ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

新曲「ジェイジェイシュリーラーム」をアップしました^^

2015-03-31 09:19:31 | お知らせ


新曲ができました。よかったらお聞きください^^


※キールタンのページ



「ジェイジェイシュリーラーム」


作詞:Keisho.Matsukawa
作曲:Yuri.Tanaka

歌:Keisho.Matsukawa
演奏:Yuri.Tanaka
録音・編集:Takuya.Takahashi




ジェイジェイシュリーラーム
いつでも 
わたしの
心に
笑顔で
住まわれる
愛しき主よ

ジェイジェイシュリーラーム
あなたの
蓮華の
瞳には
どんな
真実が
映っているのでしょう

ジェイシュリーラーム
ジェイシュリーラーム
ラグ族の王
世界を
輝かせる
至高の主よ

ジェイシュリーラーム
ジェイシュリーラーム
慈愛の御手で
衆生を
導く
ラグヴィールよ

あなたの
御足に
永遠に
仕えたい
それだけが
このしもべの
幸福です



ジェイジェイシュリーラーム
いつでも 
わたしの
心に
笑顔で
住まわれる
愛しき主よ

ジェイジェイシュリーラーム
バクタの
勇気と
誠実は
あなたが
お与え
くださるのです

ジェイシュリーラーム
ジェイシュリーラーム
すべての宇宙は
今日も
あなたを
礼拝する



ジェイジェイシュリーラーム
いつでも 
わたしの
心に
笑顔で
住まわれる
愛しき主よ

ジェイジェイシュリーラーム
気高き
心を
忘れずに
歩いて
ゆけるように
見守りください

ジェイシュリーラーム
ジェイシュリーラーム
光の弓矢で
闇を
破壊する
ラグヴィールよ

あなたの
御足に
すべてを
捧げたい
それだけが
このしもべの
幸福です

ジェイジェイシュリーラーム
いつでも 
わたしの
心に
笑顔で
住まわれる
愛しき主よ

ジェイシュリーラーム
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2015 ラーマ生誕祭

2015-03-30 07:18:35 | お知らせ

28日は、至高者シュリーラーマの生誕祭(ラーマナヴァミ)でした。

ヨーガスクール・カイラスでも各道場をつないで、ラーマ生誕祭をおこないました^^







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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第120話」

2015-03-27 23:08:46 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第120話」です。
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ヴィッダシャーゴル訪問(4)

2015-03-27 08:57:25 | 聖者の生涯

 ヴィッダシャーゴルはインド哲学を学んでいたが、それを他人に教えることはなかった。しかし彼自身はヒンドゥー教の決まりを遵奉して生きていた。あるとき彼はこう言っていた。
「神を知ることは本当に不可能だ。それでは、何が我々の義務であるか。私には、もし他者が自分を真似たら、この地上がそのまま天国になるように生きるのが義務であると思われる。各人が、世間に対して善をなすよう努めるべきである。」

 シュリー・ラーマクリシュナの話は、今度はブラフマンの叡智について向けられた。

師「ブラフマンはヴィディヤーとアヴィディヤーとを超越している。それはマーヤー、つまり二元性という幻影を超えています。
 この世界は、明智と無明という二元性の幻影でできています。それは叡智と信仰を持っており、そしてまた『愛欲と金』への執着も持っている。法と非法、善と悪を含んでいる。しかしブラフマンはこういうものには属していません。善と悪は法および非法と同様、ジーヴァ(個我)に当てはまるものです。しかしブラフマンは全く、それらの影響は受けません。
 一個のランプの光で、ある男はバーガヴァタを読み、別の男は同じ光で偽金を作るかもしれません。しかしランプには何の影響もない。太陽はその光を、有徳の者たちの上に注ぐのと同じように、邪悪な者たちの上にも注ぐのです。
 『それでは苦痛や罪や不幸をどのように説明するのか』と言うかもしれない。これらはジーヴァにだけ当てはまるものだ、というのが答えです。ブラフマンはそれらに影響されない。蛇には毒がある。しかし他のものはそれに噛まれたら死ぬかもしれないが、蛇自身はその毒の影響は受けないのです。
 ブラフマンはどんなものであるかということは、説明できません。この世界にあるすべてのものは――ヴェーダも、プラーナも、タントラも、六派の哲学も――舌をつけられた食物のようにけがされている。舌によって読まれるか話されるかしたのだから。たった一つのものが、このようにしてけがされていません。それはブラフマンです。いまだかつて、ブラフマンがどんなものであるかを言うことのできた人はいないのです。」

ヴィッダシャーゴル(友人たちに)「おお! これは注目すべき宣言だ。私は今日、新しいことを学んだ。」

師「ある人が二人の息子を持っていました。父親は彼らにブラフマンの叡智を学ばせようと思って、ある教師の元に送った。数年後に彼らは師の家から帰ってきて、父親の前に低く頭を下げました。彼らのブラフマンの叡智の深さを計りたいと思って、父親はまず、兄の方に尋ねました。
『我が子よ、おまえはすべての聖典を学んだ。さて、話してくれ。ブラフマンはどういうものであるか。』
 息子は、ヴェーダの様々の本文を朗唱して、ブラフマンを説明し始めました。父は何も言いませんでした。
 父はそれから弟に向かい、同じことを尋ねました。しかし少年は目を伏せ、黙って立っていました。彼の唇からは、一言も漏れませんでした。父は満足して彼に言いました。
『我が子よ、おまえは少しばかりブラフマンを理解したようだ。それが何であるかということは、言葉では表せない』と。

