ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

2015 マハーシヴァラートリ講話より(3)

2016-01-31 23:47:38 | 勉強会より抜粋



 はい。じゃあ一応話はこれまでにして、じゃあ最後にまた質問等あったら聞いて終わりにしましょう。はい、じゃあ何か質問その他ある人いますか? 



(Y)五体投地をしていたら、嫌悪が出てきて、それで、懺悔をしながら五体投地をしてたんですけど、その、先生と一緒に、わたしが嫌悪している人も一緒に重なって、こう出てきたんですけど、それでずっと五体投地、懺悔してたんですけど、それはいいんでしょうか?


 ん?


(Y)その、その人に「すみません、ごめんなさい」っていう思いと、先生に懺悔するっていう思いと一緒になってたんだと思うんですけど、重なってても大丈夫ですか? 先生とその嫌悪してる人……。


 それはあの、考え方次第だね。つまりそのイメージが出てきたときに、まさに『忘れないで』とかの歌にあるように、「すべては僕なんだよ」と。ね、一切は至高者あるいはグルの現われであると。だからそれを嫌悪しちゃいけないっていう気持ちでもいいしね。ただそれより、まあそれでもいいんだけど、それよりも、礼拝のときは礼拝に集中した方がいいね、本当はね。懺悔するっていうよりはね。つまりそれによって当然、切れる場合もある。つまりその、「わたしは何をやってるんだ」と。だって帰依なんだと。グルにすべてを捧げてる、礼拝してるのに、そんな嫌悪なんて浮かぶこと自体が、帰依が足りないんだと思ってやるとかね。あるいはね、まあチベット的なやり方だと――これも別にどっちでもいいですけど、チベット的なやり方だと、その人も、あるいは自分の好きな人も、一緒にイメージして、一緒に礼拝してるイメージをします。だから、嫌いな、ちょっと嫌悪してる人を横に置いて、「一緒にやろう」と(笑)。こういうやり方もあるね。これはチベット的なやり方。まあそれでもいいけど、でもまあそれよりは、無心にやることによって、その無意味さっていうかな、に、気付いた方がいいかもしれないね。


(Y)あの、その話とは別に、その、五体投地してると、お腹がすいてきて、五体投地しながら、あの、「食欲より神をとれますように」って思いながら五体投地をしてたときがあったんですけど、それは、それもやめたほうがいいってことですか? 一回食べて……。


 あ、違う違う違う(笑)。あの、基本的な話をするとさ、これも簡潔に言うけど、五体投地っていうのは、まさにそういう感じで、カルマが吹き出ます。うん。で、吹き出ても、帰依をとると。
 つまり何を言いたいかというと、「お腹すいた」――つまりここで選択が生じるわけだね。食事をとるのか、帰依をとるのかと。当然、帰依をとる。あるいは嫌悪が出た。地獄のカルマをとるのか、帰依をとるのか。つまりその、自分の内在してるものが礼拝中にいっぱい出てくる。
 じゃあ簡潔に言うと、当然、地獄のカルマがある人は嫌悪が出ます。あるいは足が痛くなる。うん。
 動物のカルマがある人は、やりたくなくなります(笑)。あるいはねえ、ろれつが回らない。あるいは、そうだな、ろれつと、あとなんて言うかな、まさに何言ってるか分かんなくなる。なんかうまく言えなくなっちゃう。詞章がね。あるいは腰が痛くなる。あるいは膝が痛くなる。このへんは全部動物のカルマです。
 それから餓鬼のカルマは、まさにお腹がすく。あるいはそうだな、別パターンとしては、物欲が出る。あるいはまた全然別パターンとしては、餓鬼は低級霊なので、いろんなその、なんていうかな、霊的な、あまりよくない経験をすると。
 人間界のカルマは当然、情ね。いろんな、「ああ家族、ああお父さん、お母さん」。そういうその情の思いがパーッって出てくる。まあもしくは、物理的に胸がものすごく痛くなる。
 阿修羅のカルマは首とか肩です。つまり肩が痛いとか、あとはわたしもそうだったけどね、こう肩が上がんなくなるんだね、物理的に。
 あの、さっきの動物のカルマもそうだけど、動物のカルマの場合は、もう詞章がまず唱えられないと。「グッ、グッ、グッ、グッ、グル……」。で、やめると普通になるんです。やってるときだけ唱えられない。で、阿修羅も同じで、手が上がんなくなっちゃうんだね。わたしそうだったんだけど。上がんなくなっちゃって、終わって、普通の日常生活では上がるんです(笑)。


(一同笑)


 不思議なんだけどね。うん。あとまあ別パターンとしては喉ね。喉が非常に痛くなる。もしくは、まあ実際に、喉が枯れるとかね。あるいは喉が、すごい声が悪くなるとかね。悪くなるっていうか喉が枯れちゃってダミ声になるとかね。
 はい。天界のカルマ、まあこれはあんまりいないかもしんないけど。天界のカルマが出ると、気持ちよーくなります。まあもちろん、天界のカルマじゃなくて、本当に気が通って、帰依ができてて気持ちいい場合もあるけどね。それは素晴らしい。じゃなくて天界の場合は、ふわふわして、あの、ちょっとこうデーヴァ的なね、ふわふわした気持ち良さの中でやるようになると。
 で、この礼拝のいいところは、じゃあ出たらどうするんですかと。やれと。うん。つまりやってるうちに消えていくんです。うん。つまり嫌悪が出ても、無視して礼拝。足が痛くても無視して礼拝。お腹すいても無視して礼拝。やってるうちに、出ては消え、出ては消えするんだね。うん。その礼拝という一つの行為によって、浄化が自動的に進んでいく。それが素晴らしいんだね。いいですか?


(Y)お腹がすいてるのは、なんかずーっと、ずーっとやってる最中にずーっとあるんですけど、それでも集中しようと努力するってこと……?


