが、その瞬間、指が変な方向を向いてしまい、とっさにもとに戻したのですが、結局筋が切れてしまったみたいで、こぶしを握ると腱が脱臼するようになってしまいました。
 ネットで見ると、脱臼しても問題なければそのままにしていてもいい場合もあるようですが、わたしの場合はこぶしを握るとひどい痛みが走り、またこぶしがうまく握れずに日常生活に支障をきたす感じだったので、病院に行きました。
 わたしはめったなことでは病院に行かないので、前回歯医者に行って以来、15年ぶりの病院訪問となり、少し緊張しました(笑)。
 お医者さんに状況を伝え患部を見てもらうと、「何か殴りましたか?」と聞かれたので「いいえ」と答えると、「じゃあこれですか?」と言ってデコピンの動作をしてきました(笑)。実際、この動作で筋を切ってしまう人は意外に多いんだそうです。皆さんも気を付けてください(笑)。また、関節が柔らかい人の方がかえってこういう怪我にあいやすいとも聞きました。
 さて、診察の結果、とりあえず保存療法で患部を固定し、うまくいけば6週間でくっつくが、くっつかなかったら手術と言われ、患部をギプスで固定されました。
 病院では一週間後にまた来てくださいと言われましたが、病院が苦手なので(笑)、行ってもギプスと包帯を交換され、痛み止めと胃薬をもらうだけだろうと思い、それ以降は病院には行かずに、市販の指を固定する器具などを改造したりして、6週間固定してみることにしました。
 そして結論としては無事完治しました。実際には固定してから正確に6週間経つ数日前に、なんとなく「治った」という感覚があり、実際に固定を外してこぶしを握ってみると、ちゃんとくっついていました。人体はすごいですね(笑)。

 さて、実はこの件は書く機会がなくて今まで書いていなかったんですが、実は書きたかったんです(笑)。なぜかと言うと、実は最初、この症状について調べたときに、保存療法をとっている最中の人や、手術をした人の体験談は出てきたんですが、保存療法によって無事完治しましたという体験談は見つからなかったんです。
 だから同じ症状で保存療法を選んだけれど「ほんとに治るんだろうか?」と不安を持っている人は多いんじゃないかと思い、そういう人たちのために、治った実例としてこの話を書きたかったんです(笑)。そういう人たちが検索でこの記事を見つけ、安心しますように。そしてできればこれをきっかけにヨーガや修行にも興味を持ちますように(笑)。






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ゴーヴィンダ・ムケルジーの家において(1)

2018-09-30 17:05:25 | 経典の言葉・聖者の言葉
ラーマクリシュナの福音


「ゴーヴィンダ・ムケルジーの家において」


1883年2月18日(日)


 シュリー・ラーマクリシュナは、カルカッタに近いベルガリヤのゴーヴィンダ・ムケルジーの家にお着きになった。今日は日曜日で、ファルグン月七日。キリスト歴1883年2月18日。マーグ白分12日目。ナレンドラ、ラームをはじめ信者たちも来ていたし、近所の家の隣人たち何人かも来ていた。7、8時ごろ、最初にタクルは、ナレンドラたちと一緒にキールタンに合わせて歌って踊られた。キールタンが終わると一同は座った。大勢が師に敬礼をした。ときおり彼はおっしゃった。『神の前に頭を下げよ。』
 それから、
『あのお方がこれら一切のものになっていらっしゃる。だけど、ある場所には特別によくあらわれておられる。たとえば聖者のところみたいにね。悪人もいるし、虎やライオンだっているじゃないか、とお前たちは言うかもしれん。そりゃ、虎神様を抱きしめる必要は全くないんでね。遠くの方から挨拶をして通り過ぎればいいんだよ。水を見てごらん。飲める水、祭事に使うことができる水、沐浴に使う水、いろいろある。皿洗いだけにしか使われない水もある。』

近所の人「その通りでございます。ときに、ヴェーダーンタの教義はどういうものでしょうか?」

シュリー・ラーマクリシュナ「ヴェーダーンタは、『私は彼なり』――ブラフマンが実在であって、世界は幻なのだ、と言う。この『私』さえも幻、思い違いなのだ。ただ至高のブラフマンだけがある、と言う。
 けれどもね、”私”というものはどうしてもなくならないよ。だから、『私は神の召使い』、『私はあのお方の子供』、『私はあのお方の信者』、こう思っているのがたいそういいことなんだ。
 今のようなこういう時代には、バクティヨーガが一番いいのだ。バクティを通じてあのお方に触れることができる。肉体の自覚があるからこそ、この世の知恵(相対意識)だ。形、味、におい、手触り、音など。これは皆、対象物だ。この知覚をなくすることは、とてつもなく難しいからね。この世間知がある限り、”われは彼(ブラフマン)なり(ソーハム)”じゃないし、そんなふうに言ってはいけない。
 本物の世捨て人なら、ごくわずかしか世間知はない。しかし世間の人は常にそれらの中に巻き込まれている。それだから大方、普通の人間は、”私は神様の召使い”と感じるのがいいんだよ。」

