ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

サーダナーの指針の花輪(501~510)

2014-07-31 16:56:26 | 松川先生のお話

501.
 それがなされたとき、次のステップである正しい努力が、直ちに始められなければならない。


502.
 感覚を制御すること、真理を語ること、すべての人々を自分自身のように愛すること――これがサーダナーのエッセンスである。


503.
 思考と言葉と行為において静寂かつ純粋であり、誇り高く、足るを知り、明るく快活で、エゴに欺かれることなく、常に正智を怠ることなく、絶え間なく神を思い続けている――これがサーダナーのエッセンスである。


504.
 『修練』と『前進』は、ヨーガ・ヴェーダーンタの合い言葉である。


505.
 正しく思惟せよ。真理を語れ。正しく行為せよ。
 それによりあなたは、永遠の安らぎの王国へと至るだろう。


506.
 総合的なサーダナーは、様々な問題に対して大きな力を与える。


507.
 あなたを神の高みにまで引き上げるそれを頼りとしなさい。


508.
 低い自然の働きに注意し、霊的・精神的な植物を注意深く守りなさい。
 それは後にあなたに、不死の果実をもたらすだろう。


509.
 あなたの中の下降傾向に対する寛大さは、あなたを苦しみの地へと着陸させる。


510.
 この点において、言い訳は何の助けにもならない。



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サーダナーの指針の花輪(491~500)

2014-07-31 07:33:07 | 経典の言葉・聖者の言葉

491.
 心の声を聞くな。
 瞑想の寂静の中で、至高の魂の声を聞け。


492.
 禁欲生活は、解脱のために、心を整えて瞑想するための準備作りである。


493.
 心を律して欲望を静めることなく、単に肉体の苦行をおこなうだけでは、解脱に至ることはできない。


494.
 真夏の太陽の下で立ち続けたり、真冬に冷たい水に浸かったりするのは、頭の鈍い者がおこなう、バカバカしい忍耐の行である。


495.
 蟻塚を叩いても中にいる蛇を殺すことはできないように、肉体にいくら拷問を加えても、心を殺すことはできない。


496.
 タパスとは、集中と瞑想である。


497.
 あなたの強さをすべて集中させて、感覚の対象から心を走り去らせなさい。


498.
 エゴイズムというヤギと、怒りという牛を、生け贄の供物としなさい。


499.
 オレンジ色の服を着て、髪と髭を剃り、首に数珠をかけ、体に灰を塗りたくり、水差しと杖を持つ――単にこのようなことだけでは、人はヨーギー、サンニャーシ、聖者になることはできない。


500.
 修行における最初のステップは、正しい決意、熱意を持つことである。
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サーダナーの指針の花輪(481~490)

2014-07-29 22:15:49 | 経典の言葉・聖者の言葉

481.
 サーダナーは、修行の道における成功の秘訣である。


482.
 真理とサーダナーの精髄を構成するのは、欲望のコントロールである。


483.
 サーダナーを始める前に、まず初めに心に勢いをつけなさい。


484.
 独居に座りなさい。感覚器官を退かせ、低い自分を抑制し、真我に集中しなさい。
 このようにして勝利を得なさい。


485.
 不滅にして至福に満ちた真我を、絶えず思いなさい。
 それによりあなたは、速やかにそして確実に、ゴールに到達するだろう。


486.
 あなたがこの世界への執着からもっと離れるならば、あなたは真我の中で、もっと多くの喜びと至福を経験するだろう。


487.
 世俗の対象への思いが空になればなるほど、神を愛したいという渇仰は増大するだろう。


489.
 強く炎のような断固たる決意、堅固な覚悟、激しい渇望、粘り強さ、不撓不屈の心、忍耐、根気、努力――これらを持つ者は、修行においても、他のどんな仕事においても、易々と成功するだろう。


490.
 教えの学習は大事だが、実際的な悟りとはまた別である。
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サーダナーの指針の花輪(471~480)

2014-07-29 20:20:16 | 経典の言葉・聖者の言葉

471.
 自己に打ち勝つこと、そして純粋な人格は、ヨーガまたは霊的・精神的な人生の進歩における、主要なエッセンスである。


472.
 完全に誠実であることは、ヨーギーや修行者の最も重要な資格である。


473.
 一部分ではなく、完全に包括的に真理に追従することは、修行者の人生の基盤を作る上で最初に必要な要素である。


474.
 真理を悟るためには、あなたは真理の中に生きなければならない。まさに真理そのもののフォームにならなければならない。


475.
 霊的・精神的な修行人生の成功に到達するために、求道者は、心の平静や慈愛などの神的長所を高めなければならない。


476.
 誠実であれ。純粋であれ。子供のように無邪気であれ。
 常に主とともに歩き、主とともに語れ。


477.
 最終的な解放のことだけを心にかけ、そして全世界とその中身を単なる藁のごとくみなす求道者を見つけるのは、非常に難しい。
 いったい誰が、この現世からの救済を達成する方法について、絶え間なく熟考するだろうか。