 もちろんそうだよ。それは当たり前じゃん(笑)。


(Y)はい。分かりました。はい。ありがとうございました。


(一同笑)




 もう一つ付け加えると……付け加えるっていうかまとめると、シヴァの愛、まあもしくはもちろんシヴァもね、ひっくるめた唯一の至高者の愛。それは当然われわれの本当の――さっき言ったね、誠実なる、そして理想を貫くという意味での苦行、これにまい進することを願っておられる。で、バクタというかな、そのわれわれ側からの気持ちとしては――あの、結局さ、一般的にもそうだけど、幸せっていうのは当然心の問題なわけだけど、ほんとのこの道の修行者の幸せっていうのは、さっきの侍的なのとも通じるんだけど、主のお喜びです。ね。つまり、わたしががんばり、誠実に道を貫くことで、主が喜んでくださったときの、その喜びを見ることが、わたしの最大の歓喜であると。あるいは幸せであると。この感覚ね。これはもちろん、現実としてそうです。ね。それを忘れないようにしたらいいね。それはまさに皆さん自身の最高の幸せになるし、そして当然、そのような生き方をすることを、主も、至高者も願ってらっしゃる――ということですね。

 じゃあこれでマハーシヴァラートリを終わりましょう。ありがとうございました。


(一同)ありがとうございました。
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2015 マハーシヴァラートリ講話より(2)

2016-01-31 22:59:05 | 勉強会より抜粋


 はい。そして――まあちょっと、ねえ、まとめに入るけど。まとめっていうかその、もう一つ話をすると、またその「月光」でいうと、あの「月光」っていうのはさ、あの曲は――まああの曲だけじゃないけど、カイラスの曲っていうのはいつも言ってるように、あまり計画的には作られない。あの、まあなんていうかな、降りてくるようなかたち。まあそれは詩もね。まあわたしもそうですけど、パッパッってこう詩ができると。うん。で、その時点ではなんか、あの、なんていうかな、わたしもあんまりよく意味が分かってなかったりするときもある(笑)。あるいは――まあ今回の「月光」とかもそうだけど、まああとほかの曲もけっこうそうなんだけど、できた時点では「これどうなんですかね?」みたいなときもある(笑)。「この曲、一体どうなのかなあ」みたいな感じがするんだけど、しかし何度も歌ったりしてると、なんていうかな、非常に深い意味が隠されてるのが分かると(笑)。
 この「月光」もいろんな、まあなんていうかな、まあ皆さんの修行の進度に応じてね、またいろんな気付きが、そんときそんときでまあ現われてくるかもしれないけども、一つ言うと、まあこれはわたしの過去の修行の中におけるポイントでもあるんだけど、なんていうかな、まあさっきから言ってるように、理想を求めて突き進むと。そしてその、なんていうかな、当然、悪しきカルマによって、あるいは心の弱さによって、転ぶかもしれない。あるいは障害にぶち当たるかもしれない。あるいは失敗するかもしれない。そこから、勇気をもって立ち上がる修行者のロマン(笑)――みたいのがある。
 で、あの「月光」のちょっと――まあこれはさ、何度も言うけど、皆さんそれぞれが修行を進めていろいろ感じ取ってほしいので、あんまり『「月光」はこういう意味だ!』とかは言わないけども、一つのイメージを言うと――わたしが感じるイメージね――例えばあの後半のところで、「いつもシヴァが陰から見守って導いてくださる」と。で、陰からこっそりやってるんだけど、その、「月の光と慈悲の波動は隠せない」(笑)。隠せないんだと。で、そっからいきなりちょっとメロディが変わって、「タラタタッタ~」(笑)……


(一同笑)


 ダラダラダラダラダラダラダラダラダーン! ってなるよね(笑)。そして、あの「生まれ変わっても……」――あれね、あれもね、実は考えられたものじゃないんです。ちょっと若干裏話をすると……裏話っていうのも変なんですけど、あれ、途中――まあちょっと簡潔に言いますよ。途中二回間奏入りますね。で、実は本当はもう一個間奏があったんだけど、最初――最初っていうかその、最初の間奏はね、あの、ちょっとなんていうか静かな感じの間奏。あれ最初は後半にあって、まあたぶん、最初田中さんが作ったときは、まあ分かんないけど、田中さんはたぶんそっちの方が好き、好きっていうかそっちを推してたのかもしれない。それが後半にきてたんだけど。前半には違う間奏があって。で、もう一つのパターン、もう一つの候補として、その「タラタタッタ」っていうのがあったんだけど、わたしその「タラタタッタ」が気に入って(笑)。で、最初の第一、最初の候補の間奏をはずして、その後半だったはずの間奏を前半にもってきて。その「タラタタッタ」を最後にもってきたんだけど。
 で、それは別になんか計画はしてたわけじゃないんだけど。でもこれはなんていうか、とても、今言ったね、構成からいうと素晴らしい(笑)。何が素晴らしいかっていうと、もう一回言うよ――「自分は本当に修行をしていて、いろんな失敗ばかりしている」と。「でもそのたびに、なんか導かれてる」と。うん。これは皆さんも感じるかもしれない。なんかギリギリ、もう地獄落下一歩手前で、ああ!って導かれると。なんとかがんばらせていただけると。うん。で、この陰に明らかに「キラン!」と(笑)、月が見えると。もちろん、別のね、神でもいいんですけども。まあシヴァでいうならば、その月が見える。もしくはその、まさに導いてくださってる波動を感じると。
 で、ここが問題なんです。ここで、本当に誠実な修行者は、当然もちろん懺悔もするわけだけど、大いなる恩義を感じます。恩義。そして恩義を感じた者は、黙っていられません。立ち上がります(笑)。つまり、本当に導いてくださってらっしゃると。本当に導いていただいていると。それに比べてわたしは一体なんなんだと。その、なんていうか、自分に対して許せない気持ち、あるいは、なんていうかな――まあつまりこれはまさに、なんていうかな、聖なる――「聖なる」ってつければいいんじゃないんだけど(笑)、聖なる阿修羅的な発想でもある。つまり、もうなんていうかな、「いや、おれはこれでは駄目だ」というその強い意識によって立ち上がるんだね。
 で、この立ち上がるのは、もう一回言うけども、このイメージで言うとね、「ああ、本当にこんなカルマが悪くて間違いばっかり起こしてるわたしを、シヴァは導いてくださっていた」と。で、今も導いてくださってると。そしてもうわたしはもうそれに気付いてしまった、と。「タラタタッタ……」(笑)。


(一同笑)


 「よーし!」と立ち上がると。で、その次の歌詞が、「生まれ変わっても忘れない」と。「この胸に燃える思い」と。「あなたの道具となって衆生を救わん」と。
 つまりこれはまさに――まあこれは一つの見方ですよ。ほかの見方があってもいいんだけど、一つの見方で言うと、まさに、なんていうかな、あの、しもべとしての――まあ当たり前なんだけど、しもべとしての恩返しっていうと変ですけど、まあでも恩返しみたいな感じだね。恩返しっていうかその……まあそうだね、恩返しっていうか、その慈悲に報いるという気持ちだね。「わたしは慈悲に報います」と。だってこんなにわたしを導いてくださってる、こんなに愛を注いでくださってる。これにわたしは応えないわけにはいかないと。これに応えなかったらわたしは修行者として恥ずかしいと。で、ガッと立ち上がって、で、その思いを、決して生まれ変わっても忘れない。何度生まれ変わっても、あなたの完全なる化身となって――つまり、道具――前も言ったけど、化身っていうのは道具の完成形です。なんか文法みたいだけど。道具の完成形、「化身」(笑)。化身となって、あなたの、つまり神の、至高者の意思である衆生救済、ね、これに身を捧げますと。このような誓いのイメージがあるね。
 はい。ですから、ちょっと話がいろいろ飛んでますが、まとめますと、そのような厳しい――厳しいといっても別に意味のない苦行ではなくて、本当に志を持ち、それを厳しく追求し、貫き通すと。うん。その、まあイメージっていうか、そのフィーリングね。それを決して忘れてはいけない。そのための、今日がまたね、きっかけの日になったらいいね。
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2015 マハーシヴァラートリ講話より(1)