 人々はしばしば、自分はブラフマンを十分に理解したと思うのです。あるとき一匹のアリが、砂糖の山に行きました。一粒でそれは満腹し、もう一粒を口にくわえて巣に帰る途中、『この次には山全部を持って帰ろう』と思ったそうです。浅はかな心はこのように考えるのです。彼らは、ブラフマンは言葉も思いも超えたものであるということを知りません。人はたとえどんなに偉くても、ブラフマンについてはどれほど知ることができましょう。シュカデーヴァや彼のような賢者たちは、大きなアリだったかもしれません。しかし彼らでさえ、せいぜい八粒か十粒の砂糖を運ぶことができただけなのです。
 ヴェーダやプラーナに書いてあることについては、それがどんなものであるか知っていますか。ある男が海を見ました。そして誰かが『さて、海はどんなものか』と聞くとします。その男はできるだけ大きく口を開き、『何という光景! 何という巨大な波と音!』と言うだけです。聖典の中のブラフマンの描写は、そのようなものなのです。ヴェーダの中には、ブラフマンは至福の性質であると書いてあります。それはサチダーナンダです。
 シュカをはじめとする賢者たちは、このブラフマンの大海の岸に立ってその水を見、それに手を触れました。ある学派の言うところによると、彼らはその中に飛び込みはしませんでした。飛び込んだ人たちは再びこの世界に帰ることはできないのです。
 サマーディの中で、人はブラフマンの叡智を得る――ブラフマンを悟る。その状態の中で推理は全くやみ、人は黙ってしまう。彼はブラフマンの性質を説明する力を持たないのです。
 あるとき塩人形が海の深さをはかりに行った。(みな笑う)水深がどのくらいであるか、みなに話したいと思ったのです。しかしそれはできませんでした。水に入るや否やそれは溶けてしまったのだから。もう海の深さを報告する者などはいないではありませんか。」
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ヴィッダシャーゴル訪問(3)

2015-03-27 08:14:34 | 松川先生のお話

 ヴィッダシャーゴルは誰かに水を持ってくるように言いつけ、Mに、師は甘いものも召し上がるだろうか、と尋ねた。Mが反対しなかったので、ヴィッダシャーゴルは一生懸命に自分で奥の間に行き、菓子を持ってきた。それは師の前に置かれた。菓子がMにも勧められたとき、ヴィッダシャーゴルは言った、「おお、彼は家族の一員のようなものです。彼のことを心配する必要はありません。」

 ある若い信者のことを、シュリー・ラーマクリシュナはヴィッダシャーゴルに、「彼は善い若者で、心が健全です。パルグー川のようなものだ。表面は砂に覆われているが、少し掘ると下の方で水が流れている」とおっしゃった。

 若干の菓子を召し上がった後で、師はほほえみながらヴィッダシャーゴルに向かって話を始められた。その間に部屋は人でいっぱいになった。ある人々は立ち、ある人々は座っていた。

師「ああ、今日、ついに私は海に来た。今までは、堀か、沼か、せいぜい川ぐらいにしか会わなかった。しかし今日はシャーゴル(海)と顔を合わせている。」(みな笑う)

ヴィッダシャーゴル(微笑して)「では、どうぞ塩水をお持ち帰りください。」(大笑い)

師「おお、どうして塩水などと言うのですか。あなたはアヴィディヤー(無明)の海ではない。ヴィディヤー(明智)の海だ。あなたは練乳の海です。」(みな笑う)

ヴィッダシャーゴル「まあ、そのようにおっしゃるがよろしい。」

 パンディットは黙ってしまった。シュリー・ラーマクリシュナはおっしゃった。

「あなたの活動はサットヴァの息吹を吹き込まれている。それらはラジャス的ではあるが、サットヴァの影響を受けている。慈悲心はサットヴァから生まれる。他者の福祉のための仕事はラジャスに属するのだが、しかしこのラジャスはその根底にサットヴァを持っていて、害はない。
 シュカをはじめとする賢者たちは、人々に宗教上の教えを与えるのに、つまり神について教えるのに、心に慈悲の念を抱いていた。あなたは食物と学識とを分かち与えておられる。それもまたよろしい。もしこのような活動が無私の精神でなされるなら、それらは神に通じる。しかし大部分の人は名声のため、または功績を立てるために働くのだ。彼らの活動は無私ではない。それに、あなたはすでにシッダであられる。」

ヴィッダシャーゴル「それはどういうことですか?」

師(笑いながら)「ジャガイモやその他の野菜はよく煮えると柔らかになるでしょう。あなたは実に柔らかな性質を持っておいでだ。実に慈悲深い!」(笑い)

※「シッダ」という言葉は、「修行の成就者」という意味だが、「よく煮えた」という意味でもある。

ヴィッダシャーゴル(笑いながら)「しかしカライ豆の練り物を煮ると、いっそう固くなります。」

師「しかしあなたはあの種類には属しておられない。ただのパンディットたちは、固くなって決して熟すことのない病気の果物のようなものです。そのような果物は、未熟なものの持つ新鮮さもなければ、熟したものの持つ風味もない。
 ハゲタカは、たいそう高く舞い上がるが、その目は常に地上の腐肉に注がれています。書物の学者は、賢いという評判は立っているが、『愛欲と金』に執着している。ハゲタカのように、彼らは死肉を探しているのです。彼らは無明の世界に執着している。
 慈悲、神への愛、および放棄は、真の明智の輝きです。」

 ヴィッダシャーゴルは黙ってこれらの言葉に聞き入っていた。他の人々も、師を見つめて彼の一語一語に耳を傾けていた。
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ヴィッダシャーゴル訪問(2)

