ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第49話 前編」

2018-06-29 22:19:27 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第49話 前編」です。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第116話」

2018-06-26 20:27:55 | 今日のAMRITAチャンネル
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今日のAMRITAチャンネル「キールタン・イメージビデオ」

2018-06-25 22:31:47 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAmritaチャンネルは、「キールタン・イメージビデオ」です。



曲目

1.入菩提行論の歌PART1 THE SONG OF BODHICARYAVATARA
2.Maitri
3.MOUNTAIN HARE KRISHNA
4.SITA RAMA Kirtan
5.入菩提行論の歌PART2 正智の守護 THE GUARDING OF Awareness
6.PREMA CHALISA
7.空からの使者
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第48話 後編」

2018-06-22 22:56:22 | 今日のAMRITAチャンネル
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第九回(7)

2018-06-19 19:54:46 | 勉強会より抜粋



◎神だけで心をいっぱいに

 はい。ちょっと話が広がっちゃいましたが、もう一回言いますよ。三番目にもっとも大事なことは、恋愛とか性欲にはまってしまうと、その相手で頭がいっぱいなることによって、その自分がその執着してしまった相手と――あと例えば嫉妬とかもそうですよ。嫉妬の場合はその嫉妬の相手とカルマ交換が起きるからね。例えばある人がいて、例えばY君が――まあ嫉妬って怖いのはさ、ありもしないことで頭が悶々なるからね。例えばY子さんがちょっと昔の友達と親しげに話してたらね、「あいつ!」……


(一同笑)


「なんであんな親しいんだ」と。「なんか狙ってんじゃないか」とか(笑)。もう全然そんなことないんだけど、悶々として、で、その昔の友達の男で頭がいっぱいになると。「あいつあの表情はちょっと……なんかある!」とかね。悶々悶々とした場合、その男とY君が混ざり合います。これは怖いよね。だって変な話、今のこの例でいったらね、Y君、その男のこと嫌いなわけですよね。嫌な奴と思ってるわけです。嫌な奴と混じり合うんだよ(笑)。これは怖いところだね。嫌な奴なんだけど、そこでグッと心向けてるから――あのさ、クリシュナ物語でカンサがね、クリシュナを憎んで憎んで憎んだら、クリシュナと合一したっていうのと同じで(笑)、われわれが憎しみであろうが、愛着であろうが、グワーッてこう、頭がそれでいっぱいになった場合、その世界と混じり合うんだね。だからこれは非常に怖いね。
 だから憎しみもそうですよ、さっきも言ったように。「あいつ許せない。許せない。許せない」と思ってたら、その人と完全に混じり合います。
 だからわれわれは煩悩を捨てろって言ってるんだね。憎しみもいらないと。執着もいらないと。ただ神だけで心をいっぱいにしなさいと。ね。シンプルにそれだけでいいと。
 しかしもう一回言うけども、このスワーディシュターナの世界っていうのは、性欲の対象や、あるいは恋愛の対象で頭がいっぱいになってしまうので、そうなるとその世界と自分が混ざり合ってしまう。で、神の入る余地がなくなってしまうので、駄目ですよと。
 これはまあ、説明としては一番大事なことかもしれない。
 はい。だからまあ表面的な道徳的なことだけじゃないっていうことだね、この邪淫はね。
 はい。ちょっと長く話しちゃいましたが、このあとはまあ同じような繰り返しなので、一応パーッと読んでいきましょうね。はい。


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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第115話」

2018-06-19 17:30:17 | 今日のAMRITAチャンネル
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第九回(6)