近所の人「師よ、私たちは罪びとでござます。どうなるのでしょうか。」

シュリー・ラーマクリシュナ「あのお方の御名を称えて彼の栄光を歌えば、体についたすべての罪は、飛んで行ってしまうよ。身体の木に罪という小鳥がとまっているのだ。称名とキールタンは手を拍つようなものだ。手を叩けば木の上の鳥が皆飛び立つように、そっくりそれと同じこと、あらゆる罪は、あのお方の御名を称えてほめたたえることで消えてしまう。
 また、牧場にあるため池が、太陽の熱で自然に蒸発していくだろう。同様に、罪のため池の水も、神の御名とキールタンで干上がってしまう。
 毎日、アヴィヤーサ(訓練)をおこなわなければいけない。このあいだ、サーカスを見たが、ひとりのイギリス人の女が片足で一頭の馬の上に立っていた。あれまでになるには、どんなに練習したことか。
 それから、あのお方に会いたいと思ったら、少なくとも一回はそのために心の底から泣くこと。
 これらが二つの方法だ――訓練と、そして情熱(毎日たゆまず実行すること)、つまり、『彼』に会いたくて居ても立っても居られない魂の不安だ。」


【ベルガリヤ村の人がチャクラの歌を歌い、シュリー・ラーマクリシュナ、サマーディに入る】

 シュリー・ラーマクリシュナは、二階の部屋のベランダで、信者たちと共に昼食をとられた。時間は一時ごろである。皆の食事が終わるか終わらないうちに、一信者が下の中庭で歌い始めた。

 お目覚めなさい お目覚めなさい マーよ!
 なんと長い間、眠ってこられたこと

 タクルは、この歌を聞かれてサマーディに入られた。身体は全く静止し、手は食物の皿に触れたまま、絵の中の人物のようになられた。もちろん、もう召し上がることはなさらない。長いこと経って、やや平常に降りてきて、こうおっしゃった。「下に行く、下に行く。」
 一人の信者が、非常に用心しながら彼を階下に導いた。
 中庭では、皆が神の御名を称えて、キールタンを歌いながら踊っていた。座るための敷物も広げてあった。タクルはまだ半サマーディの状態で、歌手のそばに行かれてお座りになった。歌い手は、今しがた歌い終わったところである。タクルは非常に厳かな口調で彼に、「母の御名をもう一度聞きたいのですが」とおっしゃった。
 歌い手は歌った。

 お目覚めなさい お目覚めなさい マーよ!
 なんと長い間、眠ってこられたこと

 サハスラーラまで昇るのが あなたのつとめ
 主シヴァのもと 千枚花弁の蓮華まで

 六つの階段を速やかに通り
 悲苦をすべて除き去り
 かの霊妙壮麗なる至上の意識に――



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He Maha Lakshmi ヘー マハーラクシュミー

2018-09-30 17:02:16 | 松川先生のお話
He Maha Lakshmi ヘー マハーラクシュミー
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解説「ナーローの生涯」第九回(7)

2018-09-29 14:16:05 | 勉強会より抜粋


◎純粋な精神性

 もう一回、わたしの経験を言うとね(笑)、これは話が若干ずれるかもしれないけど、わたし自身の経験として聞いてほしいんですが、わたしはこのクンダリニー的なヨーガがすごく進んできたときに、あるときから体中がもうエクスタシーそのものになって、つまり例えば呼吸してももうエクスタシーなんだね。で、もう何か触れるだけでエクスタシーになると。例えばこうちょんと触っただけで、この指先から体中にブワーって歓喜が走るんだね。ここでいう歓喜っていうのは、なんとなく気持ちいいじゃなくて、本当に「うわーっ!」っていう歓喜です(笑)。だからパソコンとか打てないんだね。だって触るだけでエクスタシーなんだから。【パソコンを打つ仕草をする】「あーっ!」(笑)――っていう感じなんだね(笑)。本当に(笑)。
 そういう時期があって、で、そういうときに、あるときね――ちょっと具体的なものは忘れたんだけど――ちょっとなんか汚いものがあったんです。なんかゴミみたいなね。で、それを片付けなきゃいけなくて、「うわー」って感じでそれに手を触れたときに鳥肌が立って、「うわー気持ち悪い!」って感じで、「うわー!」ってなったんだけど、そこでふと「あれ!?」と思って。わたしはそういえばこないだまで、何に触れても歓喜になっていたはずだと。こうだから喜びでこうだから苦しみだとかそういう二元性を超えて、すべてはもう歓喜そのものであるっていう経験をしてたはずなのに、なんで今これ触ったら嫌な感じになったのかと。歓喜ももちろん出ないし、ちょっと逆に鳥肌が出て嫌な感じになった。――「あっ、これは……愛が足りない」と思ったんだね。つまり、このゴミに対する愛が足りないと(笑)。ね。つまりゴミに対する偏見があったと。よって、わたしの偏見によって、エネルギー自体は純粋なんだが、それにわたしの偏見をかぶせることによって、気持ち悪さ、鳥肌、こういったものが生起したに過ぎなかったと。で、そこでちょっと心を変えて――変な話なんだけど――そのゴミに対する強烈な愛を持ってね(笑)、純粋な愛の心を持って触ったら、歓喜になった。「ああ、やっぱりそうだった」と。
 あるいは別の経験として、これも前に言ったけど、あるとき――ちょっとこれはエクスタシーとはちょっと違うんだけど、すべてがね、よく密教とかバクティヨーガで言うように、すべてが神の現われというか――まあいろんなパターンがあるんだけど――そのときはね、女神というかな、ダーキニーというか――例えばですよ、この空間にもいろんな神が満ちていて、例えば物質元素とかすべてが神や女神達の集まりでできているというか。そういう感覚をしょっちゅう感じるようになったときがあったんだね。で、だんだんそういうことを日々経験するようになって、瞑想中もそうだし、普段の生活の中でもそれを経験するようになっていって、「ああなるほど、この世っていうのは本当に純粋な仏陀や神々や女神の現われだったんだ。あれは比喩ではなくて本当だったんだ」っていう経験をよくしてたことがあって。
 で、そのときにあるときわたしがある仕事場でね、風呂場でちょっと熱い風呂に入りすぎて、風呂場の洗い場のところで横になってたんだね。そこは仕事場の風呂場だったんだけど、横になってるでしょ。横になってふと見たら、多分前に入った人だと思うんだけど、前に入った人がなんでか分かんないけど、風呂で自分の下着洗ったのかわかんないけど、その人のパンツがかけてあったんです(笑)。パンツがかけてあって、で、それまでわたしは横になっている時にその至福の状態に入っていて、「あー……」って歓喜状態にいたんだけど、パッと見たら汚いパンツが置いてあって(笑)、一気に気持ち悪くなっちゃってなんか(笑)、「だれだよこれ……やめてくれよ……」みたいな感じでちょっと冷めちゃって(笑)、気持ち悪いなんか嫌な気持ちになってね、ちょっとその人に対する怒りみたいなのも出てきて(笑)、「ったく、ふざけんな」みたいな感じになったんだけど(笑)、ふっとまたそこで「あ!」って、「いや、それはおかしい」と思って――「だってわたしはこないだまで、すべてが女神とか神の現われっていうふうに分かって気づいてたはずなのに、なんでパンツだけ違うんだ」と思ったんだね(笑)。で、そこでちょっと「うっ」とまた心を変えて集中して、「いや、このパンツっていうのもわたしの観念によって生じた幻影である」と。わたしの心のけがれのあらわれとして、そういった観念的断定を下しているだけであって、このパンツという誰かの、前に入った人の汚いパンツっていう観念的あらわれも、純粋な神の領域からの祝福に過ぎない、って考えたとき、そのパンツを構成している原子の一粒一粒がダーキニーになった(笑)。


