ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

ヴェーダーンタの実践(4)

2015-02-28 20:20:00 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎主を思う(世界は虚しさに満ちている)

 シュリ―・ラーマ等の聖なる御名を思いなさい。
 神を思え。すべての世俗、性的な快楽、そしてその他のすべての行為を放棄せよ。
 ダマ(ルピーの十六分の一のアナのさらに二十分の一の価値の金額)をも持ってはいけない。ただ誰かからもらったものだけを持つだけである。
 時はスピーディーに過ぎ去っていく。


 兄弟、友達、親類、そして家族は皆、あなたが生きている限り、あなたと関わっている。
「あなたは誰のものなのか?」
「誰があなたのものなのか?」
 いったい誰の力のもとであなたは、シュリー・ハリの御名を忘れたのだ!
 時はスピーディーに過ぎ去っていく。


 あなたはすでに840万種類の動物界を彷徨ってきた。
 人間の身体を得たことは、あなたにとって非常に幸運だ。
 にもかかわらず、あなたは来世のために何も為さなかった。
 ゆえに、あなたはそれを後悔することとなろう。
 時はスピーディーに過ぎ去っていく。


 もしあなたが外的対象を追い求めて世俗の楽しみに従事するならば、ああ、愚か者よ! あなたはいわゆる死の手中に巻き込まれ、身動きが取れなくなる。
 そしてあなたは再び呼吸をしようと望む。
 しかし覚えておきなさい。消えたものは永遠に消えたままだ。
 去っていったものは二度と戻らない。
 時はスピーディーに過ぎ去っていく。


オーム・タット・サット!
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ジャータカ・マーラー(9)「ヴィシュヴァンタラ王子」⑤

2015-02-27 18:34:25 | 経典の言葉・聖者の言葉


 さてある時、マドリー妃が木の根や果実を求めて出かけた時、ヴィシュヴァンタラ王子は二人の子を保護するために住居にいました。
 するとそこへ、疲れやせた顔をした一人のブラーフマナがやってきました。菩薩は、久しぶりに托鉢者が来るのを見て、歓喜の心から目も顔も輝きを増して、出迎えて歓迎の優しい言葉をかけた後で、来訪の目的を尋ねました。
 するとブラーフマナは、妻を愛するが故に、恥も外聞も捨てて、次のように言いました。

「私は妻から、召使を見つけてくるように、きつく言われてきました。
 布施の勇気より生じたあなたの輝かしい名声は、余すところなく知られています。
 それゆえ、恥を知りつつも、私はあえてお願いします。あなたの二人の子供を、召使として私にください。」

 こう言われて菩薩は、
「愛するわが子を二人とも差し上げよう。」
と答えました。

 しかし、自分たちが連れて行かれることを知って目に涙を浮かべた二人の子を見ると、ヴィシュヴァンタラ王子は彼らへの愛の衝動で心沈み、こう言いました。

「この二人はお前に差し上げよう。しかし今、この二人の母は、森に木の根や果実をとりに出かけている。夕暮れには戻るでしょう。
 母が子供たちに花飾りをつけ、着飾った子供たちにキスをしたうえで、ここで一晩休息し、明日、お前は私の子供たちを連れていくがよい。」
 
 しかしブラーフマナは言いました。
「あなたはそんなに執着するのはやめなさい。
 女をあらわす『ヴァーマ』という言葉は、『扱いにくい者』という隠喩を持つ。
 よって、あなたの妻は、あなたの布施の障害になるだろう。だから私は、彼女を待ちたくない。」

 菩薩は答えて言いました。
「彼女が布施の障害となると懸念するのをやめよ。彼女は私とおなじ義務を分担する者なのだから。
 しかし、お前の好きなようにするがよい。
 ところでブラーフマナよ。この私の子供たちは、全く幼稚で、召使の仕事についても経験もないのだが、どのようにしてお前に満足をもたらすことができるだろうか。
 しかしもし私の父であるシビ族の王が、このような状態にある二人を見たら、きっとこの二人の身代金として、お前の欲しいだけの財物を与えるであろう。
 だからお前は、この二人を連れて、シビ国に行くがよい。そうすればお前は大きな財産を得るであろう。」

 ブラーフマナは言いました。
「王の所にこの二人を連れて行ったら、王は私に罰を下すかもしれない。だから王のところへは行けない。私はこの二人を召使として妻の所へ連れて行くだろう。」

