ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

ブッダ・プールニマ&アーナンダマイー・マー生誕日

2018-04-30 19:34:58 | 松川先生のお話




 今日の満月は、インドの歴ではブッダ・プールニマといい、お釈迦様のお誕生日とされます。

 また同時に今日は、近代のインド・ベンガル地方出身の女性の大聖者、アーナンダマイー・マーのお誕生日でもあります。




 ビックたちよ、他の者たちが君たちに、ふさわしいときに、あるいはふさわしくないときに語るであろう。
 真実によって、あるいは偽って語るであろう。
 柔和に、あるいは乱暴に語るであろう。
 利益を伴って、あるいは利益を伴わずに語るであろう。
 慈愛の心を持ち、あるいは怒りの心を持って語るであろう。

 そこでも、いいかね、ビックたちよ。君たちは次のように学ぶべきである。すなわち、我々の心を決して変えないようにしよう。
 悪い言葉を吐かないようにしよう。
 また、相手を思いやり、慈愛の心を持ち、怒りの心を持たずにいよう。
 そして、その人に対する慈悲の思いで満たそう。
 また、慈愛の対象である一切の世界を、広く、大きく、無限で、恨みなく、怒りのない慈悲の思いで見たそう、と。
 ビックたちよ、まさにこのように、君たちは学ぶべきである。



 ――仏陀釈迦牟尼







 唯一者を見つけるには
 彼を求めて、泣き叫ぶほどに切望することです。

 安穏と幸運の時期にも、
 逆境と苦悩の時期にも、
 ただ彼だけに、避難所を求めてください。

 いつでもどんなときでも、彼を求める心を保ち続けてください。

 彼こそは完全なる慈悲であり
 幸福の泉であり
 完全なる至福なのです。


――アーナンダマイー・マー






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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第八回(7)

2018-04-29 20:08:40 | 勉強会より抜粋


◎認められないことに満足せよ

 はい。「名誉を得意がる」。この名誉っていうのも当然実体がないものだからね。つまり自分が褒められようが、あるいは逆に誤解されようがどうでもいいわけです。ね。まあもっといえば、自分はみんなの犠牲になる、くらいの気持ちでいい。みんなに全く認められず――これもわたしの好きなミラレーパの遺言で――ミラレーパが自分の高弟の一人であるレーチュンパっていう人に遺言をいっぱい残すんだけど、その中で一番最後に彼が言った言葉が、「認められないことに満足せよ」って言うんだね。まあつまり、レーチュンパって結構慢心が強い弟子だったんで、そこらへんもちょっと釘を刺したのかもしれないけども。「認められないことに満足せよ」と。ね。菩薩は認められたいなんて思っちゃいけないんです。あの、自分のグルとか神に自分の努力を供物として捧げるとかね、あるいは自分の誠実さを捧げる――これはいいんだけども、それ以外の人には別に認められなくたってかまわない。すべての人に誤解されたって全くかまわないんです。もし自分一人がみんなから誤解され、あるいは蔑まれることによって、多くの人が救われるならば、あるいは多くの人のメリットになるならば、それこそ菩薩の本望なんだね。
 だからその、なんていうかな、心の一番最初の土台みたいなものを忘れないようにしなきゃいけない。これ、やっぱり忘れがちなんだね。
 だからこの間のマンジュシュリーの話もそうだけど、今日の話もそうだけど、菩薩とは縁の下の力持ちであると。菩薩とは人の犠牲になってなんぼであると。このような土台を最初学んだとしても、さっきも言ったように、段々修行してると徳が高まってきて、人から褒められるようになったり、あるいは人から好かれるようになったり、いろんなことが起きることによって、それにしがみつくようになるんだね。で、しがみついて、菩薩は犠牲になってなんぼだったんじゃないかなっていうのを段々忘れてくる。あるいは、縁の下の力持ちだったんじゃない?っていうのをだんだん忘れてくる。で、逆にこの現世的な価値観みたいのをもっともっと増大させたいっていうふうにだんだんなってしまうんだね。
 だからこれも気をつけなきゃいけない。菩薩にとっては名誉なんかどうでもいい。ね。実質が大事なんです。実質っていうのは、本当に自分が――つまり誰が認めようが認めまいが、本当に自分が本物になればいいだけでしょ? 本当に自分が本当の神の子、神の道具になればいい。あるいは本当に自分がみんなのためになるような存在っていうか、であればいいだけだからね。それを忘れないようにっていうことですね。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第八回(6)

2018-04-29 17:57:34 | 勉強会より抜粋


◎自分の徳を見せびらかさない

【本文】

 また、同じくサーガラマティパリプリッチャーには、こう説かれている。

「大乗を求めるのに障害となるものが四つある。
 それは、自分の徳を他人に見せびらかすこと、
 他人の徳をバカにすること、
 名誉を得意がること、
 そして、人に怒りをぶちまけることである。」


 はい。これはね、シンプルな教えなのでしっかりと心にとめたらいいですね。
 大乗の障害となるもの。まず「自分の徳を他人に見せびらかす」。ね。
 そしてその対比として、「他人の徳をバカにする」と。
 つまり、他人がやった素晴らしい善いこととか、あるいは、まあ徳って広い意味でね、広い意味で徳を積んだこと。修行の進歩とか、それを馬鹿にすると。で、逆に自分が積んだ善いこととか修行のメリットとか、それはちょっと人にこう、宣伝したく思うと。
 菩薩っていうのはいつも言うように、縁の下の力持ちでなきゃいけない。その最高の理想が、何度も言ってるマンジュシュリー的な菩薩なわけだけども。だから逆の発想の方がいいですね。逆の発想っていうのは、まあこれも『入菩提行論』とかにありますけども、「おれの徳は――まあ陰徳って言うわけですけども――絶対にバレないようにしたい」と。変な話なんだけどね。「おれ、かなり徳積んだけど、誰にもバレないぞ」と。ちょっと今コミカルな感じで言ってるけどね。実際には皆さんそうする必要ないけども、一応皆さんの心を変えるためにちょっとコミカルなっていうか、極端な言い方しますよ。極端に言うと、「絶対おれは徳を誰にも気付かせない」と。ね。「能ある鷹は爪を隠す」じゃないけど、「おれは結構、徳積んだかもしれないが、これが誰にも気付かれないようにしたい」と。「誰もおれを褒めないでいてほしい」と。ね。逆に他人の積んだ徳、それをもし自分が気付いたなら、「みんな知ってほしい!」と。ね。「みんなにこれが明らかになって、みんながあの人を本当に、あの人の素晴らしさを称賛するようになってほしい」と。こういう気持ちが菩薩には大事なんだね。あの人っていうのは全員ですよ。分け隔てなく、この人はこういう徳を積んだと。「ああ、これはみんな本当に知ってほしいな」と。自分が徳を積んだと。「これは誰も知らないようにしてほしい」と。
 つまり『入菩提行論』の第八章にあるように、「自他転換の法」っていうんだね、こういうのはね。エゴの普通の働きを逆転させるんです。エゴは普通逆だからね。「自分が積んだ徳はみんな知って!」「自分が積んだ悪は誰も知らないでほしい」と。ね。で、他人が積んだ徳には嫉妬するから、「あんなの誰も知らないほうがいいな」と。ね。で、他人が積んだ悪は、「ばらしたい」と思ってる(笑)。これを真逆にするんです。
 もう一回言うよ。自分が積んだ徳は「絶対誰も知らないでほしい!」と。「やべえ」と。だから自分が悪を犯したときと同じようにしてください。悪を犯したとき、そういう気持ちになるでしょ? 「やっちゃった!」と。「もう誰も知らないでほしいな!」と。こういう感じです。「あ、徳積んじゃった!」と。徳積んじゃったっていうか、徳は積まなきゃいけないよ(笑)。積極的に徳積んで、積んだ徳を「誰も知らないでほしい」と。で、逆に自分が積んだ悪業は、「みんな知ってくれ!」と。「ここに悪人がいます!」と。
 で、逆に他人が積んだ徳に関しては、「もう誰か気付かないかな」と。「なんでみんな気付かないんだろう」と。「早く気付かれてほしいな」と。呼んできたりとかね。「Y君が二時間蓮華座達成したよ!」と。「早くみんな来て!」と。あるいは誰かがこれだけのお布施をしましたと。あるいはある人がこんなにも心が変わりましたと。もうみんな世界中の人が知ってほしいと。
 で、逆に、人が積んだ悪業は、できるだけ知られないでほしいと。もちろんそれを直すための、浄化するためのアドバイスはしなきゃいけないけども。それが、例えば別に、人に知られる必要はないからね。その、人が知ってほしいっていうのは完全にこれは阿修羅の働きです。この人、悪を積んだ。例えばY君こんな悪いことをやった。「なんでこれみんな知らないの?」と。「これは知られるべきでしょ」と。これ阿修羅です(笑)。そんなは必要ない。決してそれは誰にも知られないでほしい。だって本人も恥ずかしいだろうし、本人がそれは直せばいいだけの話だから。この心の働きが大事なんだね。
 だから今、ちょっと皆さんにショックっていうかな、心を変えるためにちょっと極端に言ったけども。まあ実際にはそこまで極端にする必要はないんだけども、決して自分の徳を他人に見せびらかさない。そして決して他人の徳を馬鹿にしない。否定しないということですね。
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「恐ろしい釣り針」

