ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第24話 後編」

2017-06-30 17:02:04 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第24話 後編」です。
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今日のAMRITAチャンネル「勉強会講話より『開かれた心で』」

2017-06-29 22:33:26 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「勉強会講話より『開かれた心で』」です。
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すべては偽りであり、

2017-06-29 21:21:07 | 松川先生のお話


 すべては偽りであり、すべては真実である。

 もう少しわかりやすく、別の角度から言うならば、すべては偽りの要素を持ち、すべては真実の要素を持つ。

 それが真実になるのか偽りになるのかは、神の意思、そして様々な条件によって決まる。

 表面的な意味での絶対なる善悪はない。

 たとえば、修行もしていない怠惰なある男が、いきなり、「俺は悟った!」と言ったとする。

 これは普通は「偽り」である。条件が整っていないから。

 しかしここに「神の意思」があるとするならば、彼の悟りは真実となる。

 つまり表面的な条件だけでは本当の意味での事の真偽はわからないということだ。

 またちょっと別の角度からイメージ的に言うならば、
 空気中に目に見えない二種類の分子があるとして、
 あるスイッチを入れると、真実という分子が液体化して姿を現してすべてを覆い、
 あるスイッチを入れると、偽りという分子が液体化して姿を現してすべてを覆う。
 そしてこのスイッチを握っているのが神である。

 しかしもちろんこれは究極の教えであって、普通は最初は、表面的な正しい条件――つまり「基本的なダルマ」に則って物事を判断すべきである。

 しかし同時に、そこにいわゆる「聖者」や「師」が絡むことに関しては特に――自己の観念は放棄して、このような柔軟な思考も持たないと、見誤ってしまう。

 聖者は本来、この世の条件に縛られていない。ただ衆生への慈悲のために、そして神の意思の遂行のためにのみ、この世にいるのだから。

 そして真のバクタ、真の弟子、真の神のしもべには、
 このような説明さえ、蛇足に過ぎない。
 彼にとっては、帰依の対象が絡むことは、もともとすべて真実なのだから。
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非利己

2017-06-29 21:07:38 | 経典の言葉・聖者の言葉

「非利己的であることは、より多くの利益をもたらす。
 しかし人々には、それをなす忍耐がない。」


――ヴィヴェーカーナンダ

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バクティの精髄(20)

2017-06-29 19:51:50 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎ラティまたはバーヴァとラサ


 愛の哲学におけるラサは、まさに美酒である。
 マドゥラ・バーヴァ(神の愛人のムード)を開発したバクタは、甘露の遊戯と、シュリー・ラーダークリシュナの魂を震わせる御姿と御名の属性という美酒を味わう。 
 バクタの神聖なる恍惚の境地の特色である永遠の歓喜を味わうことは、ラサと呼ばれている。
 ウパニシャッドにはこう述べられている。

「まさに"彼"はラサである。」

 主クリシュナは、ラサの権化である。
 彼はアキラーラサームリタ・ムルティ(すべてのラサの宝庫)である。
 彼は、ラサが湧きだす泉なのである。

 バーガヴァタには全体に渡って、このラサの概念が詳細に説かれている。
 ラサとは、神聖なる感情である。
 ラサとは、至高なる超越的至福の、永遠なる、不可分の、想像を超えたエッセンスなのである。

 ラティ(主クリシュナへのサーダナー・バクティを生じさせる愛着)が深まり、高められると、それは、バクティ・ラサの不変のフォームであるプレーマ、またはスターニー・バーヴァと呼ばれる。

 バーヴァとは、純粋なタットヴァであるものの精髄であるその感情の名である。
 それは、昇りゆく太陽の光線に例えられる。
 バーヴァは、あたかも太陽の光が朝日の到来を告げるように、プレーマの到来を告げ、主クリシュナのもとに到達したいという強烈な渇望によって、心を溶解させる。
 魂の本質的な純粋性と心の柔和は、バーヴァの特性であり、その最低限の兆候である。

 上級段階のバーヴァにおけるラティは、その初期段階よりもさらに著しく、心を柔和にする。
 それがより一層深くなり、バクタがより強烈に主を求めると、それはプレーマと呼ばれる。

