ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第五回(9)

2016-02-29 08:46:27 | 勉強会より抜粋



【本文】
 
 また、マンジュシュリーヴィクリーダには、次のように説かれている。

「精進こそが魔事の原因である。なぜなら、精進が働くとき、魔事は妨害する機会をうかがってやってくるからである。
 では、精進しない者に対しては、魔はどんな仕業を行なうのか?――精進しないこと自体が魔事である。」



 はい。ここはとても面白いっていうか美しい言葉だね。つまり、まず「精進こそが魔事の原因である」と書いてある。これは分かるよね、つまり精進。つまり皆さんが菩薩道や、あるいはバクティヨーガや、あるいは解脱の道に頑張って努力すると。そうすると当然、この世っていうのは二元の世界なんで、皆さんの中で光の世界、光のエネルギーが強くなると、闇の魔的なエネルギーも強くなる。で、あるいは別の言い方をすると、さっきも言ったように皆さんが修行を進めるっていうことは、自分の中に隠れていたけがれを乗り越えるっていうことだから。その乗り越えるときに当然その魔の働きがやってきて、それをわれわれは乗り越えない限りは成長しないんだね。だから精進することによって魔が働き出す。この原則っていうか、法則があるわけですね。しかし、じゃあ精進しない者にはどうなんですかと。精進によって魔がやってくるんだったら、精進しない者には魔は何もしないんですかと。いや、精進しないことは、それはそれそのものが魔だと。ね(笑)。
 これは本当に面白い話ですね。つまり精進しない人がここにいるとしたら、もうもともとその人は魔に取り込まれていると。だから精進はしなきゃいけない。
 だから、精進して魔がやってくる――つまり、だから逆の言い方すれば、修行と魔の働きはセットだっていうことです。だから修行すればするほど魔の働きは強くなる。これはまさに世の習いであり、修行者にとっての習いであり、当たり前のことなんだって考えてください。だからそれは覚悟を持って挑まなきゃいけない。で、次から次へと来る魔を打ち破り打ち倒し、そして乗り越え、成長していくんだね。これがだからここに書かれていることですね。
 だから逆にいうと、まずもちろんベースとしては一生懸命精進しなきゃいけない。で、精進してきて魔がやってきたら、それはもう半分喜ばなきゃいけない。「ああ、わたしがこんな修行してきたから、やっとね、こういう妨害がやってきた」と。「素晴らしい」と。「さあ、わたしはこれに堂々と戦ってね、打ちのめそう」と。「乗り越えよう」と。そういう気持ちが大事だね。
 逆に、ちょっと厳しいこと言うと、「なんか、魔、やってこないんです」と、まだ――これは精進が足りないと考えてください。だから、「ああ、平穏で、わたしは素晴らしい人生、修行人生歩んでるなあ、おれは徳があるのかな」じゃなくて、足りないんだと。精進がと。ね。そういう厳しい心の方がいいね。「ああ、おれは、前はなんかいろいろ苦しいことがあったけど、最近一年ぐらいずーっと平穏なんだよな。修行進んでるからかな」じゃなくて、努力が足りないと。ね。つまり、まだ魔がやってきてくれるほど精進してないと。「え! まだ駄目なんですか?」と。まだ魔のお眼鏡にかなってないっていうか(笑)。まだ魔がこっちを危険視するほどでもないと。ね。
 だからちょっと物語的にいえば、魔が危険視するわけですよ。魔がね、「あ、あいつ! あの修行者のあいつは頑張ってんな」と。例えばUさんが現世を捨てて修行し出したと。「やべえ、あいつ頑張りだした」と。「このままでは、この魔の世界から一人の修行者が脱してしまう!」と。よって、例えばUさんだったらUさんにガーッて魔が攻撃すると。これはだからある意味――もちろんそれは乗り越えなきゃいけないんだけど、修行者にとっては勲章みたいなものだね。だから逆に言うと「あれ? あいつ、修行する修行するとか言ってたけど、全然なんか頑張ってねえじゃん」と。「まあ、相手にするほどでもねえか」と。「放っとけばいいや」と。ね。こういうふうに魔から見られてしまうとしたら、それは全然もう修行者としては失格なわけだね。
 だから本当に、まさにいつも言うようにヴィヴェーカーナンダとかはカルマヨーガの代表的な人だけども、ああいう感じで、「人生というのは戦いである」と。つまり、徹底的に自分と戦い――あるいは法を広めるような、もし環境にあるならば、法を広めるために戦い、当然その中で妨害や――ある場合は社会的妨害だったり、ある場合は自分の精神的な問題だったりするわけだけど――いろんな妨害や障害や魔がやってくるのは当たり前のことであると。だって戦ってるんだから。だからそれを心構えとして最初に持っといたらいいね。そうしたならば、最初の話に戻るけども、決してわれわれは、最初のあの羊車行の菩薩のような、すぐにヘナヘナって後退してしまうような状態にはならないはずなんだね。普段からそういった心構えを持っていたらね。はい。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第五回(8)

2016-02-28 06:43:59 | 勉強会より抜粋


【本文】

◎魔事

 菩薩が陥る危険性がある魔事(まじ)は、プラジュニャーパーラミターにこう説かれている。

「菩薩がある段階の悟りを得たとき、しかるべき名が与えられる。
 彼はまだ不退転の菩薩としての性質を完成していないにも関わらず、自分はその名のとおりであると慢心を生じ、他の菩薩を誹謗する。それによって智慧から遠のくのである。そして素晴らしき師や法友を友とせず、悪友の仲間になって、小乗の修行者の境地にとどまる。
 慢心こそは堕落する根本罪であり、その罪は重い。」