(一同笑)


 女神たちによって、そのパンツが構成されてるって分かったんだね。そこで「あー……」って至福になったんだね(笑)。
 これは、ちょっとわたしの経験を一つ二つ言いましたが――つまりこれが、その到達すべき点なんだね。で、年がら年中この境地にいられたとしたら、それはもう相当な高い境地。つまりすべては本当にただ純粋なんだと。
 もちろんそれは思い込んじゃ駄目ですよ。言葉とか頭で思い込もうとすると、本当はまだそうじゃないのに、それをそうなってるっていうふうに思い込んでしまうと、そのけがれが浄化されないから。
 だからまだそこまではいってないんだが、そういうもんなんだって普段から考えてたらいいね。
 そのためにわれわれは、この本来は純粋な至福であるものを封じ込めてるわれわれのカルマやけがれや観念っていったものを、一つ一つ引っぺがしていかなきゃいけないんだね。
 だからそれがここで言っていることだね。純粋な精神性がないとまずく感じるが、純粋な精神性があるとその食べ物だけではなくて、あらゆるものは永遠であり不老不死であり、純粋であり寂静であり云々と。至福である。ということですね。



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KALIDURGE NAMO NAMAH カーリー・ドゥルゲー・ナモー・ナマー

2018-09-29 07:32:12 | 松川先生のお話
KALIDURGE NAMO NAMAH カーリー・ドゥルゲー・ナモー・ナマー
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ライトエッセイ お・・・オーム・マニ・パドメー・フーム

2018-09-28 21:37:10 | 松川先生のお話







 チベットでよく唱えられている、大変有名なマントラですね。
 観音様のマントラであり、六道輪廻のカルマを浄化してくれると言われています。
 最初の目標は10万回程度でもいいですが、最終目標は一億回、いや、生涯かけてチベット人たちは唱え続けるようです。
 このマントラをチベット中に普及させたのは、パトゥル・リンポチェといわれています。
 また入菩提行論をチベットで普及させたのもパトゥル・リンポチェといわれ、パトゥル・リンポチェは入菩提行論の著者のシャーンティデーヴァの生まれ変わりともいわれています。
 入菩提行論は、わたしは仏教の最高の論書の一つであると思います。ダライ・ラマ一四世がチベットからインドに秘密裏に亡命する際、荷物を制限しなければいけない中で、経典としてはこの入菩提行論だけを持って行ったともいわれています。

 さて、チベット語はDの前の音が変音する決まりがあり、そのような文法的な錯覚というか、なまりによって、チベットでは「オーム・マニ・ぺメ・フーム」と唱えます。
 チベットではこのような文法的なチベットなまり的な、本来のサンスクリットとは違うマントラの唱え方がいろいろあります。たとえばヴァジュラをベンザと言ったり。

 まあもちろん、中国経由の日本のマントラはさらになまってしまっていますが(笑)。

 もともとインドのサンスクリット語というのは「神の言葉」であり、マントラもサンスクリット語の正しい発音に忠実でなければならない、という考えがあります。

 ではこの「オーム・マニ・ペメ・フーム」などのなまったマントラは、効果がないのでしょうか?