2016-01-31 18:15:22 | 勉強会より抜粋

20150218 マハーシヴァラートリ


 今日はシヴァラートリね。シヴァラートリというのは、シヴァの祝福の日ということで、まあ毎月あるわけですが、その中でも最も大きな――一年でね、一番のシヴァの祭典がこのマハーシヴァラートリですね。で、まあインドの一応、暦では、正確には昨日がそうだったんですが、まあちょうど今日水曜日なんで、まあカイラスでは今日このマハーシヴァラートリの祭典を行ないましょうと。それから偶然と言ったらあれだけど、チベットとかの暦では、今日が大晦日なんだね。明日がチベット暦の新年であると。まあですから、このマハーシヴァラートリの供養とその他儀式によって、またね、しっかりと浄化して、まあチベット暦で明日正月ですので、またしっかり生まれ変わるというための会にしたいと思います。

 はい、今日はシヴァの祝福の日ですが、シヴァはまあ皆さんもご存知のようにね、破壊神であり、まあ非常に厳しいイメージがあるわけですが、まあ同時に、まあ優しいというかその、まあ歌にもあるようにね、陰からわれわれを大変な慈愛で見守り、導いてくださる神であると。で、もちろんその優しさとか慈愛っていうのは表面的なものではなく、われわれをね、本質的に導くものですね。
 わたしもそうだけど、例えばわたしは皆さんに、まあなんていうかな、本当の意味で幸せになってほしいと思う。でも、一般的な意味では幸せになってほしいとは別に思わない(笑)。本当の意味で、つまり――まあ言い方を換えれば、菩薩になってほしいと。あるいは真の意味でのバクタになってほしいと。
 もちろんそれはシヴァの願いでもあり、もちろん、ね、ヴィシュヌ神やブッダ、あらゆる至高者の願いでもあるわけですけども。特にそのシヴァっていうのは、激しいかたちでわれわれをしっかりと導いてくれる。
 シヴァは破壊神といわれるその意味は、いろんな意味があるわけだけど、まあ修行者の観点から言うならば、われわれのね、その間違った心、あるいは間違った方向性を常に破壊してくれる。だから今日のこのマハーシヴァラートリを境にまた、われわれはね、自分を省みて、心を入れ替えなきゃいけない。
 例えば、われわれはすぐに間違う。自分のエゴを破壊することが修行であるにも関わらず、がんばってエゴを守る。あるいはいかに自分よりも他者のために生きるかというのが菩薩の理想であるにも関わらず、他者を嫌悪し、あるいは他者と自分の比較の中で、いかに自分の優位性を保つかという心に落ち込むと。あるいはいかに謙虚に、グルや神に自分を明け渡すかっていうのが理想だったにも関わらず、気を抜くとすぐに小さなことで慢心に陥り、まるで自分が神やグルより偉いかのような傲慢に陥ると。このような迷妄の中にいるわれわれに対して、このシヴァは常に鉄槌を落とし(笑)、修正のための、なんていうかな、まあ苦しみというよりは、まあまさに鉄槌を落としてくれるわけですね。
 まあ「月光」の歌にもあるように「我執を破壊する歓喜のダンス」ってあるけど、当然これは、シヴァ、というよりは本質的な目から見たら、まさに歓喜のダンスです。つまりわれわれの間違った心を本当の意味での幸せになれるための、道に引き戻してくれるためのダンスなんだね。このダンスっていうイメージはつまり、シヴァがわれわれのエゴを破壊し、あるいは心を修正するために、まあまさに踊ってるイメージですね。うん。超偉大なシヴァが踊るわけだから、もうめちゃくちゃになります(笑)。シヴァの踊りによって、われわれのこの世界はめちゃくちゃになる。しかしそれは、もう一回言うけども、大変嬉しいことであると。われわれの間違った心、あるいは間違った方向性を破壊してくれる。
 でもこのね、あの、基本的な自分への厳しさっていうかな――あの、何度も言ってるけどさ、例えばバクティヨーガっていうのは、まあ表面だけ見ると、大変――まあよく浄土系の仏教とかにも似てて、よく「易行」と言うわけですね。易行っていうのはその、易しい行と。表面だけ見ると大変易しい修行に見えるわけだけど、でもそれは大前提があるんだね。大前提っていうのはまさに、誠実で、そして自分に厳しい修行者としての姿勢っていうのがまず大前提としてあって。で、その上に乗っかってくるのがバクティだからね。一切をお任せし、ただ何もする必要はないと。ただ神がすべてやってくださるっていう発想ね。で、そのベースには、常に自分に厳しく、常に自分の理想から一ミリでも離れることを許さないっていう意識ね。これが必要であると。
 ヴィヴェーカーナンダの言葉で、あの、「利己性――つまりエゴが強ければ強いほどシヴァから離れてる」っていうのがあるね。われわれが利他、つまり自分よりも他の幸福を願う心が強ければ強いほど、それはシヴァに近いんだと。そうじゃなくてわれわれの心が利己、利己性に満ち、エゴに満ちている人が例えばいくら、ねえ、シヴァの格好しようが、あるいはシヴァの聖地を訪ねようが、ねえ、あるいはシヴァの教えを学ぼうが、その人はね、シヴァから遠いんだと。
 シヴァっていうのは――今日はあんまり長く話しませんが、まあいつも言っているように、仏教的にいう観音様、アヴァローキテーシュワラの名前のもとになっているイーシュワラ、あるいはね、実はあの仏教における世界観でいうと、色界、つまりアストラル的な世界の最高の世界、これをアカニシタ天ね、アカニシタもしくは色究竟天といいますが、ここの主、これは実はマヘーシュワラ、つまりシヴァ神なんです。仏教でも色界の最高の存在をシヴァと言ってる。ね(笑)。で、この色界っていうのはつまり報身――いわゆるその、本来は形も姿もない絶対者が、われわれを救うために形を持って現われた世界の最高の世界です。ここの最高の存在として、シヴァをおいてる。で、この色界は別の言い方すると、四無量心の世界なんだね。つまり慈悲喜捨の四無量心。その最高の完成状態の世界がアカニシタです。で、そこの神が、神っていうかな、主神が、シヴァであると仏教でも言ってる。つまりそういうイメージがあるんだね。つまりその、大変な、まあ慈愛というかな、慈悲の持ち主であると。で、常にわれわれをいかに救うかということで頭がいっぱいであると。しかもそのやり方は非常にストレートであると。非常にそのストレートにわれわれの間違いを打ち砕き、正しく導いてくれる。
 しかしわれわれの側が迷妄なので、あるいはすぐに初心を忘れるので、そのシヴァの愛が分からない。まるでシヴァがわれわれに苦しみを与えてくれてるかのように――まあつまりその、かっこよく言ったりするよね、「シヴァがわれわれに苦しみを与えてくださってる」と。でもそれは、もちろん苦しみじゃないんです、本当は(笑)。苦しみって感じること自体が、われわれの迷妄であってね。しかしもちろん当然、ねえ、迷妄から脱せないうちは、その神の導きによる厳しい道が実際に苦しく思えるかもしれない。でもそれはね、あの、覚悟をもって挑まなきゃいけない。
 最初の話にちょっと戻るけども――あの、まあこういうこと言うとちょっと厳しく感じるかもしれないけど、ちょっとストレートに言うとね――まあこれは深い意味としてとらえてほしいんですが、――修行者が、自分の幸せを願ったら終わりです(笑)。
 厳しいね(笑)。うん。カイラスは深く入れば入るほど厳しくなってくる。もちろんみんな、幸せを求めてヨーガを始めるわけだけど。だんだん、教えが深くなってくると、「幸せを求めたら終わりだ」とか言われて(笑)。
 でもそうなんです。でもこの意味分かるよね? さっきから言ってる話でいうと、もちろん、実際には皆さん、この道を行くならば、本当に幸せになります。本当の意味で幸せになる。でもそれは、じゃあ、ね――で、皆さんだったらもちろん、知性によっても分かると思う。知性によって分かるっていうのは、皆さんのエゴが求めてる幸せは、絶対幸せにはなりません。それは必ず一時的には錯覚による幸せがあるけども、それはすぐ終わるし、すぐ終わるしそのあとそれは余計に皆さんを苦しみに結び付ける。
 じゃあ本当に本当に本当に幸せになるにはどうしたらいいのか?――幸せを求めるなと。ね。そして当然それから一歩進んで、皆さんの場合は素晴らしい菩薩やバクタのカルマがあるわけだから、もうなんていうかな、そこに――いつも言うけども、ちょっとでも、あるいは一度でも心が惹かれたならば、あるいはちょっとでも発願をしたなら――あるいは皆さんカルマいいから、あの、いつのまにか歌とか歌ってるうちに発願しちゃってると(笑)。その、それを、なんていうかな、貫く心が必要だね。何があっても貫く。
 チベットのね、チベットの、チベット仏教のことわざで――ちょっとね、あの、正確じゃなんかもしれないけど、「真理のダルマをわが心の究極の安らぎとする」と。そして、「激しい修行をダルマの究極の安らぎとする」っていうその、まあいうような言葉がある。つまり安らぎなんです。
 あの、まず、われわれにとっての安らぎっていうのは、まず真理のダルマしかない。うん。すべての、ね、幻のようなこの世のさまざまな安らぎっぽいものっていうのは、全部、魔の誘惑であって。
 真理のダルマといわれる――まあ逆に言うとわれわれはその、真の安らぎの真理のダルマというものに出会ってる。これをまず喜ばなきゃいけない。そしてその真理のダルマの見地における、最高の安らぎ――これはまさに激しい修行であると。
 あの、シヴァはよく苦行をお喜びになるっていうけども、ここでいう苦行っていうのは、まあ『バガヴァッド・ギーター』とかでも言われてるように、簡潔に言うと、全力で妥協なく理想通り生きるっていうことです。教え通り、あるいは自分の理想通りに生きる――当然これは苦行になります。
 だってそれは皆さん、自分自身見てれば分かるでしょ? つまりその、さっきも言ったけども、例えばある理想を持つと。で、一ヶ月後にはもうエゴがものすごい大暴れしてると。大暴れしてて、もう全然理想通りいっていないと。うん。で、これをですよ――つまり、理想を持ちました、輝かしい理想を持って歩き始めました、でも、すぐにもうめちゃくちゃにダメになっちゃう。これを、ダメになるな!――っていうことです(笑)。ダメになるなと。そのまま行けと。「いや、苦しいです!」――いいから行けと。これ、苦行でしょ(笑)? これこそ最高の苦行。片足でずっと立ち続けたってなんの意味もない。断食をね、一ヶ月ぐらいしたってなんの意味もない。あるいは、体中を針で刺して血だらけになりながら瞑想したってなんの意味もない。そうじゃなくて、いかに自分が一度でも立てた理想を、どんなカルマの障害があっても、どんな魔の誘惑があっても、貫き通せるか。これが本当の意味での価値ある苦行ですね。そしてそれを当然シヴァはお喜びになる。もちろんシヴァだけじゃないけどね。至高者あるいは菩薩方、あるいは神々は、当然そのような皆さんの姿勢をお喜びになる。
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ヴィヴェーカーナンダ

