ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

今日のAMRITAチャンネル「アニメ・リトルクリシュナ 第七話」

2017-04-30 05:38:38 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ・リトルクリシュナ 第7話」です。
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アクシャヤ・トリティヤ

2017-04-29 06:14:39 | 松川先生のお話


 今日はインドで、一年最高の吉日の一つとされる、アクシャヤ・トリティヤの日です。

 アクシャヤとは「不滅」という意味。一年で最も太陽と月の光が強くなる日で、この日に願ったことは永遠に続くともいわれています。
 あるいはいろいろな善いことを始めるのにも適しているようです。

 インドでは、宝石など高価なものを身に着け始めるのに最も良い日ともいわれ、お店がにぎわう用ですが、これは何かバレンタインデーのような商業的な策略の感じもしますね笑

 せっかく「永遠に続く」という祝福がある日なんですから、無常な現世的なものや願いではなく、魂の根幹にかかわるような願い、あるいは善なる行為をするのがよいのではないかと思います。

 またこのアクシャヤ・トリティヤは、以下のような神話に関わる重要な日であるという説もあるようです。


・ドラウパディーの窮状をクリシュナが救った日


・ガンガー(ガンジス河)が天から降りてきた日


・ヴィヤーサとガネーシャがマハーバーラタを書き始めた日


・クリシュナが幼馴染のスダーマに恩寵を与えた日

 スダーマは大変貧乏でした。ある日、彼の奥さんはスダーマに言いました。

「あんたの幼馴染のクリシュナは、今や王様になっているじゃないか。何をしてるんだい、彼のもとに言って、富を恵んでもらってきておくれ。」

 奥さんに弱かったスダーマは、言われるがままにクリシュナのもとへと向かいました。旧友の訪問をクリシュナは喜び、訪ねてきたわけを尋ねましたが、スダーマはどうしても、富が欲しいなどとクリシュナに言い出すことはできませんでした。そんなスダーマを、クリシュナは小さいころと変わらぬ愛をもってもてなしました。
 スダーマはクリシュナへのプレゼントとして、少量の焼いた米を持ってきていました。貧乏なスダーマには、それが精いっぱいだったのです。しかし豪華な宮殿に住むクリシュナを前にして、スダーマはそのような粗末な贈り物を差し出すのが恥ずかしくなり、もじもじしていました。するとクリシュナはそれを悟り、スダーマからその米の入った包みを奪うと、それを自分の口に放り込み、言いました。

「こんなおいしい食べ物は初めてだよ!」

 このようなクリシュナの愛を受けるうちに、スダーマもあの少年のころのクリシュナとの純粋な愛の日々を思い出しました。スダーマはクリシュナに富を乞いに来た自分が恥ずかしくなり、ただ主への永遠の愛だけを願って、そこを去りました。
 
 クリシュナのもとを去り、家に向かう途中、スダーマは、妻のことを思い出しました。手ぶらで帰ったら妻は怒るだろうと思い、とぼとぼと歩きました。しかし家に帰り着いたスダーマはびっくり仰天しました。彼の粗末な家は豪邸に変わっており、家には多くの金銀財宝が積まれていたのです。決してクリシュナに現世的な富を願わなかったスダーマに対して、クリシュナはすべてを与えたのでした。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第20話 後編」

2017-04-28 21:09:33 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第20話 後編」です。
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今日のAMRITAチャンネル「勉強会講話より『簡潔・解脱への道』」

2017-04-28 03:21:00 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「勉強会講話より『簡潔・解脱への道』」です。
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他者のために

2017-04-27 22:45:59 | 経典の言葉・聖者の言葉





[場所:建設中のベルル・マト 年:一八九八年]

 弟子「どうしてですか、スワミジ。あなたはこの国で講演をなさっていません。あなたは講演をしてヨーロッパとアメリカを目覚めさせましたが、ここに帰って来てからというもの、ずっと黙ったままです。」

 スワミジ「この国にはまず地盤を作らなければならない。それから種を撒けば、最良の植物が育つだろう。西洋のヨーロッパとアメリカの土壌は非常に肥えており、種を撒くのに適しているのだ。西洋人たちは、ボーガ(快楽)の最高点に達している。ボーガに完全に飽きてしまえば、彼らの心は快楽の中にも安らぎを見い出さなくなり、まるで何か他のものを求めているように感じるようになる。この国には、ボーガ(快楽)もヨーガ(放棄)もない。ボーガに飽き飽きして初めて、人はヨーガの教えに耳を傾け、理解するようになる。病、悲嘆、苦悩がはびこり、飢餓によって人々が痩せ衰え、心が弱くなっているインドのような国で講演をして、何の利益があるというのだ?」