 「効果がない」と言い切る人もいるかもしれませんが、わたしはそうは思いません。端的にいえば、もし偉大な師からそのようなマントラを授けられ、それに対して弟子が強い信を持ったならば、そのマントラは発音が本来と違っていようが、大きな力を持つでしょう。

 これに関するある逸話があります。昔、チベットのサキャ・パンディタが旅をしていると、ある修行者が間違った発音でヴァジュラキーラヤのマントラを唱えている声が聞こえてきました。サキャ・パンディタはそこへ行き、修行者に、その発音は間違っており、正しい発音はこうですと教えてあげました。しかしその修行者は、このマントラは我が師から授けられたものである。正しい発音もたしかに大事だが、それよりも純粋な心が大事なのだ。わたしは純粋な心で信を持ってこのマントラを唱えてきたし、これからも唱えるだろう、と言いました。それを聞き、サキャ・パンディタは感動しました。そしてその修行者はキーラの法具をサキャ・パンディタにプレゼントしました。
 その後、サキャ・パンディタは、チベットとネパールの国境で、ある外道の修行者と出会いました。彼はチベットに外道の教えを広めようとしていました。サキャ・パンディタはそれを止めるために、彼と論争しましたが、論議においては双方互角で譲りませんでした。そこで外道の修行者は神通力合戦に出て、空中に浮かびあがりました。サキャ・パンディタは以前に出会った修行者のことを思い出し、彼にもらったキーラを取り出すと、彼が唱えていた”間違った”発音のヴァジュラキーラヤのマントラを心を込めて唱えました。するとその力によって、外道の修行者は空中から落ち、敗退して退散していきました。

 つまりもちろんサンスクリットの正しい発音は大事ですが、それを授けてくれた師や、その伝統への強い信と、それを唱える純粋な心があれば、それはその正しい発音も凌駕する力を発生させるということですね。
 
 もちろん、だからといって、適当な人が適当に授けた間違ったマントラじゃだめだと思いますが笑。やはりそこには、そのマントラがそのような発音になった何らかの深い意味もあるんだと思います。ここではあまり深くは考察しませんが。

 ですからたとえばチベット仏教に信を持つ人が、チベット風のちょっとなまったマントラで唱えたとしても、それはそれで大きな力を持つと思います。

 あるいはわたしの経験ですと、わたしはどちらかというと仏教系のマントラもチベットなまりのものよりもサンスクリットに忠実な唱え方の方が好きですが、たとえばカーラチャクラのマントラなどは、チベットなまりの唱え方の方が、好きというよりも、実際に効果を感じます。気が通り、意識が目覚め、エネルギーが上昇し、強まる感覚があります。これはわたしが過去世でチベットなまりでたくさん唱えていたのかもしれませんし(笑)、あるいはこのカーラチャクラに限ってはチベットなまりのマントラの系統と縁があるのかもしれません。

 そういえば以前、不思議なことがありました。これは20年以上前のかなり昔のことですが、瞑想で非常に深い意識に入ったとき、その深い意識の中でマントラまたは詞章などを唱えようとしたのですが、なかなか唱えられないのです。それだけ、表層意識が消えた、深い意識に入っていたということなのですが、そこでなぜか、ヴァジュラサットヴァの百音節のマントラだけは鮮明に出てきて、唱えられたというか、それだけをずっと深い意識で唱えていました。
 これがなぜ不思議なことかというと、実はそのころわたしはすでに10万回以上唱えたマントラや詞章がいくつもありました。しかしそれらは一切思い出せず、まだそのころ数千回しか唱えていなかったこのヴァジュラサットヴァのマントラだけが出てきたのです。しかもこのヴァジュラサットヴァのマントラは、百音節というだけあって、マントラの中ではかなり長いマントラなのです。他の短い、そしてたくさん唱えたマントラは出てこずに、この長く、そしてまだあまり唱えていないマントラが出てきたのが驚きでした。そして深い意識でこのマントラを唱えると、その潜在意識(つまり深い睡眠のような、ふつうは意識が飛んで気絶しまうような世界です)でも意識が覚醒し、鮮明になるのです。
 これはこのマントラ自体がそれだけの力を持つのかもしれないし、またわたしが個人的にこのマントラと強い縁があったり、過去世でたくさん唱えていたのかもしれませんね。

 この瞑想で入る非常に深い意識は、チベットでいういわゆるバルド、つまり我々が死後に経験する世界ととても似ています。この死後のバルドにおいては、その人のカルマや心の習性によって、さまざまな幻影のヴィジョンがあらわれます。そして一握りの優れた人以外は、特に現代人のほとんどは、ここで恐ろしい、けがれた、あるいは煩悩的なバルドを経験するでしょう。そしてその世界に飛び込んでしまったら、いわゆる地獄、動物、餓鬼という苦しく恐ろしい三悪趣の世界へと生まれ変わります。
 そうならないように、生きているうちに正しく生きることや修行に励むことよってカルマと心を浄化しなければならないわけですが、仮にそれらの浄化が十分でないうちに死んでしまい、悲惨なバルドに入ってしまったとしても、もしそこで神聖なマントラや詞章や瞑想、あるいは教え、あるいは帰依している師や神やブッダのことなどを思い出すことができたならば、一瞬にして世界は変わり、救われる糸口が出てきます。
 しかしバルドでそれらが出てくるほどになるには、相当の修習が必要です。よって生きているうちに徹底的にそれらの聖なるデータを修習することもお勧めします。

