ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

今日のAMRITAチャンネル「キールタン・イメージビデオ」

2017-07-31 21:33:00 | 今日のAMRITAチャンネル

今日のAmritaチャンネルは、「キールタン・イメージビデオ」です。



曲目

1.Chamundaye Kali Ma
2.願い
3.Jay Shri Ma
4.マハームニにささげる歌 Mahamuni
5.Shanti Mantra
6.シッダールタ Shiddhartha
7.月光

コメント

「入菩提行論の歌 PART1 第一章~第四章」をアップしました

2017-07-30 10:41:31 | お知らせ



 シャーンティデーヴァの「入菩提行論」の第一章~第四章を要約し、メロディに合わせて歌ってみました^^

 26分ありますが笑、歌うだけで(聞くだけで)、「入菩提行論」の四章までのエッセンスが修習できますので、よかったらお聞きください^^



「入菩提行論の歌 PART1 第一章~第四章」
The Song of "Bodhicharyavatara" Part1 Chapter 1~4




原典:Shantideva "Bodhicharyavatara" Chapter 1~4
作詞・歌:Keisho.Matsukawa
作曲・演奏:Yuri.Tanaka
録音・編集:Takuya.Takahashi



※他のキールタンに関しては、こちらをご覧ください。





 得難き 人身を
 得た今 目的を
 達成しなければ
 再び 時ぞ来ぬ

 あたかも夜に 暗闇の中
 稲妻が一瞬 すべて照らすように
 如来の愛で 衆生の心
 わずかな間 善へと向かう
 
 だから浄行は 力が弱く
 悪の力は とても大きい
 もし菩提心が なかったならば
 いったいどうして 悪を征し得る

 聖者方は はるかなあいだ
 思惟にふけって この菩提心を
 無量の衆生 救済し得る
 菩提心を 発見した

 苦の超越を 衆生済度を
 願うならば 菩提心を
 決して決して 捨ててはならぬ
 すべてをブッダに 変える宝を

 すべての衆生を 救済しようと
 不屈の心で この菩提心を
 持ち続けるなら 怠惰な者にも
 聖なる流れが 不断に生じる

 苦悩の超越 願いながらも
 衆生はかえって 苦しみを得る
 楽を望んでも 惑いのために
 まるで敵のように 自身を扱う

 衆生を救う この菩提心を
 得るため私は 如来に対して
 正しく供養を ささげたてまつる
 ダルマと菩薩に対してもまた

 あらゆる花と 種々の薬草と
 世にある限りの 宝の山と
 清浄な水と 快適な森と
 見事な果実に 満ちた樹木と

 天の香りと 如意宝珠と
 蓮華の池と 他の品々と
 これらあまねき 一切の供物
 ブッダと菩薩に ささげたてまつる

 慈悲ある方よ われを憐れみ 
 これらの供物 お受けください
 われは徳なく とても貧しい
 ゆえにこれらを お受けください

 私自身を あますところなく
 ただあなたへと すべてささげん
 至高のお方 受け入れたまえ
 バクティ胸に 召使いとなる


 あなたに受け入れられれば私は
 恐れることなく 輪廻の世界で
 衆生のために 働き続ける
 悪に打ち勝ち 悪を行なわず

 微塵の数に 等しいくらいの
 無限の数の 礼拝をもって
 私はダルマと 菩薩を伴う
 聖なるブッダに 帰依したてまつる 

 過去世において 今生において
 私がおかした すべての悪を
 私はブッダに 告白します
 怠慢によって おかした罪を

 グルよ私は どんな悪業も
 一つ残らず 告白します
 どうか速やかに お守りください
 カルマの果報は 逃れがたい

 私の罪が 滅びぬうちに
 私が死なぬように願います
 健康などとは 関係がなく
 死は突然に われらを襲う

 愛しいものや 憎むもののため
 私は多くの 悪を犯した
 これらすべてを 捨てて行くのに 
 愛しいものも 憎らしいものも
 やがてはすべて 消えていくのに

 認識された すべてのものは
 ただ記憶の 中に去りゆく
 過ぎ去りしものは 二度と帰らぬ
 ただ罪だけが 私に残る

 かようにわれは 自己がこの世の
 遇来の客と 認識せずに
 三毒により 多くの罪を
 おかし続けた お許しください

 昼夜たゆまず 命すり減り
 私が死なぬ ことはありえぬ
 閻魔の使者に つかまれたとき
 福善のみが 私を救う

 しかし私は それらおさめず
 怠惰によって 罪をおかした
 救いなき闇の 死後の世界で
 いったい誰が われを救うか

 世界を救い 恐れをのぞく
 世界のグルに 帰依いたします
 そしてダルマに 帰依いたします
 菩薩たちにも 帰依いたします

 苦悩の声で 呼びかけます
 悪人のわれを 守りたまえ

 今までわたしは あなたの言葉に
 そむいてきた 無智なるままに
 しかし今こそ あなたに帰依し
 すべてあなたに 従います

 すべての苦悩を のぞき去る
 全智の医師よ 救いたまえ
 ああ私が その言葉に
 そむくとは 愚かのきわみ

 どうか私を 許したまえ

 先に享受して すでに滅び去り
 師にそむいてまで 求めた快楽
 それから現在 どのような価値が
 わたしに残って いるというのだろう

 すべてを捨てて 私が逝くとき
 愛しいものも 憎らしいものも
 なんの役にも たちはしない
 友も親戚も すべて消えゆく

 私が積んだ 悪の果報から
 どのようにしたら 逃れられるか
 昼夜たえまなく 考えることが
 まさしく私に ふさわしいこと
 
 愚かで迷える 私は多くの
 罪を重ねた これなる私は
 苦しみを恐れ 師主の前に立ち
 合掌をささげ 懺悔いたします


 すべての衆生の 清らかな善を
 私は歓喜し 喜びます
 苦しむ衆生 それらの善で
 安楽となれ 輪廻を超えて

 救済者たちが お説きになる
 菩薩とブッダの 素晴らしい境地
 それを私は 賛嘆します
 そしてブッダに 懇願します

 無明のために 苦しみの中
 沈み落ちてく 衆生のために
 法のともしび 照らしたまえ
 そしてブッダに 懇請します

 無限のあいだ この世にあられ
 苦しむ衆生を お救いください
 この世を闇と したもうなかれ
 そして私の 積んだ功徳で
 衆生の苦悩 滅尽したい

 私は病人の 医者でありたい
 薬でありたい 看護をしたい
 飲食の雨 たゆまず降らし
 飢えと渇きを 滅ぼしたい
 飲食物に 私がなりたい

 貧困にあえぐ 衆生のために
 私は不滅の 宝になりたい


 すべての衆生の 利益のために
 私は私の 体と財と
 過去と未来と 現在に積んだ
 あらゆる功徳を すべてささげる