 弟子「どうしてですか? われわれの国は宗教の国であり、この国の人々のように宗教を理解する民族は他のどの国にもいないとあなたは仰っていませんでしたか? この国はあなたの感動的な演説によって活気づけられ、その果実を十分に得るのではないのですか?」

 スワミジ「宗教が意味するものを理解しなさい。まず第一に必要となるものは、クールマ(亀)の化身への礼拝である。言わば、このクールマは大食家なのだ。この化身をなだめない限り、誰もお前の宗教に関する言葉を受け入れないであろう。インドはこの空腹の亡霊に対峙する方法を考えることで頭がいっぱいだ。外国人による国の大部分の資源の搾取、商品の無制限の輸出、そしてとりわけ、奴隷に対して自然に湧き起る忌まわしい軽蔑の感情――これらがインドの骨や髄を蝕んでいる。まず第一に、お前が宗教を伝道したいと思う者たちから、この餓えや飢餓という悪を、貧窮のことを絶えず考え続けねばならないこの状況を取り除かねばならない。そうしなければ、講演などのことはまったく利益にならん。」
 
 弟子「その悪を取り除くには、何をしたらよろしいのでしょうか?」

 スワミジ「まずは、放棄の精神に満ちたいくらかの若者たち――人生を自分の幸福のために捧げるのではなく、他者のために生贄に捧げる覚悟ができている若者たちが必要だ。家々を回り、事実と論理を使って人々にその惨めな状況を悟らせ、幸福になるための手段を説き、できるだけ明確に、シンプルに、簡単な言葉で、高度な宗教の真理を説明できる若いサンニャーシンたちを訓練するために、わたしはこの目的を掲げてマトを設立するのだ。われわれの国の多くの人々は、眠るリヴァイヤサン(レヴィアタン)のようだ。現在の大学のシステムが与えている教育は、全体の1、2%にしか行き渡っていない。そしてその教育を受けた人々も、国のために善いことを行なおうという試みに成功していない。しかし、これは彼らの過失ではない、情けない者たちだ! 彼らは大学を卒業するや否や、いつの間にか父親になっているのだ! 彼らはどうにかして、なんとか会社員のポジション、あるいはよくても行政長官の代理のポジションを確保する。これが教育の最終地点なのだ! 家族という重荷を背負い、彼らには何か偉業を為す時間も、高度なことを考える時間もない。個人的な望みや興味を全うするための資力すらないのだ。――それゆえに、他者のために何かをするという点で彼らに期待してどうなるというのだ?」

 弟子「ならば、われわれができる解決策はないのですか?」
 
 スワミジ「もちろん、ある。ここは永遠なる宗教の地だぞ。国は疑いなく堕落したが、間違いなく再び復活し、世界を驚かせるだろう。波は低く沈めば沈むほど、その次は一層高くなる。これと同じ原理で、インドは再び立ち上がるだろう。」

 弟子「どのようにして、インドは再び立ち上がるのですか?」

 スワミジ「わからないのか? 暁はすでに東の空に現われている。もうじき太陽は昇るだろう。お前たちは皆、精一杯努力するのだぞ! この世界をかけがえのないものだと見なして何になるというのだ? 私のサムサーラ(輪廻)、私のサムサーラ(輪廻)と考えて何になるというのだ? 今のお前の仕事は、国のある地域からある地域へと、そして村から村へと歩き、人々に、何もしないで座っているだけでは何にもならないということを理解させることだ。彼らに自分たちが置かれている本当の状況を理解させ、こう言うのだ。『おお、兄弟たちよ、みな立ち上がれ! 目覚めよ! いつまで眠っているつもりだ!』 
 彼らに自分たちの状況を改善させる方法を教え、明快で大衆向けなやり方でシャーストラ(聖典)を紹介し、その崇高なる真理を彼らに理解させてくるのだ。長い間ずっと、ブラーフマナが宗教を独り占めしてきた。しかし、時の強力な潮流に対して、彼らは自分たちの立場を守ることができなかった。だから、この国のすべての人々がその宗教を手にできるよう、対策を講じてくるのだ。彼らにだって、ブラーフマナと同等の宗教への権利があるのだということを、彼らの心に刻印するのだ。強烈なマントラで、チャンダーラ(不可触民)にいたるまでのすべての人々をイニシエートしなさい。そして職業、商売、農業など、生活に必要なものについて、シンプルな言葉で教えてあげなさい。そうすることができないのなら、お前の受けた教育、文化、お前がヴェーダやヴェーダーンタで学んだ神が、一体なんになるというのだ!」

