ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

今日のAMRITAチャンネル「カイラスニュース ラーマ・ナヴァーミ&ハヌマーン・ジャヤンティ」

2016-04-27 21:48:10 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「カイラスニュース 2016ラーマ・ナヴァーミ―&ハヌマーン・ジャヤンティ」です。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第19話」

2016-04-27 05:52:38 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第19話」です。
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6・5 熊本ヨーガ講習会(無料)

2016-04-26 07:15:00 | お知らせ


 

 きたる6月5日(日)、13時30分より、熊本にて、ヨーガ講習会を開催いたします。

 多くの方々に、今回の震災で疲弊した心身を癒していただきたいと思い、参加費は無料にいたします。

 こんなときだからこそ、ヨーガで心身をリラックスさせましょう^^

 体操だけじゃなくて呼吸法や瞑想も含んだ、ちょっとだけ本格的なヨーガです。

 本格的なヨーガ修行に興味がある方も、少し心身を癒したいという方も、お気軽にお越しください。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。



☆詳細-----------------------------------------------------------------------------------



☆日時:2016年6月5日(日)13:30~16:30

☆場所:くまもと県民交流館パレア 10階 和室
市電水道町電停から徒歩2分
http://www.parea.pref.kumamoto.jp/about03.html 


☆参加費:無料


☆内容:クンダリニーヨーガ、ハタヨーガ、ラージャヨーガなどの各種行法実践と講義。
    初心者の方でも問題ありません。お気軽にご参加ください。


☆予定しているメニュー:アーサナ(気を調える体操)
            気功(気を充実させる内気功)
            プラーナ―ヤーマ(各種の呼吸法)
            ムドラー(覚醒の技法)
            マントラ
            瞑想
            講義
 

☆持ち物:動きやすい服装
     畳の部屋ですので、ヨガマット等の敷物は、持ってこられても持ってこられなくてもどちらでも構いません。


☆申込先:メールまたは電話でお申し込みください。

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それそのものによってしか

2016-04-24 21:19:43 | 松川先生のお話




 自分は論理的・哲学的だと思っている人の多くは、真に論理的・哲学的なわけではない。単に教えられた観念や自分の考えに対する盲信が強いだけという場合の方が多い。

 もちろん、一般的な事柄についてはそれでもうまくいくことは多いが、真に真理を悟るためには、それでは無理がある。
 
 特に修行の道において、論理的・哲学的な方法だけで真理を悟るのは、現代ではとても難しい。そのためには、徹底的な執着・欲望の放棄と、エゴを極限に弱めることが必要だからだ。準備作りだけでほとんど聖人の域だ笑
 現代よりも遙かに欲望の誘惑やエゴ的観念が弱かった古代の修行者たちでさえ、真剣にこの道を行こうとする者は、無一物の放浪生活をおこなったのだ。
 欲望の誘惑や、エゴの欺瞞性、そして自己中心癖が非常に強い現代において、この道は難しい。
 
 そして仮に単に放棄と論理によって悟りを得ることができたとしても、その悟りはとても味気ないものだ。
 論理によって割り切れるものなど、真理であったとしても味気ないのだ。

 本当に生き生きとした真理を悟るには、もう一歩進む必要があり、もう一つエッセンスが必要だ。

 よって、やはり現代では特に、バクティヨーガや菩薩行などを修行の軸とすることがお勧めだ。
 そこには、真のエッセンスである、言葉を越えた神への信、愛、衆生への愛といったものがある。

 それらは素数のように、それそのものによってしか割り切れない。

 神への信愛を、何か別の言葉で説明することはできない。もちろん一応いろいろと説明されてはいるが、それはすべて便宜上のものだ。本当のところを言うと、神への信愛は神への信愛。それだけなのだ。

 なぜ自分を捨てて衆生を愛するのか?――過去世の母とか、いろいろもっともらしい説明がされるが、それらはすべて便宜上のものだ。本当は、理由などない。衆生を愛するから愛するのだとしかいえない。

 なぜ神のしもべになるのか?――それを説明できる、割り切れることばなどない。しもべだからしもべなのだ。

 