2016-01-31 08:53:57 | 松川先生のお話
今日はスワミ・ヴィヴェーカーナンダのお誕生日。
ヨーガスクール・カイラスのメンバーは、昨年、インド大使館におけるヴィヴェーカーナンダ祝賀会にて、ヴィヴェーカーナンダを称えるオリジナルソングを捧げさせていただきました。
そのときの映像をもって、お誕生日のお祝いとしたいと思います^^


「ヴィヴェーカーナンダ」(第152回ヴィヴェーカーナンダ祝賀会にて)



ヴィヴェーカーナンダ
ヴィヴェーカーナンダ
限りなき智慧と勇気の救済者
この闇の世の道しるべ


あなたは100年以上前に
ラーマクリシュナからやってきて
人生をすべてささげられた
師が与えた使命に

衆生の苦悩を背負って
短い人生を駆け抜けた
ああナレン われらが兄よ
われらも行きます


ヴィヴェーカーナンダ
ヴィヴェーカーナンダ
あなたの智慧と勇気 愛の言葉

ヴィヴェーカーナンダ
ヴィヴェーカーナンダ
この胸に刻みつけ 戦わん
聖なる道をあなたと共に


心がくじけそうなときも
あなたの言葉と存在を
胸に思い起こすだけで
勇気が湧いてくる

衆生の苦悩に涙して
自分の幸福を捨てられた
ああナレン 真の英雄よ
われらも行きます


ヴィヴェーカーナンダ
ヴィヴェーカーナンダ
あなたの獅子のような生きざまを

ヴィヴェーカーナンダ
ヴィヴェーカーナンダ
この胸に刻みつけ 戦わん
聖なる道をあなたと共に




ラーマクリシュナ
ヴィヴェーカーナンダ
あなたが示された愛の理想

ヴィヴェーカーナンダ
ヴィヴェーカーナンダ
この胸に刻みつけ 歩みます
聖なる道をあなたと共に
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ヴィヴェーカーナンダ生誕日

