ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

10月・11月の出張ヨーガ講習会のお知らせ

2014-09-30 21:22:30 | 松川先生のお話


 以下の日程で、出張ヨーガ講習会を開催いたします。

 参加希望の方は、お早めにメールでご連絡ください。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。


 ※横浜・東京・大阪・仙台・札幌の方は、教室もありますので、そちらにもぜひお越しください。詳細はメールでお問い合わせください。

 ※現在講習会がない地方への出張も、要望があれば検討しますので、お気軽にご連絡ください。



10月19日(日)13:00~16:00
☆場所:京の山杣人工房「空」
JR京都駅から徒歩5分 下京区総合庁舎となり
http://somabitoqo.exblog.jp/i11


11月2日(日)13:00~16:00
☆場所:札幌・かでる2・7(北海道立道民活動センター)6階 和室研修室【すずらん】
JR札幌駅から徒歩13分
http://homepage.kaderu27.or.jp/intoro/access/index.html




☆詳細-----------------------------------------------------------------------------------



☆参加費:3000円

☆内容:クンダリニー・ヨーガ、ハタ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガなどの各種行法実践と講義。
    初心者の方でも問題ありません。お気軽にご参加ください。

☆定員:3名~20名
    ※参加希望者が定員に達しなかった場合、中止になる場合もありますので、ご了承ください。

☆予定しているメニュー:アーサナ(気を調える体操)
            気功(気を充実させる内気功)
            プラーナ―ヤーマ(各種の呼吸法)
            ムドラー(覚醒の技法)
            マントラ
            瞑想
            講義
 
☆持ち物:動きやすい服装
     ヨガマット、または大きめのバスタオルなど(床に横になるときに下に敷けるもの)。

☆申込先:メールか電話でお申し込みください。


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今日のAMRITAチャンネル「アニメ・リトルクリシュナ 第七話」

2014-09-29 20:43:19 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ・リトルクリシュナ 第七話」です。


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「グル・リンポチェ」(7)

2014-09-29 20:01:06 | 聖者の生涯


 ニンティクの教えに関して、17のタントラと、カンドゥ・ニンティクも含めたゾクチェンのメンガグデのタントラを、グルリンポチェは、ツォギャルに内々に伝えました。
 その後、サムイェーの近くのチンプーで、ティソン・デツェン王の娘のペマサル王女が8歳でこの世を去ったとき、グル・リンポチェはその力によって王女の意識を肉体に呼び戻し、王女はニンティクのメッセージと教示を法の相続として受け取り、死にました。グル・リンポチェはツォギャルに、「今はヴィマ・ニンティクが人々に利益をもたらす時期だ。だからカンドゥ・ニンティクの教えは、テルマとして隠しなさい」と指導しました。


 グル・リンポチェは王に言いました。


「エマホ!偉大なる王よ、私の話を聞きなさい。
 この世には本質はない
 代わりにこの世には、際限なく回り続ける苦しみの循環だけがある。
 ダルマカーヤの王国の不朽の統治を必ず達成しなさい。
 不生の究極の領域の本質を悟りなさい。
 森の中で、孤独の本質にとどまりなさい。
 隠居所、究極の本性、清澄さと空虚さの融合の本質を探しなさい。
 生まれもった精神の本性の家の中でくつろぎなさい。
 念と正智の調理場の本質を築きなさい。
 悟りの二重の精神という宝物の本質を育てなさい。
 智慧と徳の二つの富の集積という本質を持ちなさい。
 十の高徳な行いの利点の本質の中で、自身を発揮させなさい。
 あらゆる存在への慈悲という、父なる神の本質を見つけなさい。
 空の本性という母なる神の本質を維持しなさい。
 完成と発展のステージの不可分性という子供たちの本質を持ちなさい。
 輝き、至福、無分別である、生涯の伴侶の本質を瞑想しなさい。
 スガタの教えという友の本質を見つめなさい。
 不変の明瞭さの曼荼羅の本質をよく観察しなさい。
 心の従順さの教えの本質に従いなさい。
 不変の透明さと空という景色の実体を目撃しなさい。
 ありのままの心の本性という瞑想の中でくつろぎなさい。
 活動の根底である二元的妄想を取り除きなさい。
 努力のない自発的完全性の結果の本質を遂げなさい。
 そうすれば、今生も来世も幸せでいられるだろう。
 そしてまもなく、ブッダの境地に到達するだろう。」


 グル・リンポチェの指示通りに、ツォギャルはメンガグデの指示書とタントラ、そしてカンドゥ・ニンティクのための教えを隠しました。数世紀後、ペマ・レデルツァルというペマサル王女の生まれ変わりが、タモ・タクに隠されていたカンドゥ・ニンティクのテルマを持ち出しました。
 王女の次の転生はロンチェン・ラブジャムで、ニンティクの教えを、説法や執筆によって広く流布する使命にありました。
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グル・バクティヨーガ(79)「グルへの忠誠と奉仕」

2014-09-29 09:45:08 | 経典の言葉・聖者の言葉

◎グルへの忠誠と奉仕


 現代、多くの偽のグルや偽の弟子がいる。グルを探すときは気を付けなさい。

 弟子の義務は、グルの聖なる御口から出た命令に従うことである。

 グルの家の周囲を整頓し、きれいに保ちなさい。

 師と弟子の間の関係は、愛される者と愛するもののそれの如くである。

 ときどき、グルは弟子をテストする、あるいはときには誘惑したりそそのかしたり陥れたりもする。しかし弟子はグルへの確固たる信によってそれらを乗り越えるべきである。

 弟子はグルに何も隠してはいけない。率直で、真っ直ぐでなければならないのだ。

 ラーガ・ドヴェーシャ(愛著と嫌悪)から自由であるグルの蓮華の御足の塵になることは、類稀な特権である。

 至高者と一体となっている師の聖なる御足の塵は、弟子にとっては神聖なる装飾品である。

 グルへの奉仕を絶対に一日も休んではいけない。くだらない言い訳はするな。

 常にグルの御足の塵の如くある者は、祝福されている。

 グルの恩寵は、謙虚で、簡素で、従順で、グルの蓮華の御足に献身する弟子にそそがれる。

 グルの御手の中の道具であれ。

 グルがあなたの過ちを指摘するとき、あなたは自分の行為を正当化してはならない。ただ彼に従いなさい。

 アーサナ、プラーナーヤーマ、瞑想を、それらに精通したグルの指導の下で学びなさい。

 食べすぎる者、眠りすぎる者は、グルのお好みに従ってお仕えすることができない。
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グル・バクティヨーガ(78)「行動の原則」