 そこで菩薩は、二人の子供に、召使としての仕事を順守するように愛を持って教えました。そのとき菩薩の両目から、自然に涙が流れ出ました。



つづく
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考想存続経

2015-02-27 18:30:14 | 経典の言葉・聖者の言葉

考想存続経



 このように私は聞いた。
 あるとき世尊は、サーヴァッティのジェータ林にあるアナータピンディカ長者の園に住んでおられた。そこで世尊はビックたちに語りかけた。

「ビックたちよ。」

「尊師さま」

と、彼らビックたちは世尊に応答した。世尊はこうお説きになった。

「より優れた心を修行するビックは、五つの兆相に、時に応じて心を注ぐべきである。五つとは何か。
 ビックたちよ。ここにビックがいて、その兆相に出会って、その兆相に意を注ぐと、もろもろの悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもする思いが生起するのであれば、ビックたちよ、そのビックはその兆相とは別の、善を伴う兆相に意を注ぐべきである。そのビックがその悪い兆相とは別の、善を伴う兆相に意を注ぐならば、もろもろの悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもするそれらの思いは捨てられ、それらは消滅していく。それらを捨てると、もう内部に心が確立し、安座し、専一となって定まる。
 例えば、ビックたちよ、有能な建築家、あるいは建築家の内弟子が、精妙なくさびをもって粗雑なくさびを取り出して除きどけるように、まさに同様に、いいかね、ビックたちよ、ビックがその兆相によってその兆相に意を注ぐと、もろもろの悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもする思いが生ずるならば、ビックたちよ、そのビックは、その兆相とは別の、善を伴う兆相に意を注ぐべきである。彼がその悪い兆相とは別の、善を伴う兆相に意を注ぐならば、もろもろの悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもするそれらの思いは捨てられ、それらは消滅していく。それらを捨てると、もう内部に心が確立し、安座し、専一となって定まる。」

「ビックたちよ。もしそのビックが、その兆相とは別の、善を伴った兆相に意を注いでいるのに、悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもするもろもろの思いがまだ生起するのであれば、ビックたちよ、そのビックはそれらの思いの過患を考察すべきである。
『このようにもこれらの思いは不善である。このようにもこれらの思いは有罪である。このようにもこれらの思いは苦しみに成り果てる。』と。彼がそれらの思いの過患を考察するならば、悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもするそれらの思いは捨てられ、それらは消滅していく。それらを捨てると、もう内部に心が確立し、安座し、専一となって定まる。
 例えば、ビックたちよ、女性でも男性でも、若くて青春期にあり、身を飾ることの好きな者が、蛇の死骸や犬の死骸や人間の死体を首にぶら下げると、困惑し、持ち去らせ、厭うであろうように、まさに同様に、確かに、ビックたちよ、もしそのビックが、その兆相とは別の、善を伴った兆相に意を注いでいるのに、悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもするもろもろの思いがまだ生起するのであれば、ビックたちよ、そのビックはそれらの思いの過患を考察すべきである。 
『このようにもこれらの思いは不善である。このようにもこれらの思いは有罪である。このようにもこれらの思いは苦しみに成り果てる。』と。彼がそれらの思いの過患を考察するならば、悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもするそれらの思いは捨てられ、それらは消滅していく。それらを捨てると、もう内部に心が確立し、安座し、専一となって定まる。」

「ビックたちよ、もしそのビックがそれらのもろもろの思いの過患を考察しても、依然として悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもする思いが生起するのであれば、ビックたちよ、そのビックはそれらの思いを思念せず、意を注がないようにすべきである。彼がそれらの思いを思念せず、意を注がなくすれば、それらは捨てられ、それらは消滅していく。それらを捨てると、もう内部に心が確立し、安座し、専一となって定まる。
 例えば、ビックたちよ、眼をそなえた人が視野に入ってきた色形あるものを見たくないと欲するとしよう。彼は目を閉じるか、他のものに目をそらすだろう。まさに同様に、いいかね、ビックたちよ、もしそのビックがそれらのもろもろの不善の思いの過患を考察しても、依然として悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもする思いが生起するのであれば、ビックたちよ、そのビックはそれらの思いを思念せず、意を注がないようにすべきである。彼がそれらの思いを思念せず、意を注がなくすれば、それらは捨てられ、それらは消滅していく。それらを捨てると、もう内部に心が確立し、安座し、専一となって定まる。」

「ビックたちよ、もしそのビックがそれらの思いを思念せず、意を注がなくしていても、依然としてもろもろの悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもする思いが生起するのであれば、ビックたちよ、そのビックはそれらの不善の思いに関して、思いを作り出してとどまるものは何かということに意を注ぐべきである。彼がそれらの思いに関して、思いを作り出してとどまる者は何かということに意を注ぐと、悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもするそれらの思いは捨てられ、それらは消滅していく。それらを捨てると、もう内部に心が確立し、安座し、専一となって定まる。
 例えば、ビックたちよ、人が急いで行くとしよう。彼はこう考えるだろう。『いったい、なぜ私は急いでいくのか。さあ、私はゆっくり行くとしよう』と。彼はゆっくり行くとしよう。彼はこう考えるだろう。『いったい、なぜ私はゆっくり行くのか。さあ、私は立ち止まろう』と。彼は立ち止まるとしよう。彼はこう考えるだろう。『いったい、なぜ私は立ち止まっているのか。さあ、私は横になろう』と。彼は横になるだろう。実際、このように、ビックたちよ、その人は次第に荒っぽい行動を除去して、次第に精微な行動をなすだろう。
 まさに同様に、ビックたちよ、もしそのビックがそれらの思いを思念せず、意を注がなくしていても、依然としてもろもろの悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもする思いが生起するのであれば、ビックたちよ、そのビックはそれらの不善の思いに関して、思いを作り出してとどまるものは何かということに意を注ぐべきである。彼がそれらの思いに関して、思いを作り出してとどまる者は何かということに意を注ぐと、悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもするそれらの思いは捨てられ、それらは消滅していく。それらを捨てると、もう内部に心が確立し、安座し、専一となって定まる。」