2016-01-31 08:07:59 | 松川先生のお話
今日は、スワミ・ヴィヴェーカーナンダのお誕生日です^^



「心弱く臆病な者たちは、大海の大波が立ち上がるさまにおじけづき、海岸の近くで声も出なくなる。
 本当の英雄は、そんな波などは全く気にとめない。
 何があろうと、わたしはまず自分の理想に到達するのだ!――これが、男らしい生き方である。
 このような男らしい生き方がなければ、いかに神からの助けがあろうとも、怠け心が消え去ることはないだろう。 」

 ――ヴィヴェーカーナンダ


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今日のAMRITAチャンネル「アニメ・ハヌマーン 第三話」

2016-01-30 19:52:44 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ・ハヌマーン 第3話」です。
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菩提道次第の歌

2016-01-30 07:20:56 | 松川先生のお話


菩提道次第の歌



※この作品は、ダライ・ラマ五世の「菩提道次第の歌」にインスピレーションを受けて、私が私の見解も含めてまとめたものです。


松川慧照



完全なる覚者の法の保持者であるグルのお口から出る
すばらしい正法の言葉に、しっかりと耳を傾けなさい。

プライド等によって教えが入らない、
誤った見解を持ち、教えが入らない、
我見が強く、教えが捻じ曲がる、
教えを聞いてもすぐ忘れる、
これらの欠点を捨てて、
正しく素直な心をもって、教えを聞きなさい。
そして、はるかな過去から蓄積してきた功徳の蓄積を、呼び起こしなさい。

過去に現われた、真理に通達したすべての聖者たちのお心は
偉大なるダルマを精髄としている。
偉大なるダルマは、すべての衆生を救済するすばらしい薬であり
不死の甘露であり
最愛の友であり
また、出会いがたい道でもある。

おお、この最上の道を、学び、考え、瞑想している
縁ある衆生よ。
一つの短い生涯だけのための、取るに足らないさまざまなものを捨てて
輪廻を超えた幸福を得るために、あなたの道を切り開きなさい。
すなわち、心の連続体に、現世への執着を嫌悪し否定する感覚を教え込んで
心の本性という永続する宝物に心を向けなさい。
愛著・嫌悪・迷妄という三つの毒を生み出す、無智な駄弁をやめ、
ぼろをまとい、瞑想修行に身をおきなさい。

このようにして、身体と言葉と心は、白い善のカルマを徐々に生み出せるようになり、
人は、永久の幸福という目標を達成する。





飢えと渇きに苦しめられている者たちに
飲食物や衣服などの財を施す者を、
また、敵の危害から守ってくれる優れた指導者を、
人々は「恩ある人」であるという。

しかしながら、終わりなき輪廻における
激しい苦しみ、
無常による苦しみ、
求めても得られない苦しみ、
壊れたり失ったりする苦しみ、
これらの苦しみと恐怖から、私たち衆生を完全に解放して
永久の安楽という宝物を施すような
師の恩恵は、誰がはかれようか。

一時的なニルヴァーナの境地さえも、到達しがたい。
ならば、完全な仏陀の境地は、どれほど到達しがたいのか。
根本の師とは、本来ならば何カルパにわたっても得がたいほどの高度な境地に私たちをお導きになる
過去・現在・未来の仏陀たちが具現化したお姿そのものなのではなかろうか。

師の行動に過ちがあると思ったとき
私たちは、それらは自分の心のけがれの投影であるとみなすべきではなかろうか。
自分が心底から腐っていると確定して
すべては自分のせいであると理解して
師への不遜な思いを、毒のように断じるべきではなかろうか。

師の振る舞いに対する、曇りのない清らかな見方を養い育てなさい。
師が教示された言葉通りに実践しようという、敬愛・信受の心構えを養い育てなさい。
そして、何をしても修行となるような、深い核心たる態度を育て上げなさい。
つまり、何を考えてもすべてが修行の成就に向かうという、真理の「鍵」を養い育てるのだ。





多くの過去世において
世俗的な栄光と所有物を享受し続けてきた。
しかしながら、愚かな者たちよ、あなた方は、
いまだに自分が哀れな苦しみの中にあると知りながらも
今生の食物や財産や富裕さなどに固執し続けている。

過去世においても、さらにはほかならぬこの現在の生涯においても
こうした同じやり方に従っており、
悪魔に心を支配されて、
得る事を喜び、失う事を悲しみ、
快楽を喜び、苦痛を嫌がり、
称賛されることを喜び、非難されることを嫌がり、
名誉を喜び、不名誉を嫌がるといった
二元性の幻影の中に引きずり込まれている。
その結果、苦しみは幸福と取り違えられて
魂の本当の目的は捨てられるのである。

現在とは、究極的な幸福と利益を成就する根本であって
真理に出会い、修行に適した稀な条件という船を
奇跡的に得ているのである。
私たちがこの船を得ながらも、「永久の安楽」という宝の島へ赴かずに、
輪廻界に、空っぽの手で舞い戻るとするならば、
それは誰のせいでもない、私たちの心根にこそ問題があるのだ。


カルマと煩悩の力によって引き起こされたこの生存は、
生まれた瞬間から、一瞬たりとも停止することなく、
死へと向かっている。
ここに永遠にとどまろうとすることほど、愚かなことはあるだろうか。

死がやってくる年月日は、全くわからない。
老人も成人も青年も子供も、順番なしに、死の餌食となっていく。
しかし、そうだとわかっていながらも、人は、
心の中では、自らの臨終のときを、はるか遠くに思い描いているものである。
あなたは、見える目を持ちながら、見ても見えてはいないのだ。

私たちは、自分にとって本当に有益なものを見逃して
代わりに、わずかな利益しかないものを
有益であると思い込み、追い求めている。
しかしながら、死が到来したとき
あなたは、すべてを後に残して、
一人で恐ろしいバルドの旅路を行く。


そして地獄へ落ち、
火炎が燃え盛る鉄の部屋の中で
切られ、裂かれ、砕かれ、
さらには血の河に落とされる。
このような有様を知って、それでも恐れない者は、
心が悪魔にとらわれているといわざるを得ない。

他のある者たちは、寒冷地獄へ落ち、
光なき暗闇の中、凍てつく冷風の中にいるのに気づく。
その弱い身体は、鋭利な冷たい刀で
何百何千に切り刻まれるが、死ぬことはない。
悪業をなす者は、このように地獄で常に苦しめられる。

今私たちは、できものや腫れ物、病気のわずかな痛みにさえ
自分が耐えられないのに気づく。
動物界に落ちたら、他の動物に、生きたまま食べられる。
この終わることのない苦しみを思って、心底から打ち震えないとしたら
その人は、心を持たない無機物ではなかろうか。

