ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

「解説『至高のバクティ』」第3回 「バクティ」③(2)

2014-08-30 08:13:39 | 勉強会より抜粋



 はい、で、その「カルマヨーガやジュニャーナヨーガやラージャヨーガなどよりも優れている。なぜなら、それらのヨーガの到達点が、バクティそのものだから」と書いてありますが、これにはそうだな――二つぐらいの意味があるかもしれません。
 二つの意味っていうのは、一つはまず――じゃあ例えばジュニャーナヨーガ――ジュニャーナヨーガの到達点というのは、さっき言ったブラフマンの境地、ジュニャーナの悟りというわけですけども、つまりこれは何かというと、前も言ったけど、ブラフマンの悟りっていうのは、「これではない、これではない」――つまり否定の世界なんですね。「これではない、これではない」っていうのは、いわゆる分析によって、哲学的な論理的分析によって、私達が――例えば仏教でいうと四念処とかも入るわけですけども、自分の肉体であるとか、あるいは自分の心であるとか、あるいはわれわれの外界に見る、さまざまな執着してしまうような対象であるとか、あるいは五感で感じられるさまざまなもの――これを論理的に否定していくんですね。「これは実体がない」と。「ここには何の実体もない」と。
 これは例えば、仏教でもそういうのが得意で、そういう例えば空の哲学とかいっぱいあるよね。ナーガールジュナとかも、そういうことばっかりいっぱい書いてますけども。もう本当にそうなんだね。これは別に皆さん、追求する必要はないけども。
 哲学的にこの世のいろんなものを正確に表現しようとすると、何か矛盾が出てくるんです、この世のものは。「あれ?」って感じて(笑)。「あれ? あれ? あれ?……」って感じで矛盾が出てくるんだね。そうだな……例えば「永遠ってあるんだろうか?」と。「それともすべては無常――終わるんだろうか?」と。もちろん仏教的には、分かりやすく「すべては終わる」と言っている。「すべては終わる――何でもそうなんですか? あるいはそれはずーっとそうなんですか?――つまり限定的に十年間はすべて終わるけど、十一年目からはすべて終わらないってならないんですか?」と。「いや、なりません」と。「すべては終わる。これはずっと続きます」と。「じゃあ永遠じゃないか」と(笑)。例えばこれは言葉遊びみたいに聞こえるけども。
 あるいは例えば、よく言っているけどね――「時ってあるんですか?」と。時ってあるんですかっていうのは、「時間であるのだろうか?」と。つまりその「過去と未来と現在ってあるんだろうか?」と。例えば「いや、それはない」と。だって過去というのは過ぎ去ったものであると。未来というのはまだ来ていないものである――その、なんていうか架空のものであると。でもじゃあ「今って何だ?」というものがある。つまり「過去と未来を仮定しない今ってあるんだろうか?」と。つまり、「今」というのは――前もこれは言ったけどね、「過去の終わりと未来の始まりの狭間に、今という現実があるんだろうか?」と。でもこれは哲学的に追求していくとないんだね、実は。そうすると「あれ?」っていうことになる。「あれ? 過去も無くて未来もなくて今もない? あれ、じゃあこれ何?」ってなってくるんだね(笑)。
 こういうことを――今言ったいくつかの例は一つ二つなんだけども――こういうことを徹底的に分析していくと、「あれ? あれ? あれ?」ってなってくるんです。われわれがすごくガチガチに信じているこの世界そのものにほころびが出てくる。それを徹底的にやるんですね。徹底的にやっていくと、最終的にさっき言ったような状態にいく。つまり、「結局この世の――われわれの信じていた目に見えるものも、あるいは概念的に思っていた世界観も含めて――あれ? 全部――それはさっき言った、時間の問題も空間の問題さえも含めて――あれ? 全部実は幻? 存在しなかったの?」みたいな感じになってきて、で、その果てにブラフマンに気付くっていうんだね。これがジュニャーナ。
 で、ちょっと話を戻すけども――そこでジュニャーナヨーガの人達が気付いたブラフマンというのはいったい何なんだ? ということになる。ジュニャーナヨーガの人達が気付いたブラフマンっていうのは、「この宇宙の真髄ですよ」と。それは言葉にするとね、ちょっと無機的な感じを受けるんだね。無機的な感じっていうのは、そのブラフマンに例えば――ブラフマンというのは形もなく、相もなく、そしてもちろん名前もなく――仮にブラフマンという名前が付けられているわけだけど――本質的には何の相もない存在であると。つまり「クリシュナ」とか「シヴァ」とか、「ラーマ」とか「ヴィシュヌ神」とか、ああいう存在じゃないんだね。あらゆる相を超えた存在であると言われている。でもそれはもちろん、バクティで言っているところの至高者と本質は同じなんですね。で、本質は同じであって――さっきここには二つ意味があると言ったのは、一つ目の意味は――もう一回言うよ、このジュニャーナの人が到達するブラフマンと、バクティヨーガで到達する至高者の世界っていうのは、実は同じなんです。同じというのは、このブラフマンの本当の本当の正体をいうと、至高者の世界なんだという発想ね。だから結局ジュニャーナが到達したブラフマンの世界も、実はバクティヨーガが目指している世界と何ら変わらないと。
 これはラージャヨーガも同じで、ラージャヨーガというのは、今度は精神集中のヨーガですね。ラージャヨーガというのは――今、一般にラージャヨーガと言われているものは、いわゆる『ヨーガスートラ』の世界ですね。『ヨーガスートラ』というのは皆さんも知っているように、まずは禁戒、勧戒から入って――つまり戒律をしっかりと守って、日々さまざまな決められた戒行を行ない、そしてそれを土台としてアーサナ――ここでいうアーサナっていうのは、体操じゃありません。このラージャヨーガの八段階ヨーガ、これをアシュターンガヨーガというんですけども、今流行っているアシュターンガヨーガとは全然違います。今流行ってるアシュターンガヨーガはアーサナ中心のヨーガですが、本来のアシュターンガヨーガのアーサナっていうのは、ただの座法のことなんですね。つまり蓮華座とか達人座とか、そのような瞑想に適した座法を安定させましょうと。これにすぎない。だから別にいろんな体操をやる必要はない。
 で、その次の段階でプラーナヤーマ――つまり基本的な呼吸法を行なって――つまり呼吸のコントロールによって心を安定させると。
 次にプラティヤハーラといって、感覚を、あるいはエネルギーの流れを――外側にわれわれは向かっているわけだけども――これを内側にぐっと抑え込んで、制御しなさいと。
 で、ここまでが準備です。ここまでの準備を土台として、いわゆるダーラナー、ディヤーナ、サマーディという三段階に入りますね。このダーラナー、ディヤーナ、サマーディの三段階は、サンヤマというわけですけども、精神集中のただ進化のプロセスに過ぎないんだね。精神集中の深まりね。
 簡単に言うと、ダーラナーはただの集中です。ディヤーナは、これは意識の拡大なんですね。意識の拡大。ここでは何回も言っているけど、わたしの経験で言うと、このダーラナーからディヤーナへの移行っていうのは、多くの人が間違った解説をしています。間違った解説というのは、ある解説においては、これはだたの時間の問題とか言ってる人もいる。人っていうか、そういう解説書とかあるんだね。時間の問題っていうのはつまり、「これくらいの時間集中できたらダーラナー、これくらいの時間集中したらディヤーナ、これくらいの時間集中したらサマーディ」とか書いてある解説書もある。それはもちろん間違いです(笑)。あるいはそうじゃなくて、このダーラナーからディヤーナは意識の拡大と経典に書かれてあるので、それはつまり認識の拡大だってとらえている人がいる。認識の拡大っていうのは、例えばあるものに集中したときに、最初は例えばリンゴだったらリンゴそのものに集中してたのが、そのリンゴの色や、あるいは香りや、あるいはもう果ては原産地とかそういうとこまで分かるようになるんだというふうに言っている人もいる。でもそれも違います。そうじゃなくて、本当に拡大するんです(笑)。これがラージャヨーガの世界だね。
 ラージャヨーガの世界っていうのは、何かそういうような話ではなくて本当に――まあだからラージャヨーガの世界ってね、何回か言っているけども、例えばスポーツマンとかの経験する世界にちょっと似ているんだと思う。つまり超精神集中によって、ちょっと違う世界に入ってしまうというかな。よく言われる、ボールが止まって見えるとか、ボールが巨大化して見えるとか――ああいうちょっと違った世界に意識が入り込んだりするよね。あれにすごく近い。つまり超精神集中によって、世界がちょっと変わってしまうんだね。
 それはまず拡大っていう方向をとります。ブワーッて拡大していくんです。この段階をディヤーナと言ってる。で、その拡大しきった状態、完全に拡大しきった状態をサマーディと言っている。拡大しきったっていうのは、つまりサマーディの別の表現で言うとね、よく主体と客体の合一といわれている。これはまさに、ラージャヨーガのやり方ってのはこれなんです。ラージャヨーガのやり方ってのは、簡単に言いますよ、集中したら、その集中の力によって、さっき言ったスポーツマンとかと同じように、対象が拡大するんだね。これは何度も言っているけど、わたし高校生のときに、このトラータカをよくやってて――画鋲を壁に刺してね、ぐっと見つめるというのをやっていたら、画鋲が拡大するんだね(笑)。ガーッて――何度も言ってるけどさ、宇宙大に拡大するんです。なんで宇宙大って分かるのかっていう問題もあるんだけど、何かよく分からないんだけど、分かるんです。
 自分で焦っちゃうんだね。何が焦るかっていうと、画鋲が拡大するよね? 「やべえ、やべえ!」と思うんです。何がやべえかっていうと、「このままだと宇宙を越えてしまう!」と思うんだね(笑)。なんでそれが分かっているのか分からないんだけど、自分の観念内であるんでしょうね、きっとね。宇宙というなんか自分の壁があって、「超えてしまう!」って思うんだけど、本当に超えちゃうんです(笑)。本当に超えて画鋲が拡大する。で、そのあとに、それが――ちょっと今のは画鋲ですけども、画鋲だったら画鋲が自分を包み込むんです(笑)。包み込んで、こうして主体と客体が一体化するんです。これがサマーディね。これは、ちょっと笑い話じゃないけども、これで入ったサマーディは画鋲サマーディです(笑)。