2 ブラフマンは、それそのものによってしか割り切れない。説明できない。

3 サットグルは、それそのものによってしか割り切れない。説明できない。

5 ゴーヴィンダ(クリシュナ)は、それそのものによってしか割り切れない。説明できない。

7 ナーラーヤナ(ヴィシュヌ)は、それそのものによってしか割り切れない。説明できない。

11 イーシュワラは、それそのものによってしか割り切れない。説明できない。

13 一味は、それそのものによってしか割り切れない。説明できない。

17 自由なナーダ(オーム、音としてのブラフマン)は、それそのものによってしか割り切れない。説明できない。

19 イクシュワークの至宝(ラーマ)は、それそのものによってしか割り切れない。説明できない。




 ・・・最後の一連の言葉遊びは、こじつけです笑

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至高者の祝福(19)「至高者へ至る様々な道」

2016-04-24 07:12:38 | 経典の言葉・聖者の言葉



第二章 第14話 至高者へ至る様々な道


 主カピラは続けました。

「家庭生活にとどまり続けて、財産や楽しみを求めて働く者、彼もまた主から顔を背けた者なのです。彼の心は欲望に翻弄されたまま、神々を礼拝し、祭祀を実行していくでしょう。
 彼は心から神々をあがめることで、死後には天界に生まれ、天の甘露を味わうかもしれません。しかし自分の功徳が尽きるや、彼は再び地上に再生してくるのです。
 
 しかし、至高者に与えられた自分の使命を、感覚的楽しみや財産のためにではなく、この私に捧げるために果たした賢者、
 また、執着を持つことのない、非常に清らかなで平安な心の持ち主、
 そして修行者の義務に専念し、『私』『私のもの』といった思いを持たず、自己の神聖な使命を果たしてサットヴァに満たされた者、
 ――彼らは死後には、明るい道を通って、至高者の下へと至るでしょう。

 それゆえ、あなたは心からの信仰を抱いて、すべての生き物の心に住まれる、栄光に満ちた至高者にこそ、庇護を求めねばならないのです。

 現象界の創造の原因であるブラフマー神、また多くの聖仙たち、そしてヨーガを極めたシッダたちなどは、時が来ると、太初の真我の中に入っていくでしょう。しかし彼らはまだ心の中に、差別感や行為者という思いを少しばかり残すため、次なる宇宙が創造されるときには、再び生まれてくることになるのです。
 
 この世に執着したまま、宗教的儀式の遂行に熱心になる者は、欲望や激情によってその理解力を曇らされ、生死の恐怖を取り払ってくれる至高者には、見向きもしないでしょう。
 そしてまるで汚物を食べる豚のように、彼らは甘露のごとき至高者の教えを捨てて、感覚的快楽などの下劣な話題を楽しむのです。
 彼らは死後、暗い道を通って、低い霊界に入って行き、その後、再び人間界に生まれてくるでしょう。
 
 それゆえあなたは、主に自分の全存在をかけ、その最高の主をこそあがめなければならないのです。
 バクティによって主と結びつくなら、遠からずして、ブラフマンの真理をあらわす離欲と真理を、その人の心に呼び起こしてくれるでしょう。

 主は絶対意識そのものであり、ブラフマン、至高の真我、自在神であり、至高者なのです。唯一者である主だけが、主体、客体、行為など、様々な姿をとっておられるのです。
 すべてに対する執着の滅尽、それこそが、多くのヨーギーが様々なヨーガによって達成することを願う目的なのです。
 ブラフマンとは絶対の意識であり、唯一者で、属性を持たないものです。しかしそれは多種多様な属性を持つ姿であると、間違って認識されてしまうのです。すべての魂も、実はこのブラフマンそのものなのです。
 しかしこれらのことは、真理の実践とバクティ、日々のヨーガの実践、離欲、それらによってすべての執着を断ち、心の平安を得たものだけが理解できる真実なのです。

 ブラフマンの真の性質を明らかにし、プラクリティと真我の真実を悟ることのできる智慧を、以上のようにあなたに説明しました。
 私に向けられたジュニャーナの実践、そして三グナの影響を受けないバクティの実践、そのどちらの道によっても、至高者という同じ目的地に到達するでしょう。
 
 主はただ一者ですが、聖典に認められた多様な道によって、それぞれ異なった姿で認識されるのです。

 慈悲行、供養、真理の学習とその実践、カルマ・ヨーガの実践、アシュターンガ・ヨーガの実践、ジュニャーナの実践、バクティの実践、それらいずれの道によっても、私たちは、形を持つ、または形を持たない、自ら輝かれる主に到達することができるのです。

 これら私の福音は、不道徳な者、つつしみを知らぬ者、傲慢な者、不品行なもの、偽善者などには、決して語ってはなりません。
 さらに、現世的楽しみを追い求める者、家庭に愛着する者、私を信じない者にも、これらを伝えてはいけません。
 信ある者、素直な者、他人のあら探しをしない人、他の衆生に親切な人、奉仕に喜びを抱く者、表面的なことを重視しない者、心の平静な者、心の内も外も清浄な者、そしてこの私を愛する者、こういう人たちにこそ、これらを語るべきなのです。」
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第10話 前編」

