ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

「変化身となって生まれ変わるために」

2016-06-30 20:02:37 | 解説・ナーローの6ヨーガ


◎変化身となって生まれ変わるために

【本文】
 同様に、覚醒時に微細な幻身(報身)から粗雑な変化身に移行する瞑想を行ない、睡眠時に夢の幻身から目覚めるときに変化身の姿となって目覚めることを修習することによって、死後も、バルドの報身の状態から、変化身となって生まれ変わることを成就することができるのである。


 これも同じね。瞑想において、報身から変化身に移行する瞑想を行なうと。で、寝てるとき、つまり夢の中で、さっき言ったみたいに報身、つまり神聖な神の身体になっていろんな活動をすることを夢の中で行なって、で、夢が終わって目覚めるときに、ウーッて変化身に変身して目覚めると。
 変化身っていうのはね、よくチベット語ではトゥルクっていうんだけど、例えばダライ・ラマ法王もトゥルクっていわれる。この変化身の概念ってすごく難しいんだけど。報身っていうのはね、報身は完全にわれわれのこの世界の物質ではない、つまり全然違う世界の、まあ物質っていっていいのか分かんないけど、霊的な存在です。だからわれわれは報身っていうのは普通は見れない。悟りを得てる人とか以外は見れない。でも変化身っていうのは、例えばトゥルクっていうわけだけど、例えばダライ・ラマ法王もトゥルクっていわれるんだね。つまりダライ・ラマ法王の肉体はあれは肉体ではない。あれは変化身なんだっていわれるんだね。もちろんそれは信じるかどうかは別。信じてる人も信じてない人いるかもしれないけど。
 つまり変化身っていうのは、われわれの目に見えるんです。見えない場合もあるよ。変化身として霊的な世界にいたら見えないけど、変化身として生まれるっていうことはできるんだね。それは物理的には同じように見えます。
 例えばですよ、わたしがもし変化身として生まれてきました。つまりバルドで報身として神の世界にいて、「よし、変化身になるぞ!」っていって変化身としてバーッて生まれました。で、例えばT君がいてね、T君が普通に、普通の人として生まれました。わたしとT君の体の成分を解析しても同じです。変わりません。でもわたしは変化身なんです。これはだから現代の科学とかではちょっと解明できない領域の、そのおおもとの話なんだね。この物質を作り出してるおおもとのエネルギーとかが、普通の人とちょっと違うんです。でもそれは現代ではよく分からないっていうかまったく同じに見える。でも変化身なんだね。
 で、この変化身のプロセス。まあこれはね、ヒンドゥー教的にいうとアヴァターラとか、あれもそうかもしれない。ラーマクリシュナとか、あとラーマクリシュナの弟子たちっていうのは、高弟とかはね、完成者の化身が多かったっていう話だけど、つまりああいう存在っていうのも高い世界からわざわざ肉体を形成して降りてくるんだけど、その肉体を形成するっていうのが、普通の人とちょっと違うんだっていうことだね。
 ラーマクリシュナとヴィヴェーカーナンダの話で今回『聖者の生涯Ⅱ』にも書いたけど、こういうのがあるよね。絶対的な至福の世界があって、で、そこに七人の聖なる魂がいて、その一人がヴィヴェーカーナンダなんだね。それだけで超すごい感じがするんだけど(笑)、ラーマクリシュナがもっとすごいのが、その至福の世界が凝縮して赤ちゃんになったって。それがラーマクリシュナだっていう。至福の世界の一部が凝縮して赤ちゃんの姿になったと。その光の赤ちゃんが、その純粋なる至福の世界の七人の聖者の一人のそばに行って、「さあ、わたしは降りるよ」と。「おまえも来なきゃいけないよ」と。で、その聖者もこううなずいて、で、二人でこう降りてったって話がある。それがラーマクリシュナとヴィヴェーカーナンダだっていう話がある。
 つまりこれはこの話でいうと、そうですね、法身なのか報身なのか分かんないけども、とにかくその非常に高い、純粋なる状態から、変化身として「じゃあ、行きましょうか」と。で、変化身として普通の今のインドのね、ベンガル地方の人間の体として生まれてきた。でもラーマクリシュナの体自体は普通の体ではない。
 これをね、後天的にやるのが、たとえば虹の身体とか、後天的な意味での変化身の修行です。虹の身体とかよくいうけども、あれは修行して、体がもう虹の身体になりましたと。でもその虹の身体と呼ばれる人を見ても、普通の人なんだね。普通のおじさんだったりするんだね。でも死の時にそれは分かりますよと。死の時に――まあ現代では難しいっていわれてるんだけど、もうちょっと時代が清らかな時代のときは、虹の身体を悟った人の死体っていうのは消滅してしまうんだね。この世から消えてしまう。つまり肉体の組成が普通とちょっと違っちゃってるから。でもそのパターンの場合は、普通は生まれたときは普通の体なんだけど、修行によって体をそういう、見た目は同じなんだけどもともとの組成が違うような体に変えてしまうっていうパターンだね。
 はい。そうじゃなくて、仏陀の変化身の場合は、高い世界からわざわざある種の清浄なエネルギー体として肉体を作って生まれてきましたと。で、これを夢の中でそういうイメージを繰り返すんだね。夢の中っていうか夢から目覚めるときね。さっきから言っているように、夢の中で神としてまず活動するイメージをして、で、目覚めるときに、「さあ、衆生を救うためにじゃあ変化身を作るか」とグーッと変化身を形成して、パッと目覚める訓練をするんだね。「よし、おれは衆生のために変化身としてやってきた」と。こういうイメージをひたすら繰り返す。で、それによって実際に本番の死が来たときに、同じように衆生のために報身の状態から変化身に生まれるっていうことを実際に行ないなさいと。
 言っとくけど、今説明してることは、すべてかなり高度な話です(笑)。「分かりました!」っていって明日できるような話じゃないよ。かなり高度なことを言ってるって思ってください。だからみなさんこう聞いて、「え? 何だそれは? よく分かんない」とか「おれには無理」とか思う人いるかもしれないけど、それは当然です(笑)。もっともっとみなさんが修行を進めて経験する話――もちろんそれを目指すのは素晴らしいけどね。目指すのは素晴らしいけど、かなり高度なことをいってると考えてください。




◎三身のヨーガ

【本文】
 まとめると、
 覚醒時の四つの空・睡眠時の四つの空・死後の四つの空(法身)
 覚醒時の幻身・夢の幻身・死後の幻身(報身)
 覚醒時の変化身・夢から覚めるときの変化身・バルドから生まれ変わる時の変化身

 この九つを修習することは、無上の教えである。



 これは今言ったことのまとめだね。つまり起きてるとき、それから寝てるとき、そして死後。もうちょっと簡単に言うと、さっきから言ってることと同じだけど、起きてるときと寝てるときにこの三つの法身、報身、変化身の修行をしっかりやりなさいと。で、それによってそれが成功して確定されたら、死後も同じように法身、報身、変化身のプロセスが起きますよっていうことだね、ここはね。
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スワミ・トゥリヤーナンダの書簡集(46)

2016-06-30 16:48:55 | 経典の言葉・聖者の言葉



                           1915年9月12日
                           アルモラにて

 親愛なるビハリ・バブーへ



 あなたは大変長い手紙を書いていらっしゃいましたが、それは何の役に立つのでしょうか? それを読んで、わたしは師がおっしゃった“暦をしぼること”に関する話を思い出しました。今年は大洪水があると歴に書いてあったとします。しかしたとえあなたがその本をしぼったとしても、一滴の水も得られないでしょう。経典には、ジーヴァーンムクタ[生きているうちに解脱した者]、パラマハンサ[悟りを享受する成就者]など、悟りに関する様々な段階について多くのことが書かれています。しかし、もしこれらの段階がわれわれの人生において実現や顕現がなされなかったならば、何の役に立つでしょうか? 

