ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第85話」

2014-06-27 22:06:39 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第85話」です。
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Heart Melting Devotion Maha Mantra

2014-06-26 05:20:02 | お知らせ
 新しいキールタンの音声データをアップしました。

 「Heart Melting Devotion Maha Mantra」(ライブ版)です。

 よかったらお聞きください^^



「Heart Melting Devotion Maha Mantra」

Vocal:Keisho.Matsukawa
Harmonium:Yuri.T
Tabla:T.Takahashi
Guitar:Yuta.N
Bass:H.Miura
Manjira:Hitomi.K
Maracas:Kyoko.U



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今日のAMRITAチャンネル「アニメ・ハヌマーン 第一話」

2014-06-25 16:43:00 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ・ハヌマーン 第1話」です。
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「バクティ」第一回(7)

2014-06-23 21:49:41 | 勉強会より抜粋

(Y)お葬式って、要はどういうことなんですか?


 あ、お葬式?


(Y)【聞き取り不能】


 お葬式はね、つまり死んだ人がまだ転生してない場合ね――まあ、死んだ人がどれくらいで転生するかっていうのは、実際にはケースバイケースなんだけど。仏教論では四十九日以内というわけですけども――まだ転生していない場合は、これは本当にケースバイケースなんですが、一般論として言うと、だいたいまだ肉体または肉体の周りに霊魂というか意識がまだある。あるいはもう焼いちゃった場合も、だいたい観念があるからその――まあ骨が残っている場合ね、骨の周りにそれがある。意識がある。で、これは可能ならばだけども、本当は一番いいのは、どう祈ってあげればいいじゃなくて、本当は一番いいのは――つまりチベット人がやるように、日本人だから日本語でね、教えを読んであげる。あるいはマントラを唱えてあげる。これが一番いいです。で、本当は一番いいのはちゃんと声に出すのがいいんですけども、お葬式とかでそれができない場合はもちろん心の中でもいい。つまり念じてね、その人を念じてマントラを唱えたり聖典を読んであげたりとか。あるいはね、別に普通に語りかけるでもいい。つまりその、ここでいう語りかけは実際にバルドで死後の世界で浮遊している存在への語りかけなので――それが『チベット死者の書』とかそういうのに書かれているわけですけどね。「さあお前、今楽しそうな世俗的なヴィジョンが見えてきたと思うけども、そっちに行っちゃいけない」と。「じゃなくて上方に光り輝く赤い阿弥陀如来の光に飛び込め!」とかね。そういうふうにやるわけだけど。まあそこまでは多分できないんで――そうじゃなくて一般論でいいので、さあ――例えばその人が生前に何か信仰があった場合はね、その信仰に――例えばその人がもし例えば浄土宗でね、阿弥陀如来を信仰していたとしたら――「さあ、阿弥陀様だけを思いなさい」と。「阿弥陀様だけを思いなさい」と。「もうあなたは今よく分かっていないだろうけども、重要な魂の岐路にいます」と。「だから一切の欲望や怒りや煩悩を捨てて、阿弥陀様だけを思いなさい」と。ね。あるいは、「衆生への愛だけを思いなさい」と。「いろいろ生きているうちはあっただろうけども、そんなことはもうどうでもいい」と。「ただひたすらみんなの幸福を願いなさい」とかね。もう自分の――何でもいいです、本当に。つまり、もちろんそれがどれだけ影響与えられるかは別ですけども、少しは手助けになるかもしれない。
 つまりリアルに言うと――「うわー!」ってバルドで苦しんでて、「うわー!」っていろんな気持ち悪いグロテスクなヴィジョンとか、あるいは逆に煩悩的なヴィジョンで「うわー!」ってなっているところに、例えばウッて念じて言ってあげたら――小さい声かもしれないけどね――「阿弥陀様を思いなさい」(笑)。「阿弥陀様を思いなさい」ってちょっと聞こえてくるかもしれない(笑)。で、その人がさっき生前に信仰してたらと言ったのは、生前にもし「阿弥陀様!」と思ってたとしたら――思ってなかったらそれは弱いけども、思ってたとしたら、ちょっとよみがえるかもしれないよね。「ああ、アミダサマ。えっ? アミダサマって何だっけ?」と。これね、ほんと「何だっけ?」って感じなんです、最初は。何でかっていうと、深い潜在意識だから。あまり頭が働かないんだね。「ああ、アミダサマ? アミダ? あみだ? なんだ? あみだ?……ああ、南無阿弥陀仏!」ってなるかもしれない(笑)。

 
(一同笑)


 例えばだけどね(笑)。「ああ、そうだ」と。ね。「わたしは生きている間、阿弥陀如来のことを信じて一生懸命祈ってたはずなのに、今は全部忘れちゃっている」と。「そうだ、阿弥陀如来だ!」ってなって、まあ阿弥陀浄土行けるか分かんないけど、少しはその人のカルマのちょっとはいい方に転化できるかもしれない。だからこれがいいね。
 だから今のは、ちょっとまとめると三つ――一つは、マントラを唱える。マントラ自体は言葉の影響というよりはヴァイブレーションね、マントラがもともと持っている良い音のバイブレーションの影響で、そのアストラルにいる死者の魂に与えられるかもしれない。
 で、もう一つは、聖典を読む。これはもちろん経典の内容も素晴らしいし、あとは経典の持つ力っていうかな、聖なる言葉によって影響を与える。
 で、三つ目は、もうちょっとリアルに心を込めて、おそらく死者が今バルドで迷っているんだろうなっていう前提のもとに、ぐっと愛を持って励ましてあげる。「さあ、そっち行っちゃ駄目だよ」と。「絶対煩悩とか持っちゃ駄目だよ」と。絶対――まあ例えば何度も言うけども、その人の生前――まあその人がもし生前何も修行とか信仰がなかったとしたら、それはもう一般的でいいんですけど、一般的に神とかでいいんだけど。「ただ神を願いなさい」と。あるいは「みんなの幸福だけを願いなさい」とかね。そういうふうに言ってあげるのがいいと思うね。
 はい。もしくはね、もうひとつパターンとしては、至高者にお祈りしてもいいです。つまり「神よ」と。「彼をお導きください」と。相手によっていろいろあるだろうけど――「彼は本当に生きている間どうしようもない感じでしたが、でもいいところもあったんです」と。ね(笑)。で、わたしの功徳は――ここで回向してもいいです。「わたしが修行してきた功徳を捧げますから、どうか彼を少しでも高い世界――できれば真理とめぐり合わせてください」というふうに祈ってもいいね。


(Y)四十九日を過ぎちゃって……【聞き取り不能】


 過ぎちゃってからでもいいけども、リアルにいうと、四十九日っていうのは絶対じゃないんだけど――つまり転生しちゃうと――みんな分かると思うけどさ、転生しちゃったらもう固定されちゃうから。例えば猫になっちゃったらさ、猫である状態に固定されてるから、この猫が死なない限りは次のチャンスはないわけですよね。でも、それでもわれわれが祈りを込めたりとか、神に祈ったりしたら、当然その魂のカルマに影響を与えられる。影響を与えられるけども、大きな影響はないよね。だから逆にいうと、死後のバルドはチャンスなんです。チャンスっていうのは、どうにでもできるから。まだ未定状態。次の就職先未定みたいな感じだね(笑)。次の赴任先は未定な、どっちでも行けますよ、な状態だから、だから強く祈ってあげるといいんだね。

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「バクティ」第一回(6)

2014-06-23 19:03:12 | 勉強会より抜粋



(T)主を取ることによって誰かが寂しがったり――クロズ(ペットの名前)なんですけど(笑)。寂しがったりするのに罪悪感があって悪いなあと思いながら、ずっとそのまま家を空けたりしているんですけど、そういうふうに誰かが寂しがるとか、誰かが悲しい思いをしているとかのときはどうなるんですか?


