ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

グル・プールニマ

2015-07-31 06:52:13 | 松川先生のお話

 今日は、一年で最も祝福が強い満月とされるグル・プールニマ(グル(師)の満月)と呼ばれる満月です。

 この日は、師がいる人は師に、いない人は古からの偉大なる師方に、供養や感謝を捧げるといいでしょう。

 祭壇に供物を捧げたり、心の中で師を瞑想したり、礼拝したり、賛歌を歌ったりするといいでしょう。


 またこの日は、新たなる誓いや決意を立てるのに良い日だともされているので、今日からまた新しく生まれ変わる気持ちで、心を新たにして決意や誓いを胸に刻むのもいいでしょう。


 そして師への最高の供養と礼拝は、師の教えを実践することであるといわれますので、今日を境に、師の教えを実践し成就することで師の恩に報いることを決意するといいでしょう。




「グル・プールニマのメッセージ」

 スワミ・シヴァーナンダ





1957年


「神的人生の輪」


 至高なるグル、不死の魂、すべてに遍在しておられる御方に礼拝し奉ります。
 神の叡智の聖火をもたらしてくださる御方に礼拝し奉ります。
 最高の聖なる大望のために神性なる礼拝の人生を送るすべての真理の求道者に礼拝し奉ります。
 すべての気高き努力が達成されんことを。

 人間の精神の永遠の不可思議、常に休むことなく不満を抱いている人間の感情的な性質、一時的な生存の不完全さ、満足のいくように人生の問題を解決するための知性の不全。
 その人の心を神に向けるために管理しなければならない粗雑な現実から、偉大な理想を切り離す不可解な湾。
 神的人生とは、人が神の悟りへと向かって進歩するプロセスであり、相続されるすべての病の治療法を、その人生が提供する。

 グルは、道において求道者を導くガイドであり、求道者は神的人生を昇ることにあくせくする巡礼者なのだ。

 人間の精神的、道義的な性質の進歩的な精錬は、神的人生の第一の目的である。それは、正直、純潔、そして非暴力のような基礎的な法則、自発的な自制の実践が無意識的に伴うようにする実践、そしてその結果として起こる浄化のプロセスにひたむきになることから始まる。

 個々の日々の生活で、これらの三つの基礎的な法則を非の打ちどころのないように実行することは、それ自体が神的人生に必要不可欠な構成要素となる。

 人間の性質には二つの側面がある。――肯定的側面と否定的側面である。一方はもう一方より優勢であろうとする。必ずやすべての人の中に、ジキル博士とハイド氏の要素がある。ハイドの要素が優勢になると、人は自分自身と他者に、果てしない欲望と破壊的サディズムのあらゆる悪しき果報を与え、社会的に見捨てられた者となる。しかし人々の中にはジキルの要素が優勢な者たちもいて、彼らは社会に素晴らしい恩恵を与える者であり、自分も他者も皆が平和に暮らすことができる最高のポジションにいる者と見なされる。

 肯定的側面が、最終的には否定的側面に打ち勝つのだが、一般には、否定的側面は多くの人々の人生で頻繁に起こる局面において、抑え切れないような影響力を持つ。しかし、理知、分別、思慮、神的人生の道を歩み始めた者たちにとってはそうではない。彼らにおいては、識別的な心が彼らの本能的な部分を征服しようとする。ヴィヴェーカ(識別智)が彼らの行動を導き、ヴァイラーギャ(放棄)が彼らの動機を神聖化し、ムムクシュトヴァ(解脱への熱意)が彼らの努力を鼓舞する。――この三つのそれぞれが、彼らの霊性の部分から強さと光を引き出すのだ。

 誠実、純潔、非暴力の道を歩むということは、自制の最高のフォームを暗示しており、低次の自然から生じるすべての否定的な性向を除去するということである。

 サティヤ(真実、誠実、正直)とは、言葉の純潔、価値あるものに対する正しい分別、勇気、そして真実であると思った行動を実行に移すことを必然的に示しているが、それは人の物質的な幸福に対して良い結果をもたらすことは全くなく、弊害をもたらすことさえあるだろう。誠実はまた、あらゆる肯定的な道理に従う意志の強さ、正義の分別、平等心、そしてあらゆる生命の中にその微細なエッセンスが遍満していることを認識するということを意味している。

