ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

「すべては至高者の中に」

2017-03-31 22:26:40 | 解説・バガヴァッド・ギーター



◎すべては至高者の中に

【本文】
 私は万物の永遠の種子であり、
 智者の中の智力であり、英雄の持つ勇壮さであることを知るがいい。

 私は、愛欲愛著から超然とした、強者の持つ真の強さであり、
 ダルマを決して犯さぬ意志でもある。バーラタ族の王子よ!

 サットヴァ、ラジャス、タマスの三性質からなるいかなる状態の自然万有であろうと、
 すべて私のエネルギーから現われてくるが、私はその中にはなく、私の中にそれらがあることを知るがいい。


 はい。これも分かるね。さっき言ったプラクリティ。正確にいうと、このプラクリティから、サットヴァ・ラジャス・タマスっていう――よく出てくるね――三つのタイプのエネルギーが生じ、この三つのタイプのエネルギーの混ざり合いによって、万物が現われるんだけども。この三つのエネルギーからすべてが生まれるんだが、当然このバガヴァーン・至高者はその中にはないと。逆に至高者の中に、この三つのエネルギーがあるんだよっていう説明ですね。




◎三つのグナからなる幻影

【本文】
 世の人々は、三つのグナから形成された万有に幻惑され、
 私がこれら三つのグナを超越した無限不滅の存在であることを知らない。

 世の人々が、これら三つのグナからなる幻影に、惑わされずにいることは非常に難しい。
 だが私にすべてをゆだねて帰依する人は、簡単にその危難を乗り越えられるであろう。

 だが無智なる者、悪をなす者、最低の者、
 幻影に惑わされ魔の性質を持つ者たちは、決して私に帰依しようとはしない。

 だが、アルジュナよ! 苦悩を持つ人、探究心が強い人、幸福を求める人、完全なる叡智を求める人、
 これら四種類の人たちは、私を心から礼拝するのだ。バーラタ族の中で最も優れたる者よ!



 はい。これはまず、
「世の人々は、三つのグナから形成された万有に幻惑され、私がこれら三つのグナを超越した無限不滅の存在であることを知らない。
 世の人々が、これら三つのグナからなる幻影に、惑わされずにいることは非常に難しい」
と。
 こないだもね、ちょっとたとえ話をしたけども、マーヤーの話ってしたよね。クリシュナの弟子がマーヤーに巻き込まれる話って、前したけども。われわれはだから、この時点でもう巻き込まれてます(笑)。われわれはものすごい秘密のチャンスを握っているんですね。秘密のチャンスっていうのは、夢の中にいながら、夢から覚めるきっかけとなる夢を見てるんです、今(笑)。でも決して目覚めているわけではない。もちろん世の人々もみんなそうで。それはこの三つのグナが織り成す幻影の中に、完全に巻き込まれてしまってる。われわれはその幻影から心が外れてないから――外れてたらね、客観視できるわけですよ。「あれ? これ三つの幻影があるけど、これ本物かなあ。あ、こっちクリシュナだなあ」――そういう見方もできるんだけど、じゃなくて入っちゃってるから(笑)。いつも幻影の中に完全に巻き込まれてるから、これを超えた至高者、バガヴァーンっていうのを認識したりとか、それを悟ったりっていうのは非常に難しいんだよと。これは当たり前のことだね。もうその幻影の中に完全に取り込まれてしまっている。
 でもね、われわれがね、その幻影の中にいながら、こういったギーターにめぐり合う。あるいはそこで、言葉上だけども真実――「言葉にできない真実を一応言葉にしたもの」を学べるっていうのは、これはまさにサットヴァの働きなんです。
 これは前も言ったよね。ラジャス・タマス・サットヴァっていう三つのエネルギーによって、すべての幻影の世界が現われてるんだけど、三つとも幻影の世界なんだけど、このサットヴァだけは、幻影なんだけどいいやつなんです(笑)。幻影なんだけど、われわれを真実に導く幻影なんだね。これは理解しておいたらいいね。
 この辺が非常に面白いところだね。この三つっていうのは、すべて幻影なんだが、サットヴァがないとわれわれは悟れない。サットヴァっていうのは透明なエネルギー。それから光のエネルギー。この光とか透明さっていうのがないと――つまり、サットヴァそのものは悟りじゃないんです。真理そのものじゃないんです。しかしこのわれわれの心を透明にし、光を強めてくれるサットヴァっていう存在がないと、あっち側にある真理っていうのを、われわれは見ることができない。でもサットヴァもまた、この世のマーヤーの一つに過ぎないことは変わりない。
 はい、そして、「世の人々が、これら三つのグナからなる幻影に、惑わされずにいることは非常に難しい」んだが、「私にすべてをゆだねて帰依する人は、簡単にその危難を乗り越えられるであろう」と。
 これがつまり秘儀なわけですね。バクティ・ヨーガの秘儀。
 バクティ・ヨーガの秘儀っていうのは、結局帰依なんだね。結局、至高者――完全なる、これはさっき言ったように、仏教でいう如来でもいいし、ヒンドゥー教のクリシュナでもいいし、シヴァ神でもいいんだけども、完全なる絶対者――に対して、自分のすべてを預けられるか、投げ出せるかなんだね。
 結局、そこで生じる智慧っていうのは、与えられるものなんだね。われわれがああだこうだ考えて到達するっていうよりは、われわれが絶対者に自分を投げ出したときに与えられるもの――それが智慧なわけだね。完全な智慧というか。




