ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

グル・バクティヨーガ(95)「弟子を引き上げるグルの存在」

2014-10-31 17:52:39 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎弟子を引き上げるグルの存在


 偉大なるグルの中に潜在する超自然的な霊力によって弟子の中にもたらされた驚くべき変革への恩、感謝は、言葉で言い表すことはできない。

 サットグルは真に神の化身である。彼の偉大性は言葉にできない。

 グルの存在は、すさまじい霊性のバイブレーションで、弟子を引き上げ、激励する。グルの偉大性は、弟子の低次の自然を変革することにある。

 サットグルの魅力的な御足に帰依することは、人生の道である。

 神へのサラナガティ(自己の明け渡し)の道は、神の悟りの道である。

 グルへの揺るぎない信を持たない限り、永遠なる至福を楽しむことは誰もできない。

 グルがなさることはすべて、それがたとえ道理に合わないように見えたとしても、正しいことなのである。

 グルの教えへの揺るぎない、断固とした信は、真のグル・バクティの根本である。

 グルはいつも、弟子の心の中に住んでおられる。

 カビールはこう言っている。
「グルとゴーヴィンダ、彼らが二人、私の前に立つ。私はどちらに礼拝すべきだろうか? 祝福されているのは、ゴーヴィンダを私の前に示してくださったグルである。」

 グルだけが、資格のあるチェラ(召使い)に神聖なる光を示すことができる。

 グルは非真実から真実、死から不死、暗闇から光、物質主義から霊性へと弟子を連れていく。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第101話」

2014-10-31 11:59:19 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第101話」です。
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グル・バクティヨーガ(94)「修行に没頭する必要性」

2014-10-31 11:09:34 | 経典の言葉・聖者の言葉

◎修行に没頭する必要性


 苦しみを超え、今生で歓喜と幸福を得たいと切望する者は、グル・バクティヨーガを真摯に実践すべきである。

 すべての悪しき性質を断つ非常に効果的なメソッドは、グル・バクティヨーガを実践することである。

 グルの聖なる御足への信仰は、もし熱心に培われるならば、弟子を苦しみと迷妄の泥沼から、永遠の歓喜と最上の至福のパラダイスに運んでくれる、極めて重要な功徳である。

 性欲的傾向は、たとえ最初はさざ波のようであったとはいえ、悪しき交わりゆえに、海のような大きさになってしまった。ゆえに、悪しき交わりを避け、命を救ってくださる師の御足に近づきなさい。

 グルへの奉仕は、グル・バクティヨーガの実践に必要不可欠である。

 常にグルへの奉仕に忙しくしていれば、あなたは不安を克服できる。これは、すべての不安に対する最も確実な対抗手段である。

 気高き弟子は、何があろうとも絶対に、グルに疑念を持ったり、無視したりしてはならない。

 尊敬するグルの聖なる御足への「サシュターンガ(身体の八つの部分を地につける)」の礼拝を行うことへの恥じらいは、グル・バクティヨーガの実践における大いなる障害である。

 自前主義、自己正当化、虚栄心、自己過信、自己主張、物事を先延ばしすること、頑固さ、あら探し、悪しき交わり、不誠実、傲慢、性欲、怒り、貪り、そしてエゴイズムは、グル・バクティヨーガの道における大いなる障害である。

 グル・バクティヨーガは、すべての他のヨーガ、すなわち、カルマヨーガ、バクティヨーガ、ラージャヨーガ、ハタヨーガ、ジュニャーナヨーガなどの土台である。自分がすべてを知っていると思っている弟子は、虚栄心ゆえに、グルから何も学ぼうとしない。

 弟子にとっての非常に危険な習性は、グルの前で自己正当化をすることである。

 グルにお仕えする際には、広い心でありなさい、優しい心でありなさい、柔和でありなさい。そうすれば、あなたはグルのハートを勝ち取るであろう。言葉や行為において、決してグルに無礼であってはならない。

 頑固な弟子は、グル・バクティヨーガの実践において、少しも確かな進歩を遂げることができない。

 弟子は、尊敬する師の人生の明るい面を見るべきである。

 もし心がグルの不幸のことを考えたら、自己処罰を与えなさい。

 あなたが求めるべきものは、グル・バクティヨーガの道における誠実でひたむきな努力である。

 毎日1時間、きれいなノートに、グル・マントラ、あるいはグルの聖なる御名を書きなさい。

 歩きながらでも、食べながらでも、会社で仕事をしながらでも、グル・マントラを常に唱えなさい。
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「グル・リンポチェ」(9)

2014-10-31 10:52:38 | 聖者の生涯

☆グルリンポチェの五人の主要な配偶者たち



◎チベットのイェシェー・ツォギャル


 イェシェー・ツォギャルは、人間の形をまとったヴァジュラヴァーラーヒーであり、ターラーとブッダローチャナーの転生でもあります。
 彼女はカルチェンのタグダで、吉兆な印に囲まれて生まれました。ツォギャルの父はナムカ・イエシェーという中央チベットの重要な公国であるカルチェンの王で、母親はゲワ・ブムといいました。
 ツォギャルの出生時、自宅の横に突然、湖が現れました。それは「ツォギャルの魂の湖」と呼ばれ、今でも湖の跡である池が残っています。また、彼女が子供の頃に家の近くの岩につけた足跡が、近年まで残っていました。
 当初ツォギャルはティソン・デツェン王の配偶者でしたが、王がエンパワーメントを受ける前に曼荼羅の供物として彼女をグル・リンポチェに捧げたため、ツォギャルはグル・リンポチェの配偶者となりました。
 ツォギャルはグル・リンポチェからエンパワーメントを受け、その儀式において、彼女が投げた花はヴァジュラキーラの曼荼羅に落ちました。そしてヴァジュラキーラのサーダナの実践によって、彼女はヴァジュラキーラのヴィジョンを見、成就を達成しました。


 ツォギャルはチベットで、グル・リンポチェから与えられた教えのほとんどすべてを学び、修行することによって、成就と最高の悟りに達しました。奇跡的な力によって、または何百もの場所で瞑想したり、土地を祝福しながら、グル・リンポチェと共にチベット中を巡りました。絶対的記憶力の成就を獲得したことにより、ツォギャルはその記憶力の力を通じて、チベットでグル・リンポチェによって与えられた、想像もつかぬほど膨大な教えを心の中に蓄積していました。そしてグル・リンポチェの命令に従い、ツォギャルは、将来の支持者の利益となるように、さまざまな場所に教えを隠しました。


 イェシェー・ツォギャルは、グルリンポチェがチベットを離れてからも何年もチベットに留まり、テルマを違う場所に隠し直しました。最期には、カラシッディとタシ・チテンと共に、肉体の遺骸を残さずに、グル・リンポチェの浄土である【銅色に輝く聖山】に向かって、空を飛んでいきました。
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「ヴィヴェーカーナンダ」(25)