 また話がタイトルの「オーム・マニ・パドメー・フーム」からだいぶ広がってしまいましたが、わたしは勉強会の講話などでもいつもこんな感じです(笑)。特にこのライトエッセイは構成など考えずにさらっと軽く書くというのが趣旨なので、タイトルはあくまでも話の最初のとっかかりに過ぎないと思ってください(笑)。



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Maitri

2018-09-28 21:03:50 | 松川先生のお話
Maitri
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ドッキネッショルの寺院で信者たちと共に(5)

2018-09-28 20:31:52 | 勉強会より抜粋


【サマーディ後の正しいブラフマジュニャーナの状態――分別判断の思考と執着の捨離】

「あのお方をつかんで、あのお方を通してサマーディに入ったら、分別知はもうなくなる。
 分別知識はいつまであると思うかね? ”多”を感じている間、つまり、彼が宇宙を、形体を持つ生き物たちを、『私』と『お前』を、意識する間である。完全に正しい一つの智慧が生まれたら、黙ってしまう。トライランガ・スワミの場合はそうだった。
 ブラーミンたちが食事をするときの様子を見たことがあるかい? 最初、その場所は大騒ぎだ。しかし胃袋がいっぱいになるにつれて騒ぎは少なくなってくる。最後のコースである食後のヨーグルトや果汁をすする段階になると、ただ、シュプ、シュプという音だけ! 他には音はない。そして次は眠り――サマーディの段階だ。もう何の騒ぎもない。」

(校長やプランクリシュナに向かって)「皆、よくブラフマジュニャーナを云々する。しかし実際には、彼らの心は常にもっと低い事物、家屋敷、金、名誉、および五官の楽しみといったものにかかずらわっている。記念塔(カルカッタのオクタロニ記念碑を指している)のふもとにいる間は、車だの、馬だの、西洋の紳士・淑女たち、いろいろなものを見るだろう。しかし上に昇れば、無限に広がる大空や海を見る。そのときにはもう建物や車や馬や人などはどうでもよくなるんだ。みんな、アリンコみたいに見えるからな!
 ブラフマジュニャーナを得たのちには、世間への執着や、愛欲とお金への渇きはみんな消滅する。みんな静かに停止する。丸太が燃える間は、パチパチ音を立てるし炎を上げる。燃え尽きて灰だけになったときには、音もしないだろう。執着がなくなると渇きもなくなる。最後は平安(シャーンティ)だ。
 神様に近づけば近づくほど、静かで安らかだ。シャーンティ、シャーンティ、シャーンティ。完全なシャーンティ。ガンガーの近くに行くほど涼しくなるだろう。河に飛び込んだら、一段と気持ちよくなる。
 さて、生き物とか世界、そして二十四の宇宙原理、これらは皆、あのお方がいらっしゃるからあるんだよ。あのお方をのけたら何一つ無いんだ。1の後にたくさん0をつければ際限もなく数が増えていく。1を消してしまえば、0には何の意味もあるまい。」

 師はお続けになった。

「ある人々は、ブラフマジュニャーナを得た後、サマーディの後で――いわばそこから降りて来て、”明智の私”や”バクティの私”を保持する。バザールが解散した後にも、親切心から市場にとどまっているようなものだ。ナーラダたちのようにね。あの人たちは世の人々を導くために、”明智の私”を残しておきなすったんだよ。
 ほんのちょっぴりでも愛欲の執着が残っていると、神様はつかめないよ。糸にケバが立っていては針の穴に入らないからね。
 神様をつかまえなすったお人の怒りや欲望は、見かけだけのもの。焼けた縄のようなものだ。縄の形をしているだけ。フーッと吹けば飛び散ってしまうさ!
 心の中に何の執着もなくなれば、あのお方に会える。清浄純粋な心に浮かんでくるのは、ことごとく神の声だ。純粋な心であるところのあるものは純粋なブッディ――さらにそれは純粋真我だよ。なぜなら、神以外に純粋なものは何もないのだから。
 ところで、あのお方をつかんでしまうと、善も悪もなくなるよ。」

 こうおっしゃってから、タクルは音楽神も裸足で逃げ出すような例の美しい声で、ラームプラサードの詩をお歌いになった。

 さあ、カーリー、カンタパル(願いをかなえる樹)の根元に散歩に行こう
 そして四つの果実を摘もう
 ”欲”と”無欲”の二人の妻は
 ”無欲”の方を連れていき
 ”ヴィヴェーカ(識別)”という名の その息子に
 真理の道を 尋ねよう



 タクルは、自室の東南のベランダに出てお座りになった。プランクリシュナはじめ他の信者たちもお供をした。ハズラーもベランダに座っていた。タクルは笑いながら、プランクリシュナにおっしゃった。

「ハズラー(千という意味)は、なかなかどうして大したものだよ。少ない数じゃないもの。もしここに大きなドゥルガー(タクル自身を指す)があるとしたら、ハズラーは小さいドゥルガーさ。」

 みな、大笑いである。

 ナヴァ・クマールという名の男がベランダの入り口のところで立っていたが、信者たちが大勢いるのを見ると、踵を返して出ていった。タクルは、「ありゃ増上慢の見本だね」とおっしゃった。