2014-09-28 19:53:43 | 経典の言葉・聖者の言葉



◎行動の原則


 グルが食べる前に、決して食べ物を食べてはいけない。

 グル・ジュタ・プラサード(グルの食べ残し)を食べる者は、彼との一体感を感じるだろう。彼はグルの恩寵を通じてグルと一つになる。

 たとえやむを得ない状況であっても、グルが休んだり眠ったりしているときは、彼を起こしてはいけない。

 グルに冗談を言ってはいけない。彼に冗談を言っていると、(徐々に)、あなたは彼への尊敬を失っていき、彼と自分は同等だと感じてしまうであろう。

 自分を堕落させ、さらにあなたをも堕落させてしまう偽の師に気を付けなさい。

 グルを持つことは素晴らしいが、彼と離れることは非常に悪いことである。

 グルを持つことは素晴らしく、彼に強烈な信を持ってお仕えすることは、さらに素晴らしいことである。

 グルに従うことは、神に従うということである。 

 たくさんのグルを持つことは、悪いことである。
 グルを欺き、グルに背くことは、非常に、非常に、悪いことである。

 番犬のように、常にグルにお仕えする準備をしておきなさい。

 飽くことなくグルにお仕えすることによって、彼の恩寵を得なさい。

 グルの恩寵を得た者だけが、サーダナーの秘密を知っている。

 グルを持つことは素晴らしいことである。――彼の命令に従うことはさらに素晴らしく、彼の祝福を得ることは最高に素晴らしい。

 グルにお仕えする者のみが、真理と接触する方法を知っている。

 モーハ(迷妄)から解放された者は、グル・ドローハ(グルに対する不誠実)を決して行うことはない。

 グル・マハラージが生きている間に、自分がグルの王座をとりたいと思う者は、地獄直行のパスポートを得る。

 グル・プールニマ(グルの満月)の日に自分のグルにパダプージャ(御足の礼拝)を行う者は、一年を通じてすべての仕事に成功するだろう。

 グルバイ(兄弟弟子)を愛することは、グルデーヴァを愛することである。

 グルバイを助けることは、グルデーヴァを助けることである。

 グルにお仕えするという意味は、自分自身を救うということである。

 グルにお仕えすることは、親に仕えるということである。

 あらゆるものに盲目的な信を持つことは良いことではない。
 神と交わっているグルの言葉に盲目的信を持つことは、モークシャ(解脱)に至る王道である。

 あなたが高位の学者になることはすぐにでもできるだろうが、真の弟子になるのは全く容易いことではない。
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「ナーグ・マハーシャヤ」(18)

2014-09-28 19:45:09 | 聖者の生涯




 ナーグ・マハーシャヤの妻は、彼の第一の信者でもありました。彼女は毎朝誰よりも早く起き、朝の家事を終えるとすぐに礼拝と瞑想にふけりました。彼女は、夫と客が食事を終えるまでは、自分が食事の席に着くことはありませんでした。そしてだれにも、彼女の妹のハラカミにさえ、自分の仕事を手伝うことを許しませんでした。

 彼女は、夫のナーグ以外に神を知りませんでした。ナーグ・マハーシャヤが彼女の唯一の礼拝の対象であり、彼に対して心からの信仰と崇拝をささげ続けていました。

 マハーシュターミという祝福された日に、彼女はナーグ・マハーシャヤの足もとに花をささげたいと思いました。しかし謙虚なナーグは、それを許しませんでした。すべての衆生を神と見ていた彼は、
「私が礼拝しているその人から、誰が供物を受け取ることなどできましょうか」
と言いました。しかし彼女はあきらめずにチャンスを待ちました。そしてナーグが何気なく隅に立っているときをとらえて、彼の足もとに花を捧げました。そうして彼女は、捧げたその花を金のロケットに入れて首にかけました。

 ナーグ・マハーシャヤの信者たちにとって、彼女は神聖なインスピレーションの尽きざる源泉でした。彼女は信仰と慈愛そのものであり、女性としての美徳をそなえていました。他者への奉仕における彼女の優しさ、辛抱強さ、忍耐力、そして自己犠牲と、一切を超えた彼女の純粋さや苦行は、誰の心をもとらえずにはおきませんでした。


 彼女の母、すなわちナーグ・マハーシャヤの義理の母は、非常に信心深い女性でした。あるとき彼女はカルカッタに上京し、娘と義理の息子(ナーグ)とともに、クマルトゥーリに滞在しました。そこで彼女は毎日ガンガーで沐浴し、川底の泥でシヴァの像を造り、礼拝しました。
 ある日、彼女が礼拝していると、シヴァの像の頭部に、ひび割れがあるのを発見しました。これは良くない前兆であると考え、彼女は身震いしました。ひどく心をかき乱され、ガンガーの岸辺で一日中泣いていました。暗くなっても彼女が帰宅しないので、ナーグは心配して探しに出かけ、ガンガーの岸辺で泣いている彼女を見つけました。事情を聞いたナーグは彼女に、何も悪いことが起きることはないだろうと言って慰めました。
 しかし彼女は家に帰ってからも、食事もせずに、悲しくみじめな気持ちのままベッドに入りました。その夜彼女は、シヴァ神が彼女の前にあらわれ、次のように語る夢を見ました。
「私はあなたに非常に満足している。あなたはもう私を礼拝する必要はない。」
 翌朝、彼女はそれをナーグに話しました。そしてその日を境に、彼女の神像への礼拝は終わりを告げました。誰かが彼女にその理由を尋ねると、彼女は言いました。
「私はシヴァを義理の息子として手に入れました。この上、シヴァの像を礼拝する必要がありましょうか。」





つづく
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「ヴィヴェーカーナンダ」(22)

2014-09-28 19:38:27 | 聖者の生涯




 1893年9月11日、ついに世界宗教会議が開会されました。

 キリスト教、イスラム教、仏教、ユダヤ教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、儒教、神道、ゾロアスター教など、世界中のさまざまな宗教の代表者たちが一堂に会し、その会場は七千人ものアメリカの文化人の聴衆たちで埋め尽くされていました。
 
 初日、各宗教の代表者たちは、一人ひとり壇上に立ち、用意されていた原稿を読み上げました。
 ヴィヴェーカーナンダの順番は31番目にやってきました。しかしヴィヴェーカーナンダは、何の原稿も用意しておらず、またこのような多くの聴衆の前で話すのは初めてだったので、少し気後れし、自分の番は後に回してほしい、と議長に頼みました。
 ついに他の全員のスピーチが終わり、ヴィヴェーカーナンダは促されて壇上に上がりました。