2014-10-31 10:51:03 | 聖者の生涯



 アメリカでの布教にある程度の成功を見たヴィヴェーカーナンダは、次はヨーロッパへと目を向けました。その最初の本拠地としたのはイギリスでした。この時期、ヴィヴェーカーナンダは、1895年の9月から11月、1896年の4月から7月、そして同年の10月から12月までと、計三回にわたってイギリスを訪れました。

 ヴィヴェーカーナンダの評判はイギリスにもたちまち広まり、到着後三週間経たぬうちに、ヴィヴェーカーナンダは講演やクラスなどの活動に激しく従事するようになりました。
 すでに最初のイギリス訪問において、ヴィヴェーカーナンダは、大勢の熱心な支持者を得ることができました。その中には、ある女学校の校長であったミス・マーガレット・ノーブルもいました。
 このミス・マーガレット・ノーブルは、後にヴィヴェーカーナンダのもとで出家してシスター・ニヴェーディターとなり、インドに渡り、特にインドの女性たちの教育のために生涯をささげました。
 このニヴェーディターは、後にヴィヴェーカーナンダとの出会いのことを回想して、友人への手紙にこう書き記しました。

「もしあの方が、あのとき、ロンドンに来ていなかったなら! 私の生涯は愚かな夢のようなものになっていたでしょう。
 私は自分がいつも何かを待ち望んでいるということを知っていましたし、また神の思し召しがあるといつも言っていましたから。そして、それが実現しました。
 しかしもし私が、人生についてもっと多くのことを知っていたならば、時が来ても、たしかにそれを認めたかどうかは疑問です。幸いにも私はそれをほとんど知らなかったのですから……
 間違いなく今、私は自分に適した世界を見つけ、世界も私を必要とし、待っております。矢は弓につがえられました。――でも、もし彼が来ていなかったならば! もし彼がヒマラヤの峰々の上で瞑想にふけっていたならば! ……私は一人では決してここに来れなかったでしょう。」



 イギリスでの活動をより進めるため、ヴィヴェーカーナンダは、兄弟弟子のスワーミー・サーラダーナンダを、インドからイギリスに呼び寄せました。ヴィヴェーカーナンダの二度目のイギリス訪問時にこの二人の兄弟弟子は再会を喜び合い、サーラダーナンダはヴィヴェーカーナンダの期待通りに、優れた講演やクラスを通じて、イギリスの人々の心をつかみました。

 1896年の5月には、ヴィヴェーカーナンダはオックスフォード大学の教授であり東洋学者のマックス・ミュラーの自宅に招待されました。マックス・ミュラーはヴィヴェーカーナンダの師であるラーマクリシュナ・パラマハンサに強い興味を持っており、すでに自分が知っていた知識以上のことを、ヴィヴェーカーナンダから聞きたがりました。ヴィヴェーカーナンダは喜んでラーマクリシュナの生涯とその教えについて、多くの情報を彼に提供しました。
 マックス・ミュラーはその研究を一冊の本にまとめ、それはまもなく「ラーマクリシュナ、彼の生涯と言葉」というタイトルで出版され、ラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダの思想を英語世界に定着させる大きな一助となったのでした。

 


つづく
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グル・バクティヨーガ(93)「すべての恩寵を与えし御方」

2014-10-31 10:13:35 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎すべての恩寵を与えし御方


 カルパカ・ヴリクシャ(如意樹)、カーマデーヌ(如意牛)、チンタマニ(如意宝珠)が、求められた恩寵を本当に授けてくださるように、グルも、望むものは何でも与えてくださる。ゆえに、真の弟子はまさに、解脱に達するためのウパニシャッドの偉大なる叡智を求めるべきである。

 ちょうど赤子が、まだヨロヨロとしか歩けないとき、自力で歩いては転んで、また立ち上がり、そしてお母さんの助けを必要としてお母さんを呼ぶように、修行の初期段階の弟子も、慈悲深きグルの導きを必要とし、求めるべきである。

 真の弟子は、子供のように、解脱への強烈な渇仰を持ち、それを表現すべきである。その分だけ、グルはその渇仰を実現させるよう手伝ってくださる。この渇仰が努力と呼ばれ、そしてグルの慈悲深き手助けは、手を差し伸べる母の優しさのような恩寵である。

 美しく像を仕上げるためには、必要なことが二つある。――一つ目は、完璧な、申し分のない大理石である。そして二つ目は、熟練した彫刻師である。大理石は、彫刻して素晴らしい像へと仕上げられるために、まさに無条件で彫刻師の手の中に置かれる。このように、弟子も、自己を清めて浄化し、自分を完璧で申し分のない大理石とし、自分を師という熟練した導き手の下に置き、彫刻して神の像へと仕上げていただくべきである。

 ちょうど、太陽が昇ると共にすべての闇が消え去るように、弟子の心の中にあるアヴィディヤー(無明)とアヴァラナ(無智のヴェール)は、グルの恩寵が降るとともに、ただちに消え去るのだ。

 ちょうど、照り付ける日差しに焼かれた人が、涼しい木陰の中に限りない安堵感と幸福を見出すように、または、暑い夜、涼しい月光に限りない幸福を見出すように、輪廻という焼け付く光線に焼かれている人、そして平安を切望するすべての人は、ブラフマーニシュタ・グル(ブラフマンの叡智を得たグル)の御足に、その求めている平安と幸福を見出す。

 ちょうどチャータカ鳥が長い間待った後に、雨水の滴だけでその喉の渇きを癒すように、真の弟子はグルにお仕えし、必ずやすべての苦痛を癒し、彼を永遠に解放してくださる「ウパデーシャの言葉」を待つべきである。

 火が生来、その範囲内に来るものすべてを焼き尽くしてしまうように、ブラフマーニシュタ・グル(ブラフマンの叡智を得たグル)の恩寵は、その者がどんな者であろうとも、そのような慈悲深きグルを求める者の罪をすべて、本当に焼き尽くしてしまうだろう。
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「ヴィヴェーカーナンダ」(24)

2014-10-31 07:05:41 | 聖者の生涯



 講演、ヨーガのクラス、個人指導、手紙のやり取り、書籍の執筆など、救済のさまざまな活動に燃えるように従事していたヴィヴェーカーナンダは、1985年の中ごろには、さすがにすっかり疲れきっていました。
 ニューヨークにおけるヴィヴェーカーナンダの生徒の一人だったエリザベス・ダッチャー嬢は、そんなヴィヴェーカーナンダのために、セントローレンス河のほとりにあるサウザンド・アイランド・パークにある彼女が所有する別荘に招待しました。
 ヴィヴェーカーナンダは喜んでその招待を受け入れ、その静かな環境で、12人の弟子たちとともに、7週間にわたり、休息と修行の日々を過ごしたのでした。
 ヴィヴェーカーナンダは、自分の多くの生徒の中で、修行の実践に本当に熱心な者のみをこの別荘に連れてきました。この中からヴィヴェーカーナンダは、数人でもよいので、真のヨーガ行者を完成させたいと思ったのです。
 このときの12人の弟子の中には、死に至るまでヴィヴェーカーナンダに忠実に仕えた、シスター・クリスティンやJ・J・グッドウィンなどもいました。