(一同笑)


 いや、本当なんです(笑)。画鋲に完全に一体化したサマーディ。
 で、『ヨーガスートラ』には、そういうのがいっぱい書いてある。『ヨーガスートラ』を見るとなんか――『ヨーガスートラ』ってさ、古典的なヨーガ経典で、固い言葉ばかり書いてある気もするかもしれないけど、超能力の話がいっぱい書いてありますね。こういう超能力得ますよと。それのやり方が、だいたいこの精神集中なんです。精神集中の場所が違うだけなんです。例えばこのチャクラに超精神集中すると、それでサマーディに入ったらこういう力が身に付きますよ、とかね。例えば神と会話ができますよとか、あるいはすべてのものの本質を知る力を得るとか、体を巨大化できるとか、いろんなのがあるんだね。その力の源は、何度も言うけども、精神集中なんです。何に精神集中するかなんだね。しかし、その精神集中の程度が、計り知れない程度だということです。
 だからこれは、道としては非常にあるわけですけども、そうですね、なかなかこれ一本でもしいこうとしたら、難しいでしょうね。
 ちょっとわたし、自分のことだからあまり言いたくないけども、はっきり言うとわたしが高校生のときに画鋲に集中して画鋲ディヤーナが始まったのは、わたしの素養です(笑)。はっきり言うと(笑)。多分普通の人はできない。多分わたしの中に経験があったんだろうね。それが多分蘇ったに過ぎない。普通の人だと多分そこまで精神集中できません。できないっていうか、鍛えればできるけども。なかなかそれは時間がかかると思うね。だからラージャヨーガ一本でいこうとすると、ちょっと大変というか。大変というか、好きな人ならいいですよ。わたしはラージャヨーガが大好きだと。だからラージャヨーガ一本でもしいこうと思ったら、いろんな教えを守ってね――戒律から始まって守って、ラージャヨーガ一本でいくのもいいかもしれないけど、まあちょっとそれだけだと、効率が悪いって感じがするね。
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「解説『至高のバクティ』」第3回 「バクティ」③(1)