 何の原稿も用意していないヴィヴェーカーナンダは、壇上に立つと、神に祈りを捧げてから、堂々とした声で、こう言いました。
「アメリカの兄弟姉妹の皆さん!」

 この瞬間、七千人の聴衆は立ち上がり、スタンディングオベーションで拍手喝采を送りました。なんとその後二分もの間、聴衆は座ることなく、拍手を送り続けたといいます。

 なぜこのようなことが起こったのでしょうか? これまでにスピーチしたすべての宗教家たちは、用意された形式的な原稿を読み、ただ自分たちの宗教の優位性を語るだけの、退屈なスピーチでした。聴衆はこのときのヴィヴェーカーナンダのような、兄弟のように自然で率直な暖かさを持った言葉を待っていたのです。
 しかしもちろんそれだけでは、このような短い言葉で、7千人の聴衆にスタンディングオベーションをさせることなどは不可能でしょう。やはりこのときのヴィヴェーカーナンダは、神の意思により、その言葉、その姿から、まさに文字通り神がかり的なオーラを発していたのではないかと思います。
 
 やっと聴衆の拍手がおさまった後、ヴィヴェーカーナンダはスピーチを始めました。
 他の宗教家たちが、自分の宗教のすばらしさを語るだけだったのに対し、ヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナの教えの特徴である、すべての宗教は一つであり、すべての宗教の神は、ただひとつの絶対者であるということを説きました。
 スピーチが終わると、再び耳をつんざくばかりの大拍手が起こりました。

 この日はヴィヴェーカーナンダの独壇場で終わりました。
 この夜、ホテルに帰った後、ヴィヴェーカーナンダは涙を流しました。それは、スピーチが成功したことへの喜びの涙ではありませんでした。
 ヴィヴェーカーナンダは、ついに世に出たのです。もう彼にとっては、ただ神との不断な交わりの中での、一僧侶としての孤独な生活は終わりを告げたのです。神の安らぎの平安のうちにひっそりと住む代わりに、絶え間ない騒ぎと強要の付きまとう公の生活の中に投げ出されたのです。それは神の意思であるということはわかってはいましたが、自分の平安な人生が終わりを告げたことを知り、彼は子供のように泣いたのでした。

 この宗教会議の期間中、ヴィヴェーカーナンダは計12回にわたるスピーチをしました。
 議長は毎日、ヴィヴェーカーナンダのスピーチの順番を、一番最後に回しました。なぜなら聴衆の多くが、ヴィヴェーカーナンダのスピーチを聞きにやってきていたからです。人々は15分のヴィヴェーカーナンダのスピーチを聞くために、一時間でも二時間でも待っているのでした。
 シカゴの町には等身大のヴィヴェーカーナンダのポスターが飾られ、多くの通行人はその前で足を止め、敬意を表して頭を下げました。

 アメリカの各新聞も一躍宗教会議のヒーローとして颯爽と現われたインドの無名の僧のことを、こぞって書き立てました。

「彼は間違いなく、宗教会議中の最も偉大な人物である。
 彼の話を聞くと、これほど学識のある民族に宣教師などを送るのは何という愚かなことだろう、と感じる。」
(ニューヨーク・ヘラルド紙)

「彼はその情操や容貌の威厳から、会議の大変な人気者である。演壇を横切るだけで拍手される。この無数の人々からの格別の賛辞を、彼はほんのわずかの自負心もなく、子供のような心で喜んで受け入れた。」
(ボストン・イブニング・ポスト紙)


 このヴィヴェーカーナンダの大成功は、インドの新聞や雑誌にも掲載されました。
 それを知ったヴィヴェーカーナンダの法友たちの喜びは、筆舌に尽くしがたいものでした。
 確かにラーマクリシュナは、
「ナレーンドラはいつの日か世界を揺るがすだろう」
と、口癖のように言っていました。しかしその言葉を文字通り信じた者はどれほどいたでしょうか。ラーマクリシュナの信者や弟子たちは改めて、師の言葉が寸分たがわず正しかったことを知ったのでした。 

 ヴィヴェーカーナンダ自身も、インドの兄弟弟子や信者たちに何度も手紙を送り、彼らの情熱をかき立てました。たとえばあるときヴィヴェーカーナンダは、信者への手紙にこのように書きました。

「ふんどしをしめなおしたまえ、私の息子たちよ。
 私はこのことのために主に呼ばれているのだ。
 希望は君たちの中に――柔和な、謙虚な、そして誠実な者たちの中にある。
 不幸な人々のために感じ、そして助けを求めたまえ。――それは必ずやってくる。
 私はハートから血を流しつつ、助けを求めて地球の半分をよぎり、この知らぬ他国にやってきたのだ。主が私をお助けくださるだろう。私はこの国で寒さと飢えに死ぬかもしれない。しかし、若者たちよ、私は君たちに、貧しい人々、無智な人々、圧迫された人々へのこの慈悲心、彼らのためのこの努力を残して逝く。
 「彼」の前にひれ伏して、大きな犠牲をささげたまえ。彼らのために――日々に沈んでいくこれら三億の人のために――全生涯を捧げるのだ。
 主に栄光あれ。われわれは成功するだろう。幾百人が、努力の半ばで倒れるだろう。――しかし幾百人が、喜んでその後を引き受けるだろう。
 命などはなんでもない。死などはなんでもない。主に栄光あれ! 前進せよ! 主がわれらの大将である。倒れた者を振り返って見るな。前進せよ! 進み続けよ!」




つづく
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「いかに心を作り変えるか」

2014-09-28 19:16:45 | 解説・心の訓練



解説・心の訓練⑥




◎いかに心を作り変えるか

 はい、今日は「心の訓練」ですね。

 「心の訓練」っていうのは、非常にとらえどころのないテーマなわけですが――つまり分かりやすいね、例えば呼吸法であるとか、あるいは布施をするとか、あるいはこれこれの瞑想とか、そういうものではなくて、「人生すべてを使って、自分の心をいかに作り変えていくか」っていうのが、この「心の訓練」っていう一つのテーマなんですね。

 で、お釈迦様が言ってるように、お釈迦様っていうのは「仏教とは何か」って言った場合に、「善を為せ、悪を為すな、心を浄化しなさい」と。それが仏陀の教えだってことを言ってらっしゃる。で、形ある――例えば布施をするとか、人に優しくするとか、そういう形ある善、あるいは戒律をそのまあ表面上守るという、形ある悪を為さないっていうこと。これはもちろん、淡々とやればいいわけだけど。あるいは日々のいろんな修行も、淡々とやればいいわけだけど、最も難しいのが、「いかに心を浄化するか」なんだね。