478.
 あなたの前にやってくるすべてを食べなさい。
 やってくるあらゆる条件の中で、生きなさい。
 祈り、瞑想しなさい。
 志を抱き、静寂でありなさい。
 それによってあなたは、この人生において、超自然的な精神的食物の流れを受け入れることができる。


479.
 サーダナーとは、意識的に体系化された霊的・精神的な運動である。


480.
 サーダナーは、不完全で限定的な人間の性質を、完全なる神の無限の光輝へとトランスフォームするプロセスである。
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聖者の生涯「ナーグ・マハーシャヤ」(12)

2014-07-29 19:55:46 | 聖者の生涯


 
 かつてラーマクリシュナは、出家を望んだナーグに対して家にとどまるように指示し、またこのように言いました。
「お前は家にいなさい。信心深い人々のほうから、お前のもとにやってくるであろう。」

 ナーグは非常に謙虚な人間であったにもかかわらず、ナーグの名は広く知れ渡るようになり、ラーマクリシュナの言葉どおり、インド中からナーグのもとに多くの信仰者が訪れるようになりました。ナーグとその妻、そして父のディンダヤルは、喜んで客のために尽くし、余りあるもてなしをしました。
 ナーグはこう言いました。
「これはすべて主のリーラーである。人間の姿に化身されたとき、主は特別な人間としてご出現なさった。そして今、こうして様々な姿で私を祝福するためにやって来るのも、また彼である。」
 本当にナーグは、すべての生き物の中に至高者を見ることができていたのでした。そして家に訪れるすべての客を至高者の化身と見て、全力で奉仕したのでした。


 ある日、10人の程の客が、ナーグの家を訪れました。おりしもその日、ナーグは激しい腹痛に襲われていました。その痛みはとても激しく、ナーグは何度か失神したほどでした。しかしナーグは病をおして、客への奉仕を始めました。家には一粒の米もなかったので、市場に買い物に出かけました。決して自分の荷物を他人に運ばせることのなかったナーグは、米を抱えて歩いている途中で、激しい腹痛に耐えきれずに道端に倒れました。
 ナーグは自分の病気には無頓着でしたが、ただ客への奉仕ができないことを嘆き悲しみました。
「おお、主よ、私は何と呪われた運命にあることでしょう! なぜこのようなことが、今日という日に私に起こったのでしょう! 至高者たちが私の家を訪れてくださったというのに。ああ、彼らに食事を供養するのが遅くなってしまう! この肉と骨の檻は本当にみじめなものだ。この肉体が、私が主に仕える邪魔をする。」

 しばらくして痛みが少し治まると、ナーグは米を担いで家に帰りました。彼は客の前で深々とお辞儀をすると、給仕をすることが遅れたことに対して謙虚に許しを乞いました。


 ある時はひどい雨の日の夜に、二人の客が訪問しました。ナーグの家には部屋が四つありましたが、そのうち三つは、雨露をしのぐこともできないほど崩れかかっていました。ただ一つのまともな部屋が、ナーグと妻の寝室として使われていました。
 ナーグは妻を呼んで言いました。
「いいかい、主の思し召しによって、われわれは素晴らしい幸運にあずかっている!
 さて、われわれは今晩、至高者たちのために多少の不便を耐え忍ぼうではないか。玄関に座って、主の神聖な御名を唱えて夜を過ごそう。」
 こうしてナーグと妻は、客のために寝室を与え、自分たちは玄関で祈りと瞑想に夜を過ごしたのでした。


 買い物をする時、ナーグは決して値切ることをせず、常に店主の言い値で買い物をしていましたが、滅多にだまされることはありませんでした。ナーグはこう言いました。
「人が真実に対して信仰を持っているなら、真実自身がその人を守るのである。神の恩寵あれ。」