「ビックたちよ、もしそのビックがそれらの思いに関して、思いを作り出してとどまるものに意を注いでも、依然としてもろもろの悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもする思いが生起するのであれば、ビックたちよ、そのビックは、歯を食いしばって、舌をもって上あごを抑え、心をもって心を強く抑え込むべきであり、強く圧迫すべきであり、強く苦しめるべきである。彼が歯を食いしばり、舌をもって上あごを抑え、心をもって心を強く抑え込み、強く圧迫し、強く苦しめるならば、およそ悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもするそれらの思いは捨てられ、それらは消滅していく。それらを捨てると、もう内部に心が確立し、安座し、専一となって定まる。
 例えば、ビックたちよ、力持ちの人がいて、より力の弱い人の頭をつかみ、あるいは肩をつかんで、強く抑え込み、強く圧迫し、強く苦しめるようなものである。まさに同様に、ビックたちよ、もしそのビックがそれらの思いに関して、思いを作り出してとどまるものに意を注いでも、依然としてもろもろの悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもする思いが生起するのであれば、ビックたちよ、そのビックは、歯を食いしばって、舌をもって上あごを抑え、心をもって心を強く抑え込むべきであり、強く圧迫すべきであり、強く苦しめるべきである。彼が歯を食いしばり、舌をもって上あごを抑え、心をもって心を強く抑え込み、強く圧迫し、強く苦しめるならば、およそ悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもするそれらの思いは捨てられ、それらは消滅していく。それらを捨てると、もう内部に心が確立し、安座し、専一となって定まる。」

「いいかね、ビックたちよ。ビックがいて、およそその兆相に出会って、その兆相に意を注ぐと、もろもろの悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもする思いが生起するので、彼がその兆相とは別の、善を伴う兆相に意を注ぐと、もろもろの悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもするそれらの思いは捨てられ、それらは消滅していく。それらを捨てると、もう内部に心が確立し、安座し、専一となって定まる。
 それらの思いの過患を考察しても、もろもろの悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもするそれらの思いは捨てられ、それらは消滅していく。それらを捨てると、もう内部に心が確立し、安座し、専一となって定まる。
 それらの思いを思念せず、意を注がなくしても、もろもろの悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもするそれらの思いは捨てられ、それらは消滅していく。それらを捨てると、もう内部に心が確立し、安座し、専一となって定まる。
 それらの思いに関して、思いを作り出してとどまるものはなにかということに意を注いでも、もろもろの悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもするそれらの思いは捨てられ、それらは消滅していく。それらを捨てると、もう内部に心が確立し、安座し、専一となって定まる。
 歯を食いしばり、舌をもって上あごを抑え、心をもって心を強く抑え込み、強く圧迫し、強く苦しめると、もろもろの悪い、不善の、欲を伴いもし、嫌悪を伴いもし、迷妄を伴いもするそれらの思いは捨てられ、それらは消滅していく。それらを捨てると、もう内部に心が確立し、安座し、専一となって定まる。
 ビックたちよ、このビックはもろもろの思いが成りゆく道に関して自在者である、といわれる。およそ望む思いであればその思いを思い、望まない思いであればその思いを思わないであろう。渇愛を断ち切って除去し、正しく自我意識を止滅させて、苦しみを終わらせた。」と。

 このように世尊はお説きになった。意を得た彼らビックたちは、世尊が述べたことに大いに歓喜した。


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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第117話」

2015-02-27 11:57:17 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第117話」です。
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ヴェーダーンタの実践(3)

2015-02-27 10:24:40 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎サードゥの為すべきこと

 真理(絶対なるもの)を思い、他者にそれを思い出させること――それのみがサードゥの為すべきこと。

 全世界の導き手となること、それのみがサードゥの為すべきこと。
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わが誠の

2015-02-27 08:19:02 | 松川先生のお話


人を相手とせず、天を相手とせよ。

天を相手として己を尽くし、人をとがめず、わが誠の足らざるを尋ぬべし。



西郷隆盛


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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第二回」(8)