◎至高者を心から礼拝する人


 はい、しかし、「無智なる者、悪をなす者、最低の者、幻影に惑わされ魔の性質を持つ者たちは、決して私に帰依しようとはしない」と。世の中のほとんどはこうだね。
 「だが、アルジュナよ! 苦悩を持つ人、探究心が強い人、幸福を求める人、完全なる叡智を求める人、これら四種類の人たちは、私を心から礼拝するのだ」と。
 この四つのパターンの人っていうのは、もちろんこれらが全ていきなりクリシュナを礼拝するわけじゃないけども。例えば一番目、苦悩を持つ人。これはまさにね、仏教、原始仏教のパターンだね。お釈迦様は、いつも言うように、お釈迦様が悟って一番最初に説いた教えっていうのは、「この世は苦ですよ」と。
 これは非常に深い意味があってね――前も言ったけど、私、小学校のころにお釈迦様の「漫画・四諦八正道」とか読んで(笑)。それはお父さんが買ってきたんだけどね。自分としても別に修行とか仏教とか興味なかったけども、でも悟りってなんか興味があったんです。「悟りって何?」と。「なんか曖昧に悟りとかよく言うけども、なんだろう」と。それを見て読んでたら――お釈迦様が悟りましたと。人々に教えを説きましたと。この世は苦ですよと――「え? 何それ?」と(笑)。「それ悟り? わけ分かんないな……」って(笑)、子供のころ思った経験があって。ただ自分がいろいろ修行を進めていったら、「あ、なるほど」ってだんだん分かってきた。つまり、この世は苦なんです。まさにね。それを認識できること自体が素晴らしい悟りなんだね。
 これは、いろんな形でみんなにも何回も言っているけども、この世でのわれわれの経験っていうのは、当然苦楽があるわけだね。で、苦楽があるっていうのは、苦なんです(笑)。それはいくつかの説明をしたけどね。
 例えばこないだの勉強会で出てきたけども、われわれっていうのは皮膚病の患者みたいなものだと。皮膚病を掻かなければ治って、完全に楽になるんだけど、皮膚病を掻いてしまうと。この掻く喜びを追い求めているようなもんであってね。この皮膚病が、掻いた時に気持ちがいいと。「だから、この世は楽でしょう?」――これがわれわれが言っている「楽」なんです(笑)。違うよと。皮膚病自体がちょっと問題なんだよと。だから皮膚病なんだよっていうことを知ることが、お釈迦様が第一に説いた、この世は苦ですよっていうことなんです。この世の楽――われわれが普通に楽って呼んでいるものっていうのは、苦をちょっとごまかしたときの楽なんです。絶対的な楽じゃないんだね。ベースに苦があって、それを誤魔化しているときの楽なんです。
 だからこれはちょっと、ある意味では高度な悟りなんだね。そこまで悟ってなくても、これは一つの修行に入るパターンではある。つまり、いろんな苦を感じて、しかしそこでね、心が苦しみによって卑屈になる人もいるだろうし、あるいはちょっとニヒリスティックに、「いやあ、この世はこんなもんだよ」ってなる人もいるだろうけど――そうじゃなくて、お釈迦様みたいに、「いや、なんてこの世は苦なんだ」と。「しかし私はここから、何とかして逃れる道があるはずだ」と。「この苦を超えたい」って思う人がいる。これが第一番目のパターンね。この「苦悩を持つ人」。
 だから単純に苦悩を持つ人がみんな、クリシュナを礼拝するわけではない。苦悩を持って、この世の苦の真実っていうのを、まがりなりにもちょっとでも気づいて、そこから脱出したいと思う人ね。これが第一だよと。
 お釈迦様の縁起の法でも――縁起の法っていうのは面白くて、まず無明から始まって、無明・行・識・名色……ってずっと続いていくわけだけど、最終的に最後に「苦」が来る。つまりわれわれが錯覚によって宇宙に巻き込まれ、いろんな執着を持ったり怒りを持ったりして、わーって巻き込まれて、最終的にこの世に生まれて苦を味わいますよと。まずここまではあるんだけど、この続きがあるんだね。 苦を持ったわれわれは、信を持つっていうんです。信。つまり教えに信を持つ。信を持って、悦・喜・軽安・楽とかそういう段階を踏んでいって、最終的にまた悟りを得るっていうシステムがある。つまりどういうことかっていうと、これも何回か言ってるけども、例えばこの宇宙に錯覚をもってわーって飛び込んできた初めのころの人っていうのは、この宇宙にまだ多くの喜びの幻影を抱いてる。