ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第10回(1)

2018-07-31 22:31:25 | 勉強会より抜粋

20111116

解説「スートラ・サムッチャヤ」第10回



◎ニルヴァーナ


 はい。今日はまた、『スートラ・サムッチャヤ』の続きですね。
 またすごく簡単にだけ言いますけどね、これはシャーンティデーヴァ、『入菩提行論』の著者のシャーンティデーヴァが――『入菩提行論』は書き下ろしですけども、書き下ろしではなくて、その、いろんな経典のいろんな言葉を集めて、菩薩道をね、まとめたっていう経典ですね。で、その長いやつが『シクシャー・サムッチャヤ』、で、コンパクトにまとめたのが、この『スートラ・サムッチャヤ』といわれています。だからまあ、短い内容ではあるんだけど、その中に、菩薩道っていうかな、大乗仏教の真髄がコンパクトにまとめられてるっていうことですね。
 はい。この続きの、今日は「ニルヴァーナ」っていうところね。ここを読んでいきましょう。




【本文】

◎ニルヴァーナ

 タターガトートパッティバヴァ(如来興顕経)には、このように説かれている。

「菩薩、偉大なる魂、如来、アラハット、最上の正覚者が、大いなるニルヴァーナを求めんと欲するなら、自性に対する知を捨てて、真如のニルヴァーナを求めるべきである。完全なニルヴァーナを見るべきであり、法界のニルヴァーナを見るべきであり、空なるニルヴァーナを見るべきであり、本性なるニルヴァーナを見るべきであり、完全な離欲のニルヴァーナを見るべきであり、無相のニルヴァーナを見るべきであり、とらわれのないニルヴァーナを見るべきであり、私の本性の極みのニルヴァーナを見るべきであり、一切法の本性の極みとするニルヴァーナのように如来のニルヴァーナを悟るべきである。
 法は無生にして無作であり、両者は分離できない。
 如来はまたもろもろの菩薩に対して、他にニルヴァーナの完成を説くことはないし、教示しない。なぜなら、一切の如来はかくのごとく生じ、かくのごとく去る。未来もまた一瞬間に現前し、智慧もまた一瞬間に随行する。一瞬間に一切の如来が現われるように、如来の一切の行ないもまた成就する。そこには自他の思いも生ぜず、二という思いもないし、衆生という念想もない。私という思いもないからである。
 それはなぜか。菩薩は、とらわれに対するすべての道から離れ、とらわれに対するすべての念から遠く離れるからである。
 また、如来が出現するというのは、他の衆生が如来の教えを聞くことである。如来のニルヴァーナを聞くことにより、他の衆生は懺悔の心を生じるであろう。
 如来は生じることもないし、ニルヴァーナもない。なぜなら、如来は法界に住しているからであり、他の衆生の心と願いをよく満たすために、如来はニルヴァーナをあらわすのである。

 たとえば太陽がすべての器に映し出され、光を放っても、その器が壊れたり、水が空になったりすると、太陽の映像は現われない。
 同様に、器がない人には如来の太陽が入ってきても光が現われないのであって、如来の太陽自体が損なわれているのではない。衆生の器の水が濁らなくなったとき、如来の太陽の映像が、光を放って映し出されるのである。心の相続にけがれがなくなるからである。
 如来の太陽が現われないのは、衆生の心が濁っていて、器が壊れているからであって、そのような人には如来の太陽は見えないであろう。
 如来は場所を変えて現われるのではなく、すべての場所に生じ、顕現する。」