 時間は(午前)9時半になった。プランクリシュナは拝跪して師に別れを告げた。
 一人の巡礼音楽師が、弦楽器の伴奏でいくつかの詠歌を歌っている。

 とこしえの喜びの国より
 大いなる船は来たれり
 諸人よ いざうち乗りて
 かの岸に わたりゆくべし

 六人の雄々しき戦士
 大船の扉開きて
 マニ宝珠分け与えつつ
 バクタを常に守らん

 別な歌を――

 時は今 屋根ふきかえる時は今
 もうすぐボルシャの雨が降る
 さあ元気を出して気をつけて
 せっせと仕事に励みましょう
 雨の盛りのスラボン月は
 屋根ふく暇もあらばこそ
 屋根のまこもは湿って腐り
 大風吹けば棟吹き飛んで
 大穴が天井に空いてから
 びっくりあんぐり口を開けても
 開いた口はもうふさがりませぬ
 どうにもしようがありませぬ

 また別な歌を――

 いずれの道たどりきて ここの川辺に
 貧しき衣 身にまとい
 ただひたすらに ハリの御名叫ぶ
 
 いずれの道たどりきて わが身と心
 かくなりしものか
 ああわれ知らず ハリの御名を呼ぶ

 タクルが詠歌を聞いておられると、ケダル・チャトジ氏が入って来て拝跪した。彼は役所の制服を着てきた。ゆったりとした上着から、時計と金の鎖がのぞいている。だが、神様の話が始まると、彼の眼はすぐ涙で潤むのである。まことに愛すべき人物だ。ゴーピーのような気持ちの人なのだ。
 ケダルの姿は師の心の中に、シュリー・クリシュナのヴリンダーヴァンのエピソードを思い起こさせた。師は、神への愛に酔ったように立ち上がり、ケダルに語りかけるかのように歌を歌い始められた。

 恋人よ――
 かの森のいと遠きか
 美しき人よ――
 もう私は疲れて、一歩も歩けない

 シュリー・ラーダーの気分でこの歌を歌っておられるうちに、タクルはサマーディになられたようである。彫像のように立ったまま、神聖な歓喜の涙はほおをつたって流れ落ちるに任せている。
 ケダルは平伏した。そして師の御足に手を触れて、彼は賛辞を捧げた。

 われは礼拝し奉る
 心の蓮華の中心 絶対にしてすべてを超越し
 ヴィシュヌとシヴァとブラフマーを学び得る
 ヨーギーの最深の瞑想によって至り得る
 誕生と死と苦しみを消散する
 完全なる神の叡智 存在の本質 すべての世の種子なる
 ブラフマジュニャーナを

 しばらくすると、師は相対界の意識を回復なさった。間もなくケダルは別れを告げてカルカッタの役所に帰った。
 
 正午に、ラムラルが真鍮製の皿に、カーリー・マーへの供物のおさがりを持ってきて、タクルに差し上げた。部屋の中でタクルは南向きに座られ、それを召し上がった。その食べ方はまるで子供のようで、いろいろな種類の食べ物を、全部少しずつ口にお入れになる。
 食事の後、小さいベッドの上で少し休んでおられる。午後三時ごろ、数名のマルワリの信者たちがやって来て、師の部屋に入った。ラカールと校長、その他の信者たちも部屋にいる。
 
マルワリの信者「師よ、どんな方法で修行したらいいのでございますか?」

シュリー・ラーマクリシュナ「二つやり方がある。一つはジュニャーナの道、もう一つはバクティの道だ。
 真理と非真理を識別すること。
 真理そのもの、そして永遠の真実在は神様だけで、他は皆、すべて幻の、かりそめのものである。魔術師だけが本当にいるのであって、魔法で現れて見えるものは幻影だ。これが識別である。
 識別と放棄。識別(ヴィヴェーカ)は、実在と非実在、真理と非真理をよく考えて識別することだ。離欲(ヴァイラーギャ)というのは、世間のいろんなことや物に対しての離欲の心を養うことだ。人は一挙にそれらを得ることはできない。毎日実践するのだ。最初は、『愛欲とお金』を心で放棄する。それから、神のおぼしめしによって、心と形と両方で放棄することができるようになるのだ。カルカッタの人々には、神のために一切を放棄せよ、と言ってもダメだ。彼らにはまず心で放棄せよと言わなければならない。
 絶え間のない実践によって訓練をするうちに、人は、『愛欲とお金』への執着を捨てることができるようになる。それはギーターが説いていることだ。実践によって、人は心の尋常でない力を獲得する。すると、感覚器官を抑制し、怒りや情欲やそのたぐいのものを支配下に置くことに困難を感じなくなるのだ。たとえば、亀が甲羅の中に手足を引っ込めて、斧で四つ割にされても外に出ないように――。」

マルワリの信者「師よ、二つのやり方があると仰せられましたが、もう一つの道はなんでございますか?」

シュリー・ラーマクリシュナ「恋い慕う、または信仰の道だ。居ても立っても居られないような気持ちで恋い慕って、ただ、ただ泣く――一人で人知れず、お姿を見せてくださいと頼んで――。