 まあ、まず第一にクロズの場合ね、そのペットの場合は、本当に寂しがっているかっていう問題がある。もちろん分からない。寂しがってるかもしれないよ。まあまず寂しがってるかっていう問題がまずあるけど。
 で、もう一つ。次に本当に寂しがっていたとしてね、そうだな、いろんな観点から言えるんですけど、つまりこれもね、二択の問題なんだけど、自分が勉強会に行くことでペットが寂しいっていうこの二択がありますよね。これはもちろん勉強会の方を取んなきゃいけないんだけど。次に自分が飼っている、例えば動物のことを考えた場合、これもね、常に二択なんです。これはちょっと話が若干アレンジされるけども――つまりバクティというよりは菩薩行になりますけども――バクティの観点から言うならば、「常に神の意思を取る」ということになるんだけど、菩薩行にそれをちょっとアレンジすると、「わたしがこの動物であろうが人間であろうが、この生命体と関わる理由は、相手を引き上げるだけだ」――これだけなんです。相手を引き上げるだけだっていう観点から言うならば、わたしが何をすればこの子は引き上がり、何をすれば引き下がるか――これだけでいいんです。例えばこの勉強会で言うならば、もしですよ、大楽さんが「クロズ寂しいから」って勉強会行かなかったとしたら、クロズの悪業になります。つまり引き下げることになる。つまり表面的には「わたしはクロズを愛している」とやりながら、クロズは違うことを考えています。「こいつ引き下げやがった」と(笑)。あの、魂はね(笑)。表面的にはクロズも「ああ、行かなくてぼくのために戻ってきてくれてありがとう」って言うかもしれないけど、魂は違うことを考えてる。「こいつやりやがった」と(笑)。「こいつ無智だから。、かわいいとか言いながら、おれを引き下げることばっかやってる」と(笑)。本当にこういうことなんです。だからそれは引き下げることになる。だからそれは涙をのんでっていうか、これがクロズのためなんだと思わなきゃいけない。
 あるいはね、もうひとつ言うと、例えばそこでね、寂しいっていうけどもさ、もちろんそれは一方的なものかもしれないし、あるいはもちろん相思相愛かもしれないよ。お互いに「ああ、クロズちゃん」と。「ああ……」――クロズはどう言うか分かんないけど(笑)――「ご主人様!」みたいな感じで愛し合ってるかもしんないけども、でもそれはさ――ちょっと厳しく言えばね、執着ですよね。ということは――Tさんは修行者だから、修行者の場合ちょっと変わってくるんだけど、でも一般論として言ったら、寂しいことを心配して、寂しがらせないように愛情を与えるっていうのは、相手の執着を増してるだけなんだね。
 だからちょっとこう言うと冷たく聞こえるかもしれないけども、子供に対してもそうなんですけども――もちろん子供に愛をもって接するのは大事なんだけど、あんまりね、執着させるようなことは本当はよくないです、本当は。相手の苦しみを増やすだけだから。人間っていうのは、なんかその執着の喜びと苦しみを喜ぶところがあるからね。執着して、その執着した相手が死んでしまった! っていうのをなんかこう喜んでる、自分でね(笑)。だってそんな悲しむんだったら最初から執着するなって感じなんだけど。でも人間界ってそういう世界だから、それを良しとする気持ちがあって。で、これもちょっと冷たい感じになっちゃうけども――逆にTさん側にも、つまり当然愛情要求があると思うんだね。つまり、クロズに好かれたいと。好かれたいっていうのは、例えばTさんがクロズにあまり接さなくなったら、クロズはあんまり大楽さんに執着がなくなるかもしんない。つまり、大楽さんいなくてもあんまり寂しくない子になるかもしれない。そうなると寂しいでしょ(笑)? 飼主側としては。これが、なんていうかな、自分勝手な愛なんです。つまり、これは人間の恋愛とか親子の愛情でもいえることだけどね。単純に自分を満たしているに過ぎないというか、自分が愛してほしいだけにすぎない愛っていうのもあるわけだね。だからそういうのは捨てると。じゃなくて、自分のエゴはスパッと捨てて、あるいは自分の観念も捨てて、この眼の前の魂に自分が縁があって接せれるわけだから、「何をするのが最高なのか?」と。で、今言ったように自分が勉強会に行くのは当たり前であってね。で、それをクロズに邪魔させたらクロズの悪業になるから、だから決してクロズのために行かないなんてことはしないと。
 で、さっき、修行者の場合はちょっと違うよと言ったのは――ちょっと話がまた変わるけどね、修行者の場合は、クロズがもちろんTさんに執着しててもオッケーです。なぜかっていうと、その分、心の結びつきが強まってね、Tさんが修行すればするほど――縁があるからね、クロズにも影響がいくからね。まああるいは、クロズがもしTさんを思いながら死んだとしたら、Tさんがもし来世も修行者になったら、クロズも一緒にきて修行者になるかもしれない。まあまた犬かもしれないけどね(笑)。何になるか分からないけども(笑)――一緒の世界に引っ張られるかもしれないから。だから修行者の場合は何ていうかな、ちょっと若干いろんなアレンジが加わるわけですけども――でも基本的には執着はないほうがいいわけだから、だから相手の寂しさを考慮に入れる必要はあまりないね。
 ただこれもケースバイケースですよ。犬はちょっと別として(笑)。人間の場合、例えばすごく心が屈折している人がいる場合ね、この場合は一時的に表面的な愛情も与えてあげなきゃいけない場合もあるよね。だからあらゆる場合において執着を絶てとは言わないよ(笑)。すごく心が屈折している子供がいて、「執着は苦だから」とか言ってお母さんがすべての愛着を断ってしまったらね、より屈折して真理から外れていってしまうかもしれない。だから一時的には愛情を与えなきゃいけない場合もある。でも例えば――まあそうだな、例えばS君みたいにね、「もう修行だ、クリシュナだ!」とか言っている子に関しては、もう別に親の愛情いらない(笑)。こういうこと言うとMさんが怒っちゃうかもしれないけど(笑)。余計な執着は別にもう持たせる必要はないと。ただ――親としてはですよ――これは例えばの話だけどね――「S君が、もうクリシュナで頭がいっぱいになるようにしてあげたい」と。で、例えばの例だけど――もしお母さんがそこでS君に接しすぎたら、S君がちょっと愛情がお母さんに移っちゃうという危険性があるとしたら、お母さんとしては接しすぎないということを考える。それが愛だと。ね。これは例だけどね(笑)。でもそういうことなんだね。だから自分の今生の観念を全部捨てて――だからこれは教えが必要ですけどね。教えと智慧が必要だけど――教えと智慧と愛をもって、それが動物であろうが人間であろうが――どうするのがこの、縁があったこの人にとって一番、この人を引き上げることになるのか。あるいは逆にどうすると引き下げることになってしまうのか。これを考えて接するっていうことだね。だからそれは完全にケースバイケースだけども、今言ったその寂しがらせるとかね、それは全く考える必要がない。今のケースにおいてはね。