 シュラッダー(信)を持つと、人は聖者やバクタとの交際にすがるようになる。
 彼は、主の御名や栄光を唱え、聞くことを始める。信仰に対する悪や罪、そして障害は、この詠唱と聴聞のサーダナーによって滅ぼされる。
 ニシュタ(敬虔さ)は、悪業が滅されたときに生じる。ニシュタから、至高者についての話の詠唱や聴聞のルチ(味わい)が生じる。この味わいから、信仰への強烈な思いが生じる。そしてこの強烈な思いから、至高者へのラティが芽生え、ラティが深まって、プレーマとなるのである。
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「ヴィヴェーカーナンダの生涯」第一回(4)

2017-06-27 22:46:43 | 勉強会より抜粋

【本文】

 また、父親の影響で、貧者への哀れみの心は、ナレーンドラにも深く染み付いていました。小さなころから、乞食に乞われると、母親に無断で、母親の着物や家庭用品などを乞食に与えてしまうのでした。これにきづいた母親はナレーンドラを叱って、乞食から品物を買い戻しました。
 これが何度も続いたので、ある日母親は彼を二階の部屋に閉じ込めました。それでも、通りで乞食が大声で施しを求めだすと、ナレーンドラは、母親の高価な着物を、窓から乞食に投げ与えたのでした。



 これも面白いね。お父さんの影響を受けて、ナレーンドラも、非常にそういった苦しむ人、あるいは貧しい人に哀れみの心、慈悲の心が高まったと。で、それによって――ここのシーンを見ると――まあ、これだけじゃなかっただろうけど、ここの一つのテーマとしては、「お母さんの着物や家庭用品などを乞食に与える」と。つまりおそらく女性の乞食とかが、「わたしは本当に貧しくて着る物が無い」とか、あるいは本当にお椀とかそういうのも無いんだってふうに懇願したんでしょうね。そうするとナレーンドラは、お父さんの真似をして、全く後先考えずに――つまりお金持ちだったからね。お金持ちだったからいろいろあると。で、子供だから当然――お母さんはさ、お母さんって多分、インドのお金持ちの女性だから、おそらく――お母さんも慈悲深い人だったみたいだけど、でもまあそれなりの執着とかあったと思うんだよね。「このサリーはあそこで買って」とか、「このサリーはこれくらいして」とかね。でも子供は何にもよく分からないから、「あ、乞食が服くれと言っている」と。あんな本当に汚いボロボロの服しか着ていないと。うちのお母さんたくさんいい服持ってると。じゃああげましょうって感じで、もう無断でいっぱいあげてたんでしょうね。あるいはうちのキッチンにはたくさんの台所用品があると。でもあの乞食たちは何も調理する道具さえないと。「じゃあどんどんあげましょう」と、やってたんでしょうね。お父さんもそうやってるし。で、それに気付いたお母さんは叱って、乞食から品物を買い取ったと。おそらくまあ――もう一回言うけど、子供には分からないけど、いろいろありますよね。つまり、大人になって――もちろん執着もあるだろうけど、例えば「これはお父さんから結婚記念日に買ってもらったものだ」とかね。あるいは「これは本当になけなしのお金で買った高価なものだった」とかね。あるいは「これは本当に今度のあれに着ていこうと思っていたものだった」とかね。いろいろあったと思うんだね。だから「これは必要だから」っていう感じで買い取ったりしてたんでしょうね。
 しかしそれがあまりにも続くので、「ある日母親は彼を二階の部屋に閉じ込めた」と。しかし通りで乞食が大声で施しを求める――つまり乞食も何度もくれるから分かってたんでしょうね。ここに行けばもらえるって感じで。で、大声で呼ぶと、ナレーンドラはその母親の高価な着物を窓から乞食に投げ与えたと。非常に面白いシーンだね。じゃあ次いきましょう。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第八回(2)