 はい。はい、ここから「魔事」っていうパートに入りますが、魔事っていうのは、これは細かく定義するのは難しいんだけど、つまり魔の働きね。つまり、われわれは修行が進めば進むほど、あるいは進んでない段階でもね、いろんな魔の働きがやってくると。で、これは、この話っていうのはいつもいろんな形でしてるけども、つまり、なんていうかな、パターン化されてないんで非常に難しいんですね。人によって魔の働きっていろいろ違った形でやってくる。だから、こうですよって心構えをしてても違う形でやってきたりするから、非常に難しいんだけど。その魔事についていろいろ書かれているところですね。
 はい。で、まずここで出てきたのが、「菩薩がある段階の悟りを得たとき、しかるべき名が与えられる」。で、そこでまだね、完成してないのに慢心をもって他を誹謗したり云々って書いてあるけども、これはさ、例えば今の、そうですね、チベット仏教でも、あるいはヨーガの派でも、別に悟ってなくても入門しただけでよく名前をもらったりするよね。例えばチベットのなんか帰依の儀式を受けたら、「ドルジェなんとかなんとか」とかものすごいなんか、言葉にしたらね、「ヴァジュラの仏陀の何とかの覚醒」みたいなすごいなんか(笑)、「ええ!?」みたいな名前もらったりとか。あるいはもちろんヒンドゥー系でもね、その祝福を受けたりするとすごい女神とか神の名前をバーンってもらったりする。ね。で、それで慢心を生じる人がいるかもしれない。あるいはね、つまりここで何を言いたいのかっていうと、そうだな、これもいろんなパターンがあるんだけども、例えば今言ったみたいに、例えばなんか入門して名前をもらったとするよ。しかもその名前がすごくいい名前だったとするよ。で、慢心が出ると。でも、客観的に見たら分かると思うけども、別にさ、その人何も変わってないよね、まだ(笑)。ね。これから変わるかもしれないけど、別に名前をもらったっていうだけであって何も変わっていないです。あるいはね、いわゆる例えば儀式とかもそうです。伝統的なチベット仏教にしろ、あるいはヒンドゥー系にしろ、イニシエーションとかいわゆる儀式をすごく大事にするわけだね。そのある入門の儀式とかやって、で、いろんな瞑想法とか伝授されて。で、そうすると、それを受けた本人はすごく自分が何か変わったかのような、あるいは偉大な境地を得たような錯覚に陥る。もちろんそれは伝統は伝統で素晴らしいので必要な部分もあるんだけども。
 ちょっとこういうこと言うと危険な言葉になるかもしれないけども、わたしのちょっとフィーリングで言うけどね、わたしのフィーリングで言うと、少なくとも現代においては、ちょっとね、そのような伝統宗教とかの伝統的な儀式とか、あるいは伝統的な形式的な修行とかっていうのは、害かな?っていう感じがするね。つまりあまりにも形式化されてしまって、あまりにも様式化されてしまったがゆえに、ちょっとこう神聖さを失ってしまってるっていうか。で、それによって心にとらわれが生じ――あの、わたしはよくそういうタイプの人を見てきたわけだけど。つまり自分の宗派を――それはヨーガ系にしろチベット系にしろね、自分の宗派を信じすぎるがゆえに――それは本人にとってはいいことなんだけどね。自分の宗派にのめりこむっていうのは。それによって他者を批判したりとか、あるいは例えば「いや、おれはこのようなイニシエーションを受けたんだである」と。で、「それを受けてない者っていうのはまだそのような境地には至れないんだ」とかね。それは本人がそれを信じるのはもちろんいいことなのかもしれないけども、そうやって他者を批判する人たちがよくいると。で、その伝統宗教のイニシエーションにしろ、さまざまな儀式にしろ、すべては方便なわけだね。方便っていうのはそういう、あるスタイルをとることによって速やかにいろんなその障害を取り除いて、達成を早めるための方便にすぎない。つまり絶対的なものではない。でもその方便が善なる聖なる方便として使われず、魔の方便に悪用される場合があると。悪用されるっていうか、つまり魔に悪用されてしまうと。そうなると、つまりここに書かれているような慢心の罠に陥ってしまう場合がよくあるんだね。
 これはだから、今言ったことっていうのは一例であって、さまざまなパターンがある。だからもう一回全体的なことを言うとね、われわれは――いいですか?――本質的ではない、何も変わっていない、しかし「概念」とか「名前」とかに弱いんだね。だから名前とか概念を与えられたり、あるいはそのような状態になったと錯覚したときに、グワーッて慢心が出る。それはまさに今言ったような、誰かから修行者名をもらったとか、あるいは何かの儀式を受けたとか、あるいは何かの階級を受けるかもしれない。例えば、まあ、例えばだけどね、お寺に入ってある程度の修行を終えて、「じゃああなたはなんとかなんとか阿闍梨です」とかこう階級を受けたとするよ。じゃあ今日その阿闍梨ですとか言われたとして、じゃあこの阿闍梨って言われる前とあとで何か変わってんのかと。もちろんそのためにやった修行によって変わった部分ってあるかもしれない。でも、逆にいうとそこだけを信用するべきであって、本当にわたしは修行によって何か心に変化が生じたんだろうか?っていうところだけを信用すべきであって。何か、ある修行団体から、例えば「なんとかなんとかインド公認インドヨーガの三百時間終了」とかね、そんなのはなんの――それで変わったんですか、なんか、と(笑)。ね。
 よく、あの――こないだある地方のヨーガ講習会に来てる人から、「今巷にはヨーガ難民が多い」っていう話を聞いたんだけど。ヨーガ難民が多いっていうのは、一生懸命ね、つまり志をもってヨーガの先生を目指して頑張っていろんなインストラクターコースを受けて――もうネットとか見てもいっぱい書いてあるでしょ、いろんな、ヨーガの先生。「なんとかなんとか三百時間終了」とか「なんとかインド公認なんとかセンター公認インストラクター」とか、いっぱい肩書はもらったと。でも、それをある程度終えたあとに、「で、どうすりゃいいんだろうか?」と(笑)。つまり、肩書は増えたが別に変わっていないと。