2015-02-27 07:31:43 | 勉強会より抜粋


 はい、三番目が「菩提心をあきらめない力」。まあ、これは読んだこの通りですが、菩提心っていうのは、もう一回正確に定義すると、衆生のために――つまり、「多くの生命、生き物たちのために、彼らを救うために、わたしは仏陀になるぞ!」っていう強い決意のことです、菩提心っていうのはね。
 もう一回言うと、つまりこれも何度も言っているけどね、慈悲の心によって世界を見渡すと、多くの人が苦しんでいると。
 これはね、みんなもそういうことをよく考えたことあるかもしれない。自分の話から、だんだんそれを広げていっていいんだけどね。わたしはよく昔から何度も言うように、「人生ってなんだろう?」っていうことを子供のころからよく考えていた。「なんでわたしは生まれてきたんだろう?」と。「人生とは一体なんの意味があるんだろう?」と。ね。何か社会を見渡して分析しても、なんかやっぱり苦が多いし、なんか、なんのために生きているのかよく分からないと。で、そこを追及すると、本当に、なんていうかな――そこをね、楽観的に「こういう意味があるんだよ」って思いこんではいけない。あるいは逆にニヒリズム的に「いや、すべては意味がないんだ。だからわたしは何をやってもいいんだ」ってなってもいけない。そうじゃなくて、そこでもちろん教えが必要なんですね。
 だから皆さんっていうのは、本当にものすごくね、徳があるし、あるいは真理と縁がある人なんだね。多くの人はまずあまりの苦しさに、自分が苦しいっていうことも気付いていない。で、二番目の人は「あれ? ちょっと苦しいんじゃない? この世って……」って気付いてくる。しかし「だからどうすりゃいいんだ」って全く分からない。で、皆さんみたいに徳のある人は、その教えっていうエッセンスが、パッと目の前に与えられるわけですね。で、それによってその意味が、自分がここにいる意味が、だんだん分かってくる。つまり、この世は本当にごまかしちゃいけないと。この世は本当に苦だと。それはわれわれが心にけがれがあるから、われわれが心に悪いカルマがいっぱいあって、心のけがれがいっぱいあるから、今このような苦の世界に結び付けられているんだと。
 ここから根本的にわたしがですよ、まずはわたしが、わたしが幸福になるには――ちょっとね、その、つまりいつも言うけども、これも今日は新しい人が多いからもう一回言うとね――われわれがこの世で「幸福だ」って勘違いしているのは、たとえ話で言うと、皮膚病になった男が、その皮膚病のかゆいところをかいて気持ちいいって言っているのと同じです。ね。皮膚病っていうのは……これはたとえだけど、皮膚病っていうのはかかない方がいい。なんでかっていうと、かかない方が治る。だから、医者は「かくな」って言うわけです。「かいちゃいけませんよ」と。「かかないでこの薬を塗りなさい」と。「決してかいてはいけません」と。でも、馬鹿な患者はかくわけです。「なんでかくなって言ったのにかくんですか?」と。「だって気持ちいいじゃないですか」と。「おれはこの気持ちよさを、やめろと言われてもやめられない」と。「だから絶対かきます」と。ね。これを、こういうことを何万年、何十億年と続けているが故に、われわれは今、わけが分からなくなっています。この皮膚病をかいて生じる気持ち良さを、われわれは今追い求めているんです。しかしここで仏陀が現われて、言うわけです。「ちょっとあなた、待ちなさい」と。「それよりも皮膚病治った方が良くない?」と。ね(笑)。「皮膚病治った爽快なのの方がいいですよね、もともと」と。「で、どっちとりますか?」と。
 もちろん、われわれは今、そのたとえ話を聞いたら、「いや、それは最初から皮膚病がない方がいいよ」って分かっている。でもわれわれは、それが分からないような状態になっているんだね。つまり、われわれの魂の、あらゆるけがれから解放された状態が最高なわけだけども、今われわれはそのけがれという病、煩悩という病にかかっているんだね。で、煩悩っていう病をかくっていう行為――つまり、その煩悩を満足させるっていう行為が、わたしにとっての至上の喜びであると勘違いしてしまっている。でもお釈迦様をはじめ聖者方は、「そうじゃないんだよ」と。「それは多くの過失があるよ」と。「多くの罠があるよ」と。「それによってあなたの苦しみは、より悲惨になるよ」と。つまり、皮膚病をかいちゃうことによって、よりその病が悪化するように、「あなたが心に生じたその煩悩という病を満たしてしまうと、さらにそこから多くの苦が生まれますよ」と。でも、それもよく分からないほど、われわれはそこに埋没してしまっている。
 で、教えと縁があって、それに気付いたわれわれは、まずは自分がそれから救われたいと思う。「そうか、わたしが本当に幸福になるのは、そのような錯覚から救われて、真の智慧を得るしかないんだな」と。まあ言ってみれば「悟りを得るしかない」と。気付き始めて頑張り始めるわけだけど、頑張り始めた段階でふと周りを見渡すと――つまり、わたしと変わりない多くの人間たち、あるいは人間以外の生き物たち、いろんな世界にいる生き物たちが、同様にこの、どうしようもない病の中で苦しんでいるっていうのが分かってくるわけですね。
 で、そこに「ああ、本当にもうかわいそうだ」と。「もう、なんとかしてやりたい」――わたしは今、教えとか修行と出会ったから――つまりそのどうしようもない地獄の流れの中から、ちょっと岸に手がかかったような感じです。もうこれは、頑張れば救われる。自分の頑張り次第でなんとかここからグーッてはい上がれる、っていうことがもうわたしには確定していると。しかし周りを見ると、誰もその岸に近づいている者がいないと。それどころか、自分が地獄で溺れていることすら知らない人がたくさんいると。で、これに対して憐みが出るわけですね。「なんとかしてあげたい」と。「なんとかみんなを救いたい」と。
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今日のAMRITAチャンネル「賛歌・イメージビデオ」

2015-02-26 22:55:29 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAmritaチャンネルは、「賛歌・イメージビデオ」です。



曲目

1.ジェイジェイマードゥルガー
2.チャイタニヤ・チャイタニヤ
3.ハヌマーンチャリサ
4.Rama-Christians
5.シッダールタ
6.サマーディシーターラーム
7.ホーリーマザー
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「ドゥルヨーダナの悪意」