2015-03-27 08:09:42 | 聖者の生涯


 八月五日の午後、師はバヴァナートとMとハズラーを伴い、貸し馬車でドッキネッショルを出発なさった。ヴィッダシャーゴルは、ドッキネッショルから六マイル離れた中央カルカッタ、バドゥルバガンに住んでいた。途中、シュリー・ラーマクリシュナは連れと話をなさった。しかし、馬車がヴィッダシャーゴルの家に近づくと、彼の状態が突然変わった。彼は神聖な恍惚状態に圧倒されておしまいになった。このことに気づかないで、Mはラージャ・ラーモハン・ロイが住んでいた別荘を指さした。師はおっしゃった、「今はそんなものに興味はない」彼は忘我の状態に入ろうとしておられたのだ。

 馬車はヴィッダシャーゴルの家の前に止まった。師はMに支えられてお降りになり、Mは道案内をした。中庭にはたくさんの花が咲いていた。家に向かって歩いて行く途中、師はご自身のシャツのボタンを指し、子供のような様子でMにおっしゃった。

「シャツのボタンがかけてない。これはヴィッダシャーゴルの気に障るだろうか?」

「おお、いいえ! そんなことをご心配なさいますな。おんみの周りに何一つ、人の気に障るようなところはありません。ボタンをおかけになる必要はございません。」

とMは言った。師は子供のように素直に、その言葉をお信じになった。

 ヴィッダシャーゴルは62歳ぐらいで、シュリー・ラーマクリシュナより16、7歳年長だった。彼は四方に芝生があり、高い堀に囲まれたイギリス風の二階建ての家に住んでいた。二階への階段を上ると、シュリー・ラーマクリシュナと信者たちは一つの部屋に入った。その部屋の一番奥に、ヴィッダシャーゴルはテーブルを前にしてこちらを向いて座っていた。テーブルの右に一脚の椅子が置いてあり、主人の友人数人が他の側に置かれた椅子を占めていた。
 
 ヴィッダシャーゴルは立ち上がってシュリー・ラーマクリシュナを向かえた。シュリー・ラーマクリシュナは片手をテーブルに置き、長椅子の前にお立ちになった。彼は、前からの知り合いででもあるかのように、ヴィッダシャーゴルを見つめ、うっとりとした様子で微笑なさった。そのままの状態で数分間、じっと立っておられた。ときどき、心を通常の意識に戻そうとして、「水を一杯飲もう」とおっしゃった。

 その間に、家族の若い人々と、ヴィッダシャーゴルの友人や親類数名が周りに集まってきていた。シュリー・ラーマクリシュナはまだうっとりとした状態で、長椅子にお座りになった。
 ヴィッダシャーゴルに学費の援助を乞いに来た17、8歳の若者が、そこに座っていた。シュリー・ラーマクリシュナは若者からは少し離れて座り、放心状態でおっしゃった。

「母よ、この少年は世間に強く執着しています。彼はあなたの無明の世界に属しています。」


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ヴィッダシャーゴル訪問(1)

2015-03-27 07:41:23 | 聖者の生涯


 ラーマクリシュナの福音

 第三章「ヴィッダシャーゴル訪問」より



1882年8月5日

 パンディットのイシュワル・チャンドラ・ヴィッダシャーゴルは、シュリー・ラーマクリシュナの生地カーマールプクルから遠くないベールシンの村で生まれた。
 彼は偉大な学者、教育者、文筆家および博愛者として知られていた。近代ベンガル語を作った一人である彼は、サンスクリットの文法と詩にも精通していた。彼の寛大さは、彼の名前を同国人周知のものにしていた。その収入の大部分は、未亡人や孤児や貧しい学生などの困っている人々に施されたのである。その慈悲心は人間のみに限られなかった。彼は子牛からミルクを奪わないために、何年間もミルクを飲むのをやめていた。また馬を苦しめるのを恐れて、馬車にも乗らなかった。
 彼は不屈の精神の持ち主で、カルカッタのサンスクリット大学の校長という収入の多い地位を、当局者と意見が合わないという理由で捨てた。彼の母への愛は特に深かった。ある日、渡し船が欠航していたので、彼の弟の結婚式に出てもらいたいという母の願いに応じるために、生命の危険を冒して激流を泳ぎわたった。彼の全生涯は、全く簡素であった。ヴィッダシャーゴル(学識の大海)という称号は、彼の博識を称えて贈られたものであった。
 
 シュリー・ラーマクリシュナは長い間、イシュワル・チャンドラ・ヴィッダシャーゴルを尋ねたいと思っておられた。Mがヴィッダシャーゴルの学校の教師であることを彼から聞かれて、師は「私をヴィッダシャーゴルのところに連れて行くことができるか。私はぜひ彼に会いたいのだ」とおたずねになった。

 Mはイシュワル・チャンドラにシュリー・ラーマクリシュナの希望を話し、パンディットは喜んでMが師をある土曜日の午後四時に連れてくることを承諾した。彼はただMに師がどのような種類のパラマハンサであるかを尋ね、「彼は黄土色の衣を着ておられるのか」と言った。Mは答えた。

「いいえ、彼は変わった人です。赤い縁取りをした衣をまとい、磨かれた上靴を履いています。ラーニ・ラシュマニの寺の中の一室に住み、その部屋にはマットレスと、蚊帳のついた簡易ベッドが置いてあります。外見には聖者らしいところはありません。しかし、彼は神のこと以外何も知りません。昼も夜も神のことだけを考えています」

と。
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君は聖者であれ

2015-03-27 06:47:55 | 松川先生のお話
君は聖者であれ。
周りにとって。
彼にも彼女にも、普通の友達はたくさんいる。
聖者になれるのは君しかいない。

君は世の喜びは諦めて
みんなのために聖者となれ
そのような役割の人が必要だ。
それをできる人は限られている。

私の心には神しかおらず
この世界には神しかいない。
それを早く悟りなさい

常に神と師を思い
あの震える歓喜に浸り続けなさい

心が落ち込んだときも
高き志と理想を
片時も忘れるな

君は聖者であれ。
周りにとって。
あの人もあの人も、
君の覚醒を待っている。


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信者たちと共に(3)