(T)罪悪感……


 罪悪感? だから今の教えが入ってれば罪悪感ないでしょ? 教えが入っていば逆に喜びに変わる。だから罪悪感はその情の部分だから。自分のね。それは間違いなんだって考えて。今のケースはですよ。今のケースに関しては逆に――あの、だからちょっとね、なんていうかな、もうちょっと高度な智慧と高度な愛を持つと、罪悪感も消えます。例えばどうなるかっていうと、例えば「じゃあね、クロズ」とやって、「クーンクーン」とかこう寂しそうになっていたとしたら、喜びが湧いてきます。「おお、こいつ寂しがってる」と(笑)。ね(笑)。つまりこれによって――「わたしを勉強会に送り出した。送り出し、かつ自分は寂しがっているっていうこれによって、クロズの魂はどんどん浄化されるだろう」と。だってもし自分以外の飼い主だったら――自分以外の飼い主でも寂しがるかもしれないけど、何の利益もない寂しさですよね、それはね。でも「ああ、クロズ。今生わたしの元に生まれてきてよかったね」と。「ここでわたしはただ真理だけを求めて生きます」と。「それによって、あなたが寂しいことがあるとしたら、それはあなたの最高の利益だ」と。で、「それによってわたしの修行を助けてくれることになるし、逆にそこで悲しむことによって真理の手助けをした」――これは消極的にですけどね――消極的に、ご主人さまの修行の手助けをして自分は悲しむという、最高のシチュエーションが展開されてると。で、これをなんかこう、ウーッて感じで思うんじゃなくて、喜びになるんです。「良かったなあ、クロズ」と。クロズは「クーンクーン」とか言っているんだけど(笑)。こっちとしては笑いがこみあげてくる。「やったなクロズ」と。「なに泣いてんだ、お前」と(笑)。「それ最高なんだよ」と(笑)。「もうバカだなお前、泣いて」ってね。(笑)。「おまえの魂は本当はそれを望んでるんだ」と。「良かったね」って感じで――もう一回言うけども、センチメンタルにならないんですよ。途中段階ではセンチメンタルなときもあるかもしれないけど、それを乗り越えるとセンチメンタルも消えます。喜びだけになります。「ああ、良かったな」と。
 だいたい密教とか、あるいはいろんな話で出てくる聖者っていうのも、当然弟子の成長だけを願って、表面的にはちょっと苦しみを与えたりするわけですよね。で、それはもう心からそれが分かっているんだね、それが相手の幸福っていうか相手の進化につながるっていうのが分かっているから、だから何もそこには迷いがないっていうか。
 もう一回言うけども、それだけが自分と相手の縁を肯定するただ一つの方法なんです。もしそれをしなかったならば、はっきり言うとわたしから言わせると、「なにペット飼ってんの?」ってなってしまう、例えばね(笑)。つまり全くそれは――「え、ペットのおかげで勉強会来れない?」あるいは、「え、勉強会来れないし、しかも執着が増すし、あるいはいつも一緒に寝てたりしたらエネルギー的にもどうかと思うし(笑)。それ何なの?」ってなるけども、でも今言ったような愛をクロズに向けるとしたならば、この縁が全肯定されるわけだね。だからそのためにこの縁はあったと。お互いに修行進むねと。良かったねと。だからそういう意味でクロズを――まあ別の言い方すればクロズも法友と見てあげたらいい。法友であって、あるいは救済の相手であってね。――って見れば、今言ったようなね、そのセンチメンタル的なのも越えられると。いいですか? 
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「バクティ」第一回(5)

2014-06-23 07:42:06 | 勉強会より抜粋


 はい、じゃあ何か質問ある人いますか?


(A)【聞き取り不能】


 まあ、それはね、みんなが引っ掛かるところだと思うんで、当然ケースバイケースですよね。その法事の内容にもよるしね。わたしはよく詳しくないけどさ、つまり重要な法事とかいろいろあるよね(笑)。あんまり重要でない法事とか(笑)。で、前から言っているけども、付き合いで法事に行く時には――もしね、別にそんな行かなくてもいいようなやつだったら、もちろん行かない方がいいです。これは何回か言っているけど、ヒンドゥー教でもそうなんだけど、特に仏教の方で戒めてることなんだね。つまりその、ちょっとストレートに言うと、死んだ霊を悼んではいけない、あるいは拝んではいけないというお釈迦様の教えがある。だからちょっとこう、なんていうかな、低級霊世界と繋がってしまう行為になるので、実際にはやんない方がいい。
 で、そうじゃなくて二番目に、でも付き合いで行かなきゃいけない。この場合は行っていいです。この場合はいつも言うように、変容すればいい。変容っていうのは、つまり普通の人が――まあはっきり言うと、ありもしないね、ありもしないおじいちゃんがお盆になんか船に乗ってやってくるんだとか(笑)、いろんな――何だっけ? ちょっと忘れちゃったけど(笑)、なんかいろんなそういうのをイメージしてやると、これは低級霊に繋がります。で、そうじゃなくて、かたち上はお墓に行ってると。で、そこで何を願うかというと――これはいろんなやり方があっていいと思うけども、例えば、そこでご先祖様を願っていればいいよ。例えば「ああ、わたしと縁のあったご先祖様、おじいちゃん、おばあちゃん。あるいは曾じいさん、曾ばあさん」と。ね。「今どの世界にいるか分かりませんが、ぜひ真理と縁ができますように」と。
 で、いつも言うようにさ、自分の先祖というのは――お釈迦様が「人が一人解脱すれば七代前まで徳が返る」と言っているわけだけど――つまりよく言われるような血縁の縁というのはあまりないんだけど、じゃなくて、もっと現実的なカルマ的な縁があるんだね。つまり「お父さんお母さんが育ててくれたから今わたしは修行ができている」と。もっと言えば、「そのお父さん、お母さんはおじいちゃん、おばあちゃんが育てた」と。こういう意味での恩があるんだね。恩というかカルマがある。これがもちろん遡るに従って弱くなるんだけど、お釈迦様は解脱すれば七代前まで返ると言っている。だから、もちろん解脱できれば最高ですけども――「わたしはあなた方の分までしっかり頑張りますから、頑張って修行しますから――そのわたしをお父さん、お母さんが生んで育てて、そのおかげで今わたしは修行できているわけだから、さらにその因を作ってくれたおじいさんや、おばあさんやそのさらに前のご先祖様にもこの徳が返りますように」と。ね。つまりほかの人が「ああ、お盆で帰って来た」とやっているのに、こっちは違う心でね、「どっかの世界に生まれているご先祖様方、しっかりと真理に巡り合って下さい」と。「そのためにわたしは頑張ります」と。このような祈りをするならば――みんなとは違うんです。みんなとは違う意味でお墓に行っているわけだけど(笑)、その墓参りの意味もあるということになるよね。その墓自体はあんまり関係ないんだけどね、実際には(笑)。その墓自体は関係ないんだけど、でもその墓参りの意味が非常にあるってことになる。
 だからもう一回言うけど、行かないでいいんだったら行かないでいいけど、行かなきゃいけない場合は、どうせ行かなきゃいけないんだったらそういうふうに転化していったらいいですね。
 で、次に、三番目に、今言ったみたいに例えばこの勉強会であるとか、あるいはいろんな例えば合宿であるとか、そういうのが重なる場合ね。これもケースバイケースになるんだけど、理想を言うとそういうときには当然修行とか勉強会を選んだ方がいいです。ただ、まあ実際にはなかなかいろいろな事情があるだろうから、あらゆる面においてそうしろとは言えないけどね。でも理想を言うと、こういうダルマとか聖なる真理とか至高者とのこういった学びの場や、あるいは修行の場の方を選んだ方が、皆さんのカルマにとっては素晴らしいカルマになります。
 この素晴らしいカルマっていうのは――結局人間というの一瞬一瞬選択なんですね。一瞬一瞬、選択を繰り返しているわけで。で、日々の選択って小さな選択じゃないですか。小さな選択っていうのは、例えば、Y君が勉強会に行く前にね、「ちょっと腹が減った」と。腹が減ってラーメン屋に入りたくなってね、ラーメン屋入りたいけども、「でも入っちゃうと遅れる」と。「ラーメン屋とるか、勉強会とるか」と。「いや、やっぱり勉強会だろう」と。……これは当たり前ですよね。


(一同笑)