 ――っていうのは、心っていうのは人生すべてに行き渡ってる。で、われわれが例えばこういうヨーガとか仏教の本を読んで、「こういうふうに考えなさい」「こういうふうに思ってはいけませんよ」とかこう読んだときに、「ああ、なるほど」と。「ああ、そういうふうに私も生きたい」――こういうふうに思うのは簡単なんだけど、日常においてさまざまな条件がやって来たときにね――つまり、ものすごく、例えば人に優しくしたい気持ちになるようなときとかね、あるいはものすごく正しく生きたいと思うときは、問題がない。でも人生っていうのは、そんなときばっかりじゃない。いろんなことがやって来て、例えば人に馬鹿にされたりとか、裏切られたりとか、あるいはそこまで行かなくても、なんか今日はむしゃくしゃするとか、いろんなときがある。で、どんなときも、自分の心を教えに則って正しく保たなきゃいけない。あるいは、自分の中にちょっと悪い性質があるならば、それを改造していい性質に変えていかなきゃいけない。これがこの「心の訓練」という一つのテーマなんですね。




◎ブッダになるために不可欠な法

 はい、で、まあちょっと何度も同じような話をしてるけど、もう一回その基本的なことを言うとね――これは元々は、非常に秘儀とされていた教えと言われています。秘儀――つまり一般的に、「はい、心の訓練ですよ」っていうそういう教えではなくて、本当に少数の者に伝えられていた教えだったんだね。

 で、この「心の訓練の七つの要点」っていうのを書いた人っていうのは「チェカワ」っていう人がいるわけですが、このチェカワって人が偶然ね――ここでみんな知ってる人もいるでしょうが、「心を訓練する八つの詩」っていうのがあって、それを偶然目にして、「これは素晴らしい」と。「こんな偉大な教えがあるのか」ってすごく感動してね、で、それを知ってる師匠のもとに行ったわけですね。その師匠のもとに行ったんだけど、その師匠はみんなに教えを説いてるんだけど、全くこの心の訓練の教えを説かない。一般的なよくある仏教の教えしか説かない。で、チェカワは不審に思ってね、誰もいなくなったときにその師匠に個人的に尋ねに行ったわけですね。

「わたしは心の訓練っていう教えに興味があるんだけども、これはわたしの修行において必要でしょうか」

というふうに尋ねた。そしたらその師匠が言うには、

「あなたが仏陀になりたくないなら必要ないが、もしあなたが仏陀になりたいんだったら、これは不可欠である」

って言ったんだね。で、そこでチェカワは、

「もしそんな重要な教えだとしたならば、なぜあなたはそれを説かないんですか」

と。つまり一般には説かないんだね。で、それに対してその師匠は、

「いや、これは、これを本気でやろうと――つまり実践しようと思う人以外には、全く無意味な教えだ」

と。

 つまり、非常にこれは具体的な教えなんだね。これを学んで、「ああそうですか、ありがたい教え聞きました」――では全く無意味なんだと。だから、本気で自分の心を変えようと思ってる人にしか、これは意味がない教えだと。だから少数の者だけに伝えられてると。

 で、そこでチェカワは、「わたしはこれを一生かけて学びたい」と言って、その伝授を受けてね、で、まあおそらくチェカワがそこで師匠から受けた教えっていうのは、もうちょっとこう、まだまとまりがないものだったと思う。それを一生かけてチェカワが自分で修行して、それをこの「七つの要点」っていうのにまとめたんですね。

 でもまだこれも要点です。これをまたさらに掘り下げて考えていったり、実践したりしていくのは各自でやらなきゃいけない。それがこの素晴らしい教えなんだね。

 で、ただチェカワは、さっき言ったように、もともとはこれは秘密裏に教えられてたわけだけど、あるとき、ハンセン病ね、現代的にいうとハンセン病、昔でいうライ病ですね。インドとかチベットはもともとハンセン病が多い。ハンセン病って、たとえば痛みを感じなくなって、それで気づかないうちに怪我をしたりすると、そこから身体が腐っていっちゃったりする恐ろしい――現代ではもちろんその治療はできるようになってるわけだけど、その当時はもう治療法も見つからない恐ろしい、で、伝染するっていわれてたから、恐ろしい病気だったわけだね。チェカワがそのハンセン病の人達とか、あるいはその他の重病人のところを訪れたときに、あまりにも哀れでね、本当にかわいそうだと思った。でも自分には別に医者としての心得も無いし、お金もないし、何も彼らにしてあげられることがないと。わたしが知っていることといえば、心の訓練の修行ぐらいだと。ね。

 で、心の訓練の修行っていうのは秘密裏に教えられてきたんだけど、あまりにも患者たちが哀れだったんで、彼らに自分の持っている唯一の財産である「心の訓練」の教えを与えたんですね。そしたらそれを実践した――特にね、そこで特に中心的に教えたのは、ここでもやっている慈悲の瞑想、つまりトンレンです。つまり、みんなの苦しみをグーッと引き受けて、自分の幸せをみんなに与えるっていうことをやりなさいと。そういうことを常にイメージしなさいと。それをその患者たちに教えたわけだね。あなたは今、重病で体中が痛くて苦しいでしょうが、その中でも周りの病人とか、あるいは世界中で苦しんでいる人々の苦しみを全部自分が引き受けるっていうふうに思いなさいと。そして逆に、あなたの中の喜びを、他の全ての魂に捧げなさいと。こういう瞑想をしなさい――と教えたわけだね。で、そうしたらそれを実践した人達が、ある者は病が治っていった。ある者は治るまで行かなくても、つまり病気ですごく精神的に悲惨だった状態が安らかになっていった。

 で、それを見てチェカワは、「あ、この教えは、確かに実践しなければ意味がないので、秘密裏に教えてられてきたものではあるが、このように多くの人にこれを伝えれば、このような多くのメリットもあるじゃないか」と。つまり、まだこれを完璧には実践できなくても、多くの人がこれを知り、これを少しでも実践することによって、物理的あるいは精神的なメリットは多大にある――と思ったんだね。で、そこで、それまで実は秘密裏に伝えられてきたものを、大っぴらにというか多くの人に伝えだした。こうして伝わってきたのが、この「心の訓練の七つの要点」っていう教えですね。

 で、これは、これも何度も言ってますが、これのまた別パターンで残ってる素晴らしい教えが、ここでよく推奨してるね、シャーンティデーヴァの『入菩提行論』です。これはもしまだ読んでない人とかいたら、私が解説した『菩薩の生き方』っていう本がありますので(笑)、ぜひ買って読んだらいいね。それはそれでとてもまとまっています。つまり、われわれがいかに日々心を鍛え、心を変えていくかっていうことが、非常にいろんな具体的かつ的確なたとえとかを使って説かれている。だから『入菩提行論』は『入菩提行論』で素晴らしいね。

 で、この七つの要点はまたちょっと別の角度から、非常にシンプルにまとめてあるものですね。

 はい、そしてこの間までは5番のとこまでいったわけですが、今日は6番から。で、この6番からは、だんだん非常に具体的な指示に入ってきます。だからこれはおそらくチェカワが自分自身、もしくは他の人を見てて、つまり現代の――現代っていうのはもちろん、数百年前のチベットだけど――現在のこの人間たちの中で、現実的に生じうるいろんな現象――つまり自分が心を正しく保てないような現象をいろいろ想定した上で、具体的にポイントを挙げてるんだと思うね。

