ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

バクティの精髄(23)

2015-01-31 21:23:16 | 経典の言葉・聖者の言葉


「バクティにおけるバーヴァとラサ」


◎ラーガトミカ・バクティ


 三界の主、デーヴァキーの喜び、ヴリンダーヴァンの笛吹き、ラーダー、ルクミニー、サティヤバーマー、そしてゴーピーたちの最愛の主クリシュナの、一切を照らし至福に満ちた蓮華の御足に、この卑しい礼拝を捧げ奉ります。

 ラーガに満ちたバクティは、ラーガトミカ・バクティと呼ばれている。ラーガトミカ・バクティを修行する者たちは皆、プレーティ(主クリシュナの御足へのプレーマ)を開発する。それを開発する者を、ラーガ・アヌラーガと呼ぶ。
 プレーマの芽には、二つの名前(ラティとバーヴァ)がある。それらはクリシュナを魅了する。
 人は、ラティとバーヴァから、クリシュナ・プレーマ・ラサという富を得るのである。

 欲求の対象、大好きなものへのラーガ(強烈な渇愛、切望、愛著)は、ラーガトミカ・バクティのスワルーパ(特性、本性、サイン)である。欲求の対象に夢中になることは、その最低限の兆候である。

 ラーガトミカ・バクティは主に、ヴリンダーヴァンやヴラジャの人々の中に見い出される。ラーガトミカ・バクタ、あるいはラーガ・アヌラーガ・バクタは、聖典の論理に耳を傾けない。

 ラーガトミカ・バクティは、外的な方法と内的な方法の二つ方法を使って修練される。
 外的な方法として、このバクタは、主の御名や栄光を唱え、聞く。
 内なる方法として、このバクタは、心の中で自分が、例えば「シュリー・クリシュナの牧童の友達」というような理想と一体化しているとイメージし、そのイメージの中で昼夜、ヴリンダーヴァンのクリシュナに奉仕する。
 彼は、自分を、まるでその理想そのもののシッダ(完成者)と見なし、そのムードで、イメージの中に没頭し、昼夜、ヴラジャでシュリー・クリシュナに奉仕する。
 彼は、自分の心の中に閉じこもり、ずっと礼拝の対象、つまり愛するクリシュナのすぐ傍に居続け、ずっとクリシュナに奉仕し続けるのだ。

 彼はクリシュナを師、友達、子供、愛人として見る。
 バクタは、ラティとバーヴァによって主を勝ち取り、シュリー・クリシュナへの愛という宝を得るのだ。
 
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バクティの精髄(22)

2015-01-30 19:18:05 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎ゴースワーミー・トゥルシーダースのラーマチャリタマーナサにおけるナヴァ・ヴィダー・バクティ


 主ラーマは、女苦行者シャバリと会った際に、以下のように信仰の九つの道を説かれた。

・第一に、聖者との交際。
・第二に、主の物語を唱えること。
・第三に、神への献身的な奉仕。
・第四に、真心をこめて至高者の威徳を歌い讃えること。
・第五に、ヴェーダに則って、確固たる信をもって主の御名を唱えること(ジャパ)。
・第六に、俗的な行為から感覚器官と心を完全に退けることによる、厳しい自己制御。これは、いかなる場面においても善行となる。
・第七に、万象万物の中に主を観じ、そして聖者を神以上に敬愛すること。それは大宇宙の中に大宇宙を見ることとなる。
・第八に、与えられるものすべてに感謝して喜び、けっして他人の中に過失を見ないこと。
・第九に、誰をも欺くことなく皆に接し、主に帰依し、苦楽を平等に見ること。

 この九つの方法を実践する者は誰でも、それが男であろうと女であろうと、生物でも無生物でも、主にとって最高に愛しい存在である。
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バクティの精髄(21)

2015-01-30 18:47:14 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎アートマ・ニヴェーダナ


 アートマ・ニヴェーダナとは、自己の完全なる明け渡しである。

 「ヴィシュヌ・サハスラナーマ」には、こう説かれている。

「ヴァースデーヴァにただ一筋に完全に帰依した人の心は、完全に浄化される。そして彼は永遠なるブラフマンを成就する。」

 献身者は、自分の身も心も魂も、すべてを神に差し出す。
 彼は、自分自身のためには何一つ取っておくことはない。
 彼は、彼自身そのものでさえも残らず捧げ尽くすのだ。
 彼は、独立した個としての存在を持たない。彼自身をすべて神に捧げてしまったのだから。
 彼は神の一部であり、かつ全体となった。
 神は彼の世話をすると同時に、彼を自分自身であると見る。
 深い苦悩や悲しみ、喜びや苦痛がやってきても、献身者はそれらをただ神からの贈り物と見るので、何らとらわれることがない。
 彼は自分を、神の操り人形として、そして神の御手の中の道具として見る。
 彼にはエゴイスティックな感情がない。なぜなら彼には自我そのものがないからである。彼の自我は、神にすべて捧げられたのだ。

 神は、一切の世話をなさる。
 神は、世界を正しい道に導く方法をご存じである。
 人は、自分が世界を導くために生まれたなどと思う必要はない。神だけがすべてをご存じであり、人はそれらを夢の中でさえ知ることはできないのだ。
 
 神の献身者には、肉体的な欲望がない。なぜなら彼は、肉体を神に捧げてしまったのだから。
 彼は肉体にとらわれることがない。それは神の意思を実現するための道具に過ぎないのだから。

 彼はただ神の存在だけを感じ、他の何ものも感じることはない。
 
 彼は恐れを知らない。なぜなら、神はいつでも彼を助けているから。

 彼には敵がいない。なぜなら、敵も味方も存在しない神に、自分自身を捧げてしまったのだから。

 彼には不安がない。なぜなら、神の恩寵を達成することによって、すべてを達成したのだから。

 彼には、自分が救済されたいという思いすらない。彼はただ単に神を、神だけを求めるのである。
 
 彼はただ神の愛だけに満足している。
 神が献身者の上に恩寵をたれたとき、他に達成されなければならない何があるというのか?