2016-04-23 04:49:48 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第10話 前編」です。
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ラーマがいなければ

2016-04-22 17:18:49 | 経典の言葉・聖者の言葉

 シーターは、このたびのハヌマーンの活躍をたたえて、ラーマの許しを得て、真珠の首飾りをハヌマーンに贈りました。
 しかしハヌマーンはあまり喜ぶことなく、受け取った真珠の一粒一粒を、じっと見ていたかと思うと、その一粒一粒を割って、中を確認し始めました。
 そこにいた人々は驚き、何をしているのかと尋ねると、ハヌマーンは答えました。

「この中にはラーマがおりません! どんな高価なものでも、ラーマがいなければ、私にとっては何の意味もないのです。」

 人々が「そんなところにラーマが入っているわけがないではないか」と言うと、ハヌマーンは、「私の心の中にはいつもラーマがいます」と言って、自分の胸を開いて見せました。するとその中には、ほほえむラーマとシーターが、美しい姿でいたのでした。人々はハヌマーンの信愛の深さに感服しました。

 ハヌマーンが真珠の首飾りを受け取らなかったので、ラーマは、代わりに何か欲しいものはないかとハヌマーンに尋ねました。するとハヌマーンはこう答えました。

「私は何も必要ではありません。ただ、あなた様に仕える場をお与えください。」

 こうしてハヌマーンは、スグリーヴァや猿たちが故郷に帰った後も、アヨーディヤーに残って、ラーマに仕え続けたのでした。


(「要約・ラーマーヤナ」)
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ハヌマーン生誕日

2016-04-22 05:44:41 | 松川先生のお話
今日は、インドで最も人気のある神の一人、ラーマの偉大なしもべにしてシヴァの化身でもある、猿の神様ハヌマーンの誕生日です^^




 さあ、君たちはマハーヴィーラ(ハヌマーン)の性質を自分たちの理想としなくてはならない。
 彼は感覚を完全に支配し、驚くほど賢明であった。
 さあ、君たちは自分の人生をこの奉仕の偉大なる理想の上に築かなくてはならない。
 それを通じて、他のすべての理想は徐々に顕現してくるだろう。
 一切の疑いを入れないグルへの完全服従、そしてブラフマチャーリヤ(禁欲)の遵守――これは成功の秘密である。
 一方ではハヌマーンは奉仕の理想を象徴しているが、もう一方では、全世界を恐れさせるライオンのような勇気を象徴している。
 彼はラーマのために自分の人生を捧げることを少しもためらうことはなかった。
 ラーマへの奉仕以外のすべてのことに極度に無関心であり、偉大なる世界の神々ブラフマーやシヴァの境地に達することさえも、彼にとっては些細なことだった!
 シュリーラーマに最善を尽くすこと、それが彼の人生のただ一つの誓いだった。
 そのような心からの信仰心、これを求めるべきなのだ。


 ――ヴィヴェーカーナンダ


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至高者の祝福(18)「人間の運命」

2016-04-20 21:25:04 | 経典の言葉・聖者の言葉


第二章 第13話 人間の運命
 

 至高者は続けました。

「人間として生を受ける魂は、神の命によって、受精の瞬間に、母親となる女性の子宮の中へ入っていきます。

 母親が口にする飲食物から栄養をとり、胎児は、糞尿の貯蔵庫であり、寄生虫の住処である腹の中にとどまりながら、日々成長していくのです。
 
 母親が口にする刺激的な食べ物、熱い食べ物、冷たい食べ物などで、胎児は非常に苦しむでしょう。
 
 母親の子宮の中で、まるで籠の中の鳥のように自由を奪われた胎児は、幾百もの過去世で自分が犯した愚かな行為を思い出し、息が詰まるように苦しみ続けるのです。そのような状況下で、果たして心の平安などがあるでしょうか?

 出産間近になると、胎児に宿った魂は、苦しみのうめきを上げながら、主に対してこう懇願するのです。

『ああ、蓮華の御足をされる主よ、衆生のためにあなたは慈悲によって今まで多くの姿をとられて、この地上に降誕され、衆生の恐怖を取り除かれたのでした。そして私はそのあなたによって、自分の犯した悪にふさわしく、この状況に落とされたのです。そのあなたに、私は帰依するのです。
 本来肉体を持たない私は、今、五大元素と感覚器官、グナ、そして自我意識などによって構成されるこの肉体の中に包まれました。それゆえ私は、プラクリティと真我の管理者、全智なる最高者であられ、肉体に妨げられぬ栄光を持つあなたを、心から崇拝するのです。
 過去と現在と未来に関する叡智を、主以外の誰がわたしに与えてくれるでしょう? すべての衆生に宿る真我は、主であるあなたの部分的顕現なのです。それゆえ私たちは、あなたを崇拝するのです。

 他人(母親)の不浄物のたまり場(子宮)に閉じ込められて、消化の炎で身を焼かれる私は、ああ、主よ、いつになればこの牢獄から抜け出せるのでしょうか?
 