2018-06-19 17:12:41 | 勉強会より抜粋


◎戒律の発想

 で、わたしがね、今言ってる話もそうだし、わたし最近ちょっと思うんだけど、まあそれは皆さんの修行ステージが上がってるからだと思うんだけど、まあカイラスでわたしが話すことが結構厳しくなってる。厳しくっていうか、ハードルが上がってるような気がするんだね。でもですよ、今日の話もそうだけど、まあこのあいだの、例えば「エゴを百パーセント捨てなさい」と。「エゴをゼロにしなさい」っていう話もそうだけども、本来のヒンドゥー教や仏教では当たり前の話です。普通です。当たり前なんです、それが。現代ではなかなかそれが難しくて合わないので、日々そうじゃない世界に今生きてる人が多いので、妥協して説かれてるだけであってね。本来は当たり前の話しかしてない。ここで言ってることっていうのはね。だから今日の話も、そうですね、本来当たり前のことだと考えてください。
 さっき言った話もそうだよ。さっき言った、ヒンドゥー教では、あるいは仏教では、インド社会ではもともと夫婦っていうのは子供を産むためだけの、性的な交渉しかしちゃいけないんですよと。これも厳しい話ではない。当たり前の話なんです。
 で、なぜ当たり前なのかっていうと、こういった戒律とかっていうのは、あるいは宗教的制約っていうのは、まあ前も言ったけどさ、戒律の一つの意味合いを言うとね、ある世界におけるセッティングなんです。ある世界におけるセッティングっていうのは、例えばですよ、動物は――まあ動物の種類にもよるけども――動物は一般的に、さかりがつけば見境なくセックスをすると。そうじゃない動物もいるけどね。そうじゃない動物はあまりスワーディシュターナが強くないのかもしれないけど(笑)。一般的にはさかりがついた、例えば女性が発する発情の匂いとかに――雌が発するね――いざなわれて、雄が雌を追いかけ、見境なくセックスをすると。これが動物のダルマなんです。で、現代みたいに発情し、性欲が出て、見境なくセックスをするっていうことを人間がやってたら、これは来世動物に生まれるための戒律っていうことになるんです。「はい。あなた、『動物ヨーガ』やりたいですか?」と。ね(笑)。動物ヨーガ。「じゃあまず、見境なくセックスしてください。」「来世必ず動物に行くでしょう」と(笑)。だから逆に言うと、動物に行きたくなかったら、見境ないセックスはやめてくださいと。
 じゃあ、人間のダルマはなんですか?――これも何回か言ってるけど、人間のダルマっていうのは、まあちょっと分かりやすく言うと、人間的な友愛、あるいは純愛、あるいは愛情の世界です。人間的なって言ってるのは、動物的な愛情ととても混同されやすいんだけども、人間的なっていうのは、例えば利害の絡まない友情とかね。あるいは男女関係の場合も、一途な、性欲とかじゃなくて、本当に相手の幸せを願った恋愛とかね。あの、ここでなぜこれが人間界に限定されるかって言うと、真の慈愛だったら、「すべての魂」になるんです。真の慈愛の場合は、「すべての魂が幸せになってくれ!」っていう強烈な慈愛なんだね。で、人間界の場合は限定的慈愛なんです。限定的慈愛っていうのは、仲間に対する私心なき思いとかね。私心なきっていうのはいいことでしょ? つまり仲間に対して犠牲になると。これは素晴らしい。でも敵に対しては犠牲にならない。当たり前だけどね。あるいは「自分の愛する恋人のためだったらわたしは死んでもいい」と。ね。まあもっと言えば、「わたしの好きなあの人と別れることによってあの人が幸せになるんだったら、別れましょう」と。これが人間的慈愛です。でもほかの人のことはどうでもいいと。ね(笑)。だから限定的なんだけど、でも慈愛に近いような感じがある。これが人間界の世界なんだね。
 だから人間界のダルマっていうのは、性欲に溺れちゃいけないんです。限定的ではあるけども、その自分と縁のある人達を心から愛する。あるいは幸せを願うと。これが人間のダルマなんだね。だから最低限人間でいたかったら、そこは守んなきゃいけない。
 で、もちろん神となったら今度はもう厳しくなるわけだね。まず例えば、神はもちろんセックスをしない。低い神はするんだけどね。高い神に生まれようと思ったらセックスをしませんと。あ、じゃあ性的なものは一切駄目ですねと。もちろん殺生も盗みも嘘も綺語も両舌も全部しませんよと。「あ、そうか」と。じゃあそこに心合わせるしかないと。あるいは、行動を合わせるしかないと。合わせることによってその世界にシフトしようとするのが、まあ一つの戒律の発想なんだね。
 だからもう一回言うけども、これは当たり前の話だと思ってください。で、当たり前の話って何を言ってるのかっていうと、法則っていうのは変わらないから。法則変わらないっていうのは、時代が変わっても太陽は東から昇り西に沈む。これは変わらないでしょ? これと同じで、時代が変わっても――例えば、「現代は時代が悪くなったから、動物界のカルマちょっと変えましょうか」とかね、「天に行くカルマをちょっと弱めましょうか」とかありえない。法則はずーっと変わらないんです。法則はずーっと変わらないから、われわれの、この意識が下がった時代で妥協っていうのは許されない。うん。「ちょっと現代は大変な時代だから、まあここまででいいよ」みたいなのは許されないんだね。現代でも同じようにわれわれは古から言われてきた――だからサナート・ダルマって言うんですが。永遠のダルマっていうわけですけども――永遠のダルマとされるこの法則に心を合わせて――もしですよ、神に行きたかったらだよ、あるいは人間界以上に生まれたかったら、あるいは来世も修行者や菩薩として、神のしもべとして生きたかったら、法則通り生きるしかない。そこに心合わせるしかないんだね。それが苦しいと感じる、それがきついと感じるのは今われわれが落ちてるからです。本当は全然きつくないんです。もし皆さんが、本来皆さんが持ってる純粋な修行者としての、菩薩としての意識がパッと目覚めたら、楽々です(笑)。こういった教えで説かれることっていうのはね。っていうかそれが当たり前になるから。
 だから決して妥協した思いっていうものを、まあこの今日の話だけじゃなくてね、いろんな法に対して、教えに対して持ってはいけない。
 もう一回言うよ。もし自分が教えや法を、「厳しいな。ちょっとどうなんだろう?」っていう思いが出るとしたら、今自分は落ちてると思ってください。意識が落ちてるんだと。あるいはカルマが落ちてるんだと。だからそれは努力して引き上げなきゃいけない。
 ――っていうのは、皆さんがこういう教えに出合った、修行に出合ったっていうこと自体が、皆さんが本来は、もっとね、それが楽々できるような純粋な魂であるっていうことを表わしてるわけだから。だからそれをしっかりと自負を持って、今いろんなカルマによって落ちてしまった自分をしっかりと引き上げると。それをちゃんと努力したらいいね。
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誰も持たない者は