 心を込めて泣いて泣きつけ、心よ。
 そうすればシャーマーはどうしてそっぽを向いていらっしゃれよう。」

マルワリの信者「師よ、形ある神の礼拝とはどういうことでございますか。また、形のない神――何の性質もない神とは、いったいどういうことなのでございますか?」

シュリー・ラーマクリシュナ「お父さんの写真を見てお父さんを思い出す。同じように、神像を拝み続けていると、実在の姿が見えるようになるんだよ。
 人格神の形はどういうものだか、わかるかな? あふれ出る広い水の中に”泡”が浮かぶ――あの様子だ。無限の宇宙と無限の意識の中から、さまざまの神の姿が一つ、一つと生まれてくるのが見られるのだよ。アヴァターラといわれるものもこれらの一つだ。アヴァターラのリーラーサマーディは、アディヤシャクティーの楽しいゲームだ。
 学問なんか何になる? 恋い慕って呼べば神は得られる。さまざまのことを知る必要などはない。
 アーチャーリヤになる人なら、さまざまのことを知らなければならない。他者を殺すには、剣も盾も必要だ。しかし自分を殺すためなら、針一本か爪切りがあったら間に合うんだよ。
 私は誰であるかを探していけば、人はついに神を見出す。この『私』は肉か、骨か、血か、随か? それとも心か? 頭か? 最後に、自分はこれらのいずれでもないということがわかる。これは、『これではない(ネーティ)、これではない(ネーティ)』だ。真我を手でつかんだり触ったりする方法はない。あのお方は姿も形もないからね。
 とはいうけれども、バクタにとっては、あのお方にはありとあらゆる姿があるし性質もある。魂のこもったシャーマの神像、霊験あらたかな聖地。すべてのものに魂があるんだよ!」

 マルワリから来た信者は、礼拝してお暇を告げた。
 
 夕暮れになった。タクルはガンガーの流れを眺めておられる。部屋にはランプがつき、シュリー・ラーマクリシュナはベッドの上に座ってマーの御名を称えながら、あのお方に思いをはせておられるのだろう。
 やがて、神殿ではアーラティが始まった。堤防の上やパンチャバティのあたりを散歩している人々は、遠くから聞こえてくる甘美な鈴の音色を聞いている。
 おりしも潮が満ちて来て、河の水がチャプチャプと音を立てながら河上にのぼっていく。アーラティの鈴の音とこの水の音とが一緒になって、一層、甘くやさしい響きになっている。こうした中に、至福に満ちたシュリー・ラーマクリシュナは座っていらっしゃるのだ。あたりのすべては甘やかに美しい! そして、お胸の内も甘くやさしい。何もかも、甘く、優しく、美しい!
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第55話 後編「使者"サンジャヤ"」」

2018-09-28 20:08:34 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAMRITAチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第55話 後編「使者"サンジャヤ"」」です。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第127話」

2018-09-26 06:52:39 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAMRITAチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第127話」です。
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解説「ナーローの生涯」第九回(6)