 このような詩があります。

「書物に限定された知識や他人の手の中の富は、必要が生じたときに、何の役にも立たない。」[チャナキャ・スローカ]

 わたしは――自分の意志では何事も成し遂げられない――ということをよく知っています。彼の恩寵なしには、誰も神に到達したり、何か高い霊的な状態を得るとはできないことは、わたしには絶対的に真実のように思えます。

 「おお、愚かな心よ、常にラーマを思え。
  他の何百という考えが何の役に立つというのか?
  おお、舌よ、絶え間なくラーマの御名を唱えよ。
  無意味な会話をして、何を得るというのか?
  おお、耳よ、ラーマの物語を聴け。
  世俗的な音楽を聴いて、何の利益を得るというのか?
  おお、目よ、一切のものはラーマで満ちていると見よ。
  そしてラーマ以外の他の一切のものを放棄せよ。」

 これは正真正銘の真実です。もしわれわれがこのように神を思い出すことを実践すれば、われわれは救われるでしょう。さもなければ、苦しみや生死の輪から逃れることはできません。

 「月の叔父さんはみんなのおじさん。」
 「わたしは探し求めましたが、彼を見つけられません。」
 「彼に選ばれた者が彼を見つけます。」
 ――すべての人に、神を礼拝する権利があります。彼女は“代理の母”ではなく、すべての人の母なのです。誰も目的なしにこの世に来ることはありません。なぜあなたは自分自身を動物のように考えるのですか? あなたは母なる神の子供なのです。母なる神の子供には恐れはありません。したがって、あなたもわたしも恐れることはないのです。彼女がわれわれの面倒を見てくださっているので、われわれはそのままでいればいいのです。――わたしはこのことをよく知っています。わたしの取るに足らない知性は限られており、わたしには何が良くて、何が悪いのか分からないのです。

 「あなたは善悪を超えておられます。わたしもそれらの向こうへ連れて行ってください。」――これは、わたしの心からの祈りです。

 「主よ、わたしにはあなたがどんなふうにしてわたしを向こうへ連れて行ってくださるのかは分かりません。しかし、わたしはあなたがそうしてくださると確信しています。」

 師はこうおっしゃいました。

「食べ物を与えられない人はいないのだ。すべての人が食べ物を得るのだが、ある者は朝に、ある者は昼に、またある者は夜にそれを得るのだ。」

 あなたの思召すままに! それだけなのです。


 ブラフマンの智者(ブラフマジュニャーニ)の段階は、非常に高いものです。わたしはそのような大げさなものを知ろうとは思いません。
 以前あなたに、わたしの目標はギーターのこの言葉であると言いましたね。

「常に自分の心を私に結び付けている人たちにとって、私は、彼らを速やかに生死の海から救う救い主になるのだ。」[第十二章.七節]

「なぜなら、肉体を持つ者が、形相を持たない存在を最高目標とし、それに達しようとするのは、至難の業だからだ。」[ギーター、第十二章.五節] 

 あいにく、わたしはまだ肉体意識を超えることができません。したがって、わたしにはあの不滅の絶対的なブラフマンを得ることはとても難しいのです。これはわれわれがブラフマンの智慧がなければどうすることもできないということ意味するのではありません。わたしは師の言葉により、このことを確信しています。あなたにある出来事をお話ししましょう。

 ある日、わたしはシュリ―・ラーマクリシュナにお会いしに行ったとき、そこには大勢の訪問者がいました。彼らの中に、一人の偉大なヴェーダーンタの学者がいました。師は彼に、「われわれにヴェーダーンタについて聞かせてください」とおっしゃいました。その学者はヴェーダーンタのさまざまなことを延々と一時間以上話しました。シュリ―・ラーマクリシュナは大変お喜びになりました。周りの人びとはこれを見て驚きました。しかし、学者をお褒めになった後で、師はこうおっしゃいました。
「私に関するかぎり、そのような詳細な説き方は好まない。私と母以外は何もないのだ。あなた方にとっては、知識と、知る者と知られるもの――瞑想する人と瞑想と瞑想の対象――という三つの区分は大そう結構だ。しかし私にとっては、“私と母”それだけである、他には何もない」と。
 この“私と母”という言葉を、あのお方は、居合わせた人びとすべてを非常に深く感動させるような言い方でおっしゃっいました。その瞬間に、ヴェーダーンタのすべての概念はつまらなくなってしまいました。師の“私と母”は、ヴェーダーンタの三区分よりも、もっとやさしく、素朴で、しかも心を喜ばせるように思われました。そのとき以来わたしは、“母と私”が実践に適した態度であることを学びました。

 瞑想、ジャパ、そして苦行は心による行為であることは本当ですが、霊的な経験もまた心による行為なのです。
 瞑想は、世俗的な心ではできないのです。
 ジャパと苦行によって心が純粋になったとき、瞑想は純粋な心の行為になるのです。
 「霊的な修行の目的は、真我を悟ることである」――これは心が純粋にされなければならないということを意味し、そして、そのあと人は真我を経験します。真我への到達は、それがどこか別のところから持ってこられるということを意味するのではありません。それは常に存在しているのですが、覆われています。この覆いは人の心に存在し、取り除かれなければなりません。何も真我を本質的に覆い隠すことはできません。それは自ら輝いている永遠なるものです。

 例えば、ある女性がネックレスが首にかかってるのを忘れて、あっちこっちを探していましたが、それはセーターに隠されていました。彼女はあとで[セーターの下に]それがあることに気づき、それを見つけました。同様に、真我は存在していますが、しかし真我の智慧が欠けているのです。この智慧が目覚めると、真我を得ると言われています。
 真我は純粋な心によってのみ知ることができます。
 同じ心が感覚的な対象から神へ移るとき、純粋になるのです。

 飼い猫は森に行くと、野生の猫になります。人の(真理に対する)決意は悟りに成熟します。今日の決意が明日の悟りになるのです。しかし、人はしっかりと真理をつかんで離してはいけません。もし人がまず決意するなら、そのあと悟りが続いて起こるでしょう。さもなければ、それは起こらないのです。まず真我について聞き、そのあと熟考し、最後に瞑想します。あとでそれが経験されるとき、それは悟りとして知られるのです。


                          あなたの
                          トゥリヤーナンダ
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スワミ・トゥリヤーナンダの書簡集(45)

2016-06-30 15:17:22 | 経典の言葉・聖者の言葉


                       1915年8月14日
                       アルモラにて

 親愛なるビハリ・バブーへ


 これが肉体の性質なのです。時間が幼年期を使い果たし、そして青年期に移行し、青年期は老年期に移行します。肉体は日に日に衰えていきます。

「人間の肉体は永続するものではない。」

「生まれた者は死ななければならない。死なない者がいるでしょうか? また、これまで死ななかった者がいたでしょうか?」

 肉体の苦しみに悩まされない人は本当に幸運です。自己を肉体とは別のものと知ることは、ささいなことではありません。そのような人は、神の恩寵によって最高の至福を味わうのです。

 なぜそんなにも自分の妻や子供のことを心配するのですか? わたしはこう言ったはずです。

「すべてを神に明け渡し、平安であってください。妻、息子、そして一切のものは彼のものであり、あなたの責任は彼らの面倒を見ることです」と。

 師がこうおっしゃっていたように。

「金持ちの女中は彼女は主家の子供たちを、まるで自分の子であるかのように育てる。しかし心の中では、彼らは決して自分のものではないということをよく知っている。 そして、彼女の家はまた別のところにあるのだ。」

 あなたは心で放棄すべきなのです。無執着になり、あなたの家族は主のものだと知ってください。あなたのような献身者にとっては何の障害もありません。障害は、議論を通じて神を知ろうとする者に生じるのです。

 あなたのような人のために、クリシュナはこうおっしゃっています。

「彼らに対する慈悲の心から、私は彼らの胸に宿り、輝く完全なる叡智の灯火をもって、無智から生じる彼らの心の闇を打ち破ってやるのだ。……常に自分の心を私に結び付けている人たちにとって、私は、彼らを速やかに生死の海から救う救い主となるのだ。……私が、すべての悪しきことから君を守ってあげよう。」[ギーター、第十章.十一節、第十二章.七節、第十八章.六十六節]

 主御自身が、あなたに対する全責任を持ってくださっているのです。
 「神は、幸運な者の重荷を背負ってくださっているのです」という格言があります。あなたがたはみな、幸運な人です。あなたが引用していた詩は、再び生まれることを恐れる、智慧の道に従う者に対するものです。しかし、主の献身者たちは、こう祈るのです。