「この世は楽しいんじゃない?」って思ってる。その人生を七十年八十年と生きて、その中で幻影を追い求めてるから、本当は結構苦しいこともいっぱいあるんだけど、「でも、まあ楽しかったかな」って思って死んでいくと。これを何度も何度も繰り返すうちに、魂の経験として、「やっぱり苦しいな」っていうのが分かってくる。「なんか違うな」と。「え? ちょっと待って」と。「私はそんなものはいらないな」っていう――つまり、われわれの心の本質っていうのは絶対的な――ヨーガ的にいうとサチダーナンダっていうわけだけど――魂が本質的に持っている素晴らしい状態っていうのを知ってるんだね。知ってるんだけど、錯覚によって、この宇宙が素晴らしいと思って飛び込んじゃった状態。その錯覚がだんだんさめてくるわけです。いろいろ経験してるとね。最終的に、悟ってはいないんだがいろんな経験したから、少なくともこの世は苦しいって気づいてくるんです。
 この世は苦しいって、散々いろんな経験して気づいた人がやっと、「何かないか?」と。「何かここから脱却する道はないか」といって、教えに信を持つんです。これが「苦を条件として信が生ずる」っていうんだね。つまり、単純にまだいろんな幻影を追い求めているから私は苦がないんですよと。いや、それは経験が足りないだけだと。本当に経験しきっている人っていうのは、あまりこの世のものに興味を持たなくなる。あるいは逆に苦悩を感じるようになってくる。これはいい意味でね。カルマが悪くて苦悩を感じるんじゃなくて、もう前生でひたすら経験してるから、確かにそれは喜びでもあるんだけども、それが同時に持つデメリットもよく知っている。あるいはその空しさとかもよく知っている。よく知っているっていうのは、心の奥でよく知っている。だからあまりそういうのに興味を持たなくなって、それを超えた道というのを探し出す。これが「苦を条件として信が生ずる」だね。
 この苦悩を持つ人っていうのは実際は、言い換えると、過去世において多くの人生経験をなし、この世のさまざまなデメリットに気づいちゃった人――という意味だね。
 はい、では二番目は「探究心が強い人」。これはさっき言った、真実は何なんだろうかと。ね。一体真理とは何かと。人間とは死んだら一体どうなるんだろうかと。われわれの存在とは一体何なんだろうと――こういうことをね、単純に本を読んだとか、あるいは教わったとか、この世の常識とかに惑わされるんじゃなくて、「実際にわれわれは、リアリティをもってそれを知りたいんだ」と。このように思う人だね。こういう人も真剣に修行の道を歩むようになる。
 はい、そして「幸福を求める人」。これはさっきの「苦悩を持つ人」と裏腹だけども、つまり、単純なこの世の幸福では飽き足らない――つまり現世的な目から見ると、修行者っていうのは、いつも思うけど、ある意味欲張りなんだね。これは錯覚する人がいるんだけど、修行者っていうのは幸福をあきらめたのかと――そうじゃないんだね。こんな幸福じゃ足りないと(笑)。ね。普通の人が求めるような幸福っていうのは、多くのデメリットがあって、それから限界もあって、無常性があると。そんなのでは私は満足できないんですよと。普通はね、「いや、そんなの当たり前でしょう。人生そんなもんですよ」って感じであきらめるんだけど、あきらめられなかった人。「いや、絶対、本当の幸福があるでしょう」と。「私、そんな気がしますよ」と。「隠さないで教えてください、神様」と(笑)――これが、修行者なんだね。これが三番目のパターンだね。
 はい、最後に、これは探究心とかとも関わるけども、「完全なる叡智を求める人」。つまり私は悟りたいと。ね。しかもそれは単純な、ちょっと修行して気持ちよくなったとか、そんなレベルじゃなくて、全知――つまり、完全なる覚醒を私は得たいんだと。そういう素晴らしい志を持つ人。
 この四つのタイプの人は、私を心から礼拝する――つまり、単純に形式的な修行とか宗教とか教えに満足するんじゃなくて、絶対的な存在――バガヴァーン、あるいは至高者――この絶対者のところに必ずたどり着くんだね。そしてその重要性というかな、素晴らしさというものを直感的に悟り、礼拝するようになると。


