ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

今日のAMRITAチャンネル「アニメ・リトルクリシュナ 第11話」

2015-11-30 20:38:35 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ・リトルクリシュナ 第11話」です。
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「いかに心を変革するか」

2015-11-30 20:01:40 | 解説・心の訓練


心の訓練⑦


◎いかに心を変革するか

 はい、今日は「心の訓練」の最後のパートですね。七つの要点の七番目、「心の訓練に関する24の教誨」。

 心の訓練というのは、いつも言うように、修行の最も大事なことであるといってもいい。ただ、非常にとらえどころがないといえばとらえどころがない。つまり修行っていうのは、どんな高尚な教えがあっても――つまりすごい哲学的な偉大なる教えがあっても、あるいは心を打つような素晴らしい慈愛の教えがあっても、それを実践しなければ全く意味がない。あるいは、それによって実際にわれわれの心が変革されなければ、全く意味がない。

 これは分かるよね。つまりいかに多くの本を読み、多くの教えを記憶し――例えば論議をしてね、「わたしは仏教やヨーガのあらゆることを知っています」と。スパスパッといろんな人を打ち負かすことができたとしても、その人の心がその教えによって全く変わっていないんだとしたら、何の意味もない。逆に一つ二つしか教えを知らないんだが、それによってその人の心が全く変わってしまってるとしたら、その人こそ教えに巡り合ったメリットを得てる人だといえるわけだね。

 よって心の訓練っていうのは、何か取り出して、「はい、これが心の訓練です」っていうものというよりは、われわれが今まで学んできた、あるいはこれから学ぶさまざまな教えを、「さあ、いかに実際に実践し、そしてそれによって実際に自分の心を変革していくか」っていう教えですね。

 だからここに書かれてるのも、われわれを心の訓練に向かわせるための、一つのセオリーにすぎない。実際はいろんな形でわれわれは工夫して、日々自分の心を教えによって変革していかなきゃいけないわけですね。



◎熱意の重要性

 はい。そして最後の「24の教誨」っていうパートに入っていきます。

 もともとね、心の訓練の教えっていうのは、そういう意味ではラーマクリシュナがよく――ラーマクリシュナに対して信者が、「どのようにすれば神を悟れますか?」って聞いたときに、「まず第一に必要なのは熱意だ」と言ってる。つまり神を求めて、自分が神を実現していないことが本当に悲しくて、もう涙が出ると。もういてもたってもいられない――これぐらいの熱意があれば、簡単に神は実現できると。

 でもそれは確かにそうだと思う。逆に言うと、熱意があれば心の訓練の教えもいりません。なぜならばその人は、自然に心の訓練をするから(笑)。ね。つまり、本当に本当にわれわれの心が百パーセント、実際にヨーガや仏教の教えによって自分を変えたいんだと。このけがれた自分の心を変革し、悟りを得たいと。あるいは菩薩になりたいと。あるいはこの真理を自ら体現したいということを、心から熱意を持って思ってたら、絶対やるはずなんです、心の訓練を。つまり、日々いかに自分を変えるか。「さあ、自分はまだまだ全然こんなんじゃ駄目だ」と、一瞬たりとも自分を見逃さずに、自分を変えていくはずなんだね。

 われわれはカルマが悪いから、どうでもいいことには超熱心な訓練をするんだね。どうでもいいことっていうのは、例えば趣味とか、あるいは遊びとか。例えばですよ、何らかのコンピューターゲームとかにはまったとして、「それをなんとかクリアしたい!」と思ったら、一日中そのことを考える(笑)。ね。で、いかにそれをクリアするか――それでご飯も忘れるぐらいと。で、いろんなのを調べたり、あるいはいろんなテクニックを磨いたりして、自分の二十四時間をそれに費やすことができるかもしれない。あるいは例えばスポーツであるとか、あるいは趣味であるとか、いろんなことに関してわれわれは寝食忘れて、それで頭がいっぱいになるってことはあるよね。でも修行でそうなる人ってあまりいない(笑)。ね。

 修行に巡り合って、教えを理解できて、ある程度「わたしはこのヨーガや仏教の修行を頑張りたい!」って思える人っていうのはとてもカルマがいい人なわけだけど、それでも二十四時間、「なんでわたしはまだこんなに駄目なんだ!」っていうことを、一瞬一瞬考えられる人っていうのはなかなかいない。

 だから逆にそうならなきゃいけない。つまり、それだけの熱意を持たなきゃいけないんだね。

 何度も言ってるけど、よく中途半端に仏教を学んでる人で、「仏教っていうのは欲を捨てなきゃいけない」と。「悟りへの欲も持っちゃいけない」なんて言う人がいますが、それはとんでもない話であって、超欲求を持たなきゃいけないんだね。なぜかというと、われわれは全くどうでもいいような、われわれの心を全く変革しない、もしくは逆に引きずり落とすようなものにはいっぱい欲求を持ってる。それなのにね、それをほっといて、悟りすまして、「仏教は欲求を持ってはいけないんです」とか言って、「わたしはだから悟りを求めてないんです」――なんて言ってても、ただ心はどんどん現世的なものに引きずり込まれてくだけだと。