 すべてを捨てることがニルヴァーナ
 それなら私は すべてを捨てて
 それらを衆生に すべて与えん
 私のこの身 衆生に与えん

 衆生が常に 私のこの身を
 殴るもいいし ののしるもよい
 ごみをあびせたり あざわらったり
 なんでも好きに するがよい

 私は私を 彼らに与えた
 だから私は 私に対して
 たとえ彼らが 何をしようと
 思いわずらう 必要はない

 彼らがそれで 幸せならば
 私を使い なんでもなせよ
 しかしいつでも 私のせいで
 誰かが不幸に なってはならぬ

 もしも仮に 私のせいで
 誰かが怒り 苦しんだなら
 それはかえって 彼らが悟り
 幸せになる 原因となれ


 わたしを誹謗し
 損害を加え
 嘲笑をする
 すべての者が

 どうか 偉大な
 覚醒を得て
 聖者となりますように


 寄る辺なき者の 寄る辺となりたい
 彼岸に渡ろうとする人々の
 船となりたい 橋になりたい
 堤防となり 皆を守りたい
 
 もしもあかりが 必要ならば
 衆生のために あかりになりたい
 もしもベッドが 必要ならば
 衆生のために ベッドになりたい

 衆生のために 召使いとなり
 すべてを生み出す 如意宝珠となり
 医薬となって 如意樹となって
 衆生のために 自己をささげたい

 四大元素が 衆生のために
 様々なさまで 役立つように
 すべての衆生 解脱するまで
 私が衆生に 役立つように

 かつてブッダが 菩提心を持ち
 そして実践し 遵守したように
 わたしも菩提心を起こそう
 世界のために 実践しよう


 人間の生は いま実を結び
 私はブッダの 子供となり 家族となり
 
 だから私は この家柄に
 ふさわしい行為を 常にし続けねばならぬ

 あたかも塵の堆積の中から
 盲人が宝 見つけたかのように
 この菩提心は まさに偶然に
 わたしの前に あらわれたもうた

 菩提心こそは 不死の霊薬
 不滅の財宝 最上の薬
 輪廻に迷い さまよい疲れし
 衆生がやすらう 大きな木陰

 難路を超えるための堤防
 煩悩の熱を冷やす月光
 無明を払う 太陽の光
 ダルマのミルクの新鮮なバター

 今こそ私は 衆生を救い
 仏陀の境地に 導いていこう
 救済者たちの その面前で
 すべての衆生は 歓喜したまえ

 かように菩薩は 菩提心を持ち
 たゆまず努力を しなければならぬ
 偉大なブッダと 菩薩によって
 熟考せられた この菩提行を

 もしも菩薩が 罪を犯せば
 衆生の利益も 阻害されるから
 菩薩の罪は 極めて重い
 それを考え 念正智すべし


 ゆえに私は 菩薩の誓い
 忘れることなく 成就せねばならぬ
 もし今努力 しなかったなら
 底から底へ 落ちねばならぬ


 今まで無数の 偉大なブッダが
 救済のために この輪廻に 登場した
 しかし私は 悪しきカルマで
 いまだに輪廻で 救われずに 苦しんでる

 今生もまた 今までのように
 私が怠惰で あり続けるなら
 病に苦しみ 死して苦しみ
 悪趣に落ちて 苦しむだろう

 人に生まれて 如来に出会い
 信仰を持ち 修行ができる
 かような条件 極めて得難い
 今を逃したら もうチャンスはない

 食べ物があり 災厄もない
 健康な日々も またそうである
 死がいつ来るかは 誰もわからず
 この肉体は ただの借り物

 もし私が今 死んだならば
 人に生まれることは難しい
 悪趣に落ちれば 徳は積めずに
 ただ悪を積み 落ち続けるだけ


 善をなすのに 適してる今
 もしも私が 修行せぬなら
 悪趣の苦痛に 苦しむときに
 なぜに私が 善をなしえよう

 ゆえに世尊は 人の体は
 とても得難いと お説きになった
 海に浮かんだ くびきの穴に
 めくらの亀が 首をいれるように

 わずか一瞬の 罪悪からも
 無間地獄に 落ちることもある
 しかも私は はるか過去世から
 無数の悪を 積み続けてきた

 人に生まれて ダルマに出会う
 貴重なチャンスに 恵まれながら
 もしも私が 努力しないなら
 これにまさるような 愚かさはない

 地獄の炎は わが身を焼いて
 後悔の火は 心を焼こう
 せっかくつかんだ チャンスふいにし
 再び地獄に 落ちるというのか

 あたかも呪文に まどわされたように
 なぜかわたしは 無智におおわれ
 ことの重大さ 気づくことなく
 貴重な時を 無駄にしてきた


 たとえすべての 生き物たちが
 私を恨む 強い敵に なろうとも
 わたしを無間地獄へと
 落とすことは 決してできはしないだろう


 しかし私の 煩悩こそは
 私を無間地獄へと落とす
 仕えるほどに 苦しみだけを
 与える悪魔 それが煩悩

 苦悩を生ずる 唯一の因
 その煩悩が わが心に住む
 私は必ず この煩悩を
 うち滅ぼそう 完膚なきまで

 衆生に多くの 苦しみ与える
 煩悩という 悪魔の王を
 必ず倒すと 誓って私は
 激しい戦の 先頭に立ち

 矢の苦しみも 槍の痛みも
 ものともせずに 雄々しくたたかう
 勝利を得るまで きびすを返さず
 この煩悩を うちほろぼそう



 偉大な戦士は 多くの傷を
 勲章のように ものともしない
 私は衆生済度のために
 立ち上がった その私に

 たとえ多くの 苦しみが来ても
 ものともせずに 突き進もう
 百の苦悩が 来ても私は
 絶望せずに 落胆もしない

 漁師や農夫は 生活のために
 寒暑その他の 苦しみに耐える
 ならば私は 済度のために
 なぜに苦悩に 耐えられないか

 すべての衆生を 煩悩から
 解放しようと 誓いながら
 私自身が 煩悩から
 解放されて いないとは


 だから私は これからたゆまず
 煩悩破壊に不退転となる
 腸がこぼれても 首を切られても
 けして屈せずに戦う


 煩悩は幻
 恐れるな わが心よ
 悟りを 得るために
 ひたすら 努力せよ
 今こそ





コメント

「OM NAMO GURUDEV」をアップしました

2017-07-30 09:03:52 | お知らせ
「Om Namo Gurudev」をアップしました。よかったらお聞きください^^


「OM NAMO Gurudev」


Vocal:Keisho.Matsukawa
Harmonium:Yuri.T
Tabla:T.Takahashi
Violin:S.Matsuoka
Guitar:Yuta.N
Bass:H.Miura
Manjira:Hitomi.K

※他のキールタンについてはこちらをどうぞ

コメント

今日のAMRITAチャンネル「アニメ・ハヌマーン 第二話」

2017-07-29 22:42:45 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ・ハヌマーン 第2話」です。
コメント

解説「ダンマパダ」第一回(4)