今私たちは、飲食物その他の、現在のこの短い生涯を利益するだけのもののために
多くの努力をしている。
餓鬼界に落ちたならば、一万年とも五千年ともいわれる寿命の間は、
耐え難い飢えと渇きの苦しみのために、疲れ果てながらも、さまよわなければならない。
こうしてさまよいつつも、得られるものはわずかである。

このような、耐え難い三悪趣に落ちるかもしれない断崖絶壁にあっては
体毛をほんのわずかに動かすのも危険である。
それにもかかわらず、
得ること・失うこと、快楽・苦痛、称賛・非難、名誉・不名誉などにとらわれたり、
敵と味方を分け、敵を打ち負かし味方を守ろうとしたり、
そのような危険な幻影の中で、利害や損得を懸命に操ろうとしているあなたは
なんと愚かであろうか。


この輪廻の生涯は、稲妻の光のようにはかない。
この短い生涯にあって、幸福を得る手段として
社会的地位を積極的に追求したり
現世的目的を達成して喜んだり
そうしたことに心を奪われる者たちがいる。

これらを見るとき
耐え難い悪趣の恐怖から救済してくださる保護者にして、
幸福と解脱への道を詳しく指し示した、かくも大切なものである
欺くことない仏陀と、仏陀の教えと、聖者たちに
出会えた事を喜びなさい。
この出会いは、これまでにはるかな過去から積んできた功徳によって
生み出されたものなのだから。

私たちは、かつて
私たち自身の悪業によって落ちた悪道において
耐え難い苦しみを経験したが
そうしたことは、もう十分ではないのか。
それを骨身に刻んで、
智慧ある者よ、より善い転生のための基礎を確立しなさい。


私たちは、生来の無智という病によって
何を取り、何を捨てるべきかを見る眼が曇らされており
自分の心をきれいにすることを忘れ
自分の顔のシミや服の汚れなどを
きれいにすることが大事だと思ってしまうのだ。

人々にとっては、集めてもすぐになくなるような、はかない財物が宝物である。
彼らは、痕跡のない鳥の道や、水に描いた絵のような、はかないもののために
身体と言葉と心のすべてをもって
大変な努力をし、苦労にも耐えているのである。

真理を学ぶゆとりのないこの生涯にあって
敵を害し、愛するものを守るなどの幻影の価値観は
夢の中で経験する苦痛や安楽に似ている。
現世の価値観にとらわれて人生を送るならば
そのような人生の本質は、心騒がしく時間を空費することである。
耐え難い地獄の苦しみを生む燃料が
この上さらに必要なのだろうか。

無知蒙昧の者が、この生涯の目的のために
不善の行為を犯してしまうのは、現実にあることである。
私たちが数多く学んだ経典の教えに順じた
すべての衆生を救済するという、究極的な願い・目的を
忘れ去り、風に飛ばしてしまうのは、恥ずかしいことである。


おお、春にまかれた種子は
秋には、それに応じた収穫をもたらすものである。
これと同様に、善なる行為も、悪しき行為も、原因となって
それに応じた幸福や苦しみという果報を生む。
こうした理法を思索して、
何を取り、何を捨てるかを、大切にしなさい。

犯した悪業を懺悔すること、
二度と悪業を犯さないと決意すること、
仏陀と真理と聖者と菩提心をよりどころとすること、
そして、悪業や煩悩に対する具体的な対抗手段。
これらの力は、長きに渡って繰り返し実践して習熟することによって
悪趣の原因となる習性を、根こそぎに断つ。






私たちは、子宮という暗闇の中で過ごした後、
出生の激痛に直面しなければならない。

その後しばらくは、身体は若く、花が開くように成長するが、
すぐにその頭髪と眉毛は、雪のように白くなり
輝きを増していたその色艶も、夜のように黒ずんでいく。
そしてまっすぐだった姿勢は、弓のように曲がる。
やがては、好きなものを楽しむこともできなくなり
完全に老いにつかまれる。

薬も、占いも、祈祷文も、
福寿を祈る儀式も、何の助けにもならずに、
日に日にだんだんと衰えていく。
友人や親族や近しい人たちも、嫌がって避ける。
これらは、死後の世界の主・ヤマ王が
あなたを呼び出すためにつかわした使者なのである。

現在のところ、心は、身体と一体となっている。
しかし、まもなくこの形ある身体は、死の床に横たわり
心だけがたった一人で、バルドの長い旅路をさまようのである。

多くの方法を駆使して、死を制止しようとしても
死の条件が雨のように降ってくる。
体力の限りに集め守っても、財産や友人たちは
あらゆる方向に散り散りに離れていく。

神々でさえも、死の兆候が現われたときには、
身体は神の栄光を享受しながらも、心は地獄の恐怖に苦しむのだ。

鳥が、空の世界を自由に飛びまわっても、最後には地上に落ちるように、
私たちは、輪廻の頂点に上ったとしても、
再び低い世界に落ちて、悲嘆にくれるのである。

申し分のない天界の神々たちも
再びまた悪趣に落ちる。

人間として生まれ、真理に巡り会った今こそ、
輪廻に別れを告げる最高のチャンスなのである。





無始の過去から
自分の心と一時も離れることのなかった、煩悩。
私たちは、この煩悩を頼りとしてきた。
そしてそれによって、果てしない輪廻の海に投げ出されたのであった。

望みもしないカルマの風が、煩悩に強く働きかけて
私たちを、激しい苦しみ、
無常による苦しみ、
求めても得られない苦しみ、
壊れたり失ったりする苦しみ、
これらの苦しみの波間に置いていく。
煩悩がある以上、私たちは、輪廻を永久に回り続けるのである。
ゆえに、煩悩は第一の敵であると考えなさい。

人は、人生において現われた敵を倒したとき、それを「勇敢」と呼ぶ。
ならば今こそ、この最大の敵である煩悩を征服するときが
確かに到来したのだと考えなさい。

人間の身体を得て、真理を学ぶためのさまざまな条件を満たし
覚醒に至る道である、戒・サマーディ・智慧という三つの実践修行を知る
この幸運な時にあって、もし苦しみの原因である煩悩の軍隊を断じないならば
再び生死の地平において、苦しみに支配されるのである。




はるかな過去世から、煩悩によって行為をし続け
それは心の連続体の中に、結果を生む習性として刷り込まれる。
この習性は、渇愛と執着によってより増進され
来世の再生を力強く成立させる。

習性から来る識別によって、五蘊すなわち自我意識が成立し
「自己」と「他者」の区別が、はっきりと顕現する。
自我意識は、欲求の対象に働きかけて、接触し、
楽・苦・どちらでもないという
三つの感覚を経験する。
こうして輪廻の世界に強く結び付けられ
再び出生、老い、死を繰り返していくのである。