2018-04-29 17:29:50 | 解説・入菩提行論


【本文】

 汝の養うべき者を養う人は、汝に与える人である。(それなのに)汝の家族(全ての衆生)を養う人があれば、汝はそれを喜ばないで、かえって怒りを発する。 

 衆生の覚醒を願う者が、彼ら衆生に何を望まないということがあろうか。他人の幸福に怒りを発する者に、どこから菩提心が現われるか。

 彼(汝が嫉妬する衆生)によって施物が受け取られないときには、それは施主の家に留まっている。いずれにしても、それは汝のものではない。与えられようと与えられまいと、何の関係があるか。

 彼は功徳を拒むべきであるか。また(他人の)好意、自己の徳を拒むべきであるか。物を与えられても、取得してならないというのか。どのような仕方ならば、汝の怒りが生じないというのか。それを説け。

 汝は自身の犯した罪悪を悲しまないばかりか、他人の作った功徳と張り合おうと願う。


【解説】

 ここはちょっとわかりにくいかも知れませんが、つまりまず、たとえば、自分がある程度信者を持つ僧だとしてね、そして他に、自分がライバル視している僧がいたとして、その僧の下に信者が多く集まるという状態。この状態において生じる嫉妬心を戒めているわけですね。
 だって、自分の目的は、「全ての衆生の幸福」じゃないかと。その全ての衆生のうち、わずかな衆生に対してね、彼が教えを説いている。それは自分の目的を助けてくれているのも同じだから、そこで感謝することはあっても、嫉妬したり怒ったりするのはおかしいという解き方ですね。
 
 そして私は、全ての衆生の完全なる幸福、すなわち解脱を願っているはずじゃなかったのかと。解脱を願うくらいなんだから、もっと小さな幸せも、願わないはずはない。それなのに今自分は、わずかな信者にわずかな尊敬を受けている彼に対して、怒りや嫉妬を持つというのはいったいどういうことなんだ、ということですね。

 そして次のところは、そのライバルの僧が、信者から何か施物を贈られたとき、また嫉妬が出るわけだけど、それは最初から、贈られようが贈られまいが、自分とは何の関係もないということだね。まあ、当たり前のことなんだけど、嫉妬などの醜い感情に心が襲われているときは、そういう当たり前のことがわからなくなってしまうから、このように自己に言い聞かせるわけですね。

 「どのような仕方ならば、汝の怒りが生じないというのか。」というのは、自分自身に対する、辛らつな皮肉めいた言葉だね。つまりその嫉妬という誤った感情がある以上、その人は不当な怒りと嫉妬を、その相手に向けるわけだね。しかしそれは全く不当であって、醜く間違っているのは自分自身である、と気付かなければいけないわけですね。
 
 そして嫉妬が出るときというのは、そもそも懺悔ができていない。懺悔がしっかりとできていたら、他に嫉妬する前に、自分が過去に積んだ悪業を悲しみ、それを浄化することに全力を尽くすでしょう。しかし懺悔ができていないがゆえに、たかだかちっぽけな自分の功徳に傲慢になり、他者の功徳--本来はそれは喜び、称賛されなければならないのに--それに嫉妬を向けてしまうわけだね。それはもう、全く恥ずべきことなんだ。だからこの辺はしっかり修習して、そういう過ちに陥らないようにしなければいけない。

 この文章を読んでいる皆さんも、いつの日か、仏教とかヨーガの修行や教えを、人々に説く立場になることがあるかもしれない。そのときのために、こういう教えはしっかり心に刻み込んでおいた方がいいでしょうね。



【本文】

 敵に不幸が起こるとして、どうして汝の希望だけでそれが生じよう。原因のないものは、汝の期待だけでは生じないであろう。

 また、汝の望みだけでそれが成立するとして、彼が苦しめば汝に何の楽が現われるか。それに利益があるとしても、それより以上のどんな不利益があるか。

 なぜならこれ(他人の不幸を願う心)は、煩悩という漁夫の投じた恐ろしい釣り針である。地獄の看守(獄卒)は、(魚を漁夫から買い取るように)汝を彼から買い取って、釜の中で煮るであろう。


【解説】

 ある高名な僧は、ミラレーパの人気に嫉妬して、毒殺しようとした。つまり仏教というすばらしい教えに出会い、教えを学び、修行をしてきたはずの僧も、自分がみんなから尊敬されるようになると、慢心が生じ、嫉妬心に襲われ、魔に心おおわれ、そういうことを考えてしまう。

 まあ、ここでは別に、そういう指導者が持つ嫉妬に限定する必要はありませんが、何らかの誤った考えによって他者の不幸を願ってしまうときの状況について、ここでは言及されていますね。

 まず、すべてはカルマだから、その自分が悪意を持つ相手に不幸が生じるとしたら、その因が彼の中にあるわけであって、こちら側の悪意っていうのは関係ないわけですね。だから、敵の不幸を願うことの無意味さをまず説いています。
 そして次に、仮に、こちらの願いによって、相手に不幸を与えることができるとしましょう。しかしそこにどんな利益が、自分に生じるのか、冷静に考えろ、ということですね。「憎い敵を不幸にして、満足した」なんていう喜びが生じるのか?--生じるとしたら、すでに相当、こころが腐っている。そして、その満足感など比べ物にならないような不利益を、自分は受けることになるでしょう。多くの悪業を積むことになるし、心も魔に覆われるし、真理との縁も大きく弱まるでしょう。そういうことを合理的に、冷静に考えろということですね。

 そして最後の一文は、非常に面白い比喩ですね。

 「他人の不幸を願う心」というのは--つまり嫉妬その他によって、他人の不幸を願ってしまうような状況、その状況自体が、煩悩の悪魔がたらした、恐ろしい釣り針に引っかかっているえさなんだよと。悪魔は、そのような状況を作り、我々の悪しき心を沸き起こさせようと、常にうかがっているんだ。
 そしてわれわれがその罠に引っかかり、実際に他人の不幸を願ってしまったとき、あるいはそれによって実際に他者を陥れる何らかの行為に走ってしまったとき--それはまさに、悪魔の釣り針に食いついてしまったことと同じなんだと。そうして自分は見事に煩悩の悪魔という漁師に釣り上げられてしまう。
 漁師が釣った魚を主婦とかが買って、家で調理のために釜で煮る。
 それと同じように、悪魔という漁師が我々を吊り上げ、地獄の獄卒に売り渡し、我々は地獄の釜で煮られるだろうと。
 非常に面白く、的確で、恐ろしい比喩ですね。

 だからどんなときでも、どんな理由があっても、他人の不幸を願うなどということは絶対にやめましょう。
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「称賛の喜び」

2018-04-29 17:21:52 | 解説・入菩提行論



【本文】

 もし他の人々が、徳の優れた者を称賛して喜びを得るならば、わが心よ、なぜ汝もまた、その者を称賛して等しく喜ばないか。

 この汝の楽しみはまた、非難せられず、安楽を生ぜしめる。そして有徳者(仏陀の教えを知っている人)の禁じないところであり、他人をひきつける最上の方法である。

 「それは彼(称賛する人)の楽しみに過ぎない」と言って、もしもそれを汝が好まないならば、奉仕に対する報酬を拒むことになる。したがって、眼に見える果報と眼に見えない果報も、滅びることになろう。

 汝自身の徳を人が称賛する場合は、汝はそれで人が楽しくあるのを望む。しかし、人が他人の徳を称賛する場合には、自己がそれで楽しくあることを望まない。

 全ての衆生の安楽を願って菩提心を起こしているのに、汝はなぜ今、自ら楽を感じている衆生に怒りを発するか。

 衆生が三界に供養せられる仏陀となることを汝は願う。しかるに彼らに対するはかない尊敬を見て、なぜ汝は悩まされるか。


【解説】

 ここからは、他者に対するねたみという醜い感情に対しての熟考と識別、ジュニャーナ・ヨーガが続きますね。

 この辺は読むだけでも心に染み入ると思いますね。

 他者の良いところを素直に称賛することができたなら、そこには大きな喜びがあります。現世的な喜びは、場合によっては人に非難されることもありますが、この「他者を称賛する喜び」を味わっている人を、非難する人はいません。
 さらに言えば、「他者を称賛すること」は、人をひきつける最上の方法であるといいます。確かに、他人の悪口や陰口ばかりを言っている人は、結果的に人から信用されませんが、他人の称賛を素直にできる人というのは、人から信頼されるものですね。
 このように、メリットばかりの「他者を称賛すること」なのですが、無智なわが心は、それに反対し、自己が称賛されることを望み、他者を称賛しないどころか、他者が誰かから称賛されているのを嫌います。

 しかし菩薩というのは・・・菩提心というのは、「全ての魂が、完全なる安らぎを達成した仏陀の境地に至りますように」という願いのもとにあったはずです。「仏陀という完全な安らぎ」を他の衆生が得ますようにと願っているのに、称賛したとかされたとか、その程度の喜びを他者が感じているときに、それを嫌悪したりするのは、大変おかしなことです。
 また、仏陀というのは、すべての世界で称賛される存在です。すべての衆生が、そのように全ての世界で称賛される仏陀になってほしい、と口で願いながら、ほんの少しの称賛を他者が受けているときに嫉妬したり苦しんだりするのは、いったいどういうことなのでしょうか? その菩提心は、嘘だったのでしょうか?
 このような思索によって、嫉妬に悩む自己の心を追い込んでいくわけですね。
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「わずかな苦しみ」