 でも逆に言うと、こういう不安になる人は、まだましな人です。こないだもわたし、あるところでそういう相談受けたんだけど。ある程度そういうの取ったけども、でも、「え、まだ自分なんかが教えていいんだろうか?」っていう不安があると。こういう人はまだまともな人です。つまり自分がまだ変わってないっていうことを理解しているわけだから。だからそうじゃなくて、なんの実態もない肩書や、あるいは儀式や、あるいは、つまり概念的なものね。これによってわれわれは、本当の意味で自分の成長とかが為されていないにもかかわらず、慢心を持ってしまう。でもこの心の働きの裏側にはですよ、傲慢さがあるわけだけど。裏を返せば怠惰さ、あるいは求道心のなさがあるんだね。
 これも前から何回も同じこと言ってるけど、ちょっとわたしのことで言うと――ちょっとわたしの場合は違うんですけども、わたし中学生ぐらいから修行しててね、高校生ぐらいのときに――何回か言ってるけど、すごくいきなりね、神秘体験がいっぱい始まったことがあったんだね。ブワーッてもう体中が光の塊になったりとか、あるいは意識が無限に広がったりとか、あるいは夢と瞑想と現実がもうごっちゃになって分かんなくなったりとか。あるいは瞑想してたら梵字が見えたり、チャクラが見えたりとか、いろいろこう突然始まったんだね。で、そのときに自分としては驚きがあって。で、一瞬やっぱり、「あ、おれってなんかかなり高い段階を達成したのかな?」とかね、あるいは「おれは偉大な聖者の生まれ変わりかな?」とかね(笑)、思ったりもしたんだね、一瞬ね。例えばその、自分の体がもう光そのものになったような経験したときとかも、「これはすごい!」と。「これは偉大な境地かもしれない!」って思ったんだけど、やっぱりわたしはちょっと――自分のことなんであんまりあれだけども、一応誤解を恐れずに言うとね、おそらくたぶんわたしは過去世でたくさん修行してたんだと思う。だからはまらなかったんだね、そこでね。「すげえ! これすげえ! なんか、何が起きてるんだ!」って一瞬思ったんだけど、ふっと自分を観察すると、何か別に変わってない(笑)。ただヴィジュアル的に、あるいは音楽的にいろいろ起きてるだけで、自分の普段の――そのころわたし、今よりももっとこうちょっと怠け者的なところがあって。あと例えば、そうだな、いろんなもちろん趣味っていうか現世的な執着とか欲望とかも当然いろいろあったわけだね、今以上にね。で、それは全然変わってないと(笑)。変わってなくて、ただ体験だけが起きてると。それを見たときに、「あ、これ違うな」って思った。うん。「おれ悟ったかな? とか今一瞬思ったけども、ああ、なんか全然変わってないな」と。
 それからもう一つわたしがそのとき思ったのは、やっぱりわたしはね、理想が高かったんです。理想が高かったっていうのは、最初そのヨーガの道に入ったときに、ヨーガの本とか――まあ縁があってね、ヨーガの経典とか読んだときに、「すげえ!」と。「真我」とか「解脱」とか言ってね、「これすげえ!」と。この境地っていうのは本当にわたしがね、もしわたしがそれを得たとしたならば、もう本当にもう――もうその境地っていうのは本当にもうパーフェクトな、なんの一点の染みもない至福に満ちた完全な悟りなんだろうな、っていうのがあったんです。だから、「こんなんじゃねえだろ」っていうのがあったんだね。いかに体中が光に包まれても、なんかボーッとしてるし(笑)、全然変わってないから、「これがおれの求めてる悟りなわけがないじゃないか」と。「ああ、たぶんこれは魔境かもしれないし、あるいは魔境じゃないにしろまだ本当に浅い段階の経験なんだろうな」ぐらいに思ってた。だからたぶんそれは、わたしにたぶん、過去世からの修行経験があったから、たぶんあんまりびっくりしなかったんだろうね。「ああ、これねこれね」って感じで潜在意識が分かってたからだと思うんだね。
 でもそうじゃなくてそのような、今言った――今ちょっと自分のことだからあんまり言いにくいけども、今わたしにとって良かったことっていうのは、まず素晴らしい高い理想があった。それから修行経験がおそらく潜在意識にあったってこと。それから、ある意味謙虚さがあった。「え、おれそんな、まだそんなんじゃないだろう」っていうね。でも逆にいうとこの三つがないと、つまりもともと傲慢でね、「おれはすごい、おれはすごい」っていつも思ってて、で、理想が低いと。ね(笑)。つまり「いや、完全な解脱っていうのは本当にパーフェクトにクリアじゃなきゃいけないだ」っていう理想がないと。そして、修行経験も浅いと。この場合は当然引っかかるわけだね。例えば経験だったら経験に引っかかる。ちょっと光が見えたからって、「うわあ! すげえ! 光だ!」と。ね。「やはりおれは偉大だった」と(笑)。で、そこでもう「おれの修行は終わった」と思ってしまう。これがだから――これは体験の場合ですけどね、体験による慢心の罠だね。
 で、ここで書かれているのは、もう体験すらないわけですよ。体験すらなくて、人からなんか一つのレッテルを貼られたと。そうだな、皆さんの場合はね、人からの賞賛の言葉とかもそういう意味では魔になるのかもしれない。例えばT君が誰か生徒さんにね、「いやあ、T君といるといつも気が上がるんです」とか言われたとするよ。で、もちろんそれ自体いいことだよね。T君といると、もし気が上がるっていう生徒がいるとしたら、それは喜んでかまわない。「あ、わたしは修行によってこんなにいい影響を与えられたんだ」と。「さあ、もっと頑張るぞ」――これならかまわないんだけど、じゃなくて、「やはりおれは偉大である」と。ね(笑)。そこで慢心になっちゃって、で、「おれは人の気を上げることができる聖者だ」っていうそのガチッとした観念が固まると、今度はここに書かれているように他者の非難が始まるんだね。「さあ、M君とかKさんとかどうなのかな?」と。「生徒さんの気を上げられるんですか?」みたいな(笑)。