2015-03-27 06:44:21 | 聖者の生涯


1882年4月9日 日曜日

 シュリー・ラーマクリシュナは、カルカッタのプランクリシュナ・ムケルジーの家の客間に、信者たちと共に座っておられた。午後一時と二時の間だった。ヴィシュワナート大佐(ラーマクリシュナの信者で、カルカッタ駐在ネパール政府代表)がこの近くに住んでいるので、師は、リリー・コテージにケシャブを訪ねるまえに彼の所によろうと考えておられた。大勢のプランクリシュナの隣人や友人たちが、シュリー・ラーマクリシュナにお目にかかるよう招かれていた。皆が、彼の言葉を聞こうと待ち構えていた。

師「神と彼の栄光。この宇宙は、彼の栄光である。人々は彼の栄光を見て、何もかもを忘れてしまう。彼らは神を求めない。この世界は彼の栄光であるのに。皆が『愛欲と金』を楽しもうとする。しかし、その中にはあまりに多くの不幸と心配がある。
 この世界はヴィシャラクシ河の渦巻きのようなものだ。船がひとたびそこに入ったら、もう助かる望みはない。また、この世界はイバラの茂みのようなものだ。一つのトゲの群れをやっと切り抜けたと思ったら、もうすでに次の群れに巻き込まれている。いったん迷路に入ったら、抜け出すことは非常に難しい。世間に暮らしていると、人はいわばしなびてしまうのだ。」

ある信者「それでは、どうしたらよいのでしょうか。」

師「祈りと、そして高徳の人との交わりだ。
 医者の助けがなければ、病気を治すことはできないだろう。しかし、たった一日ぐらい宗教的な人々と共に暮らしても十分ではない。絶えずそれを求めなければならない。病気が慢性になっているのだから。また、医者と一緒にしじゅう暮らさないと、脈を正しく診ることは覚えられない。しじゅう彼について歩いていると、カパの脈とピッタの脈が見分けられるようになるのだ。」

信者「高徳の人と交わると、どういう良いことがございますか。」

師「神への渇仰心が生まれる。神への愛が生まれる。
 霊性の生活では、渇仰心がなければ何一つ得られるものではない。常にサードゥたちと一緒に暮らしていると、魂は神を求めて落ち着かなくなる。このあこがれは、家族に病人を持つ男の心境に似ている。彼の心は、どうしたらこの病人が治るだろうかと考えて、絶えず落ち着かない状態にあるだろう。
 あるいはまた、人は神に対して、職を失い、一つの事務所から他の事務所へと仕事を探し歩いている男の熱望のようなものを感じなければならない。あるところで空席がないといって断られても、彼は次の日にまたそこに行き、『今日は空席がありますか』と尋ねるだろう。
 もう一つの方法がある。熱心に神に祈ることだ。神はまさに我々の身内でいらっしゃる。我々は、彼に『おお神よ、あなたはどのようなお方なのですか。ご自身を私にお示しください。あなたは私にご自分を見せてくださらなければ行けません。そうでなければ、なぜあなたは私をお作りになったのですか』と言うべきなのだ。
 あるシーク教徒が、あるとき私に言った。『神はお慈悲に満ちていらっしゃいます』と。私は言った。『なぜ彼を慈悲深いなどと言わなければならないのか。彼は我々の造り主なのだ。彼が我々に対して親切であったとて何の不思議があろう。両親は彼らの子供たちを育てる。それをおまえたちは親切の行為などと呼ぶか。彼らはそうするのが当然なのだよ』と。
 それだから我々は、自分の要求を神に押しつけなければいけない。彼は我々の父母ではないのか。息子がもし世襲財産を要求して断食でもするなら、たとえ法の定める時期の三年前であっても、親は彼の取り分を渡すだろう。あるいは、子供が何パイスかを両親にねだって、繰り返し繰り返し、『お母さん、二パイスでよいからくださいな。この通り膝をついてお願いします』と言えば、母親もこの熱意を見て耐えられなくなり、お金を投げてやるのだ。
 高徳の人たちとの交わりからは、もう一つの利益が得られる。それは、実在と非実在とを識別する力を育てる。神だけが実在、つまり不滅の実体であって、この世界は非実在、つまり移り変わるものである。人は自分の心が非実在のものの方にさまようのに気づくと同時に、識別力を使わなければいけない。象が隣人の庭のバナナの木を食べようと鼻を伸ばした瞬間に、それは象使いの鉄の突き棒の一撃をくらうのだ。」

隣人「なぜ人は罪深い傾向を持っているのですか。」

師「神の創造には、あらゆる種類のものがある。彼は、善い人々と同じように悪い人々も
お作りになった。我々に善い傾向をお与えになるのは彼である。そしてまた、我々に悪い傾向をお与えになるのも彼である。」

隣人「そうであれば、私たちは自分の罪ある行いに対して責任がないのではございませんか。」

師「罪は自ずから結果を生む。これは神の法則だ。チリを噛めば舌がひりひりしないかね。モトゥルは、若いときにかなり放埒な生活をした。それだから死ぬ前に様々の病気に苦しんだ。
 人は若いときにはそれに気づかないかもしれない。私は、カーリー寺院の台所の竈で薪が燃えているときに中を覗いたことがある。最初は、しめった木はむしろ良く燃える。添えほど湿気を含んでいるようには見えない。しかし木が十分に燃えると、湿気が全部一方の端に逃げる。ついには、薪から水が噴出して火を消すのだ。
 それだから、人は怒りや情欲や貪欲には気をつけなければいけない。たとえば、ハヌマーンの場合をごらん。腹立ち紛れに、彼はセイロンを焼いた。ついに、彼はシーターがアショカの木の林の中に住んでいるのを思いだした。それで、火が彼女を傷つけはしないかと恐れて震えだした。」

