ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

除き去れ

2018-05-31 18:50:35 | 経典の言葉・聖者の言葉


 弱いものにも強いものにも、慈愛をもって接せよ。
 心の乱れを感ずるときには、「悪魔の仲間」であると思って、これを除き去れ。


 ――仏陀釈迦牟尼

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たった一つの魂でも

2018-05-31 16:48:46 | 経典の言葉・聖者の言葉



「私はこう思っているんです。――世の中から苦しみをなくすために千回も生まれかわらなくてはならないというなら、千の生を引き受けよう――と。私がこれを行なうことによって、たった一つの魂でも、その悲しみから少しでも解放されるなら、私は必ずやります。自分一人だけ解脱をとげたとしてもそれが何になりますか? 解脱した人は、その道に全ての人を導かなければ、何の意味もないのです。」


 ――スワミ・ヴィヴェーカーナンダ



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「解説『ただ今日なすべきことを』」第一回(6)

2018-05-29 22:27:51 | 勉強会より抜粋



(T)先生、瞬間瞬間の新鮮さとか、その素晴らしさっていうのは、僕はまだちょっとはっきり分かんないんですけど、昔よく読んだ本で、白血病になったり、乳癌で死にそうになったりした人が本書いたりして、そういう中に、全くこれと同じ表現のものがよく出てるんですよ。いろんな本で結構その、瞬間の新鮮さとかよく書いてあったりして、なんでこういう人達はそんな修行とかやってないのに……



 いや、多分それはさ、もともとそういう人っていうのはおそらくそういう素養、素質っていうかね、つまりもともと修行者としての素質があって、で、条件がある。条件っていうのはその人も、そういう病気になってなかったら、そういうふうに思わなかったかもしれない。つまり、まあ現代の日本っていうのは、とてものんべんだらりとした世界だから――あの、昔のインドとかはさ、本当にもう貧しい人も多いし、明日生きていけるかどうか分かんないって人が多かったわけだけど、今の日本っていうのはそんな状況にはまずない。昔はもちろん病気も多かったしね。だから素質がある人であっても、こういう生ぬるい世界で生きてたら、あまりそういうのに気付けない。でも素質がある人がそういうような、いつ死ぬか分からないとか、あと日々苦痛が襲うような状況に陥ったときに、そういう目が目覚めてくるわけだね。だからそれは、そういうことだと思うよ。もともと素質があって、しかも追い込まれることによって、そういうのが目覚めてくると。だって重病になっても愚痴ばっかり言ってる人もいるわけじゃないですか。だから白血病になればみんな目覚めるわけではない。
 だからどれだけその、なんていうかな、どんな状況でも――まあ、お釈迦様の例えではこういうふうに言ってるよね。人間が真理に気付くかどうかの話として、馬の例えで言ってるよね。ここに馬がいて、最も優秀な馬は、その飼い主がこう、茨ね、茨でできた輪っかを持ってくるんだけど、それを見た瞬間に恐怖する。で、次に優秀な馬は、それが首にかけられたときに恐怖する。「えっ!? なんかかけられちゃった」と。「刺さるんじゃないか」と。で、次に優秀な馬は、そこでもぼーっとしてて、それがちょっと肉に刺さってきたときに恐怖する。「なんか刺さってきたぞ」と。「ああ、なんか血が流れてきた。どうしよう」と。で、次に、そこでも気付かない馬は、それがもう骨の髄まで達してやっと気付く。「やべえ、なんだこれ」――それ、さっきも刺さってたんだけど、それが骨まで達してやっと、「やべえ、なんだこりゃあ」と。で、最も駄目な馬は、死ぬまで気付かない。それで死んじゃうと。
 つまりこれと同じで、この世の苦しみとか、あるいはなんかしなきゃいけない、修行しなきゃいけないんだとか、そういうことを、自分も苦しむことなく、特に周りに何も見ることなく気付ける人っていうのは、最高なんです。で、次が、自分はそうじゃないんだけど家族とか親類とかが苦しい目にあって、それを見て、「あれ? おれはこのままじゃいけないんじゃないだろうか?」と気付くのが次に素晴らしいと。その次に、自分がそういう目にあって気付けるのが次に素晴らしい。で、最も駄目なのが、自分がそういう苦悩に陥っても、人のことを恨んだりばっかしてて、全く気付けないで死んでいくと。これはだからさっきの、刺さってもなんの恐怖も感じずに死んでいく馬と同じだね。
 だからもともと素養がある人っていうのは、何もなくても気付けるんです。でも素養あるけどちょっと心がなまってる人は、そういう状況に追い込まれることによって、ちょっと目覚めてきて、そういう気持ちになれてくるんだね。だからそういうのはあると思うね。
 だからみんなも、まあこうして、なんていうかな、ヨーガとかと巡り合うカルマがあるっていうことは、もともと素晴らしいカルマを持ってるわけだから、この状態で気付けたら超かっこいい(笑)。つまり別におれは苦痛に苛まれてるわけでもない。しかしこの状態に一切とらわれず瞬間瞬間正しく見れたら、すごいかっこいいです(笑)。かっこいいっていうか、偉大だね。うん。


(T)すごく疲れません? 


 ん? 