2018-04-29 17:09:50 | 解説・入菩提行論



【本文】

 生き物が受ける苦しみは、意志を持つ者によって作り出される場合と、意志を持たない物によって作り出される場合とがあるが、苦痛は、意志ある者の上にのみ認められる。それゆえに心よ、汝はこの苦痛を忍ぶべきである。


【解説】

 誰かが自分に悪口を言う。--これは、意志を持つ者によって引き起こされた苦しみですね。
 偶然石が落ちてきて怪我をする。--これは、意志を持たない物によって引き起こされた苦しみですね。
 
 しかし、石に対して悪口を言っても、石を蹴っても、石は苦しみを感じません。石は意志を持たないからです。

 ここで言いたいことは何なのでしょうか? 私はこのように思います--意志を持たない石が、殴られても罵倒されても苦しみを感じないように、その現象そのものは苦しみの因ではない。意志、精神、心、--これらが苦しみという概念を作り、我々は苦しんでいるように錯覚しているだけである。そのことを理解して、苦しみを耐えよ、ということですね。本当にこのことが理解できたら、心は空の境地に達し、苦しみは消滅するでしょう。しかしいきなりそれは無理なので、まずはその理念を理解し、その理解のもとに苦しみを耐え忍べ、ということではないでしょうか。



【本文】

 ある人々は迷妄によって過ちを犯し、ある人々は迷妄によって怒りを発する。われらはこれらの人々の中で、いずれを「過失なし」と言い、いずれを「過失あり」と言うべきか。

 なぜ汝は、そのために今汝が他人に悩まされるような行いを、昔なしたか。全てはカルマに依存している。私が誰であれば、これを変更しうるか。

 かように悟って、私は全てが互いに慈愛の心ある者となるように、功徳に励む。


【解説】

 全ての人は迷妄に覆われています。加害者も迷妄に覆われて他者に被害を与えたのだし、また被害者も迷妄によって、加害者に怒りを発します。このどちらが罪ある者であり、どちらが罪なき者なのでしょうか?--どちらもこの迷妄のマーヤーに覆われた、哀れむべき衆生なのです。

 そしてもう一度、カルマの話も出てきましたね。誰も、原因と結果の法則、自分が他に対してなしたことが将来自分に返ってくるという法則は、変更不可能なのです。今の自分に生じている苦しみはすべて、過去に自分が他に与えた苦しみなのです。

 それらのことを理解し、悟り、
--すべての衆生が、この迷妄を脱して、互いに慈愛の心を持つ者となるように
--加害者も被害者も、その怒りも、すべてが永遠に存在しなくなるように 
--ただ他者を愛し、他者を幸福にし、そのカルマによって自分も愛され、自分も幸福になるという、慈愛のカルマ、幸福のカルマだけで成り立つ世界がやってくるように
--そのために、まずは私が、修行をしよう。功徳を積もう。まずは私から慈愛を発そう。怒りを捨てよう。他者を害することをやめよう。カルマを浄化しよう。

 このような深い思いと決意が、この一文から伝わってきます。



【本文】

 家が火事となり、火が他の家に燃え移って、そこの藁などにつくおそれのある場合に、それは引きずって運び出される。
 それと同様に、心が物に執着し、そのために怒りの炎で焼かれる場合には、功徳の体が焼き尽くされぬよう、直ちにそれを投げ捨てねばならぬ。


【解説】

 これは絶妙なたとえですね。
 外界のさまざまな物、あるいは物質だけではなくて、地位とか名誉とか、愛情とかもそうですが、それらへの執着によって、それらが害されるときに怒りが生じます。
 そしてその怒りの炎は、それまでに長く積み重ねてきた功徳、自分の幸福の因を、焼き尽くしてしまいます。
 よって、そうならないように、怒りの炎を燃やす原因となる執着の対象を、自分の心から直ちに捨て去るのです!



【本文】

 死なねばならぬ者が、手を切断するだけで死を免れるならば、何の不幸が彼にあるか。
 人間の苦しみによって、地獄から免れうるとすれば、何の不幸があるか。

 もしわずかばかりの苦しみすらも、今日耐えられないなら、なぜ地獄の苦しみの因である怒りを除かないか。

 怒りのために、実に私は、数千回地獄に落ちた。そして自己のためにも、他のためにも、なんらの利益をもたらさなかった。

 この世の苦しみはさほどのものではなくて、将来に大きな利益をもたらす。そこで、世界の苦しみを取り除く苦しみを、まさに喜ぶべきである。


【解説】

 相対的に大きな苦しみを避けるために、相対的に小さな苦しみを受け入れることが、我々にはできるはずです。
 地獄の苦しみは、仏典等を見る限り、想像を絶する、とんでもない苦しみがとてつもなく長い間続きます。しかしこの人間界における、カルマの浄化の苦しみは、それに比べればさほどのものではありません。その程度の苦しみによって地獄を避けられるとするならば、それは喜びであって、悲しいことではないはずです。

 我々の意識は無智により転倒しています。地獄どころか、ほんの小さな苦しみでさえ、我々は耐え難く感じます。たとえば誰かに悪口を言われただけで、死ぬほどの苦しみに襲われることもあります。そんな弱い心ならば、到底、地獄の苦しみなど耐えることはできないわけですから、地獄に落ちる因である怒りの心を、消滅させなければなりません。
 ということは、小さな苦しみを受けてそこで怒るというのは、本末転倒なのです。その怒りこそが、より巨大な苦しみの世界である地獄に落ちる因となるわけですから。小さな苦しみに耐えられないと嘆きながら、より大きな苦しみの因を作っているという、大変な無智を、我々は行なっているのです。このような無智からは脱却しなければなりません。

 そして我々は過去世において、数え切れないほど、地獄に落ち、想像を絶する苦しみを受けてきました。しかもその苦しみは、そこでいくら苦しんだからといって、自分にとっても、他者にとっても、なんらのメリットをもたらさない苦しみでした。なぜなら、そこに法、教えがないからです。苦しむことによって再び嫌悪や怒りを増させるだけの苦しみだったのです。
 しかし今、教えにめぐり合い、修行にめぐり合い、カルマの法則を知り、解脱の法則を知り、慈愛の法則を知った我々に生じる苦しみは、そこで耐えることによって、自分と衆生に大きな幸福をもたらす苦しみなのです。しかもその苦しみの程度は、地獄の苦しみなどとは比較にならないほど小さな苦しみです。
 その辺のことを、十分に熟考・思索すべきです。そして、
「衆生のために、世界の幸福のために、私はこのわずかな苦しみを耐え忍ぼう」
と決意するべきです。
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「死のテクニック」

2018-04-29 14:52:05 | 解説・バガヴァッド・ギーター


◎死のテクニック

【本文】
 『ヴェーダを学んだ賢者たちが「不死の世界」と呼び、俗世への執着心を捨てた聖者たちの入るべきところ、
 そこに到達するためには神聖なる修行が必要だが、今そのことについて簡単に説明しよう。

 感覚器官の五門を閉ざして肉体的感覚を捨断し、心を心臓の中心に鎮め、
 プラーナを頭頂に集中して、精神統一を図る。

 そして至高者をあらわす聖なる一つの音「オーム」を唱え、
 至高者たるわたしを思いながら肉体を離れる者は、必ず至高の目的地へと到達する。』



 これも一つのテクニックですね。これがだから死のときにできるためには日々こういう修行をしてなきゃいけない。
 まず「感覚器官の五門を閉ざして肉体的感覚を捨断し、心を心臓の中心に鎮め、プラーナを頭頂に集中して、精神統一を図る。」と。
 つまり感覚器官の五門っていうのは、視覚、聴覚・嗅覚・味覚・触覚だね。これに対してわれわれは普段から心が散らばってるわけですけども、日々普段からこれらに心が散らばらない訓練をする。少なくとも瞑想の間は徹底的にそういった外的なものから心を内側に向ける訓練をする。
 あるいは日々の生活の中でも――もちろんわれわれはその感覚の中で生きてるわけだけど、できるだけそれにとらわれない訓練をする。
 これによって、その感覚器官から徐々に徐々に、ちょっと自由度が増してくるわけですね。