 当たり前っていうか、もちろんそれも選択なんですよ(笑)。それも選択で、「ああ、やっぱりゆうすけくん、修行者だからラーメン屋よりも勉強会とりましたね」と。それはいいことですよ。いいことだけども、当たり前というか(笑)。でもそうじゃなくて、例えば――これ例えばですよ、例えばっていうのは別に強制するわけじゃないよ――親戚とかの手前上、「そりゃあ法事行かないとまずいだろう」――というのが一つあったとしてね。で、もう一つ勉強会がある。で、「勉強会に関してはまあいつも行ってるし」と(笑)。毎週やってるしと。いつも行ってるしという理由付けもある。だから「まあ、行かなくていいかもな」と。「だって勉強会一回休んだって別に怒られるわけじゃない。怒られるわけじゃないけども、でもこの法事を行かないと、ちょっと親戚や家族に気まずい」と。これを打ち破って、もし勉強会来たとしたならば――これは何度も言うけど、強制じゃないよ。強制じゃないけども――来たとしたならば、みなさんの中に強烈な真理へのベクトルっていうか、つまり「普通こっちに行くだろう」っていうのを蹴ってこっち来たとしたら、ものすごい――なんていうかな、勢いがつくんだね。エネルギー的な勢いっていうか。
 これはだから何度も言うように、現実的にはみなさんが考えてください。でもセオリーとしてそういうものがあると考えたらいいね。
 だから現代においては――っていうのはね、この昔のヒンドゥー教の時代と違い、現代はそんなにこの社会が真理に目覚めた人が多いわけじゃないので、なかなか現代で修行しようと思うと、周りの理解が得られない場合が非常に多いと思うんだね。で、それでケースバイケースと言っているのは、そこで何があってもそんなものは蹴って来た方がいい場合もあるんです。でもそうじゃなくて、長い目で見た場合に、ここでわざわざトラブルを起こさない方がいいなって場合があるかもしれないよね。それはいろんな本当に場合があると思うので、だからあらゆる場合において蹴って来いとは言えないけどね。だからそれは自分で考えたらいいと思うけども。でも原則としてはそうだっていうことだね。原則としては、何よりも真理との縁、あるいは真理に、あるいは神に愛が向かうことね。
 まあ例えばさ――ちょっとわたしさっきから強制じゃないよと言いながら、なんか強制みたいなことばっかり言っているけど(笑)。例えばだけど、例えばじゃあ法事と勉強会で天秤にかけてね、「勉強会いつでも行けるから法事にしよう」といった場合に、もう勉強会ないかもしれない、いきなりね。いきなりなんか「カイラス終わりました」って(笑)。「この間のが最後でした」ってなるかもしれない。あるいは今度逆に天野さん自身が――不吉なこと言えば、死ぬかもしれないよ。法事に行く途中で死んじゃったと。何だったんだっていうね(笑)。つまり自分がなんとなく思い描いていた、「ここで行っておいた方が……」っていう曖昧な未来の安定をとったがために――本当はここで終わる人生だった場合ね――最後の真理との結びつきをとれなかったということになってしまう。
 だからこれは――なんかちょっとまるで「強制じゃないよ」と言いながら追い込んでいる人みたいだけど(笑)。そういう人っているよね(笑)。「強制じゃない」と言いながらなんか――よく先生とかお父さん、お母さんとかそういう人いるよね。「強制じゃないけど」とか言って(笑)。そうせざるを得なくなるという(笑)。でも本当にこれは強制じゃありません(笑)。強制じゃなくて考え方の問題で言ってるんでね。常にお任せして、真理との縁を取ると。
 ただ、もう一回言うよ、さっきから強制じゃないと言ってるのは、例えばわたしに相談してもらった場合、「ああ、それは行っといた方がいいね」っていう場合があるんです、実際に。すべての面において蹴ればいいってもんじゃないから。それはだから強制じゃないっていうのは頭に入れておいてください。その上で心の面で投げ出して、常に一〇〇%真理をとるような心を持ってたらいいね。みんなはもちろんベーシックにはそういうのあると思うんですけどね。だから現実的な面でたしかに「こういう場合はどうしたらいいかな?」っていうのはいろいろあると思うんで、まあ分かんなくなったらわたしに聞いてもらってもいいし。
 今朝も何か面白い――Aさんから――ちょっとバラしちゃうけど(笑)。Aさんからメールが来て、自宅の祭壇にね、わたしの写真を修行中飾っていて、で、それをしまうのを忘れて家を出て来ちゃったと。で、途中で――まあその旦那さんがいるのでね――「途中でしまいに戻っても良かったんだけど戻らないで来ちゃったので、旦那さんに見つかって離婚するかもしれません(笑)」って書いてあって(笑)。


(一同笑)


 まあ、でもね、これくらいの軽い感じの方がいいですね。もちろんその、わざとそういうことをする必要ないけども、でも例えば師に帰依をしてね、写真を飾って修行してましたと。で、もちろんそれはだんなさんの気持ちも考えて――あるいは理解がまだない場合ね、それは修行が終わったら全部片付ければいいんだけども――でも忘れちゃいましたと。で、忘れて勉強会に向かっているから、戻ったら勉強会遅刻するかもしれないと。まあ、だからそれを全部加味した上でね、「ああ、じゃあお任せしよう」という気持ちがあって、で、そこでこうなったらちょっと気まずいとか、あるいはそうなったら離婚にもしなってしまったら大変であるとか、そういうのもちょっと全部捨てて、まあ今みたいに軽い感じでね、「ああ、離婚しちゃうかもしれません(笑)」くらいのね、軽い感じで(笑)――っていう気持ちをベーシックに置いていたらいい。何に対してもね。
 いつも言ってるけどさ、ここで放棄って書いてありましたけども、修行者、特にバクティの修行者がベーシックに持たなきゃいけない気持ちは結局ね、ヴィヴェーカーナンダもよくそういうこと言っているけども――ちょっと誤解を恐れずに言えば、この世の物事なんて、ほとんどどうでもいいんです。どうでもいいっていうのは、ヴィヴェーカーナンダは「全部劇だ」と。あるいは「お遊びだ」と。「だからそこで深刻になる必要はない」と。「お遊びだということを忘れて深刻になったときだけ、人は苦しみに巻き込まれる」ってヴィヴェーカーナンダは言っているんだね。だからそういう意味では――つまりこれがさっき言った、考えるべきことは二つだけって言ってるやつね。それが神への愛につながるならば良し、神への愛を遠ざけるならば悪しと。これだけが唯一深刻な問題なんです。これは深刻です。もし何かがあって、自分の心が神の愛から離れているとしたら、これは一大事です。これは一大事なので、全精力を傾けてその障害を取り除かなきゃいけない。でもほかは言ってみればどうでもいい。どうでもいいけども、われわれはそのリーラーの中で一応は頑張っているわけです。例えば今の例でいったら、一応はもちろん家庭円満の方がいいから、一応はだんなさんにも気を使っていろいろやっているわけですけども、でもこれはこだわっているわけじゃないよ。こだわっているわけじゃないっていうのは、一応リーラーとしてそういうことはやってるけども、もし神の愛によって離婚しなきゃいけなくなるとしたら、「まあ、いっか」と(笑)。つまり「ああ、それは神の愛だから素晴らしい」となるわけですけども、その背景っていうかそのおおもとには結局どうでもいいっていう気持ちがあるんだね。それは本質ではないから。つまりこの舞台に過ぎないんですね。わたしが神の愛を実現するこの人生において、こういう状況が今あったけども、この状況が――まあ人間ってさ、状況が変化することを嫌がるところがあるから――こういうふうに変化したとか、あるいは自分の観念において悪いような状況になってきたような気がするとか、そういうのも全部どうでもいいんだね(笑)。それは全然本質ではないというか、それは舞台に過ぎないというかな。
 だからそのような軽い気持ち、投げ出した気持ちで――で、もう一回言うけども――じゃ何が大事なんだ? それは――だから逆に言うと、神への愛につながるものは良し、邪魔なものは悪し、どっちでもないものはどうでもいい、ということだね。どちらでもないものはどうでもいい。だからどちらでもないものに関してはもちろん――もちろんわれわれはダルマを学んでいるので――これがだから「願い」の歌にある「だたあなたの教えを指針として生きます」と。だからダルマを指針として、ある意味誤解を恐れずに言えばロボットのように、ダルマによって動くロボットのように生きればいいだけであってね。一切自分の観念にとらわれないっていうことですね。
 で、ちょっと話をグーッともとに戻すけども――現実的にはケースバイケースなわけですけども、自分の心持ちとしてはね、常に二択があったら神への愛につながる方を取ると。邪魔になる方は捨てると。この修習を繰り返すといいね。その修習の繰り返しが皆さんの習性になるので、よりその神への愛をとりやすくなります。
 で、輪廻からいうならば死後もそれは役に立ちます。死後っていうのはさ――皆さん何度も言っているど、バルドというのは選択ですから。選択っていうのは、これは『チベット死者の書』とか見たら分かるけども――つまりその、悪しき煩悩のエネルギーと神の世界のエネルギー両方来るんだね。「どっちとりますか?」っていう話になってくる。で、ほとんどの場合煩悩とっちゃうんだね。つまりわーって神の光も来るんだけど、なんか美味しそうな食べ物とか、あるいは性欲のヴィジョンとか、あるいは逆に自分の憎かった人のヴィジョンとかいろいろ出てきて、で、潜在意識の世界だから頭では歯止めが利かなくて、もう心から、もう無意識にとっちゃうんだね。無意識に神よりも心のけがれの方にバーって突っ込んでっちゃう。でも、もう一回言うけども、生きているうちに観念よりも神、けがれよりも神、これを取ることを続けてたら、さっきから言っているように、心のベクトルがそっちを常に取るような習性が身に付くんです。これはきつい程いいんだね。きつい程いいというのは、取りにくいほど練習になるからね。だからそういう意味で言ったら、あらゆることに関して、神に近づく方を取んなきゃいけないわけだけど。
 ――まとめると、実際にはケースバイケースのことが多いので、分かんなくなったらわたしに聞いてもいいし、教えをもとにね、いろいろ思索して考えたらいいと思います。
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「バクティ」第一回(4)