(T)瞬間瞬間クリアし続けたら。


 慣れないと疲れるね。でも慣れてくるとそれが当たり前になる。あの、すべては慣れなんです。うん。なんでもそうでしょ。煩悩を捨てろとか言われて、「えっ!? 煩悩捨てる? それできません。」――なんでできないんだっていうと、慣れちゃってるから(笑)。ただそれだけなんだね。
 でもこの考えって大事なんですよ。すべては慣れだと。ただ慣れてるだけだと。これは希望が出ます。修行だってそうなんだね。「ええ!? そんな、一日何時間も修行できませんよ」と。慣れればできます。絶対に。わたし、若いころ、そうですね、半年間ぐらい、まあ二十四時間っていうか、食事は食べたけども、食事以外ずーっと修行してたことがある。でもこれを最初トライしたときは、非常に苦しかった。できなかったんだけど、慣れてくるとねえ、できるんです、結構(笑)。なんかねえ、そのサイクルにはまっちゃうと、なんかね、全然、日々「くっそー」ってやりながらやってるんじゃなくて、楽々やってるんだよ。楽々一日中ずーっと修行してるんだよ。だから慣れなんだね。
 だから皆さんの今の悪い傾向もすべて慣れ。慣れによってできたものだし、いい傾向も慣れによってできます。まあ習性っていうかな。だからそういう、なんていうか、柔軟な発想を持ってると、結構修行は進む。われわれの中にはこう自分でブロックしてる場合が多いんだね。「えっ!? こんな状態、わたしは無理」と。「無理なんです」っていうそのレッテルを貼ることによって、本当に無理になってしまう。だから、できるんだっていう肯定的な気持ちはすごく大事だね。あるいは自分にすごい悪い部分があったとしても、いや、これは将来的にはもう捨てられるんだと。いやもちろん、今すぐ捨てられれば素晴らしいけど、今すぐ捨てられなくても絶対捨てられると。こういうその軽い気持ちっていうか、肯定的な気持ちを持ってると、どんどん進んでいくと思うね。
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「王のような秘密の智慧」

2018-05-29 21:49:38 | 解説・バガヴァッド・ギーター


2007.3.28
バガヴァッド・ギーター
第9章「ラージャヴィディヤー・ラージャグヒャ・ヨーガ」



◎王のような秘密の智慧

 はい。今日はバガヴァッド・ギーター九章ですね。九章はちょっといつもに比べて短いですが、「ラージャヴィディヤー・ラージャグヒャ・ヨーガ」という題名がついています。この九章に関しては、これまで説明してきたこととあまり変わらないね、書いてあることはね。そのまとめみたいな感じになっています。ですからこの解説は、若干自由な感じの解説をしていきたいと思います。
 このバガヴァッド・ギーターにはいろんなことが書かれているんですが、根幹となるのはやはりカルマ・ヨーガと、それからバクティ・ヨーガの教えですね。
 カルマ・ヨーガっていうのは簡単に言うと、自らに与えられた義務――というかな、神の意思といってもいいけども――なさねばならぬことを、一切の成功にも失敗にも心を奪われず、あるいは恐怖も期待も持たず、ただ全力で行ないなさいと。これがカルマ・ヨーガの根幹的なことだね。
 そしてバクティ・ヨーガに関しては、これもいろいろ書いてありますが、その根幹は結局その――ここではクリシュナっていう名前なんだけど、この宇宙の唯一の実在があると。それはバガヴァーンとかクリシュナと言ってもいいんだけども、別の名前でもいいんだけどね。シヴァでもいいし、ヴィシュヌでもいいんだけど。その唯一の存在があって、あらゆるものはそのあらわれに過ぎないというかな。そこから発されるものに過ぎないんだと。つまり、クリシュナっていう偉大な神がいて、いろんな神がいる中のそのトップですよ、ベストですよ――っていう意味ではなくて、「それだけ」なんだと、この宇宙はね。この宇宙には、ただ完全なる唯一の神がいるだけなんだよと。そこからすべて現われているだけなんだよっていう、ちょっとこう究極的な真理がある。
 もう一つの主張は、その究極の真理といえる究極の神の化身の存在だね。これを説いているのが、このバガヴァッド・ギーターの一つの特徴だね。
 化身っていうのはアヴァターといって、この宇宙の完全なる実在みたいなものが、人々を正しい方に導くために人間の姿――人間っていうのは、カルマによって限定された存在に過ぎないわけだけど――一個の人間の姿として、この世に現われるんだよと。それが今のね、この二十一世紀の現代に現れているのか、これから現れるのかは別にしてね。ある時代ある時代に現われるんだと。
 例えばクリシュナであるとか、あるいはチャイタニヤっていう人もいたんだけど、この人もそうだったといわれる。あるいはラーマクリシュナもそうだったといわれるけども。そういう感じで人間の姿をして、完全なる宇宙の本質みたいなものが現われるんだよっていう思想がある。これがこのバガヴァッド・ギーターの中の、バクティ・ヨーガに関する教えの中で繰り返し説かれていることだね。
 この九章においても、バクティ・ヨーガの今言った二つのことがね、また改めて説かれているという感じですね。
 「ラージャヴィディヤー・ラージャグヒャ・ヨーガ」っていうのは――まずラージャというのは「王様」という意味ですね。よくマハラジャって言うよね。「マハー」というのが「偉大な」とか「大きな」っていう意味なんで、だからマハラジャって、語呂がいいけど、本当はマハーラージャっていって、マハーは偉大なる、ラージャは王様だから、「大王」っていう意味だね。実際は王っていうよりも、インドでね、昔の王の名残なのかもしれないけど、その地域で権力を持ったお金持ちをよくマハラジャっていうんだね。昔は実際に一国を支配していた人たちをマハラジャって言ったわけですが。そのラージャ。で、「ヴィディヤー」というのは、これは無明の反対で「明」とか「明智」とかいうやつですね。「グヒャ」というのは「秘密」っていう意味があります。だからこれは直訳すると、「王の明智、王の秘密」という意味になりますが、実際はこれはもうちょっと意味をとると、「王」っていうのはつまり、それだけものすごい偉大なるっていう意味だね。「王のような秘密の智慧」みたいな意味だと思いますね。教えの中にはいろんな秘密やいろんな智慧があるけども、その中でも王のような、つまり最高の神秘なる秘密の智慧を明かしましょう――というのが、この九章だね。でも実際は、内容としては、さっきいったバクティ・ヨーガの精髄をまとめているような感じがあります。
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カル・リンポチェの生涯(4)