隣人「なぜ神は悪い人々をお作りになったのですか。」

師「それは彼の思し召し、彼のお遊びだ。彼のマーヤーの中には、ヴィディヤー(明智)と共にアヴィディヤー(無明)もある。闇もまた必要なのだ。それは光の輝きをいっそう良くあらわす。
 怒りや愛欲や貪欲が罪悪であるということは明らかだ。それではなぜ、神がそれらをお作りになったのか。聖者たちをお作りになるためである。人は、感覚を征服することによって聖者になるのだ。自分の情欲を克服した男にとって、不可能なことがあろうか。彼は、神の恩寵によって神を悟ることさえできる。また、彼の創造のお遊びの全部が、愛欲によって永眠している様を見てごらん。
 悪い人々もやはり必要だ。あるとき、ある領地の小作人たちが始末におえなくなった。地主は、ならず者であるゴラク・チョウドゥリーを送らざるを得なかった。彼は実に過酷な管理人だったので、小作人たちは彼の名を聞いただけで震え上がった。
 あらゆるものが必要なのだ。あるときシーターが言った。『ラーマ、アヨディヤーにある家が全部大邸宅だったら立派でしょうねえ。古い荒れ果てた家がたくさんあります』と。するとラーマが、『しかし、もしすべての家が立派であったら、石工たちはどうするだろう』と言ったという。(笑い)神はあらゆる種類のものをお作りになった。
 彼は善い木々をお作りになり、そしてまた毒のある草木もお作りになった。獣たちの中にも善いものも悪いものもあり、あらゆる種類の生き物がある。――虎、ライオン、蛇などなど。」

隣人「師よ、在家の生活を送りながら神を悟ることはできるものでしょうか。」

師「できるとも。しかし今も言ったように、高徳の人たちと交わり、絶えず祈らなければいけない。人は神を求めて泣かなければならない。このようにして心の不純物が洗い流されると、人は神を悟るのだ。
 心は泥に覆われた針のようなものであり、神は磁石のようなものである。泥が洗い流されなければ、針は磁石と一つになることはできない。
 愛欲、怒り、貪欲、およびその他の悪い傾向、そしてまた世俗の楽しみを求める性質、まさにこれらに相当する泥は、涙で洗い流されるのだ。泥が洗い流されると、磁石は針を惹きつける。すなわち人は神を悟る。心の清い者だけが神を見るのだ。熱病患者は体内に水分がありすぎる。それが除かれないとキニーネも効果を発揮しようがない。
 世間に暮らしていては神を悟れない、などということがあるものか。しかし私が言ったように、人は高徳の人たちと共に暮らし、神の恩寵を求めて泣きながら彼に祈り、そしてときどき一人にならなければいけない。道ばたの植物は最初に垣根を作って守ってやらないと、家畜に踏み荒らされてしまうだろう。」

隣人「それでは、在家の信者も神の御姿を見ることはできるのでございますね。」

師「あらゆる人が必ず解脱する。
 しかし人は、グルの指示に従わなければならない。もし道を踏み迷うと、元に戻るのに苦労するだろう。解脱を得るのに長い時を要する。ある人は、今生でそれを得ることはできないだろう。たぶん、何回も生まれ変わった後に、ようやく神を悟るだろう。
 ジャナカ王のような賢者たちは、世間のつとめをおこなった。彼らはそれをちょうど踊り子が瓶や皿を頭上に乗せて踊るように、心に神を思いながらおこなったのである。西北インドの女たちが水瓶を頭上に乗せ、しゃべったり笑ったりしながら歩いて行くのを見たことはないか。」

隣人「今、グルの指示ということをおっしゃいましたが、私どもはどのようにしてグルを見いだしたらよいのでしょうか。」

師「誰も彼もがグルになれるというわけではない。大きな材木は水に浮かんで獣たちをも運ぶが、つまらない木の切れ端は、もし人がその上に座ると沈んで、彼をおぼれさせるだろう。だからあらゆる時代に、神が自らグルとして地上に生まれ、人類をお救いになるのだ。サチダーナンダのみがグルである。
 何が完全なる叡智であるか。そしてこのエゴはどういうものであるか。
『神のみが行為者である。他に行為者はいない』――これが完全なる叡智だ。私は行為者ではない。私は神の御手の中の道具に過ぎない。それだから私は言うのだ、『おお神よ、あなたが操縦者で私は機械です。あなたが主人で私は家です。あなたが御者で私は馬車です。私は、あなたが私を動かされるとおりに動きます。あなたがおさせになるとおりにおこないます。あなたが話させになるとおりに話します。私ではない、私ではない、あなたです、あなたです』と。」

 師はプランクリシュナの家からヴィシュワナート大佐の家に、そしてそこからリリー・コテージに行かれた。
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信者たちと共に(2)

2015-03-27 06:07:31 | 聖者の生涯

1882年4月2日

 シュリー・ラーマクリシュナは、カルカッタのケシャブ・チャンドラ・センの家の客間に座っておられた。午後五時だった。彼の到着を知らされると、ケシャブは外出着を着て客間に出てきた。ある病気の友達を見舞おうとしていたのだ。もう、彼はその予定を取り消していた。師は彼におっしゃった。

「おまえは実にたくさんの仕事を持っている。その上に新聞も編集しなければならない。ドッキネッショルに来る暇がない。それだから、私が会いに来たのだよ。おまえが病気だと聞いたとき、私はおまえの回復を祈って、マーに青いココナッツと砂糖を捧げることを誓った。私はマーに申しあげたのだ。『母よ、もしケシャブがどうかしたら、私はカルカッタで誰と話をしたらよいでしょう』と。」