2014-06-22 21:50:06 | 勉強会より抜粋


 はい、
「この世のしきたりも、さまざまな宗教的教えも、至高者への愛の手助けとなるものだけを行ない、至高者への愛に反するものは放棄する」
と。

 はい、これはいつも言うように、このバクティヨーガが出てきたときというのは、もともとインドに伝統的なヴェーダの教えその他があって――つまりヒンドゥー教っていうのはすごくしきたりを重んじるので、いろんな決まりを作るわけですね。いろんな決まりに則っていろんな宗教的なことをやんなきゃいけなかったりする。あるいはそうじゃなくて、宗教的ではない、世俗的ないろんなしきたりとか、いろんな常識とかがあるわけだけども――この世俗の意味でも、あるいは宗教的な意味でも、そういう観念にとらわれない。じゃなくてそれが神に結びつくのか、神への愛を増大させるのか、あるいはその邪魔となるのか、これだけですべてを決めるということだね。われわれの神への愛を増大させるものは、宗教的しきたりも、あるいは世俗的なしきたりも行なえばいいし、逆にその邪魔となるものだったら、それがたとえ伝統的な宗教的しきたりだったとしても、一切拒絶すると。放棄する。あるいはもちろん世俗的ないろんなものの中で、神への愛の邪魔となるものはもう一切放棄する。
 ――っていうのはさ、それしかないからです。われわれのこの世における価値っていうはそれしかないんだと。ね。自分のプライドとか自分の居心地とか、あるいは自分の観念とかもう全部放り投げていく。もうこの二つしかない。つまり、神への愛が増大するものは良しとし、神への愛の阻害となるものは悪しであると。もうこの観点しかないんだっていうことですね。
 だから、もう一回言うよ――世俗的なしきたりにしろ、あるいは宗教的なさまざまな観念的ないろんなしきたりにしろ、それは神への愛につながるんだったならば肯定し一生懸命行なう。逆に、神への愛の阻害となるような、邪魔となるようなものだったら、それが客観的に、あるいは一般的にどんなに重要なものとされようが、一切を放棄する、ということですね。

 はい。じゃあ、この辺で今日は読むのは終わりにして、ここもちょっとだけ瞑想しましょうね。この一文――「また、バクティは……」のところの一文をまた少しだけみなさん心で瞑想してください。

【瞑想中】

 はい、じゃあ瞑想終わって。はい、じゃあ最後にもし質問があったら質問を聞いて終わりにしましょう。
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「バクティ」第一回(3)

2014-06-22 18:28:45 | 勉強会より抜粋


 「そして至高者以外の何ものにも庇護を求めることはない」と。ね。
 これはさ、みなさんがそれぞれ考えてもらえばいいんだけど――あの、分かりやすいように極端な例を挙げるとね――極端な例っていうか、いつも言ってる話だけど――例えば、わたしの好きな話で、ラーマクリシュナのある弟子が重病にかかったときに、重病にかかってどんどん体が弱っていったときに、周りの人はお医者さんに行くことを薦めたわけですね。「早く医者に行った方ががいいですよ」と。でも彼は、「いや、そんなの全く必要ありません」と。「わたしの主治医はただ一人、主――あのお方だけです」と言って、病院にさえ行かなかった、という話がある。
 で、もちろんこれは一つの極端な例なので、みなさんに真似しろとは言わない。つまりかたち上ね、みんなに病院行くなって言ってるわけじゃないんだけど――考え方としてね、考え方として、わたしには主だけが頼りであって、ほかには――例えばほかの人間もほかの神々も、ほかのさまざまないろんなその拠りどころ、こんなものは要らないと。わたしのただ一つの拠りどころは主だけなんだと。
 あのさ、これはもちろん、自分の考えとかも同じです。前も何回か言っている話ですけどね――あのヴィシュヌ神と、信者のこういう話がありますね。ヴィシュヌ神が、ヴィシュヌ神のヴァイクンタという浄土で安らいでいたら、いきなりヴィシュヌ神が立ち上がって出て行こうとしたと。で、そこにいたヴィシュヌ神の妃のラクシュミー女神が驚いて尋ねたわけですね。「一体どうしたんですか?」と。「何があったんですか?」と。そしたらヴィシュヌ神が言うには、「わたしにすべてを捧げている、わたしにすべてをお任せしている信者が、今強盗に出遭って、たいへんな暴力を受けようとしている」と。「だから、彼はわたしにすべてを捧げ、わたしだけを頼りとしているから、わたしは助けに行かなきゃいけない」って言って出て行ったんですね。でも出て行ったと思ったらすぐに戻ってきちゃった(笑)。ヴィシュヌ神がすぐに戻ってきちゃって、で、ラクシュミー女神が「あれ? もう帰ってきたんですか?」と。「どうしたんですか?」と聞いたら、「いや、彼は暴漢にやられそうになって、助けに行こうとしたら、彼自身が石を取り出して反撃し出した」と。「だからわたしは帰って来た」っていう話があってね(笑)。
 つまり至高者にお任せではなくて、その状況を自分で何とかするもんだと思い、そして自分の観念、あるいは自分の力というものによってその状況を変えると考え、その人が、その信者が石を手に持った瞬間、至高者は帰って行っちゃったという話だね(笑)。
 これはまあちょっと象徴的な話ですけどね。
 ただ、もちろんみなさんは分かると思うけど、前も言ったように、われわれはね、自分の意志、つまり正しい教えに乗っ取った意志を磨く修行ももちろんしなきゃいけないんですよ。つまり自分でこの現象を意志で変えるんだと。でもこれはちょっと、なんていうかな、微妙な話なんで、みなさんしっかり心でつかんでほしいと思うけども――この、修行者が自分の意志で何をするかっていうと、まさにバクティの道から外れている自分を、自分の意志でぐっと戻そうとするんです。つまり、「わたしは煩悩いっぱいで神への愛もない」と。「だからこの煩悩をどうにかしてくれるのも神にお任せ」――じゃ駄目なんです。
 本当はこれでもいいんですよ。本当はこれでもいいって言っているのは、例えば例をあげるとラーマクリシュナの弟子のギリシュとかはそういう感じだったんですね。でも、これはね、実際にはみんなは真似できない。何でかっていうと、つまりギリシュってのは本当はすごい信者だったんです。つまり、心から本当に完全なる信愛があったんだね。だから逆に言うとあれができた。でもわれわれは、実際にはまだ疑り深い。疑ぐり深く、あるいはまだエゴが強過ぎるんだね。だからこの方法も――まあ、この方向性も、心の中にある程度あってもいいけども、これだけじゃ駄目。
 そうじゃなくて、自分は全然駄目だと。自分はまだまだ神に投げ出せていないと。で、それは、自分の中にいろんなこういう要素があると。だからそれを自分の意志の力で打ち砕いていく。打ち砕いて、その神のみに心が向かうように、自分を自分の意志で頑張って修正しなきゃいけない。この気持ちは同時に持たなきゃいけないんだね。で、そのもとに一切のことを神にお任せすると。
 だから逆に言うと、自分が神に本当に心を向けられるか、本当に神を愛せるかということ以外のことは、ほとんどどうでもいい。ね(笑)。どうでもいいって言うのは、例えばここで――今の例えで言ったらね――悪者に自分が殴られそうになって、そこでその信者がね、「いや、わたしは神にお任せしてるから」ってやり返さなくて――やり返さなかったらヴィシュヌ神の力で――例えばだけどね、なんかピカーッとなって(笑)、その悪者たちが改心するかもしれない。あるいはなんか奇跡的なことが起こって、奇跡的に助かるかもしれない。でもね、助からないかもしれないんだよ。もしかするとそのまま殴られるかもしれない。でも、どうでもいいんです、別にそれは。つまり、ここがさっき言った、初歩的な宗教とは違うって話で――わたしは、ヴィシュヌ神にお願いすれば悪者が来ても殴られないからヴィシュヌ神に帰依してるわけじゃない。じゃあ、もし殴られたらもう帰依はなくなるのかって問題があるよね。こんなんじゃもちろん駄目なわけですね。だから逆に言うと――もう一回言うよ――これくらいのもし帰依心があれば、つまり「神よ、あなたにすべてを捧げてますから、わたしは今、悪者はやって来ましたが、安全であるとわたしは確信しております」と。「お任せします!」ってやったらボコボコにされたと(笑)。ね(笑)。ボコボコにされたんだけども、そこで喜んで、「ああ、神よ」と。「これがあなたの今回の愛でした」と、そこに何の自分の概念も入れないっていうか。こうだったら良かったとか、こうだったら信じられたけど、こうだったから信じられないとかね、そんなの一切ないと。もう完全に一方的な愛です。
 前にも言ったけど、完全な、客観的に見ると片思いのような、何の見返りも求めない愛なんだね。もう、なんていうかな、理由なき愛っていうか。もしそこで神が――まあちょっと変な話だけど――神が何か言ってきたとしても――例えば「いやお前、わたしに帰依したって何も与えないよ。別にいいことないよ」とか、あるいは「わたしに帰依したっておまえの苦しみ終わらないよ」とかね、何を言われたとしても関係ないんだね。「いや、わたしは別に何かを求めて帰依しているわけじゃない。ただあなたを愛したいだけだ」と。あるいは「ただこのわたしの中に、燃えるようなあなたへの愛が燃え上がっているから、ただこれをまっとうしたいだけだ」と。ただこれだけなんだね。
 これがあれば、なんていうかな、さっきの――これが完全にあれば、さっき言ったギリシュのようなことも実はできるんだね。つまり、わたし今煩悩いっぱいありますが、これをどうするか全部あなたの責任ですと。ね(笑)。何とかしてくださいと(笑)。で、なんでこれができるかっていうと、このような誓いというかな、お願いをした者には、ギリシュの例がそうだったように、自動的にその信者のカルマを浄化し、そして神への愛でいっぱいになるような現象がいっぱい起きるわけですね。でも、そこでその人は本当は口先だけで心の中に疑いがあったり、神への愛が弱かったりすると、すぐに文句を言い出すわけだね。いろんな悪いことが起き出したら、「何するんですか」と(笑)。「もうわたしはあなたを信じません」となってしまう。だからこのようなことっていうのは最初はできないんですね。
 はい、だから話をちょっと戻しますが――だから実際的には、われわれは修行においてはね、修行においては自分の意志っていうのを強く持って、自分の心を志っていうのを強く自分で壊れないようにして、で、自分の意志の力によって自分のけがれを打ち砕いていく。こういう姿勢は絶対に必要なわけですけど――しかしその結果として起きること、あるいは現象的な意味で起きること等に関しては、ただすべてを神にお任せすると。神だけがわたしの拠りどころであり、あるいは主治医であって、あるいはわたしの人生を動かせる、お任せしている唯一のお方である、ということですね。ただ至高者だけに、至高者以外の何者にも庇護を求めることはない、っていうのはね。
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「バクティ」第一回(2)