 ナーグは訪問者たちに対して食事をふるまうだけではなく、ときには宿泊費や旅費さえも負担してあげていました。もともと貧乏なナーグは、このような奉仕による際限のない出費によって、多くの借金を背負うことになりました。
 それを知ったヴィヴェーカーナンダがナーグの借金の肩代わりを申し出ましたが、ナーグは、
「あなた方出家修行者たちが、私に与えてくださる祝福だけで十分です。」
と言って、穏やかに断りました。

 また、ナーグの借金を心配する友人や信者たちに対して、ナーグはこう言いました。
「決して心配しないでください。確かに何も得るものがなければ餓死するかもしれません。それでも、私はダルマを放棄することはできません。お願いですから、このようなくだらない馬鹿げたことで、あなた自身を悩ませないでください。バガヴァ―ン・シュリー・ラーマクリシュナの思し召すままに!」



つづく
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サーダナーの指針の花輪(461~470)

2014-07-29 19:19:52 | 経典の言葉・聖者の言葉

461.
 あなたは、あなた自身の真我の中に、永遠の安らぎを見つけるだろう。


462.
 「私は唯一の実在である至高の純粋意識である」とあなたが悟るとき、それを真の独立という。


463.
 無私の奉仕、献身、そして不滅の真我の瞑想――これらの実践が、真我独存の解脱への道である。


464.
 無私の奉仕と献身は、エゴに摩擦を加え、そして破壊する。


465.
 エゴの破壊は、純粋意識の実現である。


466.
 求道者は、識別智と寂静な心を持ち、外側に向かいがちな心の習性をチェックして、荒れ狂う感覚の欲望を制御して、不滅の幸福の家にたどり着く。


467.
 真理と自由の探索者は、自らの師と聖典への絶対の帰依心を持たなければならない。


468.
 堅固であり、純粋で、欲望の少ない者は、叡智と苦行によって、至高のブラフマンを見る。


469.
 他者を害することは、どのような形であれ、たとえわずかな時間であれ、またいかなる場所や状況においてであれ、許されないことである。


470.
 おお求道者よ、騒がしくするな。
 放っておくと下へと向かってしまう心の傾向を逆流させよ。
 優しくあれ。
 穏やかであれ。
 常に柔和であれ。
 
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サーダナーの指針の花輪(451~460)

2014-07-29 18:59:39 | 経典の言葉・聖者の言葉

451.
 あなたの心の奥の部屋へと深く飛び込み、神の精髄を味わいなさい。


452.
 あなたの心が作り出したこの外的世界を、真我の瞑想によってぬぐい取りなさい。


453.
 肉体を否定しなさい。そしてすべてに遍在する、不滅の、恐れなき真我こそがあなた自身なのだと認識しなさい。


454.
 すべての生き物が自分自身であると認識しなさい。
 これによって、宇宙意識、ヴィシュヴァルーパ・ダルシャン、そして非二元的な悟りへと至るだろう。
 

455.
 もしあなたが不滅になりたいならば、個という意識を破壊しなさい。


456.
 エゴを破壊せよ。
 心を溶解せよ。
 無智のヴェールを切り裂け。
 絶対なるブラフマンと一つになれ。


457.
 すべての存在が一つであるという悟りは、自己中心性とエゴイズムを根こそぎにする。
 そしてあなたは、あなたの自己がすべての自己であることを感じ始める。


458.
 真我を礼拝しなさい。
 ソーハム(我は彼なり)と瞑想することによって。
 安らぎ、慈悲、寛容、謙虚、実在と非実在の識別、平静の花を供養することによって。
 そして欲望と怒りという獣を生け贄として捧げることによって。


459.
 悟りとは、あなたのリアル、神の本性への目覚めである。


460.
 すべての思考が鎮まるとき、真我は現れる。
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グル・バクティヨーガ(60)「霊性の作法」

2014-07-29 06:08:14 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎霊性の作法


 師への奉仕に没頭しなさい。強烈な熱意をもって、体と心と魂を捧げなさい。

 グルへの帰依の動的側面は、グルの蓮華の御足への自己の絶対的な明け渡しを意味している。

 グル・セーヴァ(グルへの奉仕)の日々のルーティンに、非常に几帳面でありなさい。

 師への日々の個人的な奉仕は、時計のように規則正しく行いなさい。

 謙虚さのサインは、すべての土地の教師や聖者をリスペクトすることである。

 師や尊者たちの前で、騒々しく話してはならない。

 グルの言葉への信は、不死の扉を開くマスターキーである。

 あなたが偉大なるグルの弟子であるならば、決して他者を自分の弟子にしようとしたり、自称グルになってはいけない。彼らをグルバイ(兄弟弟子)のようにもてなしなさい。

 グルを持っていながら、彼を欺いたり、信を捨てるくらいなら、グルを持たずに、人生の砂漠をさまよっていた方がまだましである。

 欲望の奴隷である者は、グルにお仕えしたり、グルに自己を明け渡すことができず、輪廻の泥沼から自分自身を救い出すことができない。
コメント

グル・バクティヨーガ(59)