 だからそうじゃなくて、もし欲求が足りないと思ったら、常に心の中にその欲求の炎を燃やすと。それも含めて心の訓練になっちゃうわけだけど。例えばいろんな聖者の伝記を読むとか、あるいは心を鼓舞するような教えを日々学ぶとか、あるいはそういう言葉を日々唱えるとかね。

 わたしはいつも言うけど、『入菩提行論』がとても好きなので、『入菩提行論』を何回も読んでる。何回も読んでるからね、フレーズがやっぱり頭を回るようになるわけだね。それがポイントポイントでパッと出てきて、自分を鼓舞してくれる。

 例えば朝とかね――大体わたし早起きなわけだけど、まあ寝過してしまうこともあるわけだけど、大体五時とか四時とかに目が覚める。でも疲れてるときとかってさ、目が覚めてるけど寝てたくなるときもある(笑)。一瞬ね。「ああ、目が覚めた。」――すごい疲れてるときね、そんなに寝てないような気がするんだけど、パッと起きたらもう朝だと。「ああ、でももうちょっと寝てようかな」っていうときに、例えば『入菩提行論』の一節で、「眠りから覚めたら遅滞なく――遅滞なくっていうのは、少しも遅らせることなく――速やかに立て」っていう一節があるわけだけど(笑)、それがパッと出てきて、「あ! そうだ!」と思って立つと。例えばね。

 これはわたしが『入菩提行論』をみんなにも薦めてるけども、「本当に入菩提行論は素晴らしい」と思って、何度も何度もそういう想いで読んでた。「入菩提行論は素晴らしいんだ」と。そして例えばそこを読むときは、「われわれには時間はないんだ」と。「そんなダラダラ寝てる時間はない」と。「だから朝起きたら本当にもう速やかにパッと目覚めなきゃいけない」っていうことを、わたしが何度も修習したものが残ってるわけだね。それがパッと出てきて、「あ! そうだ!」と思って、例えば起きると。

 まあこれは例えばの話だけどね。いろんな場面で、そういうのがパッと出てくる。これは、わたしがいわゆる工夫をしてきたからです。工夫っていうのは――入菩提行論っていうのは、わたしにとってとても利益になると。なぜかというと、今みたいなさまざまなポイントポイントで、自分の心を具体的に変えるようなフレーズがいっぱいあるんだね。だからそれを日々学ぶことで、わたしにとって利益になるんだと思って、例えば一日必ず一回は何かの章を読むとか、そういうことをやってきた。それが活きてきてる。

 絶対これじゃなきゃいけないっていうのはないんだけど、自分で工夫して、「さあ、自分の心をいかに変えるか」っていうことを考えなきゃいけない。

 さっきも言ったけど、例えばわれわれがゲームをクリアしたいと思ったら、もういっぱい調べるでしょう。いろんなことをしてスキルをアップするでしょう。あるいは例えば、あるスポーツの大会で優勝したいと本気で思ってたら、そのためのさまざまな努力をするはずなんだね。で、同じように、われわれは「心を変えたい!」と思わなきゃいけないんです。「今のこんなわたしでいいはずがない」と。「わたしはもっともっと心を磨いて純粋になりたい」と。あるいは「慈悲を身につけたい」と。それを本当に心からの熱意で思わなきゃいけない。それができたら、この教えはいらない。

 でもなかなかわれわれはカルマが悪いので、すぐ忘れてしまう。いったいわたしは何のために修行してたのか全く忘れてしまう。何のために生きてるのか、何の価値がこの人生にあるのかすぐ忘れてしまう。よって、こういう教えを日々学んで、自分の心をしっかりと本質にね、引き戻さなきゃいけないわけですね。

 はい。じゃあ、その「24の教誨」ね。じゃあ読んでいきましょうかね。
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「自分の幸福のために他者の不幸を探さない」

2015-11-30 17:57:00 | 解説・心の訓練



◎自分の幸福のために他者の不幸を探さない。

【本文】
⑱自分が幸福になるための手段として、他者の不幸を探しません。


 これもね、過去において心当たりがあるかもしれない。つまり人間っていうのは相対的だから、自分と他人をまず比較する。で、その比較の中で自分は幸福だっていう認識を得るんだね。だから逆に言うと、他人の不幸を見ることによって、今の自分の「そうなってない状況」を喜ぶっていうかな、そういうちょっとけがれた心っていうのが人間にはある。

 例えば一番いい例としてね、褒められたいって気持ちがある場合ね、「わたしは人から褒められたいんだ」と。でもですよ、さっき言ったけど小学校の一位を決めないとかもそうだけど、褒められたいっていう人――例えばTさんがすごい褒められたいって思ってる場合ね――「Tさん、こうこうこうで素晴らしいですね!」「あ、でもCさんもこうで素晴らしいですね!」「あ、N君もすごい素晴らしいですね」ってなったら、褒められたいって思ってる人はそんなに嬉しくないんです(笑)。なんでかっていうと、比較ができないから。つまり褒められたいっていうことは、みんなはそうじゃなくて自分だけが褒められるっていう状況が欲しいんだね。だから他人と比較して――逆に言うと、みんなはけなされてたほうがいい、極端に言うと。みんなは駄目って言われてる。駄目って言われてる。駄目って言われてる。あなたはいいね――この状況が来ると、「おお、そうですか」と、こうエゴが喜ぶわけだね(笑)。