 ヴィヴェーカーナンダは、この隠遁所の不断の静けさの中、かつてラーマクリシュナがドッキネッショルで弟子たちを導いたのと同じ雰囲気で、弟子たちを導きました。ヴィヴェーカーナンダは別荘の三階に宿泊し、弟子たちは一階に宿泊し、そして二回の部屋で、ヨーガの講習や、会話と沈黙による彼らの親しい交わりがなされたのでした。

 12人の弟子たちになされた講義において、ヴィヴェーカーナンダは、聖書、バガヴァッド・ギーター、ウパニシャッドなどの講義に加え、一般向けの講義では封印していた、自らの師であるラーマクリシュナについて、彼の思想や日常生活などについて、熱心に弟子たちに語りました。

 ここに集った12人の弟子たちは皆キリスト教徒でしたが、ヴィヴェーカーナンダの激しい教えに、混乱する者もいました。たとえばこの別荘の所有者であるダッチャー嬢は、革命的ともいえるヴィヴェーカーナンダの教えに、しばしば圧倒されました。今まで信じていた自分の理想、価値観、宗教についての概念などのすべてが、打ち砕かれていくように思われたのです。彼女は時にはヴィヴェーカーナンダと口論をし、数日間、姿を見せないこともありました。
「ダッチャー嬢は最近姿を見せませんが、どうしたのでしょうか? ご病気でしょうか?」
という問いに対して、ヴィヴェーカーナンダはこう言いました。
「これは普通の病気ではありません。その病気は彼女の心に生じつつある大混乱に対する肉体の反動です。彼女はそれに耐えられないのです。」

 ヴィヴェーカーナンダはこの別荘においてさまざまな講義をしましたが、いつも主題は「神の実現」ということに帰結するのでした。そしてその基盤としての戒律の遵守を強調しました。正直、誠実、非暴力、自制、不盗、禁欲などなしに、霊性の向上はありえない、と強調しました。

「すべての教団において、性的な純潔が強調されるのには理由があります。精神的な巨人は、純潔の誓いが守られるところからのみ生まれます。
 性的な純潔と霊性の向上の間にはつながりがあります。祈りと瞑想を通じて、聖者たちは肉体の中の生命力を精神のエネルギーに転じているのです。ヨーガ行者はそれを意識的に行ないます。このように変えられた力はオージャスと呼ばれ、脳髄の中に蓄えられるのです。それは最低の中心から最高のものへと引き上げられます。」

 こうしてヴィヴェーカーナンダは、自分に従う熱心な弟子たちに対して、戒律の遵守、特に性的な純潔を求めたのでした。

 ヴィヴェーカーナンダはこの別荘において、何人かの弟子にイニシエーションの儀式を施し、正式に出家させました。またヴィヴェーカーナンダ自身も、大きな霊的・精神的進歩を経験しました。彼は友人への手紙にこう書きました。

「私は自由です。私の魂の束縛は断ち切られました。この肉体が消えようと消えまいと、何をかまうことがありましょうか。私は真理を説かねばなりません。――神の子である私は!
 私に真理をお授けになった神は、地上で最も勇敢で最良な人々の中から、同志の働き手を私に派遣してくださるでしょう。」

 またヴィヴェーカーナンダはこの別荘においての霊的・精神的進歩を、「出家修行者の歌」という詩で生き生きと表現しました。その一部は、以下のようなものでした。

 
 汝の束縛を断て!
 輝く黄金や光鈍きものや貴金属などの汝をくくれるもの、
 愛と憎しみ、善と悪――すべての相対の大群を断て。
 知れ! 愛撫であれ鞭打ちであれ、奴隷は奴隷、自由でないことを。
 束縛は黄金であっても縛る力は弱くない。
 それゆえ、それらの足かせを断て。勇敢なる出家修行者よ! 
 唱えよ!
 オーム タット サット オーム!

 肉体、それがあろうとなかろうと、もう心に留めるな。
 その使命は果たされる。カルマは自然に尽きるままに。
 ある者はそれを花輪で飾り、他の者はそれを足蹴にする。この世間は無だと言おう。
 称賛も非難もない。そこでは、称賛する者・される者、非難する者・される者――皆一つなり。
 それゆえ、彼は平静なれ。勇敢なる出家修行者よ! 
 唱えよ!
 オーム タット サット オーム!

 真理を知れる者はほんのわずかだ。
 他の者は汝を憎むであろう。
 そして汝、偉大なる真理の具現者である汝をあざ笑う。
 だが、気にするな。
 行け! 汝、自由なる汝よ。
 そこかしこに趣いて、
 救え! マーヤーのヴェールに覆われし暗黒から、彼らを救え。
 苦痛の恐怖も、快楽への願いも、ともに超越して行こう。勇敢なる出家修行者よ! 
 唱えよ!
 オーム タット サット オーム!
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グル・バクティヨーガ(92)「グルとの同調」

2014-10-31 06:51:21 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎グルとの同調


 ラクダが針の穴に入るのは、まだ簡単である。しかし、見よ、人がグルの恩寵なしで神の王国に入るのは、それよりも遥かに難しい。

 ちょうど、水をミルクに加えると、水はそのアイデンティティを失い、ミルクと一つになってしまうのと同じように、真の弟子も、完全に自己をグルに明け渡せば、彼と一つになる。

 ちょうど、小さな川が大きな聖なるガンガーに合流すれば、それは聖なるものと見なされて、礼拝され、最終的には目的地(海)に到達するのと同じように、真の弟子は、グルの御足に帰依をし、彼と一つになることによって、必ずや、永遠に終わらない至福に到達する。

 子供たちはたった一日学んだだけで、しゃべったり歩いたりすることができるようになるだろうか? それは親との長い時間の交わり、適切な注目、興味が必要ではないだろうか? それらによって、子供たちは、しゃべることや歩くことを学ぶのではないだろうか? 
 同様に、本当の誠実な弟子は、常に至高なる明智を学ぼうという正真正銘の渇仰心と注目を持ちながら、十分な長い時間をグルと共に住んで過ごし、彼にあらゆる奉仕を捧げるべきである。このようにしてのみ、偉大なる叡智は得られるのだ。その他によっては不可能である。
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「プルナ・チャンドラ・ゴーシュ」(7)

2014-10-31 06:10:27 | 聖者の生涯


 プルナは35歳の時、重い病にかかりました。医者は、もう助かる見込みはないと言いました。
 ある日、プルナが危篤状態に陥った時、スワミ・プレーマーナンダが彼を訪れていました。プルナのベッドの横に座り、プレーマーナンダは神聖なムードに入りました。その直後、プルナは目覚めました。のちに、このことについて、スワミ・プレーマーナンダはこう語りました。

「プルナの子供たちがまだ若かったので、師ラーマクリシュナが、プルナの命を7年延命してくださった。」


 プルナは理想的な父親でした。彼は一切の家事を行い、子供たちをよく教育し、娘たちを結婚させて、よい家庭を築かせました。プルナは、弟たちや友人たちに優しく寛大でした。多くの家庭の義務や社会的な責任を果たしながらも、プルナは高い霊的ムードを維持していました。