 はい。ニルヴァーナね。これはですね、まあ例えばこの内容、今読んだ内容の、特に前半は、ちょっとわけ分かんないなって皆さん思ったかもしれない。それはそれで正しいんだね。逆に言うと、分かったように――もしこれを見て、「分かりました!」っていう人がいたら、ちょっとその人、魔境です(笑)。これは分かんないで正しい。
 つまりその、言葉で表わせない世界――まあ例えばさ、『般若経』ね。『般若経』っていうのは、日本で有名な『般若心経』じゃなくて――『般若心経』っていうのは『般若経』をコンパクトにまとめたやつなんですけど、じゃない、もっと長い『般若経』っていうのがあるんですけど、その『般若経』とか見ると、もうこういう教えのオンパレードです。つまり論理的には何言ってるかよく分かんない。つまり、矛盾するような言葉がオンパレードなんだね。つまりその、表であって裏であるとかね。そういう表現がいっぱい出てくる。つまりこれはなんなのかっていうと、皆さんは分かると思うけども、つまり絶対の真理というのはそのような言葉でしか表わせないんです。もともと絶対の真理っていうのは言葉では表わせない。もしすごい近いものを表わそうとしたら、まあよくダブルバインドとか言うんだけど、言葉にすると矛盾するような、二重の――二重っていうか、その、相反する意味を二つ持ったような言葉で表わすしかないとかね。でもそれでも表わせないんですよ。それでもその、近づくだけであって。その表現のオンパレードなんだね。
 だからこのそういう世界っていうのは、例えば皆さんが、ある究極のっていうかな、まあ究極までいかなくても、ちょっとこう二元を超えかかったような瞑想とかに入ったときに――入りますね。で、こう戻って来ました。で、その経験がある人がこういうのを読むと、「あ、これこれ!」みたいな感じになるんだね。そういうのが一つ。
 で、もう一つは、もちろんその経験がない人が、経験がないんだけど、結構準備ができてる場合ね、こういうのを読んだときに、ちょっと自分の中の何か――まあいい意味でですよ、いい意味でネジがちょっとはずれて、パッとそのニルヴァーナとか空の世界に行く、なんていうかな、こう道筋がちょっと開けるっていうかな。そのための、なんていうか、ものだと考えてください。
 あの、もともとはですよ、もともとは禅問答とかもそうなんです。禅問答っていうのは、今よくね、やられてるような定型的な物語とか、問答形式があって、あれを定型的にやるっていうのでもいいんですけどね。でもそれは非常に初歩的なものであって、本当の禅問答っていうのは、かたちはない。かたちはなくて、まあもちろん弟子もある程度、高度な状態にあって、で、師匠も弟子のことを完全に分かってて、で、ちょっと言葉にすると矛盾するようなことをこう言ったり、あるいは答えさせたりするんだね。それによって非常に、なんていうか微妙な――「あと例えば弟子の心が三ミリ左にずれればニルヴァーナ」とかあるんだね。でも四ミリずれちゃったら地獄だとかね、いろいろあるんだね(笑)。それを例えばわたしが、Y君だったらY君の心を三ミリだけずらすと。でも四ミリはずらさないと。そのための問答をするんだね。
 あの、四ミリずれると地獄だって言ってるのは、例えばこれは密教とかはまさにそうですよね。密教とか、あるいはこの禅問答の世界もそうなんだけど、よくさ、日本でもそうですけど、知ったかぶりした仏教のお坊さんとかね、あるいはその、仏教の好きな人が、非常に極端なことを言ったりすることがある。極端なことっていうのは、例えば、「いや、仏陀もないんだ」とか、あるいは「ニルヴァーナもないんだ」とか。あるいは「一切は空なんだから、何やってもいいんだ」とか。あるいは、そうだな、「仏陀に会ったら仏陀の頭殴ってやれ」とか。まあ日本人っていうか、禅の世界ではよくそういうのがあるから、そういうのみんな好きだから、よく言ったりするんだけど。で、これは、もう一回言うけども、その、あるタイプの弟子にそのような会話をすることによって、ガッとずらして、バッとニルヴァーナに行かすことができるんだね。でも今言ったように、もしガッてずれすぎたら地獄だっていうのは、つまり、その間違った、ある人にしか合わない、この――つまり、こういうのを方便っていうんです。方便っていう言葉がよく使われるけど、方便っていうのは方法論っていう意味で、この方便の中には客観的真理はないです。客観的真理じゃなくて、手段的真理なんだね。
 例えば、いつも言うけどさ、Y君に――まあこれも極端なこと言うよ――Y君が、裸でね、裸で逆立ちして戸部駅まで行ってくださいと(笑)。


(一同笑)


 そしたら解脱するよ、と。で、これね、あり得るんです、絶対。
 あのさ、映画の「マトリックス」とか観た人はさ、雰囲気がつかめるかもしれない。わたしもちょっと忘れちゃったけど、昔マトリックス観て、なんかどっかにあるでしょ? 脱出するきっかけみたいなのが。なんかの電話を取るとか。なんか薬を飲むとか、なんかあるんですよね。で、それがこの世にもあるんです。この世はその、迷妄の幻の世界だと。でも人それぞれ違うんだけど、人それぞれちょっと鍵があるんだね。で、今、例えば裸で逆立ちして戸部駅までって言ったけども、これあり得るんです、本当に。今、これ例えですよ。例えだからやんなくていいよ(笑)。


(一同笑)


 帰りにさ、「あ! Y君! 何やってるの!」


(一同笑)


 「あれ例えだって言ったじゃない」と(笑)。
 まあそれは今例えだけども、でもあり得るって話ね。それはあり得るんだね。
 でもそれはほかの人にとっては、全然関係ないんですよ。で、これ、仮にY君がそうだとして、でもほかの人がやったらただの犯罪っていうか(笑)、変質者で終わってしまう。悟りも何もないと。
 で、今のはちょっと極端な例だけども、それをその、言葉上でやるんだね。言葉上で、例えばわたしが、まあ分かんないけどね、何かの鍵となる言葉をY君との会話の中で――まあわたしが言うっていうよりは、この会話を通して引き出すんだね。「これはなんなんだ?」「こうです」「でもこれはなんだ?」「こうです」ってやってるうちに、パッとこう開けるわけだね。でも例えばそれを誰かが見てて、「あ、Y君、あの言葉で悟った」と。例えばそれはさ、分かんないよ。なんていうかな、例えば、本当になんだかよく分かんないんです。なんだかよく分かんないっていうのは、例えば、「Y君、昨日、何食べた?」「サンマです」と。「サンマって白身魚だよね?」「先生、何言ってるんですか? 青魚ですよ」と。「白身だよ」と。「青魚ですよ」と。「白身だよ」と。「青魚ですよ」と。「あ、青魚だっけ?」――パーッて開ける(笑)。