要するに、輪廻の生存は、十二縁起であらわされる原因と結果の連続によって
生起する現象なのである。
この十二縁起という現象を
今こそ、逆にたどり、
無明と苦しみを滅するべきではないだろうか。








清らかな生活を作り、維持する
「戒律」の修行は
すべての基礎であり、
幸福を生み出す善い田畑である。
この田畑において、水と肥料となるのは、
柔軟な心である。
幼い苗を、実りの果実へと成熟させる太陽は、
深いヴィパシャナー(正観の瞑想)である。
こうして、輪廻の苦しみを根絶する。

心が怠惰さを克服した境地にある者は
サマーディに至り
百股のヴァジュラによって
輪廻の生存への一切のとらわれを打ち砕くのである。

果て無き輪廻の大地の上に
真理の法による戒・サマーディ・智慧という如意樹を生育させなさい。
その樹は、苦しみの炎によって焼かれることはなく
永遠の幸福と不死の甘露を実らす、すばらしい庭になるだろう。





果て無き輪廻の苦しみの大海の中で
輪廻を心底から嫌悪し、精進し
宝石のようにかけがえのない、戒・サマーディ・智慧の階梯を上るのはいいが
自分だけが、寂静と幸福という邸宅に入る者たちがいる。

かつてあなたの友であり母であったすべての衆生が
いまだに輪廻の牢獄に閉じ込められて
苦しみ叫んでいるのを目の当たりにしながら
放置することができるならば
あなたほど恥知らずな人はいない。

すべての衆生は、過去世において、
あなたの優しい父であり、母であったと知りなさい。
そして、その恩を心にとどめることによって、
「『衆生救済の責任を担おう』という特別な決意」という船に乗り
慈愛と哀れみという強い風の力によって
全智者の宝島に向けて、直ちに旅立ちなさい。

自己と他者を入れ替えるという秘法によって、
自分に害を与える敵でさえも、実は愛すべき親友であると、確信しなさい。
利己的知性の根本を断ち切りなさい。

エゴに執着し、大切にする心を乗り越えてください。
そして、自分に害を与える者に、
報復の代わりに利益をもって応答するという「鍵」を使って、
自己と他者の二つの利益を自然に成就する
「幸福と安楽の門」を開けてください。
このように、同時に二つの利益を成就するのは
ああ、なんというすばらしい奇跡であろうか。




心の本性は、体験と認識として、少しずつその芽をあらわす。
その芽をよく育てる水分や温度とは、
修行の艱難辛苦によく忍耐することである。
それによりその芽は、正しい悟りという果実として、豊かに結実するのである。
これは、小乗・大乗かかわらず、修行者が歩んでいく同一の道である。

自分を傷つける衆生たちを
過去世では父母であったとみなし
この心構えをもって
命を懸けて、魔と戦わなければならない。
慈悲の甘露水を飲み
「『衆生救済の責任を担おう』という特別な決意」を
堅固に成就した菩薩は、
大変稀有な存在である。

この大乗の道は、空のように広大である。
聖なる教えは、大海のように奥深い。
しかし、今の世を生きる私たちの智慧は、夜のように暗く
自分を偉いとうぬぼれている多くの人たちの智慧は、乾いた草のように細い。

だからこそ私たちは、真理の教えという手を使い
心臓のナーディの結び目を解きなさい。
常に真理の教えに慎重に耳を傾け
心を無限の真理で満たしなさい。





布施の心を起こし
恩あるすべての衆生に
身体や財産をはじめとするあらゆるものをささげ
はるかなときにわたって与え続けること
そうすることによって、
尽きることのない永久の喜びを
今ここで成就するのだ。

過去に積んだ多くの悪業の力によって
衆生は現在、苦しんでいる。
限りない衆生を苦しみから解放しようという熱望を抱いて
布施の完成の修行を実践しなさい。


修行する条件がすべて整った、この恵まれた人生という庭には
菩薩の戒という、願いをかなえる樹がある。
この樹には、ニルヴァーナという果実がたわわに実って垂れ下がり
幸福と安穏というおいしい果汁が滴っている。

数え切れないカルパにわたる
布施の実践は
喜ばしい財産であるけれども
私たちが、人間や神などの善趣に再生できるかどうかは
布施に加えて、戒の遵守の実践にかかっている。

ひとたび獲得した
人間の生涯という、このかけがえのない車も
善行を行なわずに、勝手気ままに運転すれば
堕落という泥の中にはまり込むのである。

この幸運な生涯という平原の中にありながら
戒の実践によって自分を作り直し
自分を苦しみから引き抜こうとしない人は
悪魔にとりつかれているのである。


多くの生涯の間に積み上げられた、功徳と智慧という樹林を
一塊の「怒り」という火がたやすく燃やし、
悪業という燃えた切り株を、輪廻の荒野に積み上げる。
この「忍耐できない」という敵こそが、苦しみの源である。

不自由なカルマと輪廻は、その険しい山の頂上から
悪しき果報という土砂を、流れ落としてくる。
輪廻の谷の中に住む者たちは、
自身がこのような悪業の中でもがいているのに
どうして他の誰かを誹謗し叱責するのか。

私たちは、エゴという組織的な軍隊との戦いの只中にある。
今こそ、「忍辱」という頑丈な鎧兜を身につけるべきである。
殴り、打ち、悪い言葉を吐くといった武器を用いることなく
「他者への害心のない平安な心」という武器により、自身のエゴを打ち砕くこと
これこそがすばらしいのである。


物事の真実相に対する迷妄と、愚鈍と、精神的な怠慢さなどから起こる幸福の味は、
利益がなく、心が対象に流されて散り乱された、心穏やかならざる状態である。
このような幸福は、たとえどれほど味わったとしても、
心が満ち足りることはない。
それは、喉の乾いた人が、塩水を飲むようなものである。

闘争心によって、強い敵に対して、
能力がないのに、自分を高く見せることがある。
それなのに、仏陀の境地に対しては、
必ず達成することが可能であるにかかわらず
心が萎縮し、智慧の劣った者は、
「自分にはできるはずがない」などと言う。
これは誤っている。

この生涯には十分な時間がないと知って、
永遠の幸福を達成する、この正法の実践を
一日も無駄にせずに、わが身に鞭を打って精進するならば、
間違いなく、人は誰でも、
解脱というあの島に向かって
確実に進んでいくのである。




怠惰、真理の教えを忘れること、心の沈みこみ、心の興奮、
これらの過ちが生じたときに対抗手段をとらないこと、
誤った対抗手段をとること、
これらが、瞑想の害となる過ちである。
これらの過ちの特質を明らかに知り、
信・決意・精進・軽安・正念・正智、
そして正しい対抗手段を取ることと、誤った対抗手段をとらないこと
これらの「対抗手段」の優れた特質をよく観察しなさい。
そうして寂止の瞑想に入りなさい。
歓喜・光・無分別を具えた
「寂止」という心の深い安定状態は
すばらしいものである。