「ああ、クリシュナよ。わたしは、たとえ虫、鳥、獣、爬虫類、悪魔、悪鬼、または人、そしてどこに生まれようとも、あなたの恩寵によって、あなたへのけっして揺ぐことのない信仰を持てますように。」[プラパンナ・ギーター]

 師はわたしにこうおっしゃいました。

「ニルヴァーナを求める者たちは、さもしい心の持ち主である。彼らは恐怖で一杯なのだ。彼らはちょうど、早くあがりに達しようといつもあせっているパルチージ(インドすごろく)の遊び手のようなものだ。素人の遊び手は、一度自分の駒をあがりに送り込んだら、二度とそれを外へ出したがらない。そのような遊び手は下手なのだ。熟練した遊び手は、もしもう一度外に出ることによって相手をつかまえる機会が得られるなら、決してそうすることを恐れはしない。それから、相応しい目をふってもう一度あがりに戻るのだ。それはまるで、彼がサイコロをふる度に彼にとって都合のよい数が現われてくるように思える。だから恐れてはいけない。少しも恐れず遊戯をせよ」と。

 「それは実際に起こるのでございますか?」とわたしは尋ねました。

 「もちろん、母なる神の恩寵によって、あらゆることが起こるのだ。母は人びとが遊ぶのをお好みになるのだ。かくれんぼ遊びを例にとろう。(この遊びには、一人のおばあさんと、一人の目隠しをされた鬼と、そして鬼につかまるまいと逃げ回る子供たちとがいる。)おばあさんは子供たちを走りまわらせ、ゲームを進行させたいのだ。もし必要と思えば、彼女はある子供が鬼につかまらないよう救いの手を伸ばすこともあるだろう。同じように、母なる神はニルヴァーナを求める者たちをお喜びにならないであろう、彼らは遊びをやめたいと思っているのだから。彼女は遊びを続けたいとお思いになっていらっしゃるのだもの。だから、バクタたちはニルヴァーナを求めない。彼らは、おお心よ、砂糖になるのはよくないぞ。私は砂糖をなめたいのだ、と言う」と。

 師はわたしに何度もこうおっしゃいました。

「聖典の中に何があるのかね? もろもろの聖典は、買う品物の名を書きつけた紙切れのようなものなのだ。それらは、品物が全部集まっているかどうかを照合するために要るだけである。照合がすんだら、書つけは捨て去られるのである。だから、お前は自分の知識を、信仰を照合せよ。聖典を読んで、その通りであるかどうか調べてみよ。“絶対者の智慧を得れば、聖典は一すじの藁の値打ちしかない”と言われている。」

 母なる神は、ラーマクリシュナに数々の経典、プラーナ、タントラの書物の内容をお示しになりました。だから、彼は学問のない御方ではありましたが、学者たちの高慢を抑えることがおできになりました。彼はよくこうおっしゃいました。

「もし母なる神からほんの一すじの光を頂くことができたなら、一切の学識をして顔色無からしめることができるのだよ」と。

 あなたは智慧の宝を得るために全力で取り組んでおられます。信仰の宝を集めることによって、神の至福を味わうでしょう。まさにその宝[シュリー・ラーマクリシュナ]が――われわれの幸運、または彼の無条件の慈悲によって――われわれの前に現われてくださいました。したがって、われわれに必要なことは、心と魂のすべてを込めて彼を愛することだけであり、その後、他の一切のことはおのずと生じるでしょう。

 もし彼を愛することができるなら、人は世間を忘れます。そして彼の恩寵によって、肉体意識も消え去るのです。苦行や思索を通じた成功――そのようなことを信じている者には、そうさせておけばいいのです――に関して言うと、われわれはその点に関して失望しているので、師に帰依してきたのです。今われわれは「彼のお好きなようにしていただこう」と思いつつ、彼の戸口で待っているのです。わたしは彼があなたの帰依処でもあることを知っているので、何の恐れもありません。


                      愛と最高の願いを込めて
                       トゥリヤーナンダ
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「鼻の穴と気道の関係」

2016-06-30 06:59:01 | クンダリニー・ヨーガのプロセス


◎鼻の穴と気道の関係

 で、話を戻すと、結局プラーナを鼻から吸収していますよと。だから単純な、酸素が入ってここから肺に行く入り口とその道だけじゃなくて、吸収されたプラーナがいったん頭に行って肺を巡るっていう考え方がある。口で呼吸した場合はそうならないんだね。だから鼻でちゃんと呼吸しないと頭にちゃんとプラーナが行かないんです。だからね、ちょっと頭がボーッとしてくる。皆も経験あるかもしれないけどね。鼻が詰まっているとき頭がボーッとするとか。
 普段から口で呼吸している人がいたら、これからは鼻で呼吸したほうがいいです。その方が何割か、頭が良くなります(笑)。吐くのはね、ヨーガでは鼻で吸って鼻で吐くんだけど、中国のやり方では鼻で吸って口で吐くことが多いです。だから吐くのはどっちでもいいと思います。中国で口から吐くのは、多分丹田を意識しているんだと思うね。口から吐くと丹田が非常に活性化する。ヨーガは、鼻で吸って鼻でスムーズに吐くことを主眼としている。だから吐くのはどっちでもいいです。でも普段から吸うのは鼻のほうがいいね。
 右と左の鼻というのが、直接的に右の気道と左の気道にリンクしているんです。だからヨーガの呼吸法でも、例えばこれはみんなあんまりやらないほうがいいけども、体を冷やす呼吸といって、左鼻だけで呼吸するやり方がある。逆に体を温める呼吸法として右鼻だけで呼吸するやり方がある。私はあまりこれは良いとは思わないね。ちょっと偏るから。それよりもちゃんとこう、均等にしたほうがいい。
 我々が右鼻でばっかり呼吸しているとき、実際に体のエネルギーが右に偏ります。それによって、よくいえば、活発になってくる。悪くいえばちょっと興奮気味になります。逆に左ばっかり行ってると、ちょっと心が落ち込んできて体が冷えてきて、という感じになってくる。で、これは大体自分を観察しているとわかるけど、一人の人間の中で、一日のなかでこう、入れ替わるんです。
 一番いいのは、どっちも通ったほうがいい。どっちも通ってると均等に気が巡るようになって、しまいには真ん中に入るようになります。これが一番いい。だから呼吸法とかでも左右使って均等にやろうとするんだね。で、これは普通の人の話。
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「死後の幻身の成就のために」

2016-06-30 06:55:23 | 解説・ナーローの6ヨーガ

◎死後の幻身の成就のために

【本文】

 覚醒時にしっかりと幻身の修行を修習し、睡眠時には夢の中で幻身を修習し成就することによって、死後の幻身(報身)もしっかりと成就するように努めるべきである。


 「覚醒時にしっかりと幻身の修行を修習し」。――はい、この幻身の修行っていうのは非常に難しいわけだけど、これは前にちょっと幻身のヨーガっていうところもやりましたけども。 
 つまり幻身っていうのは、一つはイメージ的に自分が神になったりとかそういうイメージをする瞑想っていうのは一つあるね。で、もう一つはイメージじゃなくて、実際に自分の中にもう一人の自分、つまりエネルギーでできた神聖なる自分を作り出す修行もあるんですね。そういうのをしっかりやると。これもさっきから言ってるように、クンダリニー・ヨーガ、チャンダーリーのヨーガの延長上にあります。だからまずはクンダリニー系のヨーガをしっかりと進めるしかない。
 はい、そして「睡眠時には夢の中で幻身を修習」する。これは簡単に言うと、夢の中で神とかに変身して、人を救ったりね、あるいはいろんな天の世界、仏陀の世界とかに行ったりする、いわゆる夢のヨーガ的な修行をしっかりやると。
 で、これが準備です。この二つがね。起きてるときに幻身の修行をしっかりして、そして寝てるときは神々に変身していろんな世界に行く訓練をすると。これをしっかりやることによって、死んだ後、つまり本番だね、死後の本番が来たときに、実際にさっき言った幽霊みたいな身体が出てきたときに、それを本当の報身、つまり高い神の身体に変えることができるようにしなさいっていうところだね、ここはね。