コメント

今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第18話 後編」

2017-03-31 15:02:47 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第18話 後編」です。
コメント

カトク・ケンポ・ンガワン・パルサンの生涯(3)

2017-03-31 06:32:51 | 聖者の生涯



 ンゴンドのグルヨーガの前に、彼はニョシュル・ルントクの主要な弟子の1人であるラマ・アトプから二巻のロンチェン・ニンティク・サイクルのアビシェーカを受け取りました。彼の師であるパトゥル・リンポチェと同様に、ニョシュル・ルントクも全生涯でほんの数回だけしかアビシェーカを与えませんでした。ルントクはケンポに、一般的なロンチェン・ニンティクと特別なグルヨーガの指導を与えました。


 ケンポはシッディマントラを3000万回唱え、敬意の動きを伴った礼拝を10万回行ないました。
 ケンポがニョシュル・ルントクから教えを受け取り始めたときから、彼は師を普通の存在であると思ったことは一瞬たりともなく、常に完全な悟ったブッダとして見ました。また、彼は自分の法の兄弟姉妹の誰に対しても、不適切に話したことはありませんでした。

 ンゴンド修行のあいだ、彼の心が無思考の状態に溶け込み、一切の客観的な現われが溶解しました。彼の師はその重要性を最小限に抑え、こう言いました。

「それは普遍的な領域、つまり中立的な状態だが、悟りの本性ではない。」


 グルヨーガの修行の後、ルントクは彼に三つの根本経典と他の多くの経典を含むタントラに関する詳しい教えを与えました。ケンポは49日間のリンジン・ドゥパに関する厳しい読誦の隠遁修行を行ないました。彼は生成の段階において大いなる透明性に到達し、シッディ・マントラを1000万回、そしてリクジン・チティル・マントラを1億回唱えました。
 その後、ユムカ・デチェン・ギャルモに関する一か月間の隠遁修行を行ない、昼夜休むことなく修行しました。彼は努力なくマントラの音の力を聞くことができました。そして彼は神々や普通の現われのヴィジョンが心によって作り出された幻影や記号表示に過ぎないという並外れた悟りを得ました。


 20歳のとき、ルントクの強い勧めに従って、アトプから僧としての完全な受戒の誓いを得ました。その後、彼は253の僧の誓いのすべてを守り、自分のために一切余分なものを持ちませんでした。彼がダルマの奉仕や他者のために何かしら余分なものを持つ必要ができたときは、トゥレン(ドゥス・ダン)、パンチェン・ロブサン・チョギェンによって書かれた“目的の念正智”を人に思い出させるための定型句を唱えてから初めてそれを手にしました。
コメント

カトク・ケンポ・ンガワン・パルサンの生涯(2)

2017-03-31 06:14:39 | 聖者の生涯


 彼が2歳のとき、彼の父は彼をギャドゥク隠遁所のニョシュル・ルントクのところへ連れて行きました。ルントクは彼を見て大歓喜を露わにし、祝福を与え、贈り物をしました。


 彼が5歳のとき、彼の家族は洪水のために大きな困難に直面していました。そんなある日、彼は小枝をキーラの形にし、こう言いました。

「私がインドでヴィマラミトラだったとき、
 ガンガーを逆流させました。
 渓谷の川には何の問題もありません。
 お母さん、大いなる驚きを見てください。」

 そのとき、彼が川にキーラを向けながらヴァジュラキーラのマントラを唱えると、川はまるで嵐によって押し上げられたかのように、その流れを変えました。


 7歳のとき、彼の叔父は彼に祈りの経典を読むように言いました。彼の叔父が彼にその一節を教えると、彼は叔父の後を繰り返さずに、その次の節を口にしました。彼の叔父は怒ってこう言いました。