 純潔は、すべての否定的なものを肯定的なものに変革する力を必要とする神的人生を測る基準となる。純潔の実践は、自制という言葉によって暗示されているすべてのものと、感情の修練の全範囲を網羅している。それは、シャト・サンパト(六つの功徳)、すなわち心、感覚の制御、平静、忍耐、信、集中の実践を意味する。純潔とは、肉体的そして精神的に純潔ということである。なぜならば、これら二つには相互関係があるからだ。思考の純潔は自然に行為の純潔、そして六つの衝動の昇華につながる。動機、人生すべてにおける純潔は、真理の実践への序章である。

 非暴力とは、対抗的な分別という意味における愛である。ここで、禁戒(ヤマ)は再び義務としてかかってくる。非暴力の真意は、それが心の底から――身口意において実践されたときにのみ、完全となる。慈愛、慈悲、友情、友好の原則はすべて、「非暴力」という言葉の中に織り込まれている。これらの原則が完全に実践されない限り、非暴力という善徳はうわべだけのままである。

 愛が非暴力の直接の表現である一方、その論理的帰結は奉仕にある。厳しい非難を浴びてきた言葉「愛」――それは、淫らなくだらないことや、利己的な執着、状況的な感傷、感情的な固執、そして多重の自己憐憫へと過度に誤用されている。愛とは、まさに神的人生という庭園にのみ育ち、継続的に面倒を見なければならない稀有な植物であり、それは最高の盛りの中で花を咲かせなければならない。愛と奉仕は分けることができない。ゆえに、他者の気持ちへの理解と、その尊重を持たねばならない。人への愛を持ちながら、他者の苦しみに対して利己的で無慈悲であるというのはあり得ない。無私の奉仕は、行為における神聖なる愛である。

 真に実践的修行のありとあらゆるものを網羅している、これら神聖なる生活の三つの基礎的な教義を培い、実践することができるならば、あなたは人間の大望である究極のゴール――真我の悟りへと歩んでいるのである。この道においては、初歩的な成功でさえ、大いに、平安や幸福、存在意義、人間らしい性質の改善、社会的な幸福、そして広大な世界をもたらしてくれる。神的人生の中で非常に重要である「すべては一つである」という正しい智慧は、その実践的な価値と共に、大いに世界平和、団結、友情の促進をもたらすのは間違いないだろう。

 ブラフマヴィディヤー(ブラフマンの叡智)は、言い換えれば、神的人生の叡智であり、あらゆる霊性の求道者の中心的な理想である。この中にのみ人類の救済はある。
 神聖なるグルの祝福が皆に降り注がれんことを。


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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 特別編『ハヌマーンの心』」

2015-07-31 06:48:56 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 特別編『ハヌマーンの心』」です。
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今日のAMRITAチャンネル「賛歌・イメージビデオ」

2015-07-30 17:48:01 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAmritaチャンネルは、「賛歌・イメージビデオ」です。



曲目

1.我が師(日本語版)
2.神のしもべに
3.放棄の翼
4.マウンテンハレークリシュナ
5.シッダールタ
6.チャイタニヤ・チャイタニヤ
7.バクティヨーガの歌
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今日のAMRITAチャンネル「勉強会講話より『アディヤートマ・ラーマーヤナ』第24回」

2015-07-29 10:01:45 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「勉強会講話より 解説『アディヤートマ・ラーマーヤナ』第24回」です。
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今日のAMRITAチャンネル「聖典朗読 アシュターヴァクラギーター 第1~9章」

2015-07-25 21:03:05 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「聖典朗読 アシュターヴァクラギーター 第1章~第9章」です。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 最終回」

2015-07-24 09:44:06 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 最終回」です。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第三回(10)

2015-07-23 21:46:18 | 勉強会より抜粋



【本文】

 また、ダルマサンギーティ(法集経)には、次のように説かれている。

「菩薩は、菩提心から一切法を感得すると知るべきである。
 一切法とは、法界そのものであると知るべきである。
 認識する知には限りがあり、叡智は空なるが故に、一切法は空であり、住処がない。また知りつくされることもない。このようにダルマターを知るべきである。
 菩薩の心とは何かといえば、一切の衆生を利益し祝福する心である。
 また、それは無上の心であり、慈愛によってうるおす心である。
 その無上の心は衆生の苦しみを悲しむ心であり、
 大きな喜びによって後悔しない心でもある。
 それはまた、すべての者を平等に扱う、捨による無垢な心である。
 空性によって変異しない心である。
 また、無相・無願・無住の心であると説かれている。
 全智に回向する善根に入り、菩薩の境地にも座さず、中道に尽きることもない。」