 はい、じゃあ、この六番の「心の訓練に関する18の誓約」、これをちょっと読んでいきましょうね。
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グル・バクティヨーガ(77)「高度な叡智の源」

2014-09-28 19:00:13 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎高度な叡智の源


 純粋意識から生じる高度な叡智は、アイデアや思考という形でやって来るのではなく、力としてやって来る。それは(純粋意識のシャクティと合一している)グルによって、直接的に弟子に伝えられなければならない。

 神の悟りは、自己の努力だけでは得られない。グルの恩寵が絶対に不可欠である。

 弟子が高度なイニシエーションを受けるに相応しくなると、グルは自ら、ヨーガの奥義で彼をイニシエートしてくださるだろう。

 グルへの信は、山をも動かすことができる。グルの恩寵は、驚異的に効果がある。疑ってはならない。進め。おお、勇者よ!

 絶対者と一つである偉大なる霊性の者にお仕えする者は、輪廻の泥沼を渡ることができる。

 もし世俗の心を持った人々に仕えるならば、あなたは世俗の人々の性質を得る。一方、常に至福に浸り、徳の住居であり、愛の権化であられるグルの蓮華の御足にお仕えするならば、あなたは彼の性質を得る。ゆえに、お仕えしなさい。お仕えしなさい。お仕えしなさい。

 弟子は(他者の前で)グルにお仕えするのを恥ずかしがったり、尊厳を傷つけられるかのように感じてはならない。
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「偉大なる善行者のしるし」

2014-09-28 18:36:41 | 解説・心の訓練




◎偉大なる善行者のしるし

【本文】
④偉大なる善行者のしるし――言葉と行為を一貫して、大乗の教えに従うこと。


 これも書いてあるとおりですが、つまり善行者っていうのは、言葉でいいことをすらすらと言うのが善行者ではない。言葉と行為が一貫しなきゃいけないってことだね。これはあたりまえのことだけどね。

 逆に言うとこれは、われわれは気をつけなければいけないことなんだね。つまり、われわれは言葉ではぺらぺらといろんないいことを言う。「わたしこう思ってるんです、こう生きたいです」と。「いや、こうですよね」と、いいことを言うと。で、日常のいろんなことにぶつかると、すぐにエゴが出る。あるいは煩悩が出る。全然教えどおり生きていないと。これでは駄目だと。

 だからまず大乗の教え、菩薩の教えっていうのをしっかり学び、で、もちろんそれを、言葉に発するときは発するでいいんだけど。それと一致した行動を取る。常に有言実行というかな、現行一致というか、それを心がけなきゃいけないということですね。




◎偉大なるヨーギーのしるし

【本文】
⑤偉大なるヨーギーのしるし――菩提心を起こすためのヨーガに取り組むこと。
 心が散乱したときも、訓練された心によって、おのずから制御できるようにせよ。


 はい、五番目が、「偉大なるヨーギーのしるし」。

 あの、ここでいうヨーギーっていうのは、別にアーサナとかやることじゃなくて、もともとね、ヨーガっていうのは瞑想のことなんですね。だからヨーギーっていうのは、瞑想の修行者ってことです。

 つまり、菩提心を起こすための瞑想修行、もしくは、さまざまな修行に日々取り組んでると。日々励んでると。この人は、偉大なるヨーギーといえますよと。これはそれをやるしかないね。

 で、実際にその人の人生の中で、菩提心っていうのが一つの目的となって、で、日々それが自分の日課になっていると。日々自分で心を変える、菩提心を培うような瞑想を日々行なっていると。これは一つの偉大なるヨーギーのしるしですよと。




◎訓練された心によって

 はい、そしてまとめとして、「心が散乱したときも、訓練された心によって、おのずから制御できるようにせよ」と。

 つまりまずわれわれは、日々自分の心を訓練しなきゃいけない。まあ、それイコールヨーガっていうんだけど。つまり、自分の心を甘やかしちゃいけないよ。ね。日々人間っていうのは、自分の心を甘やかす修習が多い。自分で自分の心を甘やかさずに、しっかりと調御する。

 調御して――「心が散乱したときも」っていうのは、つまり調子がいいときは、この五つのこととか、あるいはその前に書かれたこともできるけども――例えば潜在意識がバーッて出てきましたとか。あるいは、何かいろんなことがあってちょっと心が乱れました――こういうときに、すべてができなくなるんじゃしょうがない。

 もちろんそれは条件が悪いとはいえる。つまり、いろんなことがあって心が乱れました。条件が悪くなりました。条件が悪くても、調御できなきゃいけない。

 もともとヨーガっていうのは、「馬を操る」みたいな意味が語源としてあるんだけど――つまり、馬を操ってて、馬にこう乗ってて、天気がよくて、道もなめらかなときはいい。嵐が来ました。あるいは道がどろどろですと。普段から馬の訓練をしてない人でも、天気がよくて道がなめらかだったらスーッと行ける。でも、そのような悪い条件が来たときに、普段から訓練してたかどうかの差が出るわけだね。普段から訓練してれば、全く難無くその道を乗り越えられる。普段からしっかり馬の訓練をしてなかったら、ちょっと雨が降っただけで、ちょっと泥道なだけで、落馬してしまったり、あるいは馬が進まなくなってしまう。

 だからそれも、心の訓練も同じだと。普段からしっかりと自分の心をコントロールし、教え通りに生きる訓練をしていれば、何かがあって――例えば深い意識のけがれが出てきましたとか。あるいは予想してなかったことが起きて心が乱されましたっていうときも、なんとかグーッて取り戻せるんだね。それは辛いかもしれないけどね。辛いかもしれないけど、グーッて教えどおりの心に自分を引き戻せるんだね。だから、そういう訓練を日々意識してやらなきゃいけない。これがまとめのところだね。

 はい、じゃあこの後は「十八の誓約」がまた長くなっちゃうんで、それは次回にして、今日はこれで終わりにしましょう。お疲れ様でした。

(一同)ありがとうございました。
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ニティヤーナンダの生涯(8)

2014-09-28 07:21:45 | 聖者の生涯


◎ニティヤーナンダと母サチ


 翌朝、マハープラブはニティヤーナンダを自分の家に連れていき、母にこう言いました。

「お母さん、ご覧ください。お兄さんのヴィシュヴァルーパを連れてきました。」


 母サチはニティヤーナンダを見て驚き、喜びながらこう言いました。

「あら本当! ヴィシュヴァルーパにそっくりだわ。」

 そしてニティヤーナンダにこう言いました。

「あなたは本当に、私の息子のヴィシュヴァルーパなの?」

 ニタイは答えました。

「はい、お母さん。私はあなたの息子のヴィシュヴァルーパですよ。」

 サチはニタイを胸に抱きしめ、口づけし、眼からこぼれる涙で彼を濡らしたのでした。
 それから彼女はこう言いました。

「息子よ! どうしてあんなに冷酷になって家出して、私を長い間泣かせたのだい?
 まあとにかく、今は優しい息子になって帰って来たから、めちゃくちゃなニマイのお世話をお願いね。もう私の心配は終わったわ。」