(一同笑)


 これは例ですよ、本当に(笑)。一つの例。これでY君、悟る場合があるんです、実は。うん。でもこれを見てた誰かが、「青魚!」とか言って、「青魚」「白身」とかいうことを誰かとやっても、何も開けない(笑)。ただサンマ食いたくなって終わりかもしれない。その人の煩悩が増大して終わりかもしれない。
 で、これがだから、なんていうかな、ちょっと密教では、よくそういうのを利用するんだね。
 で、密教っていうのは、つまり――密教だけじゃなくて、本当の真理っていうのは、そういうものなんです。そういうものっていうのは変な話なんだけど、本当の真髄の真理を悟るときっていうのは、そういうようにして崩れていくもんなんだけど、でもそれは今の話で分かるように、一般化しにくいんですね。この教えっていうのは決して一般化できない。だから一般化する経典にはもっとわかりやすいのが載るわけだけど。
 でも実際は、特にそのヨーガも仏教もね、本来は師と弟子のこう一対一の関係みたいのがあるから、その中で、こういった問答だけではなくて、全人生を利用してね――つまり、それぞれの師とそれぞれの弟子との一対一の関係があって、長ーい関係の中で、崩されてくんだね。
 だからこれは今言ったように、面白いその、分かりやすい、分かりやすいっていうか変なあれではなくて、長い関係の中で、例えば弟子が師にいろいろ苦しめられたり、逆に喜びを与えられたり、あるいはなんかいろいろ頭を混乱させられたり。この中で崩されてく。で、それはきれいに物語にすると、なんかきれいに見えるんですけどね。例えばY君が将来解脱したとしてね、「Y君解脱の物語」とかいって、「このときこのようなカルマを落とされ」とかね。分かりやすく書けばそうなんだけど、実はあんまり分かりやすくないんです、本当は。それは、表面的なきれいに飾った言葉であって。本当はね、そんな分かりやすいもんじゃないんです。分かりやすくない、言葉にはできないプロセスをたどって崩壊していくんですね。
 はい、ちょっとずれましたけど、だからこのニルヴァーナといわれるもの、あるいは空性といわれるものは、決して――だから皆さんにいつも言ってるけどさ、変な、あまり――変なっていうかな、本屋とかで仏教とかの本をあまり読まない方がいいっていうのは、きれいにまとめちゃってるのが多いからね。例えば、「空とはこうである」とかね。そんな、分かるわけがない(笑)。「空とはこうである」とか言って。分かったらおかしいっていうか。何度も言うけど。
 だからそうじゃなくて、しっかりと土台を固め――あのさ、いつも言ってるけど、わたしの修行の経験から言うならば、いつも言うように、わたしは中学生くらいから修行して、いろんな修行してきたので、その意味で、皆さんが同じことする必要はないので――つまり、わたしの経験から言うと無駄なこともいっぱいあった。あるいは、「あ、これ最初からやっとけば……」っていうのがたくさんあった。それから言うと、いつも言うように、ベストはバクティヨーガです。やっぱりね。うん。で、まあ、そのバクティヨーガの別パターンである菩薩行。ね。この二つがベストだね。まあ実際にはバクティも菩薩行も同じなんです。同じなんだけど、人間のやっぱりこれも意識が雑だから、ちょっと違うふうにとらえちゃうんだけど。でもまあ、一応分かりやすく言うと、そのバクティヨーガ、そして、菩薩行。これを軸にしたら一番早いと思うね。
 あの、もちろんその土台の上に、例えば密教的実践や、クンダリニーヨーガの実践とか乗っかってもいいわけだけど、それをやるにしても、一番の中心にすべきは、バクティと菩薩行だね。
 で、このバクティと菩薩行っていうのは、なんていうかな、一見ですよ、一見、最も二元的で、最も分かりやすく見えるんだね。だってバクティっていうのは、神に愛を捧げましょうと。ね。非常に単純ですよね。菩薩行っていうのは、自分よりも他者を愛しましょうと。で、他者のために生きましょうと。あるいは他者のために自分の修行を進めましょうと。あ、分かりやすいですねと。
 じゃなくて、人間――人間っていうか日本人っていうのは特に難しいのが好きだから、「空とは」とかね、あるいは「ニルヴァーナとは」とか、ちょっとこう哲学的なところを求めがちなんだけど。もう一回言うけども、その頭の固い人たちが「空とは」とか言って求めてる究極の真理に最も早くたどり着く方法、これは、わたしの経験から言うと、バクティヨーガと菩薩行です。
 わたしは昔は、ある段階までは、ベストは菩薩行だと思ってました。菩薩行と呼ばれる、つまり一見――もう一回言うけども、関係ないような、つまり、「一切を消えた、一切の二元性を超えた空の境地!」っていうのとさ、「さあ! みんなの苦しみを救いたい!」……なんか関係ないように思えるでしょ? でもこの、みんなの苦しみを――「自分のエゴなんてどうでもいいんだ!」と。「みんなが幸せであればいいんだ」と。「そのためにわたしの人生があるんだー!」って方が、パーッとすぐこう、空の境地にたどり着くんだね。
 で、これはわたしはベストだと思ったんだけど、でもバクティヨーガを進めたら、「あ、バクティも全く同じ」っていうか、いつも言うように、最初の集中点がちょっと違うんですけどね。集中点はやはり神っていうのに集中する。あるいは仏陀っていうのに集中すると。
 でももちろん菩薩行の土台もね、衆生っていうのはみんな、仏陀の御子であると。あるいは衆生自体が実は仏陀の化身であるという考え方をするから、実際同じなんですけどね。でもそういう見方をするのか、じゃなくて、最初から「至高者!」って集中するかでちょっと違いがあるんですけどね。で、もちろんこの、バクティヨーガが成功すれば、最も早い。
 で、もう一回言うけど、この二つは実は同じなんだけど、われわれはちょっと同じだととらえられないから、一応このバクティヨーガ、そして菩薩行、これを二本の柱っていうかな。一応は同じなんだけどね。一応はでも二本の柱として立てるならば素晴らしいと思うね。
 だからカイラスで推してる『入菩提行論』を中心とした菩薩行、そして『バガヴァッド・ギーター』や、最近は『ラーマーヤナ』とかも中心にしたバクティヨーガ系の教えね。これを皆さんが、ぜひ修行っていうか、人生の中心に置いてもらったらね、皆さんが求めてるヨーガの達成っていうのは、最も早く来るんじゃないかと思うね。
 はい。だからこの前半に関しては、別に論理的に考える必要はありません。まあでもパーッて読むぐらいでいいと思います。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第121話」