 
 はい。ここはちょっと、書き方が難しい感じもするけども、まあ簡単に言うと「法界」とか、あるいは「ダルマター」ね。まあちょっと専門的に言うと、法界っていうのはダルマダートゥっていうわけですが、ダルマ、ダルマの世界ね。で、ダルマターっていうのは、これは法性とかいわれますが、法性っていうのは、法の、性質の性ね。まあつまりこのダルマターっていうのは――ここでいう法っていうのは、つまりダルマっていう言葉っていうのは、かなり広い意味があるんですね。仏教とかの教えのこともダルマっていいますが、そうじゃなくて、あらゆる現象すべてもダルマっていうんだね。で、ダルマターっていうのは、あらゆる現象の本質っていうことです。つまり、すべての現われの正体っていうかな、本性っていうかな。それをダルマターといって、それが大乗仏教とかね、密教とかでは、悟るべきこの世の真髄なんだね。
 まあ簡単に言うと、だからここで言ってるのは、この世の真髄に到達するには、菩提心が必要ですよっていうことです。

 はい。そして、その中間のところで書いてるのは、四無量心の世界だね。これは分かると思いますが、「無上の心であり、慈愛によってうるおす心」、そして「衆生の苦しみを悲しむ心」、そして「大きな喜びによって後悔しない心」、そして「すべての者を平等に扱う、捨による無垢な心」。
 はい、これはもう、いろんなところでこれも書かれてるので――『菩薩の生き方』とかね、いろいろ勉強してほしいと思いますが、まあ大乗仏教の菩薩道に不可欠な「四無量心」ね。「みんなの幸福を願い、そしてみんなの苦しみを悲しみ、そして大きな喜びを持つ」と。「そして平等心を持って自分のことは棄てる」と。これがまあ、四無量心ね。これをしっかりと、まあ菩提心の基礎として持たなきゃいけない。

 で、最後の方に書いてあるのもちょっと難しいですが、まあ簡単に言うと、これがわれわれが仏陀に到達したときの一つの表現ね。例えば「空性によって変異しない」ね。一切変化のない空の境地、そして「無相・無願・無住」ってありますが、まあまず相がない。相がないっていうのは、まあ簡単に言うと、平等であるということです。これはこうであって、あれはああであってっていう相がない。すべてが平等の境地であって、「無願」ね。なんの願いもない。つまりなんの欲求もない。なんの心の――仏陀っていうのはいつも言うように、仏陀の境地に完全に達すると、一切の努力や意志がなく、自然にちょうど太陽光線が、なんの意志もなく生き物に利益を与えるように、なんの意志もなく努力もなく、自然に衆生を利する存在になるんだね。仏陀っていうのはね。だから言ってみればお釈迦様は仏陀なわけだけど、お釈迦様が現れて、いろんなことをしたよね。お釈迦様が現れて、悟りを得て――まあお釈迦様っていうのは、あの当時、北インド中心にね、裸足で歩き回って、多くの人に教えを説いた。で、多くの人を解脱させ、あるいは解脱させないまでも、真理を説いて、みんなを苦しみから解放したと。これは、お釈迦様自身は、一切意志も努力もしてないんだっていう話なんです。つまり、お釈迦様が「さあ、どうやってみんなを救おうかな? 今日はちょっと疲れてるけど、よし、がんばるぞ!」――こんな感じじゃないんです(笑)。じゃなくて、自然にやってるんです。別に努力してるわけでもなければ、計画してるわけでもない。まあ、ちょっとバクティ的に言えば、まさに神の摂理っていうか、本当に、ただなるべくしてなってるだけなんだね。それが仏陀の境地なんだね。
 もちろん、そこまでいくまでは努力しないと駄目ですよ。われわれはまだそんな段階じゃないから、無努力で、「あるがままに」とかやってたら、どうせくだらないことしかしないから(笑)。あるがままにパチンコ屋に行ったりとか(笑)。