 動物などの肉体に束縛された魂は、快不快を知覚する本能を具えるだけです。しかし幸いにもこの私は、自己管理を行なうことのできる、人間という肉体を持てたのです。この私自身としてあらわれる太初の真我の御慈悲によって、私は理性を授けられ、そのおかげで私は、自分の心の内と外に、そのお方を見ることができるのです。
 私は子宮の中で、このように苦しい生活を送っています。しかし、ああ、主よ、私はここから出て外の世界に行くのは、もっと嫌です。そこに行くなら、魂は必ずマーヤーに襲われるでしょう。そしてマーヤーに支配されるなら、私は肉体を自分と思い込み、果てしない生死を繰り返す羽目となるのです。
 それゆえ、どうか私の心が、主の御足に確立されることのできますように! そして他のものには心を動かさず、最高の友である智性によって、世俗の海から真の自分を取り戻すことのできますように! そうしてもう二度と、このよう生の苦しみを、私が受けることのありませんように!』

 魂が、このように子宮の中で主に懇願すると、出産を促すエネルギーが胎児を突き動かし、呼吸もできず、苦しみのあまりすべての記憶を失い、非常な困難を伴いながら、外に出てくるのです。
 血と不浄物にまみれて外に出てきた赤子は、まるで糞便から湧き出た蛆虫のように、身もだえしてのた打ち回ります。そして子宮の中で得た智慧をすべて失い、いまや肉体を自分と思い込み、大声で泣き始めるのです。

 その哀れな生き物は、かゆくても自分の体をかくことさえできず、座ることや立つことも、自分では何一つできない有様です。
 
 幼年時代から少年時代を、彼は苦悩に満ちて成長していき、やがて成年に達して、自分の望みがかなわず嘆くようになり、そして無智により怒りに燃えるでしょう。
 歳とともに彼の自尊心と怒りは増大していき、感覚の楽しみを求める彼は、同じものを求める他者と争って、やがてその身を破滅させるのです。
 間違った理性を持ち、存在せぬものに固執する愚かな魂は、五大元素でできた肉体を自分だと思い込み、輪廻の原因となる愚かな行為を行ない続けるのです。
 もし性や舌の楽しみを求める享楽的な人々に影響され、自分もそれらを喜ぶようになるなら、彼は再び地獄界へと落ちていくでしょう。
 不道徳な愚か者、女の言いなりとなった者、自分を肉体と同一視した哀れな者、こういう者とは、人は決して付き合ってはならないのです。もしそのような者と関わるなら、自分が持つ真実や誠実さ、純潔、慈悲、心と感覚の制御、智慧、謙虚さ、忍耐などのすべてが消えてしまうのです。

 異性への愛着、または異性を好む者との交際でもたらされる誤謬と束縛は、他の何よりもひどいものです。
 ああ、異性という姿をとる、この私のマーヤーが持つ力を見るがいいでしょう。世界を征服した帝王までもが、彼女が少し眉を動かすだけで、その足元に踏みつけられてしまうのです。

 ヨーガの最高地点に到達したいと願う者、または私をあがめて自分の本質を悟った者は、決して若い異性と親しくすべきではありません。それこそが地獄への門であると、聖典ははっきりとそう宣言しているのです。
 異性というマーヤーは、ゆっくりと人を罠に陥れていくのです。異性は自分にとっては死そのものだと、そのようにみなさねばならないのです。

 肉体が活動を停止したとき、それが死と呼ばれ、魂が新たな肉体を自分自身とみなし始めるとき、それを誕生と呼ぶのです。
 それゆえ人は決して死を恐ろしいものとみなしたり、また物を惜しんだり、無明に陥るべきではありません。人は魂の真の性質を悟り、執着を捨てて、目的をしっかりと見据えて生きるべきでしょう。
 ヨーガの修習と離欲によって、正しい智性を強めつつ、人はこの幻の人生を生きていくべきなのです。」
   


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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第18話」

2016-04-20 01:05:00 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第18話」です。
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至高者の祝福(17)「肉体や家族などへの執着による、魂の堕落について」