「なぜお前は飛ばしているんだ? お前はその節を理解していないではないか。」

 その後、彼はゆっくりと学び、20日かけて祈りの最初のページを覚えたように見えたので、叔父は満足しました。
 しかしそれから後のある晩、その子はうとうととしながらサンポ・チョパを全部を読みました。これを見て、彼の叔父は、自分が尋常ではない人物と関わっているのだと気づきました。叔父が彼のところに多くの新しい経典を持ってくると、ケンポはそれら全部を難なく読みました。叔父は彼にもう経典を読むレッスンをするのをやめました。


 8歳のときから、彼は多くのラマから教えとアビシェーカを受け取り始めました。15歳のとき、彼はケンチェン・ギャルツェン・オーセルによって見習い出家者として認められ、ニョシュル・ルントクは彼に誓いを守ることの大切さをアドバイスしました。

 
 彼はニョシュル・ルントクと一緒にペマ・リトゥと呼ばれる隠遁所へ移りました。そこで彼はルントクからンゴンド(前行)の詳しい指導を受け取り、ンゴンドの規定回数を完了しました。ンゴンドのマンダラ供養の修行の間に、彼は夢でロンチェン・ラブジェムを見ました。ロンチェンパはケンポの頭に水晶を載せながらこう言いました。

「ああ! 心の本性は悟りの心なのだ。ああ!
 ああ! 大いなる空はサマンタバドラの領域なのだ。ああ!
 ああ! 開放性、つまり生来的な覚醒はダルマカーヤなのだ。ああ!
 ああ! 5つの光から一切のものが生起するのだ。ああ!
 ああ! 生来的な覚醒の本性は、見解や瞑想を超越しているのだ。ああ!
 ああ! 今日それらがあなたの心に確立されますように。」


 献身の力のために、ケンポはしばらく衰弱しました。彼の祭壇のロンチェン・ラブジェムの像からは舎利が出てきました。ニョシュル・ルントクは、他の者にこのように言いました。

「ケンポは今世紀のヴィマラミトラのトゥルクでしょう。なぜなら、ヴィマラミトラは、ニンティクの教えを広めるために毎世紀チベットに主要な転生者を送ると約束したからです。」
コメント

カトク・ケンポ・ンガワン・パルサンの生涯(1)

2017-03-29 17:13:49 | 聖者の生涯


カトク・ケンポ・ンガワン・パルサンの生涯
   1879-1941



 カトク僧院のケンポ・ンガワン・パルサンは、今世紀の最も優れた著作家、教師、そしてロンチェン・ニンティクの伝達者の一人でした。彼はヴィマラミトラのトゥルク(転生者)として知られており、ロンチェン・ラブジェム2世と言っても言い過ぎではありません。


 彼はケンポ・ンガワン(ンガクの息子)としてその名が知られ、多くの著作の中で、自身のことをオーサル・リンチェン・ニンポ・ペマ・レデルツァル、またはペマ・レデルツァルと記しています。


 私はここでケンポの自伝、ンゴツァル・ギュメ・ロルガル(驚くべき魔術劇)の短い要約を記します。


 
 ケンポはラブジュン15世の地の兎の年(1879年)の10番目の月の10日目に、虹や空からの音楽という素晴らしいサインの中で生まれました。彼の父はニョシュル部族のナムギャルで、母はジュワ部族のペマツォでした。


 彼の昼夜は驚くべき光、経験、ヴィジョン、神々との会話でいっぱいでした。彼の誕生の三日目に、彼は瞑想の姿勢で座り、ヴァジュラキーラのマントラを唱えました。
 最初の冬を迎えたとき、凍てつくような天候の中、彼は母と一緒に眠っていました。しかし、彼が精神的なエネルギーを通じて多くの熱を起こしたので、彼女は一緒に眠ることができませんでした。母はこう言いました。

「あなたは何なんだい、悪魔の子かね?」

 するとその子はこう歌いました。

「私は東のラタンの方角からやって来ました。
 私はエネルギーや熱を自分でコントロールします。
 私はグヒャサマージャの悟りを成就しています。
 もしあなたに私の見分けがつくならば、私はアラク・リクダです。」

 これを聞いて、彼の母はこう言いました。

「あなたは誰なんだい? 黙っててちょうだい。」

 彼の両親や親戚たちは、この変わった子供のことを心配し、彼が見せる奇跡を他者に秘密にしようとしました。
コメント

今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第62話」

2017-03-28 20:45:46 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第62話」です。
コメント

モトゥルナート・ビスワスの生涯(6)