 弟子「しかし、そのわれわれの強さというものはどこにあるのですか? あなたの御力の百分の一でも持っていたら、わたしは自分が祝福されていると感じたでしょうが。スワミジ。」

 スワミジ「なんと愚かな! そのような力等は、自ら生じるのだ。行為に没頭せよ。そうすれば、お前に耐え難いほどの凄まじい力が生じるだろう。たとえわずかな仕事だとしても、それが他者のために為されるならば、内に力が目覚める。他者に対してほんのわずかな善なることを思うだけでも、徐々に獅子の力がハートに注ぎ込まれるのだ。わたしはお前たち皆を、本当に心から愛しているのだよ。だが、お前たちには、他者のために働きながら死んでほしいと思っている。――いや、むしろ、そうして死んでいくお前たちを、私は喜んで見たいと思っているのだ!」

 弟子「ならば、わたしを頼りにしている人たちはどうなるのですか?」

 スワミジ「自分の命を他者のために犠牲にするという覚悟がお前にあるのならば、神は彼らのために絶対にある資力を与えてくださる。ギーターにあるシュリー・クリシュナの『善を為す行為者は、おお愛する者よ、決して悲しみに陥ることはない』という言葉を読んだことはないか。」

 弟子「なるほど。」 

 スワミジ「欠くことのできないものは放棄である。――放棄なくしては誰も、他者のために働くことに自分の全ハートを注ぎ込むことはできないのだ。放棄をする者はすべてを平等の眼で見、すべての人々への奉仕に心血を注ぐ。われらがヴェーダーンタも、一切の者を平等で見るように説いていなかったか?――ならばなぜお前は、妻や子供だけが自分のもので、他者はそれ以下であるという考えを心に抱いているのだ? 貧しい乞食の姿で、ナーラーヤナご自身が餓えて死に瀕しているのだぞ! 彼に何も施さないで、お前はご馳走を出して自分の妻と子供の食欲を満足させるだけなのか? どういうことだ! 忌々しい!」

 弟子「他者のために働くことは時に大量の金額が必要となりますが、わたしはそれをどこで得ればよいのですか?」

 スワミジ「自分の力の範囲内のことをすればよいではないか。資金がないという理由で他者に何も施すことができないとしても、少なくとも、彼らに善なる言葉を伝えたり、善なる教えを授けたりすることは間違いなくできるだろう? それとも、それをするにも金が必要だというのか?」

 弟子「はい、師よ。それはわたしにもできます。」
 
 スワミジ「だがお前は、『できます』と言っておいてやらないだろう。お前がやれることを行動に移して、わたしに証拠を見せてみろ。それができたらわたしは、お前がわたしのところへ来たことが何かの利益になったと考えよう。
 立ち上がれ。そして本腰を入れて全力で精進するのだ!――この人生はあとどれくらい続くと思う? この世界に生まれてきたからには、何かのしるしを残して死んでゆけ。そうしないのならば、お前と木や石の間に何の違いがあるか? 木や石だって同じように、生まれ、朽ち、死んでゆくのだ。もしそれらのようにただ生まれて死んでいきたいのなら、それはお前の自由だ。お前のヴェーダーンタの学びが実りあるものとなったのだということを、行為によってわたしに見せてみろ。彼らに『あなたたち全員の中には、永遠なる力が宿っています』と伝え、それを目覚めさせてくるのだ。個人的な救済を得て何になるというのだ? それは全くの自己中心的考えだ。お前の瞑想など、放り投げてしまえ! お前の救済など投げ捨ててしまえ! わたしが自らを捧げたこの仕事に、お前の全身全霊を注ぐのだ。」