2017-07-28 21:43:53 | 勉強会より抜粋

◎悪魔にうちひしがれないために

【本文】

 この世のものを浄らかだと思いなして暮らし、(眼などの)感官を抑制せず、食事の節度を知らず、怠けて勤めない者は、悪魔にうちひしがれる。――弱い樹木が風に倒されるように。
 この世のものを不浄であると思いなして暮らし、(眼などの)感官をよく抑制し、食事の節度を知り、信念あり、勤めはげむ者は、悪魔にうちひしがれない。――岩山が風にゆるがないように。



 はい。まあ、この第一章っていうのは……例えば次の第二章は「はげみ」といって精進に対して説いていて、第三章は「心」といって心についての話なんですが、第一章は「ひと組みずつ」といって、ひと組みずつの詩をいろいろ淡々と載っけているもので、必ずしも全体が一つのテーマを持っているってわけでもないんですが――今の二つの詩っていうのは、まあ、これも読んで字のごとくなんですが、この世のものを浄らかだと思うか、不浄だと思うか。もちろんこれは原始仏典的な正解からいうと、不浄であると。つまり人間の体は不浄であるし、我々の経験する感覚的喜びも不浄であるし、すべてを不浄だとまず見なさいっていう教えがある。でもそうじゃなくて、曖昧にものを見ていると、すべてが浄らかに見える。
 ただね、もちろんこれは、大乗仏教になると、不浄ではなくて、空だと見るんだね。汚いとかきれいとかを超えて、すべては実体がないんだって見方をする。で、密教の世界に入ると、いや、すべては浄らかだっていうんだね。ここら辺が仏教の奥深いところで、仏教の同じ教えの中で、段階によって、言うことが変わってくるんです。
 全く修行してない人は、不浄なものをきれいだと思っている。はい、第一段階で、まず修行に入った人は、いや、私はすべてをきれいだと思っていたが、汚かった。この世は不浄であると。よってこの世から脱却しなくてはならないと。
 しかし第二段階、大乗の教えに入ると、いや、不浄とか浄とか関係なかったと。すべては何も実体がなかったんだ。実体と呼べるものは何一つ存在しないんだと。
 で、密教に入ると、さらにその本質が分かって、いや、すべては完全で浄らかであったと(笑)。これは、真理の深まりの違いなんだけどね。でも、どの点を取っても真実なんだ。
 ただまあ、これは原始仏典なので、まずはこの世を、スタートとしては、けがれたもの、不浄としてこの世を見なければならない。で、不浄と見ることによって、この世のけがれたものに対する、なんていうかな、感覚の結びつきね、これが、デメリットしかないって分かってくる。よって修行者は、感官を抑制し、食事の節度を知ると。つまり、感覚、この世の様々な現世的喜びに自分の心がとらわれないように普段からチェックしてね――まあ念正智だね。チェックして、食事も節度を知り、信念を持ち、修行に勤め励むと。
 それをやらない者は悪魔に打ちひしがれるんだと。打ちひしがれるっていうのは、悪魔にやられてしまうと。ここでいう悪魔っていうのは、悪魔っていろいろな意味があるけれども、実際に人格を持った、我々の修行の邪魔をする霊的な存在ともいえるし、あるいはそうじゃなくて、我々の心の煩悩だともいえるし、あるいは実際に実体を持ったエネルギーみたいなものだともいえるけども、そういった魔的なものが我々を襲ってきたときに、普段からこの世に執着し、様々な喜びを追い求め、あまり修行せず怠ける者っていうのは、魔的な誘惑が来たときに、まるで弱い木々が、ちょっと風が吹いたらポキッていってしまうように、修行者としてもポキッといってしまうと。
 しかしそうじゃなくて、この世の不浄性を普段から考え、いろいろな現世的なものにできるだけ執着せずに、食事の節度を知り、信を持ち、しっかりと精進している者っていうのは、どんな魔の誘惑、攻撃が来ても、ちょうど風が吹いても岩山が崩れることがないように、全く問題ないよ、というところですね。


コメント

解説「ダンマパダ」第一回(3)

2017-07-28 21:27:59 | 勉強会より抜粋



◎死のことわり

【本文】

 われらは、ここにあって死ぬはずのものであると覚悟しよう。――このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。



 はい。ここは、しっかり死というものを認識しないといけないということですね。
 これはミラレーパの詩でもありますが、
「ちょっと出会ったに過ぎない親戚や友人達と、争い合うとはお笑いである」
っていうことをミラレーパは言っている。
 つまり本当にカルマとか縁の微妙なタイミングによって、我々は今、出会っているんです。で、それはしかも、いつ終わるかも分からない。自分が死ぬかもしれないし、相手が死ぬかもしれない。
 だからまあ、日本の「一期一会」という言葉はとっても素晴らしいわけだけど、この出会いっていうのは本当に一瞬かもしれないんですよ。で、これで終わりかもしれないんです。すごい貴重なものなんだ。だからそれは本当に、自分と他人の、進化とか幸福のためにこそ使われるべきなんだ。
 でも我々は、過去とか未来に対して、無駄な妄想をするんだね。さっきも言ったように、「ああ、こいつに俺は、こんなことをされた」とかね。あと未来のことも妄想するわけでしょ。「ああ、また明日も会って、明後日も会うから、もうこいつにはこういうふうな態度を取っておこうかな」とか、こんなくだらない発想しかしないんだね(笑)。
 そうじゃなくて、まさに今、出会って、もう出会えないかもしれない。自分も死ぬかもしれないし、相手も死ぬかもしれない。こういう、なんていうかな、シビアなっていうか、まあ、ここでは「覚悟」ってあるけども、まさに覚悟だと思うね。私は覚悟という言葉がとても好きなんだけども、覚悟なんですよ、本当に。もう、私は1秒後に死ぬかもしれないんだぞと。そういう世界に我々は生きているんだぞと。これを曖昧にじゃなくて、覚悟を持って考えるわけだ。そうしたら真剣にならざるを得ない。相手とこう、いがみ合っている暇などない(笑)、というのが、ここのところだね。

(T)あ、ちょっといいですか。ちょっと今、うちの婆ちゃんのこと思い出して。

 うん。

(T)今、婆ちゃん、胃癌で危険な状態なんですけど、その婆ちゃんを見てたら、もう死ぬんだなって分かってるから、なんか慈愛みたいのが沸いたっていうか。なんか死にそうな人を見たら、責める気になれないっていうか。

 うん。

(T)だから、この「争いがしずまる」っていう部分を見て、そういう、なんていうか、無常を知って慈愛が出てくるみたいな、そういうニュアンスなのかなって思ったんですけど。