2016-04-19 10:19:16 | 経典の言葉・聖者の言葉

第二章 第12話 肉体や家族などへの執着による、魂の堕落について


 主カピラは続けました。

「魂が幸福を求めて苦心して集めたものを、カーラ(時)はすべて破壊してしまい魂は嘆き苦しむのです。
 愚かな衆生は、自分が持つ家や土地や財産、さらには妻や子供などを、永遠の所有物だと考えてしまいます。
 主のマーヤーに惑わされた魂は、地獄に生まれ変わったとしても、自分の肉体を放棄しようとせず、快楽を求め続けるのです。
 自分の肉体や、妻、子供、家、家畜、財産、親族などに強く執着しながら、自分は全く幸福な人間だと思っているのです。
 邪悪な心を持つ愚か者は、何とかそれらを維持しようと、絶えず不安に駆られながら、絶え間なく罪を犯し続けるでしょう。
 淫乱な異性に心も感覚も骨抜きにされ、その場限りの優しい言葉に心を奪われた人は、困難と邪悪な行為に関係する、いらぬ義務だらけの家庭生活に執着し続けます。そして躊躇もせずに邪悪な義務を遂行します。そしてたまたま不幸に見舞われないことを、彼らは幸福だと考えるのです。
 周りに多大な迷惑をかけて得たお金を、彼は自分の快楽と、家族の養育のために使い、やがては身の破滅へと突き進んでいくのです。
 自分の仕事が失敗するや、また再び始め、さらに失敗を繰り返すと、ついには忍耐を失い、他人の財産をうらやみ、貪欲さはさらに増していくでしょう。
 悪運にて努力が無に帰するや、彼はもはや一文無しとなり、自分の家族を養うこともできなくなるでしょう。困り果てて頭を抱え、見るも悲惨な苦境に落ちて、心配によってため息をつくばかりとなるのです。

 年老いた雄牛は用なしとされるように、家長が自分たちを養う能力を失ったと見るや、彼の妻や家族は、もはや以前のようには彼を尊敬しなくなります。
 彼は老齢のために腰は曲がり、病に倒れ、食欲も活動力も減退し、寝たきりとなり、ただ死を待つばかりとなり、自分の妻や子供たちから軽蔑され、犬のように食事を与えられて生きていくのです。
 死が近づくや、彼の眼球は飛び出し、気管は痰で閉塞し、咳と荒い呼吸で身体は衰弱していき、断末魔の声を振り絞って、ついに彼は息絶えるのです。
 
 家族を養うことや快楽を満たすことだけを考えて、自分の心や感官を制御しようと努力しなかった者は、親族の泣き喚く中で意識不明にされ、苦しみのあまり分別も働かないまま死んでいくのです。
 そのとき、二人の恐ろしい死神の使いが、怒りに燃える目をして、死者が到着するのを待っています。それを見て彼は、恐ろしさのあまり、糞尿を垂れ流すでしょう。
 彼の魂は、地獄の苦しみを受けるための特別な身体に移され、首には縄をかけられて、地獄へいたる長い道のりを引きずられていくのです。
 死神の死者たちの脅し文句に心は引き裂かれ、道の途中では犬にまで咬まれて、自分のなした罪について考えるや、彼は非常な不安に震え始めるでしょう。
 空腹と喉の渇きにさいなまれ、上からは太陽が照りつけ、燃える森からは熱風が吹きつけて、鞭で背中を叩かれ、日陰もなく、水も飲めずに、熱砂に足を焼かれつつ、彼は地獄へと引きずられていくのです。
 積み上げられた薪の上に座らされて、そこに火をつけられ、さらに自分の肉体を自分自身で、または他の者に切り取られて、それを自分で食べる羽目となるでしょう。
 地獄の犬やハゲワシに内臓を引きずり出され、それでもまだ彼は死ぬことなく、さらに蛇やさそり、ハエなどが、彼の身体を咬み、刺しまわるでしょう。
 手足は一本ずつ引き抜かれて、象たちに身体を踏みにじられ、また高い山の上から落とされたり、水の中に沈められたりもするでしょう。
 
 先に述べたように、自分の肉体や家族などに執着し、ただそれらを肥やすために生きてきた人々は、その家族も肉体もこの世に置いて、自分のなした行為の結果を、ただ一人地獄で、このようにして刈り取られるのです。
 悪業を積んで養った肉体を脱ぎ捨て、彼は罪の詰まった袋を頭に乗せて、ただ一人、暗い地獄の世界へと引きずられていくのです。
 そして生前犯した罪を、その地獄の世界で永い間にわたって刈り取られた後、幸運な者は何とか地獄から抜け出して、犬や豚などの動物の生涯を何生も送り、そこでカルマが浄化された者のみが、ようやく人間として再び生まれてくるのです。」
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至高者の祝福(16)「バクティの真の意味」