 1907年、プルナはカルカッタのヴィヴェーカーナンダ・ソサエティの秘書に選出されました。ヴィヴェーカーナンダ・ソサエティは、スワミジが亡くなった直後の1902年に設立されており、シャンカー・ゴーシュ・レーンにありました。プルナは定期的にヴィヴェーカーナンダ・ソサエティを訪れ、他のメンバーと共に礼拝堂で瞑想を行なっていました。
 彼は若者たちを励まし、友人のようにアドバイスを与えていました。
 1911年、フランスの有名なオペラ歌手であり、スワミジの信者でもあるマダム・カルヴェがカルカッタを訪れました。ヴィヴェーカーナンダ・ソサエティのメンバーたちは、プルナに先導されて、マダム・カルヴェをグランドホテルに迎えに行き、そして彼女にシュリー・ラーマクリシュナとスワミ・ヴィヴェーカーナンダの絵をプレゼントしました。また、プルナは彼女をベルル・マトに案内しました。
 しかし、プルナのヴィヴェーカーナンダ・ソサエティでの秘書の職は長くは続きませんでした。彼のオフィスがカルカッタからデリーに移転したのです。

 プルナのメインオフィスはデリーにありましたが、1年のうち数か月は、仕事でシムラーに滞在していました。その間、プルナは仕事を終えた後、一人で丘に登り、数時間を瞑想に費やしていました。
 プルナは自分の霊的な感情を抑え込む優れた能力を持っていたので、周囲の人はそのことにほとんど気が付きませんでした。
 しかしある日、シムラーにあるプルナの家で、信者の一人が信仰歌を歌っていました。友人は、プルナの眼から涙が溢れ、長い間赤くなっていたことに気が付きました。
 また別の時には、友人は一緒に散歩をしているプルナが上の空だったので、プルナに「体に意識はあるのか」と尋ねました。プルナは自分の喉を触ると、ここから上には意識があるが、ここから下には意識がないと答えました。このことは、プルナがスティタプラジュニャー、つまり「智慧の完成者」だということを示しています。


 プルナは穏やかで、寡黙で、目立たない性格ではありましたが、必要があれば、勇猛果敢に遠慮なくものを言いました。かつて、2人のイギリス兵が、シムラーの何人かの地元の人々を虐待したことがありました。プルナはすぐに抗議し、兵士たちに勇敢に挑みました。彼はとても愛国心が強く、インドの自由主義のために戦う戦士たちに、大変理解を示していました。プルナは、スワミジの生涯とメッセージがインドの新しい世代を感化するだろうと強く信じていました。

 プルナは、デリーやシムラーに住んでいる時でさえ、いつも兄弟弟子たちと親密に連絡を取り合っていました。かつて、スワミ・トゥリヤーナンダがカシミールを訪れた後に、シムラーのプルナの家にしばらく滞在していたことがあります。カルカッタを訪れた時にはいつでも、プルナはベルル・マトを定期的に訪れました。かつてプルナはカルカッタの自宅にスワミ・ブラフマーナンダと多くの僧や信者たちを招いて祭礼を催しました。
 プルナは、何人かの兄弟弟子たちにも資金を援助したり、また礼拝に使う器やサンフランシスコのヴェーダーンタ教会で使う多くの物資を、スワミ・トリグナティターナンダに送りました。
 生涯を通じて勉強し続けたプルナは、英語も修得し、スワミ・ヴィヴェーカーナンダが出版を始めた月刊刊行物のブラフマヴァーディンにも、記事を書いて貢献しました。
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今日のAMRITAチャンネル「賛歌・イメージビデオ」

2014-10-30 10:36:51 | 今日のAMRITAチャンネル
今日のAmritaチャンネルは、「賛歌・イメージビデオ」です。



曲目

1.マウンテンハレークリシュナ
2.All one マハーマントラ
3.神のしもべに
4.バクティヨーガの歌
5.あなたの愛に
6.我が師(日本語版)
7.ジェイジェイマードゥルガー
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クリシュナ物語の要約(15)「ヴェーヌ・ギーター(横笛にささげられた歌)」

2014-10-29 21:10:30 | 経典の言葉・聖者の言葉



(15)ヴェーヌ・ギーター(横笛にささげられた歌)


 季節は秋になりました。あるときクリシュナは、水が澄み渡り、蓮のかおりの風が心地よく吹く森の中へ、仲間の子供たちと牛たちとともに入っていきました。

 そこでは花が美しく咲き乱れ、ミツバチや鳥たちが楽しくさえずっていました。

 クリシュナはそこで、美しい横笛を吹き始めました。その横笛の音を耳にするや、ヴラジャの乙女たちは、クリシュナの姿は見えずとも、その調べに合わせて歌おうとしました。
 しかし、歌おうとするや否や、彼女たちは、愛くるしいクリシュナの姿を思い出し、こみ上げる愛の思いに圧倒されて、とても歌うことができなくなってしまったのです。

 するとそのときクリシュナは、まるで舞台の踊り子のように、横笛を吹きながら、彼女たちの心の中へと入っていきました。

 ヴラジャの乙女たちは、自分の中に入ってきたクリシュナを心の中で愛おしく抱きしめると、次のように歌い始めました。

「ああ、友よ、これこそが、眼を持つ者たちの、最高の誉れです。
 クリシュナとバララーマの二人の御子が、仲間とともに牛を導きて、横笛を奏でながらなげかける、そのまなざしよ。
 そのお顔を見て喜ぶことよりも大きな至福を、私たちは知りません。
 柔らかきマンゴーの葉と、クジャクの羽の飾り、蓮華の飾りをつけ、二人の御子は、絵のように美しく衣をまといて、仲間たちが歌う中、踊り子のように姿をあらわされた。
 ああ、この横笛は、いかなる善き行ないをなしたのだろうか。クリシュナの唇を味わい、その甘露の祝福を受けるとは。
 ああ、ヴリンダーヴァナの森は、クリシュナの御足で触れられて、その誉をさらに高めた。
 ゴーヴァルダナの丘では、クリシュナの横笛の調べを聞いて、クジャクは歓喜して踊り、それを見たすべての生き物は、動くのをやめてしまった。
 天の女神たちは、クリシュナのお姿を目にして、その唇で奏でられた不可思議な調べを耳に聞いて、愛の思いに心を乱され、髪から花を落として、裾もひどく乱れてしまった。
 甘露のごときクリシュナの横笛の調べを聞いて、子牛たちはクリシュナの姿を心にとめ、心の中で愛おしく抱きしめて、涙を流して立ち尽くす。
 ああ、友よ。これらの森の小鳥たちは、実はすべて聖者なのであろう。葉が茂る枝に止まって、まばたきもせずにクリシュナを見つめているとは。ああ、声も立てずに、クリシュナの横笛の甘い調べを聞かんとするとは。
 ああ、夏の日差しの中、クリシュナはバララーマや仲間とともに、牛たちに草を食ませて、横笛を奏でられる。空では雲が湧き上がって、愛しき主のために、傘のように大きく広がり、クリシュナを暑さから守りつつ、やさしく華を降り注ぐ。
 ああ、草の上では赤いサフランが、クリシュナの御足に踏まれてさらに赤く染まりあがる。愛にやつれた乙女たちは、顔や胸にそれを塗って、恋の苦しみを癒されよ。
 ああ、乙女たちよ。この山は、クリシュナの最高のしもべです。クリシュナとバララーマの二人の御子の蓮華の御足に歓喜して、彼らに清き水や葉を、洞窟や花をささげんとするとは。
 ああ、友よ。二人の御子は、仲間とともに、森から森へと牛を導き、横笛を奏でられる。美しきその調べに、生き物はすべて動きを失い、動かぬ木々は喜びを身にあらわした。」