 献身者は砂糖になりたいとは思わず、砂糖を味わいたいと思う。砂糖を味わうことには喜びがあるが、砂糖そのものになってしまっては、喜びはない。
 ゆえに献身者は、神になることよりも、神を愛することに最高の喜びがあると感じるのである。

 「私はあなたのものです」と献身者は神に言い、神は彼の世話を完全にみる。

 このような「自己の完全なる明け渡し」は、絶対の愛を、ただ神だけに向けることである。
 献身者の中には、ただ神の思いしかない。
 願望においてさえ献身者は神と一体化するので、彼自身の個性は完全に失われる。
 これは存在の法則である。

 最高の真理は絶対なる境地であり、魂は神と同一化して絶対なる完全性を達成するまで、意識の様々な境地を通り抜けて上昇していく。
  
 これは、すべての目的と愛の最高点である。

 バガヴァッド・ギーターやバーガヴァタは、神への完全なる明け渡しこそが最高の境地を達成する唯一の方法であると、数多くの詩句を使って述べている。
 完全なる明け渡しだけが、彼に平和を与え、彼をすべての罪から救うことができるのだと、クリシュナはアルジュナに説いている。
 バガヴァッド・ギーターやシュリーマド・バーガヴァタを学ぶ人は、「完全なる明け渡し」がどれほど重要なこととして強調されているかを知ることだろう。

 「完全なる明け渡し」によって、個の意識の滅尽と、完全なる意識の達成がある。
 これは、ニルヴィカルパ・サマーディと等しい境地である。
 献身者は、最高のマハーデーヴァの世界へと飛んでいき、神と一つになる。
 波は海に帰り、火の粉は火に、光線は太陽に吸収される。そして意識は真我と一つになる。
 個性は絶対性の中で彼自身を失う。
 献身者は神に吸収される。 
 この世的な意識は、宇宙的な意識の中に消えゆく。
 人は神となり、死すべき存在は不死となる。
 神に属するものは何でも、最高の献身者に属するものとなる。
 彼のすべての罪は破壊される。
 彼には、なすべきことが何もなくなる。
 彼の魂は完成した。
 彼は最高の至福を得た。
 彼にとって、全世界はただ至福として現れる。
 ただ至高の愛のあらわれだけがそこにある。 
 
 ヴリンダーヴァンのゴーピーたちは、この愛を修習した。
 バリ王は自己を主に明け渡した。
 ゴーピーたちは神の思いに夢中になり、至高の境地を達成したのだ。




◎結び

 バクティの九つの修行法は、バクタが人生の最高の理想を達成するための方法論である。
 どんなバクタでも、これらの道を歩き、最高の境地に至ることができるのだ。
 バクティの道は、最も簡単な道であり、それほど人間の性質の傾向に反しているものではない。
 それはゆっくりと徐々に、人間の生まれ持った性質を滅することなく、人を至高者のもとへと連れてゆく。
 それは、ヴェーダーンティンのブラーマラ・ケータカの流儀ではなく、アルンダテーの流儀、あるいはシャカチャンドラの流儀に則っている。
 それは神を断定するものではなく、神の悟りを進めるものなのである。
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バクティの精髄(20)

2015-01-30 18:19:43 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎サキャ


 サキャ・バーヴァとは、神と友人としての関係を培うことである。

 ヴラジャの牛飼いナンダとその仲間たちは、主クリシュナとの間にこのバクティを培った。
 
 またアルジュナも、この種のバクティを培った。

 バーガヴァタにはこう説かれている。

「ああ、絶対の至福である、完璧なる永遠なるブラフマンを愛しい友とした牛飼いナンダのヴラジャの人々は、何という素晴らしい幸運にあずかったものだろうか!」


 人は一般的に親友や家族のことが好きであり、それらをまるで自分自身であるかのように見なす。
 そこで、常に主と共にあるために、彼を自分の家族あるいは親友であると見なすのが、バクティの道におけるサキャ・バーヴァなのである。

 サキャ・バーヴァの態度を取る献身者は、主への熱烈な愛のために、他のどんなに重要で緊急な作業や出来事でさえ考慮されなくなる。自分に関することは軽視するようになり、ただ主への愛から、主に関することのみに心が向かうようになる。

 真の友情とは何か? それは無私にして無量なる愛である。もしそのような友情を持つ者がいれば、その愛は、人への愛から神への愛と進化する。

 このサキャ・バーヴァの中で主と共に遊ぶ献身者たちは、主の永遠なる世界の中において、平凡な日々を経験する。 
 主が超人的な奇跡を見せても、献身者たちは何とも思わない。ただ愛する存在がいつものように自分と共に楽しい日々を送っていると見るだけである。
 そして献身者は常に、あらゆる点で彼を喜ばせたいと考えている。