2017-03-28 09:38:30 | 聖者の生涯


 シュリー・ラーマクリシュナが特別な霊的修行に取り組みたいと願ったときにはいつでも、その修行の熟練者や教師がドッキネッショルを訪れて彼を助けたことは、実に驚くべきことだ。それと同時にモトゥルは、師がそれらの儀式の実行や聖典の教えに則った霊的修行ができるように、必要なあらゆる品物を供給し、底なしに援助した。シュリー・ラーマクリシュナがマドゥラ・バーヴァ(クリシュナへ信愛を持つラーダーと自分を重ね合わせる霊的修行)の修行をお始めになったとき、彼はモトゥルに女性の衣服をお求めになった。モトゥルはヴァーラーナシーから取り寄せたかわいらしく高価なサリー、スカーフ、スカート、また女性用の胴着を師へ差し上げた。仕上げに、モトゥルは彼を一揃いの黄金の装飾品とウィッグで飾った。言うまでもなく、この奇妙な師のサーダナーはいくつかの不祥事を引き起こしたが、二人ともそれを無視した。
 シュリー・ラーマクリシュナは六か月の間、女性の衣服を身に着けられ、またこの期間、彼の歩き方や話し方、身振り、そしてほんのささいな行動でさえ実に女性とそっくりなのを見て、人々は驚いた。あるとき、モトゥルはシュリー・ラーマクリシュナをカルカッタのジャンバザールにある彼の自宅にお連れした。親族の女性たちは師を大変愛しており、すぐに自分たちの住む部屋へお連れした。モトゥルはそれからフリダイをその女性の部屋に連れてきて、女性たちの中にいる彼の叔父を見つけるように求めた。フリダイは彼と共に住み、毎日彼に奉仕をしていたにもかかわらず、なかなか叔父を特定することはできなかった。

 師がこの修行を完成なさってから少しあと、ヴェーダーンタの不二一元論の一派の、悟りを得た僧であるトータープリがドッキネッショルを訪れ、シュリー・ラーマクリシュナにサンニャーサ(出家修行者)のイニシエーションを与えた。三日のうちに師はヴェーダーンタの最高の経験であるニルヴィカルパ・サマーディに達した。
 師は同様にスーフィーのゴーヴィンダからもイニシエーションをお受けになり、アッラーの御名を繰り返された。三日もしないうちにイスラム教神秘主義の目的を実現した。この特別なサーダナーの期間中、シュリー・ラーマクリシュナはヒンドゥー教の神々や女神の絵をごらんにならなかった。彼はアラブ人のイスラム教徒のような服を着られ、日に五回、イスラム教の祈りをお唱えになった。しかし彼がモトゥルにイスラム教の食事をお求めになったとき、それには牛肉が含まれていたので、モトゥルは食べなくて済むように彼に乞うた。譲歩として、イスラム式で師に食事を用意するため、イスラム教の料理人からヒンドゥー教の料理人に指導してもらうことを、モトゥルは約束した。
コメント

モトゥルナート・ビスワスの生涯(5)

2017-03-28 08:11:28 | 聖者の生涯


 ラースマニは存命中、モトゥルをドッキネッショル寺院の管理人にした。そして彼女の死後、彼は彼女の広大な私有地の唯一の遺言執行人になった。当然、彼は大量の責任を負い、この事態を深刻に受け止めた。
 ある日、泥棒がクリシュナの像から装飾品を盗んだ。モトゥルはそのことを知ると、寺院へ行って神にこう言った。

「なんと不名誉なことでしょう、おお、主よ! あなた様は御自身の装飾品を守ることがおできにならない!」

 シュリー・ラーマクリシュナは、彼を厳しく戒めておっしゃった。

「なんて考えだ! 御自身のお手伝いと付き人としてラクシュミー(幸運の女神)をお持ちである彼が、これまで輝きに事欠いたことがあるか? あの宝石はおまえには高価かもしれないが、神にとっては粘土の塊も同然である。恥を知りなさい! おまえはそのように卑しく話すべきではなかった。おまえは神の栄光を称えるために、神にどんな上等なものを与えることができるのだ?」



 モトゥルは普段はかなりけちであったが、シュリー・ラーマクリシュナのことになると、彼の気前の良さには際限がなく、またドッキネッショルを訪れる放浪修行者に衣服や食事を与えることをためらうこともなかった。ときには師の命令で、例えばブランケットや水を入れる容器などの贈り物も気前よく僧に与えた。


