ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

グル・バクティヨーガ(42)「われわれとグルとの関係」

2014-05-31 21:59:37 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎われわれとグルとの関係


 このカリユガでは、神の悟りは、グルへの献身によって実現される。

 グルからイニシエーションを受けることは、偉大なる祝福である。

 マントラに隠された力、マントラ・チャイタニヤは、グルからイニシエーションを受けることによって目覚める。

 必ず、今日から完全なる献身をもって、グルに奉仕するようにしなさい。

 霊性の宝庫であるグルの助けなしでは、霊性の進化は全く不可能である。

 グルは、求道者のヴェール、障害を取り除き、その道に光を投げかけてくださる。

 グルとのサットサンガの機会を逃さないようにしなさい。

 自分の親や学校の先生に毎日平伏しなさい。

 自分の母親を神と見なさい、自分の父親を神と見なさい、自分の学校の先生を神と見なさい、自分のもとに来た来客を神と見なさい。

 グルに奉仕せずに聖典を学ぶのは、ただの時間の無駄である。

 グルにダクシナ(供物)を捧げることなく、グルから聖典を学ぶことは、ただの時間の無駄である。

 グルの望みを果たすことなくして、ヴェーダの経典、ウパニシャッド、ブラフマスートラなどをただ読むだけでは、幸福も叡智ももたらされないであろう。

 グルに長い間奉仕をすることで、純粋で寂静となったあなたの心は、あなたのグルとなる。
コメント

グル・バクティヨーガ(41)「偉大なる道」

2014-05-31 09:24:37 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎偉大なる道


 すべての聖仙、聖者、リシ、世界の師、化身、偉人は、どんなに偉大になったとしても、自分のグルを持っていた。

 グルは、すべての徳と吉兆の宝庫である。

 グルとの接触は、すべての疑念、恐れ、心配、不安を取りのぞく。

 グルへの不動の信、確固たる献身によって、弟子は物質的繁栄を得、すべての仕事で成功することができる。

 グルは、世俗という大海に沈むゆく弟子にとっての救命艇である。

 あなたは、何かの技術を学びたいと思ったら、その技術を良く知っている師のもとに行かなければならない。

 一般の現世的な知識においてもそうであるならば、霊性の道における師の必要性といったら、一体どれほどのものであろうか。

 グルの助けなしで心を制御ようとする者たちは、まるで自分の船に良き船頭を確保していない商人のようである。

 霊性の道は、切り立った茨の道である。――あなたはさまざまな誘惑に襲われるだろう。そこには転落の危険性がある。ゆえに、その道を歩んだ師のもとに行きなさい。

 眼を閉じて、グルのお姿を瞑想し、彼の聖なる御名を唱えなさい。

 グルの瞑想は、至福、内なる強さ、心の平安、歓喜をもたらしてくださる。 

 「グルに栄光あれ」とは、「神に栄光あれ」という意味である。 
コメント

クリシュナ物語の要約(11)「ブラフマー神が主を賛美する」

2014-05-31 07:49:21 | 経典の言葉・聖者の言葉




(11)ブラフマー神が主を賛美する



 さてその後、クリシュナと子供たちはヤムナー河の砂浜に行き、もうお腹がペコペコだったので、皆で楽しくお弁当を食べ始めました。クリシュナが中心に座り、その周りを子供たちが幾重にもなって囲んで座りました。それはまるで、美しい蓮華の花のようでした。

 クリシュナは、腰布に横笛をさし、左手にはカード(ヨーグルト)をつけたご飯を、右手には果物を持ち、他愛ない冗談で仲間の子供たちを笑わせながら、昼食を楽しみました。その様子を、天の神々は驚異の目で眺めていました。

 このようにして子供たちがクリシュナに心を没頭させて食事をしている間に、いつの間にか子牛たちの姿が見えなくなってしまいました。森の奥へと迷い込んでしまったのです。

 クリシュナは、
「心配しないでもいいよ。僕が子牛たちを連れ戻してくるから、君たちはここで食事を続けていればいいよ。」
と言うと、一人で森の中へ子牛を捜しに行きました。


 さて、強大な悪魔アガまでがクリシュナに殺され、救済されたのを見ていたブラフマー神は、もっとクリシュナの素晴らしい栄光の力を見たいと思い、子牛と子供たち全員を、その神秘的な力で、別の場所へと隠してしまいました。