2014-08-30 07:33:50 | 勉強会より抜粋

2012.06.20 至高のバクティ③



 はい、今日は『至高のバクティ』の一番最初の「バクティ」というところの続きですね。今日は六ページの「バクティヨーガは、カルマヨーガやジュニャーナヨーガやラージャヨーガなどよりも優れている」というところね。はい、じゃあ読んでいきましょうかね……読んでいきましょうかっていうか、わたし今言っちゃったけどね(笑)。じゃ、いいや(笑)


(一同笑)


【本文】
 バクティヨーガは、カルマヨーガやジュニャーナヨーガやラージャヨーガなどよりも優れている。
 なぜなら、それらのヨーガの到達点が、バクティそのものだから。



 はい、これは読んだ通りですが――これはいつも言っていることですね。
 ヨーガにはいろんなもちろんヨーガがあるよね。バクティヨーガ、カルマヨーガ、そしてジュニャーナヨーガ、ラージャヨーガ。まあここに出ていないので言うと、クンダリニーヨーガね。あるいはハタヨーガ、あるいはタントラヨーガ。いろんなタイプの――まあつまりヨーガイコール真実への到達、あるいは悟りへの道ですね。その方法論っていうのはたくさんある。そのインドの伝統においては、今言ったようないくつかのパターンがありますと。
 で、その中でもバクティヨーガが最高だと。「なぜならば、それらのヨーガの到達点が、バクティそのものだから」と。
 ちょっと話がずれるけど、今ネットとかにもたまに載っけてますが、ヴィヴェーカーナンダがね、アメリカで一部の、選ばれたというか中心的な十二人の弟子だけを集めて、ある別荘地でね、セミナーというかな、合宿みたいのをやったことがあって。そこにおけるヴィヴェーカーナンダの説法をまとめたものが英語で出てて、それを今うちで翻訳してまとめているんですけども――で、その中でこのちょうど『ナーラダバクティスートラ』を題材に、ヴィヴェーカーナンダが説いているところがありますね。ただヴィヴェーカーナンダの説法ってもともとそうなんだけど、特にこのときは、中心的な弟子向けの説法だから、あまりなんて言うかな――まあ例えば理路整然と経典の一つ一つを解説していくっていうタイプじゃないんですね。かなり内側からバーッと出てくるものを、ストレートに表現するような感じなんだね。
 だからいつも言っているけどさ、ヴィヴェーカーナンダってスピーカー、つまりしゃべる力というかな、これはすごい。だから多くの人を感化させるっていうか。もう聞いただけで、みんなハッと目覚めてしまうようなところがあったわけだけど、文章にするとちょっと「あれ?」っていう感じがあるんだね(笑)。でもそれが彼の――ヴィヴェーカーナンダの素晴らしいところというか。つまりもうストレートに、自分の中の真理と感応する部分を表現してたんでしょうね。だからこの『ナーラダバクティスートラ』をちょうどヴィヴェーカーナンダが解説してたから、これは今日の勉強会に役立つかなと思って見たんだけど、全く関係なかった(笑)。


(一同笑)