2015-02-26 10:49:17 | 経典の言葉・聖者の言葉

(9)ドゥルヨーダナの悪意


 バーラタ族について、ここまで出てきたことをもう一度まとめてみましょう。

 シャーンタヌ王はガンガー女神との間に八人の子供を作りました。そのうち七人はガンガー女神が殺して天界に解放しましたが、最後の一人だけ、人間界に残ることになりました。それが天人の生まれ変わりであるビーシュマでした。

 ガンガー女神が去ったあと、シャーンタヌ王はサティヤヴァティーと結婚し、二人の息子をつくりました。その後、シャーンタヌ王は死に、その長男も死に、次男のヴィチットラヴィーリヤが残されました。

 ビーシュマは、生涯独身で純潔を守るという誓いを立て、それを守っていました。

 ビーシュマは、異母弟のヴィチットラヴィーリヤの妻として、カーシー国の王女である三姉妹を連れてきました。しかしその内の一人であるアンバーは、もろもろの行き違いにより、ヴィチットラヴィーリヤから拒絶され、また他の誰も貰い手がいなくなりました。ビーシュマを逆恨みしたアンバーは、復讐を誓って、シカンディンという女性に生まれ変わりました。シカンディンは後に苦行によって男性になりました。

 ヴィチットラヴィーリヤはアンビカーとアンバーリカーと結婚し、アンバーリカーは、パーンドゥという息子を産みました。ヴィチットラヴィーリヤの死後、パーンドゥが王になり、クンティーとマードリーという二人の女性を后としました。
 しかしあるときパーンドゥ王はキンダマに呪いをかけられ、妻とセックスをすることができなくなってしまいました。
 クンティー妃は、神の子を授かるマントラを心得ていたので、それを使って、性行為をすることなく、ユディシュティラ、ビーマ、アルジュナという三人の「神の子」を産みました。
 マードリー妃も同様のマントラを使って、ナクラとサハデーヴァという二人の「神の子」を産みました。
 その後、パーンドゥ王とマードリー妃が亡くなったため、クンティー妃がこの五人の王子を育てることになりました。

 ヴィヤーサ仙人により、この一族に降りかかる将来の不運を聞かされたため、年老いたサティヤヴァティーと、アンビカーとアンバーリカーの三人は、現世を引退し、森に入り、苦行し、至福の境地に至りました。


 ここまでが、前回までのまとめの話です。
 さて、ヴィチットラヴィーリヤの二人の妻のうち、アンバーリカーの息子のパーンドゥについてはすでに説明したとおりですが、もう一人の妻、アンビカーの息子について、これからお話しましょう。

 アンビカーの息子は生まれつき盲目で、ドリタラーシュトラといいました。
 ドリタラーシュトラは、ガンダーリーという妻をもらいました。ガンダーリー妃はとても誠実で純粋な女性で、夫への契りの印として、自ら布で自分の眼を覆い、盲目の夫と同じように、自分も一生、眼をつぶって生きたのでした。 

 ガンダーリー妃はあるとき、ドリタラーシュトラの子を身ごもったのですが、二年間もの間、子供は生まれませんでした。そしてやっと生まれ出てきたのは赤子ではなく、鉄のように固い肉の塊でした。
 ガンダーリー妃は最初それを捨てようとしましたが、そこへヴィヤーサ仙人が現われ、その肉の塊に、冷たい水を注がせました。するとその塊は、100個の小さな塊に分かれました。ヴィヤーサ仙人は、その100個の肉の塊を、ギーを満たした壷に入れて保管させました。するとやがて、それらの肉の塊から、100人の子供たちが産まれたのでした。

 長男のドゥルヨーダナが肉の塊から生まれたとき、さまざまな不吉な現象が起きたので、賢者や側近たちは、ドリタラーシュトラに、その子を捨てるようにと助言しました。しかしドリタラーシュトラは父親としての情愛から、ドゥルヨーダナを捨てずに、長男としてかわいがって育てました。

 このドリタラーシュトラと百人の息子たちからなる家族は「クル族」、そしてパーンドゥ王の五人の息子たちの系統の家族は「パーンドゥ族」と呼ばれるようになりました。



 さて、このようにして生まれたドリタラーシュトラの百人の息子と、パーンドゥ王の五人の息子たちは、ともにハスティナープラの都で、楽しく少年時代を過ごしました。
 しかしパーンドゥ王の息子の一人、風神ヴァーユの子であるビーマは、性格も力も非常に強かったので、いつもクル族の100人の王子たちを、いじめたりいたずらしたりして楽しんでいました。そのため、クル族の王子たち、特に長男のドゥルヨーダナは、パーンドゥの五兄弟、特にビーマに対して、恨みの心を募らせていきました。

 
 やがてクル族の王子たちとパーンドゥ族の王子たちが成長してくると、クル族の長兄のドゥルヨーダナは、ある心配をするようになりました。
 もともと、王であったヴィチットラヴィーリヤの跡継ぎにはドリタラーシュトラとパーンドゥという二人の王子がいたわけですが、ドリタラーシュトラは生まれつき盲目だったので、必然的にパーンドゥが王権を次ぎました。そしてそのパーンドゥはもう死んでしまいましたが、流れからいって必然的に、パーンドゥ王の息子たちが成長したら、その長兄であるユディシュティラが王になる可能性が高いと思われていました。
 しかしパーンドゥ兄弟に恨みを抱くドゥルヨーダナはそれが許せず、ドリタラーシュトラの長兄である自分こそが王になりたいと思っていました。