2017-06-27 22:42:05 | 勉強会より抜粋


◎悪魔は詐欺師

【本文】

 また、サーガラマティパリプリッチャー(サーガラマティ所問経)には、こう説かれている。

「菩薩が容姿端麗で、あふれんばかりの財を持った大金持ちとなる。そのようなところにも魔事は働く。
 また、菩薩が自分の外見や財産や血脈や家族や従者がすべて満たされることを求めるならば、そこにも魔事は働く。
 智慧を充実するために努力しても、世間に対しても欲望がある。そのようなところにも魔事は働く。
 崇高なパーラミターという目標を見失い、容姿や財産や従者などの世俗的な価値にプライドを抱くならば、そこにも魔事は働く。
 またある菩薩は、ある他の菩薩が出家し、智慧を身につけ、感謝し、耐え忍び、さらに精進し、痩せ衰え、身体が弱弱しくなり、暑さや寒さのために肉体は恐ろしくしなび、静脈は体のいたるところにハッキリと浮き出ていることを知っている。彼はまた、頭に火がついた男のように日夜猛烈に真理を求めて修行し、善を求めて精進し、その結果、身体は痩せ衰え、弱弱しくなり、醜い顔色となって修行に励む菩薩も知っている。彼らのような菩薩は不名誉であると思い、また彼らの話は役に立たないと考えて耳を傾けず、彼らの説く法は全くつまらないもので、全く劣ったものであると考える。このように考えることは、菩薩が現世の喜びを追い求め、修行を無視するようになる魔の釣り針である。」



 はい。まず、「菩薩が容姿端麗で、あふれんばかりの財を持った大金持ちとなる。そのようなところにも魔事は働く。」
 まあ、いつも言ってるように、例えばですね、すべては徳です。すべては徳っていうのは、もしここに容姿端麗――つまり、まあ時代とか国に応じて価値観が違うわけだけど、少なくともその時代、国において、非常に美しい顔に生まれると。あるいは非常に美しいスタイルに生まれると。あるいはまあ、雰囲気とかがすごくもてるっていうかな、人々からうらやましがられるような美しいかたちで生まれると。それはもちろん徳なんです。徳ね。だから例えば芸能人とかモデルとかで、そういう美しい人っていうのは、もちろん徳があるんだね。まあただ徳がそこに集中してるとも言っていいわけだけど。真理を悟るような徳はないわけだけど。自分の美しさっていうところに徳が集中すると。あるいは財ね。お金持ち。これももちろん徳です。
 まあ、だからその、芸能人とかで非常に美しくてお金をいっぱい持ってると。これはもちろん相当徳があるんだね。あるいはその、政治家とか、あるいはまあ悪徳企業の社長とかもそうだけども、悪徳企業であれ、大金持ちの人は当然徳があるんです。うん。でもその徳を悪い方に使っちゃってるだけであってね。徳はあるんですね。で、もちろん修行者とか菩薩も徳はあるから――で、その徳によって例えば美しく生まれたり、あるいは、まああんまり美しくなくても非常にもてるようになったり、あるいはお金持ちになったり、あるいはいろんな物質的、あるいは精神的な望みが叶ったりするようになるわけですね。
 はい。で、これが同時に魔事でもあるんです。これはまあ何度も言ってるけど、例えばいい例としては、前も布施の話で言ったけども――まあもう一回繰り返すと、例えばあるここに男がいて、この男が貧しいながらも、ね、如来や、神や、聖者にお布施をしたとするよ。で、そのお布施の徳によって、前は貧乏だったんだけど次の生お金持ちになる。で、このお金持ちになるっていう意味っていうのは、もちろんその徳によってお金持ちになったわけだけど、言い方を変えると、如来や神の慈悲によって、「あ、こいつは素晴らしい布施の心がある」と。「しかしお金がない」と。「よって、もっともっと布施をできるように」――まあつまりさ、その貧しい人っていうのは懇願するわけです。「わたしは本当にわずかな物質しか持っていない」と。「だからこれだけでもどうか受け取ってください」と。「わたしは何もありませんが、すべてを捧げます」と。「もしわたしに多くの財産があったならば、この国中すべてでも捧げるでしょう」と。このような素晴らしい供養の発願をした男に対し、神や仏陀は、「おお、そうか」と言って、その人を次の生、大金持ちにしてくれるかもしれない。しかしそうなると――まあ記憶はないからね。記憶はないけど、潜在意識では、「わたしは偉大なる布施をするために大金持ちに生まれた」ってなんとなく気付いてるんだけど、でも今生の価値観に巻き込まれ、執着するようになる。つまり布施のために与えられた財産に執着するようになり、そして布施をせず、逆に貪り、そして自分の非常に良いカルマを腐らしていくわけですね。で、これが魔事なんです。
 だから非常に、この間の勉強会でも言ったけども、まあ例えば物質的な誘惑、あるいはこの世の価値観の誘惑っていうのは非常に怖いんだね。この間も言ったように、われわれは非常に物質的な、あるいは快楽的な時代に生きているので、昔の修行者のように山に籠って何も持たず、無一物で生きるっていうことはできないわけだから――これはまあ別にあってもいいわけですね。あっても別に執着しなければいい。しかしこの「あっても執着しなければいい」っていうのが非常に難しいんだね。うん。やっぱりわれわれの心っていうのは、最初はいいかもしれない。最初はいいかもしれないっていうのは、最初はすごく修行とか聖なる教えに燃えてて、で、その燃えてる心になんかいろんなものがあっても、「なんかこんなものはどうでもいいものですよね?」っていう気持ちになるんだけども、だんだん日々暮らしてると、ちょっとずつ奪われていくんだね、心がね。うん。で、いつの間にかもうそれなしではいられなくなるっていうかな。
 前もちょっと話したけど、ヒンドゥー教の面白い逸話があってね。ちょっと細かいところは忘れちゃったけど、大まかに言うと、ある無一物の修行者がいて、つまりサードゥがいて、彼は本当に何も頓着なく、ただ一枚のふんどしだけを持ってたんだね。ふんどしだけを持って暮らしていたと。で、修行していたと。でもあるときふと思った。「ふんどし一枚じゃ替えがないな」と(笑)。「まああと一枚ぐらいあっても別にそんな執着が増すわけじゃないからいいだろう」と思って、もう一枚ふんどしを用意したわけですね。で、そしてしばらくしたら、そのふんどしがねずみに食われた。で、そこで「これはまずい」と思ったその修行者は、ねずみ対策として猫を飼いだした。で、猫を飼ってたんだけど、猫の餌がいるから、猫にミルクをあげなきゃいけないから、そのうち――このへんがおとぎ話みたいなんだけど、牛を手に入れた(笑)。