 でも、関係なかったけども、ストレートには関係ないけど、ただ、エッセンスはとても素晴らしいのものがたくさんある。それはまたネットとかにアップするし、のちに本にもなるかもしれないので、それはまた学んで欲しいんですが。
 その中でちょっと一つ二つ挙げると、例えばバクティというのはもちろん愛のヨーガ、神への愛のヨーガなわけだけど、愛っていうものは三つあると。まあ一般にいう愛っていうのは三つあると。
 一つは「相手に要求するが自分は何もしない愛」――これは世間でよくある愛だね。「あなた、わたしのために何でしてくれないの?」と。ね(笑)。「あなた、こういうことしてくれないと……」って要求するけど、自分は相手に尽くさない愛ですね。
 二番目の愛がいわゆる「ギブアンドテイクの愛」。つまり「わたしはあなたに尽くすから、あなたもこれをやって欲しい」と。「わたしも愛するからあなたも愛して欲しい」と。このギブアンドテイクの愛ですね。
 これはもちろん宗教的、つまり信仰の世界でもあり得ることなんですね。信仰の世界でも、一番目は結構多いと思います。つまり神に要求ばかりして、自分では何も捧げないっていうかな。口では「ああ神よ」と、「わたしは捧げます」とか言ってるんだけど、実際にはエゴの一パーセントも捧げない。あるいは自分の持っているものをすごく大事にして、あるいは希望や恐怖――自分がね――自分の頭の中での希望や恐怖でいっぱいで、全く神に明け渡していないと。で、結果だけを求めるタイプね。これは全然駄目だと。二番目のギブアンドテイク、これはまだマシだけど、でもこれもバクティの世界じゃないんだね。ギブアンドテイクっていうのは途中段階まではいいんです。途中段階までは、神への信仰というのは取引のように見えるからね。「わたしはエゴを出しますから悟りをください」とかね。つまり自分のエゴに対する、なんていうかな、まだ自分がエゴに対して強くない場合ね――どうしても今のままだとただエゴだらけになってしまうと。こういうときに自分のエゴを抑え込む方法として、「いや、ここでこうすれば与えられるよ」みたいな感じで、こういう意味でのギブアンドテイクって、途中まではいいんです。でも、これもまだやっぱりけがれなんだね。
 じゃなくて最高の愛は、もちろん分かると思うけど、ただ捧げる。ただ与えると。一方的に与える愛ですね。これはもちろん、今バクティの話だけども、菩薩行も同じだね。菩薩行の場合は、そのベクトルが神ではなくて衆生になるわけですけど。衆生に対してももちろん見返りは求めない。つまり、もちろん現世的な見返りは求めないのは当たり前だけど、例えば「わたしがこのように菩薩行によって慈悲を振りまくことによってわたしの修行が進むんだ!」っていうのもない。ただ単純に「本当にみんな幸福になって欲しい」と。「本当にみんな悟ってほしい」と。「みんなが苦しんでいるのが本当にわたしは耐えられない」と。だからできるだけ早くみんなが――だからここでね、いつも言っているマンジュシュリー菩薩のような態度も生まれるわけですね。だからこれは仮の話だけども、仮の話として、自分が頑張って、みんながどんどん進んで自分が全然駄目だったとしても、全くそれは眼中にないって言うか。「それがもし神の意思ならば、喜んでわたしはその役割を負いましょう」と。もちろん、みんなに手助けしたら自分がボーンと悟りが進んだと。これはこれでオッケーなんだけどね。オッケーなんだけど、別にそれを求めてないっていうか、最初からね。ただ奉仕させていただく、みんなの修行の手伝いをさせていただくことが喜びだと。これが菩薩行の場合ですね。
 神へのバクティも同じで――何回かね、これは言っているかもしれないけど、もう完全な一方的な愛なんです。だからちょっと誤解を恐れずに言うと、片想い的な愛です。片想い的な愛(笑)。片想い的な愛っていうのは、なんていうかな……最初から、わたしの期待通りに神がわたしに何かやってくれるとか、そんなことは全く期待していない。そんなことは全く頭にないというかね。ただ捧げさせていただくこと、あるいは供養させていただくこと、あるいはわたしを使っていただくこと、これがもう最高の喜びであると。これをヴィヴェーカーナンダは最後に締めとして素晴らしい言葉で、一言ね――「炎に飛び込む蛾のようでありなさい」って(笑)。これは素晴らしい言葉だと思うね。何も考えないっていうか(笑)。何も考えないで炎にバーッと飛び込んでいく。「飛び込んだら焼けちゃうのかな?」とか(笑)、何も考えていない。で、実際に焼けるわけですけど。
 これは一つのイメージだけど、ただ、素晴らしいイメージだと思ったね。やっぱりヴィヴェーカーナンダの――さっきも言ったけど、そういうセンスっていうのは素晴らしいものがあると思うね。例えばここでさ、誰か質問したらヴィヴェーカーナンダ困ると思うよ(笑)。「炎に飛び込む蛾ってどういうことですか?」とか言われたら、ちょっと理論的に説明できないかもしれないけど。でも皆さんのフィーリング的に分かるでしょ? 「一方的に神に愛を捧げよう」と。「炎に飛び込む蛾のようであれ」と。「ああ、なるほど」と。ね(笑)。それは皆さんの心に刻んでおいたらいいと思うね。
 ちょっと話がずれちゃったけど、戻すと――つまりバクティヨーガっていうのは――そういう意味でのバクティヨーガね、つまり最高のバクティヨーガ。これは何でかっていうと、ヴィヴェーカーナンダも言っているように、バクティヨーガには段階があるんだね。ヴィヴェーカーナンダの言葉で言うと、低いっていうか初期段階のバクティヨーガ――まあバクティヨーガって結局さ、信仰のヨーガだから、もともとなんていうかな、固い考えだと――ヒンドゥー教ってさ、固いヒンドゥー教と柔らかいヒンドゥー教があるんだね。固いヒンドゥー教っていうのは、つまり伝統に固執するヒンドゥー教。これはほかのいろんな宗教と同じで、つまり名前とか教条主義とかに、もうこだわっちゃって、例えば「いや、この神じゃなきゃ駄目なんだ」とか、「この儀式やんないと効果はないんだ」とか、そういうタイプね。じゃなくて柔らかいヒンドゥー教っていうのは、ラーマクリシュナに代表されるような、「いや、神というのは本来は一切の名前や概念や相から解放されているお方である」と。「よって名前はどうでもいいし、あるいはさまざまな国のさまざまな伝統に沿ったね、神でも全く構わない」と。だからラーマクリシュナ系の人達っていうのはよく――例えば西洋にも教えをいっぱい説いたから、「あなた達の場合はキリストでも構わない。あるいは聖書の父なる神でも構わない。あるいはイスラム教の場合はもちろんアッラーでも構わない」という言い方をしているわけですね。
 で、その柔らかいタイプの発想で言うならば、当然バクティヨーガっていうのは、すごく簡単に言ってしまえば、あらゆる信仰の世界がバクティヨーガに含まれちゃうわけですね。そういう意味ではキリスト教もバクティヨーガだし、イスラム教もバクティヨーガだしね。
 で、その上で言うと、あらゆる信仰世界の初期段階、これを「ガウニバクティ」って言ってる。このガウニバクティっていうのは、ほとんどの宗教が陥っているというか、当てはまる世界。つまり今言った、「わたしの神が正しい」っていう世界だね。「わたしの神は正しい」と。「ほかの神は間違っている」――つまり神を限定的にとらえて、限定内での信仰を持つっていうかな。これは全く信仰がないよりはいい。しかしまだ初期段階ですね。
 それがだんだん進んでくると、自分が感じている、あるいは信仰している神というものの正体というものが、だんだん分かってくるんだね。ラーマクリシュナの言葉を借りると、最高の――最高のっていうか真実の――神の理解というのは何段階かあるわけですけども――まず、例えば言葉上で言うとね、ジュニャーナといわれる悟り。このジュニャーナの悟りっていうのは「一切は幻である」と。「マーヤーである」と。マーヤーであって、そのマーヤーを超えたところに唯一の実在、神がいらっしゃる――これがある段階における悟りですね。で、それより高い、今度はバクティヨーガのヴィジュニャーナという悟りがある。このヴィジュニャーナという悟りは、「いや、この世界は幻ではない。この世界自体も神だ」という考えなんだね。ちょっとレベルが上がるんです。
 で、そうじゃなくてより低い信仰は、ラーマクリシュナ風の言い方をすると「神はいらっしゃる」と。「あの雲の上にいらっしゃる」と。これはまあ、第一段階の信仰なんだね。つまりこの世界はいろんな段階があって、いろいろあるんだけども、「あそこのところに我が神はいらっしゃるんだ」と。これが初期段階の信仰。まだ世界は限定的であって、限定的な世界の一部として神をとらえているっていうパターンですね。
 で、もう一回言うけども、ここからどんどん昇華されていって、最終的には「一切は神だった」というところまでバクティでは至るわけですけども。
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グル・バクティヨーガ(68)「グルの恩寵を通じて得る神の悟り」