 そこでドゥルヨーダナは、まずパーンドゥの次男のビーマを殺そうと考えました。ビーマは飛びぬけた強者なので、ビーマを殺せば、パーンドゥ族の勢力も衰えるだろうと思ったのです。また、小さいころからビーマにいじめられていた恨みもありました。
 ドゥルヨーダナと兄弟たちは、まずビーマを殺し、そしてユディシュティラとアルジュナを牢につないで、王国を手に入れるという計画を立てました。

 あるとき、クル族とパーンドゥ族の兄弟たちは、みんなでガンジス河に泳ぎに行きました。
 たくさん泳いだあと、ビーマは疲労し、また彼の食物には毒が入れてあったので、河の土手で眠ってしまいました。
 ドゥルヨーダナは、完全に眠り込んでいるビーマの体を蔓でぐるぐる巻きにし、ガンジス河に投げ込みました。しかもその投げ込んだ地点には、事前に先のとがった釘を川底に置いておきました。またそこは、恐ろしい毒を持った河蛇がいるところでもありました。
 ビーマはそこに投げ込まれたのですが、運良く川底の釘はビーマの体を外れ、刺さることはありませんでした。また、河蛇がビーマの体をかんだのですが、その毒によって、かえって食物を食べて体に入っていた毒が中和され、ビーマは何の害も受けませんでした。そしてやがて河の流れが、ビーマを自然に土手に打ち上げました。

 ドゥルヨーダナは、毒蛇と釘に満ちた場所にビーマを落とすことに成功したので、ビーマは死んだに違いないと思い込み、他の兄弟たちとともに、大喜びで町へ帰っていきました。

 ビーマがなかなか家に帰ってこないので、パーンドゥの兄弟たちはくまなく探しましたが、見つかりませんでした。しかしやがて目覚めたビーマは、一人で家に帰ってきました。全身に回ってそして中和された毒の力によって、ビーマの体は以前よりさらに強くなりました。

 事の成り行きの真相を知ったクンティーは、賢者ヴィドラにこっそりと告げました。
「ドゥルヨーダナは邪悪で冷酷な性質を持っています。彼は自分が王国を支配したいあまりに、ビーマを殺そうとしています。私は心配でなりません。」

 ヴィドラは答えました。
「あなたのおっしゃるとおりです。でもどうかこのことは、あなたの胸にしまっておいてください。なぜなら、心の曲がったドゥルヨーダナがもし非難されたり罪を負わせられたりしたら、彼の怒りや憎しみはよりいっそう高まってしまうことでしょう。
 神の子であるあなたの息子さんたちには、もともと長寿が約束されています。ですからそのことで、あまりご心配なさらなくても良いと思いますよ。」

 ユディシュティラも、ビーマにこう忠告しました。
「今回のことは黙っていなさい。しかし今後、われわれ兄弟は注意を怠ることなく、互いに助け合って、自らを守っていかなければなりません。」

 
 ドゥルヨーダナは、確実に殺したと思ったビーマが生きて帰ってきたのを知って驚き、悲しみに打ちひしがれて憔悴しました。そして彼のパーンドゥ族に対する憎しみは、さらに募っていったのでした。
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完璧な自由

2015-02-26 10:18:02 | 経典の言葉・聖者の言葉


 実のところ、作用しているのは常に高次の力だ。「自分の」努力や熱望という私たちの感覚は、利己的な心が間違った不完全なやり方で、自分を心的な力の働きと同一視しようとするところから来る。それは人知を超えた局面の経験にまで、世間の通常の経験に適用される通常の心性の条件を当てはめようとする。
 世間では、私たちは利己的な感覚で活動している。私たちの中で働いている普遍的な力を自分のものだと主張している。私たちはこの心、生命、肉体の枠組みの中の『超越者』の、選択し、形成し、向上しようとする働きを、自分の個人的な意志、知恵、力、長所のなせる業だと主張している。
 『啓発』は私たちに、自我は道具にすぎないという叡智をもたらす。私たちはこれらのものが、自我という道具のものではなくて、私たちの至高の統合された自己に属し、『超越者』と一体であるという意味で、自分自身のものであることに気づき、感じるようになる。私たちは限界と歪曲という点で、その活動に貢献しているにすぎない。その中の本当の力は神のものだ。
 人間の自我が、自分の意志は道具であり、その知恵は迷妄と幼稚さであり、その力は赤子の手さぐりであり、その美徳は偽装したけがれであることに気づき、自分を超越したものに自分をゆだねることを学んだとき、それは救済となる。
 私たちがこれほど深く執着している、自らの人格的な存在の表面的な自由や自己主張は、そのちっぽけな人格の外側にあるものと私たちが見なす、数々の暗示、刺激、力への最も哀れむべき従属を隠し持っている。私たちの自我は、その自由を自慢するあらゆる瞬間にも、普遍的自然の無数の存在、力、勢力、影響力の、奴隷、おもちゃ、操り人形になっている。
 自我の、神の下での自己放棄は、その自己成就だ。自分を超越したものに明け渡すことは、自らの束縛と限界からの解放であり、完璧な自由をもたらす。


 ――オーロビンド・ゴーシュ
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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第二回(7)

2015-02-26 09:26:41 | 勉強会より抜粋


 あともうひとつ、これも有名な話で、これはあの……ナーグ・マハーシャヤの話だったかな? 誰の話だっけ? 盗賊に連れてかれた話。あれ、誰の話だっけ? 盗賊に連れてかれた話って覚えてない?


