ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

「トゥンコル」

2015-12-31 16:26:43 | 解説・ナーローの6ヨーガ


◎トゥンコル

【本文】

1-1 トゥンコル

 ①帰依と発心の詩句を唱える。
 ②グルを頭上に観想して祈願する。
 ③自分をヤブ・ユムのイダムとして観想する。

 『こののちにトゥンコルの実践に入る。トゥンコルの内容は、流派によって種々のパターンがあるが、ここではそのうちの一つのパターンを紹介する。

 (1)壺のようにいっぱいにする
 (2)車輪のように旋回する
 (3)鉤のようにひっかける
 (4)金剛縛の印を振り上げて、下に振り落とす
 (5)雌犬の吐き方によって矢のようにまっすぐにする
 (6)頭と体を動かして関節を柔軟にする


 一連のトゥンコルは、満腹時に行なってはならない。

 トゥンコルは、身体やナーディが柔軟になるまで行なう。』





 つまりこれはヨーガのアーサナ、あるいは仙道の気功、これがチベットではこういうトゥンコルっていう形で行なわれてる。でもこれを見れば分かるように、たった六つしかない。つまり、ヨーガとかほどは身体技法を重要視してはいないんだね。重要視してないけども、一応は少ないパターンのものを使ってると。
 最近チベット体操とか流行ってるけど、あれも元はこのトゥンコルだと思います。つまりトゥンコルを、欧米人がチベットで習ったやつをアレンジして、日本の人達もそれに食いついてチベット体操とかいっぱい本も出てたりするけど、元はこのトゥンコルですね。それはいろんな流派があるから、「トゥンコルといえばこれだ」っていうわけではない。流派によってちょっと違ったりする。
 で、これはいつも言うように、アーサナそして気功、そしてこのトゥンコル、合う合わないがあります。アーサナはすごく気持ちいいんだけど、気功はいつも苦しいんですとかね。あとその逆とか。でもわたしはやっぱり総合的にやると、とても相乗効果があっていいと思うね。だからアーサナ――ここは一応ヨーガ教室なので、アーサナをメインにして、たまに気功をやると。そしてたまにトゥンコルとかも入れると、相乗的に体の気の通りがとても良くなると思います。
 はい、で、ここからはちょっと技術的な指導になるね。これはちょっとできるものはやってみましょうかね、ここでね。





◎壺のようにいっぱいにする

 まず一番最初、「壺のように一杯にする」。
 はい、これは壺の呼吸法っていう呼吸法がチベットにあって、それもいろんなパターンがあるんだけど、その一つのパターンだね。
 で、これはちょっと細かく今は読まないけども、二段階に分かれてます。この呼吸法はね。まずその第一段階からいってみましょう。
 はい、第一段階、まずやり方をいうと、顔を左に向け――これ右鼻からって書いてあるけど、これは普通できません。つまりこうやって手を使わないで右鼻だけ吸えって言われても、普通できないよね。これ慣れてくるとできるって言われるんだけど、これは別に両鼻でもいいです。こう左を向いて両鼻からゆっくり吸って、吐くわけですね。
 じゃあ皆でやってみましょうかね。あっ、やってた(笑)? じゃあ次、右を向いて、はい、吸います。はい、吐きます。はい、じゃあ前を向いて吸って、吐くと。はい、これをあと二セット繰り返します。また左を向いて、はい、右を向いて、はい、前を向いて。はい、また左を向いて、右を向いて、はい前を向いて。
 はい、ここまでが準備ね。で、本番は一杯に息を吸って――まず準備として手の親指をこういうふうに握り込んで下さい。で、膝の上に置きます。で、まず最初にやることをいうと、いっぱいに息を吸って息を止めます。で、このときにムドラーとは違って――ムドラーはお腹をへこませますが、逆にお腹を突き出すようにします。で、丹田――へそのちょっと下のところにぐっと力を込めて突き出します。ただ突き出すだけだと気が下に下がってしまうので、同時に肛門を締めます。肛門は締めるけど、お腹は突き出します。で、このへそのちょっと下の辺りにぐーっと力を込めます。で、できるだけ長く、このへそに意識を集中してできるだけ長く息を止めます。
 これ、最後の方は面白いんだけど、苦しくなったら吐くんじゃなくて(笑)、苦しくなったらツバを音を立てずに飲み込みます。まあ立ってもいいけどね。ゴックンってツバを飲み込んで、さらに頑張ると。ね(笑)。いったん「もう駄目だー!」って思ってから、ゴックンって飲んでもうちょっと頑張ると(笑)。もうちょっと頑張って、もう本当に駄目になったら、息を吐くと。これで一セットです(笑)。
 じゃあやってみましょうかね、はい。じゃあ、ちょっと深呼吸から。息を大きく吸って、吐いて、はい、じゃあ完全に吐き切って、はい、吸います。大きく息を吸って、息を止めます。はい、止めたらぐっとお腹を突き出して、へそに集中し肛門を締めて、お腹に集中すると、もう顔が真っ赤になるくらい、「うー!」ってくるはずです。もうそれでいいんで、ぐーっとお腹に集中してください。で「もう駄目だー!」ってなったらツバをゴックンっと飲んで、もうちょっと耐えて下さい。肛門も忘れないで締めて下さい。
 三十秒経過。さあ頑張って。もう失神しそうになるぐらいまでぐーっと力を込めて。四十秒経過。四十五秒経過。はい、終わった人はちょっと休んでいて下さい。五十五秒経過。はい、一分経過。一分十秒経過。一分二十秒経過。一分三十秒経過。はい、みんな終わったかな?
 はい、これ、やって分かったかもしれないけど、これね、ちょっと危険な呼吸法でもあります。一人ではあんまりやらない方がいいかもしれない。ちょっと気を失いそうになるときあるんだね、これやると。ふーって意識が飛んでしまう。
 これをムドラーって言ってもいいんだけど、ヨーガのムドラーに比べると、ヨーガのムドラーの方が上昇の効果はあります。ちょっとこれはどちらかというと気を上げる呼吸法ではない。これはどちらかというと、エネルギーを強めて、ぐーっと深い意識に入る呼吸法だね。だからどっちがいいとは言えないんだけど、これも合う合わないがあるから、これが好きな人はもちろんこれやっても構わないんだけど、これはあんまり気を上げるって感じじゃないね。気を上げたかったら、ヨーガのムドラーの方がいいです。
 これは完全に深い意識に入っていく。これが気に入った人はやってもいいけども、一人でやる時は気をつけた方がいい。本当に気を失いそうになるから、何回かやってると。本当にうわーってこう意識が完全に深く入ってしまうというか。
 はい、これが一番目の「壺のようにいっぱいにする」っていうやつですね。



◎車輪のように旋回する


 はい次、二番目、「車輪のように旋回する」。これは簡単です。まずは蓮華座を組める人は組んで、で、このそれぞれの親指をつかむわけです、普通に。で、これは呼吸を入れても入れなくてもいいと思うけど、腰を右に三回左に三回回す。やってみましょう、右に三回回して左に三回こう回します。はい次、上体を左右に倒す。こういう感じですね。これを何回か行ないます。これもアーサナみたいですね。はい、上体を前後に倒す。

【実演】

(生徒)そんなに!