(一同笑)


 牛を手に入れて、牛の牛乳を猫に与えてたわけだけども。で、そのうち、ちょっと牛の世話が大変なんで牛の世話をする人を雇うようになった。で、そのうち牛がだんだん増えてっちゃって。子供を産んで。で、しょうがないんで牧場を買った。で、いつの間にか牧場主になってしまった(笑)。


(一同笑)


 つまり、無一物のサドゥーがいつの間にか大きな牧場の主になっちゃったと。「あれ? どっから間違ったのかな?」ってなるわけだけど(笑)。
 つまり最初は一枚のふんどしだったわけですね。まあ皆さんもこの時点では別に、「まあ別にいいか」って思うでしょ? うん。だってふんどし一枚だけだから。だからもう一枚ぐらいあっても当然いいよね。だって洗って干してるときもあるわけだから。で、それでもちろん良かったわけです。別にそれは悪いことではない。悪いことではないんだが、これがだから恐ろしさなんですね。でもそこに心がとらわれて、「あれ、でもこれこうなったらどうしよう?」――例えば一回ねずみにやられた。それはいいじゃないですか。つまりそこで、「次もやられるんじゃないかな?」って考えること、で、そこで「猫が必要だな」って考えること、ここからもう魔事なんです。ね。このようにしてちょっとずつ引きずり込まれていくんだね。
 いきなり牧場とは当然いかないでしょ? いきなりなんにもなく、修行してるふんどし一枚の修行者がね、「牧場欲しいな」とかね(笑)


(一同笑)


 ――さすがにそこまではいかない。そんな、なんかいきなりそこまでの欲望は出ないわけだけど。もちろん念正智もしてるから。仮にね、こうイメージとして、「ああ、お金持ちの牧場主もいいな」って思い込んだとしても、「いや、そんなの駄目だ」ってできるはずなんだね。でもそうじゃない、本当にその人のカルマに応じた弱いところから、あるいはつまずくだろうなっていうところから、悪魔は徐々に徐々にこうやってくるんだね。だからまさに詐欺師なんです、悪魔って。
 ただ、いつも言うけどね、この悪魔と結託するやつがいます。それが自分のエゴなんです。これは『入菩提行論』とかでも言ってるように、このエゴっていうのは完全に自分の心の敵なんだね。うん。このエゴによって、われわれは何万回も地獄に落とされてきたと。ね。このエゴが魔と結託するんです。
 だから、良くない側近みたいなやつなんだね。つまり会社社長が、なんか敵企業から乗っ取られようとしていた。で、社長は頑張って闘ってるんだけど、側近が実はつながっていてね、いろいろ情報を流したりとか、なんとかこの会社を駄目にすることを裏工作でやったりしてる。これがわれわれのエゴなんだね。だからこのエゴも詐欺師だから、エゴと悪魔が結託して、非常に巧妙なかたちでわれわれの心をだんだん駄目にしていくんですね。
 だからわれわれは、もう一回繰り返すけども、念正智、あるいはいろんな工夫をして自分の心を常に引き戻す。ね。常に真ん中に、あるいは神の世界に、あるいは自分の最も理想のところに引き戻す訓練をし続けなきゃいけない。これがまあ、ここの主旨ですね。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第八回(1)