 さらには献身者は、すべてを神と見るようになり――それによって、あらゆる衆生、すべての世界を、自分の親友と見なすようになる。そうして彼には自己本位の心がなくなり、誰に対しても憎しみや嫌悪などを持つことがなくなる。
 彼は、すべてを愛するようになる。なぜなら、すべては彼の親友だからである。

 すべては神である。
 そして神は、彼の親友である。
 よって、すべては彼の親友なのである。

 彼は、神から与えられたものに、常に満足している。
 どんなかたちでも神に奉仕できるなら、彼にとって最高の喜びである。
 彼は、常に神がおそばにいらっしゃり、すべては神の所有物であると感じている。
 彼は神を、威厳のある、恐ろしい、智慧ある監督者であるとはみなさない。そうではなく、常に自分と共にある、愛しい友であるとみなすのである。

 彼は神を見ることを切望し、また決して主のおそばから一瞬でも去りたくないと思う。

 彼はこう言う。

「主よ! 最愛の御方よ! 私はあなたなしでは生きていくことができません。
 親愛なる御方よ! あなたはどこにいらっしゃるのですか!?」

 そして彼は、主の愛らしさへの愛にわれを忘れるのである。

 彼自身と彼の所有物は、それがただ神への奉仕に役に立つ場合にのみ、意味があると考える。なぜなら彼は、神なしでは生きることができないからである。彼にとって、神なしで生きることはありえないのである。

 神は内に秘めた、最愛の友達である。
 すべての一般的な友人は、自分を見捨てることもあるかもしれない。
 しかし神は、主の献身者を決して見捨てることはない。
 たとえあなたが彼を好きではないとしても、彼はあなたを愛している。

 主を見ること、触れること、そして主の愛らしさについて考えることだけでも、献身者は歓喜の海の中に溶け込む。
 そして単に主の御名を聞くだけでも、献身者の愛に火がつけられる。
 彼は至福の中で、神の栄光を歌う。
 誰かが主のメッセージを運んでくると、彼は歓喜で圧倒される。

 彼は永遠に主と共にありたいと思っているため、主から離れると強烈な苦悶を感じる。
 彼はずっと主にお会いできることを心待ちにしている。

 これらは、サキャ・バーヴァに没入したバクタにあらわれる特徴のうちのいくつかのものである。

 ヴィビーシャナ、スグリーヴァ、ウッダヴァ、アルジュナ、シュリーダーマ、そしてヴラジャの主の遊び友達などは、バクティのサキャ・バーヴァを養った献身者たちの例である。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第113話」

2015-01-30 09:05:35 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第113話」です。
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バクティの精髄(19)

2015-01-29 20:12:34 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎ダーシャ


 ダーシャ・バクティは、自分を神の召使いと見るバクティである。
 神に仕え、神の意思を実践すること、主のすばらしさ・本性・神秘と栄光を広めること、そして自分を至高者の奴隷であると思うことは、ダーシャ・バクティである。
 寺院において奉仕し、寺院を清掃し、神について瞑想し、精神的に神の奴隷として奉仕することも、ダーシャ・バクティである。
 神の献身者、そして神のあらわれである病人、貧しい人、聖者や賢者に奉仕することも、ダーシャ・バクティである。
 聖典や師の言葉を神の指示と考えて、その教えどおりに生きることも、ダーシャ・バクティである。
 神を悟った人と、愛に酔った献身者たちによって構成されるグループに奉仕することも、ダーシャ・バクティである。
 ダーシャ・バクティの目的は、神の恩寵を得て、不死の甘露を得て、永遠に神と共にあることである。

 クリシュナの恩寵を得るために、アルジュナは、召使いと弟子の感情でクリシュナに祈った。

「おお、主よ! 私はあなたの弟子です。私はあなたに帰依いたしました。私に教えをお説きください。」

 バクタのバーヴァは、こうあるべきである。バクタは、彼自身を完全に放棄し、神に明け渡さなければならず、また、いかなる保証も神に要求してはならない。
 アナンヤ・バクティとは、自己を神に完全に差し出すのである。


 ラクシュマナ、ハヌマーン、アンガダなどは、バガヴァッド・バクティにおいてこのダーシャ・バーヴァを実践した。
 ラクシュマナは、ラーマへの最高の愛と、自分を彼の奴隷と見ることに徹していたために、時にはラーマと話しをすることさえできなくなった。
 ハヌマーンは、主への神聖な奉仕の素晴らしい例としてそびえ立っている。彼は、主ラーマへの奉仕だけに生涯を費やしたのだ。
 アンガダは、ラーマにもう去るように言われてからも、ラーマのもとを去りたくなかったために、常に主ラーマに仕え、最もつまらない奉仕でいいから奉仕をさせてほしいと、主ラーマに祈った。

 ラクシュマナ、ハヌマーン、アンガダなどが取り憑かれていたようなバクティを開発するのは、簡単なことではない。そのためには、心は浄化されなければならず、自分の考えや欲望は絶滅されなければならない。そうして初めて献身者は、神への真の愛を持つことができる。
 そのような心の浄化を伴わない神への愛は、世俗性の入り混じったものとなるため、素晴らしい実を結ぶことはないだろう。
 
 完全なる明け渡しこそが、ダーシャ・バクティの理想である。
 完全に明け渡し、主の奴隷や召使いとなることができたならば、神への明け渡しと奉仕を通じて、彼は実際には何も失うことなく、一般的な意味でも特別な意味でも、すべてを得るのである。
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バクティの精髄(18)