2018-07-31 21:18:58 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAMRITAチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第121話」です。

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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第九回(12)

2018-07-31 17:49:15 | 勉強会より抜粋


◎自分の肉体はただ神に預ける

 今ネットの方でギリシュ――ラーマクリシュナの弟子のギリシュの生涯っていうのをアップしてるけども、ちょっとその最後の方で、素晴らしい場面があってね。ギリシュが最後病気になってね、ちょっとこう重病になるんだけど――まあちょっとこれはあとで載せるので、正確なのはあとで見てほしいと思いますが――ギリシュは高らかに宣言するんですね。何を宣言するかって言うと、「君たちはわたしがこんな病気ぐらい治せないと思っているのか」と。「わたしは治せるんだ」と。「もしわたしがドッキネッショルで――ドッキネッショルって彼の――まあその当時はもう死んでたわけだけど、彼の師であるラーマクリシュナが生涯いた、カーリー寺院ね。カーリー寺院に行って、ドッキネッショルの地面で転がってね、師ラーマクリシュナに心からお願いすればこの病気は簡単に治るんだよ」と、言ってるんだね、ギリシュはね。「しかしわたしはそれをしない」と。「なぜかと言うと、わたしが病気になったのも師の恩寵である」と。「師がわたしのカルマを破壊してくれるために師が病気をお与えくださった」と。そして、「このわたしの肉体っていうのはわたしのものじゃなくて、師のものだ」と。つまり、「ラーマクリシュナに捧げちゃったものだから、だから師の思し召しによって死ぬときは死ぬ」ということをギリシュは言ってるんだね。
 ラーマクリシュナも同じようなこと言ってるね。前も言ったけど、ラーマクリシュナが病気になったときに、ある信者がね、「カーリー女神にお願いして、その病気を治すように言ってください」って言ったんだけど、ラーマクリシュナは、「わたしはわたしの心も体も全部カーリー女神に預けてしまったから、わたしの病気を治してくださいなんて、そんなこと言えないんだ」と。
 だからこういう発想っていうかな。つまり自分の肉体はただ神に預け、すべて差し出し、その道具として、思し召しによって、生存されたり、殺されたり、あるいは病気になったり、健康になったりしてるだけだと。だからそこに自分が心を乗っけて、「こうなったらいいな」とか、「こうであってほしいな」っていうこと自体が間違いなんだっていうかな。うん。
 カリユガだからさ、現代ではやっぱり肉体に対する心わずらいってすごく多いと思うんだね。例えばいろいろあるでしょ? 病気なんじゃないかっていうのもそうだけど、きれいでいたいとかね。太りたくないとかね。いろいろあると思うんだね。だからそういうのからできるだけ離れてください。できるだけ離れて、何度も言うけども――まあつまり、わたしが心煩わせなくても、ね、もしわたしが神にすべて預けてれば、神が一番いいようにしてくださるんだと。そういう発想ですね。わたしがこうじゃないか、ああじゃないかとか考えたってしょうがないと。死ぬときは死ぬし。もし病気が必要なら病気になるし。あるいは健康で何かやらなきゃいけないんだったら健康になるだろうし。そんなことはわたしが心を煩わすものではないっていうかな。うん。だからそれをすごく肝に銘じたらいいですね。
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解説「ナーローの生涯」第8回(3)