(一同笑)

 ちょっとこう、慢心になって(笑)、人を比較して、「おまえたち駄目なんだ」みたいなそういうのが始まるんだね。
 でもこれも分かると思うけども、この生徒さんから――この例えの場合はね、言われたのがきっかけだったわけだけど、別に言われる前と言われてからでは何も変わってないはずなんです。変わってないのに、そのレッテルによって自分をすごく高く持ってしまうってね、それによって人を批判したり、人を比べて低く見ることによって自分を成り立たせたいって思ってしまうと。こういう罠にはまってしまうんだね。
 で、いつも言うけども、こういった魔の働きっていうのは、最初は小さな罠から始まります。小さな罠から始まって、そこを悶々としているうちにだんだんでかくなっていくんだね。で、やっぱり魔っていうのは巧妙だから、そのちょっと大きくなってきた慢心とかけがれをより大きくするような、また小さな出来事がいっぱいやってくるんだね。で、気を抜いているとどんどんそれにはまっていって、いつの間にかもうどうしようもないぐらいに慢心が大きくなってるとかね。こういう場合がありますよと。よって、ここにも書かれているように「慢心こそは堕落する根本罪であり、その罪は重い」と。
 いつも言ってるように、慢心っていうのは、最も自分が気付にくい煩悩でもある。ね。だからもちろん気付いたらしっかりと切り捨てなきゃいけないんだけど、気付きにくいので常に「自分には慢心がないかな? 慢心がないかな?」っていうその自己チェックを怠らないようにしなきゃいけないね。
 でも難しいのはさ、逆に、もちろん卑屈になっても駄目ですよ。謙虚になって、いつも言うように随喜するっていうかな。自分が為し得たことで良かったことはもちろん喜んでかまわない。しかしそこに慢心を持たないっていうことだね。
 慢心っていうのは言い方を変えると、さっきも言ったようにガチッと自分の状態を固定しレッテルを貼り、そこにしがみつくようなものですね。慢心の状態っていうのはね。だからそうじゃなくて、まさにカルマヨーガ的に、「自分はただ目の前にある為すべきことを為す」と。為して成功したら良かったと。例えば今の話で言ったら、為すべきことを為すと、で、それで目の前の、例えば生徒さんや周りの人が「あなたのおかげで良かった」って言ってくれたとしたら、「ああ、本当にわたしは神のしもべとしてやることができて良かった!」――これで終わりなんです。で、また次に為すべきことを為すと。これでオッケーなんだね。でもわれわれは、さっきから言ってるけども例えば名前によって、人からの言葉によって、あるいはある場合は体験によって、ガチッと自分の世界を止めてしまう。で、その慢心という籠にグッとこう引きこもってしまうんだね。それによってどんどん修行は進まなくなり、どんどん落ちていくと。だからこの慢心という罠には気を付けなさいっていうことですね。
 はい。じゃあ次いきましょうね。
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今日のAMRITAチャンネル「アニメ・ハヌマーン 第七話」

2016-02-27 18:26:26 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ・ハヌマーン 第7話」です。
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ヨーガーナンダと握手

2016-02-27 07:30:08 | 松川先生のお話

 今朝、ヨーガーナンダと握手する夢を見た笑

 ヨーガーナンダはどこかに出発するところか、または帰ってきたところらしかった。人がごった返している。ヨーガーナンダは私に寄って来て、私と握手した。そしていったん立ち去ろうとしたが、もう一度寄って来て、もう一度握手した。また、誰かわからないが西洋人の高貴な女性も寄って来て私と握手した。
 そこには、ヨーガーナンダ以外にも、近代の聖者たちが何人もいた。ヴィヴェーカーナンダやシヴァーナンダがいたような気がするが、よく覚えていない。

 そういえば、関係ないが、数日前に、中沢新一氏とプロレスごっこする夢を見た笑

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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第六話 前編」

2016-02-26 18:56:19 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第6話 前編」です。
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今日のAMRITAチャンネル「勉強会講話より『ラーマクリシュナの福音』」第71回」

2016-02-25 12:56:42 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「勉強会講話より『ラーマクリシュナの福音』第71回」です。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第五回(7)

2016-02-25 08:28:24 | 勉強会より抜粋


【本文】
 如来神通行の菩薩とは、速やかに目的地に到達する旅人にたとえられる。
 このような性質を持つ人は、菩提心を生じて、甚深にして広大な大乗の意味を理解し、常に一切の衆生を救済するために、慈悲や菩提心をもって、六つのパーラミターなどの菩薩行に精進する。また他者をもことごとく同様の道に安住させる。このような人が、如来神通行の菩薩である。



 はい。これはね、最高のパターン。つまり全くね、迷わず速やかに目的地に達成する菩薩っていうのは、「甚深にして広大な大乗の意味を理解し、常に一切の衆生を救済するために、慈悲や菩提心をもって、六つのパーラミターなどの菩薩行に精進する」と。これはもう、言葉で言うと簡単になっちゃうわけだけども。あるいは、「他者をもことごとく同様の道に安住させる」と。
 つまり机上の空論ではなく、六波羅蜜に代表されるような菩薩道を日々、全力で――いいですか?――実践し、完成するっていうか。つまりここで完成するって言ってるのは、つまり「やったけどできなかった」っていうんじゃないっていうことです。つまり、「ちゃんとやる」ってことです。ね(笑)。最初われわれは、やろうとしたけどなかなかできないんですよね、っていう段階から始まるわけだけど、そうじゃなくて、やると。ね。ちゃんと「菩薩はこう生きるんだ」っていわれることを百パーセントやると。
 あのね、心が苦しいかどうかはどうでもいいです、それは。よく言われるように、つまり演技でもかまわない。演技でも真似っこでもかまわない。もし皆さんが一日百パーセント、菩薩としての生き方を苦しみつつもできたとしたら、それは演技かもしれないが、少なくとも一日は菩薩だったってことになる。一生できたら結局その人は菩薩だったってことになる。ね。例えばY君が一生、もう超やせ我慢しつつ、菩薩っぽくふるまって、で、それが一日で終わらず一年、二年、十年、百年と続いたと。で、死ぬときに、「いやあ、先生、実はおれ、全然違うんだけど(笑)、ずーっと菩薩を演技してたんですよ」――ガクッて死んだとするよ。でもですよ、百年演技すりゃあそれはもう菩薩だよね。それはもちろん仏陀になったとは言えないけども、それは偽物といえるんだろうか?っていうことになる。それはもう別に菩薩っていってもかまわないです、それはね。だからやせ我慢でもいい、演技でもいいので、百パーセント、菩薩の教えどおりに生きると。それは、そのようにしっかり言葉を発し、あるいはそのような考えを持ち、あるいはそのような行動を行なうっていうことを百パーセント行なうと。これができたら、本当に速やかにね、その目的地に達成するだろうと。
 だから結局、これもだから簡単といえば簡単なんだね。うん。もっとも速やかに仏陀になる方法は何ですか?――それは簡単ですと。大乗の教えを学び――これはもちろん別パターンとしてはバクティヨーガでもかまわない。バクティヨーガや大乗の教えを学び、百パーセントその通り生きなさいと。それだけですと。ね。
 もちろんここでは念正智が必要になるわけだけど。「自分が教えから外れていないかな?」っていうチェックがないと無理なわけだけど。チェックしながら百パーセント、一瞬も外れずに生きると。ね。これができたらもう速やかにいけますよと。
 しかし実際には、すぐに心は落ち込んだり駄目になったりするので、いつも言うように実際にはムドラー等の行法とか、あるいは歌を歌ったり、あるいはいろんな神の瞑想したりっていうバクティ的な方法とか、いろんな補助的なものによって自分の意識状態を常に高めた状態でキープすることがなければ、なかなか難しいね。
 だから逆にいうと、日々の修行っていうのはそのためにあるといってもいい。自分の心を常に高い状態でキープし、そして一瞬も理想から離れないで生きると。これが大事ですね。
 はい。じゃあここまででなんか質問その他ある人いますか? 
 はい。じゃあ、なかったら、ちょっと中途半端ですけど、もうちょっとだけいってみましょうかね。じゃあ「魔事」ってやつね。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第10話」