◎四つの空の光

【本文】
 同様に、覚醒時にチャンダーリーの火の修行によって生命エネルギーを中央管に入れ、とどめ、溶け込ませることによって、四つの空の光を経験し、睡眠時にも四つの空の光を経験するならば、死の時にも、プラーナが心臓に集まる時、四つの空の光を経験することができる。


 これはさっきK君が言った光のヨーガ関係のね、四つの空がありますよと。それをまず起きているときの修行でしっかり経験しなさいと。そして寝るとき――これはね、また後の方の章で光のヨーガの詳しい説明が出てきますが、寝るときにその四つの光を体験しなさいと。で、それを起きてるときと寝てるときにひたすらやってた人は、本当の本番の死がやってきたときも、つまりそれはもう慣れ親しんでるからね、慣れ親しんでるから同じような経験ができますよっていうことだね。
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シヴァ・ヨーガ・スートラ(5)「人間論」

2016-06-30 06:54:10 | 経典の言葉・聖者の言葉


第二章 人間論


【1】小宇宙

 この身体の中心にメール山があり、七つの島に囲まれている。そこには河があり、海があり、山があり、田畑があり、領主がいる。

 そこには聖仙や聖者が住み、太陽や月やすべての星もある。また巡礼の聖地があり、神殿があり、神殿の神々がおられる。

 この三界の内に存在するものはすべて、身体の中に存在する。このメール山をめぐっていたるところで、それらのいとなみが行なわれている。

 これらのすべてを知る人は、まぎれもなくヨーギーである。

 メール山の山頂に、光を放つ月が鎮座し、蜜を降らす。この蜜の流れには、二筋の道がある。

 マンダーキニー河と呼ばれる流れは、肉体の栄養のために、イダー気道を通って流れ落ち、全身を養う。

 もう一つの純白な流れは、身体の中央の道を通って流れ落ちる。

 メール山の下方には太陽が鎮座する。この太陽の熱は、身体の右側の道を通って上方にのぼっていく。

 月のミルク色の光が放出した甘露と生命の元素を、太陽は飲み込んでしまう。太陽の熱は風の円輪に乗って全身をめぐる。



【2】気道

 人間の身体には35万本の気道があり、その中で主要なものは、スシュムナー、イダー、ピンガラー、ガーンダーリー、ハスティジフヴィカー、クフ、サラスワティー、プーシャー、シャーンキニー、パヤスヴィニー、ヴァールニー、アラムブサー、ヴィシュウォーダリー、ヤーシャスウィニーの14本である。これらの中でも、イダーとピンガラーとスシュムナーの三本が、最も重要である。

 その三本の中でも、スシュムナー気道こそは最上の気道としてヨーギー達に愛重せられている。その他の気道はこのスシュムナー気道を根拠として人間たちに所属する。

 これら三本の気道は入口を下に持ち、背骨の中にあり、とても細い。

 スシュムナー気道の中心にチトラーという気道がある。これは私が愛重するものである。その上方には、微細なうえにも微細な、素晴らしいブラフマ・ランドラがある。

 このチトラーは、五色に輝き、清浄である。

 経典の中で、これは天への道と説かれ、不死の浄福の創造者と説かれている。偉大なるヨーギーは、それを念想するだけで、すべての罪を破壊することができる。
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「プラーナの摂取」

2016-06-30 06:48:45 | クンダリニー・ヨーガのプロセス




◎プラーナの摂取

 はい、じゃあもうすこし話を進めると、大体人間っていうのはこの右と左の気道を使っているわけですが、それはね、鼻の穴と非常に関係がある。なぜかっていうと、外側からの気道の大きな入り口が鼻の穴なんです。 
 だからよく「鼻で呼吸しなさい」というのは、鼻で呼吸すると、気の流れが鼻から一旦頭に行くんだね。で、グーッと体に巡るという考え方があるんです。
 呼吸っていうのはね、呼吸もそうだし、食事もそうだし、水もそうだけど、ヨーガの考え方だと、単純にもちろん現代的なね、ミネラルとかたんぱく質とかいろいろなものを摂取しているという考え方もあるけども、それよりもメインはプラーナの摂取って考える。つまり空気中とかいろいろなところにプラーナがあるんです。
 プラーナというのはスターウォーズでいうフォース(笑)。そういったら分かるかもしれないけど。スターウォーズってやっぱり相当インド的世界観が入ってて、ちょっと私そんなにスターウォーズに詳しいわけじゃないんだけど(笑)、あの中でフォースの説明で、フォースは全てだと。フォースがないと何ものも一瞬たりとも存在できないと。あらゆる生命とか、生命じゃないものもフォースによって成り立っている、みたいなそんなセリフがあったと思うけど、あれをプラーナという言葉に置き換えると、まさにインドのヴェーダとかヨーガ経典に書いてある言葉になってしまう。
 プラーナというのは全てを成り立たせているエネルギーと考えていいです。あるいはラージャ・ヨーガ的な考え方をすると、例えば主体がありますと。主観がありますと。で、客体がありますと、ね。仏教的にいうと、こちら側のいわゆる眼、耳、鼻、舌、身、意というのがあります。つまり眼とか耳とか鼻とかいう感覚を感じる器官がありますと。で、対象としての色形とか、音とか、いろいろなものがありますと。でも、主観・主体があって、対象があっても、これだけでは何も起きないとヨーガでは考える。これをつなぐものが必要なんだね。これがプラーナです。だからプラーナ無しには一切の我々の感覚も存在しない。あるいはプラーナ無しでは一切の形も成立しないと。プラーナ無しではあらゆる存在もそうだし、経験もそうだし、何もできなくなりますよ、という考え方があるんだね。
 これはもうちょっと物理的に考えると、空気中にプラーナと呼ばれるものが遍満していると。空気だけじゃないんだけど、あらゆるものにプラーナというものは入っていると。我々の生命活動を動かしているのもプラーナだと。で、このプラーナを我々は、呼吸と似ているわけだけど、体の中にある悪いプラーナを常に出して、外側からいいプラーナを吸収しなきゃいけない。そのための方法が、呼吸が一番いいんですね。あれは、呼吸というのは、まあ酸素とプラーナというのは大分かぶるんだろうけど、プラーナそのものを体中に吸収しているんだと。
 それだけではなくて、食べ物を食べるという行為も、食べ物に含まれるプラーナを吸収しているんだという考え方がある。食べ物っていうのも本当はね、一番いいのは新鮮な野菜。つまりプラーナに満ちているからね。だから現代的にいえば、例えば冷凍食品とかはプラーナがもう死んでいますよと。あるいは電子レンジ。電子レンジで調理されたものというのはプラーナがかなり弱まりますと。だから食べてもあまり、現代的な栄養価はあったとしてもプラーナという意味ではあまり効果はなくなりますよと。
 インドは殺生を嫌うから、だからといって生きたものを食べたりはしないんだけど、中国の仙道とかでは、流派によっては、例えば生きた魚を食べるとか、魚をまるごと頭から尻尾まで食うとか、とにかく生命力の摂取にすごく励むようなところがあるね。でも生きたまま食べるとそれは逆に悪業も積んでしまうので、もちろん生きたままは食べないほうがいいけども。出来るだけ新鮮な野菜とか、もし動物も食べるんだったら切り身とかよりは頭から尻尾まで食べるようなね、まあ魚だったらそういうのいっぱいあるから、そういうもののほうがいいって考えるんだね。とにかく良いプラーナをいかに摂取するかと。それが食事の意味だよって考える。

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「三身への変容」

2016-06-30 06:44:20 | 解説・ナーローの6ヨーガ


◎三身への変容

【本文】
 密教の教えを修めたヨーギーは、生きているうちに死のプロセスを何度も瞑想で修習し経験する。
 そのときに、普通の人が死んで死の光に飛び込むプロセスにおいて法身(ダルマカーヤ)を経験し、バルドの身体を形成するプロセスにおいて報身(サンボーガカーヤ)を形成し、そして新たな世界に生まれ変わり新たな肉体を形成するプロセスにおいて変化身(ニルマーナカーヤ)を形成することを修習する。
 これによってヨーギーは、普通の死とバルドと再生を、仏陀の法身・報身・変化身に変容するのである。