(一同爆笑)

 これは実はね(笑)、この部分っていうのは、これは流派によっていろいろあるんだね。これが蓮華座でない場合もあります。蓮華座じゃなくて、まさにヨーガのアーサナみたいに両足を伸ばした姿勢でやる場合もあります。これはまさに完全にヨーガの「パシュチモーターナ・アーサナ」ですね。
 ここでは蓮華座ってなってるけども、まあとにかく、何らかの姿勢を保ったまま回したり横にしたり前後に倒したりっていうやつですね、ここはね。




◎鉤のように引っかける

 はい、じゃあ次、三番目、「鉤のようにひっかける」。
 はい、じゃあこれも皆でやってみようかね。これ、やったことある人もいると思うけど、これは立って行ないます。じゃあ立ってみましょう。立ち上がって、まず手は親指を出したグーです。親指を出したグーをこう合わせるんです。で、こう胸の前にまず持ってきます。はい、これは呼吸を入れた方がいいと思うんだけど、この姿勢から息を吐きながら前に押し出します。これをね、全体的に左にこう持ってきて、で、弓を引くように右手を右脇にぐーっと持ってきます、息を吸いながら。そしたらすぐに左手も左脇に持ってきて、で、また息を吐きながら合わせて全体を今度は右に持ってきて、はい、息を吸いながら左手をぐーっと引いて、はい、右手を右脇に持ってきてから、また左に持ってきて、右手を引いて左手も脇に持ってきて、はい、右に持ってきて吸いながらぐーっと左を引いて、右手も脇に持ってきて、はい、こういう運動ですね。これでこう気道を通して行くんですね。



◎金剛縛の印を振り上げて、下に振り落とす

 はい次、次も立ちながらやります。「金剛縛の印を振り上げて、下に振り落とす」。これはね、金剛縛っていうのはこういう感じ。逆に拳を握るこういう感じです。ちょっと痛いけどこういう感じで。この手を、息を吸いながらゆっくりと天にぐーっと伸ばします。で、十分に突き上げたら、今度は息を吐きながら降ろしていきます。できる人は床まで降ろして床へぐーっと押します。はい、で、また吸いながらぐーっと上に伸ばして天をつき、また吐きながら降ろします。




◎雌犬の吐き方によって矢のようにまっすぐにする

 はい、じゃあ次、「雌犬の吐き方によって矢のようにまっすぐにする」。
 はい、これはまず四つん這いになります。はい、ここから息を吸いながら、コブラのアーサナになります。つまり息を吸いながらぐーって感じでここまでね。十分にこのコブラを入れたら、首だけぐっと曲げます。で、口から「はーっ」――十分に吐いたら立ち上がります。立ち上がって、三回づつ足を蹴ります(笑)。これがこの動作(笑)。
 「なぜそんなことをやるんだ?」って言われると、そういうシステムだとしか言えない(笑)。つまり体のシステムを利用して、何かがこれで起きてるんだろうね。まあ、そういうもんです。




◎頭と体を動かして関節を柔軟にする

 はい、じゃあ最後、これも立ってやるやつです。これはね、ちょっと曖昧なんだけど、まず手の関節を一本一本こうやって引っ張ります。そして、あとは全身の関節を揺する。これは首をこうやったりとかジャンプしたりとかして、関節をこう柔軟に揺すります。
 これ一番いいのは、スワイショウね、これがとてもいいです。手を前後に振ったり、あと回したりね。あともう一つ、これはこうやって腰を打つやつだけど、腰を打たないでこういうのもあります。こう手を当てないでこういう感じで。できるだけ関節を柔軟にして、ぐにゃぐにゃぐにゃってこう。
 はい、そして、あとはサッカショウといいますが、激しくこう擦るわけです。この辺も気功とかととても似てるんだね。

 はい、じゃあ、座って下さい。
 チベットっていうのは医学とか占星術とかもそうだけど、インドからの影響と、それから中国からの影響を両方受けてるから、すごくインドのヨーガ的な部分と、それから中国的な気功とかの部分とかも混ざってる感じがあるね。
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至高者の祝福(4)「主の宇宙体の栄光」

2015-12-30 22:26:16 | 経典の言葉・聖者の言葉



第四話 主の宇宙体の栄光



 ブラフマー神は、続けておっしゃいました。

『過去・現在・未来におけるすべての存在は、至高者そのものなのである。主がこれらすべてに遍満されており、そしてこれらは、主の宇宙体の一部に過ぎないのである。
 すべての生命体、さらにカルマの法則をも、主は超越しておられ、不死の解脱の境地をも支配されておられる。それゆえ、その至高者の栄光を理解することなど、誰によってもそれは不可能なのである。

 聖典によると、二つの道があるといわれる。一つはカルマに支配される者の道で、輪廻に束縛されるゆえ、それは無明と呼ばれる。
 もう一つは至高者を思う者の道であり、悟りにつながるので、明智と呼ばれる。
 衆生はこのいずれかの道を歩むことになる。

 至高者はすべての世界と衆生を生み、それらの中に遍満しておられるが、同時にそれらすべてから全く別個に存在しておられるのだ。

 主の宇宙体のへそに生えた蓮華から、この私が生まれたとき、供養に使えるようなものは、まだ何一つ存在していなかった。
 そこで私は、供養に必要なものすべてを、主の宇宙体そのものから得て、至高者を供養し礼拝したのである。
 やがて時が至るや、聖仙、神々、悪魔、人間など、彼ら全員が、主を供養し礼拝したのである。

 属性を持たぬ至高者は、創造の夜明けに、ご自身のマーヤーを用いて、無数の属性を身に帯びられるのだ。そして至高者に支えられることで、この宇宙は安らかに存在できるのである。

 私はこの宇宙を、主に命じられるがままに創造した。そして主ご自身がヴィシュヌとしてそれを維持し、シヴァとしてそれを破壊されるのだ。

 親愛なる息子よ。これらがあなたの質問に対する答えである。この創造の中で、原因もその結果も、主以外には何も存在しないのである。

 私は偽りを述べることなく、また偽りの思いを抱くこともない。そして私の感官は、決して迷わされることはない。なぜなら私は永遠に、強い憧れをもって、シュリー・バガヴァーンを瞑想しているのだから。
 私は、祝福に満ちた主の御足に礼拝をささげよう。それはすべての吉祥が宿る場所で、帰依者に輪廻の終わりをもたらす所なのだ。

 至高者は、すべての者の中に真我として宿る、純粋なる絶対意識なのだ。
 主は常に真実で、完全であり、始めも終わりもなく、属性もなく、永遠で、ただ一者なるお方なのだ。

 ああ、ナーラダよ。瞑想に専念する者は、肉体と感覚と心をヨーガによって完全に支配したときにのみ、主を悟ることができるだろう。
 しかし利己的な詭弁的推理に頼るなら、主はたちまちその視界から消えられるだろう。』

 
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至高者の祝福(3)「宇宙の描写」

2015-12-30 21:37:50 | 経典の言葉・聖者の言葉


第三話 宇宙の描写


 パリークシット王は、続けて聖シュカに尋ねました。

「主はこの宇宙を、ご自身のマーヤーを用いて、どのように創造されたのか、私はそれを知りたいのです。
 また、すべてに遍満される主は、宇宙をいかにして維持し、破壊されるのか、そのことも私に教えてほしいのです。
 唯一者なる主は、どのようにしてこの宇宙で活動し、どのようにして化身するのでしょうか?」


 聖シュカは答えました。

「かつて叡智の宝庫であるブラフマー神は、神仙ナーラダに同じ質問をされたとき、至高者から教えられたその答えを、ナーラダに伝えました。その教えを、あなたにも教えましょう。
 ブラフマー神は、このようにおっしゃいました。

『ある者には、私が宇宙を現わしているように見えるが、実際には、自ら輝かれる主が、宇宙のすべてを現わしておられるのだ。
 同様に、太陽や月や星が宇宙を照らしているように見えるが、実際にはこの宇宙は主によって照らされているのである。
 
 愚かな人々は、マーヤーに惑わされて、肉体やそれに関係するものを自分だと錯覚し、そのように誇らしげに語るのだ。
 しかし本当のことを言うなら、至高者以外のものなど、何一つ存在しないのだ。すべての元素、カルマ、時間、また個我でさえもが、それらはすべて主そのものなのである。
 すべてのヴェーダの目的は至高者であり、すべての神々は至高者から生まれる。
 すべての供養は至高者を喜ばせるために存在し、すべての世界は、至高者の体の各部分に過ぎないのだ。
 至高者はすべてのヨーガの究極的対象であり、すべての修行は、至高者を満足させるためにあるのだ。
 すべての智慧は至高者へ向かい、すべての道は至高者に通じるのである。
 主は認識者であり、また支配者である。不変であり、かつすべてを包含している。
 この私を作られたのも主であり、主に励まされて、私はこの宇宙を創造したのだ。