2016-02-23 19:22:06 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第10話」です。
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今日のAMRITAチャンネル「アニメ・ハヌマーン 第六話」

2016-02-20 20:24:31 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ・ハヌマーン 第6話」です。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第五回(6)

2016-02-20 07:47:44 | 勉強会より抜粋


【本文】

 多学神通行の菩薩とは、あまり道には迷わないが、ある程度時間がかかって目的地に到達する旅人にたとえられる。
 このような性質を持つ人は、菩提心を生じて大乗に従い、大乗を信じ理解し、大乗の経典を読み、大乗の菩薩を尊敬する。彼はまた自ら大乗を求め、あまねく具足する。彼はまた命がけで大乗の菩薩を讃嘆し、心から敬い、供養する。また、まだ未熟な菩薩に対しても軽蔑しない。このような人が、多学神通行の菩薩である。



 はい。はい、「多学神通行」と呼ばれる存在っていうのは、その前の段階と比べてね、そんなに道には迷わないと。しかしそんなにスピーディーに到達するわけでもないという状態ですね。
 はい。これはその、これだけ読むと、「ああ、そうなんだ」って感じなんで、そのあとの部分――だから逆にいうとわれわれはこのような性質を身に付けることで、そのようなね、あまり道に迷わず到達できるようになるんですよっていうふうに読んだ方がいいね、ここはね。
 それは何かっていうと、まず「菩提心を生じて大乗に従い、大乗を信じ理解し、大乗の経典を読み、大乗の菩薩を尊敬する」と。「彼はまた大乗を求め、あまねく具足する」と。はい。あの、ここはちょっとまとめて、整理して言うならば、まずわれわれはしっかりと、もちろん菩薩の――皆さんにね、提供してるような『入菩提行論』やこの『スートラ・サムッチャヤ』、『シクチャー・サムッチャヤ』をはじめとした菩薩道の教えをしっかりと学び、あるいは理解し、で、それを実践すると。そして求めると。つまりしっかりと求道心をもって、「わたしは菩薩になりたいんだ」っていう気持ちで日々修行すると。
 はい。そして、次のパートが、「命がけで大乗の菩薩を讃嘆し、心から敬い、供養する」と。そして、「未熟な菩薩に対しても軽蔑しない」と。
 はい。まずその大乗の教えを求めるわけだけども、それだけではなくて、自分の先輩であったり、あるいは自分の師であったり、あるいは、直接は関係ないんだけども、歴史に残るような偉大な菩薩であったり聖者であったりする人々、こういう人々を心から尊敬し、まあもっと言えば心から奉仕し、全生命をかけて、菩薩の道をゆく聖者や師や仏陀たちを供養するっていうかな。こういう人生を歩むと。
 で、もう一つがやっぱり大事です。もう一つは、「まだ未熟な菩薩に対しても軽蔑しない」と。ね。これはちょっとポイントとしてだけ、言葉でだけ言うけども、決してわれわれは、ね、これいつも言ってることだけど、他者の中に未熟さや、あるいは欠点を見つけても絶対に軽蔑してはいけない。もっと言えば、批判してはいけない。批判や軽蔑が心に浮かび、あるいは口に発しっていうことをやってると、当然菩薩は自分で自分の境地を落っことすことになる。あるいは自分の道を誤らせることになるんだね。だからこれはね、軽く書いてあるけども大いなるポイントだと思います。
 大いなるポイント――もう一回言いますよ、ひたすら菩薩道を求め、学ぶと。そして、ひたすら先をゆく菩薩たちに奉仕すると。そして、決して他の菩薩の批判をしないと。あるいは軽蔑をしないと。これがここに書いてあるポイントだね。そのようなことをしっかりと日々行なう者は、まあちょっとは迷うかもしれないが、時間もかかるかもしれないが、そんなに迷わずに目的地に行きますよっていうことだね。
 あのね、これはね、簡単なことに聞こえるかもしれないけど、まさに簡単なことなんです。でも、みんなやらないんです、なぜかね。つまりそれは人生を通じてのことなんで、みんな忘れちゃったり、ポイントを忘れちゃったりするわけだけど。
 もう一回言いますよ。簡単です、やることは。皆さんが人生の中でやることって簡単なんです。まずは、しっかりと菩薩道を求め、学び、実践すると。これが一つですよね。で、次に、自分の師や、あるいは偉大な聖者に奉仕すると。そして、決して他を批判しないと。この三つを皆さんが為すだけでも、皆さんは、皆さんの人生っていうのは、非常に意味あるものになるし、皆さんの菩薩道っていうのは進んでいくでしょう。
 はい。じゃあ次いきましょう。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第五回(5)

2016-02-20 07:21:30 | 勉強会より抜粋


【本文】

 日月神通行の菩薩とは、道に迷いながらも、長い間かかってなんとか目的地に到達する旅人にたとえられる。
 このような性質を持つ人は、菩提心を生じて大乗に従い、小乗の教えに頼らず、心に思うこともない。ただ大乗だけを心に抱く。このような人が、日月神通行の菩薩である。