2014-07-29 05:53:25 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎信の意味


 信とは、グルに対する確信、信頼である。

 信とは、聖なる師や偉大な魂の発言、言葉、行為、文章、教えに対する信念である。

 信とは、師が、あるときは証拠を用いて、あるいはあるときはいかなる論証的証明も必要としない威光によって、示された真理に対する、確固たる信念である。

 グルに完全なる信を持ち、あなたの存在すべてを彼に明け渡しなさい。彼はあなたを保護してくださるだろう。すべての恐怖、障害、苦難は、すべて消え去るであろう。

 サットグルへの確固たる信は、魂を引き上げ、その心を浄化し、悟りへと導く。

 "グルの教えに対する強烈な信"を、弟子のモットーとしなくてはならない。
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勉強会講話より「解説『至高のバクティ』」第二回 「バクティ」②(6)

2014-07-29 05:18:06 | 勉強会より抜粋


 はい。じゃあほか何かありますか?


(A)はい。今の話で、じゃあ、日本にあるお寺とか仏教の人っていうのは、こういう神を悟る修行はしてないんですか?


 神を悟る? 神を悟るっていうか、まあちょっと……じゃあこれも簡単に整理するとね、日本の仏教の場合は、二タイプか三タイプくらいに分かれるでしょう。つまり、真面目に修行している人、もちろん、これもいるね。真面目に日本仏教で修行してると。そうじゃなくて、ただ職業としてやってる人。つまり全然真面目じゃない人。あとその中間ぐらい(笑)。この三つぐらいに分かれるかもしれない。
 前も言ったかもしれないけど、わたしの中学の同級生で、寺の子供、寺の息子がいて。で、そいつが家継ぐとか言ってるんだね。友達のわれわれからすると「コイツが!?」(笑)。こいつが坊さんになって、おれたちのっていうかみんなのお経あげるの?――みたいな(笑)、「勘弁してくれ!」みたいな(笑)。でもそいつは真摯な思いというよりは、「いや、継がなきゃいけないから」みたいな感じで、普通にだから職業としてとらえている。そういう人達もいるわけですよね。
 じゃなくて、「本当に仏道を求めたい」と。で、われわれみたいにインドヨーガやあるいは根本仏教ではなくて、日本仏教にすごく縁があって、日本仏教の道で「道を求めたい!」って人も当然いるわけですよね。
 で、中間というのは、縁があってお坊さんになったけども、そこまで燃えているわけではなく、でも別に適当にやっているわけでもなく、まあできる範囲で、道を求めているという人もいるでしょうね。
 だから、割り切った職業坊主(笑)、それから本当に道を求めている真摯な日本仏教の修行者、中間ぐらいで悶々としてる人(笑)、この三つぐらいに分かれると考えたらいいい。
 で、その中で、当然、道を求めている人、これは、それぞれの宗派の方法論によって――神を悟るという表現は使いませんけどね、それぞれの道においてやってるでしょう。例えば代表的なのを挙げると、禅宗。禅宗系の場合は、曹洞宗とかね、臨済宗とか、禅宗系の場合は当然――チベットのマハームドラーとかゾクチェンとかと似てて、つまり、まあ簡単に言えば、悟りを得ることを目指しているわけだね。神じゃなくてまあ悟りだね。よく「無」って言葉使うけど、実際には「無」ではなくて、われわれの心の本性にアクセスした、言葉を超えた――つまり「言説を完全に超えた、言葉で表せない概念を超えた真理を悟ろう!」と頑張ってるのが、禅の人達ですね。
 じゃなくて浄土宗系。浄土宗系はいつも言うように、一番バクティヨーガに近いんですね。バクティヨーガに近いっていうのは、まさにおまかせの世界。わたしはあんまり日本仏教ってそんなに興味なかったんだけど、浄土宗の経典とか本とか読むとね、結構「おまかせ」って言葉が出てくるんです。「おまかせ」と。あと何だっけ? ちょっと忘れちゃったけどさ……知っている人いるかな? あれ誰だっけ……「古池や」って読んだ人誰だっけ? 


(生徒)松尾芭蕉?