2018-06-19 16:34:33 | 経典の言葉・聖者の言葉


 あるとき一人の男がシュリー・ラーマクリシュナのところに来て、自分は非常に悲しいと言った。師は彼におっしゃった。
「ねえ、苦しみは喜びよりもいいことなんだよ。ニルヴリッティ(放棄)は、プラヴリッティ(世俗の対象への執着)よりもよい。苦しみは心を神の方へ向ける。」

 またあるとき一人の女性がカマルプクルからやって来て、師に「わたしはこの世の中で独りぼっちです」と言った。
 これをお聞きになって師は喜びのために踊り始められた。彼は、「誰も持たない者は神を持つ」と彼女におっしゃった。


(「わたしたちが見たラーマクリシュナ」より)


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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第九回(5)

2018-06-19 15:06:15 | 勉強会より抜粋


◎異性への愛欲のデメリット③――聖なるものが意識から消える

 次に三番目。実はこの――まあ今言ったのは二つともエネルギー的な問題ですけども、三番目が一番本当は大事なのかもしれない。この三番目は何かっていうと、意識の問題です。意識の問題っていうのは、これはまあだいたい性的なものとか、あるいは恋愛とかにはまった人っていうのは分かると思うけども、つまり頭がそれでいっぱいになる。頭がそれでいっぱいになることによって――まあつまり、われわれの頭から、逆に言うと、神とか、あるいは真理とか、あるいは求道心とか、そういったものが吹っ飛んでしまうんだね。で、この力っていうのは、その、やっぱりこのスワーディシュターナ、恋愛的なのが一番強い。ほかのもので頭がいっぱいになることももちろんあると思うよ。例えば食べ物とかね。あるいはお金とか。あるいは憎しみの対象とかね。それは人によってひっかかる部分って結構違うと思う。例えば憎しみが強い人は、恨む相手で頭がいっぱいになるっていうのは当然あると思うよね。あるいは貪りが強い人は、お金とか、自分が欲しい物質で頭がいっぱいになるっていうことも当然あるかもしれないけども。でも恋愛的なもの、もしくは性的なもの、あるいはね、そこから派生する嫉妬とかね。恋愛的な感情、性的な性欲、あるいはそこから派生する嫉妬心、これはもう心をそれでいっぱいにします。つまり逆に言うと、神聖なるもの、神なるものから心が全然持ってかれてしまうんだね。
 で、これはとても怖い。何が怖いかというと、これも何度か言ってるけどさ、まあ逆に言うとね、なぜわれわれは「常に神を思え」とか、「二十四時間神から心を離すな」っていうふうに言われるのかっていうとね、われわれは、単純に言うと――これも仏教でもヨーガでもいってますが、心で思ったものになるんです。簡単に言うとね。心で思ったものになる。
 これはさ、ある経典に書かれてるんだけど、まあ経典っていうか『バーガヴァタ・プラーナ』ね。ヒンドゥー教の有名な聖典『バーガヴァタム』の中にあるんですが。ある王様がね、ある女性をすごい溺愛してて。ものすごい溺愛してて、超溺愛してて、で、ただ最後は戦争かなんかで死んでしまうんだね。死んでしまうんだけど、その恋人に対する溺愛がすごかったんで、それを超思いながら死んじゃったので、次の生、その恋人とそっくりの女性として生まれちゃったんだね。これは非常に怖い話であって。まあこれはちょっと特殊な例かもしれないけどね。皆さんがそういったのにはまったからって恋人と似たように生まれるって言ってるわけじゃないんだけど。つまり同じ世界、同じその領域に引っ張りこまれるんです。
 これはよく言われるように、脳波の研究とかで言うと、夫婦の脳っていうのは似るっていうんだね。脳波ね。夫婦の脳波は似てくるんです。あるいはまあよくいわれるように、夫婦の顔って似てくるよね? つまりカルマがこう混ざってくるんです。それは、もちろん一緒にいるだけじゃ混ざんないよ。なんで混ざるのかっていうと、当然集中してるからです。常に例えば旦那さんのことを考えてる。常に奥さんのことを考えてる。当然脳波が混ざり合い――現代的に言うとね。実際には脳波っていうよりはアストラルの世界が混ざり合い――アストラルっていうのはさ、いつも言うように曖昧な海みたいなものだから。曖昧な海っていうのは、例えば、そうだな、日本海と太平洋――日本海と太平洋って違うわけだけど、でもその混ざってるとこがあるとしたら――あれ? 日本海と太平洋って接触してるよね? ちょっとはね。その接触してるところ、どっからどこまでが日本海なんだって言いづらいですよね。なんとなくこのエリアを日本海って言ってるだけで。あるいは太平洋と言ってるだけで。同じように広大なアストラル空間があって、そのある一部をわれわれは、「わたしの心」と言ってる。あるいは例えばY君だったら、「Y君の心」と言ってると。で、これが一部混ざり合ったりする。で、それがものすごく集中してると、ものすごく混ざり合うんです。で、こっちが例えば相手にものすごい集中した場合ね、当然その相手の世界に引きずり込まれるようなかたちで混ざり合います。で、もちろん相手が聖者だったらかまわないかもしれないけど、普通はそうじゃないから。それによって相手の持ってる煩悩であるとか、相手の持ってるカルマであるとかと自分が混ざり合ってしまうんだね。これは非常に恐ろしいことであって。まあだから「逆グルヨーガ」みたいな。ね(笑)。