(T)ああ、覚えてます。


 覚えてる? あれ、誰の話だっけ?


(T)ラーマクリシュナが……


 ラーマクリシュナが言った話だっけ?


(T)言った話……ナーグの話ではないと思います。


 ナーグのじゃないか。じゃあまあ、ちょっと名前は知らないけどある人の話として、ものすごく純粋なね、信を持ち、かつ非常に心の綺麗な人がいたと。で、その人はまあ……


(T)思し召しの男……


 ん? そう、思し召しの男(笑)。


(一同笑)


 常にその、「すべては神の思し召しである」っていうそのことを言っている男があったんですね(笑)。もうこれ、言っただけでみんな「ああ、あの話か」って(笑)。


(一同笑)


 常連の人はね。
 その男は非常に正直者でね――いつも布か何か売ってたのかな?――インドって商売ですごくだましたりするわけだけど、その人はそういうだましたりもしないと。で、本当に与えられたものだけで生きていたと。で、あるときそこに、その男が商売が終わって、ちょっとこう夜ね、ひと休みしてたら――まあ食事を終えてね、ひと休みをしてたら、盗賊の一団がやってきたと。盗賊の一団がやってきて、で、その正直者の男を「ちょっと人手が足りないから」と言って、さらってっちゃったんだね。自分たちの仲間にするためにさらっていった。で、さらっていってみんなでお金持ちの家に押し入って、お金持ちのいろんな金品を強奪してね。で、その正直者の男にも、「おまえ、これも運べ!」って言って頭に金品を乗せさせたと。そしたら、ちょうど警察がやってきてしまったんだね。警察がやってきて、みんなワーッて逃げていったんだけど、その正直者の男だけが頭に金品を乗せて立っていた(笑)。で、警察に捕まっちゃったんだね。しかしそれを知った村人たちは、「あの男が強盗で捕まったらしい」と。みんなそれを信じなかったんだね。「いや、そんなはずがない」と。「あんな正直者の純粋な男が、そんなことをするわけがない」と。「だから何かの間違いだろうから、ちゃんと調べてください」って警察署長に言ったわけですね。それを聞いた警察署長は、その男に事情聴取にいったわけですね。「お前は悪いようにはしないから、昨日のことを全部正直に話せ」って言ったんですね。そしたらその男が言うには、「はい、署長さま」と。「わたしは昨日、神の思し召しにより仕事を無事終え、神の思し召しにより美味しい食事を頂き、神の思し召しによりそのあと、たたずんでおりました」と。「そしたら神の思し召しにより強盗がやってきて、神の思し召しにより連れ去られました」と(笑)。で、「神の思し召しにより、強盗たちに自分の頭に金品を乗せられて、神の思し召しにより警察がやってきて、神の思し召しによりわたしは逮捕されました」と。で、「神の思し召しにより、今あなたとこう話しているんです」っていう話をしたんだね(笑)。で、これを聞いた署長は、「あ、こいつは本当に純粋な信仰者だ」と見て、その男を釈放したわけですね。で、その男が釈放されたあとに「ああ、神の思し召しにより釈放された」と言ってたと(笑)。
 つまり、この人にとってはすべてがオールオッケーと。「すべてが神の愛だ」っていう考えなんだね。これくらいの投げ出した心っていうか、すべてを信じる心がなきゃいけないんだね。
 だからこれは、さっきの「信の力」とも関わってくるけども、そういう思いで生きる。すべての――すべては神の愛なわけだけど、同時にすべてはカルマなんです。この二つっていうのは同時に存在する。だからカルマ自体が神の愛なんだけどね。神の愛によって、自分の過去の悪しきカルマが清算されてるわけですね。だから「ありがとうございます」と。
 例えば、自分の仕事が大失敗したら、「おお、神よ。本当にありがとうございます」と。「あなたは、またわたしに悪しきカルマの浄化をさせて下さったんですね」と。「もう、これでわたしの未来は本当にバラ色じゃないですか」と。ね。でも次、バラ色じゃないかもしれないよ。また苦しみがやってくるかもしれない(笑)。そしたら、「ああ、神よ」と。「こんなところまで、本当にわたしを徹底して浄化しようとして下さっているんですね」と。もちろん、幸福がやってきたらやってきたで、「ああ、本当にありがとうございます」と。「本当にわたしは、神や仏陀に見守られていて本当に幸せです」と。こういうような純粋な、純真な心ね。これによって一切の……なんていうかな、さっきから言っている、自分に自然に現われる苦しみや喜びに動じないっていうかな。堂々とそれに立ち向かっていくっていうかな。そういうような力ね、ここはね。
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ヴェーダーンタの実践(2)