 で、じゃなくて、「みんないいね」「みんないいね」「みんないいね」「あなたもいいね」ってなると、なんかちょっとつまんないと(笑)、ね。

 あるいは「みんなは普通だね」「普通だね」「普通だね」、「あなたはいいね」と。これはそうですね、ちょっとエゴが喜ぶ。でもベストではないね。ベストは、「みんなは駄目だ」「みんなはあんなに駄目なのに、あなたは素晴らしいね」と(笑)。こうなるとその褒められたいっていう人は、とても喜ぶ。

 まあ、これは褒められたいってパターンだけど、それ以外でも、すべて自分と他人を比較してね、もちろん自分がいい状態になれば、みんながそうでもなく自分がいい状態になったらそれは素晴らしい。自分がまだいい状態になれなかったとしても、比較してまわりが悪い状態だと、エゴは喜ぶんだね。自分と他人の比較において自分がいい状態にあるっていうことが相対的に分かればね。

 こういうけがれたエゴの働きがあるので、無意識のうちにわれわれは、他人が自分よりも悪い状態にあることを探すような気持ちがある。だからそれもちゃんと自分をチェックしてそういう気持ちが出ていないか、もし出ていたらそれをシャットアウトするようなことを、日々心掛けなきゃいけないってことですね。

 まあ、今言ったことの中間として、悪い状態にあるものを求めるまで行かなくても、同類を求めるっていうのもあるよね(笑)。「おれはこんなに悪い気持ち、悪い状態だ」と。「おまえも悪い状態なんじゃない?」ってね(笑)。「おまえも悪い状態だろ」と。「なあ、おまえも悪い状態になってくれ」とね(笑)。こういう気持ちもあるね。これは中間だね。

 本当はそうじゃなくて、「いや、わたしはこういう悪い状態だけど、みんなは本当にもっと幸せになってほしい」と。これがベストなんだけど。

 もう一回言うけども、人間の汚い気持ちとして、自分よりも悪いものを見つけて自分は安心したりしたいっていう気持ちがある。で、そこまで行かなくても、同等のものを見つけたいっていう気持ちもある。これはどっちも駄目だね。

 じゃなくて、自分はどんな悪い状態でもかまわないと。で、人の幸福を常に願い続ける――ってならなきゃいけないですね。



◎実践すべき教え

 はい、十八終わったので、今日はこれで終わりにしますが、まあ何度も言うけど、最初に言ったように――意味分かりましたよね、今日のこの教えっていうのはまさに、やらなきゃ意味がない教えなんだね。あまり学術的に研究しても面白くない教えです、これは(笑)。

 例えば「ヨーガ・スートラの八段階の教えとは……」とかね、「六波羅蜜とは……」とか、そういうタイプの教えじゃないよね。ポンポンポンって、「自他の比較をしません」とかね、まさに実践項目がパンパンとこう説かれてる教えなんだね。

 ただまあ実践項目が説かれてるといっても、その意味が分からなかったら実践しづらいので、今日学んだことをしっかり理解して、あとはこのエッセンスというか短いワードを覚えておいて、で、それを日常の中で実践していく――ここで初めてこの教えの真価が発揮されるっていう教えですね。

 はい、今日はこれで終わりましょう。

(一同)ありがとうございました。
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Mとサティシュ・チャンドラナート(9)

2015-11-28 21:31:08 | 聖者の生涯

◎1927年12月27日 モルトン・インスティテューション


 夕暮れだった。Mは信者に囲まれて座っておられた。
 さまざまな河の水がガンガーに入り込むや、そのアイデンティティを失ってしまうように、人々のさまざまな気質や見解も、Mと交わるや、エゴ的な個性を失ってしまうのであった。
 Mはこう言った。

「クリスマスの日に、私はダルマターラ(中央カルカッタ)のロマン・カトリック教会に、祈りに、そして彼らの祈り方を見に行ったのだよ。
 その次の日もまた彼らの祈りに参加し、牧師さんたちとキリストについて話す機会を得ることができた。
 彼らの聖なるバイブルに対する見解は、われわれのものとは違う。ねえ、われわれはキリストを見たのだよ。
 あなたが『どうやってですか? 彼は1900年前に生きておられたのです』と言ったとする。さて、師はこうおっしゃっておられたよ。

『私はラーマであり、クリシュナであり、キリストであり、チャイタニヤであるのだ。』

 それだからね、私はキリストを見たのだよ。

 それと同じ日に、私はドッキネッショルに行き、母なる神のプラサードをいただいた。
 祭司が親切に西の扉を開けてくださったので、私は母なる神の寺院に入ることができた。
 私は南、南西、西の三か所から母なる神を見た。それぞれのアングルからは違ったふうに見えるのだよ。