2014-08-30 06:58:32 | 松川先生のお話


◎グルの恩寵を通じて得る神の悟り


 神の悟りは、講演によっても、知性によっても、学習によっても、慈善や苦行によっても得られない。グルの恩寵を得た者のみが、得ることができるのだ。
 
 グルの恩寵は、たっだ一滴でさえも、輪廻の足枷から人を解放するのに全く十分である。

 求道者が霊性の道を貫き、あらゆる種類の束縛と執着を破壊することができるのは、グルの恩寵を通じてのみである。

 エゴイズムに満ち、グルの言葉を聞かない弟子は、最後には破滅するだろう。

 神と、悟りを得たグルの間に違いはない。両者は全く同じである。

 グルとのサットサンガの助けなしでは、初心者が自分の悪しきサンスカーラを分析し、整理するのは不可能である。

 グルとの交際は、求道者を無恐怖の彼岸、暗闇を超えた彼岸へと運ぶ安全な船である。
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2014-08-30 06:51:58 | 経典の言葉・聖者の言葉

 食べ物は三種類だけにしなさい。

 衣服は三着だけにしなさい。

 三つの修行をおこないなさい。――非暴力、誠実、禁欲

 三つのことを常に忘れないようにしなさい。――死、輪廻の苦しみ、そして神

 三つのことを放棄しなさい。――エゴイズム、欲望、そしてとらわれ

 三つのことを増大させなさい。――謙虚さ、恐怖のないこと、そして愛

 三つのことを根絶しなさい。――愛欲、嫌悪、そして貪り



 ――スワーミー・シヴァーナンダ
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「五つの基準」

2014-08-30 06:44:08 | 解説・心の訓練



◎五つの基準

【本文】

5 五つの基準

 すべての教えを、「自我の放棄」と「菩提心」という一つの意図に統合し実践してください。
 慙愧の念に従ってください。
 常に心に喜びだけを育んでください。
 学びの基準は、実際に心が転向することです。
 偉大なる五つのしるしを持ってください。


 
 ここはまず、「すべての教えを『自我の放棄』と『菩提心』という一つの意図に統合し実践してください」と。

 はい、あの、これ「一つの意図」って書いてあるね。「自我の放棄」と「菩提心」って二つ書いてあって、「一つの意図」ってなってるのは、つまり「自我の放棄」と「菩提心」が表裏だってことだね。

 つまり、自分と他者っていう束縛の中に常にわれわれはいるわけですが、このうちわれわれは自我を大事にし、他者はどうでもいいと。まあこれが普通なわけですが、そうじゃなくて、自我を放棄し、そして人々のために生きると。これが「自我の放棄」と「菩提心」ね。で、すべての教えのエッセンスはここにあるんだと。だからそこに自分の修行の意図、動機をすべて持っていくってことだね。

 逆にいうと、これはいつも言ってるけど、修行が進んでいるかどうかの目安もここにあるんです。つまり、修行が進んでるかどうかっていうのは、菩提心が増えてるか。あるいは自我が減ってるかなんだね。

 つまり、いかにかたち上修行をたくさんやってても、なんかエゴが強くなってて――もちろんね、段階的にはあるよ。潜在意識に入ってエゴが出てくるときはあるけど、まあそれは別として。長ーい目で見てなんかエゴが増えてると。で、菩提心がなくなってると。あるいは全然菩提心が増えてないと。これは修行が全然、かたち上いろいろなことをやっていても、修行が進んでいるとはいえない。だから修行が進んでるかどうかの目安は、そこだけなんです。

 もちろん、いろんなことをこなすのは大事です。例えばマントラをこれだけ唱えましたと。瞑想をこれだけ終わりましたと。チベット仏教でも――まあここでもそうだけれども、いろんな加行があるんだね。例えば五体投地を十万回ですと。ヴァジュラサットヴァのマントラを十万回ですと。あるいは曼荼羅供養を十万回ですとか、いろいろあると。で、それをたくさん終えてる人もいっぱいいる。「いや、わたしはこれとこれとこれを終えました」と。でも、その人がエゴに満ちてたら、それはなんの意味も無い。つまり、それはその人を測る基準にはならないってことだね。

 例えばここに二人の人がいて、「あなたどれだけ修行やりましたか?」――これは、その修行者を測る基準にはならない。つまりね、手段は結果じゃない。これは分かるでしょ? 

 つまり例えば――まあいつも野球を例えに出すけど(笑)、野球選手がいて、「おれはイチローよりも、あるいは王選手や長嶋とかよりも、何十倍も素振りをした」と。「どうですか」――とか言われても、その人が全然野球の試合とかやってなかったら全く意味が無い(笑)。ね(笑)。つまり素振りっていうのは、野球がうまくなるための方法だよね。方法であるけれども、でもそれで、もしうまくなってなかったとしたら、それは意味があったのかってことになる。

 じゃあ素振りは意味がないんですかっていったら、意味が無くは無い。うまくなるための方法だから。だから修行っていうのはすべてそうなんだね。何で五体投地いっぱいやるんですか?――それはわれわれのエゴを破壊し、あるいは帰依の力を強めるっていう意味があるわけだね。だからやることは素晴らしいし、やらなきゃいけない。けども、やったことが結果じゃないんだね。それによって心が変わったことが、結果なんです。だからそこら辺を間違わないようにしなくちゃいけない。

 だからもし自分が修行をいろいろこなしながら、もし心があんまり変わってなかったとしたら――もちろんそれは時期っていうのはあるから、まだその時期が来てないってこともあるけども――でもそうじゃなくて、ああ、もしかすると自分の何かが足りないのかなと。さっき言った「決意」が足りないのかもしれない。あるいは「対抗治療」が足りないのかもしれない――とかいろいろ考えなきゃいけない。「懺悔」が足りないのかもしれない、とかね。

 だから、それは自分の心にドンと置いておかなきゃいけない。で、その一番のエッセンスとなるのが、ここに書いてある「自我の放棄」と「菩提心」なんですよと。これが一つの基準になると。
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御身は我が主

2014-08-30 06:04:20 | 経典の言葉・聖者の言葉


 御身は我が主
 御身は我が師
 われは御身の召使い
 われは御身の奴隷なり
 ありとあらゆる、すべてのものは御身なり


(ヴィヴェーカーナンダがよく歌っていたという歌より)
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第93話」

2014-08-29 21:11:30 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第93話」です。
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サーダナーの指針の花輪(661~670)

2014-08-29 19:46:28 | 松川先生のお話

661.
 友と敵と中立からなるこの世界は、無明に起因する心の妄想である。
 熟睡中は、世界はない。――これは、心があるときにだけ世界があるということを示している。
 もしあなたが精神集中とサマーディによって、心を意識的に破壊することができるならば、そのとき、世界は消える。