2018-05-28 22:02:10 | 聖者の生涯


◎息子を手放さない父親



 子供が成長すると、父親は読み書きを教えた。子供は極めて優秀で、すべてのものを難なく吸収するようだった。近所の人々はこの人並みはずれた少年を疑いもなくトゥルクであると思い始めた。そして、彼らは気難しいと知られているラタク・トゥルクにこのことを話した。しかし彼は、息子についてそのようなことを話すのは望ましくないと答えた。

「わたしの息子が、特別な子供だって? おそらくそうでしょう。だが、もしそうであるならば、彼自身がいつかそのことを明らかにするでしょう。ですので、それまでは彼についてそのように話すことを禁じます。」


 それから間もなくして、その息子はべゲン僧院の僧衣を身に付けるようになった。この僧院にはトゥルクがおらず、そのことが不利な立場と見なされていた。僧院長はラタク・トゥルクと話をした。

「この子はあなたの息子であり、そしてあなたご自身がトゥルクであられる。またこの子は人並みはずれた素質を備えているように見受けられる。われわれの僧院にて、彼にトゥルクの称号を与え、即位させてもよろしいでしょうか?」


 ラタク・トゥルクは今一度、鋭く返答した。

「この子がわたしの息子だから偉大であると見なし、彼へ捧げものとして、トゥルクの称号を授けたいと望んでいらっしゃるのでしょう。しかし、このような話は聞きたくありません。もしわたしの息子が素晴らしい存在であるならば、彼が大人になったとき、自ら明らかにするでしょう。今それを言っても無駄です。ですから、意見や提案をするのはやめてください。わたしの息子は、今現在、ただの僧であります。ゆえに現時点では、息子に対して普通の僧と異なる待遇をしてほしくないのです。」


 またあるときには、少年はペルプン・シトゥ・リンポチェ、ゾクチェン・コントゥール・リンポチェ、 シェチェン・コントゥール、 そしてカドゥ・シトゥらの高位のラマたちにお会いした。彼らもまた、彼の素質に気付き、確実にトゥルクであると断言し、ジャムグン・ロドゥ・タイェの放射であることに疑いの余地がないと主張した。さらにジャムグン・ロドゥ・タイェにより設立された僧院ツァドラ・リンチェンドラへ彼を連れて行くことが名案だと考えた。
 しかし、ラタク・トゥルクの答えに変わりはなかった。

「おそらく、わたしの息子はトゥルクです。将来分かることでしょう。しかし、さしあたって当面は即位を進めずに、一介の僧として人生を歩むことをお許しいただけますようお願いいたします。」


 ゾクチェン・コントゥールとシェチェン・コントゥールも譲らなかった。その子を即位のためにジャムグン・ロドゥ・タイェの僧院に連れて行く必要はないと認めながらも、とりわけ徹底した訓練を行なうために、僧として彼らの僧院に留まることを望んだ。だが、ラタク・トゥルクは揺るがなかった。彼は誰にも息子を預けようとはしなかった。


 若きカル・リンポチェはベゲンの僧院で学び続け、あまりにも優秀であるがゆえに、十一歳にしてケンポの称号を授与された。このことは新たな驚嘆を生み、誰もが称賛した。本来ならば十二年間の修行と、大人並みに成熟した智慧を必要とするこの称号をを短期間で体得したこの子の知性は、ずば抜けて天才的であったのだ。


 この修行期間中、この子は修行に専念するだけではなく、チベット仏教の全宗派の偉大な師から、伝統的な伝承の基礎(アビシェーカ、儀式、読誦および解説)を授かった。 彼は、シトゥ・リンポチェから重要な位を授かり、カルマ・ランジュン・クンキャブという名前を与えられた。
 この名前は、彼の活動が自発的(ランジュン)、かつ普遍的(クンキャブ)に――つまり言い換えるならば地球全体に広まると予言していた。
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今日のAMRITAチャンネル「キールタン・イメージビデオ」

2018-05-28 19:49:54 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAmritaチャンネルは、「キールタン・イメージビデオ」です。



曲目


1.空からの使者
2.アヴァターラ AVATARA
3.CHAMUNDAYE KALI MA
4.入菩提行論の歌PART1 THE SONG OF BODHICARYAVATARA
5.願い
6.入菩提行論の歌PART2 正智の守護 THE GUARDING OF Awarenes
7.Maitri
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第46話 後編」

2018-05-26 07:49:38 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第46話 後編」です。
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パトゥル・リンポチェの生涯と教え(21)