2017-06-27 22:35:40 | 勉強会より抜粋

20110917

解説『スートラ・サムッチャヤ』第八回



◎一番大事な念正智

 もう一回簡単に説明すると、この『スートラ・サムッチャヤ』というのは、有名なね、『入菩提行論』を書いたシャーンティデーヴァの三部作ですね。で、『入菩提行論』は、いつも言うようにシャーンティデーヴァの書き下ろしですが、この『スートラ・サムッチャヤ』、そしてもう一つ『シクシャー・サムッチャヤ』っていうのは、それまであったね、いろんな仏教の経典の引用というかたちでシャーンティデーヴァが菩薩道をまとめてる経典ですね。で、そのうちコンパクトにまとめたのが、この『スートラ・サムッチャヤ』。そして膨大にっていうかな、長い経典としてまとめたのが、『シクシャー・サムッチャヤ』ですね。
 はい。で、その『スートラ・サムッチャヤ』の続きで、まあこの辺は魔事に関することが、ちょっと前の方からずっと続いてるわけだね。
 で、魔事っていうのは、まあよく魔境とかいう言葉もありますけども、まあつまり魔に完全にやられて、その魔の世界にこうちょっと引きずりこまれちゃってる状態、これを魔境っていうわけですけども。魔事っていうのは――まあ魔境も含めてね、魔の世界に引きずりこもうとする働きとか、まあつまりもうちょっと大きな意味ですね。大きな意味で、魔事っていうのが使われます。で、魔境とかいっても、別にあの――まあよくあるね、例えば霊的な魔境っていうのはよくありますね。つまり、なんか変な世界に突っ込んじゃって、まあ何かが見えるとか、あるいは、まあいろんなね、自分の正しくないインスピレーションを信じてしまうとか。あるいはなんか変な魔的な世界から声が聞こえて、それを神聖な声と勘違いしてしまうとか。まあそういう霊的な魔境っていうのはよくあるわけですが、そういうのだけじゃない、魔境っていうのは。つまり、まあ例えばある人はプライド、ある人は性欲、まあある人は、そうだな、貪りとかね。まあいろんなその自分のウィークポイント、煩悩をくすぐられて、そこからまあ簡単に言うと、真理が分からない状態にされてしまう。頭おかしくなってしまうと。その人がどんなに素質があり、神との縁が強く、本当は智慧の目を持ってても、魔の世界に巻き込まれてしまうと、もうその――例えばプライドだったら、もうプライドを守ることで頭いっぱいになってしまって、それまでの自分が持っていた聖なる心とか、どこかにすっ飛んでしまう。これが例えばプライドの魔境っていうやつですね。
 だから魔境っていうのは、もう一回言うけども、霊的なものだけではない。その人が持ってるウィークポイントに悪魔が忍びこんでくる。これはまさにわれわれと悪魔との戦いみたいなところがある。つまり、われわれはまだ完全に完成するまでは、弱点をいろいろ持ってるわけですね。で、悪魔はその弱点を巧みに突いてくるんだね。まさにこれは「巧みに」なんです。巧みにっていうのは、正面攻撃っていうよりは巧みにやってくるんです。正面からやってくるふりして、ちょっとこう裏の方から弱点を突いてきたりするんだね。だからわれわれはそれを、まあいわゆる念正智して、日々自分の心の働きをチェックして、「さあ、わたしは魔にやられてないかな?」と。あるいは、魔にやられそうな罠にはまりつつあるんじゃないかな、とかね。もう本当に厳しく自分を見つめないと、まあ、すぐにわれわれは魔に引きずり込まれてしまうんだね。