2015-01-29 18:29:26 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎ヴァンダナ


 ヴァンダナとは、祈りと平伏である。

・神のお姿の前で、帰依と敬意をもって、身体の八つの部分を地につけて謙虚に礼拝すること(サシュターンガ・ナマスカーラ)

・または、この世のすべてはただお一人の神のお姿であるということを知り、すべての存在に対して平伏すること

・そして、至高者の愛の中に自己を没入させること

 これらは、神への平伏と呼ばれる。

 バーガヴァタには、こう説かれている。

「自分の身体と言葉、心、感覚器官、思考、理性、本性、それらで何をなそうとも、人はすべてを至高者へ捧げるべきなのです。
 主に背を向けて生きる者は、主のマーヤーで本来の自分を忘却させられてしまい、肉体が自分であるという概念の餌食となって、非常な恐怖を味わう羽目になるでしょう。それゆえ、識別智をそなえた賢者ならば、自分の師は主そのものであり、真我と同じであると理解して、大いなる信仰心をもって主をあがめるべきなのです。
 相対性などは本来存在せぬものの、その中に浸りきった者の心では、それは夢のように、絶えず姿を現してくるでしょう。それゆえ賢者ならば、そのような観念や疑いを生じさせる自分の心を、十分に支配すべきなのです。そのようにすることで、人は恐れなき境地を手にできるのです。
 それゆえこの世に生きる者たちは、手に円盤を持たれる主(シュリー・ハリ)の、吉祥な化身と遊戯の物語を絶えず耳にして、主の降誕と偉業をあらわす御名を、たとえ人からバカにされても、絶えず唱えて、無執着の心で生きて行くべきなのです。
 そのようにして生きて行く者は、主への愛を深めて行き、心はバクティの中に融けいるや、何かにとりつかれたように、ときには笑ったり、泣いたり、叫んだり、そして歌って、踊り、この世の因習を捨てて、ついには物質的な世界を超えてしまうのです。
 そのような信者は、深い信仰心を抱いて、空、風、火、水、土、星、動物、木々、川、海、それらすべての被造物を、主のお体と考え、低く頭を下げるでしょう。
 人は主に自分をゆだねることで、バクティと、最高者の悟りを、速やかに得ることができるのです。
 ああ、王よ、絶えず至高者の御足をあがめて生きる者は、主へのバクティ、この世の楽しみへの嫌悪、神の直接的叡智、それらを同時に得ることができ、ついには最高の平安(シャーンティ)に至ることができるのです。」


 また、同じくバーガヴァタで、クリシュナはウッダヴァにこう語っている。

「わたしは今から、わたしを喜ばせることにつながる、最も吉祥なダルマの道を、あなたに教えるだろう。バクティの思いでこの道を歩むなら、その者は越えがたき輪廻をも越えていけるのだ。
 あなたは理性と心をわたしに委ねて、わたしを満足させる行為に喜びを見いだし、わたしのことをたえず想って、すべての義務的行為を、わたしのためだけに行なうようにするのだ。
 そしてわたしに帰依した聖者が住む地を訪ねて、神々や魔族、人間の中の、わたしの信者の行ないを見習うがよいだろう。
 また神聖な日や、人々の集い、わたしを祭る祭典において、個人で、または集団で、王のように莫大な財産を用いて、わたしの栄光を讃え、歌や踊りでそれを祝うようにするのだ。
 さらに自分の心を浄化して、すべての被造物の中に、さらに自分の内と外にも、最高の真我であるわたしが、虚空のように浸透しているのを見るがよいだろう。
 こうして純粋なジュニャーナに自己を確立して、全被造物をわたしの顕われと見なして、彼らを崇め、ブラーフマナと低き生まれの者、ブラーフマナへの献身者と盗賊、太陽と火花、慈悲深き者と冷酷な者、彼らを等しく眺めたなら、ああ、悟れる魂よ、彼こそが賢者と呼ばれるに相応しいのである。
 全ての人の中にわたしが臨在すると、たえずそのように見なす者の心からは、競争心や妬み、あざけり、自負心などは、すべて遠からず消えていくであろう。
 家族や友に嘲笑されても気にせず、肉体ゆえに生じた思い(自分は誰それであるなど)を捨て去り、羞恥心を放棄して、丸太のように大地に身を投げ出し、犬やパリヤ、牛、ロバに至るすべての生き物に、低く自分の頭を下げるのだ。
 あらゆる被造物は、主であるわたし自身の顕現だと、そのような思いが心に根を下ろすまでは、人は自らの言葉と心、身体を用いて、以上のようにわたしを礼拝すべきなのだ。
 真我がすべてに遍満すると理解できたなら、やがて彼の眼には、すべてがブラフマンだと映るだろう。そして今までの疑問はすべて氷解して、すべての(利己的)活動は停止するに至るだろう。
 自らの心と言葉、行為を用いて、すべての被造物をわたしの顕われと見なすこと、これこそがわたしへと通じる教えの中で、最高のものであると、わたしはそのように宣言するのである。
 ああ、ウッダヴァよ、わたしによって説かれたこの正道を、ひとたび歩み始めたなら、失うものは何一つ存在していないのだ。なぜなら、そこに報いを求める思いはなく、グナにも影響を受けぬ道ゆえに、わたしによって完全な道と宣言されるからだ。
 実りなきこの世的思いと活動も、それが報いを求めずに、主であるわたしに捧げられたなら、ああ、敬虔なるウッダヴァよ、それはダルマの基準にまで高められるであろう。
 ここにこそ、人がこの世で死すべき肉体を通して、唯一の実在であり、不死であるわたしのもとへと至り得る、智慧ある者の智慧が存在しており、賢き者の賢さが存在するといえるのだ。」 