(一同笑)

 無努力で、なんかごはん食い過ぎちゃったとか、そういうなんかくだらない人生にしかならないから(笑)。じゃなくて、今のうちは、われわれはちゃんとこう、自分をね、その道にちゃんと当てはめる努力が必要。「いや、わたしはこんなんじゃ駄目なんだ! こうなるぞ!」――努力が必要なんだけど、仏陀の境地に達したら、なんのそういったものはなくなるっていうことだね。
 そして、「無住」。これも難しいけども、いつも言うように、まあ、無住所涅槃っていうように、仏陀の境地っていうのは、どこにも住まないっていうかな、どこにも留まらない境地だね。

 はい。そして「菩薩の境地にも座さず、中道に尽きることもない」っていうのも、これも簡単に言うと、無住所涅槃と同じで、どこにもいないと。つまり完全な――中道っていうのは空性のことだけども、その空の境地に没入するわけでもなく、あるいは、この悟りのない菩薩のままでこの輪廻にさまよってるわけでもない。つまり二元を越えた世界に行くわけですね。まあこの辺は、今日はあまり突っ込みませんが、そういう仏陀の究極の境地に至るにも、菩提心が必要っていうかな。菩提心のみが、そこに至る種になるんだっていうことですね。

 はい。ここまで何か質問その他ありますか? はい。じゃあ最後までちょっといってみましょうかね。
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今日のAMRITAチャンネル「賛歌・イメージビデオ」

2015-07-23 09:20:49 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAmritaチャンネルは、「賛歌・イメージビデオ」です。



曲目

1.シッダールタ
2.主ハリよ、早く私にそのお姿をお見せください
3.スンダラチャリサ
4.チャイタニヤ・チャイタニヤ
5.ラーデーシャーム
6.我が師(日本語版)
7.放棄の翼
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今日のAMRITAチャンネル「アニメ・ハヌマーン 第2話」

2015-07-22 09:10:16 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ・ハヌマーン 第2話」です。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第三回(9)

2015-07-21 20:25:27 | 勉強会より抜粋



【本文】

 また、アジャータシャトルパリヴァルタ(アジャータシャトル懺悔(ざんげ)経)では、尊者マハーカッサパが妙吉祥菩薩に、ライオンの子のたとえを述べる。
 ライオンの子は誕生して間もなく、まだ力と技が成熟していなくとも、ライオンの子の匂いが風に乗って運ばれると、その風下の動物の群れは、ライオンの子の匂いを恐れ、逃亡する。革ひもでしっかりとつながれた巨大なゾウも、ライオンの子の匂いをかぐと、大いに恐れ、革ひもを引きちぎって逃亡する。
 このように菩薩は、たとえその智慧の力が未熟であっても、菩提心を持つや否や、一切の小乗の修行者や解脱者よりも優れ、一切の悪は逃げ去るのである。