 あれは松尾芭蕉か……あ、その人じゃないや(笑)。


(一同笑)


(H)一茶じゃないですか? 小林一茶。


 ああ、一茶か。じゃあ一茶だったかもしれない――が読んだ句で……何だっけ? これで分かる人いる(笑)?


(一同笑)


 あの、年末の句……。


(H)元旦の?


 元旦のじゃなくて、年末にね、簡単に言うと……つまり昔だからさ、年末に全部ツケを払うわけだね。ツケがたまっちゃって、でも金ねえと。……ちょっと何かこんなふうに説明すると全然情緒も何もないんだけど(笑)。


(一同笑)


 年末に金がないと(笑)。まあちょっと忘れちゃったんであれだけど、つまり年末に金がないんだけど、全然そこで別に心配はないと。全部、阿弥陀様におまかせ、みたいな(笑)。そういう何か句があったよね。なんかそういう発想がある、浄土宗ってね。
 もちろん浄土宗もいろんな人がいるから、いろんな考えがあるんだろうけど、実際には親鸞もそうだっだよね。親鸞も「南無阿弥陀仏で、もしわたしが地獄に落ちても、それが師・法然、グルである法然に従ってそうなったんだったら、地獄に落ちてもわたしは本望である」みたいなことを言っている。つまり完全に投げ出し型のバクティ的な世界だね。だから浄土宗系はどちらかというと、禅宗みたいに「さあ、心の本性とは何なんだ!?」「無とは何だ!?」「空とは何だ!?」「悟りとは!?」っていう世界じゃないんだね。「いかに投げ出せるか」っていう世界なんだね(笑)。「いかにわたしを投げ出せるか」っていうのが、もともとの浄土宗系の教えなんだね。みんながそう考えているかは分からないけど。でも浄土宗でも真面目なお坊さんは当然、その境地を目指して頑張ってるでしょう。
 じゃなくて例えば真言宗とか――つまり密教系ね。真言宗とか天台宗とかの密教系で頑張ってる人達は、当然、あれはインド密教の流れを汲んでいる流れですから――まさにプラクティスっていうかな、行ですね。行を励んでいろんな行の力によって、神秘的な形で速やかに仏陀を悟り得ようと頑張っている人達だね。
 だからちょっと、もう一回まとめると、実際に、その、人によってね、真面目な人、不真面目な人いるだろうけども、真面目な人に関しては、日本仏教という一つの特殊なシステムの中で、当然それぞれの宗派でいうところのゴールっていうかな、境地を目指して頑張っている人はいっぱいいると思うね。いいですか?
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グル・バクティヨーガ(58)「学識を超えた謙虚さ」

2014-07-29 05:02:27 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎学識を超えた謙虚さ


 あなたがもし、素晴らしい学識を持ち、裕福であったとしても、あなたはグルや偉大な魂の前で非常に謙虚であらねばならない。

 学識がなかったとしても、謙虚さを絵に描いたような弟子は、グルに非常に愛される。

 蛇口で水を飲むときにも、あなたは体を折り曲げなければならないあろう。ましてグルの聖なる唇から流れる不死の甘露を飲みたいと思うならば、あなたは謙虚さと柔和の権化にならねばならないだろう。

 グルの恩寵は、グルに対して徹底的に謙虚で誠実である者たちに降る。

 師の蓮華の御足を礼拝する謙虚さほど素晴らしい花は存在しない。
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グル・バクティヨーガ(57)「グルの君臨」

2014-07-29 04:47:17 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎グルの君臨


 私は、最高の完全なる存在であり、聖なるヴェーダの開示者であるグルに、ジュヤーナとヴィジュニャーナを包含するヴェーダのエッセンスを蜂のように抽出し、それを帰依者にお与えくださるグルに礼拝し奉ります。

 真の弟子は、尊敬すべきグルの蓮華の御足を、自分のハートの奥底の王座に君臨させるべきである。

 グルに会った際の弟子の第一の務めは、謹んで彼に挨拶することである。

 バーガヴァタには、24のウパグル――つまり五大元素、太陽、月、海、動物など――を持ったアヴァドゥータの話が説かれている。彼は、それらの些細なものから、至高なる叡智を学んだのである。

 彼は弟子の中の最高者である。彼は一心に、何も考えずに、グルだけを礼拝するのである。

 サットヴァが求道者の中で増大すると、彼は公明正大になり、グルへの真の信仰が開発される。

 グルは、まさに平等視の権化である。ゆえに、彼はすべての弟子を平等に見ている。

 クリシュナはウッダヴァに仰った。「祭官の中ではわたしは聖仙ヴァシシュタ、導師の中ではブリハスパティ(神々の教師)なのだ。聖者の中ではわたしは神仙ナーラーヤナ、純潔を貫く者の中では聖仙サナトクマーラなのだ。」