 ヴリンダーヴァナにおけるクリシュナの遊戯を、ゴーピーたちはこのように歌いながら、それらに心を魅了されていくのでした。



つづく
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出張ヨーガ講習会のお知らせ

2014-10-27 21:52:13 | お知らせ


 以下の日程で、出張ヨーガ講習会を開催いたします。

 参加希望の方は、お早めにメールでご連絡ください。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。


 ※横浜・東京・大阪・仙台・札幌の方は、教室もありますので、そちらにもぜひお越しください。詳細はメールでお問い合わせください。

 ※現在講習会がない地方への出張も、要望があれば検討しますので、お気軽にご連絡ください。




11月2日(日)13:00~16:00
☆場所:札幌・かでる2・7(北海道立道民活動センター)6階 和室研修室【すずらん】
JR札幌駅から徒歩13分
http://homepage.kaderu27.or.jp/intoro/access/index.html


12月14日(日)11:00~14:00
☆場所:名古屋・亜細亜大陸アカデミー
地下鉄矢場町駅から徒歩3分
http://ajiatairiku-academy.com/asia/access.html



☆詳細-----------------------------------------------------------------------------------



☆参加費:3000円

☆内容:クンダリニー・ヨーガ、ハタ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガなどの各種行法実践と講義。
    初心者の方でも問題ありません。お気軽にご参加ください。

☆定員:3名~20名
    ※参加希望者が定員に達しなかった場合、中止になる場合もありますので、ご了承ください。

☆予定しているメニュー:アーサナ(気を調える体操)
            気功(気を充実させる内気功)
            プラーナ―ヤーマ(各種の呼吸法)
            ムドラー(覚醒の技法)
            マントラ
            瞑想
            講義
 
☆持ち物:動きやすい服装
     ヨガマット、または大きめのバスタオルなど(床に横になるときに下に敷けるもの)。

☆申込先:メールか電話でお申し込みください。


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グル・バクティヨーガ(91)「宇宙的愛の開発」

2014-10-27 19:22:21 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎宇宙的愛の開発


 あなたの敵を愛しなさい。劣った者を愛しなさい。動物を愛しなさい。あなたのグルを愛しなさい。すべての聖者、聖仙を愛しなさい。

 グルへの無私の奉仕、偉大なる魂とのサットサンガ、祈り、グル・マントラの復唱を通じて、徐々に普遍的な愛を育てていきなさい。

 他者が偉大なる努力によって到達したものと同じものを、あなたはグルの恩寵によって得られる。

 祝福されているのは従順な者である。なぜなら、彼らはすぐにグルの恩寵を得るからだ。祝福されているのはグルに帰依処を求める純粋な者である。なぜなら、彼らは本当に必ず至福を得るからである。

 従順さは、グルの恩寵へとあなたを導く唯一の王道である。

 グルとは、あなたが生と救済の神秘の扉を開くときの「開けゴマ!」のような呪文である。

 霊性の師、あるいは真に偉大な者の第一のテストは、従順さである。それは根本的な美徳である。
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歪められたインドの歴史

2014-10-27 11:43:27 | 松川先生のお話


 ヒンドゥー教の代表的な聖典の一つである「バーガヴァタ・プラーナ」の日本語訳が星雲社から出版されていますが、その付録として訳者である美莉亜さんが「歪められた歴史」という興味深い小文を載せています。
 これと同様の主張・仮説は他の人の文章でも読んだことがありますが、この美莉亜さんの文章は説得力のある形でまとまっており、ヒンドゥー教や仏教、あるいはインドの歴史に興味のある人にとっては興味深い内容になっています。
 ただしこの本がけっこう高価であり、あまり書店等にも置いていないものなので、要点だけ軽く要約してみました(といっても結局長くなってしまいましたが笑)。興味のある方はお読みください。また全文を読みたい方は「バーガヴァタ・プラーナ 下巻」(星雲社)を参照してください。



◎はじめに

・「インド人は歴史を記録する習慣を持たなかった」「それゆえ過去の歴史資料にも、正確な年代を示すものはほとんどない」とよくいわれるが、本当だろうか? ゼロを発見した国であり、世界に冠たる天文学の知識を持っているインドが? また、そもそも自国の歴史を残さない国などがあるだろうか?

・以下に述べることは、一つの説として読んでいただきたい。同時にこれは一部のインド人により以前から言われてきたことであり、また近年の研究により、アーリア人侵略という説に疑問が呈されていることから、十分に考慮に値する説ではないかと思われる。

・【バーガヴァタ・プラーナ】に記載される王や年代の記述と、現代の歴史書の記述を照らし合わせると、年代において矛盾が生じる。それはインド人の無頓着さを示すものだとも考えられるが、しかしそのようなことに無頓着な人々が、歴代の王の名前と年代をこれだけ細かく記すだろうか?


◎シャンカラの誕生念に関する問題

・インド宗教界の最大の巨人のひとりであるシャンカラは、現代の定説ではAD700年ごろに生まれたとされているが、シャンカラが創設したいくつかの僧院には、歴代の僧主の名前と在任期間が明確に記されている。それらの逆算によると、シャンカラの誕生年はBC509年ということになる。しかしそうなるとシャンカラはお釈迦様と同時代の人ということになり、矛盾が生じる。なぜならシャンカラはインド全体で興隆を極めていた仏教に異を唱えたのだが、仏教はその発生当時は、北インドの一部の人にしか知られていない小さな宗教だったから。(付け加えると、シャンカラの師は大乗仏教の影響を受けていた人とされているので、この点でも矛盾が生じる。)
 この矛盾を解決する仮説として――お釈迦様(ガウタマ・シッダールタ)は、本当はBC6世紀ごろのひとではなく、もっと過去に登場した方なのではないだろうか?