 シュリー・ラーマクリシュナは、プラタープをはじめとするブラフモの信者たちに話をなさった。Mはそばに座っていた。Mを指さして、師はケシャブにおっしゃった。

「彼がなぜ、もうドッキネッショルに来ないのか、おまえ、尋ねてみてくれないか。彼は私に繰り返し、自分は妻子に執着してはいない、と言うのだよ。」

 Mは一ヶ月前から、ときどき師を訪れていた。ここしばらくそれが途絶えていたので、師がこのようなことをおっしゃったのだ。シュリー・ラーマクリシュナはMに、来られないときは手紙をよこせ、とおっしゃったのである。
 パンディットのサマーディヤイが来ていた。ブラフモの信者たちがシュリー・ラーマクリシュナに、彼をヴェーダやその他の聖典に精通した学者として紹介した。師は、

「そうだ。私は、窓ガラスを通して部屋の中のものを見るように、彼の目を通して彼の内部を見ることができる。」

とおっしゃった。
 トライロキヤが歌った。突然、師は立ち上がり、母の御名を繰り返しながら、サマーディにお入りになった。少しばかり感覚意識の世界に降りてくると、踊ってお歌いになった。


 私は並の酒は飲まない。永遠の至福の酒を飲む。
 母カーリーの御名を繰り返しながら。
 それは私の心を深く酔わせるので、
 人々は私が酔っぱらったと思う。
 まずグルが、その酒を造るための糖蜜をくださる。
 我が渇仰心は、それを変容させる酵素。
 叡智という作り手が、私のために酒を醸す。
 酒ができたとき、私の心はそれを、
 マントラという瓶から飲む。
 それを清めるために母の御名を唱えながら。
 この酒を飲め、とラームプラサードは言う。
 そうすれば人生の四つの果実はおまえのもの。


 師はまるで彼がご自身の身内ででもあるかのように、やさしくケシャブをごらんになった。彼はケシャブが誰か他人のものになりはせぬかと、つまり世俗的な人間になりはせぬかと恐れていらっしゃるように見えた。彼を見ながら、師は再びお歌いになった。


 私たちは話すのが怖い。でも黙っているのも怖い。
 私たちの心は、おおラーダーよ、私たちがあなたを失おうとしているような気がするのです。
 私たちの知っている秘密をあなたに告げましょう――
 それによって私たちは、また他の人々も私たちの助言によって、
 たびたび危険を免れました。
 今はすべて、あなた次第です。


 歌の最後の部分を引用しながら、師はケシャブにおっしゃった。

「それはつまり、一切のものを捨てて神に呼びかけよ、ということだ。彼のみが実在、他のすべては幻である。神の自覚無しには、あらゆるものが無意味である。これが偉大な秘密なのである。」

 師は再び座り、信者たちと話をおはじめになった。しばらくの間ピアノの独奏を聴き、子供のようにお楽しみになった。それから奥の間に案内され、そこで茶菓子を召し上がって、婦人たちのご挨拶をお受けになった。
 師がケシャブの家をお発ちになるとき、ブラフモの信者たちは、恭しく馬車のところまで見送った。
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今日のAMRITAチャンネル「賛歌・イメージビデオ『ラーマ&女神特集』」

2015-03-26 22:21:48 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAmritaチャンネルは、「賛歌・イメージビデオ『ラーマ&女神特集』」です。



曲目

1.サマーディシーターラーム
2.ジェイジェイマードゥルガー
3.神のしもべに
4.ホーリーマザー
5.あなたの愛に
6.ジェイジャガタンベー
7.ジャヤシーターラーム
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信者たちと共に(1)

2015-03-26 21:01:05 | 聖者の生涯



 ラーマクリシュナの福音

 第二章「信者たちと共に」より



1882年3月11日

 朝八時頃、シュリー・ラーマクリシュナは予定通り、カルカッタのバララーム・ボースの家においでになった。ドラヤートラの日であった。ラーム、マノモハン、ラカール、ニティヤゴパール、および他の信者たちが彼といた。Mもまた師の命に従って来ていた。
 信者たちと師は、神聖な白熱状態の中で歌い、そして踊った。その中の何人かは忘我の境地に入っていた。ニティヤゴパールの胸は感情の高潮で赤みがさしており、ラカールは法悦状態に入り、完全に外界の意識を失って床に横たわっていた。師はラカールの胸に手を置いて、「シャーンティ」とおっしゃった。これは、ラカールの法悦状態の最初の経験であった。彼は父と共にカルカッタに住み、ときどきドッキネッショルに師をおたずねしていた。この頃にはしばらくの間、シャーンプクルのヴィッダシャーゴルの学校で学んでいた。
 音楽がすむと、信者たちは座って食事をした。バララームはまるで召使いのように、謙虚な様子でそこに立っていた。誰も、彼をこの家の主人とは思わなかっただろう。Mはまだドッキネッショルでナレンドラと会っただけで、信者たちとはなじみがなかった。


 数日後に、Mは師をドッキネッショルに訪れた。午後四時と五時の間であった。師と彼とは、シヴァの聖堂の階段に腰をかけていた。中庭の向こうのラーダーカーンタの聖堂を眺めながら、師は忘我の状態にお入りになった。
 甥のリドイが寺を解雇されてから、シュリー・ラーマクリシュナは侍者無しで暮らしておられた。しばしば霊的状態にお入りになるため、彼はほとんど自分で身の回りの用事はおできにならなかった。侍者がいないのはたいそう不便であった。
 シュリー・ラーマクリシュナは、宇宙の母なる神カーリーに話しかけておられた。彼はおっしゃった。