 弟子はグルの下でお仕えしているときには、決して他者に自分への奉仕をさせてはならない。これは彼の霊性の成長の大いなる障害となる。

 人々をあなたのグルバイ(兄弟弟子)にすることで、あなたのグルに栄光をもたらしなさい。これは、グル・バクティを開発するための王道である。
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自己の明け渡し(4)

2014-07-29 04:22:43 | 経典の言葉・聖者の言葉

 しかし私たちは、神について、いい加減な考えを持ってはいけません。
 私たちは、この壁はリアルで、あの少年はリアルだが、神は何かあいまいで、はっきりしないものであると思いがちです。
 しかしこれは、全くの誤りです。
 もしそこに、曖昧で、不明確で、はっきりせず、不安定なものがあるとしたら、それは私たち自身なのです。
 そして神は、この宇宙で唯一の確かなものなのです。
 ゆえに、私たちが神に自分を明け渡すときには、私たちは、彼が実在者であると知らなければいけないのです。
 神の写真や絵を祭壇に置くときには、私たちは、それを絵や写真だと思ってはいけません。
 私たちは、神ご自身がそこにいらっしゃると感じなければなりません。
 これを、疑いなく理解してください。
 さもなければ、自己の明け渡しは、私たちにとって永遠に不可能なものとなります。
 そして、自己の明け渡しによってのみ、私たちは神に至ることを望むことができます。
 私たちが自己を完全に明け渡したまさにその瞬間に、謙虚さが生じ、悟りが生じ、神のヴィジョンが生じるのです。



 神を悟った者には、永遠に、何も欠けることがありません。
 彼にはコートが必要でしょうか?
 コートは彼のもとへやってきます。
 靴が必要でしょうか?
 靴も彼のもとにやってくるでしょう。
 お金が必要でしょうか?
 お金ももちろんやってきます。

 このような理由のために、キリストは、

「そなたたちは、まず天の王国を求めなさい。
 そうすれば、すべての物事は、そなたに添え加えられるだろう。」

と言われたのです。

 これは文字通りの事実であり、そして、歴史上でも証明され続けています。
 大工、牛飼いの少年、貧しいアラビアの砂漠にいる羊飼いの若者、乞食――誰が彼らのことを気にかけましょうか?
 それにもかかわらず、彼らは世界を統治し、この世の人々が必死になって得ようとしている評判と名声などを、どんな皇帝よりも遥かに多く得ています。
 必死に仕事をしているある男は、ほんの僅かな名声を得ますが、しかしそれは、なんと短い期間で消えてしまうのでしょうか!
 一方、すべてを主に放棄して、神以外に魅力を感じなくなった者たちは、世界から尊敬され、崇拝されます。
 ゆえに、皇帝でないにも関わらず、彼は誇りを持って「私はクリスチャンです。キリストの崇拝者です」と言うのです。



 すべてのあなたの心配やトラブルは、自己中心癖(エゴイズム)から生じたものです。
 あなた自身を完全に明け渡しなさい。
 そうすれば、すぐにそれらは消え去るでしょう。
 そのとき、微笑みは常にあなたの唇の上で戯れ、あなたの顔は輝き、あなたの心は穏やかで平安になるでしょう。
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「ナーグ・マハーシャヤ」(11)

2014-07-28 18:11:35 | 聖者の生涯



 1886年8月16日、ラーマクリシュナはこの世を去りました。師の死後、ナーグは家に引きこもり、何日も食事もとらずにずっと毛布にくるまったまま横になっていました。

 それを知ったナレーンドラは、兄弟弟子とともに、ナーグの家をたずねました。何度も懇願されて、やっとナーグはベッドから立ち上がりました。ナーグはいつものように、客であるナレーンドラたちに食事を作って差し出しましたが、ナーグ自身は、勧められても何も食べようとはしませんでした。ナーグはこう言いました。
「ああ!未だに主の恩寵は私に与えられていないのです! 私のこの肉体に食べ物を与えるべきだというのですか。そんな必要は全くありません!」
 ナレーンドラたちの繰り返しの懇願の末、最後にやっとナーグは食事を口にしました。