 アルジュナはクリシュナに対して、最も美しい形で礼拝を捧げた。

「あなた様を前からも後ろからも礼拝し、横からも斜めからも、あらゆる方向から礼拝いたします。
 なぜなら、あなた様は無限の力と働きを持ち、どこにもおられ、あらゆるものになっておられますから。」


 信仰の目的は、他を入れる余地のない愛を通じて神を悟ることである。
 マハーバーラタにはこう説かれている。

「至高者ヴァースデーヴァよりも吉兆なるものは存在しない。ヴァースデーヴァよりも心を清めてくれるものは存在しない。ヴァースデーヴァよりもさらに礼拝するに相応しきデーヴァは存在しない。ヴァースデーヴァに平伏する者は、苦しむことはない。」

 ビーシュマはこう言っている。

「シュリー・クリシュナにたった一度平伏するだけでも、その功徳は十回のアシュワメーダ(馬供養祭)のそれと等しい。アシュワメーダは解脱をもたらすことはないが、神への平伏は、人を神そのものにしてしまう。」


 アクルーラはこの種のバクティ、つまりヴァンダナ・バクティを実践した。
 彼の物語は、シュリーマド・バーガヴァタに説かれている。
 バーガヴァタにはこう説かれている。

「敬虔な愛に圧倒されて、アクルーラはすぐに馬車から飛び降り、バララーマとシュリー・クリシュナの御足に棒のように平伏した。」

 マハーバーラタには、長老の戦士ビーシュマが深い感情で声をつまらせ、主に礼拝を捧げると、シュリー・クリシュナがすぐさま、神の叡智の光を彼に与えた、ということが説かれている。

「このように祈りを捧げると、心が完全に神に没頭したビーシュマは『クリシュナに礼拝し奉ります』と言って、クリシュナに平伏した。ビーシュマの信仰の深さを知ったシュリー・ハリ、マーダヴァは、ヨーガの力を使って、三界を照らす神の叡智の光を授けた。」


 エゴや自我意識は、神への心からの祈りと平伏によって、完全に消し去られる。そして神の恩寵が献身者に与えられ、彼は神となるのである。
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バクティの精髄(17)

2015-01-29 18:08:36 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎アルチャナ


 アルチャナとは、至高者への礼拝である。

「この世界でヴィシュヌを礼拝する者たちは、不死を得、モークシャという至福の境地に至る。」

 このように、ヴィシュヌ・ラハシャには説かれている。
 至高者への礼拝は、絵や心のイメージでもなされることができるが、そのイメージは礼拝者の心に訴えかけるものでなければならない。
 礼拝は、外的なアイテムを使ってもいいし、また単に心の強烈な思いやムード(バーヴァ)だけでおこなうこともできる。しかし心のバーヴァだけでおこなう礼拝は、浄化された智性を持つ高度な段階の者だけがおこなうことのできる礼拝のかたちである。
 また、基本的には、聖典に説かれているような様々な条件に沿ったかたちで礼拝はおこなわれなければならない。しかし高度な段階の献身者の場合は、彼らが好むどのような方法で礼拝をおこなってもかまわない。
 礼拝の目的は、至高者を喜ばせることである。そのために、エゴの降伏と神への愛によって心を浄化するのである。

 また、貧しい人々に奉仕したり、聖者を礼拝することは、ヴィラート・スワルーパ(至高者の宇宙体)への礼拝となる。
 至高者は、あらゆる姿で現れる。
 彼はすべてなのである。 
 意識を持つ存在および意識を持たない存在のすべてになって現われているのはただ至高者お一人であると、聖典は断言する。
 よって献身者は、すべての存在がヴィシュヌ神またはシヴァ神であるという思いを持たなければならない。
 彼は、イモムシに至るまでのすべての生き物を、ただただ神と見なすべきである。
 これは礼拝の最高のかたちである。

 礼拝は普通、タントリックな手法、あるいはヴァイディカの手法を使っても行なわれる。礼拝は、寺院で、あるいは家で、または野外でも行なうことができる。
 礼拝の目的は、主との合一を得るための、誠実な信仰心、そして真の明け渡しである。

 礼拝をしている間、バクタの心は常に主の御姿に集中されるべきである。心は、主の性質、主の無限なる本性、至福、不死などを思うべきであり、現世的なことは考えてはならない。

 礼拝中に主に捧げられるお供物は、それが誠実な思いで捧げられれば、本当に主はその供物を受け取ってくださる。
 燃えるような愛を持ったバクタが神に供物を捧げると、神は実際に至高なる姿でその前に現われ、その捧げられた供物を召し上がってくださるというのは、事実である。
 それは稀な例ではある。真のバクタがこの世界に現われるのは極めて稀であるということは、知っておかなければならない。