 しかし、ニマイもめちゃくちゃでしたが、狂気の様相においてニタイはニマイを凌駕していました。
 愛の酒で深く酔っ払って、ニタイは子供のようにシュリーヴァスの家で暮らし、シュリーヴァスのことを「ババ(お父さん)」と、彼の妻マーリニーのことを「マー(お母さん)」と呼び、愛される子供のように、あるときは頑固になり、またあるときはつまらないことで怒ったり、喜んだりしました。
 彼はマーリニーの膝の上に座り、子供のように彼女の乳房をしゃぶり、彼女がその手で与えたものしか食べませんでした。

 彼については、すべてのことが並外れており、超越的でした。
 あるとき、彼がシュリーヴァスの家の庭で何かを食べていると、カラスがやってきて、タクルのために明かりとして使うギーが入った小さな壺を持ち去ってしまいました。
 マーリニーは深く悲しみました。
 ニティヤーナンダは彼女が悲しんでいるのを見ていられず、そのカラスを呼んでこう言いました。

「兄弟のカラスよ! 来てください。
 私のランプを返して、パンくずを持っていってください。」

 すると、ああ! カラスは戻ってきてランプを返したのでした。
 これを見てマーリニーは、ニティヤーナンダのサンカルシャナとしての本来の姿を思い出したのでした。
 彼女はそれを思い出すと、意識を失ってしまいました。
 意識を取り戻すと、彼女はサンカルシャナとしてのニティヤーナンダの賛美を歌い始めました。


「おお、私の主よ! あなたはシェーシャとして、その頭で無限なるブラフマーナンダを支えていらっしゃいます。
 あなたはラクシュマナとして、ラーヴァナの一族をすべて滅ぼされました。
 あなたは鋤でカリンディ河をご自分の傍に引っ張りました。
 あなたはグル・サンディーパニ・ムニの息子を、ヤマの世界から連れ戻されました。
 カラスからランプを取り戻すことなど、あなたにとっては些細なことだったのです。」
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第96話」

2014-09-26 21:36:38 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第96話」です。
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「ヴィヴェーカーナンダ」(21)

2014-09-25 18:02:18 | 聖者の生涯



 ついにシカゴに到着したヴィヴェーカーナンダは、世界宗教会議について訪ねようと、会議が行なわれる万国博覧会の案内所に行きました。
 そこでヴィヴェーカーナンダは、大変なショックを受けました。宗教会議に参加するには、信用できる団体からの推薦状が必要であり、しかも参加の申し込みはすでに締め切ってしまったというのです。

 これはヴィヴェーカーナンダにとって、全く予期せぬことでした。というのも、インドにおいて、世界宗教会議に出席するよう勧めてくれた多くの友人や信者たちの誰もが、そんなことは言っていなかったからです。ヴィヴェーカーナンダも、他の者たちも、ただシカゴで世界宗教会議が行なわれるということだけしか知らず、詳しい申し込み方法も、会議の詳しい日時さえも、誰も知らなかったのです。
 インドの信者や友人たちは、ヴィヴェーカーナンダのすばらしい人格こそが十分な証明書となるのだから、細かな申し込みなどはいらない、とにかくシカゴに行けば出席できるだろうと、まじめに楽天的に信じていたのでした。

 インドという地で生きてきたヴィヴェーカーナンダと信者たちは、西洋社会のシステムについて、あまりにも世間知らずで無智だったのでした。

 ヴィヴェーカーナンダは困り果てました。しかも、信者から援助されたお金も少なくなってきていました。
 そこでヴィヴェーカーナンダは、以前親交があったインドの神智学協会に、援助を求めました。自分を宗教会議にインド代表として推薦してくれるとともに、金銭的援助も依頼したのです。しかし神智学協会の指導者からの返答は、援助をするには、ヴィヴェーカーナンダが神智学協会の信条に同意しなければならない、というものでした。ヴィヴェーカーナンダは神智学協会と友好関係にはありましたが、その教義はほとんど信じていなかったので、結局その条件を拒み、神智学協会の指導者も一切の援助を拒みました。

 窮地に追い込まれたヴィヴェーカーナンダでしたが、彼は運命をただ神に任せました。

 どちらにせよ、宗教会議が行なわれるまではまだ二ヶ月ほどあったので、とりあえずヴィヴェーカーナンダは、残り少ないお金を節約するため、生活費の安いボストンに移動することにしました。
 このボストン行きの汽車の中で、ヴィヴェーカーナンダは、ある裕福な貴婦人と知り合いました。彼女は、ヴィヴェーカーナンダの高貴な人格と、叡智に富んだ会話に感動して、ぜひ自分の家に泊まってくれるように勧め、そして彼をハーバード大学のギリシャ語の教授だったJ.H.ライト氏に紹介しました。
 ヴィヴェーカーナンダは、この学識高い教授と、さまざまな問題について何時間も語りあいました。ライト教授はヴィヴェーカーナンダのまれに見る才能に深く感動し、ヒンドゥー教の代表として世界宗教会議に出るべきだと、強く勧めました。
 ヴィヴェーカーナンダは自分の事情を説明し、そうしたいのだが信任状がないのだ、と打ち明けました。するとライト教授はこう言いました。
「スワーミー。あなたに信任状を要求するのは、太陽に対して、お前は輝く権利があるのかと尋ねるようなものですよ!」

 ライト教授はヴィヴェーカーナンダのことを、宗教会議に関係している多くの重要人物に手紙で推薦しました。そこには、このように書かれていました。
「ここに、学識あるわが国のプロフェッサーたち全部を一つに集めたよりも、もっと学識のある人がいます。」