◎心を心臓に、プラーナを頭頂に

 そして「心を心臓の中心に鎮め、プラーナを頭頂に」とありますが、これはヨーガでも仏教でも、われわれの魂といったらいいのか、心といったらいいのか、その中心は心臓にあります。
 ヨーガでいう真我って心臓にあるんだね。ただ心臓にあるっていうのはちょっと便宜的表現なんだけど。実際に解剖したら、「あ、ここに真我がありました」ってそういう世界ではない。心臓が一つのアクセスポイントだって考えたらいいね。われわれの心の本性へのアクセスポイント、これは心臓にあります。
 密教とかでは「不滅の滴」とかいうんだけど、われわれの心の本性みたいのの、アクセスポイントがやはり心臓にあるっていうふうにとらえてる。だからここに集中するっていうのは、われわれが最も深い心の本質、真我に到達する一つのポイントなんだね。
 そして「プラーナを頭頂に」っていうのは、これはまさにわれわれの意識がどっから抜けるかって問題になってくる。これは何回も言ってるけども、肉体がある場合ね――肉体がある場合っていうのは、転生する前に肉体焼かれちゃったらまた違うけども、肉体がある場合、意識がどっかの穴から抜ける。それはこの目か耳か鼻か口か性器か肛門かまたはチャクラです。
 チャクラっていろんな意味があるんだけど、魂が抜ける穴でもあるんだね。で、このどっかから抜ける。その抜けた場所によって生まれ変わる世界が変わるといわれている。抜けた場所で変わるというよりも、生まれ変わる世界に応じてそれぞれの通じてる世界から抜けるっていったほうがいいね。
 例えば性欲にずーっと生涯とらわれてきた人っていうのは――ここでもう一つ問題は、意識っていうのはエネルギーといつも一緒なんです。一緒って言い方は変だけど、連動するんだね。ちょうどエネルギーは馬だと。意識は馬に乗ってる人だといわれる。つまりエネルギーがいつも動くんです。意識がそれに引きずられるんです。で、いつもいつも性欲のことばかり考えてた人っていうのは何もしてないときも、性器にエネルギーが集中するような癖がついてるんだね。
 その人が例えば、「いや、私は修行もいっぱいしたんですよ」と言ったとしても、それ以上にものすごい性的な経験があったとしたら、自然に性器にエネルギーが集中するようになってる。生きてるときはね、意志によっていろいろグーッとエネルギー上げたりもできるだろうけども、死後の混沌とした意識のときに、一生の一番の癖っていうか修習が出てくるから、それによって性器にエネルギーが集中した場合、意識も心もワーッて性器に引っ張られるんです。で、性器の穴から抜けるんです。この場合動物界です。「ワンワン」とか「ニャー」とかね。
 全部そうなんだね。例えば地獄は肛門だっていわれています。つまり生きてる間に優しいこともやったけども、でも九割方怒っていたと。この場合は肛門にエネルギーが集中する。で、死んだと同時に一切の束縛から解放されるから、ワーッて肛門から抜けて地獄に落ちる。
 じゃ、どこが一番いいんだって話になるけども、いつも言うように、この頭のてっぺんなんだね。ここに穴があるんです。ここはサハスラーラっていうけども。あるいはブラフマ・ランドラっていわれる穴がある。こっから抜けられれば最高。
 ここから抜けたら解脱の世界に行くか、もしくは浄土に行くかですね。仏陀の浄土に。
 だからここから抜けられればもう最高なんです。だからここにプラーナを集めるんだね。
 チベットの瞑想とかでは生きてる間にここからガーッてエネルギーを抜け出す訓練をしておくんだね。


◎心臓、眉間、頭頂

 ただもちろんね、その人が生きてる間に解脱すればこんなテクニックはいらないんですよ。解脱すればもう自由になるから。自分の好きなようにできるんだけど。
 だからこういう話っていうのは、解脱するまではいってないと。いってないけども、テクニックによってなんとか死のときにね、うまいこといきたいって場合の話でね。でもそれをやるにもさっきから言ってるように、生きてる間に徹底的にそういう訓練をしておかないと非常に難しい。
 だからね、これはヨーガでも仏教でもそうだけど、頭頂とか眉間ね。これに常に意識を集中しなさいってことをいう。あとは心臓だね。だいたいこの三ポイントが多いね。心臓、眉間、頭頂。
 もう普段からなにをしてるときでも――別にだから頭では他のこと考えててもいいんだけど、例えば仕事していていろんなプログラムとか作りながらも、頭のてっぺんに集中するとかね。あるいは心臓に集中するとか。これをやってると普段からそこにエネルギーが向かいやすくなる。これは一つのテクニックだね。
 仏教とかではもうちょっとそれをさらに発展させてね、二十四時間常に頭の上に仏陀をイメージすると。あるいは自分の師匠とかあるいは自分の好きなリアルな聖者とかを頭に乗っかってるとイメージさせるんだね。それはここにエネルギーを集中させるっていうのと同時に、その対象に対するイメージっていうか、これを確定させる。何やってるときでもこれが出てくると。そういう状態にするとかね。
 バルドっていうのはおもしろいもんで、前も言ったけど、良くも悪くも一瞬で大逆転の可能性があるんです。一瞬で大逆転の可能性っていうのは、ウワーッて「地獄のバルド!」って入ったときに、瞬間、仏陀を思い出しただけですべてが仏陀の世界に変わる可能性がある。逆もあるんだけどね。「あー天界だ。私は天に生まれ変わるのかな」って思ってたら、「そういえばあいつ許せないな」って思いがちょっと出ただけで、すべてが地獄に変わる可能性がある。非常に怖いんだね。
 でもこれを良く考えると、できるだけ死後の世界とかで、仏陀とかを一瞬でも思い出せるように、生きてる間に準備しておく。もう二十四時間なにをするときも、仏陀とかクリシュナでもいいけど、考える。
 だからこれはね、普段からそういう訓練ってできるんだね。まあカイラスの人って結構そういうことしてるかもしれないね。何を見ても――まあそれはね、いろんなレベルがある。本当にその人が悟ってたら、リアルにそう見えるんです。クリシュナに愛人のラーダーがね、「もう何を見てもクリシュナに見えてしまう」と。あれはもう一つの悟りだね。
 そこまでいかなくても、もうちょっと低いレベルでもできるんですよ。意識的にね。本当はそう見えないんだけど――例えばお茶を飲みながら、本当に悟ってたら、もうリアルに「あーこれはもう、このお茶さえもクリシュナである」と思えるかもしれない。そこまでは思えないんだけども、「これはクリシュナ様の甘露かな」とか。「甘露と思っていただこう」と、とかね。いろんな形でこう意識的にすべてを仏陀とか神に結びつける訓練をするのは大事だね。
 それをするとなにが起きるかっていうと、例えばCさんが貪りが強くて――これは仮にですよ。来世餓鬼に落ちる運命にあったとするよ。その場合、餓鬼の一番多いパターンっていうのは、自分の好きな食べ物がバルドでバーッて出てきて、「うおー、食いてー!」って行ったら餓鬼の世界だと。
 しかしですよ、Cさんは食いしん坊なんだけど、常に「これを仏陀に捧げます」って食べると。この訓練を日々やってたとするよ。そうするとどうなるかっていうと、バルドでバーッて食い物が出てきて、「うわー、餓鬼だー!。……あ、クリシュナ!」ってなるんだね。つまり食べる前にクリシュナに捧げるって癖ができてたら、「うわー、餓鬼だー!。でも……あ、クリシュナ。」って思ったときに、パーッて救われるかもしれない。それがスーパーテクニック。
 でもこれはね、テクニックっていうとちょっと弊害があるけども、でもこれができるには、さっきから言っているように、根付いてなきゃ駄目なんです。「こうやろう」じゃなくて、自然に出てしまうと。だから例えばいつもやってるようにね、「はい、じゃあ、まず食事の前に神に捧げましょう」と。これも「一応決められてるからやろう」っていうのが最初なんだけど、でもだんだんだんだん自然になっちゃうんだね。例えば「捧げてからいただこう」じゃなくて、もうなにかを口にした瞬間パッと、例えば仏陀や神の顔が浮かんできて、それを捧げてるイメージが出ると。ここまできたらもうその人は餓鬼に落ちることはないかもしれない。いかに貪りがあってもね。そっちに結び付けられてしまうというか。
 だからそういうことを普段からやってないとだめだけどね。だから結局は生きてるときの普段の修習がものをいうんだね、どの道をとるとしてもね。