 はい。あの、インドっていうのは、ヒンドゥー教でも仏教でも、ライオンとか虎を、偉大な菩薩や修行者や、あるいはわれわれの心の本性のたとえとしてよく使うんだね。雄々しい、完全なる、偉大なものの象徴としてね。
 はい。で、このたとえは読んだ通りですけども――まだライオンというのは子供であったとしても、その匂いによって、弱い動物たちがね、恐れて逃げていくと。それと同じように、まだ未熟であっても――まあさっきも言ったようにね、まだ本当にけがれでいっぱいで、ちょっと「菩薩になろうかな?」と思っただけの人であったとしてもですよ、それはまさにライオンの子供のようなものです。
 これを表わす一つの物語として、これも前にも言いましたが、お釈迦様が昔ね、つまり過去世において、スメーダという名前の菩薩だったときがあって――まあこれは有名な話ですが――定光如来といわれる、昔の如来がいたんですね。で、この如来が、定光如来が、町にやってくるっていうときがあった。町っていうか、その国にやって来ましたと。で、その国中の人たちは、もうすごい、もちろん仏陀が来たわけだから、大歓迎したわけですね。大歓迎して、もう街中をこう、お祭り騒ぎでね、いろいろ飾って、迎え入れたと。で、その定光如来がやって来たときに、人々は帰依と歓迎の印としてね、自分の着てる服を脱いで、道端に置いたんです。つまり、「その上を通ってください」と。足が汚れないようにね、「わたしの服の上を通ってください」って感じで置いたんだね。で、その上を定光如来が歩いてたんだけど、しばらくして定光如来は、みんなの信を試そうと思って、道を神通力で泥に変えたんだね。汚い泥の道に変えてしまった。そしたらみんな服を置くのをやめた(笑)。それも情けない話なんだけど。「ちょっと汚れちゃうから」って言って、置かなくなった(笑)。
 で、それを見ていた、そのお釈迦様の前生であるスメーダは考えたわけですね。「みんなはなんて馬鹿なんだ」と。「みんなは真の利益――つまり何が大切で何が大切でないかを全く分かっていない」と。そんな、全く自分にダメージがないようなかたちで、かたちだけそんなことやってもしょうがないと。今こそ、こういうときこそ、真に自分の大事なものを捧げればね、それは最も徳になるじゃないかと。それがわたしのエゴも破壊してくれるし、こんな利益になることをなぜみんなはしないんだ、と。「わたしは本当に心からの供養を持って、供養しよう」と思って、何をしたかっていうと――まあこのスメーダって人は修行者なんだけど、なんと生まれてからね、生まれてから青年期まで、一度も髪を切ったことがなかったんだね。で、その長い髪を頭の上で巻いていた。で、その超長い髪をバッとほどいてね、それを、自分は地面にひれ伏して、バーッて髪を長く道に敷き詰めて、「さあ、どうか定光如来様」と。「この髪の上を通ってくださいませんか?」とお願いしたわけですね。で、この髪を供養することによってね、「わたしも将来仏陀になれますように」っていう発願をしたわけですね。
 で、そこを定光如来は通ったわけだけど、そのときに弟子たちにね、言ったわけです。この弟子たちっていうのは、いわゆる阿羅漢、解脱者だったんです。解脱した弟子が、いっぱい周りにお付きとしていたんだけど、彼らに「お前たちは、この髪の上を通ってはいけない。これは如来のみが通れる髪の毛なんだ」って言って、通るんだね。
 で、この話は何を意味してるのかと言うと、つまり、この時点で、お釈迦様は解脱してないんです。でも菩薩なんです。でもその定光如来の弟子たちは、菩薩ではないが、解脱してるんです。つまり、この話の言いたいことは、どんな高い智慧を得ていても、未熟な菩薩の方が上なんだってことだね。未熟であっても菩薩の方が上なんだと。
 つまり、この今の話と同じね。子供であってもライオンっていうのは偉大であるっていうのと同じように、未熟であっても菩薩っていうのは、自分のことしか考えない修行者や、あるいは他の神々では、はるかに比べものにならないほどの偉大さを有してる、ということだね。
 だから、何度も繰り返すけども、皆さんがほんの少しでも心に菩提心を抱いただけでも、それはものすごく偉大なことであって、かつ魔は逃げ去るんですよ、ということですね。
 ちょっと話がずれるけども、皆さん、将来的にっていうかな、今もそういう人いるかもしれないけど、魔に襲われることが――修行してるとね、まあ、たまにあります。魔に襲われるっていうのは、あいまいなかたちの場合と、具体的なかたちの場合があるんだけど、あいまいなかたちっていうのは、別になんかヴィジュアル的になんかあるわけじゃないんだけど、現象がね、なんかどんどんこう、自分の煩悩が増大していったりとか、自分の心が、修行とかそういうものから離れていくような、そういう現象がいっぱい起きるときね。これはまあ、自分はよく分からないんだけど魔に襲われてるときです。こういうときとか、あとヴィジュアル的にっていうのは、本当にバーッて魔がやってきて(笑)、ウワーッて襲ってくるときもある(笑)。とにかくいろんなかたちで魔っていうのはやってくると。で、その魔に対する対処法っていろいろあるわけだけど、その一つが、まさに菩提心だね。つまり、魔がやってきたときに――さっきから言ってる、菩提心の灯火を心に宿らせたりとか、あるいはそこで、もう自分のことはあまり考えずに衆生の幸福を願ったり、あるいはまさに、そこで現われてる魔そのものに対する慈悲の心ね――を出したりとかっていうことは、まあ素晴らしい、その魔に対する対処法になるね。
 菩提心が嫌いなんです、魔っていうのは(笑)。だから菩提心を発すると逃げていくんです、魔って(笑)。うん。だからそういう力があるって思ったらいいね。