 主は無限であり、三グナを超越されているが、主は宇宙の創造・維持・破壊のために、三グナを身にまとうのだ。
 この三グナが、諸元素と感覚器官、そしてそれらを支配する神々を媒体として、本来自由である魂をマーヤーの支配下に置き、それら魂に、「私は肉体だ」「私は感覚だ」「私は心だ」「私はそれらの合体したものだ」などと思い込ませるのである。
 主は、自らをマーヤーで覆うことで、衆生の目には容易に認めがたくしておられるのだ。
 ナーラダよ、主は、私も含めたすべての生き物の支配者であられるのだ。

 創造の夜明けに、多様とならんとされた唯一者は、ご自身の中から、カーラ(時間)、カルマ、宇宙の本性などを現わし、それらを身にまとわれた。
 三グナの均衡をカーラが乱して、それを宇宙の本性が変容させ、カルマからは宇宙的理性が発生した。これらすべては、主ご自身の力によって機能するのである。
 宇宙的理性が宇宙の本性の影響で変容した結果、物質・智性・行為といった要素からなる「自我意識」が生じた。
 この「自我意識」は、物質の要素が強い場合はタマス的となり、智性の要素が強いときにはサットヴァ的になり、行為の要素が強い場合はラジャス的となるのだ。

 タマス的自我からは、地・水・火・風・空の五元素が生まれた。

 サットヴァ的自我からは、五種の知覚器官と五種の行動器官を支配する、十人の神々が生まれた。

 ラジャス的自我からは、五種の知覚器官と五種の行動器官が生まれた。さらに認識機能としての理性と、活動機能としてのプラーナも生まれたのだ。

 
 五大元素、知覚器官、行動器官、心、三グナ、これらは最初は互いにバラバラだったので、身体という家を構築できなかった。
 しかしそれらは、神の力に促されて互いに結合し合い、それぞれが原因となり結果となることで、この大宇宙と、個々の生命体の身体を生み出したのである。

 卵の形をしたこの大宇宙(宇宙卵)は、最初は生命なき状態で置かれていた。至高者はこの宇宙卵の中に真我として入られ、生命を吹き込まれたのだ。
 その結果、主はこの宇宙卵を突き破って、無数の手や足や眼や顔を持つ、宇宙体として姿をあらわされた。
 その腰から下には低位の世界を、上には高位の世界をというように、宇宙に含まれるすべての世界を、賢者はこの至高者の宇宙体の中に認めるのだ。』

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至高者の祝福(2)「解脱への道」

2015-12-30 21:17:00 | 経典の言葉・聖者の言葉

第二話 解脱への道


 聖シュカは続けて言いました。

「人は、実体のない名前や概念を通して、満足を求めようとします。そしてマーヤーでできたこの世界で幸福を求めて、まるで夢見るように、さまざまな世界をさまようでしょう。けれどもそこでは結局、真の幸福を獲得することはできないのです。
 それゆえ賢者ならば、それら本質的ではない楽しみの対象に対しては、肉体を維持しうる程度にかかわりを求めるべきでしょう。
 同時によく自分の心に、感覚の楽しみのむなしさを言い聞かせて、それらに執着を持たないように努めるべきなのです。
 過去のカルマによって、それら感覚的な楽しみが自然に得られるのは問題ありません。しかしわざわざ苦労してまでそれらを求めることは、結局はむなしく終わるということをよく理解して、そのようなものを追い求めるべきではないのです。

 ここに大地があるなら、苦労して寝る場所を探す必要があるでしょうか?
 わたしたちに腕があるなら、どうして枕が必要でしょうか?
 手でものがつかめるなら、多すぎる皿や入れ物が必要でしょうか?
 みすぼらしくても身を覆う布があるなら、どうして多くの美しい洋服などが必要でしょうか?
 他を生かすために生きる木々は、あなたに果物などをくれないでしょうか?
 河はあなたに水の恵みをくれないでしょうか?
 そして至高者は、保護を求める者をこばんだりするでしょうか?
 
 このように心を明るく楽天的に保って、自分の目標を正しく見定め、愛しき真我として心に宿る、無限で永遠なる主を、礼拝すべきです。
 このように主を礼拝することで、輪廻の原因となる種子が、心から消えていくのです。

 多くの人が世俗世界という地獄に落とされ、過去のカルマの結果ゆえに苦しむのを見るなら、獣ならまだしも、誰がかの至高者を瞑想するのをやめて、感覚の満足などを求めるでしょうか?

 完全なる純粋観照者である宇宙の主宰者に、バクティによって自分の心が完全に固定されるまでは、壮大な主のお姿に心を集中して、毎日瞑想すべきなのです。




 人が肉体を捨てるときには、自分の心を、時と場所に執着させてはいけません。そしてしっかりと正しい姿勢をとり、呼吸を制御して、心と感覚器官を管理するように努めるのです。
 純粋な理性で心を管理したなら、次にその理性を、より深い智性の中に帰入させ、さらにその智性を絶対的な真我の中に帰入させます。そして最後に真我をブラフマンの中に帰入させます。
 そのような境地に至った者には、神々を支配する「時」でさえ影響を及ぼすことはできず、ましてや時に支配される神々や、神々に支配される普通の生き物は、彼に対しては何の力も行使できないのです。またその境地では、サットヴァ・ラジャス・タマスの三グナも存在せず、自我意識も、大我も、根本原質でさえ存在しないのです。
 
 完全なる至高者以外を「そうではない」と否定していき、自分自身を肉体その他と同一視するのをやめて、崇拝すべき至高者の姿を、強い信仰心を抱いて、絶えず心に思い続けるのです。

 死にあたってヨーギーは、まず聖典から得た智慧により、感覚の喜びへの渇望をしずめます。そして、次のような方法で、肉体を捨てるようにします。
 まず最初に彼は、自分のかかとで会陰部を圧迫するようにして座り、感傷的な思いを克服して、六つのチャクラを通してエネルギーを上昇させていきます。
 よく自己を調御しつつ、へその付近のマニプーラ・チャクラに宿るエネルギーを、心臓の位置にあるアナーハタ・チャクラまで引き上げます。
 そのエネルギーを、喉の所にあるヴィシュッダ・チャクラまでもって行き、さらに精神集中の力によって、エネルギーを喉の一番上部まで押し上げるのです。
 さらにそこからエネルギーを、眉間のアージュニャー・チャクラまで持っていきます。そして、そのアージュニャー・チャクラに30分ほど集中してとどまった後、そのエネルギーを頭頂のサハスラーラにまで上昇させ、最後にはブラフマ・ランドラを突き破って、肉体と感覚器官を捨て、至高者との合一を得るのです。




 また、もしそのヨーギーが、ブラフマ天界や他の天界に行き、神通力を持ち、空中を自由に飛ぶシッダたちと楽しみたいと願うなら、彼は肉体を離れる時に、自分の心と感覚器官を、それらの世界に持って行くようにするのです。

 神への礼拝を行ない、厳しい苦行とヨーガを実践し、完全なる叡智を得る修行に励み、達人となった者の身体は、風のように微細となり、この三界の内と外を、自由に行き来できるようになるといわれています。ただ単に儀式を行なうだけでは、そのような自由な境地にはなれないのです。

 光り輝く中央管を通って、ヨーギーがブラフマ天界にまで進むとき、まず最初に彼は、大空を通り抜けて、火の神の世界へとたどり着くでしょう。その世界において、心に残る一切のけがれを捨てた後、彼は主ヴィシュヌによって支配される、イルカの形をした「星空界」へと上っていくのです。
 この「星空界」は、この宇宙が回転する輪の中心に相当するもので、ここを超えたなら、彼の身体は最も微細かつ純粋なものとなり、「偉大なる世界」へと上っていくでしょう。この世界は、この宇宙が終わるまで生き続ける神々が、喜びに満たされて暮らす世界なのです。
 その後、この宇宙が終わりを告げるとき、彼はそこから「真理界」へと上っていくでしょう。そこではシッダの最高者たちが、天界の乗り物に乗って暮らしており、2カルパ以上もの長きに渡って存続する世界なのです。
 その世界には悲しみや苦しみなどは一つもなく、老いもなく、また他のどんな恐怖も存在しないのです。その世界の神々が感じる唯一の苦痛とは、いまだ真理を知らぬ衆生が永遠に生死輪廻を繰り返して苦しむ様子を見て、慈悲の思いから生じる心の痛みなのです。