 まあ、それもあるかもしれないね、発展的なものとして。
 まあ、だから仏教っていうのは、まず基本的な、自己のエゴを滅するっていう教えがあって、それから大乗的な、人の幸福のために活動するっていう教えがあって、その上に密教的な、いろいろな法則や考え方を利用して最もスピーディーな方法を取るという、この三段階の教えがあると。例えばこういった経典一つをポッと見たときも、当然その三つの角度から捉えることができる。
 これは原始仏教の教えだから、これだけただ見たら確かに、単純に、無常だからすべては意味がないんだよ、で終わってもいいし、あるいはT君が言ったように、大乗的に、だからこそ相手への慈愛が出るんだって考えてもいいし、それはいろんな角度から考えたらいいと思う。
 もともと、大乗経典っていうか、大乗仏教っていうのはそういうものだと思うんですよ。お釈迦様の教えっていうのはすごくシンプルで、細かく説明されているわけじゃない。ただズバッとエッセンスが説かれていて、それは単純に自分の解脱のための教えと考えることもできるけど、見方次第では確かに人の幸福のためっていう見方もできるんだね。その部分を発展させてまとめていったものが大乗の教えだね。



コメント

今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第26話 後編」

2017-07-28 18:09:23 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第26話 後編」です。
コメント

解説「ダンマパダ」第一回(2)

2017-07-28 08:37:17 | 勉強会より抜粋



◎永遠の真理

【本文】

 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついにやむことがない。
 「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みがやむ。
 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを似てしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みをすててこそやむ。これは永遠の真理である。



 はい。これももう、読んだ通りですね。これはもう、このまましっかり読んで、日々の教訓にしたらいいですね。
 まあこれは、かれはわれを罵った、害した、われにうち勝った、われから強奪したって書いてあります。まあ、この他にもいろいろ当てはまると思いますが、つまり、あいつは俺を昨日、こんなに罵った、とかね。ああ、こんなにも私のメリットを奪ったとか、いろいろあると思うけども、ちょっとストレートな言い方してしまうと、「そんなものは忘れてしまえ」と。
 昔、私、小学生とか中学生のときに、武道が好きで、空手とか好きで、あの、皆さんちょっと世代が違うから知ってるかわかんないけど、極真空手の大山倍達っていう人がいて(笑)、知ってる?

(U)名前は聞いたことあります。あの、牛と闘ったっていう(笑)。

 そうそうそう(笑)。牛と闘ったりした、世界を闘って歩いた人なんだけど、まあ、あの人は実際武道家としては凄い人だと思うんだけど、あの人の本とかを昔よく読んでいて、まあ学ぶところもいろいろとあったわけだけど、すごく私が今でも印象に残っているいい言葉があって、それは、

「人から受けた、裏切りとか苦しみとか、何か悪いことをされたとか、それは、全部忘れてしまえ。
 人から受けた恩とか幸福っていうのは、決して忘れるな」

――という発想があるんだね。これも大変仏教的な発想で、まあ、これはここに書いてあることの発展ともいえるけども、決してもちろん、我々は人からの恩というものを忘れちゃいけない。いろんなかたちでそれは、相手に真の幸福を将来的に与えようと思わなきゃならない。しかし人から受けた苦悩なんてのは忘れろと、ね。――っていう発想があるんだね。これは実際に我々が実現しなきゃならないことですね。
 私はね、昔からちょっと楽天的だったから、もともと、人からされた嫌なことはすぐに忘れる方だったんです。それでもあるとき私は、自分の無駄な心の働きに気が付いた。例えば昨日友達にすごいひどいことをされて、うわーって思うわけですよ。で、次の日に友達に会ったときに、実は忘れているんですよ、そういう感情をね。で、普段通り「やあ」って言って、ワハハってやってるんだけど、なんかねえ、「あ、そういえばこいつにこんなことやられたな」と、「これを忘れるのはしゃくである」と(笑)。「こいつにもっと怨みをぶつけなきゃならない」みたいな、変な、余計な感情が(笑)、浮いてくるのをこう、発見したことがあって。そのときはまだ修行とかしてなかったから、それがまあ、いいんだみたいな感じで、
「そういえばお前、昨日こんなことしやがって!」
とか言ったりとか、あるいはそれさえも言わないで、ちょっとしばらく無視しようとか、そういう、本当は心はそんなに思ってないんだけど、そういうふに考えなきゃいけないような、何かそういう発想があったね。
 ただ、私はもともと楽天的だったから、本音をいうと忘れていたんだけど、ちょっとこう、表面的な悪いデータによって、そういうふうに考えちゃったんだけど、そうじゃなくて本当に心から、なかなかそういう、自分が苦しめられたとか、あの人にこうやられたとかいうことを忘れられないっていう場合も多いと思うね。
 それはもう、忘れなさいと。うん。
 なぜかっていうと、ここにも書かれているように、怨みによって怨みはやまないと。分かると思うけど、例えば誰かがある人に害をなして、それをやられた方がまた害をなして、――まあ私、いつも言うけど、ニュース番組とか見てると、悲しくなることがある。例えば殺人事件とかがあって、その親とかが、犯人を極刑にしてくださいとか言うわけですよ。あるいはもう、私がこの手で殺してあげたいとか。そういう発言がちょっとこう、美しく編集されて語られていたりするわけだけど、それをやってたら終わんないわけだね。それでもしその人が、もしだよ、仇だとかいって相手を殺したとしたら、その犯人の親が今度は恨むかもしれない。だからそれは人間の戦争とかの歴史とかもそうだけど、結局怨みによって、相手に対して仕返しをした場合、当然終わらないわけだね。それぞれに言い分があるだろうし、それぞれにその、何%かの理はあるだろうし。だからそうじゃなくって、完全に、その怨みという感情っていうかな、怨みっていう世界そのものから、どっちかが出なきゃいけない。