 ねえ、われわれは師にまみえたのだよ。
 彼にまみえた人々は、彼についてある言い方で話す。彼について聞いただけの人々は、彼についてまた違ったふうに話す。そして彼について読んだだけの人はまたさらに違ったふうに話す。
 海を見た人はそれを詳しく述べるだろう。ところが海についてただ聞いただけの人は、眼で見たようには印象的に話すことはできない。
 ある者はミルクを見、ある者はミルクについて聞き、ある者はミルクを飲んだ。
 われわれは最後のグループに属している。つまり、ミルクを飲みながら、それを見、聞き、味わったのだ。

 師はあらゆる宗教の見解を受け入れておられた。実際には、受け入れていただけではなく、それらの宗教の修行を実践されたのだ。
 彼はイスラム教の修行をして、神がすべての道をお創りになったことを悟った。
 イスラムの修行をしている間は、師はイスラム教徒のように着飾った。そしてカーリー寺院に行かずに、イスラム教の食事を取ることを望まれた。
 だからモトゥルはヒンディー教のコックにイスラム教の食事を作らせたのだった。

 ある者はこう言った。『シュリー・ラーマクリシュナはどんな奇跡を起こしたのですか?』
 師の奇跡がなかったなんてことがあったかね?
 ギリシュ・ゴーシュが師の奇跡の中の一つだ。――彼が以前はどのようであって、どのように変わったことか。彼の人生の流れがある方向に動いていたのを、師が逆転させたのだ。
 他の奇跡はガウリー・マーだ。師は彼女にサーダナーを実践させ、彼女を通じて多くの仕事を行った。

 ラトゥ・マハラージ(スワミ・アドブターナンダ)は、師の奇跡のまた別の例だ。彼は本当に驚くべき例だよ。師の一触れによって、錆びた鉄のかけらが黄金に変わったのだよ。
 彼はもともとラーム・ダッタの召使いで、師のもとにいろいろなものを運んでいたのだが、後に、彼はドッキネッショルで師に仕え始めた。
 彼が夕方寝ているのを見て、師はこう仰った。

『夕方寝るというのなら、お前はいつ霊性の実践をするのだね?』

 それからというもの、ラトゥ・マハラージは夜眠るのをやめ、サーダナーを実践したのだ。

 人の人生の流れを変えるということは、最も偉大なる奇跡だ。」


 そうおっしゃると、Mは厳粛になり、無言になった。
 もう夜も更けてきて、信者たちは彼に暇を告げた。
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Mとサティシュ・チャンドラナート(8)

2015-11-28 20:35:53 | 聖者の生涯

◎1926年12月19日 モルトン・インスティテューション


 寒い冬だった。Mは羊毛のショールをかぶって、長椅子に座っておられた。
 その夜の会合において、彼は師とホーリーマザーのことについて話された。

M「ジャーマプクルでは、師は兄のトル(サンスクリット語の学校)で学んでおられた。
 そのトルはだいぶ前に閉校してしまい、そこにシャーマスンダラ寺院が建てられたのだよ。
 そこにしばらく座ると、目覚めを感じるだろう。
 正真正銘のバクタは、そこに行って師を思うのだ。」

 そうしているうちに、ベルル・マトから信者がやって来た。Mは彼にこう尋ねた。

「誰が師の寺院の礼拝者なのだね?
 誰がホーリーマザーを礼拝しているのか?
 どんなサリーで、母なる神の絵を飾っているのかね?
 ショールは使っておられるかな?
 ベルル・マトのフラワーガーデンはどんな感じかね?
 そこで喜びを感じたかね?」

「はい、感じました。」

M「法悦にはさまざまな印がある。
 その中の一つは、何度も何度も聖地を訪ねることだ。
 未婚の者の心は神に惹きつけられて、すべてを捨てる気にさせられ、ラーマクリシュナ僧院に出家するのだ。
 在家者のアシュラムと出家者のアシュラムの間には大きな相違がある。
 光は在家者の生活には隙間から入ってくる。そして僧院生活の中には、光の流れが全方向から入って来るのだ。
 彼らは内も外も光に満ちている。」


 そうしているうちに、別の信者が、シャーマスンダラ寺院から甘いお菓子と果物のお下がりをもってきた。
 Mはそのプラサードに頭で触れ、信者たちに分け与えた。

M「師はよくこうおっしゃっていた。

『私のことを思うすべての者のことを、私は思っているのだよ。』

 われわれはほんの少ししか師のことを思っていない。それなのにごらんよ、彼はわれわれにこんなにプラサードを送ってくださった。
 われわれが体、心、そしてすべてのものを師の御足に捧げたら、師はわれわれにどんなことをしてくださるのか、私には想像もつかないよ。」

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Mとサティシュ・チャンドラナート(7)

2015-11-28 20:26:25 | 聖者の生涯

◎1925年6月 モルトン・インスティチューション

 夕暮れだった。信者たちはMと共に静かに瞑想をしていた。
 その後、Mはある人にカタムリタを読むように仰った。
 その題目は、「人は真の本性を悟るべきである」というものであった。