 その後、彼は、地・水・火・風の元素に順次没入し、最後は「空」へと帰っていきます。
 さらにそのヨーギーは、感覚器官と感覚対象の源へと順次帰入していき、また行為器官の力の源へも帰っていきます。このようにして、それらすべての要素は、それぞれの微細な姿へと帰っていくのです。
 その後、ヨーギーは、自我意識の源へと入っていくでしょう。さらにその自我意識を、宇宙的理性の原理へと帰し、さらにそれをプラクリティ(自性)へと帰入していくのです。

 その後、そのプラクリティさえも唯一の至高者の中に帰って行く時、いまや完全な祝福に満たされたそのヨーギーは、喜びに満ちて、平安そのものである至高者と合一するでしょう。この状態の完成を得たなら、その人はもはや二度と、この物質界に戻ることはないのです。
 
 
 ああ、王よ。これらが、あなたが尋ねられた、聖典に説かれる「解脱への道」なのです。かつてその昔、ブラフマ神が主クリシュナに質問したとき、それに答えて主クリシュナが示されたのが、これらの道だったのです。

 輪廻の渦に落ちた者にとっては、至高者へのバクティ(信愛)を目指す以外、他にどんな祝福された道もないのです。
 全ヴェーダを三度にわたって研究した結果、至高者へのバクティを育てることこそが、最高のダルマであるのだと、ブラフマ神は、智性によってそう結論づけたのです。
 すべて存在するものの中には、ただ一人の至高者だけが、真我として存在しているのです。理性などの現象は、純粋観照者である至高者の存在を推測するための、単なる補助役にしか過ぎないのです。
 それゆえ、人はいつでも、どんな環境にあろうとも、全身全霊をもって、ただ至高者だけを、見、聞き、語り、思わねばならないのです。
 
 聖者が語る、至高者についての、アムリタ(不死の甘露)のような言葉を飲むならば、人は感覚の楽しみに汚された心を浄化することが可能となり、やがて至高者の蓮華のような御足へと、徐々に近づくようになるでしょう。」

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今日、瞑想で見たヴィジョン覚え書き

2015-12-30 18:40:47 | 松川先生のお話




 大きな樹の周りを、メリーゴーランドのような馬車のようなものが回っている。そして、クリシュナとラーダーと仲間たち、ラーマとシーターとラーマーヤナの登場人物たち、あるいはラーマクリシュナとその仲間たち、あるいはナーローパ、マルパ、ミラレーパたち・・・といった、様々なアヴァターラや聖者とその仲間たちが、それぞれの馬車に乗って、大木の周りをまわっている。

 そのリーラーのメリーゴーランドの動きは非常に美しい。何色もの光が、水のほとばしりのように流れつつ、止まることなく動き続けていく。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第三話」

2015-12-29 19:31:00 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第3話」です。
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今日のAMRITAチャンネル「賛歌・イメージビデオ」

2015-12-28 18:13:32 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAmritaチャンネルは、「賛歌・イメージビデオ」です。



曲目

1.ハリオームタットサット
2.忘れないで
3.我が師(日本語版)
4.ガーヤトリー・マントラ
5.ハヌマーンチャリサ
6.Rama-Christians
7.シッダールタ
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夢覚え書き

2015-12-28 11:39:47 | 松川先生のお話

 今朝見た夢が、壮大でドラマチックだったので覚え書き・・・


 多くの修行者が参加している修行の合宿のようなものに、私は指導者的立場で参加している。

 ある人が私に、チャクラのことや神秘体験について質問してくる。
 それに対して私が、次のようなことを言って答える。
「真の修行者は、チャクラがどうこうとかはどうでもいいし、中途半端な神秘体験もどうでもいい。
 修行の完成と、そこに至るには何を実践すればいいかということしか興味がない。
 しかしもし神秘体験をしたいなら、行法をものすごくやればいい。そしてできるだけ食事と睡眠を減らせば、神秘体験は簡単にできる。
 あるいは真の神秘体験は結局、神の恩寵を受けるしかない。
 しかしそのためには、その恩寵を受けられるだけの器をこちらがまず作らなければならない・・・」

 この最後の、器の話をしている最中で、話が中断された。
 そこにいた複数の者たちは、二台の車に乗り、走り出す。ある場所で合流しようとして、ある場所に向かう。

 ところで、このある場所に向かうシーンにおいて、また別のイメージもあった。
 そこでは私は道を歩いている。
 私の体には、普通の左右の睾丸と、同様に左右対称の球体が、体のいろんな位置についている。
 そしてその歩いている道を先に行けば行くほど、「私」は左右二つに分裂される。または、その左右を超えて、真ん中の道に入っていく。
 それは少し恐怖を感じさせるものではあったが、私はどんどん歩いていく。

 さて、そして私が、他の何人かの者と一緒にたどりついたある場所……それは富士山の一画であった。
 そこは、男と女の中間の修行者たちが住む町のようなものだった。
 この男と女の中間というのが、いわゆる性同一性障害のような人たちを指すのか、あるいはもっと別の比喩的な意味なのかは、わからなかった。

 ところで、後で、これらの複数のイメージが皆、ある一つの示唆を含んでいることにきづいた。
・二台の車の合流
・左右の分裂、そして真ん中の道に入る。
・男と女の中間の修行者たちの町
・富士(不二)山

 そう、すべてが、二つが一つになること、二元を超えた「不二」、あるいは「中」の世界への趣入のような示唆を含んでいた。

 さて、この富士山の一画の、男と女の中間の修行者たちが住む町には、私は以前にも来たことがあった。

 その町の奥にどんどん入っていくと、最初は普通の山の中の町のような感じだったが、だんだん、自然にあふれたユートピアのようなイメージの場所に変わっていった。そこに住む人たちも、何となく普通と違う。子供が多く、身体能力が高い。
 そして不思議な動物がいろいろいた。
 ドーナツのような輪っか状のものがいくつも飛んでいて、それは蛇だということだった。しかしそれが着地したところを見ると、それは蛇というより親子のトカゲというか恐竜のように見えた。
 あと、カバとヤギの中間のような動物とか笑、いろいろいた。
 また違う場面では、ライオンも出てきた。私は複数のライオンの顔を撫でたが、噛みついてきたりはせず、おとなしかった。

 さてここで、ある重要な研究の答えのようなものが、すでに解明されているということがわかった。
 そこにやって来た人々のある人たちは、それをひたすら研究していたのだが。
 我々はその「答え」のある場所へと向かう。
 研究者の一人は言う。「一生懸命研究していたことがすでに解明されていたことを知らされていなかったのは悔しいけど、それよりもそれが解明されていたという喜びの方が大きい。」
 その道中、ある女性(ダーキニー?)が、私に語りかけてくる。その答えが何なのかということは、以前にすでに私に話してあったのだという。

 大勢の者で、道を進んでいく。
 それは最初は普通の上り坂の山道のようなものであったが、どんどん急になっていき、最後には急な階段のようになる。
 それは手すりがついていたが、足元の階段のステップは、ただの岩のようなものであり、ちゃんと手すりをつかんでいないと、いつ足を滑らせて落ちてしまうかわからない。
 私の前には、一人の女性(ダーキニー?)と、複数の子供たちが登っていた。
 もし私の前の者たちが足を滑らせて落ちそうになっても、私のところで受け止めてせき止めなければならないと思い、私は手すりをしっかり握る。