 弟子は固唾を呑みながら、人を奮い立たせるこれらの言葉に耳を傾けていた。そしてスワミジはいつものように、燃える炎のような力強い言葉を語り続けた。

 スワミジ「まずは土壌を築きなさい。そうすればいずれ、宗教を説き明かすために、何千ものヴィヴェーカーナンダがこの世に生まれてくるだろう。そのことについて心配する必要はない! お前は、なぜわたしが児童養護施設や飢饉救助などの仕事を始めたのかわからないのか? イギリスの淑女シスター・ニヴェーディターがインド人のために、下働きまでして、インド人に仕えることを学んだのを知らないのか? それなのにインド人であるお前が、同胞たちに仕えられないというのか? お前たち全員、伝染病や飢饉が発生するならば、あるいは人々が苦しんでいるならば、どこへでも行って彼らの苦しみを和らげてあげなさい。せいぜい、お前たちはその挑戦の渦中で死ぬだろう。――それが何だというのだ? 一体どれほどのお前のような人間が、毎日のように、ウジ虫のように生まれては死んでいると思う? 世界全体からしたら、それが何だというのだ? 死は必ず来る。だが、お前は命をかけてまで手にすべき偉大な理想を授かっているのだ。偉大なる理想と共に死ぬことは素晴らしいことだ。家々を回ってこの理想を説きなさい。そうすれば、お前はこの国を利することができると同時に、それによって自分自身が利益を得るだろう。お前にわれわれの国の未来の希望がかかっているのだ。わたしは怠惰な生活を送っているお前を見ると、猛烈な苦しみを感じる。仕事に取り掛かれ!――仕事に! 遅れてはならない!――死の時は日に日に迫ってきているのだ! すべては時がたてば達成されるだろうと考えて、のんびりしていてはならない! いいか!――そのようにしていては、何も達成されないぞ!」



「ヴィヴェーカーナンダとの対話」より
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「ヴィヴェーカーナンダがアメリカの少数の弟子に対して説いた教え」1895年6月26日

2017-04-27 22:14:31 | 経典の言葉・聖者の言葉


1895年6月26日(水)



 われわれの最高の仕事は為された。われわれの最も偉大な影響は、われわれが自己という考えを捨てたときに及ぼされるのだ。
 偉大なる天才たちは皆、これを知っている。
 さあ、唯一なる神聖なる行為者に、己をさらけだそう。「彼」に行為していだくのだ。自分では何もしてはいけない。

 完全に諦めなさい。完全に無関心になりなさい。そうしてのみ、あなたは真の仕事を行うことができるのだ。
 眼では真実の力は一切見ることができない。その結果しか見ることができないのだ。
 自己を追い出し、それを失い、それを忘れなさい。神にただ仕事をしていただくのだ。それは「彼」のお仕事なのだ。
 われわれには為すことは何にもない。それから手を引いて、神に仕事をしていただきなさい。
 われわれがそこから遠くへ離れれば離れるほど、神はますます中へと入って来られる。
 小さな「私」を取り除き、大きな「私」だけを住まわせなさい。


 われわれは、思考によって創られたのものだ。よって、考えることには気を付けなさい。
 言葉は二次的なものである。
 思考は生きていて、遠くに旅をする。
 われわれが行うそれぞれの思考は、われわれ自身の性格の影響を受けている。
 純粋で神聖なる人にとっては、冗談や罵りを口にすることでさえも、自分の愛や純粋性を歪んだものにしてしまう。
 だから、善を行いなさい。



 何も欲するな。神を思い、見返りを求めるな。無欲な者こそが結果を出す。

 托鉢修行者は、すべての家々にダルマをもたらす。しかし彼らは、自分は何もしていない、何も主張していない、自分の為すことは無意識で行われていると思っている。

 叡智の樹が蝕まれると、人はエゴイストとなり、彼らが行うすべての善はどこかに飛んでいってしまう。
 「私」と言うや否や、われわれは常に迷妄となり、それを「叡智」と呼ぶようになる。しかしそれは木に結ばれた去勢牛のように、ぐるぐるとまわりを回るだけだ。
 主は最高に上手に御姿をお隠しになる。彼のお仕事は最も善いものである。最高に上手に御姿を御隠しになっている彼は、最高のものを達成するのだ。

 サットヴァの状態において、われわれは事象のまさに本性を目撃し、感覚を超え、理性を超えて行く。

 われわれを閉じ込める堅固な壁は、エゴイズムである。われわれはすべてのものを自分自身に差し向け、私がこれやあれをやるのだ、などと考えている。
 この取るに足らない「私」を取り除きなさい。われわれの中にある魔性を殺しなさい。「私ではなく、あなたです」――このように言い、感じ、実行しなさい。
 エゴによってでっち上げられた世界を放棄しない限り、決してわれわれは、天の王国に入ることはできない。
 (エゴの世界を放棄せずに天の王国に入るなどということは、)かつて誰もなしたことはなく、これからも誰もなすことはないだろう。
 世界を放棄することは、エゴを忘却すること、つまりエゴを全く認知しなくなり、肉体の中に住みながらそれを全く認知しなくなることである。
 この下劣なエゴを、完全に消滅させなくてはならない。