 この辺からちょっと難しくなってくるね。はい、まず、「密教の教えを修めたヨーギーは、生きているうちに死のプロセスを何度も瞑想で修習し経験する」。ここでいってるこの言葉っていうのは、二つのレベルの意味があります。
 二つのレベルの意味っていうのは、まず高度な話としては、本当に経験します。本当にっていうのはつまり、生理的に、つまりここでいう密教の教えっていうのはクンダリニー・ヨーガとか、あるいはここでいういわゆるナーローの六ヨーガの熱のヨーガ、チャンダーリーのヨーガっていうやつですね。これは何度も何度も出てきてるから覚えてると思いますが、徹底的な生理学的な変容を行なうんですね。例えば中央気道にエネルギーをグーッと入れるとか、あるいは心臓に意識と心を集めるとかいろんなことによって、ちょっと現代的な言葉を使うならば、擬似的な死の状態を作り出すんだね。西洋医学的な意味ではこの肉体はに別に死んではいないんだけど、もうちょっと深いレベルにおいて、つまりエネルギーとかあるいは意識の流れという意味において、物理的に本当に死と同じ状態を一時的に作り出すんです。それによって意識は死の経験をするんだね。肉体は死んでないんだけど、意識上において死の経験をする。これがバルドのヨーガです。
 はい。で、そしてその中において、簡単に言うとですよ、死のプロセスっていうのは――はい、まず、最も心の奥の世界――この光の中にまず没入します。普通の死の場合ね。没入して、はい、その後、さっき言ったバルドの身体、つまり幽霊みたいな霊的な身体になります。その霊的な身体でいろんな幻影を経験した後、どこかの世界に生まれ変わります。これが簡単に言うと、普通の、死んで生まれ変わるプロセス。
 これを、熟達したヨーガ行者は、さっき言ったみたいに、まず人工的に死の状態を作り出し、作り出すから当然死と同じように、まず心の最も奥深くの光の中にバーッて溶け込んでいきます。普通はただこれだけなんだけど、これをいわゆる法身といわれる、つまり仏陀の悟りの究極の状態に変容するんだね。ただの死後の光ではなくて、この光を仏陀の光にしてしまう。で、ここでさらに二段階あると思うんだけど、本当に悟ってる人は本当にそれを悟りの状態に持っていく。でもまだそこまでいってない人は擬似的に、「ああ、これは悟りの法身なんだ」っていうイメージをする。
 はい、次に、次のプロセスで霊的な存在になります。死後の世界の霊的な状態になるっていうプロセスがきたときに、それを意識的に報身に変える。報身っていうのは例えばグヒャサマージャとか、カーラチャクラとか、いろいろああいう神々に変身する瞑想があるね。ああいう瞑想をしっかりと生きてる間にやっておいて、生きてる間っていうか普段からやっておいて、で、この死後の経験をしたときに、自分のそのバルドにおけるウニャウニャした霊的な存在をグーッとその神々の体に変えてしまうんだね。こうして報身のボディを作り出す。これもだから二段階あります。本当に報身を作ってしまうか、もしくはそこまでいけないんだけどイメージでそういうイメージをするか。
 はい、そして最後に、次の世界に生まれ変わりますよっていうプロセスがある。そのときに変化身、つまり霊的な仏陀の体となってどこかの世界に救済者として生まれるっていうイメージを行なうんだね。これが高度なバルドのヨーガの修行なんです。
 もう一回言いますよ。高度なバルドのヨーガの修行っていうのは、実際に物理的な方法によって、自分の中に擬似的な死の状態を作り出す。その死のプロセスにおいて、まず死の光に飛び込むときに法身と呼ばれる仏陀の悟りの境地に溶け込み、そして普通の人が幽霊みたいな状態になるときに、幽霊じゃなくて神の身体を作り出し、そして普通の人が生まれ変わるプロセスを経験するときに、菩薩として、変化身として救済のためにいろんな世界に生まれ変わるようなイメージを繰り返す。これがバルドの修行ですね。


(K)すいません。最初の光っていうのは光のヨーガの光ですか。それともクリアライトとかの光のことですか。


 まあ、クリアライトといっていいね。うん。だから光のヨーガの光の最後の方の光だね。それは普通の人はみんな経験する。しかしそこから普通はまたすぐに戻っちゃうんだけど、それを完全に悟りの光として固定するんだね。
 今言ったのは高度な場合ね。つまり普通はここまでもできない。つまり普通はこの死後の経験自体がまずできない。つまりその場合は、まずはイメージでやるわけだね。これはだからイメージを使った瞑想になります。つまり本当はそういう状態になってないんだけど、自分が死んでバルドに入ったイメージをして、そしてまずその法身の状態、そして報身のね、神の身体に変わって、そして人々のために変化身として生まれ変わるっていうプロセスを繰り返すと。このどちらかだね。もちろん理想的には本当にバルドの経験をするのが一番いい。


(K)先生、バクティ・ヨーガをやってる人もそういうふうにした方がいいんですか。そういう修行とかその、おまかせ的な感じじゃなくていいんですか。


 いや、それはだからいつも言うように、今生は、わたしの考えでは、やっぱりいろいろやっておいた方がいいと思うね。まあ、いろいろやっておいた方がいいっていっても、別に、例えば百個くらい修行項目があるとしてね、一日を百に分けて全部やるっていう必要はない。そのうちね、何をやるかっていうのは、例えばわたしが指示をしたりとか、あるいは自分で興味を持ったものをやったらいいと思うけども。まあ今生においては、いろんなパターンの修行を経験したらいいと思います。で、その上でその人に合ったね、例えば死後の世界においても、理想はもちろんバクティ・ヨーガみたいに「はい、おまかせしますよ」っていうのが理想だよね、当然ね。バクティ・ヨーガにおいては。でもそんな段階じゃないうちに死んだとしたら、これは大変だと。でも例えばこういった密教のバルドのヨーガとかをもしやってたとしたら、ある程度自分でそれをコントロールできるかもしれない。
 だからいつも、何度も繰り返すけども、生きてるうちも同じなわけだけどね。生きてるうちも、今生ではいろいろやっといた方がいい。例えば生きてるうちにバクティ・ヨーガ一本でいけるかっていったら、なかなか難しいと思います。あの、本当はいけるんですよ。本当はバクティ・ヨーガだけでいけるんです。しかし現代は、心もエネルギーもけがしまくっちゃってるから、つまり、えせバクティになりがちなんだね。えせバクティになったらもう最悪です。
 えせバクティっていうのは――これはね、ヴィヴェーカーナンダも繰り返し言ってるわけだけど、ヴィヴェーカーナンダが言うには――バクティ・ヨーガには大前提として放棄が絶対必要だと。放棄ね。つまり自分のいろんなものを捨てて、あらゆる欲求、執着を捨てて、それによって、ラーマクリシュナも言うように、全欲求、すべての心やエネルギーを神に向けてるわけだね。でもそうじゃなくて、表面上「ああ、神よ」とか言って、実際はいろんなものに心が向いてる。これはえせバクティ。この人がまるで聖なる道を歩んでいるような雰囲気で五十年、六十年と生きても、何の進歩もない。ね。
 じゃあどうすればいいんですか? いや、捨てればいいと。捨てるっていったって捨てられませんよと。そこで他の修行が必要になってくるんだね。じゃあ物理的にナーディを浄化しましょうかと。あるいは、しっかりと教えを学んでそれを論理的に分析して、それを取り去ることができる人がいるかもしれない。あるいはそうじゃなくて、クンダリニー・ヨーガ的に一気に高い世界を経験してしまうとかね。いろんな要素が必要になってくるんだね。今生においてはね。
 じゃあ、その中で何をベースっていうか支柱とするかっていうと、やっぱりそれはバクティ・ヨーガが一番いいと思う。バクティ・ヨーガがまず根本にあって、で、それにいろいろこうついてくるっていう感じが本当は一番いいね。
 別のやり方ももちろんできるんですよ。何か他のヨーガが支柱にあって、それにバクティやその他がついてくるっていうのも、それはそれでできるわけだけど、バクティを中心に置くのが一番いいと。
 別にだから今日の話も、例えば今バルドの修行のやり方を言ったけども、これは別にみんなにやれとは言わない。でももしかするとやれというときもあるかもしれない。それはだから今の段階ではまだ知識として入れておいたらいいね。ああ、そういう修行もあるんだと。で、もしみなさんがそういう縁があったら、やることもあるかもしれない。
 実際ここでやってる修行自体は――修行っていうのはクラスでやってる修行とかね――自体は、このナーローの六ヨーガ的な修行が実際は多いです。つまりちょっと基本的な話になっちゃうけど、バルドのヨーガって――バルドのヨーガだけじゃないんだけど、バルドのヨーガ、あるいはその他のこの六ヨーガっていうのは、結局は熱のヨーガなんです。つまりクンダリニー・ヨーガなんですね、結局は。クンダリニー・ヨーガのちょっとこう派生してるものに過ぎないんだね。
 じゃあバルドのヨーガは、バルドを経験するんですね。じゃあどうやればいいんですかと。それは中央管にエネルギーを入れるしかないと。中央管にエネルギーを入れるにはどうするんですか? それはクンダリニー・ヨーガをやるしかないですねと(笑)。結局はこれクンダリニー・ヨーガなんです。で、このバルドの修行も、クンダリニー・ヨーガを進めていくうちにそのバルドの経験がだんだんできるようになってきますよと。できるようになってきたら、それを変容する訓練をすればいいですねっていうことなんだね。
 だからもしそのバクティ――今のK君の質問とつなげると――もしバクティ・ヨーガをすごく中心に置く場合はね、ちょっと変容っていうか、若干アレンジした内容でもいいかもしれない。例えば、はい、死にました。死後の光に飛び込みます。仏教的にいうとそれは仏陀の悟り、法身の世界に飛び込んでください――じゃなくて、「ああ、今こそクリシュナのもとに飛び込もう」と。あるいは「至高者の絶対なる境地に飛び込もう」と。あるいは、ねえ、ラーマクリシュナの弟子たちみたいに、自分の師、師を神そのものと見てる人は、「ああ、ラーマクリシュナの中に飛び込もう」と。「自分の師のもとに飛び込もう」でもいい。つまりその完全なる存在、バクティの対象に対してまず飛び込んでいきますと。パーッと。これが第一段階。はい、そして次に神の僕として、つまり霊的な世界、アストラルとかにおける神の僕として自分を形成すると。そして神の道具として、純粋な道具として、変化身として、いろんな世界に救済のために降りていくイメージをすると。こういうふうにやってもいいかもしれない。
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「四つの再生と渇愛」