(一同笑)


 例えば、だから逆に言うと、グルヨーガとかバクティヨーガの狙いはそこにあるんです。つまり「ひたすらグルだけを思え」とかね。あるいは「ひたすら神だけ思え」っていうのは、つまりその対象が完全に聖なるものだったら、完全集中することによって、それをもらっちゃうことができるんだね。まあはっきり言えば努力なしに、その全集中だけでグルや神が持ってる世界をいただけると。これがバクティとかグルヨーガの秘儀なんだね。
 でも実際にはそれができるかって問題がある。つまり頭の中、普段はいろんなことを、いろんなカルマに応じた、いろんなことをいっぱい考えてて、ああだこうだ考えてて、で、たまに神を思うと。たまにグルを思うと。これじゃ駄目なんだね。あと義務的でも駄目です。義務的でもっていうのは、「なんかそう言われたから、ああ神、神ってやろうかな」じゃ駄目です。まさにさっきのバラタみたいに、「ああ! 神よ!」と。あるいは「グルよ!」と。あるいは「聖なるものよ!」と。もう心から、こう湧き上がる欲求っていうか。まあつまり欲求だね、一つの。聖なる欲求です。聖なる欲求を――あるいはラーマクリシュナが言うように、「自分の心のエネルギーのすべて、方向性、ベクトルすべてを神に向けなさい」と。これができることによって、さっきから言ってる言い方でいうと、われわれの世界とその神の世界が混じり合うんだね。混じり合うことによってわれわれはそれに近付いていく。あるいは最も純粋な神の道具っていうかな。神がわれわれに課してるわれわれの人生っていうかな、使命っていうものに純粋に生きることができるようになる。これがバクティヨーガ、あるいはグルヨーガとかの目的なんだね。
 だからまさに最新の「あなたの愛に」の歌でもあるように、「心があなたでいっぱいなのです」と。「何を見てもあなたに見える」と。こういう感じを神や聖なるものに向けなきゃいけないんだね。それによって初めてわれわれの人生っていうのは、まあ祝福されるっていうよりは、まっとうなものになる。
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今日のAMRITAチャンネル「キールタン・イメージビデオ」

2018-06-18 21:42:48 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAmritaチャンネルは、「キールタン・イメージビデオ」です。



曲目

1.入菩提行論の歌PART2 正智の守護 THE GUARDING OF AWARENESS
2.アヴァターラ AVATARA
3.Maitri
4.JAY BAJRANGBALI JAY HANUMAN KI
5.PREMA CHALISA
6.SITA RAMA Kirtan
7.入菩提行論の歌PART1 THE SONG OF BODHICARYAVATARA

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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第九回(4)