 本当にだからいつも言うように、『入菩提行論』に説かれるような、念正智ね。これがやっぱり一番大事なんだね。つまりどういうことかっていうと、自己の心のチェック。もう一回言いますよ――まあだから、その前に理想が必要ですね。いつも最近こういう話してるけども。自分の理想っていうのを掲げて、で、「さあ、わたしは――まあ百パーセントと言えないまでも――理想の道を歩んでいるかな?」「わたしの心は、わたしが掲げた理想からずれてないかな?」――これを年中チェックしてください。年中ね。もちろん理想的には二十四時間です。つまり、一瞬一瞬チェックする。あるいはそこまでいかなくても、例えば一時間に一回とかね。あるいは三十分に一回とか、小刻みに、「さあ、どうかな?」と。「さあ、今のわたしの心は、わたしの理想どおりいってるだろうか?」と。ね。例えば、「わたしの心は神で満たされているだろうか?」と。ね。あるいは、「わたしの心は――まあ自分がイメージした、こうなりたいっていう思いからずれてないだろうか?」と。どうしてもまだまだ心が弱くてずれちゃった――これはしょうがないです。じゃなくて、本当はできるのに、魔にやられて、全然その、違う心の状態になってしまってると。これは全然駄目なわけですね。だから念正智して、常にこう自分を戻す作業をしてれば、魔にやられる確率は少なくなるし、で、やられかかってても分かるからね。うん。それでチェックすると、「あ、理想からずれてる」と。「わたし、おかしくなってる」と。そうなると、またバッと戻せるようになるから。だからこれはすごくその、大事なんだね、念正智っていうのはね。
 で、念正智はやっぱり、いつも言うように工夫が必要だと思うね。工夫っていうのは、もちろん、小刻みに自分を振り返る――これはいいんだけども、例えばこれも本当に真剣に、例えば一時間に一回って決めたとしたらね、真剣に一時間に一回自分をチェックできればいいけど、単純にそのルーチンワークっていうか、ただの習慣みたいになっちゃうと、あまり心がこもらない場合がある。だからその場合、例えばいろんな方法で自分を鼓舞し、心を引き戻すことをやるといいと思う。まあ加行もらってる人は、もちろんその加行どおりまずそれをベースとしてやればいいわけだけど、まあそれプラスアルファ自分でやるといいと思うね。
 まあいつも言うように、例えば自分の心に――それぞれ違うからね――心に響く言葉を自分の部屋にいつも貼っておくとかね。うん。あるいはまあ可能な人は例えばトイレとかいつも行くところに貼っておくとかね。あるいは自分の心に響く、まあ今日歌ったみたいな歌であるとか、まああるいは本でもいいけども。あるいは本の一節でもいい。
 まあいつも言うようにさ、例えば、「いや、先生、わたしはこの本のこの一節でとても目が覚めました」っていうのがもしあるとしたら、それはね、宝物なんです、その人にとって。だって普通の本読んでも、例えば「ああ、いいなあ」とは思うけども、ハッと目は覚めない。で、目が覚めるポイントがあるとしたら、それはその人にとっては大発見なんです。ね。だからそれを活かさない手はない。ね。毎日読めばいいです。ね。あるいは歌もそうですよ。例えばある歌を歌って、ハッと目が覚めたと。それはもう宝物です。だったら毎日一時間に一回ずつ歌えばいい。ね。こういうなんか工夫が必要なんだね。こういう工夫をして、いろんなかたちで――あるいはムドラーとかでもいいんですよ。ムドラーをやったらハッと心が戻ったとかね。あるいは礼拝をしたらハッと心が戻ったとかね。本当にそれぞれ違うから。自分の合うものっていうかな。自分の心を常に理想に戻してくれる、あるいは魔から目覚めさせてくれるものを発見して、で、準備しといて、それを頻繁にっていうかな、一日のうちに何回もやると。で、それプラス、さっき言った、念正智っていうか、しっかりと自分の心をチェックして、おかしくなってないかなっていう念正智を行なうと。こういうのをやってたら、まあ、魔に引きずり込まれにくくなるし、引きずり込まれつつあったとしても、ハッとこう、魔との絆を切ることができる。だからこれはまあすごく大事なことなんだね。
 はい。で、その魔のさまざまな細かい誘惑について、前の方からずーっときてるんだね。まあ、ちょっと続きなんで途中からになっちゃいますが。はい。じゃあ読んでみましょうね。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第74話」