 はい。じゃあ次もいきましょうね。
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今日のAMRITAチャンネル「アニメ・リトルクリシュナ 第九話」

2015-07-20 15:21:48 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ・リトルクリシュナ 第9話」です。
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『釈迦牟尼如来』(5)

2015-07-20 08:53:30 | 聖者の生涯


 このようにゴータマはひたすらに修行に励みましたが、完全な智慧を得ることはまだできていませんでした。そこでゴータマは、このように考えました。

「過去・現在・未来においてどんな修行者がいたとしても、私以上に激しい苦行をなした者はいないであろう。それなのに、私はいまだ、人法を超えた最勝智見が得られていない。悟りに赴く道が、他にあるのだろうか。
 --私は以前、まだ出家する前に、涼しいジャンブ樹の木陰に座り、一人で瞑想し、欲望を離れ、不善の事柄を離れて、熟考と微細な思慮を行ない、遠離から生じた喜楽に満ちた、色界の第一禅定に入っていたのを覚えている。これこそが実に悟りに赴く道なのではないだろうか。」
 
 そしてさらにゴータマは、こう考えました。

「全ての欲望と不善法を離れた楽を得るには、このようにひどく痩せ細った体では、容易ではない。さあ、私は粗食を求め、身体の力を取り戻そう。」

 ゴータマがそのように考えていたとき、セーナー村のスジャーターという娘が、乳粥を持って近づいてきました。スジャーターは、毎日そこの樹に対して供物をささげていたのです。スジャーターがいつものように樹に近づくと、骸骨のようにやせ細ったゴータマが、そこに座っていました。スジャーターは、この苦行者は樹の精であると考え、乳粥をゴータマに供養しました。ゴータマはそれを食べ、体力を取り戻しました。

 その当時、誰にもまねのできないほどの苦行を行なっていたゴータマは、苦行者達のリーダーとして尊敬され、五人の苦行者仲間が、ゴータマに仕えていました。しかし彼らは、ゴータマが乳粥を食べているのを見ると、
「出家修行者ゴータマは、勤め励むことに気の迷いが出て、贅沢に陥ってしまった。」
と考え、嫌悪して、ゴータマのもとから去っていってしまったのでした。
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今日のAMRITAチャンネル「勉強会講話より『ラーマクリシュナの福音』第48回」

2015-07-19 21:21:40 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「勉強会講話より 解説『ラーマクリシュナの福音』第48回」です。
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それ

2015-07-19 09:09:37 | 松川先生のお話

その境地に入っているというよりも
いつもつながっているというよりも
もとからこれというよりも
これしかないというか

段階もゴールもなく
土台も道も結果もない

それが結果といってしまえばそうかもしれないが
そういうわけでもない

ただし我々は普通は無明に落ちているので
この「当たり前のこと」に気づき続けること
いや、一度でも気づくことはなかなか大変なのだが

気づいてみるとそれは、
到達したというものでもなく
もとからあったというのも違うかもしれないが
もともとそれしかないというか

それに気づくために
修行者は一歩一歩、道を行く。
そして「それ」が発動して初めて、
道もゴールも、特になかったということに気づく。
過去も未来も今さえも、特にないようだぞ。
そして気づいた後も、その深まりは永遠に続く。