 クリシュナは子牛たちを見つけることができず、戻ってみると子供たちも全員消えていたので、そこら中を捜しまわりました。そしてこれはブラフマー神の仕業だと気づいたクリシュナは、ブラフマー神を喜ばせ、かつ子供たちの母親たちも喜ばせるために、消えたすべての子供たちと子牛たちと全く変わらぬ姿として、自分の分身をあらわしました。
 
 こうしてクリシュナは、自らの分身である子供たちと楽しく語らいながら、自らの分身である子牛たちを連れて、ヴラジャへと戻ってきたのでした。

 そしてクリシュナの分身であるその子供たちは、全く以前と変わらぬようにそれぞれの家に帰り、その家の子供として、それぞれの家にとどまったのでした!
 子どもたちの奏でる横笛を耳にすると、それぞれの母親は急いで席から立ち上がり、それぞれの子供たち(実は全員がクリシュナ)を愛おしくだきしめました。

 そして母牛たちも、クリシュナの分身である子牛たちを自分の子供とみなし、愛をもって乳を飲ませたのでした。

 子どもたちの母親や、母牛たちは、それぞれの子供たち(実は全員がクリシュナ)を、以前よりも深く愛しました。そして以前は持っていた「この子は自分のもの」という所有意識、エゴによる執着をいまや全く持つことなく、純粋な気持ちで、クリシュナが化身されたそれぞれの子供たちを深く愛したのでした。

 そしてこの遊戯の日々は、なんと一年間も続いたのでした。 

 あるときバララーマは、村の人々の子供への愛情、そして母牛たちの子牛への愛情が、以前とは比べ物にならないほど深く、大きく、純粋になっているのに気付き、いったいこれはどうしたことだろうかと考えました。そしてその智慧の目によって、子供たちと子牛たちの全員が、実はクリシュナそのものであることを見抜いたのでした。そこでバララーマがクリシュナにそのことを尋ねると、クリシュナは事の次第をバララーマに簡単に説明し、バララーマもそれを理解したのでした。

 さて、人間界の一年間は、ブラフマー神の世界では一瞬にすぎません。子供たちと子牛たちを隠したブラフマー神が、その人間界の時間における一年後に、再びその場へ戻ってくると、そこでクリシュナが以前と同じように、自分が隠したはずの子供たちと一緒に遊んでいるのを目にしました。

 いったいこれはどういうことなのか、ブラフマー神は理解することができず、その子供たちをじっと見続けました。するとその子供たちの全員が、青黒い肌をして、黄色の衣を身にまとい、四本の腕を持った、超越的な姿に変貌したのでした。そしてそんな彼らの一人一人に、この全宇宙のすべての被造物が、さまざまな礼拝を捧げているのを目にしたのです。
 さらに明と無明、24の宇宙原理、カーラ(時間)やスワバーヴァ(本性・自然)、サンスカーラ、愛欲、カルマ、三グナ、それらが人の姿となって、彼ら一人一人を囲んで輝いていたのでした。
 それら一人一人の子供たちは、純粋なる真理と意識、歓喜、祝福からなる、唯一の実在の体現だったのです。 
 これらの光景を見て、ブラフマー神は、驚きのあまりに呆然と立ち尽くしてしまいました。

 特有の栄光と祝福を持ち、マーヤーを超越し、論理によっては決して理解され得ないこの最高実在の姿を、ブラフマー神が理解できずに困惑しているのを見て、クリシュナはただちにマーヤーの煙幕をもとのように引き上げられたのでした。
 ブラフマー神がわれに返ると、そこには以前と同じような普通の人間界の外界の光景がありました。
 
 ブラフマー神はただちに自分の乗り物である白鳥から飛び降りると、四つの頭で次々とクリシュナの御足に礼拝を捧げ、歓喜の涙でその御足を濡らしたのでした。
 そしてブラフマー神は立ち上がると、自分が目にした主の栄光を思い出し、再び礼拝をし、立ち上がってはまた思い出して礼拝し、ということを何度も繰り返したのです。
 その後、ブラフマー神は、涙でぬれた眼をこすって、愛おしくクリシュナの姿を見つめました。そして合掌して深く頭を下げると、感動で体を震わせながら、クリシュナを賛美し始めたのでした。