2018-05-23 22:03:00 | 聖者の生涯


◎ルントクとパトゥル・リンポチェの出会い


 ニョシュル・ルントクが初めてパトゥルと出会ったとき、パトゥルは「マンジュシュリー・ナーマ・サンギーティ」を唱える修行をしていた。ルントクがパトゥルの前に現われたとき、ちょうどパトゥルは「尊敬するに相応しき至高なる師よ!」という詩を唱えているところであった。


「これは吉兆なる縁だ!」


 パトゥルは歓喜して叫び、「尊敬するに相応しき至高なる師よ!」と再び唱えた。


 まるで息子に再開した父親のように、パトゥルは、すぐにルントクを弟子として受け入れ、彼を心からの愛情をもって世話した。二十八年もの間、ルントクはパトゥルの傍で暮らし、従者として仕え、パトゥルが説く教えを一言も漏らさずに聞き、入菩提行論の教えを、少なくとも八十回以上受けたのだった。
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今日のAMRITAチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第112話」です。

2018-05-22 19:50:11 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第112話」です。
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今日のAMRITAチャンネル「キールタン・イメージビデオ」

2018-05-21 21:12:15 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAmritaチャンネルは、「キールタン・イメージビデオ」です。



曲目

1.JAY BAJRANGBALI JAY HANUMAN KI【NEW!】
2.我が主
3.CHAMUNDAYE Kali Ma
4.入菩提行論の歌PART1 THE SONG OF BODHICARYAVATARA
5.Maitri
6.入菩提行論の歌PART2 THE GUARDING OF AWARENESS
7.空からの使者
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第9回(1)

2018-05-21 18:25:58 | 勉強会より抜粋




解説『スートラ・サムッチャヤ』第9回



◎最も大事なこと

 今日は『スートラ・サムッチャヤ』ですが、まあ今日見た『ラーマーヤナ』に関しては、今日の話っていうのはそんなに解説するような話じゃないですけどね。バラタがラーマに会いに行く過程でのバラタの、純粋なっていうかな、強烈なというか、主ラーマへのしもべとしての愛の想いの表現ですね。
 あまり解説することはないっていうのは、こういう世界っていうのは、分からない人には分からない。ね(笑)。分かる人は解説しなくても分かるっていう世界なので、あまり解説はいらない。
 つまり――これはまあ、またAMRITAチャンネルとかでね、流すと思うので、ぜひ何回も観たらいいと思うね。――バクティヨーガにはいろんなムード、あるいはバーヴァとか言われるわけですけども、そのいろんなタイプのバクティがあるといわれています。で、その一つがこのしもべ、つまりわたしは主のしもべであるっていう態度なんだけど、実際はこれはいくつかのうちの一つではなくて、すべてに共通するっていうかな、すべてのベースとなってるのが、このしもべっていう心構えなんだね。「わたしは主のしもべである」と。
 で、そのしもべっていう意味っていうのは、自分でつかむしかないんですけども、まさに今日のバラタの態度っていうかな、心持ちとかまさにそうだし、あるいは「神のしもべに」の歌とかもそうなわけですけども、あれに流れてるような、投げ出した感があるわけだけど、それは決して義務的なものではなくて、喜びと愛に溢れてるっていうかな。
 で、これは本当に純粋なものであって――純粋なものっていうのは、われわれが――まあおそらくここにいる多くの人はそのバクティの要素があるだろうから、今生作ってしまったいろんな合理性であるとか、まあ非常に雑な論理性であるとか、あるいはもちろんエゴであるとか、あるいはそのエゴの言い訳としての表面的な自分の考えであるとか、そういったものが皆さんからだんだん洗い落とされてきたときに現われる、しもべの意識、しもべの愛みたいのがある。それをぜひ引っ張り出してほしいね。
 引っ張り出して、何度も言うけど、今日の『ラーマーヤナ』の映像を何度も観るのでもいいし、あるいは「神のしもべに」とかね、「あなたの愛に」とかもそうだけど、そういう歌を歌うのでもいいし、そういった経典を何度も読むでもいいけども、それをぜひ引っ張り出してほしいね。それは何度も言うけどね、宝物なんです、皆さんにとって。それのみが皆さんを、皆さんが望んでる神の世界や、あるいは自分の本性の世界に近づけてくれるという宝物を皆さん持ってるわけだから、それを今日皆さんが――まあおそらくこの中で多くの人が今日の話に感動したと思うんだけども、その感動した心というのを忘れずに、なんていうかな、日々の――まあまさに念正智になるわけですけども、日々の自分の一挙手一投足、身口意のあらゆるものに対して、「わたしは神のしもべである」と。「しもべとしてはどのようにして生きなきゃいけないのか」あるいは、「わたしは神のしもべとしての意識をずっと持っているだろうか?」あるいは「その神への愛というのをまだ今もずっと持ち続けていられているだろうか?」と。「なぜかっていうと、それこそがわたしにとって最も大事なことであって、わたしが生まれ、そして存在する意義なんだ」というその念正智を強く忘れないようにしてほしいと思いますね。
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「無駄な言葉について」

2018-05-21 18:18:02 | 解説・バガヴァッド・ギーター


◎無駄な言葉について


(U)あと、結局、無駄な言葉ってよくないじゃないですか。

 そうだね。

(U)無駄な言葉って、結局アストラルにデータが構築されていくじゃないですか。僕、無駄な言葉が無茶苦茶多いんです。

 無駄なって例えばどういうこと?