そう、道とか段階というより、深まりですね。

それに触ることができた人、
それを深めていける人は、おそらく、
その片鱗を、人々に分かち与えることができる。

その邪魔をするのはエゴ。
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「常に見られている」

2015-07-18 06:10:02 | 解説・入菩提行論



【本文】

 師の教えによって、師を畏敬して恭敬をささげる者は幸福である。師匠のもとに住することから、正念は彼らにたやすく発生する。


【解説】

 ヨーガや密教においては、時にはブッダや神に対する以上に、現実の師への帰依心を非常に重要視します。
 そして密教ほどではないにせよ、大乗仏教においても、師の存在というのが非常に重要視されていることがわかります。
 もともとヨーガの伝統においては、弟子は師と共に暮らし、師の身の回りの世話等で奉仕をしながら、教えを受けていくというスタイルがありました。それによって弟子は、単なる言葉による教えのみならず、様々な状況における考え方や、立ち居振る舞いなどを学ぶことができたのです。あるいは常に師に自分の考え方や行動の仕方等をチェックされることにより、自然に自分の汚れたカルマが浄化されていくともいえるでしょう。
 実際に一緒に住まないまでも、師を持ち、師を尊敬し、帰依し、たびたび一緒に接して教えを受けるなら、上記に近い結果を得ることができるでしょう。逆に言えば、人は自分に対して甘いので、そのように自分に指示や教えや良い影響を与えてくれる師が近くにおらず、一人で修行するような状態だと、なかなか自己を律するのは難しいということですね。

【本文】

 「もろもろのブッダと菩薩方は、いたるところを妨げなく照覧なさり、一切は彼らの現前にある。そして私も常に彼らの前に立っている」
と、かように瞑想し、慙愧と恭敬とおそれを伴い、(自制して)あれよ。かくすれば、ブッダの念は、一瞬一瞬、彼に生ずるであろう。

 正念が心の門に守護のために立つときは、正智が到来する。そして得られた正智は再び去らない。


【解説】

 ここは非常に重要というか、実際に使えるテクニックです。
 これはどういうことかというと、まずブッダや菩薩方への強い信を持ちます。そしてブッダというのは全智を持っているわけですから、常に全世界のあらゆることを妨げなくごらんになっているのです。ということはもちろん、私自身も常にブッダや菩薩方に「見られている」といえます。
 もし実際に、目の前にブッダがいたらどうしますか? とてもブッダの前で、悪業を犯したりはできないでしょう。しかしブッダは、こちら側が認識できなくても、実は常に我々を見ているわけです。だから24時間、悪業を犯すことはできないのです。さらにブッダ方は、目に見える行ないだけではなく、我々の心の中まで常に見通していますから、偽善的な行為も通用しません。常に今自分のできる最高の心の状態を保ち続けるしかないのです。 
 もっと言えば、先ほどの教えも応用して、現実の自分の師匠も完全な全智を持ち、常に自分のことを見ている、と考えるなら、よりメリットは大きいでしょう。
 チベット仏教の教えでは、「もし仮に師が〈自分は解脱していない〉と考えていたとしても、弟子は師を、解脱したブッダとして見なければならない」などとも説かれています。頭の固い人はここに矛盾を感じるかもしれませんが、実際はここに何の矛盾もありません。そのように見るなら、最も大きな恩恵があるでしょう。
 ブッダや、菩薩や、自分の実際の師が、常に自分の行動や心の状態を監視している。--そのようにリアルに真剣に考えるのです。そうしたらもう、一瞬たりとも気が抜けませんね。一瞬たりとも、真理から心を外すことはできません。--つまりそれこそが「正しい念が保たれている」状態なのです。

 このようにして正しい念が心の門に生じたならば、その正しい念に基づいて、常に自分自身で自分の身・口・意の行ないをチェックする正智の働きも生ずることになるでしょう。

 ブッダや師の全智を信じ、彼らが常に自己を見ていると考える
 ↓
 常にブッダや師に見られているので、常に正しい思いを持ち続けようとする(正念)
 ↓ 
 常に正しい思いを保てているかどうか、正智による自己チェックを常にするようになる
 ↓
 それにより、より正念は確固としたものになっていく

 このような好循環が生じるわけです。

 もっと言えば、このような観想ができるなら、その人は周りの人の一時的な評価や非難などにも惑わされなくなります。
 人は皆、自己を評価されたい、非難されたくない、理解してほしい、と考えるわけですが、実際は人は無責任に他者を非難することが多く、また誤解や無理解に満ちているのがこの人間世界です。
 しかし上記のような考え方ができるなら、
「世界中すべての人に誤解され、非難され、理解されなくても、仏陀や自分の師がわかってくれればそれでいい」
と考えるようになります。
 もちろん、自分の今の心の状態や修行段階によって、ブッダや師に対して恥ずかしい行ないや思考をしてしまうこともたびたびあるでしょう。しかしそのたびに反省し、少なくともブッダや師に対しては、心の中で最高に誠実になり、いかに彼らに対して恥ずかしくない思考をするか、恥ずかしくない生き方をするか、ということを常に考えるのです。関係のない第三者が、いろいろ自分を非難したり、無理解な態度をとっても、全くそれは関係ないのです。それらに振り回される必要はないのです。ただただ、ブッダや師に恥ずかしくない思考と生き方をしようとだけ考えるのです。