2014-06-22 15:22:21 | 勉強会より抜粋

【本文】
 また、バクティは、放棄をその特徴とする。
 ただ至高者に心から尽くして、その妨げとなるものをすべて放棄する。
 そして至高者以外の何ものにも、庇護を求めることはない。
 この世のしきたりも、さまざまな宗教的教えも、至高者への愛の手助けとなるものだけを行ない、至高者への愛に反するものは放棄する



 はい、これもまあ読んだ通りですが――放棄を特徴とすると。もともと修行っていうものは、放棄、現世放棄っていうものが土台にあるわけですけども――よくね、対比して話すときに例えば――バクティヨーガ、これは愛の道であると。で、ジュニャーナヨーガ、これは智慧の道で――で、ラージャヨーガ、これは放棄の道とよく言われるときがある。まあ、ラージャヨーガは実際には精神集中の道なんだけど、その精神集中のために世俗的なものを放棄すると。
 つまりそのバクティヨーガっていうのは、さっきも言ったように、その愛の道――つまり「神にいかに愛を向けるか」っていうことなんだけども、でもこれが机上の空論で終わったらしょうがないわけですね。つまり口先だけで「神、神」と言って、でも実際には多くのとらわれがある。これじゃ駄目なわけだね。だから現実的には、もしバクティの道を本当に歩みたいっていう人がいたら、まさにこの放棄の修行を徹底的にやる必要があるわけだね。つまり、神に全愛を向け、そしてその邪魔となるもの一切を放棄するということですね。



 「ただ至高者に心から尽くし、その妨げとなるものすべてを放棄する」。
 これはもちろん執着であったり、あるいは憎しみであったりプライドであったり、さまざまな心の――いわゆる煩悩といわれる心の幻影がたくさんあるわけですね。で、それがもちろん道徳的に悪いわけではない。あるいは、自分の悟りの障害となるから駄目なわけでもなくて、ただただ神への愛の邪魔になるから――ただその一点なんだね。
 さっきも言ったようにこの神への愛ってのは、実際には深いものがあって、つまり単純に「愛してます」ってだけでなくて、それが成立したときには――さっきも言ったように全部神の愛に見えるから、そこには何の苦しみもなくとらわれもなくなるはずなんですね。でもそうじゃなくて、「わたしは神を愛してます」とやっているのになんか苦しいと。ね。あるいはなんか嫌いな人がいると。あるいはなんか心が不満を感じていると。としたら、何か――つまり神への愛を妨げている何かがあるなと。
 で、ここで勘違いしちゃいけないのは、それは自分の中にあるんです。つまり現象というよりは、自分の中に神への愛を妨げている障害があって、それが一応あらわれとして現象があらわれて、それによって自分がつまずくわけですけども。その現象を取り除いたとしても、当然、自分の中にあるうちはまた別の現象が表われ、引っ掛かる。だから自分の中にある、自分と神とのこの距離を遠ざけているもの、あるいは阻害してるもの、これを一つ一つ、そして徹底的に放棄しなきゃいけない。
 この放棄が、つまり実質的には――もう一回言うよ――理想としては神への完全なる愛、これがバクティなんだけど、実践面においてはまず必要になるのはこの放棄だっていうことですね。徹底的な放棄。
 これはね、大乗仏教もそうなんだけど、皆さんは徳があるから、こういったちゃんとした教えを学べるけども、バクティヨーガとか、あと大乗仏教って、いつも言っているけどね、ちょっと勘違いに陥りやすいんだね。勘違いっていうのは、つまり小乗的な自分の解脱だけを求めて修行している人っていうのは、もうこれ、完全な放棄の人ですから。「放棄だ!」って言って、もう一切を放棄する。家、家庭を放棄し、友人を放棄し、食べ物も着る物も一切の楽しみを放棄して、ただ修行に埋没するわけですね。じゃなくて、大乗仏教の菩薩や、あるいはバクティヨーガの人っていうのは、そういう、その極端な放棄はしないわけだね。つまり世俗にいながら、あるいはある程度の――例えば食べ物もそうだし、あるいはある程度の喜びを持ちながら修行を進めるわけですね。でもこれは別に放棄しなくていいってわけじゃないんだね(笑)。放棄しなくていいってわけじゃなくて、その中で人を救う。またはその中でそのすべてを神の愛と見る、っていう方向に持っていかなきゃいけないから、精神的には、よりいっそう放棄しなきゃいけない。うん。一切とらわれないっていう状態を作んなきゃいけないんだね。その完全なる放棄をちゃんと心に確立しないと、何度も言うように似非バクティになるし、あるいは似非菩薩の修行になってしまう。
 だからこの放棄――まあ逆にいうと「自分がとらわれてないかな?」「自分の心が、自分が作り出した幻影にとらわれて、いろんなものに執着したり嫌悪したりしてないかな?」と。こういう念正智っていうのは、やっぱり日々行なう必要がありますね。
 はい、それによって、そのバクティの理想を妨げるものを徹底的に放棄する。
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7・20 岡山ヨーガ講習会

2014-06-22 09:53:16 | お知らせ

 きたる7月20日(日)、午前11時30分より、岡山にてヨーガ講習会を開催いたします。


 参加希望の方は、お早めにメールでご連絡ください。


 皆様のご参加を心よりお待ちしております。




☆詳細---------------------------------------------------------------------------------