「ああ、全宇宙が崇拝するお方よ。やさしき御足をされて、稲妻のごとき衣を身にまとい、肌は雨雲のように青黒く、クジャクの羽の冠が蓮華のお顔に眩しく映えるお方よ。私はあなたに礼拝を捧げます!
 ああ、征服されざる宇宙の主よ。聖者が語るあなたの物語を聞いて、心と言葉と身体であなたをあがめる者は、たとえ在家の者でも、あなたを悟ることができるのです。
 けれども、あなたへのバクティを無視して、一人で悟りを得ようと努力したとしても、彼らが手にする結果などは、結局はむなしきものとなるのです。
 ああ、今までまことに多くのヨーギーが、さまざまなヨーガや修行を実践した結果、最終的にすべての活動をあなたにゆだねて、あなたへの奉仕で得たバクティにより、自己を悟り、あなたの境地を手にしてきたのです。

 ああ、主よ。この私の悪しき様を、どうかご覧ください。私は無限者であるあなたを試そうとしたのです。私は何と無価値な者なのでしょうか!
 私は自分を独立した主と考え、宇宙の創造神という自負に陥って、あなたに罪を働いてしまったのです。ああ、あなたに庇護を求める私が犯した罪を、慈悲によってどうかお許しください!
 この私は、広大な宇宙卵(その中に様々な世界や星々があり、多くの衆生が住む、われわれが住むこの宇宙)を管理する者です。しかしそれと同じような無数の宇宙卵が、あなたの身体中の毛穴を、まるで原子のように行き来しているのです。そのように偉大なあなたと比べたら、この私は何と無価値な者なのでしょうか!
 
 この宇宙は、あなた以外はすべて幻だということが、今日、私に示されました。
 あなたの本質を理解できない者には、あなたは宇宙創造の際にはブラフマーとなり、それを維持するためにはヴィシュヌとなり、それを破壊するためにはシヴァとなると見えるのです。
 ああ、最高者であるあなたは、「生まれない者」でありながらも、慈悲のために、神々や人間や動物の姿となって、何度も地上に降誕されるのです。
 
 真我の本質を理解できない者には、無明ゆえに多様な宇宙が生じると見えて、彼が悟りを開いたなら、紐を蛇だと思っていた者が、紐を紐だと気づいたときに蛇の錯覚が消えるように、宇宙は主の中に消えていくのです。
 輪廻という束縛も、それからの解脱も、あなたを知らぬために生じた、偽りの概念なのです。その両者ともが実在ではないのです。あたかもそれは、太陽そのものには昼も夜もないようなものです。
 
 ああ、無限者であられる主よ。賢者はこの世界の中に、ただあなただけを求めようとします。しかし智慧の乏しき者は、あなたを捨てて、その肉体を自分であるとみなすのです。ああ、これは何と哀れむべき悲劇でしょうか!
 しかし、あなたの御足で祝福されたなら、そのような者も、あなたの栄光を悟ることができるのです。あなたの祝福がなければ、いくら自分で努力しようと、それは不可能なことなのです。
 それゆえ、ああ、全宇宙の守護者よ。どうか私にもその祝福をお与えください。私が将来、どのような世界に生まれようとも、いつもあなたの信者の一人として、やさしいあなたの御足に、愛をこめて奉仕することができますように!
 ああ、ヴラジャの牛やゴーピーたちは、何と祝福されているのでしょう! 彼女たちの胸からあふれる乳を、あなたは子牛や子供の姿になられて、アムリタ(甘露)のように味わわれたのです。彼らが味わった満足には、いかなる祭祀も匹敵することがないのです。
 
 あなたを知ると主張する者には、そうさせておけばよいでしょう。ああ、大いなる主よ、あなたの栄光は、ブラフマーである私でさえ、とうてい及ばぬところで輝いているのです。
 そのようなあなたに、私は宇宙の終わり(=ブラフマー神の一生)まで、礼拝をささげつづけることでしょう! 」


 無限者であるクリシュナを、ブラフマー神はこのように賛美すると、敬意をこめてその周りを三度回り、御足に礼拝をささげた後、自分の世界(ブラフマローカ)に帰って行ったのでした。

 そしてクリシュナは、ブラフマー神が隠していた子供たちや子牛たちを、もといた場所へ連れ戻されたのでした。
 その子供たちは、クリシュナと別れてから一年が経過していたにも関わらず、クリシュナのマーヤーによって、わずか一瞬の出来事と感じたのでした。そして子供たちはクリシュナに言いました。
「君は子牛をあちこち探し回って、やっと戻ってきたんだね。ぼくたちはまだお弁当を食べ終わってないから、君もここで一緒に食べるといいよ!」 

 これを聞くとクリシュナは心から笑い、彼らと一緒に食事を楽しんだのでした。そしてその後、皆で一緒にヴラジャに帰って行ったのです。

 そしてその子供たちは、
「今日、クリシュナのおかげで、とても大きな蛇が殺されて、僕たちはそいつから助けられたんだ!」
と、ヴラジャの人々に宣言したのでした。




つづく
コメント

グル・バクティヨーガ(40)「偉大なる導き手としてのグル」

2014-05-31 06:06:08 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎偉大なる導き手としてのグル

 智慧の道をお説きくださる彼は、地上における正真正銘の神である。グルの他に誰がその道を説けるだろうか?