 しかし相当登ってきたが、まだゴールが見えない。後ろを振り向くと、恐怖が出たり、心が萎えるかもしれないので、振り向かずにとにかく進み続けると決める。

 ついに頂上に到達する。階段の頂上は小さなスペースで、いったんそこに登ったあと、今度は下り坂になる。
 私の前を進んでいた女性と子供たち、そして他の何人かの者が、その頂上に登り、向こう側へ降りていく。
 そして次に私もその頂上に登ろうと思ったのだが……私が登ろうとすると、その重みで、その梯子のようなものがぐらつく。もしかするとそれによって梯子すべてが崩れ、みんなが落ちてしまうかもしれない。
 そこで私は完全な頂上には登らず、頂上一歩手前のところで、何か別の足場に身を移し、様子を見ている。

 そうこうしているうちに、そこの風景が……それまでは、霧に包まれた、雪山のような、ユートピアのような、天界のような風景だったのだが、ごく普通の現世的な、日常的な風景に変わる。本屋さんや図書館のようなイメージ。そしてその外は、しゃれた、洗練された町のような世界になった。
 その本屋のような場所には、様々な精神世界の本が置かれていたが、私はそれらをすでに読んでいるか、または興味の持てないものばかりだったので、手に取らない。
 神聖な世界へ向かう梯子のように見えていたものは、ただの脚立のようなものに変わる笑
 
 そしてある人が、その梯子を登って来ていた多くの人に説明する。
 この先にあるものは、実はそんなに大したものではないということを説明しているようだった。
 「共同幻想とは・・・」「19××年には・・・」「心理学では・・・」みたいな、もっともらしいナレーションも流れる。
 多くの人が、それらの説明を信じ、自分が信じていたものは幻だったのか、たいしたものではなかったのか、と落胆し、家に帰っていく。
 私はある人に聞いた。
「彼らはどこに?」
「家に帰ったよ。」
「なぜ?」
「テレビを見るためさ。」
「高校野球か!」

 高校野球のシーズンだったらしい笑

 さて、このようにして、まあいわば、信じていたユートピア、あるいは「答え」なるものが幻に過ぎなかったと落胆して、道を登ってきた多くの者たちが帰っていった。

 かなりの数の人たちが帰ったが、全員が帰ったわけではなく、ある一定数の人々は残っている。

 どうやらここから先が本当の「答え」のようだ。



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今日のAMRITAチャンネル「勉強会講話より『徳』」

2015-12-27 23:31:04 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「勉強会講話より『徳』」です。
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「身体のあり方」

2015-12-26 09:24:22 | 解説・ナーローの6ヨーガ


◎身体のあり方

 次は、身体のあり方。これはちょっと具体的な身体技法的な話になってきちゃうわけだけど、ちょっとこれもいってみましょうかね。


【本文】

2:身体のあり方


『「身体のあり方」とは、チャクラやナーディなどがどこにあるか、どのようなときにどこに集中すべきかというような、深い方便道の問題を扱う場である。
 それは流派によって微妙に違いがあるので、師の教えによって、詳しく学ぶべきである。』



 これはヨーガともとても関わりがあるけど、チャクラ、そしてナーディ、そしてどういう形でナーディを通していくかとか、それは流派によっていろんなやり方があると。われわれが日々やってるようなヨーガの修行も、まさにここの部分に属しますね。





◎トゥンコルとトンラの修習

【本文】

②:道を進む次第

 道を進む次第には二つある。
 1.トゥンコルとトンラの修習
 2.道そのものの修習



1.トゥンコルとトンラの修習

『トゥンコルとトンラの修習が堅固になれば、ナーディやプラーナの修習において、強い痛みが生じることはない。
 また、もし痛みが生じても、このトゥンコルとトンラの修習により、痛みを消すことができる。』




 はい、このトゥンコルとトンラ。特にトゥンコルというのは、これはつまりヨーガです。ヨーガっていうか、アーサナとか呼吸法とかムドラーとかと関わってくる。つまり、考え方は完全にヨーガのアーサナ、プラーナヤーマ、ムドラーとかと同じ。

 「ナーディやプラーナの修習において、強い痛みが生じることはない」っていうのは、つまり、実際瞑想とかで気の流れをさっき言った中央の気道とかいろんなところに通していくわけですが、その前の段階で、身体が例えば気道が詰まりまくってたりすると、つまりその非常に汚い詰まってばかりいるところを無理矢理通すことになるから、いろいろ痛みが生じたりとかするんだね。

 ただね、これはぶっちゃけて言うと――ヨーガってみんなどう考えてるか。「ヨーガやると健康になりますね」「ヨーガやると体が爽快になります」――これは正しい。でもそれは第一段階です。つまり第一段階っていうのは、例えば体が健康になる、あるいは痩せてくる、あるいは爽快感が出てくる。これは、余りにもひどい精神や神経や肉体の状態を、まず元に戻してるんだね。

 はい、元に戻りましたと。「あなたは人間として、もうまっとうな、もう本当に体が爽快で神経も整っていて、いい状態になりましたね」と。「はい、じゃあ次、人間を越えましょうか?」という段階になってくる。

 人間を越える段階――つまり人間から神や解脱者に進化する段階においてですよ、「じゃあ人間としてはこれで良かったが、より高い段階に移行するには、あなた、そことそことそこ詰まってますよ」と。それをヨーガによっては、物理的に詰まってる気道を、思い切り通そうとするんです。そのときに――これはちょっとぶっちゃけていうと――病気になります。まあ病気っていうかな、ある場合は原因不明の痛みが生じる。ある場合は、いろんなタイプの病気になる。それは例えば、医者に行けば何か名前付けられて、何とか病ですとか言われるかもしれない。それは表面的なつじつま合わせみたいなもので、実際はその人が乗り越えなきゃいけない部分を、肉体的に気が通ろうとしてるんだね。通ろうとしても詰まってるから、そこにエネルギーが集中しちゃって、そのけがれてる部分が一時的に増大したような感じになって、ちょっと病気になる。あるいは病気ではないんだが、すごい痛みが生じる場合がある。これをよく「浄化」って呼ぶんだけど(笑)。これはもう避けて通れないんだね。

 このトゥンコルとかアーサナとかいっぱいやっても駄目です(笑)。もちろん和らげることにはなるけどね。しっかりと身体のこういう技法をやってると、浄化がスムーズにいくとはいえる。でもまあやっぱり、浄化は避けて通れないね。

 で、それは、どんな浄化が起きて、どの程度の強さで、どの程度長引くかっていうのは、完全に人によります。その人の持ってるカルマによるから。まあそうだね、その人が持ってるカルマと、その人がどれだけ激しい修行をしたかと、その人が何を目指しているかによって違うね。

 カルマがものすごく悪ければ、ちょっと修行しただけですごい浄化が起きます。あるいはカルマはそんなに悪くないんだけど、激しい修行をしたり、すごい高い境地を目指してたら、やっぱりそのちょっとしたカルマも浄化しなきゃいけないから、ばーって浄化が出ます。

 もちろんこれは肉体面だけではない。現象としても出たり、あるいは精神的に出たりする場合もある。

 とにかくもう一回言うけども、ヨーガというのは第一段階では、心も体も、あるいはこの世のいろんな出来事も、すべて幸せになっていきます。ね。ここで終わってももちろん問題ないんだよ。その人は、この世でとても心が安らかで体も爽快で、人間関係も良くなりました。ヨーガって素晴らしいですね――これで終わってもOK。でも、さらに進みたかったら、その人がもともと持ってるカルマの浄化として、肉体の苦痛、あるいは精神の苦痛、あるいはいろんな現象的な苦痛が生じることは覚悟しなきゃいけない。

 最初から生じる人もいます。「いや、先生そう言いますけど、わたしヨーガやってから全く幸せになったことがありません」と(笑)。ね。「苦しいことばっかりです」――それは、完全な修行者のカルマなんです。前生から修行してる人の場合は、最初からそうなります。最初から浄化ばっかりの人生になります(笑)。それはそれで素晴らしいんだけどね。

 とにかく、その人が高い境地を目指そうと思ったら、やっぱり浄化っていうのは不可欠なんです。だからここでは、一応はこういうのやってると痛みが生じませんよとは書いてますけど、それは防御策にはなるけれども、全く生じないってことではない。