◎死後の乗り物

 そして、「至高者をあらわす聖なる一つの音「オーム」を唱え、至高者たるわたしを思いながら肉体を離れる者は、必ず至高の目的地へと到達する。」と。
 オームっていうのはあらゆるマントラの王というかあらゆるマントラの基本だけども、もちろん別にこれは普段からオームばっかり唱えてればいいって問題でもなくて……まあオームだけ唱えるのもいいけどね。他の観音様のマントラでもヴァジュラサットヴァのマントラでもいいし。
 あのね、私の一つの経験を言うと、私が昔非常に深い意識の瞑想に入ったときに、まだそれに慣れてなくて、そういう深い意識に――前も言ったけどね、本当に深い意識に入るときって、ガクンッて感じで入るんです。なんとなく「あー深くなってきたな」っていうよりは、不連続点があるね。ガクッて違う世界に入っちゃうんです。で、それが慣れないとね、もうわけわかんなくなるんだね。本当にだからバルドに入ったような感じ。ワーッてなるんだけど、前にワーッてなったときに、ヴァジュラサットヴァのマントラが浮かんできて、「オーム ヴァジュラサットヴァ サマヤ マヌパーラヤ……」ってなったら、意識が鮮明になったんです。「おー! すごい!」「このマントラすごい!」と思って。
 それは多分ね、ヴァジュラサットヴァのマントラがすごいっていうのもあるし、自分に縁があったのかもしれない。例えば過去世でいっぱい唱えてたとか。
 だからオームのマントラって一番基本のマントラなんだけど、もちろんオームだけでもいいし、あるいは他のマントラと縁があった場合ね、そういったマントラが――例えばね、密教とかではマントラは「死後の乗り物」になるっていうんだね。そういうふうにいわれてる。つまりマントラを日々唱えることによって、それが死後の世界のわれわれの意識を――さっきも言ったように変なバルドがあったとしても、マントラとか詞章が死後の世界でもし出てきたならば、それがわれわれを良い方向にバーッて連れて行ってくれる。
 ちょっと私のリアルな体験をいうと、そのときウワーッてバルドみたいな状態になっちゃって、「オーム ヴァジュラサットヴァ サマヤ」ってワーッて出てきて、だんだんだんだん、ワーッて自分がなんなのかわかんない状態から、死後の世界っていうか瞑想の世界における自分の体っていうか、それが確定された。ちょっとよくわかんないかもしれないけど。「オーム ヴァジュラサットヴァ サマヤ」ってなった瞬間に、自分の今まで修行してきた情報とか、あるいは教えとかが、ガッて蘇ってきて、自分の修行者としての自分がバッてこう、確立された。言ってる意味わかるかな?
 つまりその状態っていうのは、深い瞑想とかバルドっていうのは、今まで自分がやってきたいろんな思いとか情報がこんがらがって、グジャグジャで、「おれは何なんだ」と。ウワーッて感じなんです。で、生まれ変わるときっていうのはここから何かに固定されるんです。何かに固定されて生まれ変わる。それがヴァジュラサットヴァ唱えたら、修行者としての自分に固定されたんです。それによって世界がバッて変わったんです。至福の世界というかね。
 もしそれがバルドだったら非常に良かったね。いい世界に行ってたかもしれない。だからそういうマントラには効果がある。
 だからさっきのその餓鬼に落ちるときに、クリシュナを思い出したらっていう話と同じで、マントラっていうのも癖になるじゃないですか。マントラずーっと唱えてると。だからそれくらいじゃなきゃ駄目なんです、逆にいうと。本当にすべてのことが吹っ飛ぶような深い意識に入ったとしても、そのマントラが出てくると。それぐらいになって初めて、マントラがわれわれの死後の世界の乗り物になるんだね。
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「あらゆる怒りを否定する」

2018-04-29 14:28:45 | 解説・入菩提行論


【本文】

 ある者は夢に百年を楽しんで目覚め、他の者はわずかに一時を楽しんで目覚める。
 しかし両者いずれも、目覚めたときには、楽しみは消えうせていないか。人は長命であっても短命であっても、死時においてこれと全く同様である。

 多くの所得を得、長く楽を享受しても、あたかも盗人に剥ぎ取られたように、手はむなしく、裸で私は去り行くであろう。

 所得によって生を維持しながら、罪悪を滅ぼし、かつ功徳をなすと言うならば--所得のために怒りを発して、功徳の消滅と罪悪が起こるではないか。

 私がそのために生を維持する目標(功徳の増大と罪悪の消滅)が消失するならば、ただ不浄な行ないをなすこの生存に、何の用があるか。



【解説】

 夢の中で、何十年もの人生を経験するような夢ってありますね。

 インドの逸話でも、こういう話があります。
 ある弟子が、師に対して、「マーヤーとは何ですか?」とたずねました。師は、その問いに答える前に、近くの村に行って水を一杯もらってきてくれ、と弟子に言いました。弟子は言いつけどおりに、近くの村に水をもらいにいきました。するとそこで、大変な美女を見、弟子は一目ぼれしてしまいました。
 師に頼まれた水のおつかいのことも忘れ、美女に夢中になった弟子は、彼女に結婚を申し込みました。二人は結婚し、子供も生まれ、大変幸せな家庭生活を送りました。
 そんなある日、突然、村を洪水が襲いました。男は何とか生き延びましたが、妻と子供は、水にさらわれて死んでしまいました。
 愛する妻と子供をいっぺんに失った大きな悲しみに耐えられず、男が泣き崩れていると、そこに師がやってきて言いました。
「水はどうした?」
 久しぶりに師の姿を見、弟子はやっと、師に頼まれていた一杯の水のおつかいを思い出しました。師は弟子に言いました。
「それがマーヤーだよ。」
 すべては師が作り出した幻影だったのです。そう、妻と子供の死も幻影だったどころか、妻も子供も、もともと存在しなかったのです。弟子は師の言いつけという大事なこともすっかり忘れ、喜びと悲しみのマーヤーに巻き込まれていたのでした。

 これと似たような話は、中国やインドなどでいろいろありますね。睡眠における夢が、目覚めてみると、長い夢も短い夢も同じように一瞬で終わったように感じます。そして人生というマーヤーも同じなのです。
 それは、所得がどれだけあったかとか、友人がどれだけいたかなどとは、全く関係ありません。我々は誰もが、この世にやってきたときと同じように、無一物で去らなければいけないのです。
 しかし唯一つ持っていける、いや、持っていかなければならないものが、善悪のカルマです。よってこの夢のような人生は、長生きするためにあるのでも、所得を増やすためにあるのでもなく、ただ悪いカルマを減らし、善いカルマを増やすために、そしてできるならば輪廻のマーヤーから解脱するためにこそ、使われるべきなのです。
 
 そして、修行のために生きなければいけないから所得にこだわる、というのもナンセンスだということですね。所得にこだわることによって執着と怒りが生じ、功徳の減少と悪業の増大が生じ、修行が遅れてしまうので、結局、本末転倒なのです。



【本文】

 ののしる者に対して、怒りを起こす。
 「彼は衆生を滅ぼすものだからである」と言うなら--彼が他人のそしりをなすとき、なぜ汝に(自分がののしられた場合と)同様の怒りが生じないか。

 他人に向けられた悪意であれば、汝はその悪意を許す。しかしその罵りなどが汝の煩悩などに抵触するときは、汝は彼を許さない。


【解説】

 ここもまた、エゴの言い訳を智慧の眼で論破していますね。
 自分をののしってくる者に対して、
「私は自分がののしられたから怒るのではないのだ。彼のような存在は衆生にとって害となるから怒るのだ」
という言い訳を、エゴはしがちです。
 しかし実際、自分と関係ない他者が彼にののしられたときには、そのときはそこまで心が動かないかもしれません。結局どんな奇麗事を言っても、エゴは自分のために、自分を守るために怒りを発しているわけですね。それをしっかりと自己分析しなければなりません。
 


【本文】

 また、仏像、ストゥーパ、正法を、破壊し誹謗する人々があっても、それに対して私が怒るのは、ふさわしくない。それによってブッダ等は、なんらの災厄を受けないから。

 師匠、血族、および愛しい者等に対して、害を加える者がある場合には、前述のように、それを条件から起こったことと観て、怒りを除くべきである。


【解説】

 仏教という世界的大宗教の中で、正統的にかなり重要視されているこの入菩提行論という論書の中で、このような宣言がなされているのは、ある意味世界宗教史上、大変驚くべきことではないでしょうか。
 なぜなら歴史を見ると、世界において、たとえば聖地をめぐり、聖像をめぐり、あるいは誹謗中傷をしたとかされたとかいうことをめぐり、宗教間で多くの怒りと罵りと闘争が繰り返されてきたからです。
 しかしシャーンティデーヴァは、はっきりと言います。誰が仏像やその他聖なる物を破壊しようとも、誰が真理の教えを誹謗しようとも、そもそもブッダも、真理の教えも、なんらの被害も受けないんですよ、仏陀や正法というものは、そんなもので傷つけられるようなものではないんですよ、だからそこで怒りを発するのは、菩薩としてふさわしくないですよ、ということですね。

 そして、自分に起こった苦しみが、複雑なカルマの因と条件の絡み合いによって成立した実体のないものであるのと同様に、仏像や真理の教えに対して、あるいは自分の師や、家族や、愛する者たちに対して害を加える者があっても、彼らもまた、カルマの因と条件に駆られてそのように動いているに過ぎないと考えて、その加害者への怒りを除くべきです。

 といってももちろん、何の措置もとらないでいいというわけではありません。自分のできることで、それらへの被害を食い止めることができたり、あるいは加害者の心を改善させることができるなら、やるべきでしょう。しかしその場合も、心に怒りを持ってはいけないということですね。そのような悪業をなさなければならないカルマの輪の中にいる相手に対して慈悲を持ち、自分の置かれた条件の中で、ただ自分のなせる最善の行為を努力すべきでしょう。

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「転倒」

2018-04-29 08:26:06 | 解説・入菩提行論




【本文】

 私に加害者が現れたのは、私のカルマに駆り立てられたためである。そしてそれによって、彼らは将来地獄に行くであろう。つまりそれは、ただ私が彼らを滅ぼした(地獄へ落とした)ということになりはしないか。

 彼らによって忍耐の修行を行なう私には、多くの罪悪の消滅がある。しかし、私によって彼らは地獄に行き、長い苦痛を受ける。

 私だけが彼らの加害者であり、彼らは私の恩恵者である。卑賤な精神よ、何ゆえに転倒して、怒りを発するか。


【解説】

 自分が過去に犯した悪業によって、自分の中に苦しみのカルマがあるならば、私は将来、必ず苦しみを受けなければなりません。しかしそのためには、その苦しみを与える役割を担ってくれる人物が必要です。そう、それが、今私の目の前に現れた「加害者」なのです。彼は勝手に、私のカルマとは関係なく、現れたくて現れたのではありません。私の悪業の果報、悪の報いというカルマの法則を成立させるために、縁によって現れた存在なのです。
 彼の出現、彼が与えてくれる苦しみを、忍耐の修行によって耐えたならば、私の悪業は消滅し、私は将来、幸福になるでしょう。しかしこの彼は?--彼は私に害を与えたという悪業によって、地獄に落ちるかもしれません。