 あなたを罵倒してきた人々に感謝しなさい。
 彼らがあなたにどんなに善きことを為しているのかを考えなさい。彼らはただ彼ら自身を害しているのだ。
 人々に嫌われる場所に行きなさい。彼らにあなたの中にあるエゴを打ちのめしてもらうのだ。そうすればあなたは主により近づくだろう。
 母猿のように、われわれは世俗という「赤子」を一生懸命抱き締めているが、遂には、われわれはそれを自らの足元に置き、踏みつけざるをえなくなる。そうして初めてわれわれは神の御許に行く準備ができるのだ。
 誠実のために苦しめられるのは、祝福されたことである。


 娯楽は、われわれが踏みつけなければならない百万の頭を持つ蛇である。
 娯楽を放棄し続けても、しばらくは何も見いだせず、失望するだろう。それでも放棄し続けなさい。放棄し続けなさい。
 世俗は悪魔だ。
 それは、取るに足らないエゴが王として支配する王国である。
 それを断固として放棄し続けなさい。
 愛欲、金、名声を放棄し、主にしがみつきなさい。そうすれば最後には、完全なる無分別の境地にわれわれは達するのだ。
 感覚を喜ばせるものは喜びをもたらすという発想は、全くの唯物論である。
 そこには真の喜びはほんのわずかなすらもない。そこにあるすべての喜びは、真の至福のただの反映でしかないのだ。

 己を主に明け渡した者たちは、いわゆる労働者たちよりもさらに世界のために仕事をする。
 完全に自己を浄化した者は、大量の牧師たちよりもさらに目的を達成する。
 純粋さ、そして寂静から、力強い言葉はやって来る。


「ユリの如くあれ。一所にとどまり、自らの花びらを広げ、蜂が自らやって来るユリの如くあれ。」

 ケシャブ・チャンドラ・センとシュリー・ラーマクリシュナは、素晴らしい対比である。
 後者は、この世にどんな罪も苦しみも決して認識しなかった。闘争の邪心もだ。
 前者は、道徳的な改革者であり、指導者であり、ブラフモー・サマージの創立者であった。
 十二年後、ドッキネッショルの静かな預言者は、インドだけではなく、世界を革命した。
 その力は、ただ生き、愛し、己の個性を引っ込めた寂静なる者たちと共にあるのだ。
 彼らは決して「私」や「私のもの」と言わない。彼らは、ただの道具になることにおいて、ただ祝福されているだけである。
 そのような人々は、永遠に生き、完全に神と自己を同一化し、理想的な存在であり、何も尋ねることなく、意識的には何もしていないキリストやブッダを創り出すのだ。
 彼らは真の行為者、ジーヴァーンムクタであり、完全なる無私であり、個性を吹き飛ばしてわずかな個性しか持たず、非実在の求道者である。
 彼らは皆、個ではなくて、ダルマそのものであるのだ。


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「ヴィヴェーカーナンダがアメリカの少数の弟子に対して説いた教え」1895年6月24日

2017-04-27 22:07:40 | 経典の言葉・聖者の言葉


1895年6月24日(月)
(今日の朗読は、ナラーダ・バクティ・スートラからであった。)



「神への極限の愛がバクティである。
 この愛は真に永遠であり、それを得れば人は完全なる満足を得、失うことに悲しみを感じなくなり、決して嫉妬することがない。
 それを知れば、人は狂ってしまうのである。」

 師はよくこうおっしゃっていた。

「この世は狂人たちの病棟だ。すべての人が狂っている。ある者は金を、ある者は女を、ある者は名声を追い求めている。神を求める者はわずかだ。私は神を求めて狂う方がいい。
 神はわれわれを一瞬にして黄金に変えてしまう賢者の石だ。形はそのままだが、本質が変化する。――人間の姿はそのままなのだが、もうこれ以上、われわれは人を傷つけたり、罪を犯したりできなくなるのだよ。
 神を思いながら、ある者は泣き、ある者は歌い、ある者は笑い、ある者は踊り、ある者は素晴らしいことを言う。しかし皆、神以外のことは話さない。」


 預言者たちは教えを伝道するが、ジーザスやブッダやラーマクリシュナのような化身たちは、宗教を与えることができる。
 一瞥、一触れだけで十分だ。
 それは聖霊の力――按手――である。その力は実際には師によって弟子に送られる――グルの御力の連鎖なのだ。
 それは真の洗礼であり、無数の時代に渡って伝えられてきた。