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「二つの真理の理解」

2015-12-26 07:48:33 | 解説・ナーローの6ヨーガ



◎二つの真理の理解


【本文】

『このように、究極の意味の真理と、便宜的・限定的な意味の真理という、二つの真理の理解が必要である。これについてミラレ―パはこう語っている。

「愚昧な人々の心の状態に合わせて、
 全智者である仏陀は、『すべては存在する』と説いた。
 しかし究極の意味の真理からいえば
 魔もなければ仏陀もない。
 修習する者もいなければ修習すべきものもない。
 導くべき場所もなければ道しるべもない。
 結果である身体と智慧もない。
 それゆえに、ニルヴァーナもない。
 すべては、名前と概念によって仮に設定されただけである。
 三界が堅固であることも動揺することも、本来成立せず、不生であり
 基もなければ同時発生もない。
 カルマも、カルマの果報もない。
 それゆえ、輪廻という名前すらもない。
 究極の意味においてはこのとおりである。」

「ああ、衆生がないならば、過去・現在・未来の仏陀は、どこから生じるのか。
 因のない果はあり得ないから、
 便宜的・限定的な真理としては、輪廻とニルヴァーナは存在すると、聖者は説かれた。
 存在物があらわれるということと、存在がなく空性であるということの二つは
 本質は無差別であり不二であるから、
 すべては双入であり、広大である。
 そのように理解した賢者は、認識を見ずに智慧を見た。
 衆生を見ずに仏陀を見た。
 有法を見ずに法を見た。」

 このように、究極の意味としては輪廻とニルヴァーナの如何なる法も存在しないが、便宜的・限定的な意味としては、衆生が仏陀になること等の、輪廻とニルヴァーナにおけるすべての設定がある。
 そしてこの、名前と概念によって仮に設定された、縁起によってあらわれる現象と、すべてが自性として成立しないという空性の二つは、本質は同じものとして存在する。
 よって、縁起やカルマの法則に代表されるこの世の限定的な法と、すべては空であるという法は、どちらかをとることによってどちらかを捨てるということがあってはならないのである。』




 これも同じようなことを言ってますけども、ここで一つ重要なことを言うと、この最後の方で「ニルヴァーナさえ存在しない」ってあるね。これはちょっとショックがあるかもしれない。つまり、われわれが悟りを得て行くニルヴァーナもないんですかと。

 これはどういうことかっていうと、ちょっとまた別の言い方をすると、ニルヴァーナはあります。しかし、みなさんがイメージしているニルヴァーナではありません。

 つまりこれはね、われわれは今迷妄の闇の中にいる。よくわたしは麻薬患者とかに例えるけども。例えばMさんが麻薬かもしくは何らかの原因によってね、完全な幻覚の中にいたとするよ。もう全然他の人とは違う世界に入ってしまってる。ここで、Mさんに対してわたしが「目覚めなさい!」と言っても、あなたは――例えばMさんが蝶々ょになったとするよ(笑)。幻覚によってね。「わたしは蝶々だ」とか言って。わたしが「Mさん、Mさん、あなたは蝶じゃない。人間なんだよ、Mさんなんだよ!」って言っても、通じないんです。なぜならばMさんは蝶になりきってるから、わたしの言葉もちょっと変化したものとして聞こえてくる。例えば、わたしがカブトムシに見えるかもしれない(笑)。で、わたしが「Mさん目覚めなさい!」って言っても、Mさんには「やあ、蝶さんごきげんよう!」とか言ってるように、「空はどうですか?」とかわたしが言ってるように聞こえるかもしれない。

 つまり、輪廻という幻影にはまってる人に輪廻を外れた仏陀が何言っても、ストレートには聞こえない。また別の言い方すると、二元性の中にはまってる人に一元――つまり、二元を越えた世界の話っていうのは、することは不可能なんだね。理解させることは不可能。

 でも、だとしたら、何も出来ないのかと――そうではない。仮の目標設定をするわけです。つまりわれわれに理解できる――われわれはこの輪廻っていう苦悩の世界で苦しんでいて、それを越えたニルヴァーナがあるっていう何となくイメージがあるよね。「悟りの世界は素晴らしい!」と。でも、よく考えてみて下さい。われわれが悟りの世界をイメージ出来ると思いますか? 仏陀の境地というのは、イメージすら出来ない。けどもわれわれは何となくイメージするよね、仏陀の境地って。それは間違いなんです。仮のものなんです。つまり本当にわれわれが悟ったときに現われる世界は、全く予想に反しています。

 これはよくわたし言うけども、完全に予想外なんです。予想外っていうのは、「あっ、ちょっと違ったね」じゃないんだよ。よくわたし、馬と柿ほど違うって昔言ってたけど、馬と柿以上に違うよ。馬と柿っていうのはつまり「ジャンル違うじゃん!」っていう世界じゃないですか(笑)。で、そのジャンルどころでもない、もうすべてをひっくり返したような、「あっ、そうなの?」っていう、「そっちなの?」みたいな感じだね。でもそれすらもちょっと違うね。完全にもう二元を越えた世界だから、全く違う、想像すらできない境地なんだね。

 でも一応この世にいるわれわれは、まず想像しなきゃいけない。まずイメージによって目標を定めなきゃいけないから、このような二元的な「はい、輪廻があって、それが滅したニルヴァーナ」っていうイメージを定める。で、それに向かって突き進むのは、これは正しいことなんです。正しいことなんだけど、究極にいうとそれも実は嘘なんだよと。それもすべては仮の設定なんですよっていうことだね。

 しかし同時に、その仮の設定にしっかりとはまって努力をしなければ、われわれの修行っていうのは進まない。よって、この二つの意識を同時に持ちなさいと。つまり非常に二元的な、つまりまずカルマっていうのがあって、善をなすと幸せになりますよ、悪をなすと不幸になりますよ。そして一つずつこのようなけがれを落としていくことによって、われわれはだんだん進んでいきますよ――このような考えっていうのは、しっかりと持たなきゃいけない。で、同時に、でも実際は空なんだよ。



◎コンピューターゲームのたとえ

 これは前から何回かいってる例えで言うと、コンピューターゲームの例えがやっぱり一番いいね。コンピューターゲームの例えっていうのはつまり、Mさんが例えばコンピューターゲームにはまってて、ロールプレイングゲームとかにはまっててね、最近ネットオンラインゲームにはまり過ぎて徹夜でやって死んじゃう人もいるみたいだけど、そういう事件もあるみたいだけども、もう完全にはまっちゃって、自分がそのゲームの主人公になりきっちゃってる。ね。完全にもう我を忘れてなりきってる。そこで、そのゲームの法則性をしっかりと学んで正しくゲームをクリアして行くこと。これがわれわれの今学んでいる一般的な法則なんです。これは必要なんです。最後までわれわれはゲームをクリアしなきゃいけない。

 しかし、クリアして初めて、われわれはゲームに飽きるんだね。「あっ、終わった!」と。「あれ?」っと我に返って、例えば――わたしオンラインゲームってやったことないから良く知らないけど、わたしのイメージだけどね、例えばMさんが何かのキャラクターだとするよ。何がいいかね、吟遊詩人ジュリア(笑)。例えばだよ(笑)、吟遊詩人ジュリアであると。で、Mさんは吟遊詩人ジュリアとしていろいろな冒険をすると。ね。で、何かその同じオンラインゲームの仲間からもジュリアとか呼ばれて、「ああ、わたしを何だと思ってるの?」とかいう感じでこう、いろんな物語が展開されて、ゴールしましたと。すべてが――オンラインゲームってゴールとかあるのかな? よく分かんないけど――クリアしましたと。すべてが終わりました――となったときに、はっと我に返って、「あっ、もうこんな時間だ」と。「夕食の準備しなきゃ!」と、Mさんに戻るわけだね。

 つまり、最後までやっぱりクリアしなきゃいけない。でも、まだクリアしてないんだけど、お母さんとかがやって来て、肩をたまに叩いてくれるわけです。「なにやってんの、あんたジュリアじゃないよ!」と(笑)。「それ、ゲームだよ!」と。