◎縁ある人々を救済する方法

 これは前にもそういう話をしたけども、人をね、我々が縁ある人々を救済する一つの手段はこれなんです。救済方法の一つ。
 これはどういうことかというと、例えば私がYさんに憎しみを持ったとしましょう。そのカルマによって、Yさんも私に憎しみを発してきたと。で、また私も憎しみを持ってやり返すと。これは、なんでこれが生じるかっていうと、私とYさんの間に、憎しみの縁があるからです。縁っていう意味の本当の意味はそういうことなんです。カルマを交換し合う相手、っていうことです。つまり、私とYさんには憎しみの縁がある。で、私の中には、憎しみもあれば慈愛もあれば執着もあればいろいろあったとしますよ。でも私は、例えばこの人とこの人には憎しみのカルマが発動しないと。Yさんとだけ発動するという場合があります。その場合、これは憎しみの縁があるっていいます。つまり私とYさんが憎しみの縁で結びついているんです。
 これは、その縁しかない場合、――まあ、その縁しかない場合ってあまりないけども、その縁がメインだった場合、私はYさんから何かやられると、怒ってしまうんです。なんでかっていうと、それしかないから、縁が。他の人から言われても別に怒んないのに、Yさんに言われると怒ってしまうと。どうしても。
 で、これを断ち切るには、相当な努力がいるんです。なぜかというと、Yさんを愛するとか、Yさんを許すとかいうカルマがこっちにない場合、それは努力して作らなきゃならないんだ。本当は、自然にすればこの人を怒ってしまうのが自分のカルマなんだけど、まあ頑張って、愛のカルマもちょっとはあるはずだから、ちょっとだけあるそのデータを拡大させて、思いっきり、くそー……Yさん幸せになってくれ……とかね(笑)。そうやってやるわけです。
 そうすると、だんだんやってるとねえ、やっぱり、すべては修習だから、心は乗ってくるんだね。そうすると、Yさん側にも変化が起きます。だって、このカルマのループっていうのは憎しみによって結びついているはずなのに、全く予期しない慈愛が返ってきたと(笑)。そうなるとYさんとしては、カルマの法則からいって、Yさんも私に、もしくは私以外の他の人に、慈愛を返さなきゃいけなくなるんだね。それによって強引に相手を、慈愛のループの中に巻き込むんです。これは一つの救済方法です(笑)。
 だから本当は、その人とはほとんど憎しみの関係しかないんだけども、自分が頑張って、変えていかなきゃいけない。
 あるいは例えば家族とかって、近いがゆえに、ちょっと悪いことを言っちゃうとかいう場合がよくあるよね。あるいは昔からの友達とかね。そういうのは、善いカルマと悪いカルマとが混ざっているんだろうけど、そういう人たちに対してはできるだけ悪いカルマを出さないようにして、善いカルマ、例えば慈愛とか、あるいは、真理に則ったものの見方で相手に接してあげると。
 そうすると、相手もそれに巻きこまれるから、もう、なんていうか、そういう世界に入っちゃうんだね、相手も。それか、そのカルマさえ全くなくて、自分から離れていくか、どっちかです。
 だから自分にとってはどっちでもいいんだけども、相手が救われるか、あるいは救われなかったけどそういった悪い縁が消えるか、どっちかだね。
 だからそれは一つの、なんていうかな、身をもってする救済方法だね。そうじゃなくて、相手がこういうことやってきたから、いや俺もこういうことやり返すんだっていう「目には目を」的な発想だったら、全くカルマが終わらないし、怒りにしろ憎しみにしろ、全く終わらないと。
 まあ、世の中の、戦争にしろ、いろいろな人間の行動見ていると分かると思うけど。だからどちらかが愛を持って許さない限り、あるいは相手を幸福にしようっていう発想にならない限り、それは終わらないんだね。


◎慈愛によって幸福に引きずり込む

(T)慈愛の縁とか愛の縁がある相手には、幸せを与えたいと思う、みたいなことがさっきありましたけど、慈愛っていうのは普遍的に与えるなものですよね、相手が誰かとか縁があるかとか関係なく。

 それは言葉の定義のあやみたいなものだけど、それはもう完成された慈愛のことで。
 例えばだけど、よく慈愛を母の愛に例えたりもするけれど、母の愛っていうのは別に、完璧な慈愛ではないんです。しかし慈愛の種子とはいえる。なんでかっていうと、例えば、あるお母さんっていうのは、まあ、すべてのお母さんがそうじゃないかもしれないけど、例えば子供のためにはね、自分は食べないでもいいから子供に食べさせるとか。自分はもう寒くてもいいから、いい洋服を買ってあげるとかね。それは、執着ではあるんだが、もう自分はどうでもいいから相手を幸福にしてあげたいっていう気持ちがあるわけだ。これは執着であるし、しかも、なんていうかな、本当の相手の幸福を願っているっていうよりは、現世的な意味も含めて、自分の思う幸福を相手も得て欲しいと思うものだから、完璧な慈愛とは全く言い難いんだが、慈愛の種子ではあるんですよ。つまり「相手よ幸福になれ」っていう単純な思い。で、こっちは無智だから、それが本当に慈愛として完成していないんですね。でも、この種子が大事なんです。
 で、さっきの例え話のね、じゃあなんで、憎しみの縁しかない私とYさんの間で、まあ例えば、――あの、Yさんばかりをあまり例にするとまずいから(笑)、例えばここにものすごい、誰からもね、否定されるような、憎しみしかないような男がいたとしますよ。まあ、そんな人はなかなかいないかもしれないけど、仮にそういう人がいたとしますよ。でも、どんな人にだって、少しは、人に愛を捧げたとかいうカルマがあるはずなんです。それはまあ、迷妄の愛だったかもしれないけど、本当にすべてを捨てて人のために尽くしたっていうことが、ちょっとはあるはずなんです。で、それを利用するんだね。それが全くなかったら、もちろんできません。できないけども、この何億回と生まれ変わってる中で、それがゼロっていうことはあり得ない。だからそのほんの小さなところを利用するんだね。もちろん自分との間にその縁がない場合、それは大変なことなんだけど、大変なことなんだけど、思い切ってやるしかない。
 だからねえ、皆さんは、例えばこういう発想になっちゃだめですよ。……「いや、あの人と会うと、なんか怒りが出るね」とか。「ああ、あの人はなんか皆から嫌われていて、私もなんかあの人に近寄ると、すごく嫌な気持ちになる」と。「ああ、だからあの人は徳がないから、ちょっと避けよう」とか、そういう発想をしちゃいけない。それは、確かに事実そうなのかもしれないけど、それはもっと言ってしまえば、こちら側に、相手の本当はわずか持っているはずの、その小さな愛の部分に気付くだけの智慧がないんだね。
 だから当然、よく仏教とかでいわれるのは、ゴキブリとか蜘蛛って、皆から、見ただけで嫌われると。あれは、彼らに嫌悪のカルマが多いんだね(笑)。ゴキブリとか蜘蛛自体が嫌悪のカルマが多過ぎるから、皆から嫌悪されちゃうんですね(笑)。何もやってなくても嫌悪されてしまう。蛇とかもそうだけどね。で、人間でもそういう人っていると思うんですよ。何もやっていないのに皆から嫌われてしまう。でもそれは決してゼロではないんですよ、愛のカルマとかは。だからそれは、智慧ある人がそれに気付いてあげないといけない。
 だからそういうのを利用して、自分と相手のその悪いカルマを逆転させてしまうっていうか、それがさっきの話なんだ。だからここで言っている慈愛っていうのは、一応慈愛っていう言葉は使っているけど、相対的な慈愛だね。だから完璧な慈愛っていうのは、ここでいつも言っているような、すべてに平等であって、で、自分のエゴを一切入れずに、かつ、その幸福の定義が、単純な現世的なものじゃなくて、最終的な至福の世界に導こうと。これは完全な慈愛の定義なんです。
 でも、これは我々が普段、はい慈愛を持ちましょうね、っていうときに、この完璧な慈愛の定義をいつも当てはめていたら、誰も持てません(笑)。はっきり言って。T君が例えば、「先生、最近慈愛が出てきたんです」とか言っても……「ん? 平等じゃないじゃないか」とか言って(笑)、ね。「無智があるからダメ」とか言われてたら、全然もうダメ。
 最後の最後でそれは達成されるものだから、まずは相対的な慈愛を高めていくしかないんだね。で、その世界に引っ張り込めるだけでもいいんです。完璧じゃなくても。ちょっとでも、それまでもう、本当に人の不幸しか願っていなかった人が、ほんのちょっとでもいいから、あの人幸せになって欲しいなって願えるようになったとしたら、その魂にとって大きな進歩なんだね。
 でもね、実際にね、そういう人って、普通にいっぱいいるんですよ。私もヨーガ教室をやっているといろいろ相談とか受けてて、普通に、「本当に私は人を憎んでしまう」とかね。「人の幸せを願えない」とか。普通の人でですよ。普通にちゃんと、立派に働いているっていうか(笑)、立派に普通に活動している人とかで、「いや、実は」とかいって、そういうことを言っている人がたくさんいる。
 あるいはもう、ずーっともう十年以上も昔の、嫌なことをされた人のことを、その人を殺すイメージをずーっとしていたとかね。そういうことを普通に言う人もいっぱいいる。
 まあ、ここにいるみんなはそうじゃないのかもしれないけど、そういうその、なんていうか、人間の悪しきカルマの連鎖みたいなものがあるんだね。相手もそういう世界に巻きこまれているわけだし。そういったものをこちらから断ち切っていくと。断ち切ってというか、変化させていくということができたら、ちょっとまとめになるけども、それはそれで素晴らしい救済になる。言葉で、「はい君、こうしなさいよ」ってやるよりも、その方が素晴らしいかもしれない。
 だからここは、
「怨みに報いるに、怨みをもってしたならば、怨みのやむことがない。怨みを捨ててこそやむ」
とありますが、これをもっと積極的にいうならば、怨みに対して慈愛をぶつけると。これがもっと素晴らしい。これは単に「やむ」だけではなくて、積極的に相手を幸福の領域に引きずり込むっていうか、そういう効果を生むでしょう。