(U)今まで生きてきて、九十パーセントくらい無駄な言葉なんですけど……。

 でもさ、それはそうだよ。修行する前はね。それは九割方無駄な言葉ですよ。

(U)地元の友達とかと遊んでると、無駄なことしかしゃべってないなって。

 そうだね。そいうのを仏教では綺語っていうんです。意味のない言葉ね。
 悪い言葉って四つあって、一つは嘘。それから悪口。両舌。それから無駄な言葉。無駄な言葉っていうのは嘘でもないし、悪口でもないんだけど、全然意味のない、時間の無駄なだけの言葉。

(U)そうですね。悪口とかは言わないようにしてますけど……。

 でもさ、U君はまだいいよ。若いから。ここで一番若いわけだから。
 例えば二十一年、何気なく無駄な言葉を語ってきたと。じゃあそれを超えるためには、意味ある言葉を――つまり意味ある言葉って、マントラとか、教えに基づいた言葉を語ればいいんです。でもそれはじゃあ二十一年を消すために、二十一年かかるかっていったらそうじゃなくて、今までの二十一年は適当にしゃべってたでしょ? じゃなくて、集中してしゃべる。それからもう一つは、ここで出てくるのがヨーガの力なんだけど、ヨーガの力っていうのはそういうところにもあって、例えば二十年分の悪業を二十年かけなくても消せるんです。ヨーガの力ってね。
 なぜかっていうとさっきも言ったように、われわれは普段浅い意識でね、ワーって適当なことしゃべって、これが一日あったってどうってことはないんだけど、これを二十年もやってるから、浅い意識からジワジワジワジワとわれわれの深い意識に入ってきて、われわれの深いアストラルが無駄なアストラルになってるんだね。じゃあこれをわれわれがなーんとなく表層でね、「ああ、じゃあ適当に修行しましょうか」ってやってたら二十一年かかるかもしれないけども、深い意識に入る訓練をしてやったら一気に浄化される。一気にっていうと言い過ぎだけど、もっと短縮されて浄化される。
 だからさっきから言ってるように深い意識に入るって非常に大事なんだね。深い意識に入る訓練をする。つまりこれはヨーガなんだけど。それプラス、日々正しい言葉を語る。あるいは言葉だけじゃなくて瞑想ね。正しい瞑想すると。あるいはマントラ唱えると。これやってたら、この中ではU君が一番有利だよ。汚した年数が少ないから。

(U)マントラ唱えるとき、例えば聖者とかお釈迦様とかをイメージしながらマントラ唱えるのっていいですか?

 うん。それはいいよ。ただマントラだけに集中するのもいい。ヴァイブレーションとか唱えてること自体に集中するのもいいし、じゃなくて神や仏陀をイメージするのもいい。
 悪いパターンは、口はマントラ唱えてるんだけど、全然違うこと考えてる。――これはまあマイナスとはいわないけども、ちょっと効果が落ちるよね。だから変なこと考えちゃうようだったら神や仏陀をイメージしたらいい。でも別に変なこと考えないと。純粋にマントラに集中できるんだったら、別にイメージしなくてもいい。まあ、してもいいけどね。
 悪口や嘘がなくてただ無駄な言葉だけの人生だったら、全然大丈夫だよ。すぐに浄化できるよ。ドロドロしたね、人に対してね、傷つけまくってきたと。あるいは嘘ばっかついてきたと。この場合はかなり修行が大変かもしれない。
 でもそれはU君の雰囲気にあらわれ出てるよね、やっぱりね。U君見てるとさ、嫌われるタイプではないよね。嫌われるタイプじゃないけど、なんかおもしろいっていうか。それは多分今までのしゃべってきたこととか、考えてきたことによってその雰囲気は形成されてる。だから今から全力でがんばれば全然大丈夫だと思うよ。

(U)マントラを電車の中で声に出さなくても、心の中で唱えてるのとかもいいんですか?

 うん。いいよ。それはそれで効果がある。声に出せるときは出して、出せないときは出さなくてもいい。あるいは日々やるときも声に出せるときは出した方がいいんだけど、例えば疲れててね、あまり声が出ないとか、そういうときも心の中でもいいよ。でもちょっと元気になってきたらちゃんと声に出すと。これはどっちも効果あります。
 あのね、声に出さない方が本当は高度なんです。高度なんだけど、本当に声に出さないでマントラができてるかっていう問題があるんです。だから最初はしっかり声に出して完全にそのヴァイブレーション根付かせて、それで心の中で唱えられるようになったらベストだね。でも最初はそこまでいかないから、状況に応じて声に出したり、声に出さなかったりでかまわない。


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「解説『ただ今日なすべきことを』」第一回(5)

2018-05-20 19:41:19 | 勉強会より抜粋

 はい、ここまで何か質問とかありますか? 


(U)先生、正法のデータがちゃんと入ってて、例えば、そういう世俗で家庭を持って、例えば子供を育て、仕事をして、で、働こう、働いていくっていうような人がいたとして、例えばその子供が重い病気にかかったとか、例えばリストラされてまだ小さな子供を抱えてて、わたしは大変なことになってしまったっていう客観的な状態とか、そういうことに陥ったときにも、その人がどれだけそういう、なんていうんだろう、不動心があるかどうか次第で、その心の平安を保つことができるっていうことが、そういうことができるんですよね?