2018-07-31 09:00:19 | 勉強会より抜粋

◎王女を引きずり回す


【本文】
 ティローはまた一年間、黙って瞑想し続けました。ナーローはティローの周りを敬意を持って回り、教えを懇願しました。
 ティローは、「教えがほしいなら、ついて来い」と言って、歩き出しました。すると、王女と従者を連れた大王の一行と遭遇しました。ティローは、「私に弟子というものがいたら、あの王女を引きずり回しただろう」と言いました。ナーローがそのとおりにすると、王と従者達によって、ナーローは半殺しの目に合いました。
 ティローはまた神秘的な力で傷を癒すと、ナーローに、転移のヨーガの教えを伝授しました。



 まあこういう感じで全くわけが分からないわけだけど(笑)、ただまあこのパターンでね、延々と試練が続くわけですが。わけが分からないともいえるし、まあ実際に多くの示唆を含んでるともいえる。このナーローがティローに出会うまでの話と、それから出会ってからの試練の話っていうのは、だいたいがナーローのそれぞれの段階における、希望とその希望を打ちのめされるプロセスといってもいい。
 例えばこの今のエピソードをいうとね、まず最初の段階で、ナーローはティローに対して教えを懇願すると。これはだいたい一年間なんだけど、一年間全く師匠は何の反応もしないわけですね。これが一つのナーローの希望と挫折のプロセスなわけだけども。せっかく受け入れてもらった師匠が、一年間全く自分をかまってくれないと。で、一年経ってやっと振り向いてくれた。で、自分に指示を出してくれるわけですね。その指示っていうのが、まあ滅茶苦茶な指示なわけだけど、ここでは王女と従者を連れた大王の一行がいたと。で、「その王女を引きずり回しただろうなあ」っていう感じで言うわけだね。これを指示と考えて、王女様を引きずり回しにいくわけだね。
 当然ナーローは別に喧嘩とか強くないから、相手はその王とその軍隊ですから、もう滅茶苦茶に半殺しにされるわけですね。これは一つの絶望です。つまり、まるで夢物語のように、師の言うことを聞けばパーッと悟りがあらわれるとか、何か奇跡が起きて、っていうんじゃないんだね。普通に行って、普通に半殺しにされてる(笑)。ね。このようなプロセスが何度も何度も繰り返されるんだね。
 これはちょっと皆さんに伝わるかどうか分からないけども、修行というよりも――まあ修行ももちろんそうなんですけども――もちろん修行という一つの崇高な道も含んだ、精神世界とか宗教とか信仰の世界における一つのプロセスなんだね。