「母よ、誰も彼もが『私の時計だけが正確だ』と言います。キリスト教徒、ブラフモたち、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、皆が言います。『私の宗教だけが本物だ』と。しかし母よ、本当は誰の時計も正しくありません。誰があなたを真に理解することなどできましょう。しかしもし人が渇仰の心であなたにお願いをするならば、あなたの恩寵によって、どの道を通ってでもあなたに到達することができるのです。母よ、いつか私に、クリスチャンが教会であなたにどのようにお祈りするのか見せてください。しかし母よ、もし私が入っていったら人々はなんと言うでしょうか。もし彼らが大騒ぎをしたら、もし彼らが再びカーリー聖堂に入ることを私に許さなかったら。まあ、それなら私に、教会の扉のところからキリスト教の礼拝を見せてください。」


 またある日、師は例の光り輝く顔つきで、自室の小さい方のベッドに座っておられた。Mはカーリクリシュナと共に到着した。この人は、友人のMが自分をどこに連れて行くのか知らなかったのである。「もし君が居酒屋を見たいと思うなら、僕と一緒に来たまえ。そこに一個の巨大な酒壺を見るだろう」とだけ聞かされたのだ。
 Mはシュリー・ラーマクリシュナにこのことを話し、師はそれを聞いてお笑いになった。師はおっしゃった。

「礼拝と神との交流の至福は、本当の酒、忘我の愛の酒だ。
 人生の目標は、神を愛することである。
 バクティは、唯一不可欠のものでる。ジュニャーナと推理によって神を知ることは、この上もなく難しい。」

 それから師はお歌いになった。


 母カーリーが何であられるか、誰が理解できよう。
 六派の哲学さえ、彼女を示す力はない・・・・・・


 師はまたおっしゃった。

「人生の唯一の目標は、神への愛、ヴリンダーヴァンの乳搾りの乙女たちや、牛飼いや牧童たちがクリシュナに対して抱いた愛を養うことだ。クリシュナがマトゥラーに行ってしまったとき、牛飼いたちは彼との別れを悲しんで激しく泣きながらさまよい歩いた。」

 こう言うと、師は眼を上に向けて、お歌いになった。


 たった今、私は子牛を抱いた若い牛飼いを見た。
 彼はそこに、若木の枝をつかんで立っていた。
 「あなたはどこにいる、兄弟カナイ(クリシュナの若き日の愛称)!」と彼は叫んだ。
 しかし「カナイ」と言えず、「カ」で声は消えた。
 「あなたはどこにいる」と叫ぶと、
 彼の目には涙があふれた。


 愛に満ちた師のこの歌を聴くと、Mも涙を催した。
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スワミ・トゥリヤーナンダの書簡集(31)

2015-03-26 17:56:50 | 経典の言葉・聖者の言葉


                               1913年4月14日
                               デラ・ダンにて

 親愛なるXへ

 あなたの健康がすぐれないと聞いて、案じています。治療を受けているにもかかわらず、結果が出ない――まさにそれが不満の原因です。

 しかし、あなたは自分のサーダナーを続けるべきです。体が病気であろうと健康であろうと、主の御名を繰り返し唱えることを忘れたり、無視しないようにしてください。
 師はよくこうおっしゃっていました。
「肉体と痛みとは仲良くさせておけ。わたしの心よ、お前は至福であれ!」 
 至福の主をけっして忘れないようにしてください。健康になってから神を呼ぼうと思う者は、けっしてうまくいきません。
 大聖者ヴィヤーサはこうおっしゃっています。
「人生の問題が解決した後に神のことを考えようと思う者は、波がおさまったら海で沐浴しようと思う馬鹿者のようなものである。」 海の波はけっしておさまることはありません。荒れた海に飛び込む者だけが、沐浴することができるのです。
 同様に、幸と不幸、病気や悲嘆、苦しみや貧困の真っ只中でサーダナーを行なうことのできる者――彼が完成を得るのです。反対に、良い時期が来たらサーダナーを行なおうと思う者は、うまく行かないでしょう。完全に良い条件を得られるほど幸運な人は、この世にはごくわずかしかいません。病気、悲嘆、苦しみ、そして不安は、人生において常に伴うものです。あなたがどんな状況であっても、神に呼びかけてください。さもなければ、霊性の生活において進歩することはひどく難しいでしょう。

                                最高の願いを込めて、
                                トゥリヤーナンダ 
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ヴェーダーンタの実践(11)

2015-03-26 08:13:13 | 経典の言葉・聖者の言葉

12、あなたの前にはマンゴーの木がある。
 それには名前がある。
 それは幹、枝、小枝、葉、花、果物などからなっている。
 それらの様相は、ごく普通の眼にとって見えているだけであり、普通の人間に見えているだけのものである。
 それらは二つの様相(幻影である名前と形)によって完全に陣取られ、魅せられているだけである。
 マンゴーの木の背後にある真理に気づいていないのだ。

 それらの二つの様相に加えて、三つの他の様相がある。
 マンゴーの木は「在る」、つまり存在している
 これは「サット」の様相である。
 それは「輝いている」。
 あなたは眼の前にマンゴーの木が立っているのを理解している。
 それはあなたの感覚と心によって認識される。
 これがチットの様相である。
 木の存在はあなたに喜びを与えてくれる。
 これはアーナンダの様相である。
 さあ、その木を切り倒し、それを板にしなさい。
 その場合にも、サット・チット・アーナンダはその板の中に存在している。
 その板は「在る」、つまり、存在する。
 それは輝いている。
 それを知りなさい。
 それはあなたに喜びを与えてくれる。
 あなたはそれで椅子やベンチなどを作ることができる。
 さあ、その板を火にくべよう。
 それは灰になる。
 その場合にも、サット・チット・アーナンダはその灰の中に存在している。
 その灰は「在る」、つまり、存在する。
 その灰は輝いている。
 それを知りなさい。
 それはあなたに喜びを与えてくれる。
 それはさまざまな目的に使われる。
 そのように、名前と形は変化するのだと知りなさい。しかし、サット・チット・アーナンダは永遠に変わらない。
 それは真理である。