 グルは神への道を示し、弟子を永遠に幸福にしてくださる。 

 完成への道を指し示してくださる彼は、グルである。

 サンスクリット語で「GU」という言葉は暗闇あるいは無智を意味し、「RU」とは、この暗闇または無智を晴らす者という意味がある。人の中にある暗闇または無智のヴェールを取り去ることによって、彼はグルとなる。

 霊性の師は、絶え間ない指示によって、求道者を訓練する。

 グルは、真の弟子にとって、至高者からの神聖なる贈り物である。

 すべての聖典は、グルの必要性を強調している。

 シュリー・ラーマのような神の化身でさえ、シュリー・ヴァシシュタをグルとして受け入れ、その命令に従っておられた。

 弟子は、彼がどんなに世間的に優れていようとも、師の助けなしではニルヴァーナの至福を味わうことはできない。

 完全なる神の叡智は、苦行、慈善、ヴェーダの学習によっても得ることはできない。グルの蓮華の御足の塵で沐浴することによってのみ、それは得られる。

 弟子は常にグルの御姿を礼拝し、彼の聖なる御名を唱えていなくてはならない。

 求道者は、グルや聖者についての悪しき思いや言葉を、考えても、語ってもいけない。

 サーダカは、自分がどんなに偉大であろうとも、グルの前で冗談を言ってはならない。

 グルは、地上における神の使者である。いや、それどころか、彼は神そのものなのだ。

 グルは弟子からの奉仕や助けを求めてはいないが、彼に奉仕することによって進化するチャンスを弟子に与えてくださる。
コメント

菩薩の道(5)その2「四念処と念正智」

2014-05-30 19:39:04 | 松川先生のお話




 さて、禅定の話の導入としての念の話の続きです。

 正しいサマーディの前段階の正念、正しい念とは、前述の仏法僧への念だけではありません。
 普通はここには四念処が来ますね。四念処とは、人間存在と、それからこの世界そのものに対する正確な観察ですね。
 そしてこれが、私が説明したかった、第一段階での観察の瞑想です。
 つまり自分の身体、感覚、心、そしてこの世界そのものの実相を、観察するわけです。

 身体に対しては、まず医学的観察をします。
 つまり、この肉体は皮膚があって、肉があって、骨があって、ここに内蔵があって、云々と、そういう観察を繰り返すわけですね。そしてここからどういう結論に行くかというのもいろいろあります。
 たとえばその第一は「不浄」ということを見ますね。つまりこの身体の中には汚物が詰まっていると。糞尿が詰まっているし、その他、汚いといわれている、粘液とか、げろとか、痰とか、汗とか、そういうのが全部この肉体から出てくるじゃないかと。まあこういう観察を行なうことで、自分の肉体へのとらわれを断つと共に、異性の肉体へのとらわれも断つわけですね。たとえば、お前の愛するあの異性は、正確に観察すれば、糞尿を詰め込んだ肉の袋じゃないかと(笑)。どうしてそんな汚いものを抱きしめたいと思うんだ、とかね(笑)。ちょっと過激に聞こえるかもしれませんが(笑)、そういうような観察と思索を行なうわけですね。
 あるいは、この身体というのは、無常であって、苦の塊であると。どんどん老いていくし、すぐに病にかかるし、そしてね、なんていうかな、ちょっと傷ついただけで、痛いと(笑)。ねえ、大変だと(笑)。そして最後は死ぬと。
 あるいはね、その、肉体の正確な医学的分析を続けていくと、この身体というものが、単一の存在ではないということに気づくわけですね。つまりその芯にはまず骨があるわけですが、この骨というのは多くのバラバラになった骨が、関節ではめ込まれている。そしてそこに腱が結び付けられ、筋肉が張り巡らされている。そして神経が張り巡らされ、内臓が配置され、脂肪と皮で覆われている。これらのね、どこからどこまでが「私」なんだろうかと。たとえば腕を切り落とされたら、その切り落とされた腕は「私」なのか?
 もっといえば、この身体は無数の原子の集まりに過ぎないわけだから、これもまた単一ではないわけですね。しかも新陳代謝があるから、ちょっと前まで「私」と認識していたその細胞を構成していた原子が、今は別の物質や他人の身体を構成する原子になっているかもしれない(笑)。
 まあこういったいろんな観察を繰り返すわけですね。これによって自然に、身体に対する執着から離れ、身体こそが自分の本質であるという誤った見解から離れるわけです。あるいは、身体の不浄性を追求することで、自分のみならず異性の肉体への愛着からも離れるわけです。