662.
 けがれた心は、無数の出生を引き起こす巧妙な欲望のことである。
 心が対象への欲望から解放されるとき、そして真我の中で安らぐとき、世界はすべて消え去る。
 感覚の対象について思いを巡らす傾向は、実に輪廻への束縛の原因である。
 解放とは、ただけがれた心の破壊のことである。
 欲望が絶滅するとき、心は純粋になる。


663.
 この宇宙とすべての対象物の土台は、心の中にある。
 それらは、心を離れては存在しない。
 執着と感覚意識の放棄は、低級の心を破壊してくれる。
 心の寂静は、永続する真の幸福を修行者にもたらす。


664.
 心が純粋であり、散乱することがないならば、あなたは心の中に、そして至るところに、至高の真我を見る。


665.
 自己の低級の心の本能を支配することは、この輪廻の海を渡るための舟である。


666.
 心には、一瞬にして全世界を構築したり消し去ったりする力がある。


667.
 決して心を欲望に毒されるままにしておくことなく、感覚の通路から離れなさい。
 もし心と結びつくことがなければ、感覚は独立では何もすることができない。
 世界は楽しく美しい。または醜く惨めである。それはまさにただ心が選択をするのである。 
 

668.
 もし人が、感覚的対象への欲望、執着と嫌悪、エゴイズム、怒り、所有欲、プライドなどから自由になっているならば、彼は心の破壊についての明瞭な理解を得ることができる。
 正しい理解は、感覚器官に支配された低い意識を弱めてくれる。


669.
 自らの心を征服することによって、人はブラフマンの源へと行くことができる。そして彼は、彼自身の本性であるサチダーナンダを悟ることができる。
 心の寂静は、永続する真の幸福を修行者にもたらす。


670.
 心の寂静を得た偉大なる魂が持つ至福の喜びは、たとえ全世界の富と欲楽を合わせても比較にならない。
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☆要約・ラーマクリシュナの生涯(25)③

2014-08-29 11:35:51 | 聖者の生涯

 
◎母の死

 サーラダーデーヴィーが病気で故郷に帰った後、ラーマクリシュナの母親のチャンドラマニ・デーヴィーが85歳で亡くなった。死の数年前から彼女は、老齢のために頭がぼけ始めていた。
 ドッキネッショルの寺院の近くにある黄麻工場では、毎日、昼の小休止の時間の終わりを告げる汽笛が鳴ったが、彼女はこの音を、ヴァイクンタ(ヴィシュヌ神の浄土)の法螺貝の響きであると思い込んでしまった。そのため彼女は、その汽笛の音が鳴るまでは、決して食事を摂ろうとはしなかった。食べてくれと言われると、
「まだラクシュミーとナーラーヤナに差し上げていないでしょう。ヴァイクンタの法螺貝がまだ鳴りません。その前にご飯を食べることなどができますか」
と言うのだった。

 日曜日は工場が休みで汽笛が鳴らないので、ラーマクリシュナとフリドエは、彼女に食事をさせるために様々な工夫をしなければならなかった。

 ある日フリダイは、キセルに息を吹き込んで高い音を出し、彼女にこう言った。

『ほら、おばあさん。天の法螺貝の音が聞こえませんか?
 さあ、ごはんをお食べください。』

 しかし彼女は笑ってこう言った。

『いいえ、あなたがキセルで音を出したのよ。』

 そしてみなが笑ったのだった。


 母チャンドラマニ・デーヴィーが亡くなったとき、出家の誓いをしたラーマクリシュナは母の葬儀を行うことを禁ぜられていたので、兄の息子であるラムラルがそれをおこなった。
 ラーマクリシュナは、出家者に向けて定められた聖典の決まりを守り、母の死に関するあらゆる儀式にかかわらず、喪に服することもなかった。
 しかしあるとき彼の心に、それによって息子としての義務を怠ったのではないかという思いが生じ、タルパナ(死者に水を捧げる儀式)をおこなおうとした。しかし両手で水をすくってそれを捧げようとするやいなや、霊的状態がやってきて指の感覚がなくなり、いくら努力をしてみても指の一本一本が勝手に離れていき、水は全部流れ落ちてしまうのだった。
 後にこの話を聞いたあるパンディットは、それは一切の義務を超えた境地に達した人に見られる現象であると言った。霊性の進歩と共に、修行者は、聖典が命ずる儀式などが自然にできなくなるような境地に達する。その場合には、それらができなくても罪にはならないのだ。
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サーダナーの指針の花輪(651~660)

2014-08-29 11:12:43 | 松川先生のお話



651.
 禁戒その他のヨーガの実践によって、
 または「汝は”それ”なり」の真の意味を思索することによって得られる正しい智慧を通して、
 心は、唯一の価値あるものであるパラマートマンについて考えさせられなければならない。


652.
 ブラフマンの悟りは、サンカルパ(思惟、意志、イメージ)とヴィカルパ(分別)を捨てた心を通してのみ生じることができる。


653.
 鉄が火の中に置かれることで火の性質を持つように、水がミルクと混ぜ合わされることでミルクの性質を持つように、心はブラフマンに接触することでブラフマンからその叡智と力を受け取る。


654.
 波が海の水でしかないように、心と至高の魂との関係も同じである。


655.
 甘さや苦さは枝葉の中にあるのではなく、主体の中にある。
 それらは、心によって作られる。
 対象物に色、形、優劣、良し悪しなどを与えるのは、心である。
 心は、強く思ったそのとおりのかたちをとる。


656.
 友人と敵、善と悪、喜びと苦しみは、心の中だけにある。
 すべての人々は、ただ彼自身のイマジネーションによってのみ、善悪や苦楽の世界を創造する。


657.
 感覚の街路を通って心が外界をランニングし、その結果として心に生じる外的対象の経験は、ジーヴァが肉体と行動を共にすることによって生み出される。それは妄想や迷妄の故である。


658.
 感知するものと認識からなる経験の全体は、単に心のイマジネーションの産物である。
 イマジネーションの中にだけ存在するそれは、絶対のリアリティの中には存在しない。


659.
 その心の働きこそが、カルマと呼ばれるものの真実である。
 解放は、心の束縛を解くことから生じる。
 マーヤーは、心とその想像力を通して人に害を与える。
 もし心が破壊されるならば、人は真実を知る。