 ある日、モトゥルと師はヤートラ(神聖な物語を基にした民族劇)を見ていた。モトゥルは、師がそれぞれの役者に褒美を与えられるように、師の前に十枚ずつ積み重ねて用意していた百ルピーを置いた。ところでシュリー・ラーマクリシュナは金銭の感覚をお持ちでなかった。彼は歌や語りで師を喜ばせた一番最初の役者に、それらの全額をお与えになったのだ。ほんの少しの苛立ちも抱かず、モトゥルは師の気高い心的状態を称賛し、もう一度お金を置いた。再びシュリー・ラーマクリシュナは別の役者に全額をお与えになった。その後、師は三人目の役者にも報酬を与えたいとお望みになったが、役者にあげるお金がもうないことにお気付きになると、モトゥルは自分の衣服を脱ぎ去り、代わりにそれらを与えた。

 シュリー・ラーマクリシュナは昔、一方の手にお金を、もう一方の手に土くれを手にして、「ルピーは土くれ、土くれはルピー」とおっしゃりながら、両方をガンガーへ投げ入れられた。モトゥルはこのことについて知っていたが、師へ高価なものを捧げるのが大好きだった。ときにはシュリー・ラーマクリシュナを自身のカルカッタの邸宅へ連れて行ったので、神聖な親交を楽しむことができ、思う存分師へ奉仕をした。愛する者に最高のものを捧げるのが人の生来の気質であるので、モトゥルはある日、金製と銀製の新しい食器を一式、師に使っていただくために購入した。しかしシュリー・ラーマクリシュナにとっては、葉っぱのお皿も金のプレートも全く同じだった。彼はモトゥルの自宅へおいでになり、その高価な食器を、なんの感嘆の念も畏敬の念もお持ちにならずお使いになった。それからモトゥルは師に優雅な衣服を着せ、こうおっしゃった。

「ババ、この私有地も含めて、あなた様はすべての所有主であられます。わたしはあなた様の世話役にすぎません。ごらんください、あなた様は金のプレートで食事を召し上がり、銀の器で飲み物をお飲みになり、それらを無頓着に置きっぱなしになさります。あなた様が再び使うことがおできになるように、食器を洗い、安全な場所に置くことがわたしの義務でございます。」


 ある日モトゥルは、非常に高価なショールを師へ贈った。シュリー・ラーマクリシュナは機嫌よく受け取られ、それを身に付け、大喜びで少年のように人々にみせびらかして、寺院の庭を散歩なさった。彼は値段について言及することを忘れなかった。当時、そのショールは千ルピーしたのだ。しかし少し経ってから、彼の心的状態は変化した。識別力をお持ちの彼の心は、熟考し始めた。

「このショールはなんなのだ? 羊の毛にすぎないではないか。他のすべてのものと同じように物質である。人を寒さから守ってくれることに違いはないが、それならブランケットやキルトでも同じことではないか。また、ほかの物質的な物と同じように、神を悟るのには役立たない。むしろそれは所有主を思いあがらせる。彼は自分自身を裕福であると思い、慢心を持つ。それゆえ、それは人を神から遠ざける。」

 この考えはシュリー・ラーマクリシュナには耐えられなかった。直ちに彼はショールをほこりまみれの地面に投げ捨て、踏みつけ、唾を吐きかけられた。そのうちに誰かがショールを手に取り、持ち去った。ショールの悲しい結末を聞いて、モトゥルは微笑んでこう言った。

「ババは正しいことをなさいました。」


 シュリー・ラーマクリシュナは昔、聖母に祈った。

「母よ、わたしを無味乾燥な僧にしないでください。あなたの創造と喜びと至福を楽しませてください。」

 霊的な生活において、欲望を抱くことはあまり良しとはされないが、シュリー・ラーマクリシュナはそれらでお遊びになり、その間、モトゥルはその遊び仲間であり、見物人であった。
 後年、シュリー・ラーマクリシュナはこれらの欲望について、また彼がどのようにして欲望を抑えたかについて、信者にお話しになるのを好まれた。彼はこうおっしゃった。

「昔、金の刺繍飾りの非常に高価なローブを着て、銀製の水ギセルを吸うという考えを思いついた。モトゥル・バーブは新しいローブと水ギセルをわたしに送ってくれた。わたしはローブを着た。また水ギセルをいろんな方法で吹かした。このように寄りかかって吸ってみたり、あんなふうに吸ってみたり、また頭を上にして吸ったり、頭を下げて吸ったりもした。それから自分自身にこう言ったのだよ。