2016-04-19 10:13:20 | 経典の言葉・聖者の言葉

第二章 第11話 バクティの真の意味


 デーヴァフーティは言いました。

「あなたは、マハト・タットヴァ、プラクリティ、そして真我について、語ってくださいました。どうか主よ、次に、それらの議論の目的である、バクティ・ヨーガについて詳しく説明してほしいのです。
 衆生は実体なき肉体を自分と同一視して、智慧を奪われ、行為に執着して疲れ果てています。そしてまことに長き時間を、無智という底なしの闇で眠り続けているのです。
 そんな私たちを目覚めさせるために、あなたはヨーガの光を広げるために、大空に輝くあの太陽のように、この世に姿をあらわされたのです!」


 至高者は答えられました。

「バクティ・ヨーガは、人の心の持ち方によって、多様な姿となってあらわれるでしょう。
 怒りやすく、自分自身をこの私とは別と捉え、私に対する信仰を、害心、偽善、ねたみの心でなす者は、タマス的な信仰者といわれます。
 この私を、神像などを通して、この私とは別個な存在とみなして、感覚的喜びや名誉、権力などを得たいがために崇拝する者は、ラジャス的な信仰者といわれます。
 またこの私を自分とは別な存在と考え、自分の罪をあがなうために、また至高者に捧げるために行為を行ない、この私への崇拝こそ自分の義務だと考える者、こういう人は、サットヴァ的な信仰者といえるでしょう。
 しかし、すべての者の心に住む至高者であるこの私に、全く私心を持つことなく、永遠の愛を捧げる信仰、それこそが、完全なバクティ・ヨーガと呼ばれるものなのです。

 至高者から自分に与えられた義務を、私心を持つことなく忠実に果たし、
 日々の供養と礼拝を、殺生をすることなく、欲望を持たずに行なって、
 私の像などを見て、あがめ、賛美し、礼拝して、
 すべての生き物を私の現われとみなし、
 忍耐と離欲を実践して、
 立派な心の持ち主を尊敬し、
 苦しむ者には哀れみを抱き、
 五つのヤマ(非暴力・不盗・誠実・禁欲・不所有)を実践し、
 五つのニヤマ(清浄・知足・苦行・聖典学習・至高神の祈念)も実践し、
 心・言葉・行為を調和させて、
 聖者に心から仕え、
 自己本位な思いを持たず、
 私を満足させるために行為をなす。

 このように努力する者は、やがて完全な浄化を得、私への愛を持つようになるでしょう。

 バクティの実践によって心の調和を得たなら、その人は私へといたることができるのです。
 私はすべての生き物の中に、真我として宿っているのです。それゆえ、万物に宿る私を軽視するなら、たとえ神像などを崇拝したとしても、彼は礼拝について曲解した者なのです。
 
 自尊心が強く、他の身体に宿る私を憎み、私を自分とは別の存在とみなして、他の生き物に深い悪意を抱く者は、決して心の平安を得ることができないでしょう。
 たとえうわべだけの信仰心で神像を崇拝しても、彼が他の生き物を蔑視するなら、私は決してそれを喜びはしないでしょう。
 自分自身や他の生き物の中に、等しくこの私が存在することを悟るまでは、人は自らの義務を果たしながら、神像などを通して、最高の支配者である私を礼拝すべきなのです。

 ゆえに人は、すべての者を平等に眺めて、布施や慈悲の行為を行ない、また親切な態度で接することで、真我として万物に宿るこの私を満足させるべきなのです。

 人間の中では、ヴェーダを知る者が立派な者とされますが、彼よりもより優れているのは、ヴェーダの意味をよく理解する者でしょう。
 彼よりさらに立派なのは、人々の疑いを晴らすことのできる人です。
 それによりもさらに立派なのは、自分の使命を果たす者です。
 それによりもさらに上位にあるのは、執着を放棄して、報いを求めることなく、自分の使命を果たす者でしょう。
 そして彼よりも優れた者は、自分の行為とその結果、さらに自分自身をも私に捧げ、私と自分との間に区別を設けぬ者でしょう。
 そして最後に、自分の心と行為をこの私に捧げ、自分が行為者だという思いを全く持つことなく、すべての者を平等に見る者、彼よりも偉大な者は存在しないでしょう。

 バクティ・ヨーガとアシュターンガ・ヨーガのいずれの道を通っても、人は至高者である私に至ることができるのです。
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至高者の祝福(15)