2016-06-29 17:41:32 | 解説・ナーローの6ヨーガ


◎四つの再生と渇愛

【本文】
 地獄や天などに瞬間的に生まれる者は、その生まれることになっている場所に対して渇愛を感じる。
 湿った場所で生まれる虫などの場合は、その場所のにおいに渇愛を感じる。
 胎生や卵生の場合は、父と母が性交している場面に渇愛を感じる。女性として生まれる者は父に愛著を感じ、母に嫌悪を感じる。男性として生まれる者は母に愛著を感じ、父に嫌悪を感じる。



 これはよくいわれることですね。まず「地獄や天などに瞬間的に生まれる者は」――地獄や天っていうのは瞬間的な再生をします。つまりお腹から出るとかそういうかたちではなくて、例えば天に生まれるとしたら、死んで、ある程度そのバルドの状態を通った後に、パッと生まれる。
 つまり、ここが天だとしたらね、みんなで天界で楽しくやってたら、いきなりパッと登場して(笑)、「あ! T君来た」「ああ、T君よかったね」という感じで(笑)、パッと瞬間的に登場する。ね。で、地獄も同じ。地獄も、地獄に落ちるときも、地獄界にパッと登場しますよと。
 はい、そして、その生まれる前、つまりその霊的な存在の状態で、その世界に愛著を感じる。つまり天に生まれる者はまずその天の光景が見えてきてね、「ああ、あそこいいなあ」って思って生まれるんだね。で、地獄も同じなんです。地獄は苦しい世界のはずなんだけど、もうカルマ的にそこに結び付けられてるから、そこに強い愛著を感じちゃうんだね。例えばよくこういうたとえ話――たとえっていうか実際のイメージなんだけど、こういう話があるよね。ものすごい体が熱くなってきて、「うわー! 熱い! うわー!」、バルドでね、バルドでうわーって熱くなって、で、目の前に雪山が見えると。涼しそうだと。「ああ! 涼しそうだ! あそこに行きたい!」って飛び込んだら、寒冷地獄と。例えばね。あるいは逆に、非常に体が冷えると。ものすごい寒い。で、遠くにあったかそうな炎が見える。「ああ、あったかそうだ。あそこだー!」って飛び込んだら熱地獄と。つまりこういう形でどんどん地獄に引きずり込まれていくんだね。
 だからね、ちょっとここで一つ今の話をね、ヒントに言うと、みなさんが地獄に落ちない一つの訓練。寒くても暖房つけないと(笑)。あるいは暑くても冷房入れない。まあこれはもちろん程度問題だけど、現代の人みたいにすぐ、例えばちょっと寒いと暖房入れるとか、あるいはちょっと暑いと冷房入れるとか、あるいはもうちょっというと、苦しみから逃げる心なんだね。「あ、この状態嫌だ!」と思ってその逆の快楽を求める心。これがわれわれの中に癖として根付いちゃってると、死後の世界でも当然その態度に出る。
 つまり、地獄の正体っていうのは嫌悪なんです。嫌悪ね。「嫌だ」っていう気持ちなんです。つまりわれわれの中にこの気持ちが少なければ少ないほど、地獄に落ちる可能性は薄まる。
 だからまさにこういうことっていうのは頭で考えてもしょうがないんです。心が、そのときが来たときにどう反応するかっていう問題だから。頭で理性的に考える問題ではない。よって普段から訓練しておく必要があるんだね。普段から――一つ一つは小さな問題なんだけどね。例えば暑くてもできるだけ冷房を入れないとか、寒くてもできるだけ暖房を入れないとか、あるいは何かちょっとぐらい苦しいことがあっても、それが自然に生じたものなんだったら、それは神の愛だと考えて耐えるとかね。そういうことを日々繰り返してると、地獄に落ちるリスクっていうのはだんだん少なくなってくると思います。
 はい、そして「湿った場所で生まれる虫などの場合」。じめじめしたね、ところで発生する――発生するっていっても実際それも卵から生まれるわけだけど、そのじめじめした――湘南台教室でいうとよく石の裏にダンゴムシとかがいるけども(笑)、ああいう虫とか、じめじめしたところで生まれる虫ね。ああいう微生物とか虫とかに生まれる人っていうのは、そのじめじめしたところの臭いがだんだんしてきて、それに渇愛を感じますよと。
 じゃなくて胎生や卵生、つまり一般的なこの地球のね、人間やあるいは哺乳類、あるいは魚類、鳥類とかの、こういう胎生や卵生のものの場合は、セックスをしてる場面が見えてきますと。そしてそのどちらかに、つまり男か女かのどちらかに愛着を感じ、で、当然すごい潜在意識の世界だから、これはもう理性が吹っ飛んでる世界だから――つまりこれもね、いつも何回かこういう話をすると嫌な顔をする人が何人かいるけども(笑)、自分のものすごい潜在意識が求めてる理想的なタイプの、例えば男性、例えば女性がバーッと見えてくる。で、そのものすごい渇愛を感じている相手が、別の――例えば女性に生まれるんだったら、ある男性にものすごい渇愛が出てくる。「あー!」って思ってたら、別の女となんかセックスをしてる。その女性の方に対して強い嫌悪が出るんだね。嫌悪と嫉妬だね。この強い愛著と、そして嫌悪と嫉妬。このものすごいエネルギーで、その子宮に引きずり込まれるんです。で、気づいたときには子宮に入ってる。あるいは卵生の場合は、卵に入ってるっていうかんじだね。これが人間あるいは動物等の胎生や卵生の場合だね。はい。これはよくいわれるところですね。






◎暗いバルドと白いバルド

【本文】
 カルマの悪い者が経験するバルドは、暗い雲、あるいは闇夜のように感じる。
 カルマの善い者が経験するバルドは、白い布、あるいは月光によって照らされた夜のように感じる。