 プリトゥやアムバリシャのようなバクタは、この種のバクティ、つまりアルチャナ(主への礼拝)を実践した。彼らの物語は、シュリーマド・バーガヴァタに説かれている。
 主は、この世界の最初の王であるプリトゥの前に現われ、彼に祝福を与えた。
 主は、アムバリシャを守護し、彼に解脱を与えた。
 彼らは、神への愛に没頭し、神以外何も求めなかった。彼らは、神から現世的なものを求めることなく、ただ神の恩寵だけを求めた。彼らは、神を喜ばせたいと思い、神にお仕えしたいと願った。その他に彼らが求めたものは、何もなかった。
 献身者の信仰は、そのような無私なる動機をもったものであるべきである。

 神への捧げものは、必ずしも高価なものや高級なものである必要はない。
 象の王ガジェーンドラは、一体主に何を捧げたというのだろうか? ため池から取ってきた花だけである。
 ドラウパディーは野菜の葉を捧げ、シャバリは野生のプラムを捧げた。
 しかし、主はそれらに喜ばれた。
 主が考慮されるのは、神への愛の思いなのであり、捧げられるものではない。
 彼は、葉にも喜ばれるし、ただの水にさえも喜ばれるのだ。
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今日のAMRITAチャンネル「賛歌・イメージビデオ」

2015-01-29 07:49:39 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAmritaチャンネルは、「賛歌・イメージビデオ」です。



曲目

1.ALL ONE マハーマントラ
2.ホーリーマザー
3.放棄の翼
4.ジェイジェイマードゥルガー
5.我が師(日本語版)
6.シッダールタ
7.バクティヨーガの歌
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たった一つの大切なもの

2015-01-28 18:47:48 | 経典の言葉・聖者の言葉


 バクティが、たった一つの大切なものだ。
 たしかに神はすべてのものの中にいらっしゃる。それでは、どういう人をバクタというのか。その心が常に神を思っている人だ。しかしこれは、人がうぬぼれや虚栄心を持っている間はだめだ。神の恩寵という水は、うぬぼれという高い土手の上にはたまらない。流れ落ちてしまう。

 私はただの道具だ。

 神は、あらゆる道を通って悟ることができる。すべての宗教が本物だ。大切なのは屋根に達することだ。
 屋根には石の階段か木の階段で登ることもできるし、竹のはしごで登ることも、縄で登ることもできる。また竹の棒でよじ登ることもできるだろう。
 お前たちは、他の宗教にはさまざまの間違いや迷信がある、と言うかも知れない。私は答えよう--それはあるだろう。あらゆる宗教が間違いを持っている。誰もが自分の時計だけが正しい時を告げる、と思うのだ。神への憧れがありさえすればそれで十分だ。彼を愛し、彼に心を惹かれるならそれで十分だ。神はわれわれの内なる先達だ、ということを知らないか。彼はわれわれの心の願いと魂の渇仰とをご覧になるのだ。
 ある人が数人の息子を持っているとする。上の息子たちは彼をハッキリと、ババとかパパとか呼ぶが、幼い子供たちはせいぜい、バーとかパーとか呼べるだけだ。さて、父親はこの不明瞭な呼び方をする子供たちに腹を立てるかね? 父は、彼らもやはり彼を呼んでいて、ただ彼の名を正確に発音できないだけであることをよく知っている。父親にとって、すべての子供は同じである。同様に信者たちは、さまざまの名によってではあるが、神に呼びかけているのだ。たった一人のお方を呼んでいるのである。神は一人、しかし彼の御名はたくさんある。
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偉大な力の宝庫

2015-01-28 18:40:55 | 経典の言葉・聖者の言葉

「真我を悟った人は、偉大な力の宝庫になります。その人が中心となって、精神力が発散し、ある範囲内で働きます。この範囲内に入る人々は、彼の理想に鼓舞され、圧倒されます。このようにして、宗教的努力をあまりせずして、彼らは悟った人の精神的体験から恩恵を受けるのです。これが恩寵と呼ばれています。
 聖ラーマクリシュナを知った人は祝福されています。あなた方もすべて、彼のヴィジョンを得るでしょう。あなた方がここに来た時には既に彼のそばにいるのです。聖ラーマクリシュナとして彼がこの地上に降りてきたことを理解できた人はだれ一人としていませんでした。彼の側近の帰依者たちでさえ、その本当の話の手がかりすら分かってはいません。ほんの数人の人々がそれを薄々感じているにすぎません。そのうちに、すべての人が理解するでしょう。」


 ――ヴィヴェーカーナンダ

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バクティの精髄(16)

2015-01-28 16:36:45 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎パダセーヴァナ


 パダセーヴァナとは、至高者の御足への奉仕である。
 実はこれは、ラクシュミー女神やパールヴァティー女神によってのみなされるものである。
 普通の人間には一切、このバクティの修行を実践する機会がない。なぜならば、主は肉眼では見られないからである。しかし普通の人間でも、一切を神と見ることによって、この修行をなすことができる。
 これがパダセーヴァナである。
 パダセーヴァナとは、病人への奉仕である。
 パダセーヴァナとは、貧しい人々への奉仕である。
 パダセーヴァナとは、すべての人々への奉仕である。
 世界はただヴィラート・スワルーパ(至高者の宇宙体)である。
 よって世界への奉仕は、至高者への奉仕なのである。