☆日時:7月20日(日)11:30~14:30


☆場所:岡山県岡山市「くらしのたね」
http://www.kurashinotane.jp/map.html


☆参加費:3000円


☆内容:クンダリニー・ヨーガ、ハタ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガ、バクティヨーガなどの各種行法実践と講義。
    初心者の方でも問題ありません。お気軽にご参加ください。


☆予定しているメニュー:アーサナ(気を調える体操)
            気功(気を充実させる内気功)
            プラーナ―ヤーマ(各種の呼吸法)
            ムドラー(覚醒の技法)
            マントラ
            瞑想
            講義
            キールタン
 
☆持ち物:動きやすい服装
     ヨガマット、または大きめのバスタオルなど(床に横になるときに下に敷けるもの)。

☆申込先:電話またはメールでお申し込みください。


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「解説『至高のバクティ』」より「バクティ」第一回(1)

2014-06-22 08:45:50 | 勉強会より抜粋
201205020 勉強会講話「解説『至高のバクティ』」より

「バクティ」第一回




 はい、今日は前回エッセイ集の2の『約束のサイン』が終わったので、新しい『至高のバクティ』の、一番最初になります。「バクティ」ってところですね。はい、じゃあ読んでいきましょうね。


【本文】

バクティ

 バクティは、至高者への至高の愛をあらわすものである。
 それは永遠の愛であり、それを得るならば、人は完成者となり、不死となり、平安へと至る。
 その愛を得るや、心は満ち足り、人はもはや他の何をも望まず、何があっても嘆かず、何をも憎まず、何にもとらわれない。


 はい、これはですね、もともと『ナーラダバクティスートラ』という聖典があって、それをちょっとわたしが分かりやすくまとめたやつですね、この話はね。この『ナーラダバクティスートラ』も、日本ではあんまり有名じゃないんですけど、いろんな聖者方が読むことを勧めている聖典なので、これもしっかり読んだらいいですね。
 はい、このナーラダバクティスートラの一番最初――「バクティは、至高者への至高の愛をあらわすものである。それは永遠の愛であり、それを得るならば、人は完成者となり、不死となり、平安へと至る」と。
 あの、バクティっていうのはとても定義が難しいんですけどね。バクティって言葉自体はヒンドゥー教でも仏教でも出てくるわけですが、いわゆる信愛――信じ、愛する――信愛というふうによく訳されるわけですけども。まあただそれだけではよく分かんない。いろんな要素が含まれているわけですが、でもここでナーラダ――この『ナーラダバクティスートラ』――あの皆さんもよく知っている聖者ナーラダね――ナーラダが説いたといわれているわけですが――そのナーラダによると、一言で言うと、「バクティは、至高者への至高の愛をあらわすものである」と。で、「それを得るならば、人は完成者となり、不死となり、平安へと至る」。そして「心は満ちたり、人はもはや何をも望まず、何があっても嘆かず、何も憎まず何にもとらわれない」と。
 はい、これこないだもちょっと言いましたけどね――つまり神にわれわれが祈るときっていうのは、当然いろんなレベルで神の恩寵を願ったり期待したり、あるいは神からの祝福、あるいは自分を幸せにしてくださいとか、そういう事を当然願ったりするわけですね、まあそれがレベルに応じて現世的なものから、解脱だったり、あるいはよりね、崇高なものに変わっていくわけだけど――ここで言っているのはそうではなくて、つまり神に愛される、あるいは神から何かをいただくんじゃなくて、いかに自分が神を愛せるか――つまり究極に――ここに書いてあるように、もう他に――まあ、「あなたの愛に」の歌にあるようにね、「もうほかは何もいりません」と。「全く何もいりません」っていうくらいに自分の心のベクトルのすべてを神に向けられるかっていう問題ね。
 もう一回言うよ、そしてこれは、例えばラージャヨガ的な、単純に「はい、神に精神集中しましょう」っていう問題でもない。じゃなくて「愛」なんだね。愛。で、この間言ったと言ったのは――この間何かの勉強会のときに言ったけども――われわれにとっての最高の願いはこれなんだね。つまりその――「あなたへの永遠の愛をお与えください」と。「バクティヨーガの歌」にあるように――「あなたへの永遠の愛をわたしにお与えください」と。
 これは、あんまりバクティヨーガ知らない人にとってはちょっと、「え?」って思うかもしれない。つまり自分の心の方向性みたいなものを願っているわけだけど――でも、これがバクティにおける――まあバクティにおけるというよりも、この世における最高の願いなんだね。
 だから皆さんもこれ覚えといてください。覚えといてっていうのは――例えばさ、漫画とかでよくあるけど――もしかするといきなりね、なんかあるとき神がパッと現われて「願いを言え」って言うかもしれないよ(笑)。「願いを一つだけ言え」とかね、「三つだけ言え」とかそういうのよくあるよね(笑)。そのときちょっとパニックに陥って「ああ、どうしよう」ってなって(笑)、「大きな家をください」とかね、くだらないこと頼んでもいけないし、あるいは修行上に関しても、なんていうかな、例えば「解脱をください」って言ったとしたらそれはそれで素晴らしいと思うけども、でも実際には、もっと素晴らしいことがあるっていうことですね。で、その最高の願いであるべきことが、この、あなたへの――つまり「主への終わりなき絶対なる完全なる愛をわたしにください」と。これがだからバクティの最高の理想なわけですね。
 で、もう一回言うけども、それをもし得ることができたならば――これもね、言葉にすると変なんだけど、「至高者への完全な愛を得たならば完成する」っていうんだね。うん。面白いね。でもこれがバクティの秘密なんですね。それによって完成するし、で、ほかに何も望むことはなく、何があっても嘆かず――ね。何かがないっていうんじゃないんですよ。つまり、苦しいことが起きないっていうんじゃないんだよ。これは過去のいろんなバクティヨーガの聖者の物語見ても分かるように、逆にこういう道を歩むと――逆にって言うとみんな怖がるかもしれないけど、いろんな試練とか、あるいは浄化の試練がいっぱい来るわけだね。だから神に心向けてるからって悪いことが起きないわけではない。逆に言うとね、逆に言うと、そこまでわれわれは信仰を昇華しなきゃいけないっていうか。
 つまりまだこのバクティにあまり入れてない人――宗教をやっている多くの人がそうだけども、つまり、神に自分の幸せを願う、あるいは無病息災、つまり悪いことがないことを願うと。こういう段階からもちろん始まって構わないんですよ。つまり最初は神なんか信じないという段階があって、そこから、じゃなくて神に信が高まり、でも神に自分の人生を良くしてもらいたい――こういう段階から始まるわけですけども。でも、ある段階からバクティってのはもうちょっと真髄的なところに向かう。――つまり、良いことも悪いことも全部お任せですと。その中で、わたしの心は神への愛だけでいっぱいになりたいと。そうなったならば、結果的にその人は苦しみがなくなる。苦しみがなくなるっていう意味は、もう一回言うけども、苦しいことが起きないわけじゃないんだね。苦しいことが起きないわけじゃない。客観的に苦しみが起きたとしても、何があってもそれは何でもない。なぜかっていうと、神への愛でいっぱいだから。
 変な言い方すれば、それどころじゃないっていうかね。神への愛で満たされているから、別に――だから全部、自分の自我も全部神への愛一本に――つまりさ、苦しいっていうのはさ、自分が作り出したエゴの幻影があって、それを守りたい心があって、で、それを阻害されるっていう錯覚してる現象が起きると苦しいわけですよね。でもこのエゴの概念も全部差し出してるから。自分の中には神への愛以外ないという状態にしているから、現象で何が起きても、別に何も嘆くことはないんだね。ある段階ではただすべては幻のように流れていくし、ある段階によっては逆にみんなが苦しみと思うことすら喜びであると。愛であると。神からのプレゼントであると。ね。プレゼントと思ってすごく歓喜になったりもするし、あるいは別パターンとしてその――まあつまり神のリーラー、神とのお遊びと考えて楽しくなったりもする。これがバクタ、バクティヨーガの一つの理想ですね。何も憎まず、何にもとらわれないと。
 でもいつも言うようにさ、われわれはまだ途中の段階なので、このバクティの理想と、それから世俗のマーヤーとのせめぎ合いの中にいるって言ったらいいね。だから例えば皆さんの心が純粋化されたときっていうのは、ここに書いてあるように、あらゆることを神の愛と考え、もう何があっても喜びに満ちる。でもそこにマーヤーの罠がやってくる。そうすると逆にここに書いてあるように、例えばちょっとずつ始まるわけですね。ちょっとずつ、ちょっと、満ち足りる、じゃなくてちょっと不満が出る。「あれ?」って感じで不満が出る。あるいはちょっと欲求が出る。あるいは少し嘆きが出る。あるいは少し憎しみやとらわれが出る。
 で、これをちゃんと念正智して、「いや、わたしは神から今意識が外れていた」と。「じゃなくて、しっかり神に心を戻そう」ってやればいいんだけど、じゃなくてわれわれの心が甘いと――今日読んだ詞章にも「自分の心を甘やかすな」とあったけども、甘やかしていると、すぐにこのマーヤーの罠に巻き込まれるわけですね。
 だから理想は理想としてあるんだけども、心が巻き込まれちゃう。最初はちょっとしたとらわれ、ちょっとした不満、ちょっとした憎しみだったのが、もうそれで頭がいっぱいになる。で、その現象ね、マーヤーの現象自体にとらわれて、その現象自体を何とかしたいって思ってしまうようになる。これがだからマーヤーの罠だね。
 で、このマーヤーの罠と、そうじゃないわれわれの至高者への集中、このせめぎ合い――でもね、みなさん分かると思うけど、このマーヤーの罠をやってんのも至高者だから。ね(笑)。このへんが面白いんだね。だからよくラーマヤナとかの祈りでもあるけども――「わたしにあなたへの最高の永遠の愛をお与え下さい」と。「そしてわたしが、あなたが作り出したマーヤーに一切惑わされないようにしてください」と。こういう祈りがよくあるわけですね。これはだからとても面白いね。至高者がすべてやっておられる。
 で、もう一回言うけども――その至高者のマーヤーっていうひとつの試練であり、あるいはちょっとリーラーみたいなもんなんだけど――それに捕まることなく、この現象の世界をわたしが自分のエゴの概念でとらえることなく、すべては神の愛であり、わたしの眼には神しか見えない――っていう理想から忘れることがないように、われわれは念正智しなきゃいけない。もちろんその念正智が、最終的にはいらなくなる――いらなくなるっていうのは、本当にその世界に完全に没入すれば、もう念正智はいらないね。でもまだそこまではいっていない場合は、当然その日々の念正智によって、その状態をキープし続けなきゃいけないわけですね。