 もちろん(笑)。だからそれはちょっと、これのあとの方にもそんなのが出てきたけど、あの、結局ね、幸せか不幸せか、もしくは心が平安かどうか、これは外的条件は一切関係ないんです。すべては内的条件なんです。だから、ちょっとこのあとの方でも出てくるけど、絶対的な、外的客観的な幸福の条件って存在しないんです。つまりこうなったら幸福っていうのはあり得ないんです。例えば今の例で言うとね、子供が病気になりましたと。これ不幸なんですか、幸福なんですか?――誰にも分かりません。それで家族が一致団結して、ものすごい愛に満ち溢れた家庭になるかもしれない。逆に、みんな「ああ」って泣いてばかりいて、不幸な家庭になるかもしれない。でもこの子供が病気になったっていう現象自体には善悪はないし、幸不幸はないんです。そこでそれをどうとらえるか、そこでどのような心を発するかだね。だからこの、どのような心を発するかが修行なんです。修行とか正法なんだね。で、それを教えてるのが、教えなんです。だからすべてはこっち側の問題なんだね。だから、こうなったら幸福です、こうなったら不幸ですっていうのは、一〇〇%あり得ないんです。その絶対的な定義はね。


(U)そうか……。


 そう(笑)。


(U)わかりました。で、今、先生の話聞いてて、例えばぼくが将来、自分の子供を育てて、その子供が暴走族に入ったり、なんかおかしな方向にいったり病気になったりとか、そういうことを想像してたら、困ったー……


(一同笑)


(U)すごい困った。


 それはね、妄想(笑)。その前に結婚できるかどうか分かんない(笑)。それはなんだっけ、チベットの逸話にあるさ、あの……


(U)ああ。


(K)ダワタクパ?


 ダワタクパか。なんかあるよね。大麦を手に入れて、おれはこれでお金持ちになって、嫁を手に入れて、子供の名前は何にしようかとか考えてたら、大麦が落ちてきて死んじゃったっていう(笑)。だから、「おれの息子暴走族になったらどうしよう」とか思ってたら、なんか落ちてきて死んじゃうかもしれない。うん。それは妄想だね(笑)。
 だからさ、なんていうかな、あの、わたしが好きな話で、ビンビサーラ王の話ってあるよね、有名な。ビンビサーラっていうのはお釈迦様の王様の一番弟子で、で、すごいまあ徳の高いっていうか、まあ多分ある程度のステージに達してた人だったと思うんだけど、で、このビンビサーラ王っていうのは、最後自分の息子に殺されるんです。で、それは息子が――まあ息子はそのデーヴァダッタっていうお釈迦様の悪い弟子がそそのかして、息子のアジャータサットゥっていう王子様は、王様――まあつまり自分が王様になるために父親のビンビサーラ王を、牢に閉じ込めて、で、餓死させるんだね。
 で、これは一見、「あれっ?」って思う。なんでかっていうと、だってビンビーサーラってお釈迦様の、まあ王様の中では最高の弟子だった。王様の弟子っていっぱいいたんだけど、その中でも最高の弟子だった。で、すごく徳も積んでて、で、帰依もあって、しっかり修行してた。それほどの、つまりお釈迦様にそれほど帰依して修行してた人が、最後息子に殺されて餓死ですかと。仏教って、なんのメリットもないじゃないですか、っていうふうに現世的には思う。でもビンビーサーラ王の最後がどうだったかというと、そのような息子に殺されるという状況によっても、逆に息子が哀れでしょうがなくて、つまり父親をそんなふうに殺すような息子が哀れでしょうがなくて、で、どうか息子がお釈迦様と出会って、お釈迦様の弟子になってくれますように、ということを祈りながら死んでいったんだね。つまりビンビサーラ王が仏教の修行によって得たメリットっていうのは、自分が殺される状況であっても、自分を殺す者の幸福を願えるほどの心の状態になってたんです。これが仏教なんです。だから殺されないようになるのが仏教じゃないんです(笑)。どんな状況でも相手の幸せを願えたり、心の平安を保てるのが仏教なんです。もちろんヨーガもそうだけどね。だからその辺の錯覚が現代の精神世界とか宗教ではあるんだね。うん。修行したからすべてがうまくいかなきゃおかしいっていうのは錯覚なんです。いいですか?


(U)……よくよく考えればそうですよね。


 そうだよ(笑)。


(一同笑)
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第八回(9)

2018-05-20 18:33:18 | 勉強会より抜粋


◎ラーマクリシュナのリーラー

 はい。じゃあちょっときりがいいところで今日はここまでにしますが、じゃあ全体的に何か質問あったら聞いて終わりにしましょう。質問ある人いますか? 


(質問者)いつもありがとうございます。今日のお話の中でラーマクリシュナの癌の話が出たんですけども、ラーマクリシュナの癌っていうのは神の祝福だと思うんですけども、別の見方をすると、ラーマクリシュナの周りの縁のある方たちの悪いカルマを受け取ったかたちであるという理解でよろしいんでしょうか?