◎エゴの足場

 このプロセスっていうのは、われわれがまだエゴに満ちた心によって、真実を追求しようと思うと。でもここには多くの問題が含まれているんです。何が問題かっていうと、まず九十九パーセントエゴなんです。九十九パーセントエゴなんだけど、でも前生からの縁、または心の中に眠っている善きカルマによって、ピカーッと、純粋にね、「わたしは真理を知りたいな」っていう気持ちが出てくる。これによって真理に向かうわけだけど、九十九パーセントエゴだから、だんだんそのエゴに、その純粋な気持ちが浸食されていくんですね。で、スタートは良かったかもしれないけども――エゴっていうのはすごく狡猾でね、おもしろいもので、ある環境に入った場合、その環境で自分の都合のいい足場を探すんです。
 例えばですよ、一つの例を挙げましょう。例えばこのカイラスという場所がね、悟りを得るための場所であるとした場合ね、悟りを得るための場所っていうのは、逆の言い方をすると、エゴを破壊するための場所だとした場合ね――まあカイラスじゃなくてもいいんだけど、例えばインドのどっかのアシュラムでもいいわけだけども。例えばそこにある人が決心をして、「わたしは修行を始めよう」と。ね。足を踏み入れたとするよ。「わたしはエゴを破壊したいんだ」と。「真の悟りを得たいんだ」と思って足を踏み入れました。
 この瞬間はもちろん崇高な思いで足を踏み入れるわけだけど、足を踏み入れた瞬間から、エゴが足場を探しだします。
 足場を探しだすっていうのは、その場所は――もう一回言いますよ――エゴを破壊するための場所だったはずなんだが、そこに足を踏み入れた瞬間、エゴが、「さあ、ここでどうやってうまく快適に過ごしていこうかな」って考えだします。こうしてその場所はまた自分のエゴを満たすための場所に変わってしまう。
 これはもうきりがないんだね。きりがないんだけども、これは非常に狡猾な罠なので、絶対に誰もが九十九パーセントというよりも百パーセント陥る罠。だからそれは皆さんがどんなに素晴らしい修行団体に入ろうとも、どんなに素晴らしい師匠の弟子になろうとも、必ずこの罠に襲われるんだね。
 で、普通はそれを長い時間をかけ、勘違いしながらも、自分のいい部分は増大させて、で、ちょっと定期的に――その定期的にっていうのは、数年ごとかもしれない、あるいは数十年ごとかかもしれないけど――定期的にエゴをぶち壊される出来事とか環境がやってきて、で、それで修正されて。で、また心を入れ替えて、また進むと。でもまたすぐにエゴが浸食しだすと。この繰り返しになるんだね。
 でもこのナーローのやってるような世界っていうのは、そのような悠長な世界ではなく、徹底的に打ち壊されまくる道なんです。ちょっとだからこういうこと言うと皆さん怖いかもしれないけど、修行というのは一体何ですか?――徹底的に壊されまくる道であると(笑)。ね。で、最後には――ちょっと言葉では表現しづらいけども一応言うと――絶望という言葉さえない、完璧なる絶望がある(笑)。
 絶望ってさ、まだ余裕があるんだね。「絶望だ!」と(笑)、まだ全然余裕がある(笑)。ね。あるいは「おれはもう終わったー!」とかね。「生きる望みがない」とか、「もうわたしは生きてる意味が何もない」と。これは全部完全にまだ余裕があります。そんな余裕の隙間さえないくらいにぶち壊されなきゃいけないんだね。

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敬信

2018-07-31 08:06:36 | 経典の言葉・聖者の言葉
 敬信が道の要である。私たちの心の中にグルの他に何もなく、燃えるような敬信の他に何も感じることがなければ、何が起ころうとすべてはグルの祝福となる。この絶えることのない敬信を抱いて、ただ修行にいそしんでいれば、それ自体が祈りとなる。
 一切の思いがグルへの敬信に染まるとき、何が起ころうとすべてはしかるべく動いていく、という自然な確信が生まれる。すべて形あるものはグルであり、すべて音あるものは祈りであり、粗雑な思いも微細な思いも思いはすべて敬信である。絶対の本質の中で万物は自ずと解き放たれる。

 ――ソギャル・リンポチェ


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おまかせ

2018-07-30 17:05:01 | 経典の言葉・聖者の言葉
「『ハリ、主があらゆる生き物の中におわします』と知って、賢い人々は、すべての生き物に対して揺るぎない愛を示す」

 この種の強烈な、心を奪う愛の結果として、完全な自己放棄(おまかせ、自己の明け渡し)、何一つ自分にとって悪いことは起こらないという確信、すなわちアプラーティクリヤが生まれます。
 そうすると愛する魂は、もし苦痛が来れば、『ようこそ、苦痛よ』と言うことができます。もし不幸が来ればそれは『ようこそ不幸よ、あなたもやはり愛するお方のお使いです』と言うでしょう。もし蛇が来れば、『ようこそ蛇よ』と言うでしょう。たとえ死がやってきても、このようなバクタはほほえみをもってそれを歓迎するでしょう。
 『彼らすべてがわたしのところに来るとは、私は実に恵まれている。すべてを歓迎する』――神と『彼のもの』であるすべてのものへの強烈な愛から生まれる完全なおまかせのこの境地に達したバクタは、自分が受ける影響に関して、楽しみと苦しみとを区別することをやめます。彼は、苦痛や不幸に不平を言うというのはどんなことであるのか、知らないのです。
 このような、愛そのものであられる神の思し召しへの文句なしのおまかせは、実に、華々しく英雄的な行為のすべての栄光よりも価値のある、修行の成果です。」




――ヴィヴェーカーナンダ


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立ち上がれ

2018-07-30 16:58:03 | 経典の言葉・聖者の言葉


 立ち上がれ。そして本腰を入れて全力で精進するのだ!――この人生はあとどれくらい続くと思う? この世界に生まれてきたからには、何かのしるしを残して死んでゆけ。そうしないのならば、お前と木や石の間に何の違いがあるか? 木や石だって同じように、生まれ、朽ち、死んでゆくのだ。もしそれらのようにただ生まれて死んでいきたいのなら、それはお前の自由だ。お前のヴェーダーンタの学びが実りあるものとなったのだということを、行為によってわたしに見せてみろ。彼らに『あなたたち全員の中には、永遠なる力が宿っています』と伝え、それを目覚めさせてくるのだ。個人的な救済を得て何になるというのだ? それは全くの自己中心的考えだ。お前の瞑想など、放り投げてしまえ! お前の救済など投げ捨ててしまえ! わたしが自らを捧げたこの仕事に、お前の全身全霊を注ぐのだ。