 これは全体的な話だけどね。バルドにはいろんなプロセスがあるわけですが、全体的にカルマの悪い人は、やっぱり暗いバルドに入りますよと。で、カルマのいい人は白い、あるいは光り輝く月光のようなバルドですよと。ただこれは実際、相対的な問題だから、はっきりと黒と白が分かれてるわけではない。つまりその功徳の総量、あるいは悪業の総量によって、ある程度暗かったりある程度明るかったりするわけだね。
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シヴァ・ヨーガ・スートラ(4)「世界の展開」

2016-06-29 17:39:08 | 経典の言葉・聖者の言葉


【6】世界の展開

 かの至高者は、このマーヤーの世界を、自らの内側から生み出した。

 清純なブラフマンが無明と結合することによって、それはシャクティとなり、それからまず微細な虚空があらわれた。

 微細な虚空から微細な風が出現し、微細な風から微細な火、微細な火から微細な水が出現し、微細な水から微細な地が出現した。

 粗雑な虚空から粗雑な風が生まれ、粗雑な虚空と粗雑な風の結合から粗雑な火が生まれ、粗雑な虚空と風と火の結合から粗雑な水が生まれ、粗雑な虚空と風と火と水の結合から粗雑な地が生まれた。

 虚空は音をその属性とし、風は運動と接触を、火は形相を、水は味を、地は香を属性とする。

 世界の動くものと動かないもののすべては、パラムブラフマ(至高の梵)の智慧と慈愛の種子のあらわれであるプルショーッタマから生じたのだ。
 われに計らいの心がある場合にはこれら万物は存在しうるが、計らいの心のない場合には、存在するものはただ純粋な叡智からなるブラフマンだけである。


 
【7】世界の還滅

 地は砕けて水の中に溶け込み、水は火の中に溶け込む。火は風の中へ消え失せ、風は虚空の中へ消え失せる。
 大いなる空は無明の中へ消え去り、無明は至高なるブラフマンの中へ消え去る。

 「放散」と「覆い隠し」からなるマーヤーは、苦しみの形相を持ち、ラジャス・サットヴァ・タマスの3グナから成っている。

 このマーヤーはその「覆い隠し」の力によって無智の姿となり、その「放散」の本性によってこの世界の多元の形相を見せる。

 差別する言葉の使用に基づいて、事物間の区別が生じた。ただそれだけのことである。

 このように、事物というものは存在しない。至高のブラフマンだけが実在するのである。
 実態を持つように見える事物というのは、実体性の外見を帯びてあらわれているだけである。

 世界には、実在性に満ちたすばらしい至福からなり、充実し、遍在する唯一者が存在するのみで、そのほかには何も実在しない。この叡智を常に悟っている人は、死と輪廻の苦しみから解脱することになる。

 正しい智慧によって万物を消し去ることができたならば、そこにはかの唯一者のみが存在し、他の何ものも存在しない。このことは行者の心によって明瞭に把握せられる。




【8】人間存在とカルマ

 人間は、父母の食物の容器(アンナマヤ・コーシャ=肉体)から、前生のカルマに応じて生まれる。
 賢者たちは、この肉体を、自己の前生のカルマの果報を受けるためのもので、苦しみであるとみなしている。

 筋肉、骨格、神経、髄などからなり、さらに気道の脈絡の交差する、この果報の神殿は、ただ苦しみを受けるためのものである。

 五つの粗雑元素からなるこの肉体は、苦しみと楽を享受するために作られたものである。

 シヴァ神は精子であり、シャクティ女神は経水である。この両者の結合から、中間状態の存在が、物質の形で生まれた。

 五つの元素の結合から生じた粗雑な物質の中に、魂はもろもろのカルマをひきつれて存在するのである。

 われ(シヴァ神)はその魂の前生までのカルマに応じて、その運命の決定をする。

 魂は非物質であるが、物質の中に住むことによって、カルマの果実を味わう。魂は自己のカルマに縛られて、種々の物質の中に輪廻転生するのである。

 この宇宙の中で、カルマは繰り返して果報となり因となる。自己のカルマの因が完全に尽きたとき、魂は至高のブラフマンの中へ没入する。
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シヴァ・ヨーガ・スートラ(3)「ヨーガとマーヤー」

2016-06-29 17:24:33 | 経典の言葉・聖者の言葉




【5】ヨーガとマーヤー

 一切の計らいを捨て、偽りの存在に対する執着を放棄し、決然として、真我によって、真我の内に、真我を現観すべし。

 真我によって、真我の内に、無限にして幸福を本質とする真我を現観したとき、人はすべての存在を忘れて、サマーディの境地を味わうことができる。

 マーヤーこそは万有の母である。マーヤーが滅び去ったならば万有はすべて存在しない。

 この世界万有がマーヤーによって映し出された幻影に過ぎないと知ったならば、身体や財産、快楽などからなる喜びの対象はない。

 真我に対する限定的付加条件のために、さまざまな存在があるように見えるだけであり、それ以外の何ものでもない。

 ヨーギーたちは、万有はマーヤーによって幻視されたものに過ぎないと知り、万象を真我の中へ消融する。

 こうしてヨーギーが種々の限定をすべて離れ去ったならば、完全円満な叡智のかたちをもった、けがれのない真我が勝利を得る。
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シヴァ・ヨーガ・スートラ(2)「真我」

2016-06-29 17:17:13 | 経典の言葉・聖者の言葉



【4】真我

 宇宙万象のすべてを放棄して、かの至高の真我に帰依すべし。

 この宇宙万象の内に、真我はあまねく行きわたって存在する。
 真我は唯一者にして、純粋な実在・智慧・至福からなり、充実して、欠けたところがなく、対立するものを持たない。

 真我以外に照明者はない。それは光明そのものである。

 真我には、時間と空間からなる限定が絶対に存在しないから、真我はまことに完全円満である。

 真我には、虚妄を本質とする五元素からなっている現象世界とは違って、滅亡がないから、真我は永遠であって決して滅びることがない。

 この世界には真我以外のものは存在しない。常に唯一の真我のみが存在する。それ以外のものは虚妄であって、真我だけが実在である。

 真我は絶対的な空であり、絶対的な楽である。

 宇宙万有の原因である無明は、完全なる叡智によって消されるが、真我はその完全なる叡智そのものである。完全なる叡智はそれゆえに永遠である。

 この多種多様な万有は時間によって創造されるが、真我だけは唯一絶対の実在であって、作られざるものである。

 これら外界の存在はすべて時間によって滅びていくが、真我だけは作られたものではないが故に、滅びることもない。

 真我はすべての言語表現を超えたものであり、相対を絶している。
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シヴァ・ヨーガ・スートラ(1)「宇宙観」

2016-06-29 17:07:27 | 経典の言葉・聖者の言葉



シヴァ・ヨーガ・スートラ



 このシリーズでは、ハタ・ヨーガに関する経典である「シヴァ・サンヒタ―」をもとに、私の見解も加味しつつ、まとめていきたいと思います。

 このシリーズは、『シヴァ・サンヒタ―』をもとにしてはいますが、直訳そのものではありません。あくまでも私の経験や理解をもとに、私の独断で、様々なことを付け加えたり、削除したり、編集したりしていきますので、ご了承ください。原典そのものを読みたい方は、『続・ヨーガ根本教典」(平河出版)などをご参照ください。





第一章 宇宙観


【1】唯一の実体である叡智

 唯一の、永遠にして、はじめも終わりもない、完全なる叡智が存在する。そのほかには、真実なる実体は一つもない。
 この世に存在する雑多のものがらは、感覚器官という限定的付加条件によって、かの唯一なる完全なる叡智から顕現したものに他ならない。

 さて、信心深い者を愛し、すべての生類に解脱を与える、われイーシュヴァラは、ヨーガの教えを説き明かそう。
 論議を好む輩の、世人を迷妄に導く見解を捨てて、ひたむきに道に志す人々が、真我の叡智を得るようにと。