2016-04-19 10:07:13 | 経典の言葉・聖者の言葉



第二章 第10話 アシュターンガ・ヨーガ



 至高者は続けました。

「これを実践するだけで、人の心は浄化され、神への道を歩むことができるヨーガについて、これから説明していきましょう。

 与えられた義務を懸命に果たし、
 禁じられた行為から身を引いて、
 自然と得たものを神の意思と考えてそれだけに満足し、
 真我を悟った聖者の足を崇拝し、
 現世的宗教・富・愛欲のすべてを放棄して、 
 解脱に向かう義務にこそ喜びを抱き、
 定められた量の清い食事をとり、
 言葉と行為と心において非暴力を実践し、
 真実だけを語り、
 盗むことなく、
 必要最小限のものしか持たず、
 性行為を避けて、
 よく苦行を実践し、
 心と体の純潔を守り、
 聖典を学んで、
 神を礼拝し、
 無駄話を話さず、
 正しい姿勢を保持して、
 呼吸をゆっくりと制御し、
 感覚を対象から引き戻して、それらを内側へと向け、
 心とプラーナをチャクラに固定して、
 至高者のリーラ(遊戯)に思いを凝らして、
 自分の心を静めていく。

 これらのこと、および他の方法によって、人は自分の呼吸を熱心に調節して、悪に慣れ親しむ邪悪な思いを制御し、心を神の念想へと向けていくのです。

 まず息を体中に満たし、しばらく呼吸を止め、その後にゆっくりと吐きます。あるいはこの反対の順序でもかまわないでしょう。このようにして気道を清浄にすることで、心は堅固となっていき、興奮状態から解放されるのです。
 火と風によって、金塊に含まれる不純物が除かれるように、プラーナーヤーマによって、人の心は直ちに清まっていくのです。
 呼吸を調節することで、三種の体質の不調和を解消し、精神集中によって悪業を排除して、プラティヤーハーラによって感覚の対象との接触を中断して、瞑想によって主への汚れた思いを消し去るのです。
 このようにして心がヨーガの実習によって純化されたなら、主の姿を念想していくのです。

 主のお姿はまことに人の心を魅了し、信者たちに慈悲を与えようと、常に心を配っておられるのです。
 主の栄光はまことに賛美するに値し、すべてを聖化してくれるものです。このような主のお姿を、心が揺れ動かなくなるまで、瞑想し続けるべきでしょう。
 主の遊戯はまことに目をひきつけるものです。それゆえ人は真摯な信仰心を抱いて、主が立たれ、歩き、座られ、また歩き回る様子を、思い描くようにすべきなのです。

 そしてその後、慈悲ゆえに地上に降誕される、化身としての主のお姿に心を集中していきます。
 信者たちの苦しみを和らげようと、主が慈悲によって眼から放たれる微笑、そして優美なまなざしを、熱心なバクティの思いで、思い描いていきます。
 信者が流した悲しみの涙の海を、その笑みは干上がらせてくれるでしょう。

 そして最後に、自分の心の中で、主が笑っておられる様子を思い描き、愛の思いに浸ってそれを瞑想するようにします。主の笑われるお姿は非常に魅力的で、それゆえそれは容易に瞑想できるでしょう。心をそれに捧げつくすなら、もはやそのほかには何も見たいとは思わなくなるでしょう。

 人はこのような瞑想を行なうことで、至高者への愛を育てられるのです。彼の心はバクティの中に溶けていき、歓喜によって身体の毛は逆立ち、こみ上げる愛の思いに、涙の海につかってしまうでしょう。
 
 ヨーガを実践して無智と縁を切り、心を感覚対象から引き戻して、喜怒哀楽を超越したブラフマンの境地に自己を確立したなら、その人は最高の真我を悟ることができるでしょう。そして今まで真我に属すると思っていた苦楽の経験は、実際には無智の産物であり、自我意識に付属するものであると理解できるでしょう。
 酒に酔った者が、自分の腰に巻かれた布が落ちようが落ちまいが少しも気にならなくなるように、この究極の悟りに至った魂は、自分の肉体が神の意によって動かされ、座ろうが立とうがどう動こうが、それらへの関心をすべてなくしてしまうのです。なぜなら彼は自己の本質を悟ったからなのです。
 今や彼の肉体は完全な神の意思のもとにあり、その存在に関するカルマが刈り取られるまでは、その感覚とともに存在し続けるでしょう。そしてサマーディに到達し、真理を会得したその悟れる魂は、夢から覚めた者が夢の肉体を自分と思わぬように、自分の肉体や執着の対象などを、もはや自分のものなどとは思わなくなるのです。
 自分の家族や財産なども、自分とは関係のない存在だと理解できるでしょう。無智ゆえに認識されるすべての幻影は、純粋観照者である真我とは全く関係のないものなのです。