2018-06-18 19:56:18 | 勉強会より抜粋

◎異性への愛欲のデメリット②――アパーナ気

 もう一つ言うならば、今度はこれも似てるけども、このチャクラではなくて、エネルギーの問題。エネルギーでいうと、まさに性的なものっていうのはアパーナ気なんだね。これは皆さん分かると思うけども、このわれわれの下腹部から下に存在する、アパーナといわれる、つまり下に下げる気です。これが性的なものや、異性への感情っていうものを司ってる。つまりわれわれが異性とか性的なものに心覆われると、このアパーナ気が増大し、で、気はどんどん下に下がる。これはだからさっき言ったことと似てるけども、気が下がるっていうことは、逆にいうと気が上に行かない。意識が上に行かないから、崇高なものが分からなくなる。
 で、この下の方のチャクラが示すような、その、なんていうかな――この話っていうのは長く修行してる人はとても分かるとは思うんですけども、われわれが例えば意識が落ちたとき。ね。あのさ、この中でさ、「意識が落ちたとき」ってわたしが今言って、「ああ」って分かる人っていうのは、ある程度修行してる人です。なぜかというと、修行を何年もしてることによって、意識が上がっていくんだね。でもずーっと上がってらんないから、いろんな悪いカルマによって落ちることがある。ね。で、また、でも上がると、修行すると。これを繰り返すうちに、落ちたときの悲惨さが段々分かってくる。ね(笑)。この悲惨さっていうのは、どういう悲惨さかっていうと――この中でも自己認識が甘い人がよくいるだろうから、一応説明するとね、この悲惨さっていうのは、ちょっとね、例えば「ああ、ちょっと暗くなっちゃったな」みたいな世界ではありません。もう世界が全然違くなります。ドヨーンとした、非常に暗く、苦しみに満ちた世界だね。でもそれはね、ちょっとあえて言うならば、もともと皆さんがいた世界なんです。もともと皆さんがいた世界ってそういう世界だった。で、その世界にいるときっていうのは、別に「なんとなく、なんか苦しいかな」とは思うけども、そんなものすごく苦しいわけではない。これはなんでもそうだけどね。外から見てると、例えば悲惨な世界でも――例えば刑務所でもそうだと思うんだけど、そこに慣れてしまうと、「まあ、まあまあいいかな」みたいな感じになってしまう(笑)。ね。で、われわれはもともとはそういう――カリユガの現代っていうのは、普通に生きてたらそういう世界だから。ドロドロとした、あるいはストレスに満ちた、あるいは心の暗さに満ちた世界っていうのがあって、修行によってちょっとそこからパッと頭を出すと。また落ちると。また頭を出すと。これを繰り返していくうちに、自分のその中心点みたいなのがちょっと上の方にシフトしてくる。これはいいことなんだけど、でもまあカルマによってたまに落ちることがあるわけですね。で、この落ちたときってまさに悲惨です。
 で、慣れてないと――慣れてないとっていうのは、この修行人生を長く続けてない人っていうのは、落ちたときにあまり気付かない場合があるんだね。気付かないっていうのは、その瞬間は気付くんだけど……瞬間っていうのは、「あ! 今わたしちょっと意識が悪くなった!」って思うんだけど、忘れてしまう。忘れてしまって、なんかずっとそうだったような感じになる。ね。ずっとそうだったような感じになって、もうネチネチとした心の働きが始まっちゃうんだね。これは非常に危険なんです。で、この悪さをしてるのがアパーナ気なんです。アパーナ気の下に下げる強さによって、ドーンと落ちる。
 あの、ちょっと今日はリアルな話をしてるのでリアルに言うけども、例えば女性の場合、生理ってありますよね。あの生理もアパーナ気の働きです。だから女性の場合、生理前後っていうのは気をつけた方がいい。気をつけた方がいいっていうのは、ちゃんと――まあもちろんいつもそうじゃなきゃいけないんだけど、特にそういうときこそ、いつも以上にね、神に心を向けて、しっかり気が上がるようにしとかないと。まあ肉体的なそういう反応はしょうがないんで、それは。それはしょうがないんで、それに本質的なエネルギーが負けないように、グッと上にエネルギーを上げておかないといけない。それによって意識が下に持っていかれないようにしなきゃいけない。
 で、まあそれはしょうがないんだけども。そうじゃなくて、われわれが気をつけないことによって、心が異性や、あるいは――まあ実際にはもちろん異性だけじゃありませんよ。憎しみとか。まあつまり下の三つのチャクラがあらわす、物欲、憎しみ、そして異性への思い。こういったものに心がとらわれることによってアパーナ気がドーンと落ちます。で、それが取り返しのつかない状態になると、完全に世界が変わってしまって、ドヨーンとした世界に巻き込まれ、非常に苦しくてしょうがない人生が始まってしまう。だから、このアパーナ気が強くなりますよ、アパーナ気によってわれわれが真理が分からない世界に入ってしまいますよと。
 わたしはね、よくいろんな人と会って、それはわたし自身の経験でもそうだけど、いろんな人を見てきてそれは思う。例えばさ、長年修行とかしててね、すごく否定的な人とかいるわけだね。否定的っていうのは、「修行なんか意味あるんですか?」と。「わたしは別にいろいろ煩悩楽しみたいんだ」と。あるいは、「なんでこういうことやっちゃいけないんだ。神なんて……」とか言ってるんだけど、でもその人の過去とか振り返ると、まあ長年修行してるわけだね。「なんかいろいろ言ってるけど、じゃあなんでお前修行してるんだ」と。ね(笑)。つまりそれは完全に落ちてるんです。つまりその人がもともといいカルマがあって修行の世界に入ってきたんだけども、悪いカルマを念正智しなかったがために、その世界にはまってるだけなんだね。外的に見るとですよ、客観的に見るとその人の人生っていうのは、自ら修行の道に足を踏み入れ、で、頑張ってこんな修行してきたような、まさに修行者だったりするんだけど、でも本人の言葉としては、「おれはもう神なんて……」とか(笑)、「修行なんかどうでもいい」とか、「教えなんて……」とか言い出してしまう。これはこのアパーナ気の怖さなんだね。
 だからこれはエネルギー的な話ですけども、アパーナ気を下に下げない。あるいはアパーナ気を強めない日々の注意っていうのはとても大事だね。
 これはこの性的なものが今回はテーマだけども、それだけではありません。あるいは逆に言うと、アパーナ気をしっかりと上げる努力も日々した方がいい。
 あのね、その最たるものは実は蓮華座なんです。ね(笑)。だから蓮華座しっかり組めたらとてもいいアパーナ気に対する対処法ですね。あとはムドラーももちろんそうだけどね。
 わたし気まぐれだからさ、……気まぐれだからって言うと変だけど、皆さんにあげてる加行っていつも変わるんですけども、今新しく加行をもらったら大変ですよ(笑)。最近四時間に一回くらいムドラー入れてますから。四時間に一回じゃない、三時間に一回だったかな?――一日八回くらいムドラー入れてるから。今加行もらうと大変だけど(笑)。でもそれくらい工夫した方がいいっていうかな。なかなか追いつかない。この世で生きてるだけで現代っていうのはアパーナ気がどんどん下がるから。街歩くだけでアパーナ気下がるからね。いろんな広告とかもそうだし、もちろんエネルギー的な問題もそうだけどね。あるいは男性の場合大変ですよね。夏とか街歩くと薄着の女性がいっぱい歩いててね、例えばY君とか……(笑)