 はい。「日月神通行」――つまり太陽と月の神通行っていうのは、これはどういう例えかよく分からないけども、まあそれはどうでもいいことなんでね。一応三番目の段階と考えてください。で、ここからある意味、価値あるっていうかな、しっかりとした菩薩に入ってくるわけですね。で、まだこの段階の菩薩は道に迷うと。やっぱり途中でね、道に迷うし、しかもやっぱり時間がかかると。しかしなんとか到達すると。
 だから最低限われわれはこの段階ぐらいにはいかなきゃいけない。っていうのは、われわれはまだやっぱり無智だし、カルマも悪いから、道に迷って当然なんだね。道に迷って当然だし、あるいは途中で何度も挫折して当然なわけだけども。しかしあきらめず、不屈の心で進み続ける。で、最終的になんとか目的地、つまり菩薩としてのいろんな段階であるとか、最終的には仏陀の境地に到達すると。
 はい。で、このような人っていうのは、「しっかりと大乗の教え――つまり菩薩道の教えを学び、小乗に頼らず、心に思うこともない」と。つまりこれは逆の言い方すると、もう苦しいから――あのさ、皆さんもそういうこと思ったことが、修行前にしろ修行後にしろあると思うんだね。「ああ、もうどうでもいいや」と。「苦しいからわたしはこの世から消え去りたい」と。ね。一種の自殺願望ですけども。これはまさにニルヴァーナの心なんだね。小乗の心なんです。つまりこの世から消えるイコール、ニルヴァーナだから。だから大乗の菩薩としてのその使命というものがあまりにも苦しくて、小乗の方に逃げてしまうと。しかしこの第三段階からはそれが全くないということですね。何度も何度も間違ったりつまづいたりはするんだけども、でもその大乗の菩薩として、「いや、わたしはみんなのために、みんなを救うために絶対に仏陀になるんだ」っていう気持ちを決して失わないと。で、その修行を歩み続けるのがこの第三段階の人だっていうことですね。
 はい。じゃあ次いきましょう。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第五回(4)

2016-02-20 06:42:32 | 勉強会より抜粋


【本文】

 象車行の菩薩とは、たとえばある人が象車に乗って旅に出て、同様に嵐にあって吹き飛ばされ、もといたスタート地点にまで戻ってしまう。
 このような性質を持つ人は、菩提心を生じて大乗に従い、大乗の経典を読み、実践し、理の如く思惟するが、もろもろの小乗の経典にも同じように従う。このような人が、象車行の菩薩である。




 はい、今度は「象車行」ね。つまり羊じゃなくて象の馬車ね。インドではよく象の、実際に馬車みたいなので戦争したり、昔はしてたっていうけども。まあ像だからね、当然パワーがあると。だからかなり、羊よりは心強いわけだけども。でもここの例えでは「嵐に遭って吹き飛ばされ」――ね、後退はしないがスタート地点に戻ると。
 でもこれはどうですか? もう一回言うと、前の羊車行の菩薩っていうのは――これ、ある意味ちょっと悲惨だよね。悲惨っていうのは、だって百キロ進んで八万キロ戻されるとしたらですよ、その人ってさ、自称ね、自称菩薩なんだけど、その自称菩薩の修行をやればやるほど後退するわけです。ね(笑)。だって百キロ進んで八万戻って、百キロ進んで八万戻ってっていったら(笑)、時間がたてばたつほど悲惨な状態になるよね(笑)。これはもうあり得ないほど悲惨であると。で、象車行の場合はそうじゃなくて、ある程度進んで、嵐に遭ったら元に戻ると。これは、後退はしないがずっと変わらないと。ね(笑)。結局その人が例えば十年、二十年、あるいは一生、二生、三生と生まれ変わって修行し続けたとしても、「あれ? あなた全然変わってないじゃないですか」と。「どうだった?」「いやあ、大変だったんですよ」と。「いつも障害にぶち当たってなんとかしようと思うんですけど、ちょっと崩れてしまう」と。で、また立ち上がって――「でも立ち上がってるんです!」と。「立ち上がってまた立ち向かうんです!」と。「またやられてしまうんです」と。「ああ、それはすごいですね。で、どれくらい進んだんですか?」と。……一歩も進んでいない(笑)。

(一同笑)