M「神の真の御姿は、信者のハートの中に顕現する。
 この世界の中に見出されるものはすべて、ただの偽りにすぎない。それは役者がステージの上で演じているようなものだ。
 それはドラマチックな演技なのだよ。
 シーターのように着飾っている女優は、たいそう苦しんでいるシーターを演じなければならない――つまり常に泣いたりするということだ。
 時々、彼女は演じるのが辛くて、たいそう泣くだろう。

 この世界の偽りの劇を破壊する3つの方法がある。
 まず第1は『これは私の真の本性ではない。この姿を装っているのだ。私は自由な魂だ。』と考えることである。これはジュニャーナ・ヨーガだ。
 第2は『私はあなたの望まれるままに着飾りました。どうか、これ以上私にこのような偽りの衣装を着せないでください。これ以上演技することはできません。私の前にお現われになってください。』これがバクティ・ヨーガ。
 第3は、学屋に座って、『さあ、メイクをしよう。この劇が終わったら、メイクを取るぞ。』このようにして迷妄を取り除く。これはアビヤーサ・ヨーガ、実践のヨーガと呼ばれる。」


 信者たちは午後10時に帰った。
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Mとサティシュ・チャンドラナート(6)

2015-11-28 20:09:57 | 聖者の生涯

◎1924年12月2日 モルトン・インスティテューション

 午前8時にモルトン・インスティテューションに着いた。
 Mはカタムリタの校正刷りを読んでおられ、私に長椅子に座るようにと仰った。


M「自由なる魂は、長い道、広大な空、広大な草原を見るのが大好きだ。そして聖なる交わりも大好きだ。束縛されるのは好かない。
 師は、結び目を作ることがおできにならなかった。蚊帳もマットレスの下にしまえなかったし、布も縫うことがおできにならなかったのだ。
 何かを書くことさえできなかったのだ。
 彼の御心は常に神の中に住んでおられた。
 彼は、何かを書くためには意識を下に降ろしてこなければならなかったから、何も書くことがおできにならなかったのだ。
 何かを書こうとした時だって、落書きにしかならなかったのだよ。

 また、師はさまざまな料理を一緒に食べることもおできにならなかった。これも意識を下に降ろさなければならないからねえ。
 時々、意識を降ろすために、師は『水を一杯飲もう』と仰った。
 ある日、師は私に『なぜ私はこのような状態にあるのか教えてくれないか?』と仰ったので、私はこう答えた。

『あなたの心は高い境地にとどまり続けております。あなたは信者たちと遊ぶために心を降ろされるのです。』

 すぐに師は私を正されて、こう仰った。

『いいや、私が心を降ろすんじゃないんだよ。母がおやりになるのだ。』」


私「カタムリタの中に、ゴーヴィンダ・ロイが師をアッラーのマントラでイニシエートしていることが書かれておりますね。」

M「ゴーヴィンダ・ロイの家がドゥムドゥムの近くにあった。彼はムスリムではないのだが、イスラム教の修行をよくやっていたのだよ。」
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「神を悪魔に変えない」

2015-11-28 19:25:51 | 解説・心の訓練

◎神を悪魔に変えない

【本文】
⑰神を悪魔に変えません(教えの実践が、いつのまにかエゴの増大などにつながらないように注意する)。


 これもさっきの、ちょっと前に出てきた「エゴや、八つの世俗的思いといった毒を、教えに混入させません」ともちょっと近いけども、これもそうですね、修行を長くやってる人はピンとくるところが多分あると思う。

 つまり、頑張って修行してるんだが、あるいは教えを実践してるんだが、いつの間にかそれがエゴの増大に繋がってしまってる。その全体ではないけど、その一部がね。そういうときってあるよね。例えば修行が進んだはいいが、その進んだが故に慢心が強くなっちゃってるときとかね。

 つまり、悪魔っていうのは常にわれわれを狙ってるって考えてください。こう狙ってるんです、本当に。比喩じゃなくて。狙ってて、侵入経路を常に探してるんです。で、われわれは結構無防備なんです。無防備に歩いてるんだね、バーッて。ただ、われわれは一応教えっていう鎧をまとっている。だから普段、普通は悪魔は入ってこないんだけど、その鎧の隙間からこう入ろうとするんだね。で、われわれが心に隙をちょっとでも見せると、バーッと入ってくる。

 だからよくあるパターンとして、修行頑張って――修行頑張ってるのは素晴らしい。修行頑張って達成しました。しかし達成したが故に慢心が出ました。そこを悪魔に突かれて、自分では達成したと思ってるから、結構今いい段階にいるって思ってるんだけど、そこで慢心を突かれたが故に、まあある意味逆転されて、いつの間にか心が魔でいっぱいになっているっていう危険性もあるんだね。これは一つの例だけど。

 これもだから非常にとらえどころがないっていうか、例を挙げられない。なぜ例を挙げられないかっていうと、ここで例を挙げても、全く違うパターンでみんなに来るからです(笑)。だからあまり例が役に立たないんだね(笑)。

 もしさ、いくつか、例えば五つくらい例があって、「絶対これで来ますよ」だったらやりやすいじゃないですか。こう準備してればいいから。「あ、そうか、こういうふうに来るのか」と。「よし頑張るぞ!」「それが来ても大丈夫だ」って思ってるんだけど、絶対気づかないとこから来ます。で、いつの間にか魔にやられてるんだね。いつの間にか、教えを実践しているはずだったんだが、なんか魔的な人になってる。