 また、寺院の神の像に、あるいは心の中に観想した神に、心からの礼拝を捧げることも、パダセーヴァナである。

 信仰深い眼差しで、飽くことなく、何度も何度も主の聖なる御足を見ること、主の御足を礼拝すること、主の御足に奉仕すること、主の御足を洗った水をすすること、主の木のサンダルを礼拝すること、それらを瞑想し、それらに祈りを捧げること、主の御足の塵を取り、それを額にいただくこと、主の御足の塵で心を清めること、聖なる寺院、巡礼地、主が人間の幸福のために降誕された地に敬意を表すること、ガンガーを主の御足から直接流れて来ているものと見なして礼拝し、そのガンガーの聖水で沐浴し、それを飲むこと――これらはすべて、主の御足への奉仕のさまざまな形である。
 この種の信仰は、すべての世俗的な執着を滅ぼし、それによって心はただ神だけを思うようになる。

 バラタはシュリー・ラーマの御足のサンダルに奉仕した。何という素晴らしい信仰心だろう! 彼はそれを王座の上に安置し、まるでシュリー・ラーマがそこにおられるかのように、主のサンダルを礼拝した。彼はシュリー・ラーマのサンダルの名の下に王国を治め、自分自身はラーマのしもべのように振る舞った。
 これが、パダセーヴァナ・バクティである。
 アハーリヤーは、主の御足の塵を得て、自分の人生の目的が達成されたと感じた。
 シュリーマド・バーガヴァタにはこう説かれている。

「聖者たちの帰依処であり、至福に満たされている主の御足に帰依した者にとっては、世俗の存在の海は、仔牛の足跡のような浅瀬に変わる。彼はすでに、至高なる境地に至っているのだ。世俗的な苦しみや困難は、彼の前には現われない。」

 シュリー・ラクシュミーデーヴィーは、このバクティの実践を楽しんでいる。彼女は永遠に、シュリー・ハリの御足に仕えている。主ヴィシュヌは、その御足をシュリー・ラクシュミーデーヴィーの膝の上に置いている。シュリー・ラクシュミーデーヴィーは、パダセーヴァナ・バクティの模範である。
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今日のAMRITAチャンネル「勉強会講話より 実写ドラマ・ラーマーヤナ 第83話」

2015-01-28 16:29:47 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「勉強会講話より 実写ドラマ・ラーマーヤナ 第83話」です。
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バクティの精髄(15)

2015-01-28 09:33:29 | 経典の言葉・聖者の言葉

◎スマラナ


 スマラナとは、24時間、常に至高者を思い続けることである。ここにおいて献身者は、至高者の御名とお姿を、決して忘れることはない。心はただ至高者の栄光を思うことだけに完全に没頭し、それ以外のいかなるこの世の事柄のことも思うことはない。
 心は、神とその美点、御名、栄光などを思い、自分の体のことさえも忘れて、ただ神への思いだけで満ち足りている。ちょうど、ドゥルヴァやプラフラーダがそうだったように。
 ただ神のことだけを思い、神の御名を唱え続けることも、このスマラナのカテゴリーに入る。
 神のことを思うというのは、常に神に関する物語を聞くこと、神について話すこと、人々に神に関する教えを説くこと、神について瞑想することなども含まれる。
 神のことを思うというのは、ある特定の時間にだけなされるのではない。意識がある限り、途切れることなく常に神を思うのである。つまり朝、睡眠から目覚めたときから、夜、睡眠に入るまでの間、ずっと神を心から離さないということである。
 彼にとっては、神を思うこと以外は、この世においてなすべきことは何もない。
 ただ神だけを思い続けることで、すべての世界のサンスカーラを破壊することができる。
 ただ神だけを思い続けることで、感覚対象から心を引き離すことができる。
 通常、心は外側へと向かうが、ただ神を思い続けることで、心は内側に向かう。そして心が神だけで満たされることで、この世の他の対象が心に入ってくる隙間はなくなる。
 この「ただ神だけを思い続けること」は、非情に難しい修行である。普通は、24時間、ただ神だけを思い続けることなどは不可能である。心は、人を欺く。彼は神を瞑想していると考えていても、実際はこの世の様々な対象を夢見ている。
 つまり「神を思う」とは、極度な精神集中による瞑想なのである。よって、ラージャヨーギン(真我への精神集中によって解脱を得ようとする修行者)に必要とされるすべての性質を、スマラナ・バクティを修習したいと思うバクタは得なければならない。
 スマラナとは、マーヤーの河の力強い流れに逆らって泳ぐことである。そしてラージャヨーガがただ真我だけの瞑想に没入するように、スマラナは、ただそこには神しかいないという瞑想に没入するのである。

 真のバクタたちとの交際も、神を思い続ける修行の手助けとなる。
 マハートマ(偉大なる魂)への奉仕もまた、不可欠な実践項目である。
 聖者たちと共にいる間、心は聖なるものを思わずにはいられなくなる。ゆえに、人はサットサンガに参加すべきであり、常に聖者や偉大なるバクタたちと共に暮らすべきである。人は世間からの非難や嘲りに動揺すべきではない。神だけを頼り、神がすべての困難から自分を救ってくださるのだと、神が自分に最終解脱を与えてくださるのだと思って、安心すべきなのである。