 その後、ナーグは実家の家に戻り、すべてをささげて、老いた父に奉仕する生活を始めました。父のディンダヤルは高齢であり、介護が必要になっていたのです。
 ナーグは、単に日常の介護をするだけではなく、父の心が一瞬たりとも世俗にふけることがないように、いつも父のそばで、経典や神話などを読み聞かせていました。ナーグのたゆまぬ努力によって、世俗的だった父の心は徐々に変化していきました。


 ある時、ナーグがとある用事でダッカに行ったとき、有名な宗教家であり、ラーマクリシュナの信者でもあったビジョイ・クリシュナ・ゴースワミーに偶然会いました。ビジョイはナーグのことを知りませんでしたが、その優れた洞察力によって、ボロをまとった狂人のような風貌のナーグが、只者ではない、素晴らしい人格の持ち主であることを直観しました。会話の中で、ナーグがラーマクリシュナの信者であったことを知ると、ビジョイは大変喜び、ナーグを抱きしめて、敬意と愛を示しました。
 ナーグもまたビジョイに対して愛と尊敬を持っていましたが、ビジョイが様々な修行の師に会いに行っていることについては、よく思いませんでした。
「ビジョイが、師にお目にかかったあとまでも、他の修行者を探し求めるとは、なんと奇妙なことであろう。
 ビジョイのような素晴らしい人でさえ、欺かれて誤った方向に導かれるのならば、他の人々など、もっとたやすく道を誤ってしまうに違いない。」




 
 また、ナーグの友人で、ターラカンタという名の弁護士がいました。彼は神への祈りや瞑想を喜びとしていたため、ついには弁護士をやめて、修行に人生を捧げる生活に入りました。
 彼は自分とおなじように祈りと瞑想の日々を送っているナーグのもとをたびたび訪れ、ときには幾日も二人で修行をして過ごしました。
 そのうちターラカンタは、ある有名な修行者に弟子入りしました。そしてある日ターラカンタは、ナーグを訪ねて、言いました。
「私はある修行者の弟子になりました。彼は前世においても、私の師だったのです。
 私は自分の前世を思い出しました。また、私はより高い領域、すなわち月の世界や太陽の世界やブラフマ―の世界などに行くことができました。
 真理も非真理も、すべて偽りです。智だけが真実なのです。」

 ナーグは、ターラカンタの激しい変わりようを見て、こう思いました。
「ターラカンタのような高い階級の修行者でさえも、もし彼らが真のグルや教師を得ないなら、誤り導かれるのだ。」

 ターラカンタは、ナーグにも、自分の師である修行者に会いに行くように勧めました。繰り返し勧められ、ついにナーグは同意して、一緒に行くことになりました。
 ナーグは贈り物として、ターラカンタの師に、甘いお菓子と果物を捧げました。しかしターラカンタの師は、それらに一切手を触れず、それらの供物をすべてそばにいた牛にあげてしまいました。
 それどころかその師は、ナーグのやせ細った姿、洗っていないために見苦しく伸びた毛髪、貧しい服装とガサツな身なりを見て、からかい始めました。しかしナーグは何を言われても反応せずに、頭を垂れてじっと座っていました。
 ナーグが一切の嘲笑に無関心だったので、その師は一層興奮し、今度はナーグの師であるラーマクリシュナについて、ひどい悪口を話し始めました。
 ナーグは、自分が何を言われても心を動かすことはありませんでしたが、師であるラーマクリシュナの悪口には、我慢をすることができませんでした。怒り心頭に達したナーグが顔をあげると、なんと目の前に、バイラヴァ神(シヴァ神の恐怖の面の一つ)が恐ろしい姿で現われていました。ナーグはバイラヴァ神に、ターラカンタの師を投げ飛ばす許可を求めました。しかしその直後にナーグは自分のその激しい感情を抑え込むと、後悔しながら、床に頭を打ち付け始めました。

「ああ! わが主よ! なぜ私はあなたの言いつけを無視して、あなた以外の修行者などに会いに来たのでしょう? なぜ私はこのような弱さに襲われたのでしょう!」

 ナーグはそこを立ち去り、家に帰ると、もう二度と自分の師以外の修行者に会いに行くまいと決心したのでした。

 この事件の後、ターラカンタの師はナーグに、「血を吐いて一年で死ぬように」と呪いをかけました。その師の弟子のある紳士が、そのことをナーグに告げに来ましたが、ナーグはそれを一笑に付しました。実際に一年がたっても何もおきませんでした。
 のちにナーグはこう言いました。