 これはだからね、自己満足系の修行者に多いパターン。自己満足系の修行者っていうのは、さっきと同じ例えだけども、修行して、で、試練にぶち当たると。で、さっきの羊車行ほど駄目駄目にはならない。それなりに戦うと。それなりに戦うけど、それなりに打ちのめされると。で、立ち上がると。で、また立ち向かってると。はたから見ると、あるいは本人もすごく修行頑張ってるような感じに見える。でも実際それをシビアに見ると、全然乗り越えてないので、スタートと障害の間を行ったり来たりしてるだけの人になってしまうんだね。つまり乗り越えるだけの、まだ心構えっていうか気力っていうか、力がないというかな。まあないというよりも――まあだから逆に言うと、それをちゃんと、力を付けなきゃ駄目だっていうことです、ここの教訓はね。
 じゃなくて自己満足じゃ駄目なんです。自己満足で、振り返ってね、「ああ、おれは修行」――例えばね、皆さんが将来、二十年後とかにね、「おれ二十年間修行してきた」と。「二十年間おれはこんだけこんだけ辛いこといっぱいあった」と。「だからおれはだいぶ進んでるはずだ」って自己満足してると。でも実際には全く進んでない場合がある。つまり――ちょっとこれはシビアな言い方だけど、言い方を変えると、長く修行すればいいってもんじゃない。ね。もう一回言うけども、長く修行している間に行ったり来たりしている人もいるし、あるいは逆に後退している人もいるからね。よって――もちろん長く修行することは大事ですよ。それによってこの象車行の人も、長く修行することで、突破できる可能性もあるからね。長くすることはもちろんいいことなんだけど、ポイントはそこではなくて、一回一回の試練に対してどれだけ心構えをしっかり持って、立ち向かって、打ち破ろうとするかだね。それが修行の核なんだと。修行の大いなるポイントなんだっていうことですね。だからこれも自分のその反省点として、しっかりこれは考えなきゃいけない。
 だから今、例えばもし試練が来てるなって思う人は、そういう気持ちで、心構えで絶対乗り越えるんだと。ね。ちょっとでもこの試練から成長の糧を勝ち取るんだという気持ちで向かったらいいし。あるいはそうじゃなくて今は別に試練が来ていないって人は、過去のことを反省してね、「ああ、わたしは本当に苦しみに弱い」と。あるいは、「わたしはそういった試練に弱い」と。あるいはここで苦しみじゃなくて、いろんな仕掛けの場合もあるからね。「わたしは普段はいいんだけども、例えばこういう人物が周りに現われるとやっぱりまだまだ怒りが出たり、嫉妬が出たりいろいろしてしまう」と。で、「いつも乗り越えられないで終わってしまう」と。ね。これじゃあ全くしょうがないわけですね。だから過去を振り返ってそういうのがある人は、じゃあ今まだ平穏だから、平穏なうちに、次に過去に来たような同じような試練が来ても絶対乗り越えられるように、今ね、自分をちゃんと作り直そうと。そういうちょっとリアルな心構えが必要なんだね。
 よくそういう人いるよね。例えば、「いやあ、わたしは過去にこういうことあったんです。」「あのとき本当にちょっと心が乱れて全然駄目だったんです。」「わっはっは」って人がいるわけだけど(笑)。駄目なんだったら、次に来たときに大丈夫にできるように努力してるのかと。ね。そこはやっぱり大事なところだね。
 だから過去に乗り越えられなかったことはしょうがない。しかし次に同じことが来たときに乗り越えられるように、今、平穏な時にちゃんと自分を作り替える努力をしなきゃいけない。
 はい。で、この象車行のパターンの人というのは「菩提心を生じて大乗に従い、大乗の経典を読み、実践し、理の如く思惟するが、もろもろの小乗の経典にも同じように従う」と。「このような人が、象車行の菩薩である」と。ここで言ってるのは、つまり大乗的なね、偉大なことを半分ぐらいは学び実践するんだけど、半分ぐらいはやっぱり自分だけの修行――ちょっと辛いんで、みんなはどうでもいいから早くニルヴァーナに入っちゃいたいなっていう気持ちがあって、で、そういう修行とか、あるいは教えも信じているっていうかな、そっちの方向性も心にまだあるっていう場合だね。だからまだ、言い方を変えると、心構えがちゃんとできてないっていうことですね。
 はい。じゃあ次いきましょう。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第五話 後編」

2016-02-19 11:47:10 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第5話 後編」です。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第五回(3)

2016-02-19 07:09:17 | 勉強会より抜粋


 そしてその羊車行の菩薩の特徴みたいなの書いてあるわけだけど、これもだから逆にいうと「こうなってはいけないですよ」っていう部分ね。
 はい、「菩提心を起こしたとしても、大乗に従わず、経典を読まず、実践せず、理の如く思惟せず、小乗の修行者に近づいて、小乗の経典を読み、観察し、すべてを成就したつもりになる」云々と。
 はい、ここでまず大事なのは「菩提心を起こしたとしても」っていう部分ね。これどういうことかっていうと、修行の段階的にね、ここでいう小乗っていうのは人々の救済とか考えずに、とにかくわたしが、わたしだけがニルヴァーナに入りたいっていう修行ですね。で、これは段階的にはあってもいいんです。どういうことかっていうと、まずスタートはね、まず最悪は「おれは欲望さえあればいい」と。「解脱なんかどうでもいい」と。「解脱って何それ?」と。ね。ねえ、人を苦しめたってそんなことは関係ないし、おれはおれの欲望を追及すればそれで楽しいんだ――これは最悪な状態ですね。じゃなくてここから徳が積まれてくると、だんだんカルマの法則とかがなんとなく理解できてきて、あるいは人に対する慈愛とかが出てきて、「ああ、わたしは人のために生きたいな」っていう気持ちが出てくる。あるいは、「徳を積みたいな」「いや、悪業っていうのはちょっと苦しみの因だから悪業積みたくないな」と。「でも、まだ解脱まではあんまりよく分かんないな」と。これが善なる人々の状態ですね。で、ここからよりその魂が研ぎ澄まされてくると、解脱を願うようになるんだね。でもまだ大乗的なところまでいってない場合は、まずは個人の解脱だけを願うようになると。で、この段階の人っていうのは、別にもちろん小乗的なそういった経典を読んだり修行したりしても全くかまわないわけですね。
 じゃなくて、縁があって大乗の道に入りましたと。で、菩提心の素晴らしさを知って、菩提心を実際に起こしましたと。つまりどういうことかっていうと、わたしは人々を救いたいと。そのためにわたしは修行したいっていうそのような偉大な心を起こしたにもかかわらず、その言葉だけでね、実際には大乗の教え――つまりこの経典のような菩薩行の教えを学ばないと。学ばないし、修行しないし、実践もしないと。ね。で、菩薩とか言っときながらそういった個人的なニルヴァーナの経典ばっかり読んでると。で、その教えばっかり説いてると。これはだから、ちょっとポイントがずれてるっていうことですね。
 だから、まあこの辺はちょっと、もうちょっと突っ込むならば、大乗の道に入った以上――さっきも言ったように、菩薩として成長しなきゃいけないために、多くの――まあこういうこと言うとみんな怖くなるかもしれないけど、小乗の道よりも多くの試練がやってきます。それはなぜかっていうと、皆さんのスケールをもっと大きくしなきゃいけないからね。ニルヴァーナに入るだけだったらもっと小さな試練で良かったかもしれないけど、菩薩になんなきゃいけないっていうときは大いなる試練がやってくる。でもここに、この羊車行の菩薩のように、口では、あるいは最初の勢いはいいんだけども、全く菩薩道について学んでいない場合、当然さっきから言ってたような、菩薩として自分をスケールアップしなきゃいけないんだっていうこととかね、あるいは、菩薩として他者の苦しみも自分の苦しみとして受けなきゃいけないんだっていうこととか、そういったことを全然学んでないから、単純にその苦しみがやってきたらすべてがヘナヘナヘナって崩れてしまうと。これがここで書いてあることですね。
 はい。で、「彼は覚醒からますます離れ、智慧は鈍くなり、無上の覚醒からかえって退くことになる」と。「また智慧の眼も鈍くなり、破壊される」と。「このような人を、羊車行の菩薩という」と。はい。じゃあ次行きましょうね。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第五回(2)