「バクティは、何か欲望を叶えるためには利用され得ない。それ自体が、一切の欲望を抑制する。」

 ナーラダは、愛の印としてこれらを説く。


「すべての思考、すべての言葉、すべての行為を主に明け渡すならば、神を少しでも忘れていることに人は強烈な悲しみを覚え、そこで愛が生じる。
 社会と聖典の習慣を超越した人、それがサンニャーシーである。
 魂全体を神に向けているならば、神だけに帰依しているならば、われわれはこの愛を今にも得ようとしているのだと知るのだ。」

 あなたが聖典なしでやっていくのに十分な強さを得るまでは、聖典に従いなさい。
 そしてそれらを超えて行くのだ。
 書物は究極の目的ではない。
 現証は、宗教的真理の唯一の証明である。それぞれが自分自身のために現証しなければならない。そして「私は見た。しかしあなたは見ることができない」と言う教師は信用してはならない。「あなたも見ることができる」という教師だけを信用しなさい。
 すべての聖典は、すべての真理は、いつのときも、どんな国においても、ヴェーダである。それらの真理は見られるべきものであり、誰でもそれらを見出すであろうから。


「愛という太陽が地平線に現れると、われわれはすべてを神に明け渡したいと感じる。そして一瞬でも彼を忘れることは、われわれを大いに悲しませる。」

 神とあなたの彼への愛との間に、何も介在させてはならない。
 彼を愛しなさい。彼を愛しなさい。彼を愛しなさい。そして世間には、言わせたいように言わせていくがよい。
 愛には三つの種類がある。
 ――一つ目は、自分は要求するが、相手には何も与えない愛。
 二つ目は、ギブアンドテイクの愛。
 三つ目は、何の見返りも求めない愛だ。炎に飛び込む蛾のように愛しなさい。


「バクティヨーガは、カルマヨーガやジュニャーナヨーガやラージャヨーガなどよりも優れている。」

 行為は行為者にとっての訓練の場でしかない。他者にとっては何も善いことはない。
 われわれは自分自身の問題は自分で解決しなくてはならない。預言者はわれわれに、どのように行為するのかを示すだけだ。
 
「あなたはあなたが思うものになる。」

 だから、あなたがジーザスに自分の重荷を差し出すならば、彼を思わなくてはならない。そのようにして、あなたは彼のようになる。あなたは彼を愛している。

「極度の愛と最高の叡智は同じである。」

 しかし、神について理論立ててはならない。われわれは彼を愛し、行動しなければならない。
 とりわけ「苗木」が若いうちに、世界とすべての世俗的なものを放棄しなさい。
 昼も夜も神を思いなさい。できる限りその他のことは考えてはならない。
 日々の必要な思考は、すべて神を通じて行なうとよい。
 神のために食べなさい。
 神のために飲みなさい。
 神のために眠りなさい。
 すべての中に神を見なさい。
 他者には神の話をしなさい。
 これらは最も有益である。

 神と、神の最も偉大なる子供たちの御慈悲を獲得しなさい。それらは、神に至る二つの最高の方法である。
 その光の子供たちとの交わりは、非常に得難い。彼らとの5分間の交わりが、全人生を変革させる。あなたが本当にそれを切に望めば、それはあなたの前に現れるだろう。
 神を愛する人々の存在は、場を神聖にする。

「そのようなものは、主の子供たちの栄光なのだ。」

 彼らは主である。そして彼らが話す言葉は聖典なのだ。
 彼らがいた場所は彼らのヴァイブレーションで満たされ、そこに行く者たちは彼らを感じ、そして神聖になるための傾向を得るのだ。

「そのようなバクタにとっては、カースト、学識、美しさ、生まれ、豊かさ、職業において違いはない。なぜならば、すべては『彼』だからである。」

 すべての悪友を放棄しなさい。特に最初の頃は。
 世俗的な交わりを避けなさい。それはあなたの心を乱すだろう。
 すべての【私】と【私のもの】を放棄しなさい。
 宇宙に何も持たない者のところに、主は来られる。
 すべての世俗的な愛着の束縛を断ちなさい。
 怠惰を超えて行け。
 決して自分の為したことを見ようと振り返ってはならない。
 すべてを主に明け渡し、それについては考えてはならない。
 魂全体が、神への不断の流れに流れ込み、金や評判、名声を探し求める暇はなくなり、神以外のことは何も思わない。そして魂全体が無限の素晴らしき愛の至福に入る。
 神への愛は一瞬一瞬増大し、常に新しい。それは感じることによってのみ、知ることができる。
 愛はすべての中で最も容易いものである。それは論理性を必要とせず、生来的なものなのだ。
 われわれには証明も裏付けも必要ない。
 推論とは、自身の心によってあるものを限定するものである。
 われわれは網を投げて、あるものを捕まえる。そして「われわれはそれを証明したのだ」と言う。しかし決して、絶対に、網で神を捕まえることはできない。