 こうしてヴィヴェーカーナンダが宗教会議に参加できるよう手はずを整えたライト教授は、さらに彼にシカゴ行きの切符を買い与えてくれました。

 ヴィヴェーカーナンダは早速再びシカゴへと向かいました。
 汽車はシカゴに夜遅くに到着しました。しかしなんとヴィヴェーカーナンダは、宗教会議の委員会の住所を書いた紙をなくしてしまったのでした。彼はどこに助けを求めていいかわかりませんでした。しかも彼が迷った場所は、ドイツ人ばかりが住んでいる町の一角で、ヴィヴェーカーナンダの英語は全く通じないのでした。
 仕方なくヴィヴェーカーナンダは、鉄道の貨物置場の中にあった大きな貨車の中で、何も食べずに一夜を過ごしました。
 翌朝ヴィヴェーカーナンダは、家々を訪ねて食物を乞いました。インドを旅していたときは、彼はこうして日々の食物を得ていたのです。しかし布施の観念が強く根付いているインドと違い、そのような習慣のないアメリカの人々は、食事を分けてくれと突然たずねてきたヴィヴェーカーナンダをただの乞食としか見ず、多くの家々を回っても、誰も食物を分けてくれませんでした。
 空腹と疲労で疲れきったヴィヴェーカーナンダは、ついに道端に座り込んでしまいました。そして、すべてをただ至高者の意思に任せようと決心しました。

 すると、ヴィヴェーカーナンダが座り込んでいた道路の向かい側の家の扉が開き、一人の貴婦人が近づいてきて、
「失礼ですが、あなたは宗教会議の代表の方でいらっしゃいますか?」
と尋ねました。
 この女性は、シカゴ婦人会のジョージ・W・ヘール婦人でした。
 ヴィヴェーカーナンダが彼女にすべての事情を話すと、婦人はヴィヴェーカーナンダを家に招いて朝食に誘い、その後に宗教会議の事務所に案内してくれました。こうして無事にヴィヴェーカーナンダは正式な手続きを済ませ、世界宗教会議の参加者として認められ、他のアジアの代表者たちとともに宿舎を与えられたのでした。


 無謀にも、何の手続きもせず、日時さえも知らぬまま、ただ神と師ラーマクリシュナの意思だけを信じて、一人颯爽とシカゴに乗り込んで来たヴィヴェーカーナンダ。
 それはあまりに無計画な行動にも見えましたが、結局神の導きにより、ヴィヴェーカーナンダが世界宗教会議にインド代表として出席する手はずは整えられたのでした。




  
つづく
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「偉大なる苦行者のしるし」

2014-09-25 09:07:40 | 解説・心の訓練



◎偉大なる苦行者のしるし

【本文】
③偉大なる苦行者のしるし――心を修練し、煩悩を除去するために、いかなる苦難にも耐えることができること。


 われわれが修行を進めると、いつも言うように、さまざまな浄化、あるいはカルマ落としがやってくる。あるいは、まああっちからやってこなくても、自分が何かを自分の中で乗り越えようとするときに、当然それは辛い。しかし、どんな苦難が来ても、忍辱ね、耐えなきゃいけない。

 で、そのような修行をひたすら繰り返してると、あるときわれわれは――まあ、「いかなる」っていうのはもちろんどこまでかっていう問題があるけども――相当大きな苦難が来ても耐えられるようになってくる。それはもちろん最初の志が強いからだけど、それは一つの証拠になりますよと。

 だからこれは逆に言うと、例えばいろんな苦悩が来たときに、ちょっと心が萎えてしまう。「ああ、ちょっと駄目だ……」ってなってしまうとしたら、反省しなきゃいけない。「ああ、まだまだわたしは忍辱が足りない」と。「修行にはもっと強い心が必要だ」と。「強い心をもっと培って、もっともっと大きな苦難にも耐えられるようにしよう」っていうことを考えなきゃいけない。

 はい、しかし、あらゆるさまざまな苦悩に耐えられるようになったと。喜んでそれに立ち向かえるようになったら、それは一つのしるしですよと。

 だから、そういう意味ではいつも言うように、逆境っていうのは祝福なんです。なぜかというと、そういうのがないとわれわれは鍛えられないんだね。

 前にも言ったけどさ、例えば占星術でものすごい――例えば幸福のグランド・トラインが二つあるとか、そういうタイプの人って、あまり人生で逆境がない。そうなると当然、心が辛いときがないから、それに立ち向かうとか、苦しみに耐えるっていう経験ができないから、表面上幸せなんだけど、心はなよなよっとした状態で進んでいく(笑)。そうなると、その人は何か自分の本質的な問題とぶつかったときに、なかなか乗り越えられなくなっちゃうんだね。

 だからそういう意味でいうと、われわれの前に逆境が訪れる。で、そこで苦しまなきゃいけない。これは神の祝福ともいえる。そして、それによって自分の心が鍛えられるんだね。

 わたしもやっぱり振り返ると、そういう逆境的なこととか苦しいことっていうのは――もちろんずっと苦しかったわけじゃないんだけど、ある時期ごとにバッバッて来たりする。で、今考えると、もう気が狂う寸前のときもあった。つまりその苦しみがすごすぎて気が狂う寸前だったり、あるいは自殺する寸前とかね。あるいは、もう逃げ出す寸前っていうか、そういうところまで追い込まれたことは何回もあった。でも、不思議なことにね――最後までわたしが、例えば、こうかっこよくね、ぐーっと心を変えなかってのもあるわけだけど、そうじゃなくてもちろん、特に昔は、心が萎えてしまったこともよくあるわけです。いろんな苦しいことがバーッてあって、最初は「うう、頑張るぞ……」ってやってるんだけど、「ああ、もう駄目だ」と(笑)。で、さっき言ったみたいに、自殺しようって思ったこともある。あるいは、もうすべてから逃げ出したいって思ったこともある。あるいは、いろんなそういう破滅的な思いにとらわれたこともある。でも、振り返るとだけどね、そのときは真剣なんだけど、振り返ると、ギリギリでパッとそれが終わるんだね。

 つまり、「わー、もうすべてから逃げ出したい! 修行も放り出したい!」。あるいは「もう苦しすぎて自殺したい!」って、そういうふうに本当に思うときもあったんです。で、それがもし、そこまでいってそれが後何日か続けば、本当にわたしは自殺してたこともあったかもしれない。もしくは、修行をすべて投げ出したこともあったかもしれない。けど、ギリギリまでいくと、パッと終わるんです(笑)。

 だから、明らかになんか操作されてる感じがあるんだね(笑)。ギリギリまで引っ張られて、わー……ってやられてパッて終わる。つまり、それがそのときの自分の限界だった。そこで、ギリギリでなんとか苦しみが終わると。で、またしばらくして油断してると、また来たりするんだね(笑)。だからその繰り返しが、自分にとっては、やっぱり何も無い人生に比べたら、すごい自分の心が鍛えられた。振り返るとね、そういう感じがする。「ああ、すべては祝福以外の何ものでもなかった」と。その渦中にいるときはよく分からないんだけど。苦しすぎて。

 だからちょっと話がずれたけど、いかなる苦難にも耐えなきゃいけないわけだけれど、それにはやっぱり耐えるための訓練が必要だと。で、その訓練っていうのは、われわれに祝福があれば、自然に与えられるんだね。時期が来ると必ず、いろんな形で苦しめられる。で、それに耐えながら、ひたすら正しい生き方をすると。これがわれわれの訓練になります。