660.
 苦しみと喜びは、心の法則である。
 心の統御は、苦楽や良し悪しなどのすべての両極性から自らを解放し、完全なる神の叡智の道へと導く。
 心の統御によって、最高の境地へと到達する。
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Samadhi SitaRam

2014-08-29 10:34:43 | お知らせ
 新しいキールタンの音声データをアップしました。

 「Samadhi SitaRam」(ライブ版)です。

 よかったらお聞きください^^



「Samadhi SitaRam」

Vocal:Keisho.Matsukawa
Harmonium:Yuri.T
Tabla:T.Takahashi
Guitar:Yuta.N
Bass:H.Miura
Manjira:Hitomi.K
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2014-08-29 07:27:54 | 松川先生のお話




 ある段階を達成した修行者にとって、
 過去は消える。

 まあもともと誰にとっても真実には過去はないのだが、
 それを認識した、というだけの意味ではなく、
 本当に消えるのだ。

 しかし世間では、過去がない人間など許されないので笑、
 彼はつじつま合わせ的な過去を持つことになる。

 でもそれは真実ではなく、事実かというとそれもどっちでもないので、
 あまり興味の対象にはならない。

 ただ神が作ってくれたシナリオを受け入れるだけ。
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要約・ラーマクリシュナの生涯(25)②

2014-08-29 07:05:37 | 聖者の生涯

◎シャンブーチャンドラ・マリックの到来と死


 モトゥルが亡くなった後、シャンブーチャンドラ・マッリクという人物がラーマクリシュナのことを知り、ラーマクリシュナを深く愛し敬うようになった。
 ラーマクリシュナはずっと以前に、宇宙の母が、ある人物を、モトゥル亡き後のラーマクリシュナへの必需品提供者に任命したヴィジョンを見た。そしてシャンブーに初めて会ったとき、彼がその人物であることを知った。
 
 そして実際に、シャンブーのラーマクリシュナへの信仰は日増しに強くなり、かつてのモトゥルのように、ラーマクリシュナに必要なものが生じたときは何でも喜んで布施した。彼はこのような奉仕を死ぬまで続けた。
 シャンブーはラーマクリシュナをグルジーと呼んだ。ラーマクリシュナはそれを嫌がったが、シャンブーはそう呼ぶのをやめなかった。彼の妻もまたラーマクリシュナを神として崇拝した。

 サーラダーデーヴィーはおそらく1874年の半ば頃に、再びドッキネッショルにやってきた。彼女は前と同様に、ラーマクリシュナの母と一緒にナハヴァトに住んだ。しかしこの狭い部屋に住むのは不便であろうと考えて、シャンブーは彼女のためにドッキネッショルの寺院の近くに土地を買い、家を建てようと考えた。ラーマクリシュナの信者であったネパール政府の役人、キャプテン・ヴィシュワナート・ウパッダエがこれを知ると、必要な材木すべてを提供することを申し出た。
 こうして建てられた家に、サーラダーデーヴィーは約一年間住んだ。その間、一人の女性が雇われて、サーラダーデーヴィーの家事を助けた。サーラダーデーヴィーはここで食物を調理し、それを毎日寺院のラーマクリシュナのもとに運び、ラーマクリシュナが食べ終わるとすぐに帰ってきた。またラーマクリシュナもよく彼女に会いにここを訪ね、ひとときを共に過ごした。

 約一年間をそこで過ごした頃、サーラダーデーヴィーは重い赤痢にかかった。しばらくして回復してきたので、彼女は故郷のジャイラムバティに帰ったが、村に着くやいなやまた病気が再発してしまった。容体はどんどん悪化していった。これを聞いたラーマクリシュナは、フリドエにこう言った。

「ではフリドエ、まるで彼女がこの世に生まれてきたことは無駄であったかのように思われるではないか! 神を悟るというその目的が達せられないのなら、人間に生まれた甲斐がない。」

 病気がなかなか治らないので、サーラダーデーヴィーは、プラーヨーパヴェーシャナ(神の前で、祈りが叶えられるまで食を断つ修行)をおこなう決意をした。母や弟がそれを知ったら反対するだろうと思い、サーラダーデーヴィーは一人でこっそりと村のシンハヴァーヒニー女神の聖堂に行き、そこでプラーヨーパヴェーシャナをおこなった。しかし数時間も断たぬうちに、シンハヴァーヒニー女神がサーラダーデーヴィーに示唆を与えた。それに従うことで、サーラダーデーヴィーの病は回復に向かった。

 シャンブーがラーマクリシュナとサーラダーデーヴィーに奉仕を続けて四年が経った頃、シャンブーは病気になった。ラーマクリシュナは彼を見舞った後、「シャンブーのランプはもう切れている」と言った。その言葉通りに、シャンブーはその後間もなくして亡くなった。
 シャンブーは実に気前が良く、恐れを知らぬ神の信者だった。病気中も、ただの一日も、心の明るさを失ったことはなかった。 
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「ヴィヴェーカーナンダ」(10)

2014-08-28 09:23:43 | 聖者の生涯





 一時は出家を決意したナレーンドラでしたが、自分が生きている間は出家しないでほしいというラーマクリシュナの願いを聞き入れ、再び仕事を探すことにしました。そしてその翌日、その日暮らしの生活を支えるには十分な臨時の職に就くことができたのでした。


 ある日ナレーンドラは、母なる神カーリーがラーマクリシュナの願いを聞いてくれるのなら、どうして師は自分を貧しさから救ってくださるようにカーリーに頼んでくださらないのだろうかという疑問がわきました。そこでそれをラーマクリシュナに尋ねると、ラーマクリシュナはこう言いました。

「私には、そういうお願いはできないのだよ。自分で行って、母(カーリー)にお願いしたらどうかね? お前は母を受け入れていない。それだからこんなに苦しんでいるのだよ。
 わが子よ。お前の苦しみが取り除かれるように、すでに何度も母にお祈りしたのだよ。だがお前が母を望まないものだから、母が私の祈りを聞いてくださらないのだよ。
 今日は火曜日で、母にとっては特に神聖な日だ。今夜、聖堂に行って祈りなさい。お前の願いを母は必ず叶えてくださる。私が請合おう。私の母は純粋意識の権化、ブラフマンの力であられる。そして、彼女の思し召し一つでこの宇宙が生み出されたのだ。彼女の思し召しがかなわぬことなどがあるだろうか?」