2016-02-18 19:54:42 | 勉強会より抜粋


 だからわれわれは、いつも言うけども――この話っていうのは何回かしているわけですけども、もう一度その原則的なことを言うとね――いいですか?――われわれは、「調子がいいとき」っていうのがある。調子がいいときっていうのは、人生において調子がいい、もしくは修行において調子がいいとき。調子がいいときっていうのはどんどん修行もできるし、どんどん教えを実践し、で、なんか修行がどんどん進んでるような感覚がある。それはもちろん進んでるんだけどね。でも、必ず試練がやってくる。で、「ああ! 調子良かったのに試練やってきちゃった!」――じゃないんです。まさにこの試練こそが本番なんです。ね。これが――つまり調子が良かった時期っていうのはまさにトレーニングみたいな感じで、自分のポテンシャルを上げてた時期なんだね。もちろんその段階でも修行は進んでるんだけど、そうじゃなくて本格的に「じゃあ、本当に進めましょうか」と。「本当にあなたの自己改革に入りますよ」っていうときには、いろんなかたちで障害とか、あるいは苦しみとか、あるいは逆に魔の誘惑の場合もある。いろんなかたちでガーッてやってくるんですね。で、「あ! 来ましたね」と。つまりその前までに蓄えていたポテンシャルを使って、その本番ともいえる苦悩や試練や、あるいはある場合は精神的な錯乱かもしれない。もういろんなものと戦わなきゃいけないんだね。で、それを乗り越えたときにまた――つまり嵐がやんで、再び静かな平穏な日々がやってきます。でもその平穏な日々っていうのは、前よりもものすごく進んでるわけですね。その嵐を乗り越えたことによって。だからそういう価値観を皆さんはまず持ってこなきゃいけない。つまり試練こそが本番なんだと。
 で、そうじゃないとね、そうじゃないと、ふわふわした甘い心で修行したり修行しなかったりしてると。で、試練が来たら逃げると。こうなるとこの羊車行の菩薩のように、まあ悪くするとね、なってしまいますよと。
 だから必ず皆さんが修行進めるときっていうのは、皆さんのカルマに応じて試練がやってきます。で、それ――あの、最悪ですよ、最悪、試練を乗り越えられなかったとしても――これ、いつも言うけども、打ちのめされてもすぐ立ち上がってください。ね。すぐ立ち上がるのが一番いいです。で、すぐ立ち上がれなかったもしても、できるだけ早く立ち上がると。で、早く立ち上がれなかったとしてもですよ――つまり立ち上がるのに時間がかかってしまったとしても、後退はしないでください。このあとに出てくるけども、後退ではなくて少なくとも現状維持で立ち止まると。ね。
 われわれはだからちょっと卑屈さがあるから、なんかつまづいてしまうと、なぜか、別に後退する必要ないのに勝手に後退する人がよくいるんだね。うん。自分で自分を後退させてるっていうか。「いや、どうせわたしはあれ乗り越えられませんでしたから」と。あるいはね、恐怖の場合もあるね。もう一回あれが来たらもう耐えられないだろうから、っていうその恐怖によって自分をあえてちょっと低いところにおいてしまったりする。これも駄目です。
 だから本当に修行者っていうのは、やっぱり勇者じゃなきゃいけないんだね。ここでいう勇者っていうのは、単純に強いっていう意味じゃなくて、あきらめないってことです。あきらめないし、なんていうかな、ちょっと無鉄砲ぐらいがちょうどいい。つまり、すごい弱い人がね、弱い人が、すごいでかいプロレスラーみたいな人に、あるいはヤクザみたいな人に打ちのめされてね、普通はそこで恐怖心が芽生えるよね。実際に例えばスポーツ――ボクシングとか、あるいはほかの格闘技とかでもそうだろうけども、めちゃくちゃにやられるとちょっと恐怖心が出てしまって、次に立ち向かう気持ちがちょっとそがれてしまうっていうかな。そういうことってよくあると思うんだね。例えばこれは一つの例だけども、すごく弱い人がすごい強い人と戦って、めちゃくちゃにされて――もうそれは例えば、例えばだけどね、骨も何本も折られて、で、内臓もぐちゃにぐちゃにするぐらいの重傷を負わされたとするよ。普通は、弱い人だったらね、「もういいや」って思うでしょ? 「もう、あの人に近寄りたくない」と。でもそうじゃなくて菩薩は、そこでも――もちろん怪我は治さなきゃいけないんだけど、怪我が治ったら、また無鉄砲に「お願いします」(笑)。ね。「次は勝つぞ」って行かなきゃいけないんだね。いかにそれが周りから見て馬鹿みたいに思えたとしても、立ち向かわなきゃいけない。で、それによって――もちろん何も準備なしに立ち向かっちゃいけないんだけど、しっかりと日々の修行や教学で自分の準備をして、また「さあ、どんな奴でも来い」と。「またわたしは以前自分が打ちのめされたような、あのような大きな試練が来ても全くおれはかまわない」と。
 これはね、もう一回言うけども、無鉄砲でいいです。無鉄砲というか、また別の言い方をすれば、やせ我慢でもいいです。つまりハッタリみたいな感じでもいいです。つまり決して自分の心を折っちゃいけないってことだね。あるいは自分の心を臆病な状態に置いてはいけない。「さあ、次こそは!」と。ね。それがどんなに苦しい思い出が心に残っていたとしても、「次は行くぞ!」と。「次は頑張るぞ!」と。あるいは逆にいうと、それをしっかりと成り立たせるために、次に来たときには絶対乗り越えられるようにっていう気持ちで、日々の修行をまたしっかり頑張ると。これができるならば、皆さんは羊車行の菩薩にはならない。
 そうじゃなくて心構えが最初からあんまりできていなくて、で、当たり前だけども、障害にぶつかったらドーンと駄目になってしまうと。で、駄目になっただけじゃなくて、どんどん自分を卑下して、「いや、わたしはどうせ駄目なんですから」と。「いや、もうわたしはあんなのこりごりです」と。「ああいうのが来るんだったらわたし修行しなくていいです」とかね。こういうふうになってしまうと、それは以前よりもちょっと駄目になってしまうっていうことだから。これは決してその過ちには乗っちゃいけないってことですね。はい、それが一つね。
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