 皆さんもぜひ、ブッダに、あるいは神に、あるいは実際の師がいる人は師に、常に見られていると考えてください。行動から心の奥まで見られていると。そのように真剣に考えるなら、正念と正智はたやすく生じ、そして持続させ続けることができるでしょう。

【本文】

 まず第一に、この心がかように常に見守られねばならぬ。次に私は、あたかも木材のように、常に感官の無い者のごとくあらねばならぬ。

 いつも無益にまなざしをうろつかせてはならない。視線は禅定におけるように常に下方に向けられるべきである。

 しかし視線を休めるために、人は時折、諸方を見るべきである。また(行き会う人の)影を見たなら、その人を眺めて挨拶すべきである。

 路上等においては、危難を警戒するために、時々四方を見よ。立ち止まり、後ろを振り返ったりして方角を観察せよ。

 前進するにも後退するにも用心して行なえ。かようにあらゆる状態において、なすべきことを自覚してなせよ。

 なお「身はかように保たれるべきである」と所作について己に指示を与えた後に、さらに途中で、身はいかに保たれているかと、省みねばならない。


【解説】

 「木材のように」というのはこの経典でよく出てくる表現ですが、面白いですね。
 ヨーガにおいても原始仏教においても、感官の制御、すなわち制感というのは、重要な位置を占めていますね。すなわち、感覚は放っておくとあちこちへと向かい、執着したり悪しき心を生んだりするので、それを制しろということですね。それをシャーンティデーヴァは「木材のように、感官の無い者のごとくあれ」と表現しています。
 
 もちろん実際は我々は五感を有しています。それをわざわざ自らの目をつぶしたり、鼓膜を破ったりする必要はありません。そうではなく、この五感を有し、必要なときにはそれらを使いつつも、悪しき方向に流されないようにコントロールし続けるのです。

 まずきょろきょろするな、とシャーンティデーヴァは言っていますね(笑)。特に現代ではこれは言えていますね。町を歩くと、いたるところに煩悩を刺激する広告が目に入ってきます。あるいは刺激的な格好で魅力的な異性が歩いていたり(笑)、おいしそうな匂いが立ち込めてきたり、恋愛の歌が流れていたりします。そういったものにきょろきょろして心を奪われるな、ということですね。

 視線を下方に向けるというのは、仏教の伝統的なやり方ですが、これはケースバイケースですね。クンダリニー・ヨーガ的な瞑想や、正観(ヴィパシャナー)の瞑想においては、視線を上向きにしたほうが良いともいいます。ちなみに私自身は、結構いつも上向きで歩いたりしますね。これはこれで、空しか見えないのでいいです(笑)。まあ、都会だと、上を向いても下を向いても広告が目に入ってくるかもしれませんが(笑)。

 人と行き会ったら挨拶すべし、というのも、大乗仏教的な感じがしますね。まあつまり、人と行き会ってもじっと下方を見つめてぶつぶつとマントラなどを唱えていると変ですから(笑)、衆生に対しては友好的に挨拶を交わせということでしょうか。
 ただ原始仏典でも、お釈迦様や弟子たち、あるいは外道や信者たちが、それぞれ会うときに、親愛なる挨拶を交わしているシーンが見受けられます。この辺は無畏施(安心施)にも通じるのかもしれませんね。煩悩を放棄する実践と、他者を受け入れる慈愛の実践のバランスをうまくとらなければいけませんね。

 そして何をするにも、常に覚醒した意識を保ちつつ行ないます。ぼーっとして行なわないようにします。この辺は以前に何度も「念」の説明で書いたことの一つですね。

 そして自らの行為において、「このようにすべきである」と自分自身に指示を与えた後に、それがそのとおり行なわれているか、チェックしなければならないといっています。つまり正智ですね。
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