2017-06-27 20:11:09 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第74話」です。
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今日のAMRITAチャンネル「キールタン・イメージビデオ」

2017-06-26 21:29:21 | 今日のAMRITAチャンネル

今日のAmritaチャンネルは、「キールタン・イメージビデオ」です。



曲目

1.SitaRam(RamaNavami2017)【NEW!】
2.願い
3.神のしもべに
4.放棄の翼
5.無限の恩寵
6.シッダールタ
7.バクティヨーガの歌

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パドマサンバヴァの秘密の教え(62)「五つの悲しみ」

2017-06-26 08:58:41 | 経典の言葉・聖者の言葉



◎五つの悲しみ


 師パドマはこう仰った。

「ダルマを修習している人々が、身内の死に際して大きな嘆き悲しみを感じるのは正しくない。ダルマを修習している者には、五つの悲しみがある。」


 ツォギャルは尋ねた。

「それは何でしょうか?」


 師はこうお説きになった。

「優れた師との死別に際しては、葬儀の供養を行って哀悼すべきである。

 善き法友との死別に際しては、功徳を集めることによって哀悼すべきである。

 あなたの師に背いたときは、それを後悔して、過ちを認めて嘆き悲しむべきである。

 あなたが誓いを損ない、破ったときは、嘆き悲しみ、それを修復するべきである。

 長い間ダルマの修習ができていないときは、嘆き悲しみ、師に従うべきである。

 八つの世俗的な関心事にあなたの心が迷い込むときは、嘆き悲しみ、強い放棄の気持ちを持つべきである。

 いずれにせよ、条件によって成立する事柄には永続性がないことを理解しない人々にとっては、彼らの悲しみは決して尽きず、晴れることがないだろう。」
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パドマサンバヴァの秘密の教え(61)「三つの遂行」

2017-06-26 08:55:28 | 経典の言葉・聖者の言葉



◎三つの遂行


 師パドマはこう仰った。

「ダルマを修習しているとき、三つのパーラミターによって修習せねばならない。」


 ツォギャルは尋ねた。

「それは何でしょうか?」


 師はこうお説きになった。

「一.劣った人は、他の活動に努力せず、来世のためだけの活動を求める。かくして、その者が輪廻のより高い領域に達するのは避けられない。

 二.中くらいの人は、輪廻の全体に飽き飽きし、有徳な行動を求める。故に、解脱を得るのは避けられない。

 三.優れた人は、すべての衆生のために菩提心の修習のみを求める。故に、完全な覚醒を得るのは避けられない。

 概して、夜明けから一日の終わりまで人々が求めるすべての目的は、ただ単にこの人生における楽しみのためのものである。今生での否定的な感情に振り回され、彼らは次の生で低い領域に落ちるのは避けられない。」
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第七章 覚醒(1)

2017-06-25 20:01:55 | 菩薩道の虹の宝飾


第七章 覚醒


 無量の難行により、無量の善の集積により、
 無量の時間をかけ、無量の障害を取り除いたが故に、
 あたかも宝の箱が開かれた如くに、一切の障害から離れた一切種智を得ることがあり、それがブッダであるといわれる。

 未曾有の難行をなし、無数の苦労をもって一切の善を集め、
 世界の消滅と最上のヤーナのために大いなる時を経て、一切の障害が滅尽したから、
 もろもろのステージに存在する微細なる障害を破りさる者に、
 ブッダたるものが、あたかも大威力を有する宝の箱が開かれた如くに、開かれる。

 ブッダとは、すべての法である。しかし一つの法もない。
 またそれは白き法によってなるものである。しかし白き法によって説かれるものではない。
 それはダルマという宝の因であるから、宝の箱にたとえられ、
 善という穀物の因であるから、雲にたとえられる。

 ブッダとは、すべての法である。あるいはすべての法を離れている。
 極めて大きなダルマの宝を生み出すから、宝の蔵のようである。
 すべての衆生に白き法を生じさせる極めて大きな因であり、
 大きく広がって、無数の法の雨をすべての衆生に降らせるので、雲のようである。