 主の信仰者は、魂の本質を覆って束縛をもたらす、このプラクリティのマーヤーを、主の慈悲によって克服することで、真我の実在を悟ることが可能となるのです。」

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至高者の祝福(14)

2016-04-19 09:56:59 | 経典の言葉・聖者の言葉

第二章 第9話 プラクリティと真我


 至高者は続けました。

「太陽は水に映ったとしても、決して水の属性の影響を受けることはないでしょう。
 同様に真我も、物質的な肉体に宿っていても、属性を持つことなく、変化を免れており、肉体の苦痛には全く影響されないのです。
 しかし真我がプラクリティのグナに結びつくと、彼は自分が行為者だと思い始め、自己本位の思いに惑わされていくのです。
 『自分が行為者だ』というこの思いゆえに、真我は、行為に伴った悪によって、心の平和を失っていくのです。その結果、真我はプラクリティと結合して、この世に誕生するにいたり、善趣や悪趣の輪廻を繰り返すことになるのです。
 人は夢の中では、明らかな原因がなくとも悲しんだりするでしょう。同じように、人が感覚の対象の中で生きるなら、それらは実際は存在しないにも関わらず、輪廻の悲しみは終わることがないのです。
 それゆえ人は、感覚の対象を絶えず追い求める自分の心を、バクティと離欲の実践によって、自己の支配下に置くべきなのです。

 ヤマ(禁戒)やニヤマ(勧戒)などを土台としたヨーガを熱心に行ない、
 心の集中を実践して、
 真摯な信仰心を私に抱き、
 すべての衆生に平等心を持ち、
 誰にも敵意や愛着を持たず、
 自己をよく制し、
 無駄話をせず、
 神への奉仕として自己の義務を果たし、
 さらに自然に手に入ったものだけで満足し、
 定められた少量の食事をとり、
 常に神を念想し、
 心は平静かつ平安で、 
 すべての者に親切に接し、
 慈悲深く、
 冷静沈着で、
 またプラクリティと真我の実体をよく認識して、
 『私』と『私のもの』という妄想を放棄し、
 もはや神以外には何一つ見ない。

 ――以上のように努力する者は、その純粋な智性によって、あたかも水に映った太陽ではなく太陽そのものを見るように、真我を認識するにいたるでしょう。
 そしてまた彼は、すべての根源であり、唯一者であり、何の属性も持たない、偽りの自我のかなたに唯一の実在として輝く、ブラフマンをも悟ることができるでしょう。」


 デーヴァフーティは言いました。

「ああ、神のごとき聖仙よ。
 非行為者である真我を行為に束縛する、プラクリティのグナが存在し続ける限り、どうして真我に自由があるでしょうか?
 仮に一時的に束縛から逃れえたとしても、グナがある限り、また同じように束縛されるのではありませんか?」


 至高者は答えられました。

「与えられた義務を無私の思いで果たし、自分の心を浄化して、また常に私へのバクティを育て、さらに真理を悟りうるジュニャーナ・ヨーガと強い離欲を実践し、また聖なる誓いや戒の遵守を伴った瞑想を行なう。そのように熱心に修行し続けることで、真我と強く結びつくプラクリティは、徐々に真我から離れていくでしょう。
 そして自らの栄光に光り輝き、独存に至った真我は、今まで楽しんできた彼女(プラクリティ)を、もはや悪の源泉として捨ててしまい、何の危害も与えられなくなるでしょう。
 人は睡眠時に悪夢に苦しんだとしても、目覚めるなら何の影響も受けないでしょう。同じように、心を常に私に結びつけ、真実を悟って、真我に喜びを見出した者に、プラクリティは何の危害も加えることはできないのです。
 神を念想して修行し、何生もの間、真我に心を集中し続けるなら、彼は地獄から天にいたるまでのすべての輪廻の世界に、嫌悪感を持つようになるでしょう。
 私の慈悲によって真我を悟った、強い心を持つ私の信仰者は、すべての疑念を真我の叡智によって解消し、彼はその人生で、自身の本質である、解脱という最高の祝福を手に入れて、その後も私のもとにとどまり続け、二度と輪廻に落とされはしないでしょう。
 人がヨーガによって完成するにいたり、さらにヨーガで獲得できる神通力にも心をとらわれないなら、彼は私の不死の境地に、必ず到達できるのです。」
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今日のAMRITAチャンネル「賛歌・イメージビデオ」

2016-04-18 21:38:20 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAmritaチャンネルは、「賛歌・イメージビデオ」です。



曲目

1.あなたの愛に
2.ハヌマーンチャリサ
3.Sundara Chalisa
4.ジェイジェイシュリーラーム
5.マウンテンハレークリシュナ
6.オームナマシヴァーヤ
7.神のしもべに
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