2018-09-25 09:39:47 | 勉強会より抜粋

◎エネルギーの正体

 この言葉っていうのは、もう一回言うけども、さっきの話と同じでね、「純粋な精神性がないと、この汚いものはとてもまずく感じるが」云々と。つまり「純粋な精神性がないと」と言ってるのは、ティローが、さっきも言ったけども、ティローがそれを自分でおいしいと思えたのは、それは超能力でおいしく変えていたわけではありません。ティロー自体が純粋な精神性を得ていたからなんです。つまり、これが密教の奥儀――さっき言ったこととも関わるけども――この世において――いいですか?――感情にしろ感覚的経験にしろ、負の要素、つまり苦しいとか悪いものっていうのは一切ないんだと。純粋なエネルギーの領域においては、ただ至福のみがあると。あるいはここに書いてあるような「永遠、不老、不死、純粋、平和、寂静、超越、至福」のみがあると。
 これは前に何回かわたし言ったけど、わたしの経験として言うとね――ちょっと新しい人もいるのでまた同じ話をするけども――わたしが昔、だいぶ昔ですけどね、もう十数年前かもしれないけど、わたしが一番最初にこれを経験したのは、あるときね、とても悲しい出来事っていうかな、精神的に苦しい出来事があって、それですごく心が悲しみのエネルギーでいっぱいだったことがあったんだね。で、もうまさにうわーってこう胸が締め付けられるような、グワーッてその悲しみの嫌なエネルギーでいっぱいになってたんだね。そのときにわたしは瞑想に入って、その悲しみのエネルギーにグッと集中したわけですね。エネルギーというか心というかな。そのグワーッってこみ上げてる悲しみそのものにグーッと集中したんです。
 で、これは前も何回も言ったけど、それは普通できないんです、普通。つまり瞑想に熟達していないと無理です、まず。
 どういうことかっていうと、イメージで言うと、この、実体がないからね。実体がないから、集中しようと思っても「ぷにょ」って感じでこう(笑)、ずれちゃうんだね。ズバッって刺さらないんです。そのぐにゃぐにゃーっとしたエネルギーっていうのは、相当集中力がないと、そこに心の槍みたいなのを刺すことができない。
 でもそのときは、初めてそれが成功したんだね。その悲しみのエネルギーの心のエネルギーの中に、グッと集中の槍がズバッと刺さったときに、まさにアニメみたいな感じなんだけど、ブワーって感じでそのエネルギーが――エネルギー自体はあるんですよ、エネルギー自体はあるんだけども、言ってみれば原初のエネルギーに返っていったんだね。バーッて原初に返って、悲しみは一切なくなった。悲しみは一切なくて、ものすごい至福感があったんです。
 で、ここでポイントは――いいですか?――その「うわーっ、悲しい!」っていうものすごいエネルギーがあるよね? この強力なエネルギーはなくなっていないんです。このままなんです。このままでそれが純粋化されたので、強烈なエクスタシーになったんです(笑)。さっきまで「あー悲しい……うわー! 気持ちいい!」って感じになったんだね(笑)。
 これはちょっと問題があるのは、集中外すと戻るんです。例えばちょっと雑念が出ちゃって集中が外れると、またまさにアニメーションのように、ジュルジュルジュルジュル……っていろんな情報がそこに覆いかぶさって「悲しいー!」ってなるんです(笑)。
 つまりこれを何度も経験するうちに――あ、これが密教でいってることかと。つまり感情のエネルギーの正体っていうか、その原初――もう一回言いますよ。ちょっと逆の観点から言うと、ちょうどヒンドゥー教でいう、このシヴァ神の寂静の世界からカーリー女神やシャクティ女神がこの宇宙をエネルギーによって作り出すように、まずこの純粋なる世界から純粋なエネルギーが、ブワーッて現われるんです。このエネルギーが超純粋なんです。つまりもう至福に満ちた素晴らしいエネルギーなんだが――仏教でいう無明・行・識といった十二縁起の、つまりわれわれの錯覚からくる幻影的、けがれた心の働きがそれに乗っかることによって、そのエネルギーが限定された良し悪しの感覚に変わってしまうんだね。
 例えばセックスの喜び、人から褒められた喜び。これも実は限定されています、非常に。純粋なる素晴らしいエネルギーが、非常に狭い所に押し込められちゃって、すごくもったいない使われ方をしているような感じなんだね。
 もったいない使われ方っていうのは、そうですね、例えば例をあげるならば――ちょっとわたしあんまり料理のこととか分かんないけども、高級なね、本当にもう高級な食材を買ってきて、それで非常にもったいない食べ方をするとかね。そういうのに似てる。つまりその純粋なエネルギー自体は、本当にもうすべてを吹っ飛ばすような強烈なエクスタシーをわれわれに与えてくれるのに、「え、そんなんでいいの?」っていう使い方をしてるっていうか(笑)。そんなところに押し込めちゃって――例えばたかだか人から褒められて嬉しいとかね。たかだか恋人とイチャイチャして嬉しいとか、「そんなんでいいの!?」と(笑)。そこに押し込められているのがわれわれの小さな喜び。
 で、逆の苦しみも同じで、この純粋なエネルギー自体は純粋なる至福そのものなのに、そこにいろんな情報を上からかぶせることによって、それが強烈なエネルギーを伴った苦しみに変わるんだね。これがわれわれのこの世における多くの苦しみなんです。
 で、この苦しみにしろ喜びにしろ限定された偽りの状態があって、でもそれを追っ払って、いってみれば原初の状態、原初のエネルギーのところに心をアクセスすることができる人にとっては――いいですか?――あらゆるこの世の経験は至福に変わる。つまりこのティローのように、それが例えば触るのも嫌なようなものであっても、それを口に入れたならば――まあつまり、なんであろうと至福なんです。あるいはわたしの経験としていつも言っていたように、何触っても喜びなんです。
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「SAMADHI SITA RAM(DRUMS VERSION)」をアップしました

2018-09-24 21:04:25 | 松川先生のお話
「SAMADHI SITA RAM(DRUMS VERSION)」をアップしました。よかったらお聞きください^^


「SAMADHI SITA RAM(DRUMS VERSION)」


Vocal:Keisho.Matsukawa
Harmonium:Yuri.T
Drums:T.Takahashi
Guitar:Yuta.Nakano
Violin:S.Matsuoka
Bass:H.Miura

※他のキールタンライブについてはこちらをどうぞ

※オリジナルの日本語のキールタンはこちら



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「4AM HANUMAN CHALISA」をアップしました

2018-09-24 20:51:46 | お知らせ
「4AM HANUMAN CHALISA」をアップしました。よかったらお聞きください^^


「4AM HANUMAN CHALISA」


Vocal:Keisho.Matsukawa
Harmonium:Yuri.T
Cajón:T.Takahashi
Guitar:Yuta.Nakano
Violin:S.Matsuoka
Bass:H.Miura

※他のキールタンライブについてはこちらをどうぞ

※オリジナルの日本語のキールタンはこちら



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今日のAMRITAチャンネル「キールタン・イメージビデオ」

2018-09-24 19:09:06 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAMRITAチャンネルは、「キールタン・イメージビデオ」です。


曲目


1.空からの使者
2.CHAMUNDAYE KALI MA
3.Maitri
4.KALI DURGE NAMO NAMAH
5.マハームニにささげる歌
6.入菩提行論の歌PART1 THE SONG OF BODHICHARYAVATARA
7.入菩提行論の歌PART2 正智の守護 THE GUARDING OF AWARENESS
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今日のAMRITAチャンネル「アニメ・ハヌマーン 第3話」

2018-09-22 22:02:24 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAMRITAチャンネルは、「アニメ・ハヌマーン 第3話」です。
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