 「ターラカンタの師は、半端な理解に基づくヴェーダーンタの教義を人々に説き聞かせることによって、相当数の人々の智慧を損なったのだ。」





つづく
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「ヴィヴェーカーナンダ」(5)

2014-07-28 17:58:55 | 聖者の生涯




 真理は一つですが、人々の智性に応じて、その教えは様々な形をとります。
 ラーマクリシュナは弟子たちの能力とタイプを見極めて、それぞれの弟子にあった教えを与えていました。
 そしてナレーンドラは最高の段階にいる修行者であったので、ラーマクリシュナはナレーンドラに最初から、最高哲学である不二一元論の真理を理解させようとしました。
 しかし当時のナレーンドラは、神と自分たちは違うものであり、神は形を持たないものであるという理解をしていたので、「存在するものもしないものもすべてはただひとつの神である」という不二一元論の思想を、受け入れることができませんでした。ナレーンドラは言いました。
「この不二一元論と無神論の違いは何ですか? 創造された人々と、創造主が同じだというのですか? これ以上の罪はありますか? 私もあなたも神で、すべては神だなんて。これを書いたリシは、狂っていたに違いありません。」

 ラーマクリシュナは、ナレーンドラのこのような飾らない言い方を聞いて微笑むと、優しくたしなめるように言いました。

「今はまだお前はこうした真理を受け入れられないかもしれない。しかしだからといって、そうした真理を教えた偉大な賢者を責めるのかね? どうして神の性質を制限しようとするのだね? 神に呼びかけなさい。神は真理そのものだ。どんな形でお姿をあらわされても、彼の真の性質であると信じなさい。」

 このように言われても、ナレーンドラは、不二一元論への批判をやめませんでした。当時のナレーンドラは、自分が理性によって確認したもの以外は信じようとせず、また議論好きで言葉がきつかったので、師や他の様々な人々にも皮肉な言葉などを言って、攻撃を繰り返したのでした。

 しかしそんなナレーンドラの見解が、ラーマクリシュナによって劇的に変えられる日がやってきました。
 ある日ラーマクリシュナはナレーンドラに、不二一元哲学による、人々の魂と絶対者ブラフマンの一体説について、様々なことを説法していました。ナレーンドラは注意深く聞いていましたが、理解することができませんでした。話が終わるとナレーンドラは、同じく不二一元論を理解できないでいるハズラという男のところへ行って、不二一元論の批判を始めました。
「水差しが神で、茶碗が神で、見るものすべてが神だ、などということがありましょうか?」
 ナレーンドラとハズラは、二人でどっと笑いました。

 ナレーンドラの笑い声を聞いたラーマクリシュナは、子供のように着物を小脇に抱えて部屋から出てくると、法悦状態のまま、
「何の話だね?」
と言って、ナレーンドラの体に手を触れました。
 その瞬間、ナレーンドラの中に、劇的な変化が起こりました。

 そのときのことを、後にナレーンドラ(ヴィヴェーカーナンダ)は、このように語っています。

「その日、師の不思議な一触れによって、私の心に完全な革命が起こったのだった。
 私は、本当に全宇宙に神以外何も存在しないことを見て、すっかり仰天してしまったのだ。
 この心境がいつまで続くのだろうと思いながら、黙っていた。この感覚は一日なくならなかった。家に帰った後も、全く同様のままだった。
 見るものすべてが神だった。食事の席に着くと、皿、食べ物、給仕してくれる母、そして自分自身のすべてが神なのを見たのだ。
 とても言い表せない、ある種の酩酊状態だった。たとえ通りを渡っている自分に馬車が向かってきたとしても、いつもどおりひかれないように道を開けようという気にもなれなかったほどだ。私は一人語ちた。『私は馬車だ。私と馬車は一つだ。』この間、手足の感覚はなかった。
 ものを食べても、何も感じられなかった。誰か他の人が食べているかのようだった。
 この最初の酩酊状態が弱まると、今度は世界が夢のように見え出したのだった。へドゥアやコーンウォーリス・スクエアーを散歩しながら、鉄の柵に自分の頭を打ち付けて、夢の柵なのか、本物の柵なのか確かめたりもした。頭や足の感覚がなくなっていたので、麻痺してしまうのではないかと思った。
 この圧倒的な酩酊状態は、しばらくは去らなかった。とうとう普通の状態に戻ったとき、自分が体験していたのが、不二一元の啓示だったことを確信した。そして聖典に見られるこうした体験がすべて真実であることを悟ったのだ。このときから、不二一元の真理を疑ったことはなかった。」


 
つづく
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