コメント

解説「ダンマパダ」第一回(1)

2017-07-28 08:20:16 | 勉強会より抜粋


2006年9月27日勉強会 「ダンマパダ 第一章」





◎すべては心

 今日はダンマパダ。これは原始仏典ですね。漢訳では、中国や日本では昔から法句経っていう言葉でよく知られています。
 で、どちらかというとこれは、様々なお釈迦様の教えのエッセンスを集めたようなものですが、欧米とかではものすごくこれは普及していて、まあ世界で一番知られている仏典と言っても過言ではないぐらいのものなんです、このダンマパダは。それだけ、素晴らしさ――それは内容的素晴らしさもそうだし、説き方の美しさもすごく評価されている作品ですね。



【本文】

第一章 ひと組みずつ

 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によって作り出される。もしも汚れた心で話したり行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく(牛)の足跡に車輪がついて行くように。
 ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。――影がそのからだから離れないように。



 はい。まあ、この辺は読んで字のごとくだね。全ては心ですよと。心こそが、全ての主であって、すべては心によって作り出されるんだよと。つまり、誰かもし苦しんでいるとしたら、それはその人の心が、一番の原因なんだよと。あるいは喜んでいる人がいたら、それはその人の心が原因なんだよと。




◎心の科学

 これについてT君、どう思いますか?

(T)いやー、もう、唯物論の対極にある考え方だなーって。

 ああ、そうだね。
 でもこれは大雑把に言うと、西洋と東洋の、科学の違いだね。
 科学という言葉っていうのは、決してその唯物論的なものだけじゃなくて、例えば「魂の科学」っていう本があるように、東洋っていうのはすごく、心理的な科学っていうか、あるいは霊的な科学っていうか、それをどんどん追求してきたわけですね。その一番中心的なのが仏教でありヨーガであるわけだけど、結局その、大きなその大元の考え方の違いっていうのは、西洋で発展した科学っていうのは、まず全ては物質的な働きがあると。で、それを自然科学として、外側の世界の物理的な仕組みを解明しようとした。で、東洋の発想っていうのはそうじゃなくて、いや、全ては心が作り出しているんではないかと。よって心の解明に、数千年、あるいは数万年をかけて、聖者方が瞑想で解明していったわけだね。その辺の大きな違いが確かにありますね。


◎善い思いを持っていますか

 そしてこのお釈迦様ももちろん、修行によって一つ得た、まあ気付きっていうか、悟ったこととして、すべては心に基づくものなんですよと。
 まあこれはだから、なんていうかな、ここの部分っていうのは二つの見方があると思うね。ひとつは壮大な、「すべては心から世界は作り出される」っていう部分と、もうちょっと現実的な、日常の中で、いや、私たちは心こそが大事なんだよっていう部分ね。
 で、この後者の部分っていうのは、これもまた非常に重要なところで、例えばある昔の聖者は、誰かと会って挨拶する時に、「おはよう」とか「こんにちは」とか言わないで、
「善い思いを持っていますか?」
と挨拶したっていう聖者がいると。もう常に、パッと会ったときに、
「あ、どうもS君、善い思いを持っていますか?」
と(笑)。
「あ、U君、善い思いを持っていますか?」
と。これが挨拶の言葉になっていると。
 つまりそれが最も重要なことだっていうことが分かるね。