◎東インド会社

・18世紀、東インド会社はインドを実質統治するようになるが、財政の悪化等によりイギリス政府が介入することとなり、ベンガル、マドラス、ボンベイの三か所にあった貿易の拠点をベンガルで一括管理することとなり、1774年、初代ベンガル総督としてウォレン・ヘイスティングスが着任。そして1783年に、上級裁判所判事としてウィリアム・ジョーンズが赴任してきた。
 高名な言語学者であり、キリスト教徒でもあったウィリアム・ジョーンズは、インドを訪れたとき、インド人の生活が古代の聖典ヴェーダにのっとって成立しており、さらにサンスクリット語が大いなる権威を持っていて、国民に尊ばれているのを知った。またこの地方では、ガウディヤ・ヴァイシュナヴァと呼ばれる、チャイタニヤから始まるヒンドゥーの宗派が浸透しており、そしてその教えが、キリスト教と似通った、クリシュナと呼ばれる神への愛の道であり、それがキリスト教よりも以前から続いており、人々が熱心に信仰しているのを知った。
 さらにこの地方では「クリシュナ」と発音するとき、それはキリスト(クライスト)とほぼ同じに聞こえるのである。
 またBC3000年ごろにマハーバーラタ戦争があったと聞いて、彼は非常に驚いたに違いない。なぜなら当時のヨーロッパ社会は純粋にキリスト教を信じており、そしてそんな彼らの理解では、天地創造はBC4000年ごろにあったことであり、ノアの大洪水はBC3000年ごろ、さらに中近東で民族移動が始まったのはBC2000年ごろとされていたからだ。


◎ウィリアム・ジョーンズの行動

・ウィリアム・ジョーンズは、このようなインド人を抵抗なく従属させて、イギリスへの反乱の芽を摘み取るためには、彼らの生活の根本であるヴェーダへの信頼を失わせて、クリシュナへの信仰をくじかせることが最も重要と考えたのではないだろうか?
 1784年、彼は『アジア協会』を設立した。この会の表向きの主旨はインドの文化をよく理解しようとするもので、サンスクリット文献などを研究していたが、その真の意図はどこにあったのだろうか?
 歴史上、一つの国が他の国を支配する場合、ないしは新しい王が君臨したときなどは、過去の遺物を葬り去ろうとするものである。秦の始皇帝の焚書、ローマ軍によるアレキサンドリア図書館の放火、イスラム教徒によるナーランダー仏教大学図書館の破壊、中国人民解放軍によるチベット僧院書庫の破壊、ナチスによる図書の破壊など、支配者は被支配者の思想を破壊するためにあらゆる手段をとる。しかしイギリスが奸知に長けていたのは、彼らは暴力ではなく知力によってそれを徐々に成し遂げたところにある。
 ウィリアム・ジョーンズは、ウォレン・ヘイスティングスに次のように進言している。
「インド人に我々の信仰(キリスト教)を浸透させるには、今のところ多大な困難が存在しています。彼らはローマや他の教会のいかなる宣教師によっても改宗させることは不可能でしょう。彼らの心境に革命を起こさせるには、イザヤなどの預言書の一部に簡単な説明を付属させて、それとともに、キリストの生涯を預言したものをサンスクリット語で作成し、それらを太古から存在したように装って、知識人の間にこっそりと広めることが、最も効果的と思われます。」


◎インド・ヨーロッパ語族の発見?

・ウィリアム・ジョーンズはその後、ギリシャ神話やローマ神話の神々とヒンドゥー教の神々との間の共通性を指摘して、これらの神話を擁した人々は、遠い過去に同じ場所から各地に移住したものと考えた。さらに彼は、サンスクリット語と西欧諸語との間の共通性を見出して、サンスクリット語とラテン語、そしてギリシャ語が、今はこの世に存在しない共通の言語から派生したものだと発表した。これがいわゆるインド・ヨーロッパ語族の発見とされる。そしてそれ以降、比較言語学という学問が成立して、系統樹に相当する言語が研究されていくことになった。
 彼がこの理論を発表した本意はどこにあったのか? 確かに言語学者として、それらの共通点に純粋に目を開かされたのかもしれない。しかし後に述べる、それまでの東インド会社の行動、およびこれ以降の彼の行動を見ると、インド人の精神的根拠となるサンスクリット語を貶めんという心理が、彼の心に働いていたのではないかと思われてならない。
 そして1793年、彼は、「プラーナ聖典に記されるマウリア朝のチャンドラグプタは、メガステネースが【インド誌】の中で伝えているサンドロコットスと同じ人物だと判明した」と発表した。

・しかしメガステネースが「インド誌」の中で書いているのは、「自分はセレウコスによってインドのサンドロコットス王の宮廷に派遣された」ということだけで、「マウリヤ朝のサンドロコットス」とは一言も述べていない。
 さらにこの書物の内容についても、「金を掘り出す蟻の話」や「大きな自分の耳の中で眠る男の話」などの奇抜な話が多かったため、信用に値しないという評価も多くあった。しかし当時インドに関する資料がほとんどなかったため、西欧の歴史学者の間では、彼の「インド誌」は珍重されていたらしい。


◎サンドロコットスとは誰なのか?

・「バーガヴァタ・プラーナ」から導き出されるマウリヤ族の初代の王チャンドラグプタの戴冠は、BC1541年ごろであるが、ウィリアム・ジョーンズは、それをアレクサンドロス王とほぼと同時期のBC302年ごろだと主張したのである。
 このジョーンズが述べた仮説が、その後当然の前提とみなされてしまったために、インドの歴史から、その両者の間の1200年が消滅させられてしまったもののようになってしまった。
 
・グプタ朝とは、古代インドでマガダを支配した王国の名前だが、その成立年代は、現代の定説ではAD320から550年ごろとされている。しかしグプタ朝の年代を特定する文献は現在存在しておらず、それらの定説は、グプタ朝はマウリヤ朝の後に現れた王朝だということと、遺物等から推測されたものにすぎない。つまり実際には誰も正確にその年代を特定できてはいないのだ。
 しかし実はグプタ朝の記録は、「バヴィシャ・プラーナ」の中の「カリユガ・ラジヴリッタ」に残されている。それによると、グプタ朝とはBC328年に成立したマガダの王朝で、その初代のグプタ族の王は、マウリヤ族の初代の王と同じチャンドラグプタという名で、さらに彼の息子はサムドラグプタと呼ばれて、BC321年に父の後を次いで王となり、BC270年まで統治している。
 サンドロコットスというギリシャ語は、チャンドラグプタよりもむしろサムドラグプタに近いと言えないだろうか? そしてメガステネースの記述したBC302年という年代も、サムドラグプタ王の統治した期間にちょうど合致する。つまりサンドロコットスとはグプタ朝のサムドラグプタのことではないのか?
 この意見は、実はインド人の一部から、以前より持ち上がっていた問題であった。


◎その後のアジア協会の活動について

・しかしその後、ウィリアム・ジョーンズが唱えた「サンドロコットス=マウリア朝のチャンドラグプタ」という説は当然の事実とみなされて、他のすべての年代がそれを基準に定められていった。これによって、イギリス側としては、インドの歴史がそれほど古いものではないとインド人に思わせることで、インド人から優越感を取り除くことができたかもしれない。そして太古のものとされたヴェーダの絶対性を貶めて、聖典への信頼を失わせ、クリシュナやラーマは実在していない伝説の存在だと思わせることに成功したかもしれない。
 