 そこで夜になると、ナレーンドラは師に言われたとおりに、カーリー聖堂に祈りを捧げに行きました。
 ナレーンドラが聖堂に入ると、彼は、カーリー女神が本当にそこに存在しており、無限の愛と美の源泉であられることを、その目で見たのでした。
 愛と信仰に圧倒されて、ナレーンドラはカーリー女神に、何度もぬかずきながら、こう祈りました。

「母よ、識別智をお与えください。離欲をお与えください。いつのときにも遮られることなく、あなたのお姿を拝せるようにしてください!」

 ナレーンドラの心を、母なるカーリーが完全に覆い、ナレーンドラはこの上ない平安に包まれたのでした。

 このようなすばらしい経験をして、ナレーンドラがラーマクリシュナのところへ戻ると、ラーマクリシュナは尋ねました。
「ねえ、家族が生活苦から逃れられるよう、母にお願いしたかね?」

 ナレーンドラはびっくりして、答えました。
「いいえ、師よ。忘れていました。どうしましょう?」

 ラーマクリシュナは言いました。
「行きなさい。もう一度行って、お祈りしておいで。」

 そこでナレーンドラは再び聖堂に向かいました。しかしカーリー女神の前に立つと、再び圧倒されて、そこへ来た目的を忘れてしまうのでした。繰り返し女神にぬかずくと、
「智慧と信仰をお授けください。」
と願いました。

 そうしてまたナレーンドラがラーマクリシュナのところへ戻ると、ラーマクリシュナは再び尋ねました。
「さて、今度はお願いできたかね?」

 ナレーンドラは答えました。
「いいえ、師よ。できませんでした。母を見るなり、神聖な力に圧倒されて、すべてを忘れてしまったのです。それで智慧と信仰だけを願ったのです。さて、どういたしましょうか?」

 ラーマクリシュナは言いました。
「おばかさんだね! もっとしっかりして、自分の願いを思い出せなかったのかね? もう一度行って、欲しいものを母におねだりしてきなさい!」

 こう言われてナレーンドラは三たび出かけて行きました。
 しかし聖堂に入るやいなや、ナレーンドラは深く恥じ入りました。

「なんとつまらないものを、母におねだりしようとしたのだろう! これでは、師がよくおっしゃるように、王様のお招きにあずかりながら、ひょうたんやカボチャをお願いしているようなものだ! 何という愚かさ! 私はなんて心の狭いやつなんだろう。」

 恥と後悔の念から、ナレーンドラは女神の前に何度もぬかずいて祈りました。
「母よ、智慧と信仰だけをお授けください。」

 
 聖堂から出てきたナレーンドラは、このすべてのことは、ラーマクリシュナが仕掛けたことに違いない、と気づきました。もはや彼には、現世的な経済問題などを、母なる神にお願いすることはできなくなってしまったのでした。
 しかしナレーンドラは、家族のことも心配だったので、ラーマクリシュナ自身が、何とかそれを祈ってくださらないかとせがみました。そこで最後にはラーマクリシュナはこう言いました。
「よろしい。質素な衣食には決して事欠かないだろう。」

 この一件は、ナレーンドラの生涯における非常に重要な出来事でした。以前はナレーンドラは、カーリーの像を母なる神として礼拝することの深い意味を理解することができず、それは偶像崇拝に過ぎないと、批判を繰り返していたのです。しかしこの日、ついにナレーンドラは、自らの圧倒的な体験をもって、その意味を理解し、「形ある神」として現われているカーリーを受け入れたのでした。
 
 このことは、ラーマクリシュナにとっても大変な喜びでした。翌日、ドッキネッショルにやってきた信者に、ラーマクリシュナは微笑みながら、
「ナレーンドラが母なる神を認めたのだよ。大変よろしい。お前、どう思うか?」
と、同じことを何度も何度も繰り返し言われたのでした。



つづく
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要約・ラーマクリシュナの生涯(25)①

2014-08-28 09:15:23 | 聖者の生涯



25 ショーダシー・プージャーから、約束された信者たちの到来までの間に起こった主な出来事



◎ラメシュワルの死

 ラーマクリシュナの次兄のラメシュワルは、非常に気前の良い性質の人だった。戸口に乞食僧がやってきて何かを欲しがると、言われるままに何でも躊躇なく与えてしまうのだった。実際、乞食僧たちはよくラメシュワルの家に来て、いろいろなものを次々とねだった。一人目は鍋を、次の者は水差しを、三人目は毛布を、というように。するとラメシュワルは、それらを家から持ち出して彼らに与えてしまう。家族の誰かがそれに反対すると、彼はこう言った。
「持たせてやれ。反対などするではない。あんなものはまた手に入るよ。何でそんな心配をするのだ?」

 あるとき、ラメシュワルがドッキネッショルから家に帰ろうとしたとき、ラーマクリシュナは、彼がもう二度とドッキネッショルに来ることはないと知って、忘我の状態でこう言った。

「家に帰るのですね。お帰りなさい。でも、奥さんと一緒に寝てはいけません。もしそれをすると、あなたはその後、生き延びられるかどうかわかりませんよ。」

 その後間もなくして、ラメシュワルが病気になったというしらせが届いた。それを聞くと、ラーマクリシュナは言った。

「彼は私の静止に従わなかったのだ。生命が助かるかどうか、わからないよ。」

 そしてその数日後、ラメシュワルはこの世を去ったのだった。

 このとき、ラメシュワルの友人であるゴーパールは、不思議な体験をした。自分の家の戸を叩く音がしたので、誰だか尋ねると、こういう声がした。

「私はラメシュワルだ。ガンガーに浸りに行こうと思う。家にはラグヴィールがいらっしゃる。どんなことがあっても彼のお祀りには粗相がないよう、気をつけてやってくれたまえ。」

 ゴーパールが戸を開けようとすると、

「私は肉体を持っていない。だから戸を開けても、君は僕を見ることはできないよ」

という声が聞こえたが、ゴーパールは戸を開けた。しかしそこには誰もいなかった。そしてゴーパールが真偽を確かめるべくラメシュワルの家に行くと、ラメシュワルが本当に亡くなっていたことを知ったのだった。
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