【2】行部門

 聖典には、行部門と智慧部門の二部門があるとされている。まず行部門について説こう。
 悪業をなすときには必ず罪が生じる。善業をなすときには功徳が生ずる。
 カルマの結果には二種あると知るべし。天界と地獄とである。天界はさまざまであり、地獄もさまざまである。
 功徳ある行為の結果は天界であり、罪の行為の結果は地獄である。
 万物の創生は行為の行為(カルマ)の束縛によってなる。
 天界においては衆生は種々の楽を受け、地獄界においては耐えがたい苦を受ける。
 悪行の力で苦が生じ、善行の力で楽が生ずる。それゆえに、楽を望む者はいろいろな善行を励んで行なう。
 天界においても、他人の繁栄を見たりすることで苦を感ずる。また、天界の生が終わるときに苦を感ずる。それゆえに、この全世界は苦しみであるということになる。これは疑う余地がない。
 カルマの束縛からの解脱を願う者は、行為の果報への執着を捨てるべし。一切の執着なく行為を行ない、ヨーガの道に励むべし。



【3】智慧部門

 「まことに真我こそは見るべく、聞くべきものなれ」などと聖典にある。
 
 われは知性の働きを刺激して、善悪の道へ向かわせるものである。動くものも動かないものも、すべてのものがわれから展開する。万物はわれの内からあらわれ、そしてわれの内に消え去る。われは万物と分かれて存在せず、一物としてわれを離れては存在しない。

 水を満たした無数の皿の中に、唯一の太陽の無数の影像が見える。それらの間には何らの差別も見られない。無数という数は皿という限定的付加条件に基づいて成立する。この巨大な数が唯一の太陽について成立するように、唯一の真我について無数の個我が成立するのである。

 縄を蛇と錯覚したり、真珠を銀と錯覚するがごとく、宇宙万象は錯覚にすぎない。

 それが縄であることに気づけば、錯覚である蛇の姿は消え去るがごとく、真我に到達すれば、錯覚によって成立しているこの宇宙万象は消え去る。

 それが真珠であることに気づけば、銀だと思う迷いが消え去ってしまうごとく、真我に対する完全なる叡智が生ずれば、万象についての迷いは消え去る。

 目を病むと白色が黄色に見えるがごとく、迷妄という病のために真我が宇宙万象に見えるのは避けがたいことである。
 目の病気がなくなると病人自身で白色を知覚することがごとく、迷妄が消え去ると、真我は明白になる。

 縄は過去・現在・未来にわたって決して蛇にはならないように、真我は三つのグナを超えており、けがれなきものであり、決して宇宙万象となることはない。

 風の力で海の表面に泡沫が生ずるごとく、真我の上に、はかなく滅びやすい輪廻の世界は出現する。

 無差別平等な実体は常に輝いている。真実にはいかなる差別も存在しない。

 過去に存在したもの、未来に存在するであろうもの、有形・無形のものなど、この宇宙万象のすべては、至高の真我の上に妄想せられたものである。

 無明とは分別心による妄想であって、誤謬から生じ、その本質は偽りである。この宇宙万象は無明を根源としているから、どうして真実在でありえようか。
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師や聖者との交わりによる浄化

2016-06-29 10:14:15 | 松川先生のお話




 自分の師がいる人は、その師。
 いない人は、(できれば頻繁にお会いできる)聖者。

 ――彼らとの交わりが、皆さんのカルマを浄化する。

 その際、できれば、その師や聖者を、愛する神そのものと見れれば最高だが、そう見れない場合は、それでもいい。


 さて、交わりがカルマを浄化するとはどういうことか?
 
 簡単に言うと、その部分のカルマ的縁を師や聖者とつなげてしまうということで浄化していただくということだが、実質的なことを書くと、

 たとえば肉体的悪業が多い人は、身体的な意味で、師や聖者に奉仕することによって、浄化される。

 言葉のカルマがある人は、師や聖者と言葉を交わすことで、浄化される。だからそういう人は、師や聖者を訪ねたとき、一言でも二言でも、会話を交わすといい。

 言葉のカルマの中でも悪口のカルマなどがある人は、師や聖者に怒られることによって浄化される。といってもわざわざ怒られることはないが笑、祝福があれば自然にそういう状況になる。

 嫌悪のカルマがある人は、師や聖者に冷たくされる(または実際はされていないが、冷たくされていると感じる)ことによって浄化される。大事なのはそこで逃げないことだ。冷たくされていると感じてもその師や聖者に愛を向け続けることで初めて浄化される。

 お金や食べ物や物欲などのカルマがある人は、師や聖者にお布施や供養をすることで浄化される。

 愛着が強い人は、師や聖者に愛着することで浄化される。つまり自分が過去に愛着してきたあらゆる愛着のパターンを、師や聖者に向けるのだ。師や聖者を、自分の親であり、子であり、恋人であり、夫であると見なし、強烈に愛着することで浄化される。

 またこれらは、第三者を介した形で浄化がおこなわれることもある。
 たとえば嫉妬心が強かった場合、その師や聖者との関係で、誰かを嫉妬してしまうとか、逆に自分が嫉妬されるとかいう状況。そこでも逃げずに純粋な愛を持ち続けることで、浄化される。

 あげればきりがないが、このように、自己のカルマを分析し、自分はここが汚れているなと思われる部分を使って、師や聖者と交わるのがよい。



 まとめると、結局、様々な形で、師や聖者に親しみ近づけということだ。
 そこにおけるあらゆる交わり、あるいは交わりから生じる現象が、あなたを浄化する。


 そして特に自分に特徴的なけがれがあると思う人は、その部分を使って積極的に交わるとよい。
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バンダ・トラヤ

2016-06-29 09:53:08 | ハタ・ヨーガの教え



☆ウディヤーナ・バンダ

 プラーナはこのバンダに縛られて、スシュムナー管の中を天翔り上るがゆえに、ヨーギーたちはウディヤーナと呼んだ。
 大鳥が疲れを知らずに大空に翔り上ることが、すなわちウディヤーナである。

 腹部を引っ込め、上に引き上げる。このウディヤーナ・バンダは、死神という象を追い散らすライオンのようである。
 ウディヤーナ・バンダが完成すると、それは自然に生じるようになる。
 怠らずにこのムドラーを修習するならば、老人になっても若々しい。
 

☆ムーラ・バンダ

 かかとで会陰部を圧して肛門を収縮し、アパーナ気を上方へ引き上げるならば、それはムーラ・バンダと呼ばれるムドラーである。
 肛門を収縮することによって、いつも下降する傾向のあるアパーナ気を力ずくで上昇させるのだ。
 アパーナ気がスシュムナー管の中を上昇するように、繰り返し繰り返し、力をこめて肛門を引き締める。
 平素ムーラ・バンダを行ずるならば、アパーナとプラーナの合一が起こり、年老いていても青年のようになる。

 アパーナ気が上昇し始めて丹田の炎に達すると、その炎の先が、アパーナ気に煽られて長く伸びる。
 それから、炎とアパーナ気は、プラーナ気と合一し、極度に明るく輝く炎が生じる。
 この炎に熱せられて、眠っていたクンダリニーが眼を覚まし、聖なるスシュムナー管の入り口に入り、だんだんその内部を進んでいく。よってヨーギーたちは、いつもこのムーラ・バンダを行ずるがよい。


☆ジャーランダラ・バンダ

 喉を引き締めて、胸にあごをしっかりとつける。これによって、二つの気道の流れを止めるべし。これがジャーランダと呼ばれるバンダである。これは喉の多くの疾患を無くする。そして気はその流れる道を間違えない。
 

☆バンダ・トラヤ(三つのバンダ)

 ムーラ・バンダで肛門を収縮し、ウディヤーナ・バンダをなし、ジャーランダ・バンダでイダーとピンガラの両道を閉じて、気をスシュムナー気道へ導く。

 この方法によって、気は正しくブラフマ・ランドラのうちに入って動かなくなる。

 このバンダ・トラヤは、いにしえの偉大な大師たちが行じたところの最高のバンダであって、すべてのハタ行法の完成をもたらすものであることを、ヨーギーたちは知っている。

 さらに、頭から甘露を滴り落とさせ、それを体中にめぐらす優れた手段がある。しかしこれはグルの指導によってのみ会得できるもので、たとえ百万の知識をもってしても会得することはできない。



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