 だからこれは、断定的な例は挙げられないので、「どんな隙もわたしは悪魔に見せないぞ」っていうような――まあ念正智だけどね――自分の心を常に見守って、心を訓練し続けるっていう心構えがやっぱり必要ですね。
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Mとサティシュ・チャンドラナート(5)

2015-11-28 17:20:01 | 聖者の生涯


◎1924年9月29日 モルトン・インスティテューション

 午後だった。ある紳士が学校の校長のMに会いにバスマティ・パブリケーション・オフィスからやって来た。
 彼はバスマティとマナシの刊行誌に掲載されているカタムリタの抜粋を読み、シュリーマという仮名で作品を書いたその著者に会いたいと思ったのであった。
 私はその紳士に階下で会い、彼にこのように話した。

「マヘンドラ・バーブは人々に自分のことを知られたくないのです。ですからカタムリタの中で、シュリーマ、マスター、モニ、Mといったさまざまな名前を使ったのです。
 彼は実際的に、シュリー・ラーマクリシュナのメッセージを世界に広めたいと思っておいででした。
 カタムリタの扉ページに、『シュリーマ・カティタ(シュリーマが語ったこと)』と綴られています。
 これには深い意味があるのです。彼は昔の日記を開き、シュリー・ラーマクリシュナに関するこれらのエピソードを瞑想し、それを書き取らせました。
 そして彼に指示された人が、彼の言葉を書いたのです。
 このようにして、カタムリタが誕生しました。
 それゆえに、扉ページには『彼によって書かれた』ではなく、『彼によって語られた』と書いてあるのです。」

紳士「なんと! 」


 われわれがMのところに行くと、二人の信者がMと共にいた。
 一人の信者がこう尋ねた。

「瞑想に座ると、心がどうでもよいことに彷徨ってしまいます。」

M「瞑想は定期的にする必要がある。そうすれば、心は徐々に支配下に置かれてくる。」

 また別の信者がこう尋ねた。

「師のお肌はどのような感じでしたか?」

M「ホーリーマザーは、師のお肌はミルクと赤い絵の具を混ぜたようだと仰っていたよ。
 われわれが師にお会いしたときは、そういう感じではなかったけどねえ。お髭は少しグレーの色に変わってきていたね。」

紳士「どうか、その手で私の頭に触れてください。あなたの祝福された手は、師に奉仕なさった手です。そしてずっと師の御足に触れてこられました。」

M「こんなどこにでもあるような手に触れて、何が得られるというのですか?
 どうか、時々ドッキネッショルをお尋ねになってください。
 師の祝福された御足は、あそこにあるすべての塵にお触れになられました。
 パンチャヴァティ、ベルの樹、松の樹は、師をずっと見てきました。
 それらの木々の人生は祝福されております。
 それに、母なる神の寺院から霊性の閃きを受けるでしょう。
 それゆえに、どうか、その場所をお尋ねになってください。」

 バスマティのオフィスから来た紳士は、言葉がでなくなり、圧倒された。
 
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Mとサティシュ・チャンドラナート(4)

2015-11-27 21:46:48 | 聖者の生涯


◎1924年2月27日 カルカッタ、ガダーダル・アシュラムにて


 夕方に、多くの信者が霊性についての話を聞きにMのところへやってきた。
 あるブラフマチャーリーがこう聞いた。

「われわれは今生で何かを達成できるでしょうか?」

M「例えばあなたが小屋で寝ていて、誰かがあなたを起こさないようにして遙か遠くに運んだとする。そこであなたは、どのくらい遠くに運ばれたかを知ることができるかね?
 あなたの背後に、あなたのことをずっと思ってくださっている大いなる力(ラーマクリシュナ)があるのだよ。」

 ある信者がMにこう尋ねた。

「なぜ、人々は大変な苦労をして聖地へ行き、屈辱に耐えるのかを教えてくださいませんか?
 プリの寺院の祭司は巡礼者に恥をかかせ、ほうきの柄の部分で彼らを打ったりもします。」

M「人々は、神を悟るためにさまざまな試練を経験しなければならない。
 常々寺院や主の山車を清掃しているほうきに触れられることは、素晴らしい祝福だと思わないかね?
 そのために、プリを訪ねる人々は、ほうきで叩かれることを望むのだよ。
 ある人がこう尋ねた。

『シュリー・ラーマクリシュナはどんな奇跡を起こしたのですか?』

 私はこう答えたよ。――『師は人々の世俗的な傾向を逆方向――つまり神の方向へと変えられた。世俗的な喜びを至高の喜びへと変化させたのだ。これ以上にすごい奇跡があるかね? 彼は彼のもとに来た者たちの人生の流れを変えられたのだ』と。」


 それから、Mは聖書を読み始められた。
 彼は信者たちにこう仰った。

「あなたたちは魂、水、血の意味を知っているかね?
 それはそれぞれキリスト、洗礼、十字架を意味している。
 すべては神のご意思によって起こる。
 自分の兄弟を愛せない人が、どうして神を愛することができよう?