 そのように考えると、ここで加害者として出現した彼は、自らを犠牲にしながら、私を救ってくれる存在という見方もできるのです!--それなのに、そのように身を呈して自分を救ってくれる恩人に、怒りを発するとは、いったいどういうことなんだ、ということですね。



【本文】

 私が地獄に行かないとすれば、それは私の決意の徳の力である。私が(加害者への報復を差し控えることによって)自身を守護しても、それによって彼らに、いかなる損失が生じるか。

 また、私が害をもって害に報いても、それによって彼らは守護せられない。しかも、私の修行は破れ、その結果、悩める者たちは壊滅してしまうであろう。


【解説】

 他者に苦しみを与えられるということは、自己の中に苦しみのカルマがあるということですが、普通は、そのカルマの報いによって苦しみを受けたとき、再び他者に憎しみを発したり、怒ったり、報復したりしたくなってしまいます。これが、終わらないカルマの輪の中にいるということです。
 しかし真理の教えを学び、カルマの法則を学び、決して他者へ怒りや報復を返さないという決意と実践をなすならば、私はその苦しみのカルマの輪から解放され、地獄から解放されるでしょう。
 しかし--当たり前のことですが--私が相手への怒りや報復をやめることで、相手に生じるデメリットは何もありません。私には大いなるメリットがあり、相手には何のデメリットもないのです。

 また逆に、怒りの心にさいなまれている人は、自己の怒りを正当化するために、「私が報復してあげることで、相手の悪業を浄化してあげるのだ」という傲慢な心を持つかもしれません。しかしそれによって相手が浄化されるということはありません。相手はまた再び、私か、あるいは他の人に怒りを発し、より深い苦しみのカルマの輪の中へ落ちていくでしょう。相手を救うのは、報復ではありません。ただ真理の教え、それだけなのです。

 しかも、そのような報復行為を行なったなら、相手にメリットがないだけではなく、私自身の菩薩の修行も破れ--つまり修行の道から外れてしまうかもしれません。「衆生を救うために菩薩の道を歩こう」と一度でも決意した者が、その道から外れるとしたら、それはその人のみならず、多くの衆生にとって有害です。なぜなら、その菩薩がもし修行を成就したなら、多くの悩める衆生が救われただろうからです。
 ですからこの部分をまとめると、以下のようになりますね。

①憎しみや報復を相手に返さないことにより、私の修行は進み、相手にはデメリットはない。
②憎しみや報復を相手に返すことにより、相手へのメリットはなく、私の修行は破れ、衆生に大きなデメリットがある。

 このようなことを論理的に何度もしっかりと考えて、怒りや報復を相手に返そうという心を捨てるべきです。



【本文】

 心は無相であるから、誰からも、どこにあっても、滅ぼされない。しかし、肉体に愛著するために、心は身の苦しみに悩まされる。

 侮辱、粗暴な言葉、誹謗--これらの全ては、身体を傷つけない。それなのに心よ、いかなる理由で、汝はそれらに怒りを発するか。

 私に対する他人の悪意は、それを私が嫌うほどに、この世あるいは他の世で、私を食い尽くすであろうか。


【解説】

 もともと心と呼ばれるものそのものには実体がなく、形もありません。だから心は、単体では、いかなるものにも苦しめられることはなく、滅ぼされることもないのです。
 しかしひとたびこの心が、何か別の対象に執着したとき--その対象が損害をこうむることで、心もまた、自分が損害をこうむっているかのように、苦しみを味わうのです。
 その最たるものが肉体です。肉体に執着することにより、本来は心とは何の関係もない肉体が傷つくことで、我々は大きな苦痛を感じます。

 しかもたとえば侮辱や悪口や誹謗中傷を浴びたとしても、この場合は、肉体さえも、傷ついているわけではありません。それらの言葉により、何が起きるのでしょうか?--ただ、空気が振動しているだけです(笑)。しかし我々は、悪しき概念によってその空気の振動を捉え、実体のない苦しみを生じさせ、相手への無益な怒りを生じさせます。

 そして最後の一文も、私は好きですね。

「私に対する他人の悪意は、それを私が嫌うほどに、この世あるいは他の世で、私を食い尽くすであろうか。」

--そうです。そんな大したことじゃないんですよ。他人に悪意を向けられ、被害をこうむることに、我々は恐ろしく臆病になり、嫌悪し、恐怖しますが、本来それら他人の悪意や攻撃には、私を壊滅させるほどの力はありません。私を壊滅させるのは、自分自身の中の無智であり、怒りであり、執着であり、嫌悪の力なのです。



【本文】

 それは所得の妨げとなるから嫌うのであるというなら、私の所得はこの世だけで消滅するが、(憎しみによって生じた)罪悪は堅く永続するであろう。

 よこしまに長く生を保つくらいならば、今日死んだ方がましである。生きながらえても、死の苦しみは、私において全く同じであるから。



【解説】

 入菩提行論の面白いところの一つは、さまざまな自問自答により、エゴを追い込んでいく、ヨーガで言うとジュニャーナ・ヨーガのような思索のプロセスが繰り返されているところですね。

 たとえばこの現世において、誰かの悪意により、金銭的あるいは物質的被害をこうむることがあるかもしれません。それでは生きていけなくなるので、私は怒っても構わないのだ、というエゴの反論に対する、智慧の側の答えがまず説かれていますね。

 まあここでは「所得」となっていますが、実際は所得だけではなく、生命そのものも含めた、この生を維持するためのさまざまな条件のことでしょうね。それら生を維持する条件を阻害されるから、私は怒ってもよいのだ、というエゴの主張に対し、智慧の心は、まずこう答えます。

 --怒りによってこの世の物を守っても、死と共にそれらは全て消え去る。
   しかし怒りによって作った悪業は、死しても永く永続するだろう。

--すばらしいですね。このように論理的にエゴを追い込んでいくプロセス、これが思索・識別の瞑想ですね。
 悪業によって生を永く保つというのは、ナンセンスなのです。本末転倒なのです。なぜなら、生きることの価値とは、生きているうちに悪業を減らし、善業を増やし、そしてできれば解脱・悟りを得ることのみだからです。もし生きているだけで悪業を積むだけの人生なら、生きないほうが、つまり死ぬ方がましです。
 しかし実際は、自殺してもまた同じ条件で生まれ変わってしまうので、今ここで智慧をもって心を入れ替えなければなりません。
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ナラシンハ・ジャヤンティ

2018-04-28 20:22:46 | 松川先生のお話


 今日は、半分ライオン、半分人間の姿をしたアヴァターラ、ナラシンハのお誕生日です^^

 はるかな昔、魔王ヒラニヤカシプは、苦行によって、神々にも悪魔にも人間にも動物にも殺されることはないという恩寵を得ていたため、誰にも倒されることがなく、宇宙を支配していました。至高者はヒラニヤカシプを倒すために、神々でも悪魔でも人間でも動物でもないナラシンハの姿に化身されたのでした。

 ヒラニヤカシプの息子のプラフラーダは、魔王の息子であるにかかわらず、至高者ヴィシュヌの敬虔な信者であり、24時間、至高者のことを思っていました。

 それが許せなかったヒラニヤカシプは、プラフラーダを殺すように部下たちに命じました。そこで部下の悪魔たちはプラフラーダを火あぶりその他残酷な方法でひどい目にあわせて殺そうとしましたが、至高者に守られていたプラフラーダは、悪魔たちが何をやってきても死ぬことはありませんでした。
 
 そしてあるときプラフラーダはヒラニヤカシプの前で、至高者は一切に遍在しておられると言って至高者を賛嘆しました。
 それを聞いたヒラニヤカシプは激怒し、ヒラニヤカシプを殺そうとして立ち上がり、「至高者がどこにでもいるというのなら、この柱の中にもいるというのか!?」と言って、宮殿の柱を拳で激しく叩きました。
 するとその柱の中からナラシンハが現われ、魔王ヒラニヤカシプの体を引き裂いて殺したのでした。

 その後、プラフラーダの信仰心を喜んだ至高者は、プラフラーダに何か望みをかなえてあげようと言いましたが、プラフラーダはただ至高者への純粋な信愛だけを持っており、何も願いを言うことはありませんでした。それでも至高者がぜひ何か願いを言えと言うと、プラフラーダはこう答えたといいます。

「それでは主よ、このようなお恵みをくださいませ。私を苦しめた者たちに、罰があたりませんように――」
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パトゥル・リンポチェの生涯と教え(20)

2018-04-28 07:36:13 | 聖者の生涯



◎過去生の布施


 パトゥルはかつて、ゾクチェン僧院のヤマーンタカ窟の下部の場所で暮らし、修行をしていていたことがあった。洞窟の上部の場所の近くには、ギャルモ・ロンからきた修行者が住んでいた。