・東インド会社とアジア協会は、その発足当時から、支配者としての権威を用いて、インド全土から、集められる限りのサンスクリット写本を収集していった。それらの中には、マガダ(ビハール)、ハスティナープラ、ウッジャイン、ネパール、カシミール、アッサム、ラジャスタンなどの王国の歴史を記した書物もあった。つまり東インド会社が中心となって、インドの歴史資料をすべて収集して、それを処分してしまったのだ。そしてインド国民に「インド人は昔から歴史を正確に記す習慣がなかった」という教育をしていき、庶民はそれを信じて、同じように繰り返しているだけなのだ。

・その後、東インド会社は、1835年に植民地教育官僚としてやってきたT.B.マコーリの発言によると、「血と肌の色はインド人でありながら、好みと思考、道徳、知性の面ではイギリス人」を作ることを目標に、インド人に英語教育を受けさせ、イギリス式の教育を受けた者だけが要職につけるような制度を作り、知識階級の目を伝統的ヒンドゥー教から背けさせることに成功した。その結果、西欧の思想に染まった人々が要職を占めるようになり、そんな彼らが国民にその思想を浸透させていった。


◎マックス・ミューラー
 
・マコーリは、1848年、ドイツ生まれの言語学者マックス・ミューラーに面会して、インド人がヒンドゥー教への信頼を失うようなかたちでリグ・ヴェーダの翻訳をおこなうことを依頼した。そしてその報酬として、東インド会社は彼に10万ルピーを提供する用意があることを説明し、原稿一枚につき4ポンドを支払う契約を結んだ。当時のイギリスの教師の給与が年に90ポンド程度だったことを考えると、それがどれだけ高額だったかがわかる。そしてマックス・ミューラーはその趣旨に従って1875年までにリグ・ヴェーダを翻訳し、発行した。
 マックス・ミューラーは比較言語学、比較宗教学の第一人者であり、ヴェーダの翻訳などによってインド学に貢献した学者とされているが、ほとんどの人は彼の実際の仕事の内容について理解していなかった。彼自身は一度もインドの土を踏んだことがなく、イギリス本土にとどまりながら、東インド会社が用意したインド人学僧からサンスクリット語を学んで訳したに過ぎなかった。
 彼は1867年12月、妻に次のような手紙を書き送っている。
「私自身、それを見るまで生きていないだろうが、私の翻訳したこれらのヴェーダは、インドという国の、今後の運命、そしてこの国に生まれるであろう何百人の心に、多大な影響を及ぼすだろう。これ(ヴェーダ)こそが彼らの宗教の根本であり、その真の姿を彼らに明らかにすることが、過去三千年間にわたってそこから生まれたすべてを覆すことのできる、唯一の方法となると思われる。」
 また1868年12月、知人に送った手紙ではこう書いている。
「古代からインドに伝わるこの宗教は呪われている。キリスト教がこの国にもたらされないなら、誰がこの国の運命について責任を負うというのだろう?」
 このようにヴェーダを信じていないマックス・ミューラーに、ヴェーダを正しく訳すことができるだろうか? インドに生まれて、師から教育を受けた者でさえ、ヴェーダの解釈を間違うほどなのに、単なる言語学者であり、初めから偏見を抱いている人間に、ヴェーダを正しく翻訳できるだろうか?

・マックス・ミューラーはその後、ジョーンズの唱えたインド・ヨーロッパ語族という概念から、アーリア学説なるものを考案して、それを発表した。これはこの言語を話していたアーリア人がヨーロッパから全世界に散らばっていったというもので、彼はこの時点で言語的集団を人種的集団に変換させたのである。
 今日では「アーリア人」とは遺伝子的共通性を持つ人種ではなく、よくても文化的共通性を持つ民族だろうと見られている。しかし1858年になって、インドを政治的に支配したイギリス政府は、この理論を悪用して、アーリア人のインド征服という理論を持ち出した。そうすることで彼らはインド人に、自分たちはかつて白色人種に征服された民だと思わせて、さらにイギリス人はかつての支配階級であるアーリア人と同じ期限だと主張することで、自分たちのインド支配を正当化したのである。 

・マックス・ミューラーの後には西欧教育を受けた幾人ものインド人たちが、歪曲したヴェーダの解釈を表して、その神聖さをけがしていった。たとえばカルカッタのサンスクリット大学教授タラナートは、1866年、当時の金額で10万ルピーという膨大な報酬(当時のインドの小学校校長の月給は20ルピー)で、マックス・ミューラーの訳にあうようにサンスクリット語を誤訳した辞書を作成する任務を、イギリス政府から引き受けた。彼の作成した辞書は今でも使われている。


◎サムドラグプタとはどのような人物か?

・メガステネースが言及したサムドラグプタ王の生涯については、アラハバードで発掘された石柱に記された詩句から読み取れるといわれている。そしてサムドラグプタ王の業績がサンスクリット語で書かれた部分の上方には、プリヤダールシ王の業績がパーリ語で書かれている。
 プリヤダールシとは、現在の通説では、マウリア朝のアショーカ王、つまりアショーカヴァルダナのことであり、この石柱も彼がインド各地に建てたものの一つであり、その下方に約600年後、サムドラグプタが自分の業績を記したとされている。
 これらの石柱が建てられた年代は、そこにアショーカ王の支配が及んだ外国の五人の王の名が記されており、それらの王の在位期間がBC290~240年の間に収まることから、これらの石柱もそのころに建てたものと推測されている。
 しかし実際はマウリヤ朝のアショーカヴァルダナはBC1450年ごろの人なので、時代が合わない。
 そしてこれらの石柱が建てられた時代にマガダの王だったのは、サムドラグプタだったのだ。そしてサムドラグプタは別名をプリヤダールシと呼ばれ、またアショーカディティヤとも呼ばれていた。つまりサムドラグプタこそがこれらの石柱を建てた人物ではないのか。実際、インド大陸を支配したような王が、過去の王が600年も前に建てた石柱の、しかもその下方に、自分の業績を刻ませたりするだろうか? むしろ新しい石柱を建立するのではないだろうか?
 これらの石柱から読み取れるサムドラグプタの生涯を検討すると、彼は12の王国を征服したが、征服した王国には温情を示して、それらを属国として支配するにとどまった。また彼自身はヴィシュヌ信者だったが、他の宗教にも寛容で、スリランカの仏教徒の王がブッダガヤーに僧院を作ることを許可したりしている。
 次に、一般に仏典でいわれているアショーカ王の生涯を見ると、彼はマウリヤ朝の初代の王チャンドラグプタの孫にあたり、現在の定説ではBC268~232年に王として君臨した。若いころは暴虐だったが、インド全土を征服した後、仏教に改宗し、善政を施して、征服国にも慈悲を示し、インド中に8万4千のストゥーパを建設したとされている。
 こうして見ると、グプタ朝のサムドラグプタ王と、仏典でいわれるマウリヤ朝のアショーカ王は、両者ともに仏教に共感を示し、インド全土を征服して善政を施したという点で、似通っている。このような二人の共通性に、ジョーンズがインドの歴史をねじ曲げて約1200年省略させたことが重なり、異なった時代に生きた二人のアショーカという名の人物が、一人の人物として再構築されたのではないだろうか?