◎第一義的なもの

 つまりこれは逆の言い方をすると、仏教ではよく身・口・意っていって、体、言葉、心の三つに我々の行動を分けるわけですが、体と言葉が二次的なものだと考えればいい。つまり逆の言い方をすると、いかに体や言葉で聖者っぽい、修行者っぽいことをやっていても、心が全然汚れていたら、それは意味ないんだよっていう発想なんだね。心こそがメインなんだよと。
 で、さらに言えば、心の清らかさを保つために、仮に一時的にちょっと、体や言葉が汚れているように見えたとしても、それは心の方が大事なんだよと。
 これはまあ、いろんな場面で考えることができるね。例えば、人を救うために嘘をつくっていうことが必要なこともあるのかもしれない。で、それは、本当にこの人を救いたいっていう思いで嘘をついたとしたら、それは心の浄化になるわけです。でも言葉は汚れるわけ。さあ、どっちがいいのかっていう問題になる。
 あるいはそうじゃなくて、ピシっと修行者っぽい人生を送り、言葉も美しいと。しかしその裏側には、さあ、俺を見ろと(笑)。そう傲慢な心があったと。これはいいのかどうか、っていう問題がある。
 もちろんこれはねえ、ここでもう一つ言えるのは、じゃあ心が汚くて、言葉や体だけきれいにする作業がいいのか悪いのかっていうと、これは実はいいんです。全部汚いよりは(笑)。つまり体や言葉をきれいにしていくことで、心も影響を受けていくから、それはそれでいいんだけど、ただポイントをいうならば、心こそナンバーワンだよと。つまりもし心の浄化を第一位に置ける人がいるとしたら、それが一番素晴らしいよと。それを我々の心に留めておかなきゃいけない。
 もちろん、もう一度繰り返すけど、形を整えるっていうのももちろん大事なんだよ。この身の行ないをしっかり正すとか、あるいは言葉をきれいにするっていうのは大事なんだけど、一番メインに置かなきゃいけないのは心なんだね。
 で、それは普通の人もそうだし、修行者も同じだけども、我々の不幸のすべての源は心にあると。あるいは幸福のすべての源はすべて心にあると。
 これはもうちょっと発展させると、シャーンティデーヴァの入菩提行論にあったように――この世で楽しんでいる人はすべて、利他、つまり他人の幸福を願ったからだと。あるいは、この世で苦しんでいる人はすべて、自分の幸福のみを、つまりエゴを追求したからだと。そういうものすごくこう断定的な、ズバッとした教えがあるわけだけど、これはまあ、この教えの発展形ですね。
 つまり目に見える現象っていうのはすべて、つじつま合わせに過ぎないんだね。カルマのつじつま合わせ。
 例えば、よく論理的にこう、人生哲学を語る人がいるよね。こうこうこうしたら幸福になるんだよとか、成功するんだよと。あるいは例えば、いや、君はここでこう、この仕事を成功させるには、まずこのプログラムを組んで、このステップを踏んでこうやらないとダメだよ、あ、やっぱり失敗したねと。それはこうやらなかったからだよと。もちろんそのような表面的な条件っていうのも、この世で生きる上で当然働いているんだが、それはあくまでも二次的なものなんです。それをやったから成功したとか、それをやんなかったから成功したとかいうよりももっと奥の、第一次的な因として、心があるんです、っていうことをここで言っているわけですね。よって、すべては心に基づき幸せになり、心に基づき不幸になるんだよと。
 もちろんこれはいつもカルマの法則でいうように、我々は、過去世からのカルマの積み重ねとか、あるいは、表面的には汚れているとかきれいだっていっても何層も我々の心はあるわけだから、一見心の汚い人がこの世で幸せになったりとか、一見心のきれいそうな人が不幸だっていう場合も当然あるわけだ。それはそういった、過去世のカルマなり、あるいはまだ表面に現われていない奥底のその精神の状態によるのかもしれない。
 でも本当にその人の心が、けがれが本当に少なくなってきたら、少なくともその人は不幸にはなかなかならない。あるいは逆にけがれがほとんどになってきたら、その人は幸福にはなかなかならない。何でかっていうと、当たり前の話だけれども、結局、幸不幸を感じるのは心だから(笑)。ね。外側をいかにこう整えたとしても、それを感じるものは心だから、例えば心が本当に清らかであるとしたら、その人はどこにいても幸福です。どんな状況でも幸福になってしまう。で、心が本当に汚れている人がいるとしたら、どんな状況でも小さな不幸を見つけて、ああ俺は不幸だって思ってしまう。
 それはまあ皆さんの周りを見ても分かると思うけども、なんでこの人はこんな、客観的には幸せな環境にあるのに、こんなに一人で不満や苦悩を抱え込んでいるんだろうとか。あるいは逆に、あ、この人はこんなにいろんな苦境に陥っているのに、すごい明るいなとかね。いろいろそれはあると思うけども、結局それは第一義的に来るのは心なんだね。

コメント

今日のAMRITAチャンネル「勉強会講話より『心』」

2017-07-27 20:54:48 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「勉強会講話より『心』」です。
コメント

グル・バクティヨーガ 補遺(9)「グル・クリパー(グルの恩寵)を得る方法」⑦

2017-07-27 11:44:40 | 経典の言葉・聖者の言葉

 この要点を例を上げて説明すると――地位を失った王子が、自分が王子であることを忘れ、放浪しているうちに、自らの父の前に偶然現れて、乞食の意識で怖気づいて立っている。
 彼が尋ねた精一杯のことは――「夜に雨風をしのげる小屋をお与えください。昼には食べ物をお与えください」というものだった。
 そして彼はそれを得た。
 もしこの王子が「自分は王国の相続者である」と気づいていたら――彼は王国すべてを要求しただろう。
 そんな食べ物や小屋などは要求しなかったであろう。
 彼は王のところまで行き、こう言ったであろう――「おお、父上! 私を王にしてください。私に相続財産を与えたまえ。」

 同様に、われわれはまず第一に、自分は不死なる存在である。自分はサチダーナンダの中にあるという意識を、自分の中に開発しなくてはならない。
 そうして、われわれはグルにサチダーナンダ意識を求め、グルはそれを与えることができるのだ。


 最後に、われわれはさらにもう一つの要因を考慮に入れなくてはならない。
 誰かがその王子に、彼は王子であるということを教えていたら、彼は父の所へ行ってその地位を要求し、おそらく彼が未成年であったら、王はこう言っただろう――『わかった、お前に宮殿をやろう。成人したら、お前はこの地位と王国を得る資格を得るだろう』と。
 そうだとしても、そこには神の恩寵を十分に、効果的に受けるために必要な、ある内なる資格がある――それを得られるまで、弟子は待たなければならない。
 ゆえに、理想的な弟子の資格をすべて得たように見えても、われわれは謙虚に忍耐強く待たなければならないのだ。
 われわれは、神の光の洞察によるヴィジョンでのみ見ることができる完成の境地を、不当に自分のものとすることはできない。
 霊性の領域における忍耐と謙虚さは、何十年という期間にわたって持たねばならないものである。
 われわれは必要であれば、グルの家の前で、一生、犬のように待たなければならない。
 そこには何の損失もない。
 なぜならば、そのゴールは不死の命であり、自由であるからだ。
コメント

グル・バクティヨーガ 補遺(9)「グル・クリパー(グルの恩寵)を得る方法」⑥

2017-07-27 11:42:27 | 経典の言葉・聖者の言葉


 内面的には、われわれは、われわれに何とかして忍び込んでくる、グル、グルの恩寵、そしてその作用――グル・クリパーとは何か、そしてその作用とは何か、ということに関しての狡猾な考えを破壊しなくてはならない。
 それは大変な作業である。
 しかし、この作業は為されなくてはならない。
 なぜならば、グルとは人間ではないからである。
 われわれは、グルを人間であると見ることは1パーセントもあってはならず、彼が神であるということだけを意識しなければならないのだ。
 そうしてのみ、われわれは、われわれを低次の人間から超越的な神へと変革するそのクリパー(恩寵)を受けることができるだろう。
 われわれとグルとの関係は、混じりけなく神聖であり、完全に霊的である。――われわれがグルとの「人間的な」関係を、微塵も残すことなく完全に抹消しない限り、われわれはグルとの神聖なる関係に入ることはできないのだ。

 われわれはグルに対して、彼はわれわれを小さなトラブル、肉体の病気、金銭面の困難、家庭内の問題、この人生における小さな取るに足らない問題から救ってくださると期待する。
 もしそのようにグルに祈れば、すべてを得られるだろう。しかし、あなたが得るものはそれだけである。――それ以上のものは何もないのだ! いや、それどころか、そのグル・クリパーと呼ばれる神秘的で高遠なもの――それは、われわれの中に流れ込むことはない。
 ゆえに、まず第一にわれわれは、グルとの人間的な関係すべてを消し去るよう努力すべきである。
 そのためには、主観的にはわれわれは、内なる変革を遂げなくてはならない。――それが為されない限り、彼の神なる本性が、われわれに完全に明かされることはない。
 われわれが自分自身を、世俗的な欲望に満ち、完全に限定され、弱さを持った世俗の人間だと思っている限り、われわれはグルの絶対性、神聖なる本質における意識の中に完全に入ることは不可能である。
 ゆえに、われわれはサーダナーによって神意識を生じさせ、まず最初に人間的な意識を捨て去らなければならない。
 もしわれわれがここに、神的使命と共に神聖なる存在として生き始めるならば、グル・クリパーとグルの神的様相は徐々に顕現し始め、われわれはグル・クリパーを受け始めるであろう。