――スワミ・ヴィヴェーカーナンダ


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すべての衆生の

2018-07-30 16:01:15 | 松川先生のお話

 すべての衆生の 清らかな善を
 私は歓喜し 喜びます
 苦しむ衆生 それらの善で
 安楽となれ 輪廻を超えて

 救済者たちが お説きになる
 菩薩とブッダの 素晴らしい境地
 それを私は 賛嘆します
 そしてブッダに 懇願します

 無明のために 苦しみの中
 沈み落ちてく 衆生のために
 法のともしび 照らしたまえ
 そしてブッダに 懇請します

 無限のあいだ この世にあられ
 苦しむ衆生を お救いください
 この世を闇と したもうなかれ
 そして私の 積んだ功徳で
 衆生の苦悩 滅尽したい

 私は病人の 医者でありたい
 薬でありたい 看護をしたい
 飲食の雨 たゆまず降らし
 飢えと渇きを 滅ぼしたい
 飲食物に 私がなりたい

 貧困にあえぐ 衆生のために
 私は不滅の 宝になりたい



(入菩提行論の歌)


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得難き

2018-07-30 15:53:13 | 松川先生のお話

 得難き 人身を
 得た今 目的を
 達成しなければ
 再び 時ぞ来ぬ


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パトゥル・リンポチェの生涯と教え(25)

2018-07-28 14:49:14 | 聖者の生涯


◎慈悲を培い、空性を理解する


 ゾクチェン僧院の上方の森林に覆われた荒野にあるヤマーンタカ窟で、パトゥルは、長年の弟子であるニョシュル・ルントクとパルチェン・ドルジェ、そしてその他の多くの弟子たちに、イェーシェー・ラマの教えを与えた。


 あるとき皆は、「輪廻とニルヴァーナの識別」という一連のゾクチェンの前行を行なっていた。そのとき、ニョシュル・ルントクは、普通ではない動きで歩き回っている、兄弟弟子のパルチェン・ドルジェを見て、感銘を受けた。パルチェン・ドルジェの動きはまるで、口に綱をくわえて歩いている、ヤクのような駄獣(荷物の運搬に用いられる動物)を思わせたのだ。


 これを見て、ルントクは慈悲の想いで圧倒され、そのような荷物の運搬に使われる動物がどれほど苦しんでいるかということが、嫌というほどわかった。この洞察によって、彼は、以前とは一転して、すべての衆生が輪廻の中で大変な苦しみを味わっているということを認識し始めたのだった。ルントクの衆生の苦しみへの慈悲の想いは、深くなった。


 次にルントクは、「フーム音を発する」という修行を行なった。まずはその種字(フーム)の音を発し、それからその種字(フーム字)を観想し、どんどんその数を増殖していって、フーム字が充満したという経験を完全にするまで、それらをどんどん広げていくのである。


 そのとき、完全な広がりの中にある全宇宙が、実体がない完全なる透明なもの――本質的にはまったくの空であるとして、ルントクに明かされたのだった。






◎ルントクの夢


 ニョシュル・ルントクは、パトゥルからイェーシェー・ラマの教えを受けている間、繰り返し、黒い羊の毛玉の夢を見続けた。その夢の中で、彼は、その玉が解けないように、しっかりと握っておかなければいけないという気持ちに駆られるのだった。


 ある夜、教えを受け終わると、ルントクはまた別の夢を見、その夢にはパトゥルが現われた。そこにはまた、黒い羊の毛玉があった。パトゥルがその毛糸の端を引っ張ると、玉は完全に解け、そこに黄金のヴァジュラサットヴァの像が現れた。そしてパトゥルはその像をルントクに与えたのだった。

 夢の中で、ルントクは顔をしかめて、こう考えた。

「像が毛糸の中にあると知っていたら、私はそれが解けないようにと一生懸命になる必要はなかったのに!」

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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第51話 前編「ドラウパディーの怒り――報復への布石」」

2018-07-28 09:48:25 | 松川先生のお話
今日のAMRITAチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第51話 前編「ドラウパディーの怒り――報復への布石」」です。
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我が師(日本語版)

2018-07-27 09:35:24 | 松川先生のお話
我が師(日本語版)
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グル・プールニマ

2018-07-27 07:44:33 | 松川先生のお話



 今日は、一年で最も祝福が強い満月とされるグル・プールニマ(グル(師)の満月)と呼ばれる満月です。

 正確には満月になるのは明日早朝ですが、インドの歴の計算方法だと、日本では今日がグル・プールニマになるようです。まあですから今日と明日を、神聖な気持ちで過ごしたらいいですね。さらに今回は皆既月食も加わるので、非常にパワーの強いグル・プールニマになるかもしれません。