 もちろん、わざわざ日々苦しいことをやる必要はないんだけど、ただまあ、一つの基準として――例えば、われわれが何かしようとするときに――まあ人生っていうのは選択の連続だからね。「さあ、どっちを選択するかな」っていうときがあるよね。で、もちろんわれわれが心を仏陀や至高者に合わせて、誠実にこっちだなって分かれば、それはそれに越したことはない。でもそれもよく分からない場合、一つの基準として、エゴが嫌がる方を選ぶ。これは修行者の一つの基準です。

 もちろん、エゴが嫌がってないけれども、でも至高者の意思だと思ったらそっちを選んでかまわないんだけど。でもちょっと、至高者の意思がどっちかよく分からない――というときに、エゴが嫌がる方を選ぶ。これは一つの修行者の生き方です。

 エゴが嫌がる方を選ぶ。そうすれば当然苦しいです。でも、それがわれわれの人生なんだね(笑)。変な言い方だけど(笑)。それがわれわれの人生っていうのも変な言い方だけど(笑)、つまり、それによってわれわれは鍛えられ――つまり、そういうことに人生使わなかったらしょうがないじゃないですか。われわれは何のために生まれてきたんですか?――おいしいものを食べ、ぐっすり寝て、楽しい経験するために生まれてきたんだったらいいけども、そんなんだったら悲しい。じゃなくて、自分を鍛え、自分の悪いところを滅して、少しでもいい状態、いい魂に進化するために生まれてきたんだとしたら、そのためにこの人生を有効に使わなきゃいけない。よって、エゴを滅する方を選ぶ。エゴが嫌がる方を選ぶ。もちろんその前に至高者の意思が分かれば越したことはないけどね。

 そういうことを日々行なうことで、自分の心を鍛えるんだと。つまり、そういう認識が必要だね。修行って何ですかと。いや、それは自分を変えていかなきゃいけない。そのためには当然さまざまな苦痛――つまりまだ煩悩があるわけだから、煩悩と教えがぶつかれば苦悩を感じるのはあたりまえだと。それに日々ぶつからなきゃいけないんだと。苦しいことから逃げたいって気持ちはとても人間にはあるわけだけど、そもそも修行って苦しいんだと(笑)。もちろんそれを乗り越えたときには、もう何倍もの喜びがあるわけだけど、でもぶつかってるとき、エゴと戦ってるときは苦しくてあたりまえだと。ね。

 これもシャーンティデーヴァの『入菩提行論』にもあるけども――苦しみがあってあたりまえであると。なぜならば、エゴと戦っているからだと。戦闘において、そういう苦しみはつきものだと。ね。戦ってるときに、安楽じゃないじゃないですか。あたりまえだけど。自分もいろいろ刺されたりしながら、一生懸命戦ってる。で、エゴの首を斬り落とさなきゃいけない。それは、あたりまえだと。苦しみがあるのはね。で、そういう覚悟みたいなものがやっぱり必要なんだね。

 はい、それをしっかり実践してると、もういろんなことにあまり苦しみを感じなくなってくる。これが一つのしるしだと。まあもしくは、苦しみを喜びとして突っ込んでいけるようになるっていうことだね。
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聖者の生涯「プルナ・チャンドラ・ゴーシュ」(6)

2014-09-22 20:26:48 | 聖者の生涯



 1885年9月、シュリー・ラーマクリシュナは、癌の治療のためドッキネッショルからカルカッタに移らなければなりませんでした。
 1885年10月30日の早朝、プルナは密かに師を訪れました。Mが到着した時、師は微笑しながら彼に言いました。

「プルナが今朝来たよ。彼はなんて素晴らしい性質なんだろう!」

 残っている記録によると、師が亡くなる数か月前の1886年4月、プルナはコシポルのガーデンハウスでシュリ・ラーマクリシュナを最後に訪問していました。プルナはMが雇った馬車に乗って来ていました。

 シュリー・ラーマクリシュナの死後、プルナはより一層世間を離れ、現世に関心を示さなくなっていました。彼は時折、シュリー・ラーマクリシュナの出家信者たちを訪れていました。しかしこのことが、彼の両親を不安にさせました。プルナが出家してしまうのではないかと恐れた両親は、プルナを無理やり結婚させました。彼はまだ16歳でした。プルナの父は金融庁の高官だったので、同じ職場でプルナによい仕事を見つくろうことができました。
 プルナは後に出世しました。家従者としての務めを果たしてはいたものの、信者たちがプルナを訪れると、彼は師のことについてしか話さないか、もしくは沈黙し、彼らの会話に真摯に耳を傾けていました。

 シュリー・ラーマクリシュナの神のドラマの中で、プルナは影の役者でした。彼は、ただ師の指示通りに生活しました。シュリー・ラーマクリシュナの他の信者や弟子たちは、プルナの並はずれた信仰心と、神への信頼、献身、謙虚さ、無私な態度をこよなく愛し、尊敬していました。Mはよく彼の若い教え子たちをプルナの元へ送り、聖なる仲間たちからインスピレーションを得させました。プルナは、誰かが現世を放棄して出家すると聞くと、いつでも喜びました。

 1893年、スワミ・ヴィヴェーカーナンダがシカゴの世界宗教会議で成功を修めたという知らせがインド中に知れ渡りました。プルナは全ての新聞からそのニュースが掲載されている記事を切り抜き、バララーム・ボースの家に持っていきました。そこには、スワミ・ブラフマーナンダと他の直弟子たちがいました。プルナは、持ってきた新聞記事をみんなの前で大声で読み上げました。
 1897年、スワミ・ヴィヴェーカーナンダがカルカッタに帰ってくると、プルナは彼に会いにシールダー駅に向かいました。彼はスワミジを遠くから眺めていましたが、大勢の人たちが群がっていたので、彼に近づくことができませんでした。
 プルナは家に戻ると、会社に出勤する前にお風呂に入りました。ちょうどその時、スワミ・ヴィヴェーカーナンダの馬車が、彼の家の前で止まりました。そして、スワミ・トリグナティターナンダが、プルナを呼びに家の中に入って来ました。プルナは圧倒されました。彼はすぐさま、濡れた服のまま外に飛び出して、スワミジに頭を下げました。

「弟プルナよ。元気かい?」

とスワミジは尋ねました。
 プルナは答えました。

「スワミジ、師の恩寵により、私は元気です。シールダー駅であなたを遠くから見ておりました。会社に行かなければならなかったので、家に戻り、お風呂に入っていました。」

「それはよかった。」

とスワミジは愛深く答えました。

「濡れた服であまり長くいるな。仕事が終わったら、僧院に会いに来ておくれ。」
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