 愛とは、同類愛であってはならない。
 誤って愛を抱いてしまったときでさえ、それは真の愛であり、真の至福なのだ。われわれがどのようにそれを使ってみても、その力は同じものなのである。
 その本質はまさに平安と至福である。
 殺人者だって、自分の子供に口づけするときには、一瞬にして愛以外のすべてを忘れてしまうだろう。
 すべての自己、すべてのエゴイズムを放棄しなさい。怒り、愛欲から離れなさい。すべてを神に明け渡しなさい。

「私は存在せず、汝だけが在るのです。年寄りは皆去っていった。汝だけがとどまり続けるのです。」

「私は汝である。」

 誰も非難してはならない。障害や苦難がやってきても、それは主があなたと遊んでいるのであり、たいそう喜んでおられるのだと知りなさい。

 愛は、時と空間を超越している。それは絶対的なものなのだ。

 
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善い行ない

2017-04-25 21:46:02 | 経典の言葉・聖者の言葉

ウダーナヴァルガ


第七章 善い行ない

 身体に過ちを犯さないように、まもり落ち着けよ。身体について、慎んでおれ。身体による悪い行いを捨てて、身体によって善行を行え。
 ことばで過ちを犯さないように、まもり落ち着けよ。ことばについて、慎んでおれ。ことばによる悪い行いを捨てて、ことばによって善行を行なえ。
 心で過ちを犯さないように、まもり落ち着けよ。心について、慎んでおれ。心による悪い行ないを捨てて、心によって善行を行なえ。
 身体による悪い行ないを捨て、ことばによる悪い行ないを捨て、そのほか汚れのつきまとうことを捨てて、
 身体によって善いことせよ。ことばによって大いに善いことをせよ。心によって善いことをせよ。――汚れのさまたげの無い、無量の善いことを。
 身体によって善いことを為し、ことばによっても心によっても善いことをするならば、その人はこの世でも、またかの世でも幸せを得るであろう。
 生きものを傷けることなく、つねに身体について慎んでいる聖者たちは、不死の境地におもむく。そこに至れば悩むことがない。
 聖者は実に生きものを傷けることなく、つねにことばについてよく慎んでいる。かれらは不死の境地におもむき、そこに至れば悩むことがない。
 聖者は実にひとを傷つけることなく、心についてつねに慎んでいる。かれらは不死の境地におもむき、そこに至れば悩むことがない。
 落ち着いて思慮ある人々は身をつつしみ、ことばをつつしみ、心をつつしむ。かれらはあらゆることに慎しんでいる。かれらは不死の境地におもむく。そこに達したならば、悩むことがない。
 身について慎しむのは善い。ことばについて慎しむのは善い。心について慎しむのは善い。あらゆることについて慎しむのは善いことである。あらゆることがらについて慎しむ修行僧はすべての苦しみから脱れる。
 (悪いことを言わぬように)ことばを譲り、心でよく慎しみ、身体で悪いことをするな。この善き行為の道を浄めて、聖者の説きたまうた道を体得せよ。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第66話」

2017-04-25 21:14:21 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第66話」です。
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今日のAMRITAチャンネル「キールタン・イメージビデオ」

2017-04-24 22:57:37 | 今日のAMRITAチャンネル

今日のAmritaチャンネルは、「キールタン・イメージビデオ」です。



曲目

1.アヴァターラ
2.Om Namah Shivaya
3.Hanuman Chalisa&あなたの愛に
4.Jay Jay Shiva Shambo
5.ハヌマーン
6.Jay Jay Ma Durga
7.無限の恩寵
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今日のAMRITAチャンネル「勉強会講話より『簡潔・解脱への道』」

2017-04-24 01:36:38 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「勉強会講話より『簡潔・解脱への道』」です。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第20話 前編」

2017-04-21 22:17:06 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第20話 前編」です。
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パドマサンバヴァの秘密の教え(60)「六つのパーラミターの修習」

2017-04-20 20:46:47 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎六つのパーラミターの修習