 ある日、二人は会合し、パトゥルはその修行者にこう言った。

「世俗の忙しさや喧騒から遠く離れた場所で孤独に修行をすると、意識は自然にクリアになるような気がします。それは、過去生を思い出すのも容易にしてくれるのだと思います。そのようなことが、今まであなたに生じたことはありますか?」


「まだありません。」

 修行者は言った。


「私は百以上の過去生を思い出しましたよ。」

 パトゥルはこう打ち明けた。

「ある生で、私はインドの売春婦でした。大成就者クリシュナーチャーリヤが住んでいた村に、私は暮らしていました。私は、クリシュナーチャーリヤに純金の腕輪を捧げました。その供養をしたときから、私はもう悪趣に堕ちることはなくなったのです。」
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パトゥル・リンポチェの生涯と教え(19)

2018-04-28 07:17:47 | 聖者の生涯



◎パトゥルと三人のダルギェーの僧たち


 パトゥルは大変超宗派的で、ある宗派を称賛して、また別の宗派を軽んずるということは決してしなかった。彼は、チベットに長い間はびこってきた執念深い宗派主義者の尊大さを煽るようなことは拒んだ。


 あるとき、パトゥルが放浪していると、カムのテホル地区にあるゲルク派の僧院、ダルギェー僧院の近くの道を通りかかった。当時、そのダルギェー僧院の僧たちは、宗派主義的なことで有名であった。彼らはよく、そこを通りかかる旅人に、どの宗派――ニンマ派か、カギュー派か、サキャ派か、ゲルク派か――を言うように強く要求してきて、皆を困らせていた。彼らは、自分たちの宗派以外に属している者を見つけると、荒々しく侮辱して、ときには袋叩きにするのであった。


 パトゥルがその僧院の近くを歩いていると、気性が荒そうな三人の巨体の僧たちが近づいてきて、荒々しくこう尋ねてきた。

「お前は、どの宗派のもんだ?」


 彼らが喧嘩をふっかけようとしているということを知ると、パトゥルは巧みに、かつ非の打ち所がないほど適格に、こう答えた。

「ブッダ派です!」


 その回答に満足できず、なんとしてでも宗派を探り出そうと、彼らは続けてこう言った。

「じゃあ、帰依の詞章はどう唱えるのだ?」


 パトゥルは答えた。

「ブッダ、ダルマ、サンガに帰依し奉ります!」


パトゥルの回答は、宗派主義の彼らを満足させなかった。彼らは、パトゥルが属している宗派や系統をあばけるような帰依の詞章を期待していたからである。


「お前の守護神は何だ?」

 彼らは、イライラを募らせながらこう聞いてきた。


「三宝です!」

 パトゥルは根気強くこう答えた。
 
 パトゥルの宗派を暴こうと躍起になって、彼らはこう怒鳴った。

「お前の”秘密の名前”を公開しろ!」

 当時チベットでは、この”秘密の名前”という言葉は、男性器を差す言葉でもあった。

 パトゥルは衣をまくり上げて、遊牧民訛りで気さくに、こう答えた。

「ブルブル!(おちんちん!)」


 遂に、彼らは黙ってしまった。


 ようやくパトゥルは、道を進むことができるようになった――何の被害も受けることなく。そして大声で、「オーム・マニ・パドメー・フーム、オーム・マニ・パドメー・フーム!」と唱えながら歩いて行ったのだった。
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解説『ナーローの生涯』第二回(5)

2018-04-27 21:24:43 | 勉強会より抜粋


◎まやかし

 これが第一の話なんですが、で、ちょっとまた話を戻しますよ。でもですよ、「でも」がでてくる。つまり、今の例で言うと、こっちが心が清らかになったおかげで、意地悪を認識しなくなった、あるいは悪口を認識しなくなったとしても、でも、その誰々さんが、本当に意地悪をしている場合もありますよと。
 つまり、ここで二つのパターンがあります。二つのパターンっていうのは、例えばAさんだったら、Aさんが自分に――本当は別に意地悪してない。けど、こっち側にけがれによってそれを意地悪としてみてしまう場合ね、これが一つのパターン。
 で、もう一つのパターンは、本当に意地悪してる。本当に意地悪してて、それを苦だと感じてるパターンね。
 で、このどっちのパターンであれ、こっちが清らかになれば、意地悪されているという認識がなくなって、苦は消えるわけだけど。 
 で、問題は、一はいいとして、二のパターン――つまり本当に意地悪していた場合、こっちがそれを意地悪だと認識しなくなっても、でもこの人が意地悪しているのは事実ですねって、普通は思うかもしれない。でも、そうじゃないんです。つまり、本当は意地悪してないんです(笑)。
 これは、心を柔軟にしなきゃいけないっていう世界なんだね。つまり、誰々さんが意地悪をしてるっていうような実体のある現象っていうのは、別にないんです(笑)。すべてがそういう意味でいったら、まやかしなんだね。いつも言うようにね。だから相当柔軟な発想で世の中を見なきゃいけない。
 だから、われわれはそうじゃないガチガチの、この外界の世界の経験に対する観念的なね、「これはこうであってこうであって、こういうときはこうなんだ」っていうガチガチな頭を植えつけられてきてるから、このような柔軟な発想っていうのは、なかなか、何ていうかな、こう飛び込みにくいところがある。でも、少しずつ少しずつ自分を訓練して、そういうね、世界に自分に明け渡すような状態になっていかなきゃいけないんだね。
 で、ちょっと話が飛ぶけども、例えば大乗仏教とかでいってる、衆生への慈悲とかね。これは、もちろんみんなの幸福を願い、みんなを幸福にするために修行すると。あるいは、みんなの苦しみを哀れむ。あるいはみんなを平等に見るとかね、みんなを平等に愛するっていうのは、みんなのためでもあるわけだけど、同時に自分の中のそのようなガチガチの偏った、凝り固まった観念的意識を破壊するのにもとても役立つんだね。われわれがその衆生に対して、自分を明け渡していくっていうかな。あるいは自分と他人の壁を取り除いて、自分と他人を同じように見ていくと。
 あるいは、シャーンティデ―ヴァの『入菩提行論』とかだと、より激しくなるわけだね。シャーンティデ―ヴァの『入菩提行論』の第八章とかをみると、より激しく、今度は自分と他人の転換ね。自他転換っていうわけですけども、自分と他人を交換する修行をしなさい、とかでてくる。普通は自分が可愛くて、他人はどうでもいいんだけども、逆に他人が可愛く、自分はどうでもいい状態にしなさいと(笑)。つまり、平等ですらないと(笑)。平等ですらなくて、完全に逆転しなさいと。
 これは、もう一回言うけども、みんなのためでもあるわけだけど、同時に、今言った自分の持っているそのガチガチの幻影を壊すためにも大変役立つ。そのような慈悲の修行をしっかりすることによって、ガチガチの観念が壊れていき、そして今言ったようなバクティ・ヨーガ的な、あるいはグルヨーガ的な、すべてを心の現われ、すべてを神の祝福、すべてをグルの祝福と観る修行を続けていくならば、この世界の正体みたいなものがだんだん分かってくる。
 で、その一つの答えとして言うと、最初に言った、あれ、この世界っていうのは、神しかいなかったと。あるいはグルしかいなかったと。で、それが自分の心の現われとしていろんなことを見せてくれていただけなんだっていうことに、だんだん気づいてくるんだね。
 そうすると、ある意味ですよ、百パーセント教えを実践できるようになってきます。
 みなさん、こういうふうに思ったことがあるかもしれない。例えば、いろいろな教えを学んでね、例えば『バガヴァッド・ギーター』とか『入菩提行論』とかを学んで、「いや、素晴らしいこと言っているかもしれないけど、これ百パーセント無理でしょう」と。「今の自分にはちょっと無理があるな、差があるな」と思う人がいるかもしれませんが、できるようになってきます。つまり、自分がそれをできない一つの壁みたいなもの、観念みたいなものが、そういう修行によってね、ガラガラと崩れ落ちていくわけですね。
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勉強会講話より「解説『ナーローの生涯』」第二回(4)