『おお、心よ、これが世の人々が"銀の水ギセルを吸う"と呼んでいるものだ。』

 わたしはすぐにそれを捨てた。わたしは数分の間ローブを身に着けた、それから脱いだ。足で踏みにじって、唾を吐き、こう言った。

『これが高価なローブというものだ! ただ、人のラジャス性を増させるだけだ。』」
コメント

今日のAMRITAチャンネル「キールタン・イメージビデオ」

2017-03-27 21:15:45 | 今日のAMRITAチャンネル

今日のAmritaチャンネルは、「キールタン・イメージビデオ」です。



曲目

1.SitaRam(2016 Vivaha panchami)【NEW!】
2.アヴァターラ
3.我が主
4.ハヌマーン
5.Hanuman bolo
6.Jay Shri Ma
7.願い
コメント

今日のAMRITAチャンネル「アニメ・リトルクリシュナ 第三話」

2017-03-25 21:06:29 | 松川先生のお話
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ・リトルクリシュナ 第3話」です。
コメント

パドマサンバヴァの秘密の教え(60)「六つのパーラミターの修習」

2017-03-25 14:03:50 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎六つのパーラミターの修習


 師パドマはこう仰った。

「ダルマを修習しているとき、六つのパーラミターによって修習せねばならない。」


 ツォギャルは尋ねた。

「どのようにそれを修習するのでしょうか?」


 師はこうお説きになった。

「一.出し惜しみせず、どんな偏見も心に抱かないなら、それは布施のパーラミターである。

 二.煩わしい感情を巧みに手放したら、それは戒のパーラミターである。

 三.怒りや憤慨から完全に自由になれば、それは忍耐のパーラミターである。

 四.怠惰でも不活発でもないとき、それは精進のパーラミターである。

 五.瞑想から逸れず、その味にも執着しないとき、それは瞑想のパーラミターである。

 六.構成概念からまったく自由であれば、それは智慧のパーラミターである。」
コメント

今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第18話 前編」

2017-03-24 20:50:45 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第18話 前編」です。
コメント

オーム・アー・フーム

2017-03-24 16:16:56 | 松川先生のお話





 オームは仏陀の身体をあらわし、
 アーは仏陀の言葉をあらわし、
 フームは仏陀の心をあらわす。

 オームは白く、
 アーは赤く、
 フームは青い。

 オームは始まり・維持・終わりをあらわし、
 アーはすべての始まりをあらわし、
 フームはすべての終わりをあらわす。

 オームは入息であり、
 アーは出息であり、
 フームは保息である。

 オームは宇宙の絶対真理をあらわし、
 アーはすべての始まりであり、
 フームは心の精髄である。

 オームは眉間にあり、
 アーはのどにあり、
 フームは心臓にある。

 オーム・アー・フームはすべてのマントラの王であり、
 ヴァジュラのマントラといわれ、
 すべてのマントラの精髄が、ここに含まれる。


 あらゆるマントラや梵字の中で、最も神聖視され、重要視されるのが、この三つの種字ですね。

 伝説によると、こういったマントラや種字のもととなっているサンスクリット語は、もともとは神の言葉から来たそうです。

 それが本当かどうかを客観的に証明することはできませんが・・・実は私はよく、チャクラに集中する瞑想をすると、光が梵字の形になって現われてきます。
 それは私が高校生のころ、独学でヨーガ修行を始めたばかりのころから、そうでした。眉間に集中すると、二枚花弁のアージュニャー・チャクラが現われ、その中に光輝くオームの種字が現われるのです。そのころ私は、チャクラの形とか梵字とかもよく知りませんでしたが、後でいろいろ本を読んで納得したという感じでした。

 また、深い瞑想に入ったときに、マントラの音がはっきりと聞こえてくることもあります。

 だから私は、神の言葉かどうかは別にして、こういったマントラの音や、梵字の形といったものは、実際に瞑想でアクセスする世界にもともと存在するものであるという感じがしています。

 ちなみに、日本の仁王像や沖縄のシーサーなどは、ひとつが口をあけ、ひとつが口を閉じていますが、あれもアー・フームをあらわしていますね。仁王さまは、元をたどればヴァジュラダラやインドラ(帝釈天)と関係があるといわれます。いずれもヴァジュラを持つことを特徴とする神ですね。
 日本で『阿吽の呼吸』などと言う『阿吽』というのも、アー・フームのことですね。
コメント

今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第61話」

2017-03-21 18:33:06 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第61話」です。
コメント

今日のAMRITAチャンネル「アニメ・リトルクリシュナ 第二話」

2017-03-18 17:41:33 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ・リトルクリシュナ 第2話」です。
コメント