 はい、ちょっとこの経典は――これはさっきも言ったように、非常に重要な経典でもあるので、これもね、ゆっくりとちょっと瞑想しながらいきましょうね。じゃあこの一文、もう一回ちょっと読みますよ。



 【本文】
 バクティは、至高者への至高の愛をあらわすものである。
 それは永遠の愛であり、それを得るならば、人は完成者となり、不死となり、平安へと至る。
 その愛を得るや、心は満ち足り、人はもはや他の何をも望まず、何があっても嘆かず、何をも憎まず、何にもとらわれない。



 はい、この一文を瞑想してください。何度も読み返してもいいし、あるいはそのエッセンスだけを覚えておいて、心の中で瞑想してもかまいません。はい、じゃあしばらくこれを瞑想しましょう。


【瞑想中】


 はい、じゃあ瞑想終わって。

 はい、じゃあ次のところもいきましょうね。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第84話」

2014-06-21 12:12:03 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第84話」です。
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解説・バガヴァッド・ギーター(85)「ヨーガを成功させるには」

2014-06-21 05:39:28 | 解説・バガヴァッド・ギーター



◎ヨーガを成功させるには

【本文】
『アルジュナは言った。
「おお、マドゥスーダナ様! あなた様が述べられた、すべてを平等に見るヨーガは、
 動きやすく頼りない私の心では、しっかり実行していけそうにありません。

 おお、クリシュナ様! 私の心は絶えず揺れ動き、すぐに力強く荒れ狂い、そして実に頑迷です。
 ですから、私にとってこれを制御することは、風を意のままに支配する以上に難しいのです。」』


 はい。アルジュナがね、「あなたが言っていることはちょっと実行できそうにありません」と。「難しいです」――で、それに対してクリシュナが答えるわけですね。


【本文】
『至高者はこうお説きになった。
「大いなる勇者よ! 確かに絶えず揺れ動く心を制御するのは難しい。
 だが、クンティー妃の息子よ! 不断の修習と離欲によって、それが可能となるのだ。

 怠惰な心を持った人にとって、ヨーガを体得することはきわめて難しい。
 だが心を制御し、正しい方法で精進し、わがヨーガ修行は必ず成功するという信念を持つならば、必ず成功するだろう。」 』



 はい。ここに書いてあるとおりですね、これもね。修習と離欲っていうのはよくヨーガで使われる言葉なんだね。修習と離欲。まず離欲っていうのは言葉どおりね、欲から離れると。できるだけ日々自分の欲をなくしていきなさいよと。そして修習っていうのは結局、繰り返し行なうと。
 だからこれはいつもね、いろんな人が言うけども、「いや、私はこういう心のけがれがあってこれが落ちるとは思えない」と。「落ちるんでしょうか」と。「きれいになるんでしょうか」と。それは修習によって必ずなるんです(笑)。何故かというと、それは自分が今悪しき心と呼んでいるものもまた修習によって作られたものに過ぎない。つまり、もともとは原初のわれわれっていうのは純粋な真我であったと。でも修習によってここまで汚くしちゃったと。でも逆に正しい生き方を修習するならば絶対きれいになるんだね。 
 で、しかもその、何ていうかな――われわれが何となくこの世でけがしてきたパワーよりも、仏陀や神やヨーガのパワーっていうのは凄いから、それを信じてひたすら修習したならば必ず変わる。でもやらなければ変わりません。
 これはだからヨーガのアーサナとかも同じだね。どんな硬い人だって修習していればいつかは必ずそれができるようになる。
 肉体よりは心の方がちょっと掴みどころがないけども、心の世界っていうのもまったく同じなんだね。あるいはわれわれのカルマの世界っていうのも同じなんです。修習をひたらすらすること、つまり繰り返し繰り返し行なうことによって、必ずわれわれの心っていうのは、あるいはカルマっていうのはどんどん悟りへと向かっていくわけです。
 はい、そして『怠惰な心を持った人にとってはきわめて難しい』と。つまり結局ね、また別の言い方をすれば、誰でもやればできるんです。悟りっていうのは。でもやんなければできないです(笑)。
 だからちょっと否定的であったり、怠惰であったりして全くもしやらなかったら、もちろんそれは達成ありませんよと。どんなにけがれたカルマの人でも、もしやる気があってやり続けるなら誰でも達成します。
 はい、そしてこれはよくヨーガ経典に出てくる言葉だけども、‘我がヨーガ修行は必ず成功する’っていう信念ね。これを持つならば必ず成功するでしょうと。つまり半信半疑で、「ああ、私カルマ悪いからできるのかな?」とか、あるいは、「え? ヨーガって本当にそんな力あるのかな?」とか思うよりは、「絶対成功する」と。今の私はこういう悪い部分いっぱいあるけどもヨーガの力は素晴らしいし、あるいは私は神に愛されてるし、私は懸命に努力するわけだから必ず達成するだろうと。そういう信念ね。それを持つならば必ず成功するでしょうと。
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一つの思想に

2014-06-20 23:19:12 | 経典の言葉・聖者の言葉
 一つの思想に狂気することのできる人、彼のみが光を見ます。
 こっちをかじり、またあっちをかじるということしかしない人々は、決して何事も成就しないでしょう。それらはひと時、彼らの神経をくすぐりますが、それで終わりです。


 ――ヴィヴェーカーナンダ

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働き続けなさい

2014-06-20 22:38:17 | 経典の言葉・聖者の言葉
 未来において、人々があなた方や私を認めて言うことや、あるいは反対して言うことに対して、耳を傾けてはならない。
 働き続けなさい。ライオンでありなさい。そうすれば、主はあなたを祝福してくださるだろう。
 私は死ぬまで、絶え間なく働き続けよう。そして死んだ後も、世界の幸福のために働き続けよう!


 ――ヴィヴェーカーナンダ

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