◎二人のアショーカ王

・仏典に出て来るアショーカ王と、石柱などの考古学的資料から知られるアショーカ王は同一人物とされているが、仏典に出て来るアショーカ王が仏教に改宗して熱心な仏教徒になったのに対して、石柱などから知られるアショーカ王は、古来からインドに伝わるダルマにのっとって生き、また他宗教にも寛容だったというだけで、特に仏教に傾倒したような形跡は見られない。
 つまり、現在アショーカ王とされているのは、マウリヤ朝のアショーカヴァルダナと、グプタ朝のアショーカディティヤ(サムドラグプタ)の二人が合成されてできた架空の人物なのではないだろうか?


◎お釈迦様の年代

・お釈迦様ことガウタマ・シッダールタは、現在の説ではBC500年ごろに生まれたとされているが、これについての直接的な資料は存在しない。セイロンや中国の史書において、お釈迦様はアショーカ王より数百年前の人だとされているのが根拠になっているだけである。
 しかし先に述べたように、アショーカ王とは二人いて、そのうち仏典に出てくる方のアショーカ王がBC1450年ごろのアショーカヴァルダナだとするならば、お釈迦様の活躍した年代は、それより数百年前ということで、BC1800~1700年ごろということになる。
 仏典によると、お釈迦様の時代のマガダ国の王はシシュナーガ族のビンビサーラであり、彼は息子のアジャータシャトゥル王子に殺されたとされる。
 そして「バーガヴァタ・プラーナ」には、シシュナーガ族のヴィディサーラ(ビンビサーラ)とその息子のアジャータシャトゥルという名前が登場し、そしてその400年ほど後にマウリヤ朝のアショーカヴァルダナが誕生しているのだ。


◎消滅した「バヴィシャ・プラーナ」

・先に述べた「バヴィシャ・プラーナ」の中の「カリユガ・ラジヴリッタ」によると、グプタ朝は現在考えられている紀元後に存在した王朝ではなく、BC328年からBC83年に存在した王朝である。
 最初にこの文献に注目して、イギリス政府が宣伝したインドの歴史に疑問を呈したのは、ナーラーヤナ・シャーストリ(1869~1918)というマドラスの学者であり、彼は5万点もの資料を調べて、20年にわたる研究成果を「THE Days of Sankara」という書物にまとめた。当初これは8冊に分けて出版される予定だったが、第一冊目を発行後、彼が亡くなってしまったために、残りは発行されず、後に彼の蔵書はすべて失われてしまった。
 しかし彼は自分の主張をすべて序文に書いており、それらを要約すると以下のようになる。

①シャンカラの年代はBC509~477年である。

②マハーバーラタ戦争はBC3139年にあったことである。

③お釈迦様が活躍したのはBC1800年代である。

④サンドロコットスはマウリヤ族のチャンドラグプタではなく、グプタ族のサムドラグプタである。

⑤ブリハドラタ族からグプタ族の終わりまでの、マガダを治めた王の系譜について。

⑥インドなどの各地で発掘された碑文やコインを、イギリスは間違ってマウリヤ族のアショーカヴァルダナに帰している


・現在出回っている「バヴィシャ・プラーナ」を見ると、そこにはこの「カリユガ・ラジヴリッタ」の部分が存在していない。どの書籍を調べても、どこの図書館にも存在していない。しかしシャーストリがその部分をまとめて1971年に「マガダ国の王について」というタイトルで出版しているので、それによってかつて「カリユガ・ラジヴリッタ」に記されていたグプタ朝の系譜を見ることができる。
 現在出回っている「バヴィシャ・プラーナ」にもマガダの王たちの系譜が記されているが、それはたとえばお釈迦様の父親であるはずのシュッドーダナがお釈迦様の息子とされているなど、荒唐無稽な内容である。そしてそのような荒唐無稽な内容を書きながら、お釈迦様がBC500年ごろに生まれ、チャンドラグプタがBC312年に即位したことになるように帳尻を合わせてある。またこのプラーナにはなんと未来の預言としてイギリス政府によるインド支配のことも書かれており、これは明らかにイギリス政府が手を加えたとしか考えられない。
 このように改ざんされた「バヴィシャ・プラーナ」が、1910年にボンベイのシュリー・ヴェーンカテーシュワラ・プレスから発行され、それが現在手にすることのできる唯一の「バヴィシャ・プラーナ」となっている。

・ヴィシュヌ、マツヤ、ヴァーユなどのプラーナにおいても、マガダの王については矛盾が生じている。しかし他の部分についてはほとんど矛盾が見られない。マガダを支配した王の系譜についてだけ矛盾が集中していることを考えると、明らかに恣意的なものを感じざるを得ない。

・イギリスがインドを支配するまでは、カースト制度もそれほど違和感なく人々に受け入れられており、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒も仲良く共存していた。イギリス支配によって差別意識と民族性が強調され、インドの国は分断されたのだ。








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グル・バクティヨーガ(90)「神の悟りへの最も簡単な道」

2014-10-27 07:40:45 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎神の悟りへの最も簡単な道


 師の御足に庇護を求めて、インスピレーションを受けなさい。

 愛とは、師への蓮華の御足に弟子のハートを結び付ける黄金の紐である。

 グル・バクティヨーガは、神意識を悟るための最も簡単で、最も純粋で、最も早く、最も安全な道である。あなたがた皆が、グル・バクティヨーガの実践によって、まさに今生で神意識に到達しますように。

 グルの御名に帰依しなさい。彼の御名を常に歌い、唱えなさい。カリ・ユガにおいては、グルの栄光を歌い、彼の蓮華の御足を瞑想することが、最も素晴らしく、最も簡単に神の悟りを得る方法である。

 グルへの信仰は、解脱や永遠の至福の扉を開くマスターキーである。

 人生とは甘い花であり、グルへの信仰はその甘い蜜である。

 師の御足への信仰は、真の弟子のまさに生命である。

 グル・バクティヨーガの実践は、不死、最高の平安、永遠の歓喜をもたらす。

 グルは慈愛と慈悲の権化である。彼は慈愛の大海である。

 グルの祝福を得たいと望むならば、あなたも慈愛と慈悲の権化にならなければならない。

 グルへの信仰において、弟子の心の中に利己性の色がついていてはいけない。

 グルへの信仰は、不朽で不変でなければならない。

 グルにお仕えするという心からの意欲は、まさに信仰のエッセンスである。

 肉体の愛は情欲である。グルへの愛は信仰である。それは愛のための愛なのだ。

 グルへの信仰は、神への信仰への足掛かりである。

 ジャパ、キールタン、祈り、瞑想、聖者への奉仕、教学、聖者との交際を通じて、あなたの心の庭園の中にグルへの純粋な信仰を育てなさい。

 グルへの奉仕は、あなたの人生の唯一の関心事、そして唯一の目的でなければならない。

 自分自身よりもグルを愛しなさい。
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