(一同笑)


 どうしてもこう、「神よ!」とか言ってても、フッと目を奪われてしまう。でもこれはY君のせいじゃなくて、そういう下に下げるようなカルマが多い時代なんだね。そのカルマの表現としてそういうものがいっぱい周りに現われると。で、なかなか大変だと。だから工夫がいろいろ必要なんだね。
 だからそれはムドラーとか、あるいはバンダね。バンダっていうか日々――これは武術とかでもよくやるんだけど、普段からアシュビニー・ムドラー――肛門をグッグッグッて締めたりを普段からやるとかね。あるいはもちろん精神的には常に神のことを考えて――あのね、仏教でもヒンドゥー教でも同じですけども、もし二十四時間皆さんが神、自分の好きな神とか聖なるものを思い続けられたら、それだけでも実はオッケーなんです。それだけで心がずーっと上にこう固定されるからね。でもなかなかそこまでいけないので、さまざまな工夫が必要なんですね。だからアパーナ気を下に下げない工夫って必要です。
 それからね、このスワーディシュターナ、それからアパーナ気に関してもう一つ言うと――これはさ、過去に関する皆さんの懺悔の対象でもあるんだけど、カルマ理論から言うとですよ、カルマ理論から言うと、自分の問題だけじゃないわけですね。自分だけの問題じゃないっていうのは、例えばある人が、そういった恋愛にはまったとしますよ。あるいは性的なものにはまったとしますよ。まあそうですね、一方的な自分の妄想とか片思いとかだったらまだ別だけども、相手がいる場合ね。相手がいる場合、当然相手のアパーナ気を下げた、もしくは相手のスワーディシュターナにエネルギーを集めたっていうカルマになるんだね。それによって自分のアパーナ気が下がる。あるいは自分のスワーディシュターナにエネルギーが集まるっていう現象が起きるわけだね。これはとても怖い。だからこれは過去を振り返ってね、邪淫っていうかな、性的経験が多い場合。まあ現代人っていうのは今修行してる人でもいろいろ聞くとね、そういった性的経験が非常に多い人が多いわけだけども、それはしっかり懺悔したらいい。その懺悔っていうのは、もちろんその邪淫っていう意味でもそうなんだけど、単純にその邪淫っていうだけではなくて、多くの人のアパーナ気を強めてきたと。多くの人の気を下げてきたと。言ってみればね。で、それが、ほっといたら自分の気も下がるカルマとなってしまったと。だからそれをしっかり懺悔して、まあ逆に言うとこれから、そういう経験がもし多かった人は、逆に人々の気を上げると。ね。周りの人々に、例えば教えを広めて、みんなの気をしっかりと上げてあげるようなことをしっかりやらないと、非常に怖いね。
 はい。これが二番目のアパーナ気ってやつね。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第9回(3)