 ブッダとは、実に一切の煩悩から常に衆生を救済する。
 そして一切の悪行から、また生死の輪廻からも救済する。
 一切の災厄から、悪趣から、正しくない道から、
 身体を自分と考える誤った見解から、また小乗から、救済する。
 故にそれは最上の帰依処である。

 その最上のブッダとは、無比の帰依処である。
 種々の恐怖の中にある者の、間断なき種々の苦・悪趣・非法にある者の、誰からも守護されない者の、守護者である。

 すべてのブッダのすべてのダルマによってその身がよく満たされたところの、
 また、正法によってもろもろの衆生を救済するところの、
 また、一切の衆生に対する慈悲によって解脱したところの、
 そのブッダたるものが、この世における最勝の帰依処である。

 世界の尽きるまで、すべての衆生にとって、
 一切の不幸を取り除き、一切の幸福を与えるブッダこそが、
 大いなる帰依処である。
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覚醒の虹の宝飾(6)「無常を修習する」

2017-06-25 19:52:45 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎今生の喜びの対象に執着することを除去するために――無常を修習する

 そのうち、まず第一番目の、今生の喜びの対象に執着することを除去する方法として、無常を修習することを説明しましょう。

 一般的にいって、すべての作られたものは無常です。積み重ねたものは尽き、建てたものは倒れ、出会ったものは別れ、生まれたものは死にます。
 無常には、
①世界は無常であること
②衆生は無常であること
の二つがあります。

 さらに、①世界は無常であることには、
①-①粗雑な無常
①-②微細な無常
の二つがあります。

 ②衆生は無常であることにも、
②-①他者は無常であること
②-②自己は無常であること
の二つがあります。



①-①世界の粗雑な無常

 この宇宙は無常であり、カルパと呼ばれる巨大な宇宙周期の終わりには、すべてが虚空に溶け込むのです。



①-②世界の微細な無常

 ①-②-①まず世界には、季節の移り変わりという無常があります。

 ①-②-②そして、昼夜による無常があります。止まることなく、夜と昼が繰り返されます。

 ①-②-③そして実際は、瞬間瞬間、世界は移り変わっているのです。瞬間瞬間、世界は滅し、また生じています。今この瞬間のこの世界は、実は次の瞬間には、別のものになっているのです。それが変わっていないように見えるのは、瞬間的に滅した後、前の瞬間と非常に似た世界が瞬間的に生じているからです。



②-①他者は無常であること

 欲界・色界・無色界のすべての衆生は無常です。


②-②自己は無常であること

 自己もまた、この世に自由にとどまり続けることはできず、必ず死がやってきます。それは、以下の二つの方法で理解すべきです。

 ②-②-①自己を観察すること
 ②-②-②他者の観察を適用すること


②-②-①自己を観察すること

 自己を観察して無常を知るには、次のように修習します。

1.自分は必ず死ぬのだということを修習する。

 「私はいつ死ぬか全くわからない。明日死ぬかもしれないし、一秒後に死ぬかもしれない」ということを思惟するのです。

2.死について修習する。

 「私の命は尽きる。呼吸は止まる。身体は亡骸となり、腐り、焼かれ、骨となる。心はカルマによって、次の生へ運び去られる」ということを思惟するのです。

3.死が迫っていることを修習する。

 「去年から今年までに一年が去った。その分、私は死に近づいた。先月から今月までに一月が去った。その分、私は死に近づいた。昨夜から今までの間に一日が去った。その分、私は死に近づいた。先ほどから今までの間に一瞬が去った。その分、私は死に近づいた」ということを思惟するのです。

4.別れを修習する。

 「現在私が有している、親族や友人や財産や身体などの貴重なもの――これらを来世に持っていくことはできない。死とともに、速やかに別れ去るのである」ということを思惟するのです。

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ラタヤートラ

2017-06-25 18:20:12 | 松川先生のお話
今日はジャガンナート(宇宙の主)の祝祭日、ラタヤートラです。
インドではジャガンナートの像を山車に乗せて引っ張ります。これが京都の祇園や日本全国の山車の由来ともいわれています。
ヨーガスクール・カイラスでは、昨日、新月恒例の「供養と懺悔の会」にて、ジャガンナートへキールタンを捧げさせていただきました。




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