 われわれはその第一歩を踏み始めなければならない。
 ここにおいてさえ、グルへの祈りは、われわれの務めを容易くする。
 最初から最高点に至るまで、すべては神の源から得られる。
 われわれが自分自身を、人間ではなく、グル・クリパーを受けてあと少しの変革が必要な束縛された魂、という神聖なる意識に合わせ、その意識を生じさせるまでは、われわれは、神としてのグルを完全に活用することはできないであろう。
コメント

グル・バクティヨーガ 補遺(9)「グル・クリパー(グルの恩寵)を得る方法」⑤

2017-07-27 11:39:40 | 経典の言葉・聖者の言葉


 まず第一に、このムムクシュトヴァを獲得しなさい。
 それからわれわれは、グルにお仕えしなくてはならない。
 奉仕は、われわれとグル・クリパーの感化力の間に立ちはだかる障害を引き倒す神秘的なものである。
 われわれが恩寵を受け取るに相応しい者にならなければならないならば、この恩寵を受け取るバーヴァに対する障害を取り除くものが奉仕なのである。
 エゴは、最も大いなる障害である。
 われわれの虚栄心、先入観という従来の傾向――これらの姿は、また別の第二の障害である。
 この奉仕というものは、すべての障害を効果的に破壊する。

 グルへの奉仕とは何か?
 グルへの奉仕とは、彼のウパデーシャ(教え)の実行にできる限りの最善を尽くすことである。
 グルの教えを実行しなさい。
 彼の崇高な教えの上に、われわれは人生を形作らなければならない。
 そして同様に、自分自身をその鋳型に流し込んで、自分自身をその目に見える理想にしなければならないのだ。
 われわれが尽くす取るに足らない最善に対するグルの指示、それを実行することの秘密とは何か――それは魂からの意欲的な服従である。
 それは最も重要なことだ。
 喜んで完全に地面にひれ伏す覚悟。
 彼を導き手として受け入れ、彼に従うこと。
 この服従は、ひたすらに培わなければならないものである。――われわれの忌々しい性質、低次の自然、インドリヤ(感官)、アンタフカラナ(内的心理器官)のあらゆる側面は、われわれがこの服従の態度へと向かうたびに、それとは逆の方向に行こうとする衝動がわれわれの先入観から生じる習慣的性向から起こるゆえに、われわれはこの服従の精神を開発することができないのだと考えようとする。
 この習慣的衝動は、克服し、破壊されなければならない。
 グルへの服従には喜びがなくてはならず、「私は従うべきだ」という精神には真の熱望がなくてはならない。
 弟子になるには、あなたは夢の中でさえもグルに服従しなければならない。――グルのウパデーシャ(教え)の精神に反することを行うという発想は、絶対に意識の中に生じさせてはならない。
 われわれのサーダナーは、昼夜この態度を完璧に至るまで磨くことであるべきである。
 これがなされれば、われわれはしっかりとグル・クリパーを受ける資格を得る方向へと向かっていく。
 これは、サーダナーの外面的な要素である。
コメント

グル・バクティヨーガ 補遺(9)「グル・クリパー(グルの恩寵)を得る方法」④

2017-07-27 11:37:04 | 経典の言葉・聖者の言葉


 われわれは、弟子というものはどのような神聖なる性質を備えているのかを理解しなければならない。
 グル・クリパーはわれわれを最高の境地へと連れて行ってくれるのであるから、弟子は、その最高の境地、あるいはサチダーナンダとしてわれわれが悟るものを受け取るのに相応しい器になるのである。
 ゆえにまず第一に、われわれは、自分の今の状態は真の本質のものでなく、望ましくないものであり、取り除かなければならないものであるということを感じなければならない。そうしてのみ、われわれは平安、幸福を得るであろう。
 
この感覚を
どれほどの人が持っているか、熟考し、分析してみよう。
 われわれの現在の状態とは、ジーヴァ、肉と骨の苦しみの籠に捕らえられている魂のことを言う。
 どれほどの人が、自分は息苦しい籠の中にいて、自由に息もできず、心からその籠から脱走したいと思っているのだろうか?
 これを感じたら、われわれは弟子になろうとするだろう。
 そうして、われわれは自由なる者に近づくことができる。――なぜならば、グルは自由なる御方であり、同様にわれわれを解放してくださる御方であるからである。
 ジーヴァートマのこの苦しみ、この苦痛を感じたら、われわれはこの自由なる者のもとへと行き、こう祈る。

「おお、われわれをこの肉体から解放してください。」

 この祈りは、口には出されないかもしれないが、人生の瞬間瞬間に心の奥の底から唱えられなければならない。
 そうしてのみ、われわれはグル・クリパーを求めることができるのだ。

 しかし、そのようなものは暗黒のマーヤーの壁で覆われていて、われわれは完全に自分の境遇に満足してしまっているのだ!
 ムクティ、自由、高度な神的人生の神聖なる意識の必要性を感じ、われわれはサットサンガ、聖典学習を行い、われわれの心の眼の前に、この地上における人間の人生の悲惨さをありありと思い描くべきである。
 それらがムムクシュトヴァ(解脱への熱望)を生じさせる。
 グル・クリパーのことを考えるならば、ムムクシュトヴァ(解脱への熱望)はその第一のステップである。
コメント

グル・バクティヨーガ 補遺(9)「グル・クリパー(グルの恩寵)を得る方法」③

2017-07-27 11:31:13 | 経典の言葉・聖者の言葉


 しかし、それはどうやったら受け取ることができるのか?
 われわれがこの恩寵を受け取る準備をするには、どのように行動すべきなのか?
 それは、弟子になることである。
 
 私がグル・クリパーと言う時、それは特別なものであり、神秘的なものであり、この地上の誰にでも与えられるものではないが、人生をそのために捧げた者にはその最高のものが与えられる。

 (普通の)バクタは、聖者の祝福、聖者の恩寵を与えられるだろう。彼も同様に祝福されている。彼もまた、聖者の慈悲の御力を受ける。
 しかしグル・クリパーの恩寵を得るためには、われわれはまず「弟子」にならなければならない。
 そうしてのみ、われわれはそれに相応しい受取人になる資格を得るための第一のステップを踏んだことになるのだ。
 
 それでは、弟子になるとはどういうことか?
 弟子を受け入れるのはグルではない。――弟子のほうがまず最初にグルを受け入れなければならない。
 まず第一に自分が弟子になるならば、グルが「お前は私の弟子だ」と言おうが言うまいが、それは関係のないことなのだ――彼はグル・クリパーを受けるに値する者、その権利者となる。
コメント