2018-06-18 18:34:55 | 勉強会より抜粋


◎異性への愛欲のデメリット①――スワーディシュターナ・チャクラにエネルギーが集中する

 で、この厳しい邪淫に関して、ここでシャーンティデーヴァは引用して述べてるわけだけども、じゃあその意味はなんなんだっていうのをちょっと考えてみましょう。
 あのね、これは道徳的な問題ではもちろんありません。道徳的な問題じゃないっていうのは、これを道徳的に考えてしまうと逆に勘違いする。つまり、道徳的にちょっとこう、性っていうものは、つまりセックス的なものっていうのは、ちょっとわれわれの中に罪悪感みたいなものがある。それを道徳的にとらえてしまうと、ちょっと現代でもよくアメリカとか、インドとかでも一部ある、ちょっと間違ったタントラみたいなのに走ってしまう。間違ったタントラの人っていうのは、「いや、性がけがれてるとか、性的なものがよくないっていうのはそれは観念である」と。「だからすべては善悪はないんだ」みたいな感じで性的なものでオープンになるタイプのヨーガっていうかな、タントラをやる人とかよくいるけども、これはだから邪淫の意味合いを取り違えてる。そんな道徳的な、観念的な問題じゃないです。もっと、ある意味物理的というか、ある意味エネルギー的な問題なんだね。その一つはですよ。
 まず一つ目としていうと、つまり邪淫のデメリット――まあ邪淫のデメリットっていうよりも、性的な、もしくは異性間の恋愛も含めてね、そういったもののデメリット。これはラーマクリシュナももちろん同じこと言ってますよね。ラーマクリシュナの口癖は、「女と金」。ね。「女と金」。まあ実際これは女というよりはカーミニーっていう言葉なんですけど、カーミニーって直訳すると「愛欲の女」みたいな感じなるんだけど。つまり「愛欲」っていうことですね。「愛欲とお金」――これに対する心のとらわれがね、ゼロにならないかぎり、神は悟れないって言ってるわけですね。
 で、これはなぜなんだっていうことになる。そのまず第一番目は、まあ分かると思いますが、われわれが異性とか、あるいは性欲といったものにとらわれたときっていうのは、エネルギー的にこのスワーディシュターナ・チャクラにエネルギーが集中するわけですね。エネルギーが集中して、そしてそのデータっていうのはもちろんけがれたものだから、そのスワーディシュターナ・チャクラが詰まる状態になります。で、これがまさに――まあここにもいろいろ書かれてますけども、例えば「正しい道から遠ざかせ、さまよわせる。謙虚さは奪われ、精神的な目は損なわれる。」あるいは、「日常においても動物のような行動をし、人々に迷惑をかける。」あるいは、「ブッダ・ダルマ・サンガに対する信仰が衰える」と。つまりこういったことっていうのは、このスワーディシュターナ・チャクラの性質なんです。
 これはみんなにもいつも言ってるけど、スワーディシュターナ・チャクラっていうのは一つはね、疑念が非常に出ます。疑念。疑念っていうのは、まあさっきのバラタとかとは全く逆でね。「え? 神なんて……」とかね(笑)。「修行って意味あるの?」とかね。あるいは「あの人、本当に聖者なの?」とかね。あるいは「うちの師匠って、本当についていっていいのかな?」とかね。つまりね、いつも言ってるけどね、皆さんは自分の心ってすごく信じてるけども、皆さんの心なんてものは、非常に薄っぺらくてあやふやです。それよりもね、皆さんはね、エネルギーに動かされてます。エネルギーがいい状態になったときっていうのは、心がフワーッて晴れて、もう純粋な信仰とか、純粋な愛とかにこう包まれるわけですね。で、逆にエネルギーがこのスワーディシュターナ・チャクラにグッと固定されてしまったときっていうのは、例えばだけど、一つは疑念が出る。で、まず疑念が出ます。疑念っていうのは、神聖なものに対する疑いであるとか、それを拒否するみたいな気持ちが出る。で、それに後から、後付けで理由を乗っけるんです。「こうだからちょっと信じられないな」とかね。じゃないんです。こうだから信じられないんじゃなくて、エネルギー的に悪い状態だから、まず疑念が出てるんです。ね(笑)。それに自分で勝手にこう、論理的にいろいろ理由を乗っけてるだけなんだね。だからここにエネルギーが集中してしまうと、われわれは高い世界とか、あるいは絶対なるものから遠ざかってしまう。心がそれを拒否するような状態になっちゃうんだね。
 それから動物的要素が強まるので、まあいつも言ってるように、スワーディシュターナの要素である、例えば怠惰さであるとか、つまりなんでもいろんなものから逃げたくなる。あるいはいろんなものをもう、中途半端で、もうどうでもよくなってしまうっていうか。あるいは何かを貫くっていうことができなくなってしまう。「もういいんじゃない?」みたいな感じで(笑)。あるいはもう徹底的に、なんていうかな、いろんなものに依存したがるっていうか。あの、依存の対象が神だったらいいんだけど、そうじゃなくて、現世的なもの、もしくは一時的に自分を安らがせてくれる、一時的に、まあなんとかまあ今を取り繕うことができるような儚いものに依存したがってしまう。もう本当にその場しのぎの心の状態になってしまうんだね。
 で、これがすべてスワーディシュターナの性質なので、われわれのその意識が――まあつまり何をきっかけにスワーディシュターナに落ちたかになるわけだけども、われわれが例えば性的なもの、あるいは異性との恋愛とか、そういったものにとらわれると、エネルギーがスワーディシュターナに集中しますよと。それによってスワーディシュターナが持ってる、さまざまな非真理的な――つまりスワーディシュターナのことを一言でもし言い表わすならば「無智」だから。ね(笑)。無智。無智っていうのは真理っていうものに対する逆の暗闇の働きですから。真理というものをさまざまな意味で、こう、われわれから遠ざけてしまう、あるいは覆ってしまうようなエネルギー、あるいは心の働きが、このスワーディシュターナで増大するんだね。
 だからもう一回言うと、決して性的なもの、あるいは異性へ心を向けてはいけない、あるいはそういうのに耽ってはいけないっていうのは、道徳的観念ではない。まず第一に言うと、エネルギーがスワーディシュターナに集中しますよと。それによってスワーディシュターナの持ってるさまざまな非真理的な要素がドワーッて出ますよと。それは大変不利益ですよっていうのが一つあるんだね。

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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第48話 前編」