2015-02-26 09:17:11 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎カイヴァリヤ(真我独存)の栄光

スワミ・シヴァーナンダ作



 シヴァの恩寵により、人は栄光なるシヴァパダを得ることができる。
 ある者はそれをモークシャ、またはニルヴァーナと呼ぶ。
 またある者は、それをトゥリヤー、またはカイヴァリヤと称し
 またある者は、それをサハジャ、またはスワルーパと名付けた。


 ここには東も西もなく
 ここには太陽は昇ることなく、沈むこともない。
 ここには昼も夜もない。
 それは気高く、何にも影響されない「光の中の光」。


 一切の論争や争いはここで終わり、
 一切の疑念や迷妄は消え去る。
 一切の不幸と悲しみは溶け去り、
 純粋なる至福と叡智だけが存在する。 


 空腹も喉の渇きも、ここでは苦しめず
 熱さも寒さも苦しめることはない。
 徳も悪徳も、善も悪も消え去った。
 ただアーナンダとチットのみが存在する。


 ここには、カーストや宗派や肌の色などという中毒は存在しない。
 大きいも小さいも、高いも低いもなく
 男や女という性別もない。
 あなたが唯一性を悟り、至るところ平等であるところには。 


 すべてのカルマは、この叡智の炎の中で溶ける。
 そこにはサンチタ、アガミ、プララブダもない。
 解脱したジーヴァンムクタは今、鳥のように自由だ。
 この揚々たる境地は、千の舌を持つアナンタさえも述べることはできない。


 自我意識、嫌悪、愛著、そして怒り
 それら四つのヴリッティは真理の中で滅び去り
 心はここでその永遠なる休息を得る。
 ジーヴァは永遠に生死から解放されている。


 その一味なる本質には内も外もない。
 その広大なる無限の至福の海の中、
 その中で古代のシャンカラ、ダッタートレーヤ、カビールは
 純粋なる至福と歓喜と共に平和に安らぐ。


 知る者、知ること、知られるものの三つ
 そして時、空間、原因の心のカテゴリーもまた
 アルーダの境地に至ると、永遠に消えてしまう。
 その中でジュニャーニは、永遠なるシャーンティと寂静に住まう。

10
 ここにはプラーナの動きもインドリヤの遊戯もない。
 厳粛で穏やかな寂静がそこを支配する。
 ブラフマンだけが、その自らの生来の栄光なる至高性の中で光り輝く。
 そしてジュニャーニだけが、純粋で稀有なる不死の甘露を飲む。

11
 アンターカラナ・サートウィクから
 強烈で不変のバーヴァナーを通じて
 稀有なる輝きブラフマカラ・ヴリッティが生じる。
 「アハム・ブラフマ・アスミ」
 これは強力で欺瞞的なアナディ・アヴィディヤーを破壊する。

12
 ヴィヴェーカ、ヴァイラーギャ、シャド・サンパトを装備し
 解脱を渇望する機知に富む求道者は
 聖なるグルのもとで聖典を学び、
 思索し、瞑想し、最終的にアヴァラカを破壊する。


 オーム オーム オーム
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ヴェーダーンタの実践(1)

2015-02-26 06:25:34 | 経典の言葉・聖者の言葉

ヴェーダーンタの実践

スワーミー・シヴァーナンダ


其の一「序文」


◎放棄の雄叫び(ヴァイラーギャ・ディンディマ)

シュリー・シャンカラーチャーリヤ作


 愛欲、怒り、貪りという泥棒は、この肉体に座す。
 この者たちは、智慧の宝石を略奪する。
 ゆえに、目覚めよ! 目覚めよ!


 生は苦しみに満ち、老いは不幸に満ち、
 妻は何度も何度も苦しみと不幸すべての源となる。
 この輪廻の海は悲しみに満ちている。
 ゆえに、目覚めよ! 目覚めよ!


 あなたには母はなく、父もなく、
 親類縁者もなく、兄弟もなく、
 富もなく、家もない。
 ゆえに、目覚めよ! 目覚めよ!


 あなたは欲望、行為、多種多様の不安に縛られている。
 ゆえに、あなたの人生はゆっくりと腐っていき、無駄になる。
 ゆえに、目覚めよ! 目覚めよ!
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今日のAMRITAチャンネル「アニメ・ハヌマーン 第五話」

2015-02-25 16:21:06 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ・ハヌマーン 第5話」です。
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君は聖者であれ

2015-02-25 06:32:38 | 松川先生のお話



君は聖者であれ。
周りにとって。
彼にも彼女にも、普通の友達はたくさんいる。
聖者になれるのは君しかいない。

君は世の喜びは諦めて
みんなのために聖者となれ
そのような役割の人が必要だ。
それをできる人は限られている。

私の心には神しかおらず
この世界には神しかいない。
それを早く悟りなさい

常に神と師を思い
あの震える歓喜に浸り続けなさい

心が落ち込んだときも
高き志と理想を
片時も忘れるな

君は聖者であれ。
周りにとって。
あの人もあの人も、
君の覚醒を待っている。
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