2018-04-27 21:16:27 | 勉強会より抜粋

◎認識するが故に

 でも例えばわたしが、そういうふうに気づいて意識をパッと変えたわけだけど、今の例でいうとね、そこに気づくまでは「けがれたパンツ」っていう嫌な思いを持ってると。
 ここでもう一回いうけども、二つのここには理由があるんです。理由っていうか、二つのシステムが働いています。二つのシステムっていうのは、そもそもそこに汚いパンツがあったっていうこと自体が、まずわたしのカルマです。カルマっていうか心の働きっていうかな。で、もう一つ、それを汚い、嫌なものだと認識し、嫌悪してる状態もまた、わたしのカルマ、心の現われなんだね。で、特にこの二番目が重要なんです。
 一番目っていうのはつじつま合わせっていうか、便宜上みたいな話であって、大事なのはこの二番目――つまり、わたしの心がけがれているからそれを嫌なものだと認識するっていうことなんだね。
 ちょっと今日はね、難しい話になっているけども、ここでちょっと問題が起きるのは、じゃあ、けがれていなっかたらそれをそう認識しないわけだけど、でも認識しなくても、そこにけがれたものがありますよねっていう考えが出るかもしれない。でも、本当のことを言うと、それはないんです。
 これはどういうことかっていうと、またちょっと分かりやすくいうよ。例えば、よくあるパターンでいうとね、ある人がある人に対して「あの人はわたしに意地悪してる」って思ったとするよ。「あの人はわたしに意地悪してる」って思ってしまう。そういうことを思うっていうのは、自分の中に、人に意地悪をするっていう情報があるからです。つまり心のけがれがあるからです。心のけがれがあるから、人が何かをやってきたときに――本当はそれは意地悪じゃなくて、何気ない言葉とか動作とかだったかもしれないけど――それを「わたしは意地悪されたんだ」っていう思いで認識してしまうんだね。
 これも何回か言ってるけど、またじゃあ、分かりやすいのでわたしの話で言うけどね、わたしの小さい頃っていうのは――本当に小さい頃ですよ。幼稚園に入る前とかの小さい頃っていうのは――わたし自身でね、わたし自身のことを振り返ると、そうだな、貪りとかはすごくあったっと思う。いろいろなものを食べたいとかね。それから、無智的なとこも当然あったと思う。でもね、あんまり怒りがなかったんだね。わたしの場合ですけどね。本当に二、三歳の頃って、人を怒るとか人を憎むっていう発想が、まあほとんどなかった。ほとんどなかったんだけど、幼稚園に行ったり小学校に行ったり、だんだん大きくなるうちに、いろいろな情報が入ってきて、あるいはいろいろな悪いカルマを積んじゃって、だんだん人を怒ったりとか、ちょっと人に嫌な気持ちを向けるっていうのもでてきた。
 で、それによって逆に思い出したんです。思い出したっていうのは、もっと小さい頃、自分が「あれ、あのときなんか人に意地悪されてたのかな」、あるいは「あのとき、人に怒りを向けられてたのかな」っていうことを、後で気づいたんですね。後で気づいったっていうのはつまり、そのときは気づかなかった。自分が、例えば人から意地悪されたりとか、怒りを向けられてても全く気づかずに、それが――例えばその人が自分のことを好きなのかなとかね。その人が自分に優しくしてくれているっていうくらいまで勘違いしてた。
 つまり、こっち側に、例えばですけども、怒りとか憎しみが仮にゼロだったとしたら、相手の怒りや憎しみに気づけないんです。一つはね。
 でも、今の例の場合は、わたしの場合は、ちょっと成長してきて自分の中にけがれがついちゃったから、逆に気づけるようになった。でも、極端に言うとそういうことなんだね。自分にもし、人に意地悪をするっていう発想とか、意地悪をしたいっていう思いがゼロだったら、誰かに意地悪をされているっていう発想自体がなくなります。よって、変な言い方だけど、その人は意地悪をされなくなります。
 だってさ、意地悪をする・されるっていうのは、お互いの認識があって成立することだからね。これは悪口とかもそうだけど。
 みなさん、この中で「わたしは一生これから悪口を言われたくない」っていう人がもしいるとしたら、それは一見不可能のように思われるかもしれないけど、可能です。つまり、みなさん自身の心が完全に清らかになれば、一生、悪口言われません。つまり、悪口を言われるっていう認識が成り立たないから(笑)、誰かが誰かに悪口を言ったっていう、その状況が成り立たなくなるんだね。
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勉強会講話より「解説『ナーローの生涯』」第二回(3)

2018-04-27 21:09:54 | 勉強会より抜粋



◎悪臭を放つメス犬


【本文】
 とある狭い道路上で、虫がうようよとわいて悪臭を放つメス犬がいました。ナーローは鼻をつまんでそれを飛び越えたところ、犬は虹の光を放って舞い上がり、こう言いました。

『全ての生類は本来わが両親である。
 大乗の道において
 慈悲の心を開発することなくして
 どうして、グルを見つけることができようか。
 お前は間違った方向を探しているのか。
 他人を見下す者が、どうして、
 自分を受け入れてくれるグルにめぐりあえようか。』
 こうして犬は消え、ナーローはまたも気を失って倒れました。



 この、これからどんどん続くナーローの十二のエピソードっていうのは、最初の方は結構分かりやすいんです。というよりも、ここまでが分かりやすいといったらいい。次のところから、訳が分からなくなってくるんです。ここまではまだ分かりやすいでしょ。みなさんもちょっと予測がつくでしょ。
 まず一つは、「とある狭い道路上で、虫がうようよとわいて悪臭を放つメス犬がいました」。
 まずね、この現象自体は、ナーローの心の嫌悪の現われです。嫌悪ね。
 あの、ちょっとこのね、この物語っていうのはもう一回言うけども、非常に高度というか――高度というのは、なんていうかな、みなさんがいっぱい教えを学ばないと分からないっていう意味での高度ではなくて、微妙な話っていう意味で高度なんです。微細な話っていうかな。だからここで必要になってくるのは、みなさんにとっては知識でもなく、知能でもなく、頭の柔らかさです。あるいは、心の柔らかさっていうかな。心と頭を柔らかくして、しっかりと学ぶようにしたらいいね。
 ちょっとじゃあまた原則的な話をするとね、みなさんこの世で嫌いなものってあると思うんだね。あるいは、嫌いっていうか、気持ち悪いなって思うもの。あるいは、汚いなって思うものとか、「わ、嫌だ」って思うもの。まず第一段階として、みなさんの人生で、そういうものに出会うことがあるとしたら、それは自分の心の現われだと思ってください。
 で、もう一つは、それをそのように感じること――つまり、それを汚い、「うわ!」って感じてしまうこと自体も、心の現われですね。
 これはね、ちょっと広い話になってしまうので、みなさんそれぞれで考えたらいいんだけど――これは、前にもちょっと言ったけど、わたしのある一つの経験を言うとね、ちょっとこれは変な話なんだけど。ある時、もう十数年以上前ですけども、修行してたら、みんなにもここで言っているように、ある段階からわたしの修行がね、ある段階にきたときに、体中がもういわゆる甘露が落ちて、エクスタシーで包まれるっていう状態になったときがあったんだね。もちろんそれは今も続いてるんだけど、それが最初の頃っていうのは当然、ものすごいそれが刺激的で、何をしても快感に浸るような感じがあったんだね。
 で、その頃っていうのは本当にあらゆる経験がエクスタシ―になってしまう。あらゆる経験っていうのは、例えばこう何かに触れただけで手から体中にバーってエクスタシーが走る。あるいは、何かをじっとみつめただけで目からバーってエクスタシーが走る。だから、音を聞いてもそうだしね。あらゆる感覚的経験が強烈な至福感に変わるような状態になってたんですね。
 で、そんなあるとき、わたしがあるときある仕事をしてたんですけども、その仕事場でお風呂に入ったんだね。お風呂に入って、で、ちょっとのぼせちゃって、風呂場の洗い場の所でちょっと横になって休んでたんですね。横になって休んでいたら、最初気づかなかったんだけど、フッとこう目に入ってきたものがあって、それは仕事場のお風呂だんだけど、その仕事場の誰かが、自分のパンツをね、なぜかそこの風呂の中に干してるっていうか置いといたんだね(笑)。で、わたしがのぼせて「ああ……」ってなってるときも、さっき言った至福感にとらわれてたんです、すごく。「ああ、なんか体中が気持ちいい」って思ったんだけど、そのパンツが目に入った瞬間、嫌な気持ちになって(笑)、しかもなんか汚いパンツだったから、なんか「うわ、誰だろこれ。今自分は、本当に至福に浸っていたのに、こんな気持ち悪い、何でパンツ置いてんだ」みたいな(笑)、うわーって気持ちになったんだね。
 で、ちょっと嫌な感じになって、最初わたしはそれを、ちょっとこう怒ったような感じがあって。「せっかく人が至福に浸っているのに、こんな気持ち悪い汚いものを何置いてくんだ!」って思ってたんだけど、ちょっとそこでハッとして、これはわたしが間違っていたと。なぜならば――そのとき思ったのは、それは閃いたというか浮かんできたわけですけども、この世のすべては――いいですか?――神の祝福であると。で、もっと言えば、この世のあらゆる世界っていうのは、神の祝福の歓喜でできている。で、そのわたしが汚いパンツと認識していたものも、物理学的にいえば、原子の集まりにすぎないんだね。原子の集まりを、概念上「パンツ」と認識し(笑)、しかも「誰かが履いて洗ってない汚いパンツ」とこう認識を、自分が与えてるに過ぎなくて、正体は、物理学的にいうと原子であると。で、その原子というのは、物理学では単純に原子としかいわないけども、ヨーガの深遠なる見解においては、その原子の一粒一粒が神の祝福であるっていうことになるんだね。
 で、その瞬間、本当にリアリティをもって――そのときはね、なんていうかな、ちょっとリアルな経験をいうと、そのパンツを構成している原子の一粒一粒が、女神に見えたんです(笑)。ものすごい高い祝福を与える女神の原子の一つ一つが、そのパンツを構成しているように見えて(笑)、それによって、わたしのそのときの嫌な気持ちっていうのは全部吹き飛んで、パーってそのパンツを見ても至福になるようになった(笑)。これは、まあ一つのわたしの経験ですね。
 これはちょっと一つの極端な例なわけですけども、そのように、本来われわれが心を完全に清浄にし、エネルギーを完全に清浄にし、智性を完全に清浄にしたならば、この世はあらゆるものが至福そのものに見えるはずなんですね。

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