 スワミジが西洋から帰ってきた後のある日、われわれはバララームの家の屋根で話をしていた。

『アヴァターラの原理を理解するのは極度に難しい。』

 スワミジは仰った。

『私はヴェーダやヴェーダーンタをかなり読み、師から非常に多くのことを聞いたが、それでもこのアヴァターラの神秘を見抜くことはできない。』」
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「責任を他者に押し付けない」

2015-11-27 21:27:04 | 解説・心の訓練


◎責任を他者に押し付けない

【本文】
⑮自分の責任を他者に押しつけません。


 「自分の責任を他者に押しつけません」。これもまあ読んだとおり。これはさっきの「外的条件をあてにしません」ともまた関わってくるけども、外的条件をあてにしない――あてにしないどころか、押し付けると。自分の責任をね。これは駄目だと。

 つまりそれはカルマ・ヨーガ的にいうと、「これはわたしがやるべきことである」と。「わたしの義務である」というのがあったとして、それを苦しいとか嫌だから誰かに押し付けてしまうと。これはもちろん駄目だっていうことだね。これはもう読んだとおりのことだね。



◎成果を自分の手柄としない

【本文】
⑯協力して成し遂げた成果を、自分の手柄としません。


 これも読んだとおりです。これは修行と関係ある場合、関係ない場合とあるだろうけど、協力して成し遂げましたと。誰と誰と誰の協力で成し遂げましたと。で、それを、「おれがやったんだ」と。ね(笑)。やっぱりこれも人間の中にそういうプライドとか、あるいは人からよく思われたいっていう気持ちがあるから、一般的にそういうふうになってしまいがちだと。

 協力してもらってるときはすごく友好的なんだけどね(笑)、一旦成功すると、「いや、おれの手柄だ」と。

 これは一般的にもそういう話ってよくあるよね。例えば歌手とかでもそうだけど。あるいはなんか事業成功させたときもそうだけど、やってるときは頑張って協力してやってるんだけど、それが例えば成功したり、バーッて大成功して世間から認められたときに、「いや、これはすべて僕一人でやったんです」と。「彼らもまあちょっとは手伝ってくれましたが、まあちょっと足手まといでしたね」とかね(笑)。で、それで喧嘩すると。「何言ってんの!」と。「おまえ、おれがこれをやらなければできなかったじゃないか!」――そういうくだらない喧嘩が始まる。こういう気持ちじゃ駄目だと。

 で、これは裏の意味、逆の意味もあって、それを仮に相手がやったとしても、それに対して心を動かしてはいけない。つまり、自分と相手と何人かで協力して頑張って成し遂げましたと。そしたらそのうちの一人が「おれの力だ!」って言い出したとしても(笑)、それは怒ってはいけない。「ああ、そうですね。あなたの力です。わたしはちょっとだけ手伝っただけです」っていうぐらいの心の余裕がほしいね(笑)。

 これもだから自分の中に持っておいて、人生の中でそういう場面が生じたときにね、もちろん自分はそういうふうに思っちゃいけないし、あるいはまわりがそういうふうに思ったときにそれを批判してもいけないっていうことですね。 

 まあだから、逆に言うと、常に自分の問題に関しては、やっぱり感謝の気持ちがとても大事だね。常に、ちょっとしたことでも感謝する。例えばさっき挙げた例で言ったらね、自分に対して多くの人が少しずつ協力をしてくれたと。で、それによって何かが成功したと。で、そこで「いや、メインでやったのはおれだ!」「君達がいなくてもできた」っていうそういう傲慢な態度ではなくて、「確かに、彼らの協力は少しではあったが、この少しの協力がなかったらできなかったかもしれない」――そういう気持ちを持つわけだね。だからそれはほんの少しの協力かもしれないが、本当に感謝すると。君がいなければできなかったと。こういうような思いを普段から持つ訓練をしていたら、こういう過ちに陥らない。はい、これも一つのポイントですね。
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Mとサティシュ・チャンドラナート(3)

2015-11-27 20:30:00 | 聖者の生涯

◎1924年2月3日

 昼食の後、Mは少しお休みになってから、われわれと話を始められた。

「『私はブラフマンである』と言うことは難しい修行だ。
 こんな話がある。
 死んだふりをしている酔っ払いがいた。そして彼の飲み仲間が彼を肩に担いで運んでいたそうだ。その酔っぱらいは言った。

『オレは死んでしまった。』

 道端の人々はこう言った。

『いやいや、あなたはまだ死んでいない。だってしゃべっているじゃないか!』

 『私はブラフマンである』と悟った人は無言になり、その口からは何も出て来なくなるのだよ。」


 前夜、われわれはバクティヨーガについて学んだ。
 テーマは「ブラフマンを悟った者はブラフマンである」というものであった。
 Mはこう仰った。

「『私はブラフマンである』と繰り返して、何が達成されるのか?
 ブラフマンには創造、維持、破壊の力がある。
 だから師はこう仰っていたのだ。
『"私は彼の子供だ"あるいは"私は彼のしもべだ"というような信者の態度が良い』と。」