 この最後の答え――つまり、「はい、ここでこのアイテムを取らなきゃいけないよ。ここでこのアイテムを取らないと次の敵を倒せないよ」――こういう法則性ではなくて――この法則は法則で必要なんですよ。ここでこのアイテムをこれくらい用意しないと次には進めないぞと、そういうので頭は一杯だと。それは必要だと。必要なんだけど、同時にたまにお母さんとかが、「言っとくけど、あんたジュリアじゃないんだよ!」――これが、究極の答えなんです。これが空の教えなんです。

 つまり、輪廻というのがありますよ。カルマの法則がありますよ。善によって幸福になり、悪によって、例えば人を憎んでいると地獄に堕ちますよ。人に幸せを与えるとあなたは天に行きますよ――このような法則性が、この輪廻のゲームの中でびっちりと決められてる。それをわれわれは学び、その通り生きてゴール、つまり解脱を目指さなきゃいけないんだけど、同時に、まだゴールしない段階から、でも全部ゲームなんだよ。本当は皆幻影なんですよ。存在しないんですよ――っていうことも学んでおくんだね。これが空の教え。

 だからわれわれにとって空の教えっていうのは、今の段階ではまだよく分からない、何となくのイメージに過ぎない。でもそれでいいんです。逆にその方がいい。変な本とか読み過ぎて、「空とはこうなんだ!」ってガチガチに固めちゃうと、また新たな迷妄をね、新たな消さなきゃいけない無駄な迷妄を一個作っちゃったことになるから、そうしない方がいい。

 われわれが最終的に悟り得る空っていうのは、悟らなければ分からない。しかし、実際はそうなんだと。

 この空の教えと、この世における限定的な法則。この二重の意識っていうのを、常に持っとかなきゃいけない。どっちも捨ててはいけないっていうことですね。

 ちょっと繰り返すけど、どっちも捨てちゃいけないんだけど、どっちかって言うと、もしどっちかしかできないんだったら、空の方を捨てた方がいいです。つまり「空だ!」とか思わないで、とにかくカルマに則ってこの世で正しく生きてっていう、そういう二元論的な思考の方を大事にした方がいい。その方が間違いがない。
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「有相でもなく無相でもなく」

2015-12-26 07:38:52 | 解説・ナーローの6ヨーガ



◎有相でもなく無相でもなく

【本文】

『マイトリーパが著された「真実十」の中に、

「真如を知らんと欲する者は、有相でもなく無相でもなく」

と、あるがままなる真如を知ろうとする者は、有相と無相のどちらの教義も取るべきではないと説いている。


 また、「虚でもなく真理でもない」云々という意味は、「六十頌如理論」の中に、

「あるものによっている本質は、水に映った月のように、実在でも非実在でもないと主張する彼らは、誤った見解に心を奪われることはない。」

と説かれているように知るべきである。
 
 すなわち、人と法の本質は、それぞれの原因と条件によって生じている。
 そして同時に、原因と条件によって生じるが故に、そこに真実と実在は無いのである。


 「金剛簍」の中に、

「我執を斥けるために、空であるということを勝者たちは説かれた。」


とあるように、人我と法我の二つの我執をしりぞけるために、ブッダによって空性の見解が説かれたのである。』




 これは、今言った空性の教えの要点でもあるんだけど、「有相でもなく無相でもなく」――これがとても大事なところで、よくね、この空の教えっていうのは、お釈迦様が最初に説かれて、それから龍樹ね――ナーガルージュナ、龍樹っていう人がそれをより体系的にまとめたんですが、西洋とかではこの空の教えをよくニヒリズムと混同する人がいる。つまり、一切は無いんだ、無だ――じゃないんです。つまり、空っていうのは有でも無でもないんだね。「すべてが有る」でもなければ「すべてが無い」でもないんです。つまりこの「有る・無い」もまたその二元論の中にあるから、この「有る・無い」を越えた世界なんだね。

 それは最終的には悟るしかないんだけど、でもここで言ってるのは、まずはその間違いには陥らないようにしなきゃいけない。つまり、「一切は無いんだ」――それだけで考えてしまうと、ニヒリズムに陥ります。そうなるとその人は、逆に低い世界に堕ちてしまうかもしれない。何でかっていうと、一切は無いんだったら、別に正しく生きる必要もないじゃないですか。一切無いんだから。そんなこと考えてちょっと奔放に生きてしまうと、それによって地獄に堕ちる可能性もある。だから、すべては有るって考えるのは間違いなんだが、無いって考えるのも間違いであると。

 で、ナーガルジュナは、「すべては有る」という実在論に陥るのも、あるいは「すべては無い」というニヒリズムに陥るのもどっちも間違いだが、どっちかというならば「有る」と考えた方がいいって言ってる。何でかっていうと、一応正しく生きるから、その人は。つまり、この世はあると。だからカルマに則って、カルマの法則に則って善を積み悪をしないってことをしないと、わたしは地獄に堕ちてしまうと。ね。そう考えて正しく生きた方がましだと。

 じゃなくて、一切は無いって思ってしまうと、一切は無いんだからカルマも無い――よくね、仏教をちょっとかじってる人で、そういう人、実はいるんです。「一切は空だ」と。「だからカルマも無いんですよ」「輪廻も無いんですよ」「一切の自我意識も幻なんですよ」「だからわたしは何をやったっていいんです。自由なんです」って言う人がいる。でも、その人呼んで来て頭叩いたら、もちろん怒り出す。「何すんだ!」と。「えっ、自我ないんでしょ?」と(笑)。つまりそれは頭でただこねくり回してるだけで、本当に無くなってるわけじゃない。無くなってるわけじゃないのに――その人がね、本当に悟ってたらいいんだよ。ちょっとこういうこというと語弊があるかもしれないけど、完全な悟りを得た人だったら何やってもOKです。つまり、その人を何も束縛しなくなってる。もちろん完全に悟った人は、悪いことはしないけどね。悪いことしないけども、まあ仮定で言うと、完全な悟りを得た人は、どんな悪いことやったって関係ないです。つまりもうゲームから上がってるんだね、その人っていうのは。この世を支配してる法則の中にいない。この場合はOKです。でもそうじゃないわれわれが、頭ですべては無だとか空だとか学んじゃってこの世の法則性を無視すると、地獄に堕ちます。あるいは苦しい人生が待ってる。

 だからこの辺は、二重の視線でみなきゃいけない。二重の視線っていうのは、「一切は空ですよ。それは無とは違って、わたしは未だ悟ってないから認識できないが、一切は有るとはいえないんですよ」と同時に、「無いわけでもないんですよ。そして、少なくとも今われわれはまだ悟ってなくてカルマの法則の中に縛られてるわけだから、正しく生きなきゃいけないんですよ」――この二重の視点というのを持たなきゃいけないんだね。




【本文】

『究極の意味としてはすべては空なのであるが、とはいえ、便宜的・限定的な真理である幻のようなカルマの法則に対して理解がないと、すべては無であるという断見に陥り、悪趣に落ちてしまうので、この幻のような縁起の世界の法に関しても、正しい理解が必要なのである。』



 はい、これは今言ったことと同じですね。
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*:..。o○☆*゜¨゜゜・*:..。o○☆*゜¨゜

2015-12-26 07:36:21 | 松川先生のお話





この世の全てはつじつまあわせ
ああ、この真実を、いかに君に伝えようか

しゃべればしゃべるほど、真実から遠のく
ああ、いかにこの真実を、君に伝えようか

言葉にとらわれずに、言葉を理解しなければならない
ああ、概念に固執している君に、いかに真実を伝えようか

本当に大事な真実は、君の固い概念には、心地悪い
ああ、君の観念に気を使いつつ、いかに真実を伝えようか

自分の世界を壊さなければ、本当の世界は見えない
ああ、この恐怖の乗り越え方を、いかに君に伝えようか

人は自分がエゴの奴隷となっているということにほとんど気付けない
ああ、このもどかしさの中、いかに君を目覚めさせようか

三宝と師への完全な帰依
衆生への完全な慈悲と菩提心
エゴの完全な放棄
これらを常に心から離さなければ、いずれ真実は現前する
しかしそれを実際に手にできる辛抱強い者がどれだけいるだろうか