 あらゆる形はそれ自体サット・チット・アーナンダである。
 形は異なっているが、背後にある本質はあらゆる形において同じである。
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第二回(16)

2015-03-26 08:02:20 | 勉強会より抜粋


 はい、そして「一切の後悔を捨てる力」。これは二つ意味があります。一つは、いわゆる日本のことわざでも言うように「後悔先に立たず」っていうように、つまり後悔するようなことはしないと。
 わたし昔――昔って中学生とかのときね。小説の宮本武蔵が好きで、よく読んでたんだけど。今、漫画で流行ってるみたいだけど。
 そうだな――わたしね、ちょっと話長くなるからあんまり言わないけども、わたしヨーガ修行始めたひとつの一因は、宮本武蔵にあるといってもいい(笑)。ちょっと簡単に言うとね、わたし宮本武蔵読んですごく感動して、わたしすぐに投影しちゃうんだね。没入しちゃって、なんか武蔵になった気になって、で、武蔵がさ、ちょっと忘れちゃったけど、ある場面で心が道に迷ってね、で、山の中を崖とかいろんなのを登っていって、山の上とかに行ってね、神に祈る場面があります。ちょっと細かいのは忘れたけども。まあ、「われに百難を与えよ」みたいなね。「神よ、われに困難を与えたまえ」と。そういうその求道者的なシーンがあって。で、そういうのを見てとても感動して、何か武蔵になりきって、近くに一時間くらいで登れる山があるんだけど――そこは普通はね、山道があるんだけど、わざわざわたし、道じゃない山の中を、「くっ……これが修行だ」とか言って、こう登っていって、一番てっぺんに着いて、祈ったわけですね。「われに……」――まあ、そのときはわたしはヨーガとか知らなかったんだけど――「われに苦しみを与えたまえ」と。で、もうひとつ、「われに真理を与えたまえ」と。つまりまあ道を求めていたから、「真理を与えたまえ」ってこう願ったんだね。
 で、そのすぐあとに、この願いは実は叶ったんだね。それはどういう感じで叶ったかっていうと、いきなりそのちょっとあとに、親が引っ越してね、仕事の関係で。で、転校したと。で、転校した先でいきなりみんなからいじめられたんです。それまでは、わたしはどっちかというと学校の人気者的な感じだったから、すごいその落差があったわけですね。いきなりその転校先で、もうみんなからバーッてすごいいじめにあった。同時にそのころにヨーガに出会ったと。だからわたしは「あの祈りが叶ったんだ」と思ったね。つまりその、「苦しみを与えてくれ」っていうのと、「真理を与えてくれ」どっちも叶ったわけだね。引っ越していじめられて、で、ヨーガに出会ったと(笑)。今考えるとすごい話だね。で、それは宮本武蔵読んでからだったから、宮本武蔵にすごく感謝しなきゃいけないね。
 で、まあちょっとそれはいいとして、宮本武蔵を読んで、その宮本武蔵の言葉と言われている、いろんなその戒訓みたいなのがあって、そこにいい言葉がいっぱいあるんですね。ここでもいつも言っているような言葉もあってね。例えば「われ以外、みな我が師」とかね。「わたし以外の他人は、みんな我が師匠である」という言葉とか、あるいは――これは武蔵の言葉だったか、作者の言葉だったか忘れちゃったけど――「生涯一書生」とかね。生涯一書生っていうのは――書生っていうのは学生のことだけど。つまり「生涯、わたしは学ぶ人である」と。「わたしは生涯、学び続ける」と。「生涯、修行し続ける」っていうことですね。
 で、その中のひとつの言葉として「われ、事において後悔せず」って言葉があるんだね。これもまあいろんな解釈があるけども、つまり後悔しない生き方をするってことです。つまり、悪いことやっちゃって「まあ、後悔しないか」っていうのじゃなくて、何かをやるときに「さあ、これをやって後悔しないか」、あるいは「やらないで後悔しないか」。「絶対あとで後悔しない、瞬間瞬間の生き方をするぞ」っていう真剣な心持ちで、瞬間瞬間を生きるんです。で、あとで絶対後悔しないと。後悔しないっていうのは失敗しないっていう意味じゃないよ。「絶対後悔しないぞ」っていう道でいったら、失敗しても後悔はないから。それくらいの真剣さで生きるっていうことですね。それがひとつの意味。
 で、もうひとつの意味はそうじゃなくて、意味のない後悔はしないっていうこと。つまり反省はいいんだけども、例えば過去にやってしまった悪いことをいつまでもグダグダと「あんなことやらなきゃよかったな……」とか。これは悪い後悔だからね。こういうのはもちろんしてはいけない。すべてはカルマであって、もちろん過ぎ去ったことは、もう過ぎ去ったことであると。これからはもちろん、われわれは反省の材料として、正しい道を歩まなきゃいけないわけだけど、終わったことにグダグダ後悔しててもしょうがない。そういう意味もありますね。
 
 はい、今日はまたなんていうかな……五項目だけで終わってしまった(笑)。


(一同笑)


 今日は結構いくかなって思ってたけど、あまり進みませんでしたね。
 はい、じゃあ最後に何か質問があったら質問聞いて終わりにしましょう。全体的に何か質問ある人いますか? 特にないかな? 

 じゃあ、なかったら終わりましょう。


(一同)ありがとうございました。
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