 主クリシュナは、ギーターの中でこう言っている。

「おお、アルジュナよ! 私をしっかりと心にとどめ、絶えず私のことを思っているヨーギーは、容易く私に到達し、永遠に私と合一するに至るであろう。」

 ギーターは、九つのバクティの修行法の権威である。主クリシュナは毅然として、バクティのさまざまな修行法は人を至高者へと導くと述べている。


 主を嫌悪によって思い続けたとしても、その者は解脱を得る。ちょうどイモムシが蜂への嫌悪や恐怖から、蜂をずっと考え続けることによって、蜂と同じ状態(成虫)になっていくように。カンサやシシュパーラのような主を嫌う者たちは、ヴァイラ・バクティによってモークシャの境地を得た。
 不断の念は、他のほとんどすべての霊性の修行の実践の果報である。これは非常に効果的なメソッドであり、同時に最も難しいメソッドでもある。

 守銭奴は、他の勤めに従事していても、自分の富を忘れない。性欲の強い男は、自分の愛する女のことを忘れない。牛は草を食みながらも、仔牛のことを忘れない。そのように、世俗に生きる者も、自分の世俗の勤めを果たしながらも、神を思い続けねばならない。

 プラフラーダは、スマラナを実践した。彼は24時間ずっと、決して神を忘れることはなかった。彼は、邪悪な父から、考えうる限りの刑罰を受けた。しかし敬虔なプラフラーダは、すべての困難を乗り越え、主の最高の恩寵を獲得した。プラフラーダは神意識に没入したのだ。
 バクタたちは皆、以上のような境地を燃えるように熱望すべきである。
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バクティの精髄(14)

2015-01-27 20:39:29 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎キールタナ(キールタン)


 キールタナとは、至高者の栄光を歌うことである。
 献身者はそれによって神への思いに喜び、わくわくし、ぞくぞくする。
 彼は神への愛の中でエゴを失う。
 神への最高の愛によって、鳥肌が立つ。
 神の栄光を思い、泣く。そして涙で喉が詰まり、神のムードに没入する。
 献身者は、常に神の御名を唱え、そして誰と話すときも、神の栄光だけを話す。
 どこに行こうとも、彼は神を称える歌を歌う。
 彼は皆に、キールタナに参加するように要求する。
 彼は恍惚の中で歌い踊り、他者を踊らせたりもする。

 これらは純粋な心から生じるものでなければならず、ただ単に他者に見せるための、偽りのものであってはならない。神は人々の心の内も含めすべてをご存じなので、神を騙すことはできないのである。
 そこには完全な率直さがなければならず、そしてそれらすべての行動は、心から自然に流れ出るものでなければならない。

 これは、神にアプローチするすべての方法の中で、最もやさしい道である。「カリユガ」や「鉄の時代」などといわれる現代においては、キールタナこそが最高のヨーガであり、定められた献身の道なのである。
 献身者の心は、神の御名と栄光を歌うことに常に夢中になり、自然にこの世間への関心を失う。昼も夜も神の存在を感じ、エゴは減少していく。そして彼は心の底からサートウィックで純粋になる。

 ナーラダ、ヴァールミーキー、シュカデーヴァなどの古代の大聖者たち、そしてゴウランガ、ナーナク、トゥルシーダース、スールダースなどの比較的近代の大聖者たちは皆、キールタナ・バクティだけで完成の境地に達した。大悪人アジャミラーでさえも、主の御名を唱えて輪廻の海を渡った。
 ジャパとキールタナは、このカリユガで神を悟る修行法の中で、最も効果的なものである。
 罪人でさえも神への献身によってこのマーヤーを超えることができるというならば、純粋な心を持ち、グルや国に奉仕し、罪人よりも神に近いであろう善人においては言うまでもないだろう。


 キールタンが非常に効果的な信仰の修行法である理由は、もう一つある。
 人間とは快楽が好きな生き物である。人は愛することを非常に好む。人は世俗の対象を愛さずにはいられない。しかしその愛とは単なる欲情であり、純粋な聖なる愛ではない。
 人は、美しい音楽を聞くことや、美しいものを見ることや、踊りを見ることが好きである。
 音楽は、冷酷な人の心さえをも溶かす。仮にこの世に、即座に人間の心を変えることができるものがあるとしたら、それは音楽と踊りであろう。
 このメソッドがまさにキールタナ・バクティに用いられているのであるが、それは感覚的な快楽の代わりに、神に向けられるのである。人間の快楽主義的な感情は神に向け、それでいて、音楽や歌を愛する気持ちは滅してはいけない。なぜならば、そのような自分が非常に大切にしている心情をすぐに滅してしまうことは、人を完成に導くことにはならないからである。
 キールタナは、甘美で楽しいものであり、心を簡単に変えてしまう。
 シュカ・マハーリシは、キールタナ・バクタの模範である。彼はパリークシットにバーガヴァタを説いた。彼はバーガヴァタを唱えている間、完全にバーヴァ・サマーディに入っていた。
 シュリー・シュカが主の栄光を歌っているときに、デーヴァたちが天界から降りてきて、さまざまな楽器を使ってキールタンを演奏したということは、バーガヴァタ・マーハートミャに説かれている。ナーラダはヴィーナを演奏し、インドラはムリダンガを叩いた。プラフラーダがシンバルを鳴らしながら踊ると、シヴァご自身がヌリティヤ(舞踏)を踊り始めた。そして主ヴィシュヌが現われた。そこに集まっていた者たちは皆、シュリー・シュカの特別な踊りに歓喜で震えた。
 キールタナは、在家修行者にとっても適切な修行法である。キールタナは心に喜びを与え、同時にハートを浄化する。二重の効果があるのだ。キールタナはおそらく、どんな人にも最高に適切な修行法であろう。
 
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