しかし、少しの間集中し、心が安らいだという程度の瞑想では
愛著・嫌悪・迷妄の三毒は、弱まることはなく、潜伏しているに過ぎない。
この程度の安楽の瞑想状態を、修行者が良いものと見せかけても
このレベルの達成は、平凡なものであって、あまり良いものではない。

心の安定は、智慧があることとは関係がない。
にもかかわらず、この状態を、輪廻とニルヴァーナを超えた仏陀の境地であると
間違って主張する人たちは、自らの内面をしっかりと観察すべきである。

心を安定させ、サマーディに入ることによって、
さまざまな神通力を成就できると説かれている。
しかし、ただ毎日お腹を満たして、日向ぼっこをし、
努力もせずに、ただこれらを獲得したいという希望的観測に浸るのは
石を絞って油を得ようとしているようなものである。

ああ、なんと悲しいことだ。
以前に人は、自らの心を甘やかして、放縦のままにした。
それによって、かけがえのない人間としての生涯を
無益な、中身のない、世俗的なものの追求に費やしてしまった。
これからは、世俗の喧騒を離れ、瞑想の実践を楽しみなさい。

正しく深い瞑想による歓喜が、身体と心の両方に浸透するならば
その人が何をしても、それは善良なものとなる。
この教えの重要性を理解できたならば
あの名高い仏陀の境地も、遠くはない。





暗闇の中で、縄を蛇と見間違えて恐怖を抱くように、
私たちは、無明という病により、この心身の上に「私」という思いを誤って抱いている。
この大きな過ちの中で、私たちは、
激しい苦しみ、
無常による苦しみ、
求めても得られない苦しみ、
壊れたり失ったりする苦しみ、
これらの恐怖を体験する。

自我意識は、幻を真実であると執着する。
この執着によって、果てしない輪廻界でのあらゆる経験は
あたかも、夢の経験を真実だと錯覚し、喜びや苦しみを経験するように
過ぎ去っていく。
対象の実相を明智しないのは、愚かである。
実在する、実在する、と思ってずっと執着してきた「私」なるものは
いくら探しても見つからず、空であり、実体がない。
こうした探求によって、
すべての存在するものは、本来的に空であるという
根本的な真実を、明智するのである。

すべては存在しないのに、
地獄で焼かれる苦しみや、神々や人間の安楽さなどは、
幻のように、経験されるのである。
このことによって、欺くことのない「縁起」という
すべての現象の根本を悟る。

あらゆる存在の本性は、空に他ならない。
この鋭い智慧の武器を振り下ろすとき
「自我や世界を実体視する意識」の束縛は、断ち切られるのである。

このような方法は、小乗・大乗かかわらず、
すべての聖者が進んでいかなければならない道であるが、
最近の、多くの愚かな修行者にとっては、非常に難しい道である。

しかしながら、愚かな者たちの中にあって
大海のようにきわめて奥深い根本を
迷乱なく語る者もいる。

無比なる完全な悟りを得た、すばらしい方々
彼らのことを思いながら、
正しく教えを説くすべての善き方々に
歓喜に満ちて、あらゆるものを供養いたします。


確固たる精進と、本質的な智慧によって、
これらの奥深い六つのパーラミターの意義を
明らかに理解し、実践してください。
こうした実践をもって、
個人的解放の達成という頂に
障害なく向かいなさい。

しかし、小乗の修行者のように、
自分だけの至福とニルヴァーナという劣った頂には執着することなく
他者の心の連続体を成熟させることに取り組んでください。
そして、甘露に満ちた慈悲の行為という
終わりなき流れに従って、進みなさい。

智慧と慈悲という両翼をたくみに動かし
輪廻とニルヴァーナの両方を、高く飛び越えてください。
そして、仏陀の法身・報身・変化身という
不死の三身の境地において
自由自在に喜び楽しんでください。

さあ、鳥神ガルーダの王のように、
今ここから、仏陀の三身の境地へ向かって、飛び立ちなさい!

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2016-01-29 19:22:11 | 経典の言葉・聖者の言葉



 この世は鏡のようなものです。

 あなたがほほ笑むならば、世の中もほほ笑み返してくれます。

 あなたがしかめっ面をするならば、世の中もしかめっ面をするでしょう。


 ――スワーミー・シヴァーナンダ
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・マハーバーラタ 第四話 前編」

2016-01-29 18:34:37 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・マハーバーラタ 第4話 前編」です。
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獅子のように

2016-01-29 17:54:39 | 経典の言葉・聖者の言葉

苦境に悩まされてはいけません。
それらに耐えなさい。
心を神に向け、獅子のように悠々と歩きなさい。


――スワーミー・シヴァーナンダ
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今日のAMRITAチャンネル「勉強会講話より『アディヤートマ・ラーマーヤナ』第36回」

2016-01-28 22:38:06 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「勉強会講話より『アディヤートマ・ラーマーヤナ』第36回」です。
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時の幻

2016-01-28 19:22:44 | 松川先生のお話




空の青さも
星の光も
神を思う
時の幻
ビルも都会も
この私でさえも
一つのものだと
気づいたとき
歓喜の中で
不安を忘れ
神のただの
道具となりて
自由な心で
この世を生きる
なすべきことを
成し遂げながら

敵も味方も
この私でさえも
神の芝居と
きづいたとき
希望も恐怖も
一つに溶けて
完璧な世界を
楽しみ歩む
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すぐ

2016-01-28 11:53:02 | 松川先生のお話




心というのは、善いことをすぐ忘れる。
だから善い思いがわいたら、すぐに心に刻みつけなさい。
善いことを考えたら、すぐに実行しなさい。
そうでないと、それらの宝物はすぐに飛び去り、
そのような善い思いがわいたということすらも忘れ去られてしまうだろう。

反対に、憎しみや執着や嫉妬などの悪い思いに関しては
すぐに忘れなさい。
健忘症になりなさい。
どうしても頭からそれが出ていかないときは
言葉で、それらとは逆の善いことを
ぶつぶつと繰り返しなさい。
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思い出すべきこと

2016-01-28 11:47:41 | 松川先生のお話



 横笛になりたい。

 クリシュナのよだれがつくから。

 そのような純粋な思いのみが

 あなたを救うだろう。
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今日のAMRITAチャンネル「聖典朗読『心の訓練に関する七つの要点』『入菩提行論 第六章』

2016-01-27 21:48:40 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「聖典朗読『心の訓練に関する七つの要点』『入菩提行論 第六章』」です。
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