生まれてきた意味を忘れず、この世の概念に飲み込まれず、帰依と愛と空の道に精進しよう
そしていつか、真実の世界で会おう
そのためだけに、今生を使おう
全てのいいわけと、エゴの擁護を捨てて

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「究竟次第」

2015-12-26 06:55:44 | 解説・ナーローの6ヨーガ



◎究竟次第


 次はいよいよ究竟次第ですね。


【本文】

2-2:究竟次第


 究竟次第の修習には三つがある。

 ①:土台
 ②:道を進む次第
 ③:結果を現前にするあり方



①:土台

 その第一番目の「土台」にはさらに二つがある。
 1:心のあり方
 2:身体のあり方

 「心のあり方」を説くにあたって、その対象となる身体の要点を理解するために、「身体のあり方」が示されるのである。



 1:心のあり方

 
『 「ヘーヴァジュラ・タントラ」の中に、次のように説かれている。

「本質として色・形がなければ、見るものもない
 音がなければ聞くものもない
 匂いがなければかぐものもない
 味がなければ味わうものもない
 感触がなければ触れるものもない
 心がなければ心所もない」

「根と境と識の相を知ることと
 ヨーギニーたちを理解するために、十八界のものとして説く。
 自性は本来不生であり、虚でもなく真理でもないというそのごとく
 すべては水に映った月のようであると、ヨーギニーによって理解しなさい。」


 以上の中で、「心」というのは、識蘊と意処を示す。「心所」というのは、受と想と行の三つの蘊を示す。それによって、意の対象である法を、無自性であると示している。

 また、「見るもの」等の言葉によって、色・形を見たり音を聞いたりする主体である人や我等も示しているから、要するに人と法は無我であるという二無我を示している。


 つまり、あらゆる自我と、あらゆる法には、自性として成立する本質は無いということである。』





 これはちょっと書き方が難しいけど、つまり最後のとこが結論ですけどね。

 あらゆる自我と、あらゆる法には、自性として成立する本質は何もありませんよと。 

 つまりすべては、まず認識の主体である自我というのがあって、それが世界を認識してると。つまり、わたしがわたし以外の対象を、つまり主体が客体を認識してると。で、この主体と客体とそれを繋いでいる認識作用っていうのは、一つでも欠けたら有り得ないよね。だってわたしがいないのに他人ってないじゃないですか。これはこの間も言ったけど、すべては二元性の中にあって、「この世界にわたしはいない。でも他人はいる」っていうのは有り得ない。わたしがいるから相対的なものとして他人がいるんですね。それから認識っていうのがなかったら、わたしも他人も当然ない。その認識によって、そのようなわたしとか他人っていうのが成り立ってるからね。

 で、つまり結論から言うと、全部無いんだよと、実は。わたしもなければ他人もないと。そしてそれをつないでいる認識っていうのも、それは幻であると。

 また別の言い方をすると、今この瞬間はそのようなものがあるように見えるかもしれない。でもいろいろこう探っていくと、独立自存のものは何もない。つまり、今言ったのはまさにそうだけど、わたしっていうのは他者っていうのを前提としてわたしっていう感覚がある。他者がなくてわたしってあるのかっていう問題があるんだね。すべてはそのような――相互依存とかいうわけだけど――相互依存性の中にあって、何か本質的なものがあるというわけではない。仮定として何となく概念的にあるだけなんだと。

 つまりこの究竟次第っていうのは、さっきも言ったように、究極的な真実にたどり着こうとしてるわけですね。で、究極的な真実は、まず最初に言ってしまうと、今言ったようなことになる。つまり、自我というのはすべて存在しない。そして、自我以外のこの世を取り巻くさまざまな現象やさまざまな世界っていうのも、実際はどこにも存在しない。どこにも実体はないんだよ、ということですね。
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「捺印を押す」

2015-12-26 06:47:46 | 解説・ナーローの6ヨーガ




◎捺印を押す

【本文】

『「三界の自性である宮殿。そこにいる生き物は曼陀羅の神々である。」
と説かれており、アーリヤデーヴァもまた、
「これら種々のものを曼陀羅の輪として理解してください。そうするならば、心はいつ、どこに迷乱するというのか。」
と述べられている。

 このマントラヤーナにおいては、いかなるものが現われてもそれはイダムの輪であり、経験は大楽である。そして分別は不生であるという捺印を押すことが必要である。
 プラーナが中央脈管に入ることによって生じる究竟次第の大楽はこの場合にはないけれども、ヤブ・ユムそのもののような明らかな現われをきわめて堅固に得ることによって、方便と智慧を合一させ、パット字によってボーディチッタが外に漏れることを防ぐことから生じる生起次第の大楽が、実際に多くあることも理解する必要がある。


 これが、曼陀羅の輪の生起次第の修習によって心の連続体を成熟させることの要点である。』




 まず捺印を押すっていう表現は、これはつまり瞑想によって、さっき言ったすべてが浄土でありわたしは仏陀であるっていう素晴らしい境地を得ましたと。これがだんだんだんだん確定されてきましたと。そしたらさっき言ったように、世界を同じように見るわけだね。これを捺印を押すって言ってる。

 つまり、「これもそうだ!」「これもそうだ!」「これもそうだ!」ってはんこを押していくような感じだね。

 はい、そしてこの最後に言ってるのは、簡単にいうと、つまり究竟次第っていうのがよりメインの修行になるわけですが、このときの生理学的なことでいうと、われわれの体の真ん中には中央脈管っていう管がありますと。この管って普通は使っていない。修行によってこの管に生命エネルギーがばーっと入ったときに、われわれは素晴らしい大楽というのを感じるんだね。ものすごいエクスタシー。で、それは、まだ生起の段階ではそこまでは生じない。そこまでは生じないけども、今みたいな、世界を神々の浄土と見るというのを繰り返し……そしてボーディチッタが漏れるのを防ぐっていうのは、これは簡単にいうと禁欲するってことです。つまりこの密教の――これはクンダリニーヨーガとかもそうだけど、密教の修行の糧となるのは「性エネルギー」です。つまり言い方を変えると生命力です。だから性的なね、セックスであるとかオナニーであるとかで性エネルギーを漏らすのは非常にもったいない。

 六ヨーガの経典には、前も言ったけど、まあこれは男性目線で書いてるわけだけど、「射精は致命的である」とまで書いてある(笑)。わたしこれ若いころに読んでびっくりしたんだけど、わたし中学生ぐらいから修行始めてね、もちろんヨーガっていうのは大体最初のうちから禁欲しなさいとか書いてあるから、あまりそういう性的なことはし過ぎない方がいいんだろうなあ、とは思ってた。それくらいの認識だったんだけど、あるときその六ヨーガの経典読んだら、「射精を一度でもしたら致命的だ」とか書いてあって(笑)、「えっ! そこまで駄目なのか?」と思って。つまりもう物理的な話なんだね。道徳的な話ではなくて、物理的にその性のエネルギーを使って高い境地に昇ろうとしてるから、それを漏らすっていうのは、つまり材料をちょっと減らしちゃうようなものだから、もったいないよと。

 ただもちろん実際にはさ、まだエネルギーが上昇してないときは夢精をしてしまったりだとかいろいろあるだろうから、ちょっと漏らしたからって本当にもう「はい、それでもう終わり!」っていうのはないよ。例えば、Nさんが「分かりました。禁欲します!」って言って、それで「ちょっと漏らしてしまいました!」って来たとしたって、「ああ、もう駄目! はい、終了(笑)。あなたは今生解脱できません」とか、そこまではならない。そこまではならないけども、でももったいないっていうのはもったいない。物理的にね。だからそれを漏らさずに性的なエネルギー、生命力を蓄えた上で、さっき言ったようなさまざまな変身の修行をしてると、本当の最終段階の歓喜ではないんだけども、その前段階の素晴らしい歓喜が内側に生じますよというところですね。
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