2018-06-15 22:03:23 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第48話 前編」です。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第47話 後編」

2018-06-08 15:40:53 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第48話 前編」です。
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カル・リンポチェの生涯(7)

2018-06-07 09:11:12 | 松川先生のお話

◎鹿の導き


 あるときカル・リンポチェは、一切食物を口にすることなく、隠遁生活を続けていた。彼は自分がどこに滞在しているのかを、彼の両親や他の誰にも告げなかった。わずか二、三人の者だけが、彼からの指示を受けるために面会していた。彼の母親は、ひどく心配していた。彼女は、彼らの土地や、せめて僧院で隠遁生活を送ってほしいと願っていた。しかし彼は誰にも行き先を告げず、食べ物も持たずに、無人の地に行くのだった! 彼は命を捨てるつもりだったのか? こうして彼の帰りを待つのは、あまりにも辛かった。彼の哀れな母親の心は休まらなかった。彼女は食物を背負って、彼を探しに出かけた。
 彼女は人々にカル・リンポチェが瞑想していた場所を尋ねながら、居場所の手がかりを得た。もはや山道は見当たらず、どこに向かっているのかも分からないまま、彼女は長い時間、山中を歩いた。彼女は途方に暮れた。彼女になにができるというのか? この未知の斜面を登り続けるべきなのか、はたまた谷へ下りていくべきなのか? 息子を探し出せる可能性はあるのだろうか? 彼女は泣き出した。


 すると、遥か高くにある岩の下部に、今まで見たことのないような小さな動物が現われた。それは鹿のようだったが、犬とほぼ変わらぬ大きさだった。彼女はその動物がどのようにして突然現われたのか理解できず、驚いた。だが始めのうちは、気に留めていなかった。そして、ここにいても息子を探し出せる見込みはなかったので、もう帰った方がいいと判断した。
 すると、その動物はすばやく立ち去った。奇妙に思った彼女は、思い直して、その動物のあとを追うことにした。しかし動物の姿を見失ってしまい、雪に残った足跡をたどった。その動物は彼女を山の高台へと導いた。そこで彼女は、立ち昇る煙を目にしたのだった。その瞬間、その動物と足跡は、完全に消えてしまった。彼女はその煙を見たとき、息子の所在がわかったのだと確信し、大いなる喜びを感じた。


 カル・リンポチェが洞窟の入り口に現われるまで、彼女は力一杯、何度も彼の名前を呼んだ。そしてカル・リンポチェが現われると、彼女は彼のもとに駆け寄った。息子を見つけた彼女の喜びには、悲しみも入り交じっていた。彼女は彼が何も食べず、お茶さえも口にしていなかったということを目の当たりにしたのだ。カル・リンポチェはその土地にある大きな葉の植物の赤い絞り汁を飲むほかには、何も食事を取っていないようだった。


 母親はそのことに心を痛め、彼を抱きしめると、再び泣き始めた。そして母親は、このままここにいたら確実に死んでしまうから、このような不毛な地には留まらないようにと彼に懇願した。しかしカル・リンポチェは瞑想の没入状態にあったので、母親の話は聞かずに、「自分は死なない」ということを保証した。彼女が心配しても無駄であった。


「ほんの二、三日の間だけでも、わたしと一緒に家に帰っておくれ。」

 母親はこのように要求した。

「食べ物や、あなたが必要とするすべてのものを与え、馬に荷を積みましょう。そのあと、あなたが望むなら、隠遁所に戻ることもできましょう。でも、何も持たずにここにいてはいけません!」


「わたしが家に帰る必要はありません。」

と、隠遁者(カル・リンポチェ)は言った。

「わたしはあなたが持ってきてくれた食べ物でさえも必要としていないのです。持って帰ってくださって構いません。」


「いいえ、どうかせめてこの食べ物は、ここに置いておいてください。」


「分かりました。ではこれは置いておきましょう。しかし、それはわたしのためだけにではありません。」

と、カル・リンポチェは陽気に答えた。

「ここには、わたしの小さな仲間がたくさんいます。アリです。アリたちと分かち合いましょう。村に戻ったら、誰にもこのことは話さないでください。もしこのことをあなたが漏らしてしまったら、この隠遁生活の障害となるでしょう。人々はわたしに食べ物を持ってきたがって、それが騒動を引き起こすことになるでしょう。父には話してもよいですが、その他の人には話してはいけませんよ。」


 彼女は家に帰ってから、自分が目の当たりにしたことを夫に話した。しかし、彼は特に驚きもしなかった。

「わたしの息子は、苦行のステージにいる。苦行のために時間を費やすことは素晴らしいことである。われわれは彼の行ないを妨げてはならない。」


 この父親の答えに対し、母親は全く納得できず、怒りを込めて大声を発した。

「美しい言葉を語ることはよいことです。しかしその一方で、あなたはわたしたちの息子を死に追いやろうとしているではないですか! 彼のところに食物を届けにいった方がよいではないですか!」


 もし彼女が息子を心配しているのならば、彼女が息子のために最善を尽くすことで、多くの功徳を積むことができるだろう、と父親は返答した。
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