 もちろんそれはそうだと思いますよ。
 まあラーマクリシュナっていう方は、そうですね、彼のスタイルっていうのは、表面的には日々自分の部屋にやって来る信者や弟子たちと「わっはっは」と楽しく語り合いながら教えを説くと。まあそれだったんだけど。まあ実際にはね、いろんな弟子の話を聞いても分かるように、いわゆるエンパワーメントというか、エネルギー移入をいっぱいやってるんですね。例えばヴィヴェーカーナンダなんてそうだけども――ヴィヴェーカーナンダだけじゃなくていろんな弟子を抱きしめたりね、抱擁したりとか、あるいは頭に手を置いたりとか、あるいは、そうだな、あるときは言葉だけで、あるいは舌にいろいろ書いたりとかね。いろんな独特の方法で、弟子のその、眠ってるものを目覚めさせていくんだね。そういうのを徹底的にやってるんです。
 まあつまり、ラーマクリシュナのあのときの使命っていうのは、もう全体を見れば分かるわけだけど、そのような教えを説くことと、それから徹底的なエンパワーメントによって、まずヴィヴェーカーナンダをはじめとする弟子たちに種子を植え付けたんですね。で、それだけの膨大な、将来に大きな花を開くような種子を弟子たちに植え付けて、体をボロボロにして死んでいったんです。で、それを受け取った弟子たちが、ヴィヴェーカーナンダを中心とした弟子たちが、一生懸命そのあと修行して、ラーマクリシュナから受け取った種子を開花させてね、で――まあ、何度も言ってるけどね、今世界で最も発展してるヒンドゥー教組織はおそらくラーマクリシュナ教団です。インドでもそうですけどね。日本ではほかにもいろんな有名なヒンドゥーの教団とかあるけども、世界的にいうと全然話にならないんだね。つまりそれくらい、ラーマクリシュナの教えの布教に大成功したわけだけども。それだけの仕事を弟子に与えてね、自分はそのために、もう体をボロボロにして死んでいくっていうのがそのときのラーマクリシュナの使命だったんですね。
 で、ラーマクリシュナに関しては、まあアヴァターラと言われているので、神と同一なわけですけども、でもラーマクリシュナはあの生では、「わたしはアヴァターラだ! 神だ!」じゃなくて、完全に神の信者としてのスタイルをとり続けたんだね。あの、わずかな、例えばヴィヴェーカーナンダとかMとか、わずかな弟子には正体を明かしてるんですけどね。「本当はわたし、クリシュナなんだよ」みたいな感じで言ってるわけだけど(笑)。「あのラーマとかクリシュナとかチャイタニヤとして現われた者が、実はわたしなんだ」ってこっそりは言ってるんだけど。でもおおっぴらには「わたしは神のしもべにすぎない」っていうスタイルをとり続けたんですね。だからそのへんは微妙なわけだけども。つまりその、それは神の意思っていうことはラーマクリシュナの意思でもあったわけだから。でも彼のスタイルは、もう一回言うけど、神のしもべ、もしくは神の息子としてのスタイルだったので、徹底的に――まあそのスタイルの表現とも言えるし、弟子への教育っていう意味でも、多分そのような表現をしたんだと思うね。
 つまり、もう一回言いますよ、「わたしはこの身も心も完全に母なる神に預けてしまったので、自分の病気のことなんてお願いできない」と。ね。もちろん、本当にそのときのラーマクリシュナがそういう状態だったんでしょう。つまり、神のしもべとして、神の息子として、なんていうかな、正直な言葉だったんだと思う。で、それによってわれわれが受ける大きな恩恵ってあるよね。わたしもこれを最初読んだとき、非常に感動した。で、「ああ、そうでなきゃいけないな」って思った。つまり、どうでもいいんです。どうでもいいっていうのは――だって、どうでもいいっていうか、結局全部与えられたものだから。ね。文句言っててもしょうがない。病気にしろそうだし、いろんな環境にしろそうだし、あるいはいろんなよくないことが起きましたとか、全部そうなわけだけども。「わたし預けちゃいましたから」と。今さら、「わたしの体、どうして……」とかね、今さら、「わたしの心ちょっと苦しいんです」とかね、今さら、「今、社会的にこうなんです」とかね、そんなこと言えないわけですね(笑)。全部預けちゃいましたからと。うん。それくらいの、本当の、なんていうかな、帰依っていうかな。
 やっぱりね、ラーマクリシュナとか、ラーマクリシュナの弟子たちっていうのは、みんなも好きな人多いだろうけど、わたしも非常に好きなんだね。で、その好きな一つの理由っていうのは、なんとも言えないんだけども、まあやっぱり本物なわけですね。本物っていうのは、本当にやってるわけです。教えっていうものを本気でやってるっていうか。机上の空論ではなくて、本当にそのまま生きようとするっていうかな。だからそれは本当に偉大な見本になるんだね。しかもそんな昔の人じゃないから。たかだか百年前ぐらいの人だから――例えばお釈迦様とかね、あるいは歴史でも本当にいたのかどうか分からないような古代の聖者っていうのは、ちょっと時代が違うなって感じがするわけだけど(笑)、ラーマクリシュナたちっていうのは本当に近代の人だから。われわれがそれをできないってことはないんですね。うん。
 だからその、ちょっと話を戻すけども、のちの人にその生き方の見本を示すためにっていう意味もあったろうし、あるいはその時代のラーマクリシュナのスタイルとして、その母なる神にすべてを完全に委ねた息子としての境地の表現であったとも言える。しかし同時に、そのラーマクリシュナがそのように弟子のために身をボロボロにして――あの、最期のラーマクリシュナの死の直前も印象的ですよね。死の直前に、ラーマクリシュナはヴィヴェーカーナンダに触れてね、エネルギーを入れるんです。で、ヴィヴェーカーナンダはすごい衝撃を感じるんだね。グワーッて衝撃を感じて、もう大変革が起きるんです。で、そこでラーマクリシュナはかすれた声で、本当にほとんど聞き取れない声で、「わたしは今、お前にすべてを与えた」と。「もうわたしは一介のみすぼらしい乞食僧にすぎない」と。まあイスラム教でファキールっていうわけですね。ファキールにすぎないと。ただの乞食にすぎないと。つまり聖なるエネルギーをいっぱい持って生まれてきて、みんなにバーってこう「救済!」ってやってたわけだけど、もうほとんど自分の使命が終わりに近付いて、最後の最後で一番弟子のヴィヴェーカーナンダに全部与えちゃったと。もう与えちゃったからほとんどエネルギー残ってなくて。肉体にはね。「もうわたしはただの乞食だ」と。「あとはお前に任せた」と。ね。「しかしお前が、本当に今生の使命を終えるまでは――つまりヨーガやヒンドゥー教の真髄を世界に広めて、人々を救うっていう使命を終えるまでは――このわたしが与えた本当の聖なる真実に最後までお前は気付くことはない」と。「お前が本当にその使命を終えたときに、その鍵が開かされてね、お前は自分の本性に気付くだろう」と。で、「そしたらお前はこの世を去るだろう」と。「だからそれまではこの世の使命のために働きなさい」と言って亡くなっていくんだね。
 だからまさにラーマクリシュナの生涯っていうのはそれだけのためにあったっていうかな。ラーマクリシュナは五十何歳かで死んでるわけですけども、いつも言うように、ラーマクリシュナが弟子たちに、近しい弟子に教えを説いたのは最後の五年間くらいだったんだね。うん。それまではラーマクリシュナのある意味、修行期みたいのがあって、最後の五年間で徹底的に弟子に自分のエネルギーと智慧を分け与えて死んでいったと。まあこれが彼の使命だったとも言えるわけだけど、さっきも言ったようにラーマクリシュナそのものがもし至高者そのものと同じであるとしたら、それもまた彼のリーラーだったっていうことだね。つまりクリシュナがクリシュナのリーラーをしたように、ラーマがラーマのリーラーをしたように、チャイタニヤがチャイタニヤのリーラーをしたように、あれがラーマクリシュナのリーラーだったとも言えるんだね。そのへんはだからいろんな角度で見ると、いろんな意味合いが混ざってて非常に面白い感じがするね。