 この日は、師がいる人は師に、いない人は古からの偉大なる師方に、供養や感謝を捧げるといいでしょう。

 祭壇に供物を捧げたり、心の中で師を瞑想したり、礼拝したり、賛歌を歌ったりするといいでしょう。


 またこの日は、新たなる誓いや決意を立てるのに良い日だともされているので、今日からまた新しく生まれ変わる気持ちで、心を新たにして決意や誓いを胸に刻むのもいいでしょう。


 そして師への最高の供養と礼拝は、師の教えを実践することであるといわれますので、今日を境に、師の教えを実践し成就することで師の恩に報いることを決意するといいでしょう。








「グル・プールニマ(グルの満月)のメッセージ」

  ――スワーミー・シヴァーナンダ



1956年

「汝の真我を知って、自由になれ!」


 『人々は、模倣するためのモデルをもたないと、ほとんど向上することはない。』と、オリヴァー・ゴールドスミスは言った。
 『耳を持つ者に聞かせよ。眼を持つ者に見させよ』と、イエス・キリストは言った。

 古から、真理の灯、神聖なる美と不死の灯、人生の不朽の真義の灯、霊性の光明の秘密の灯は、偉大なる卓越した魂たち、人類の師たち、命をかけるに値するものの保管者たちを通じて伝えられてきた。

 誘惑してくる無数の存在と経験で覆われた人生という、広大で無秩序に広がった学校で、本性そのものであり、驚くほどずば抜けて優秀な教師は、厄介な問題、不可思議なこと、例外的なこと、それらすべてを解決するための手段を提供する。

 『眼を持つ者に見させよ』というメッセージは常にそこにあり、それを聞く者もそこにいる。しかし、故意に眼と耳を閉じる者たちは、自分で作り上げた迷妄という暗闇の中で、無駄に眠っている。なぜなら、起きようという意欲との相互作用がそこにない限り、覚醒は真の効果を発揮できないからだ。

 ゆえに、誠実さ、真面目さ、信、学ぼうという意欲は、すべての求道者が持たねばならない第一の絶対不可欠な必需品である。それから彼は、虚偽から本物を、好ましくないものから好ましいものを、不適合なものから助けになるものをより分ける冷静な識別智という恩恵を得るべきである。そうしてその後に、無条件の信と、貫き通すという精神をもって、選んだものを決して掴んで離さないという確固たる決心をし、妥協なき忍耐をもって理想を追求しなければならない。

 グルと弟子の関係は、相対的理解、現世的な反復運動の感覚を軸に回っているときは、ほとんど長続きしない。人はどのように師にお仕えできたら一番いいのか? 一番最高な方法は、明快で先入観のない理解によって拍車を掛けられた絶対の服従を通じて、彼をこの上もなく喜ばすことだ。師に捧げられた最も実りある奉仕は、彼の教えの非常に明晰な実例となるだろう。

 真理の探究者たちよ! グル・プールニマの聖なる時に、改めて人類の師たちへの奉仕、彼らが生きた理想、彼らに授けられた教えに献身しなさい。平和と慈愛、すべての衆生への無私の愛、苦しむ者たち、寄る辺のない者たちへの熱心な奉仕、あなたの性質の浄化と改良、あらゆる有益なもの、価値のあるものの育成と、粗野、がさつ、卑劣、不純なものすべての滅却という彼らのメッセージに耳を傾けなさい。

 目的を忘れてはいけない。
 真理はリアルであり、非真理は放棄すべきである。
 成功はリアルであり、失敗は推進力である。
 美徳はリアルであり、それをただ口にするだけならば悪である。
 愛はリアルであり、嫌悪は見当違いの衝動である。
 幸福はリアルであり、苦しみは自己欺瞞である。
 生はリアルであり、死は生そのものの変化した相にすぎない。
 これらを忘れてはいけない。
 常に、より良きものに向かいなさい。

 瞑想し、平穏と内なる光明の暁を迎え入れなさい。内省し、世俗の欲望の垢を清めなさい。熟考し、非真実から真実をより分けなさい。
 色彩と劇、素直さと欺瞞、情熱と軽蔑、称賛と中傷というこの地上のパノラマの真っただ中で、初めから終わりまで、満ちては欠け、欠けては満ちてゆく人生を通じて、神の愛と平衡、美と幸福を、あなたの静まり返った心の中に、あなたの本質的な精神の本性の聖所の中に見出しなさい。
 目撃者であれ! 自分自身を知りなさい、そして自由でありなさい!


 過去と現在のブラフマヴィディヤー・グル方の祝福が、あなた方皆に常にあらんことを!

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月光

2018-07-26 21:43:47 | 松川先生のお話
月光
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シッダールタ

2018-07-26 19:01:33 | 松川先生のお話
シッダールタ
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