 師パドマはこう仰った。

「ダルマを修習しているとき、六つのパーラミターによって修習せねばならない。」


 ツォギャルは尋ねた。

「どのようにそれを修習するのでしょうか?」


 師はこうお説きになった。

「一.出し惜しみせず、どんな偏見も心に抱かないなら、それは布施のパーラミターである。

 二.煩わしい感情を巧みに手放したら、それは戒のパーラミターである。

 三.怒りや憤慨から完全に自由になれば、それは忍耐のパーラミターである。

 四.怠惰でも不活発でもないとき、それは精進のパーラミターである。

 五.瞑想から逸れず、その味にも執着しないとき、それは瞑想のパーラミターである。

 六.構成概念からまったく自由であれば、それは智慧のパーラミターである。」
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努力せよ

2017-04-19 16:48:19 | 松川先生のお話


 バナタ、バナタ、バン・ジャイ
 (努力せよ、努力せよ。そうすればいつかは神の目標に達する。)


 ――ラヒリ・マハーシャヤ

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そのとき誰が

2017-04-19 05:06:48 | 経典の言葉・聖者の言葉





 スワミジは続けた。

「おまえは今までずっと彼の恩寵を受けてきたではないか。そうでなければいったい、どうしてここにいるのか。シュリー・ラーマクリシュナはよくおっしゃっていた。

『神の恩寵を受けている者は、どうしてもここに来てしまう。彼らは、どんなとき、どんなことをしていようとも、ここから発せられる言葉や感情に必ず影響される。』

 ここでおまえ自身のことを考えてみると、もし神の恩寵がなければ、神の恩寵の力によって魂の完成に至り、この恩寵が真に意味していることを知るに至ったナーグ・マハーシャヤと運良く会うことがおまえにできたと思うか?

『厳しい修行を積み重ねることによって、ヨーギーはすべての罪汚れを清め、
 幾多の誕生を繰り返した後、ついに至上の目的地に着くこととなる。(ギーター六、四五)』

 数多くの生まれ変わりを通じて獲得した立派な宗教的価値ある善行があったからこそ、彼のような偉大な魂に巡り会うのだ。文献で述べられているような、すべての高いレベルの典型的なバクティは、ナーグ・マハーシャヤに現われている。『草の茎よりもさらに謙虚な』と広く引用されている言葉を実際に実現しているのは彼だけである。おまえの東ベンガルは、ナーグ・マハーシャヤの足に触れることによって本当に神聖になったのだ。」

 このような会話をしばらくした後、スワミジは偉大な劇作家であるバーブ・ギリシュ・チャンドラ・ゴーシュを訪ねた。スワミ・ヨーガーナンダと弟子は彼について行った。ギリシュ・バーブのところに到着し、スワミジは座って言った。

「あなたはお分かりだと思いますが、最近、シュリー・ラーマクリシュナのメッセージなどを世界に広く伝えるために、ああすべき、こうすべきといった考えが常に頭に浮かびます。けれども、この一連のことは、インドにもう一つの宗派を形成することになるのではなかろうかと、もう一度よく検討するために先には進めていません。ですから、細心の注意を払いながら実行しなければなりません。宗派が形成されてしまったらどうしようか、と考えることもあります。一方、その後には再び『そんなはずはない』と思い直します。シュリー・ラーマクリシュナはいかなる者の霊性の見解であろうと、決して否定されることはなかった。それは、いつも内なる唯一者を見ていたからです。私もいつもこの考え方に基づいて、自制しています。これについて、あなたはどう考えますか?」

 ギリシュ・バーブ「この件に関して、私に何が言えましょうか。あなたは彼の手の中にある道具です。あなたは、ただ彼が望むことをなせばよいだけなのです。私は細かいことは心配していない。しかし、主の力があなたを通じて働こうとしていることは分かります。これは日光を見るように明らかです。」

 スワミジ「しかしわれわれは、物事を自分の意志に基づいて行なっていると思っています。ただし、不幸や逆境のとき、貧乏や貧困のときには、彼が姿を現わし、正しい方向にわれわれを導くということを、私は理解しています。しかし残念ながら、私はまだ彼の御力の偉大さを、いかなる方法によっても理解できていません。」

 ギリシュ・バーブ「そう。彼はおっしゃっていた。
『おまえがそれを完全に理解してしまえば、すべてのものは瞬く間に消滅してしまう。そのとき、誰が働き、誰が働かされるのか?』
と。」


(「ヴィヴェーカーナンダとの対話」より)
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