(質問者)はい。どうもありがとうございます。
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「悪い妄想について」

2018-05-20 18:21:31 | 解説・バガヴァッド・ギーター



◎悪い妄想について


(U)時々、日々の生活で気分がすごい落ち込んでいるときとかに、悪い妄想が出てきて、その妄想が膨らんで、膨らんでいってそれに流されていくときがあるんですけど、そういうとき、「あー、だめだなー」って思うんですけど、なにか良い方法ないですかね?

 そうだねえ、それはいろんなやり方があると思うけど、やっぱり一番簡単なのはマントラ。または詞章ね。まだマントラ教えてないかもしれないけど……例えば「オーム・マニ・パドメー・フーム」――観音様のマントラね。これ唱えたらいいよ。これを普段から唱える。心の中でもいいから。で、変な妄想が出そうになったら、「オーム・マニ・パドメー・フーム、オーム・マニ・パドメー・フーム」……それは一つの方法だね。
 あとは呼吸法ね。できるだけなにも考えないようにして、呼吸法に励むとか。
 あとは普段の他の瞑想がどれだけ積み重ねられるかだね。例えば慈悲の瞑想とかね。慈悲の瞑想はよくやってるんだよね?

(U)はい。

 あれを日々たくさんやってたら、そういう変なのが出そうになったときも、それを思い切ってやってみるんです。ちょっとやりにくいかもしれないけど。それによって、まったく逆のイメージだから、それは。打ち砕けることもある。
 今U君が言ったことっていうのは、まさにバルドと同じなんだね。変な妄想が出てきちゃって、膨らんでっちゃうと。それはまさに死後の世界とまったく同じで、それにいかに対抗するかっていうのをいろいろやってみるのは、すごく有益なことだね。
 それは誰だって最初はさ、対抗できないんです。その状態から日々修行を日々進めることで、だんだん対抗できるようになっていって。で、それが自由自在になったころには、もう死後の世界は自由自在だと。
 あともう一つアドバイスとしてはさ、できるんだったらですよ、できるだけ小さなとこから刈り取ったほうがいい。妄想って最初小さいじゃないですか。だんだんだんだん、「まあ、これくらいはいいか」ってやってるうちに、もう取り返しがつかないような怪物になってしまうっていうか。だから最初のうちからもうスパッと切るんです。「駄目だ」と。モアーッて出てきたら「いや、仏陀だ」と。「いや、クリシュナだ」と。あるいは「慈悲の瞑想だ」と。
 で、これはね、絶対できるようになるんです。なぜかというと人間の精神状態っていうのはすべて訓練なんです。今そういうふうに妄想を抱くようになったのも、過去世とか過去から妄想を繰り返してきたからだと。それがだから成就しちゃってるんだね。だからその逆のパターンをやっていけば、最初はやりにくいんだけど、絶対できるようになるんです。それが修行っていえば修行なんだね。それはいろんなやり方を試してみたらいいかもしれないね。
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