 午後に、われわれはMと共に南カルカッタのハリシュ・パークを散歩した。
 スワミジの聖誕記念祭関連の公開集会が予定されていたが、ある理由から中止された。

M「いったい何があったんだろうねえ?
 まあしかし、あの集会が中止されたのは良いことだよ。
 師はわれわれにこうお説きになった。――『人けのないところで、密かに神に呼びかけなさい』とね。
 これは真実だ。
 『この場所は神を呼ぶための場所なのだ』――などという看板を掲げる必要などない。
 皆が自由に神に呼びかけてよいのだ。

 師はよく仰っていた。

『深い森の中に花が咲いている。その花は甘い香りを漂わせ、蜜をいっぱい出している。
 そこで"そのような花が森のある所で咲いていますよ"などとミツバチに知らせる必要があるだろうか? 自分で勝手に行くよ。だから、蜂蜜(霊性)を集める方法を学ぶのだよ。』」
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ エピソード1 第17話」

2015-11-27 18:35:33 | 松川先生のお話
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ エピソード1 第17話」です。
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Mとサティシュ・チャンドラナート(2)

2015-11-26 20:57:19 | 聖者の生涯

◎1924日2月1日

 冬だった。
 Mと僧と信者たちは、屋上で座って昼食を食べておられた。
 Mはこう仰った。

「あるときニヴェーディターがホーリーマザーを訪ねたときに、彼女は犬を連れていったそうだ。
 しかしホーリーマザーはその犬が彼女の部屋(同時に聖堂であった)に入らないように、その犬を扇で押しのけた。
 するとニヴェーディターはこう言った。
『マザー、あなたは私を愛してくださっているのでしょう?
 ならば、どうして私の犬は愛してくださらないのですか?
 聖書には【私を愛しなさい。私の犬を愛しなさい】と書いてあります。』」

 Mは私にこう仰った。

「なんと貴重な意見だろうか! 記憶しておきなさい。」

 Mは個人的に私にこうお教えくださった。

「あなたに秘密の課題を与えさせておくれ。
 今からずっと、日記をつけ、偉大な人が言うことを記録しなさい。
 日付、テーマ、場所、誰が誰に話したかをしっかりメモするのだよ。しかし、政治に関する議論は記録してはならない。
 このようにしてあなたは、判断力、人間性への洞察を開発していくだろう。そして正誤の識別ができるようになるよ。
 それに将来、これは瞑想の助けになるだろう。
 私が日記をつけ始めたのは、七学生のときだった。
 その十五年後に師と出会ったのだ。
 そのときは、日記に短いメモ書きをするのが習慣になっていてねえ、それが後にカタムリタ(ラーマクリシュナの福音)を生み出したというわけだ。
 そのありふれた日記のページの中には、師の世界へのメッセージが隠されていたのだよ。種のようにね。」


 その夜、Mは信者にこう尋ねた。

「君は瞑想しているかね?」

「いいえ、瞑想ができないのです。」

と信者が答えると、Mはこう仰った。

「やってみてごらん。
 最初は、心は走り回っているものだ。しかし徐々に支配下に置かれてくる。
 毎日、最低15分は瞑想をしなさい。
 そうだ、また別の種の瞑想があるのだよ。――師の神聖なお遊びを思うことだ。
 瞑想はただ神を延々と思っていればいいというわけではない。」
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Mとサティシュ・チャンドラナート(1)

2015-11-26 20:46:59 | 聖者の生涯

「Mとサティシュ・チャンドラナート」



◎1924年1月30日、カルカッタ、ガダーダル・アシュラムにて

 Mは数日間、ガダーダル・アシュラムに滞在しておられた。
 毎朝早くにMは聖堂に行き、数時間瞑想に耽った。
 彼は自分に必要なものは自分で管理していて、誰からも奉仕を受けなかったのだった。
 師は彼に、聖なる交わりが霊性の生活には不可欠であると教えていたので、Mは僧たちと交わるためにアシュラムに行ったりしていたのだ。

 Mはこう仰った。

「ヴィッダシャーゴルは一週間の間、ある教師から英語のレッスンを受けた。
 後に、その教師が亡くなったと聞くと、彼は残された教師の家族に関しての責任を負った。
 彼の感謝の気持ちをごらん!
 ホーリーマザーはよくこう仰っていた。『感謝の念を持たない人は人間でしょうか?』と。

 ラリタ・マハラジ(スワミ・カマレーシュワラーナンダ)は人々に奉仕し、皆の幸福のために聖典を説いた。
 今度はわれわれが彼のお世話をすべきなのだ(彼は精神疾患で苦しんでいた)。

 あるとき、ある女性信者がジャイランバティにホーリーマザーを訪ねに行った。
 朝、皆が瞑想に没頭している間、ホーリーマザーは手で床の泥を拭いておられたそうだ。
 その女性信者の中の一人がそれを見ると、彼女も床を拭き始めた。
 ホーリーマザーはこう仰ったそうだ。
『あら、あなたは瞑想なさらないの?』
 彼女はこう答えた。
『マザー、あなたが床を拭いているというのに、どうして瞑想などできましょうか?』」
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