 次に感覚については、人間は喜びの感覚ばかりに眼が行きがちだけど、その裏側には苦しみの感覚というのがセットであるんだということですね。これは前にも書きましたが、極端な意味で、その感覚の苦楽を考えると、絶対、感覚の世界をとらないと思うんですね(笑)。つまり美女とのセックスと、生きながら体中を八つ裂きにされたり、眼をくりぬかれたり、焼かれたり。この両者を対比した場合、そういう肉体的苦しみを補ってあまりあるほど、美女とのセックスはいいものだろうかと(笑)。
 まあもっというならば、苦であるということだけじゃなくて、この感覚がもたらす認識の世界の幻影性も追求しなければいけませんね。まあこれについては、長くなるので、みなさんで考えてみてください。

 そして次が心についての観察です。これも皆さんでやってみるといいと思います。まあ、心というのも実体はない。情報の集まりに過ぎない。情報の集まりに過ぎないから、無常である。コロコロと移り変わるわけですね。「これが私だ」と思っているこの心、自分の性格も、経験によって形作られた実体のないデータファイルに過ぎない。
 つまりここでいう心の観察というのは、自分の性格はこうだとか、自分は今こういう心をもっているとか、そういうことじゃないんです。心そのものの仕組みというか、成り立ちというか、本質を追求するわけですね。
 もちろん、それが本当にできるのはもっと後、サマーディに入ってからですね。だからまだその前でやるときは浅いんだけど、浅いなりに、自己分析をするわけです。肉体は不浄であり、単一ではなく、「私」ではなかった。感覚も苦であり、幻影であり、「私」ではなかった。そして心さえも、無常であり、幻影であり、実体はなく、「私」ではないという本質に行き着くわけですね。

 そして最後に、この世界全体というか、実在そのもの、現象そのものへの観察を行います。そしてそのどこにも実体がない、つまり空であるという認識を培っていきます。

 これが私が説明したかった、第一段階での観察、すなわちヴィパッサナの瞑想である四念処ですね。

 ところで、こういうことを経典で学んだり、実際に瞑想したりして、心に植えつける。あるいは、その前に書いた、仏法僧への念。あるいは、「慈経」という原始仏典では、今度は、起きているときも寝ているときも立っているときも座っているときも、衆生が幸福であることを願い続けなさいという、大乗的な慈悲の教えもあるわけですが、こういったこと、あるいはその他のさまざまな仏教的検討。これらを、私たちは、常に心から離さないようにして行動しなければならない。
 たとえば座って瞑想しているときにはそのような正確な観察や、正しい念が出来ていたとしても、日常において心が散らばり、たとえば仏法僧以外の現世的なことに心が向かい、あるいは身体を美しいものとして執着し、感覚の喜びに耽溺し、心を確固たるものとしてとらわれる。あるいはこの世を実在だと考えてとらわれ、喜んだり苦しんだりする。こんなんじゃだめなわけですね。
 よって日々、瞑想中はもちろん、日々の生活の中でも、自分の一挙手一投足をチェックするわけです。身口意といいますが、自分の身体の動き、発する言葉、そして心の動きを、自己チェック、監視するわけですね。監視して、あ、今の動きは、言葉は、心の働きは、真理に基づいているんだろうか、それとも現世の悪法に基づいているんだろうかと。そして悪法に基づいていたとしたら、修正するわけですね。いかん、いかんと。
 こうした自己チェックと修正、これを正智といいますね。
 まあだからこの部分をまとめると、まず教えを学び、あるいは瞑想し、上記のようなさまざまな観察をし、あるいは念をし、それを繰り返し心に植えつける。そして日常において、自己の身口意をチェックし、瞑想で植えつけた真理の念や真理のものの見方を維持するように、応用するようにする。一瞬たりとも、真理の考え方や行動から離れないようにする。これが簡単にいえば「念正智」ですね。 
 つまり我々は自然に、まず悪しき誤ったものの見方をし、その誤った見方が心に根付き、行動においてそれをもとに考え、話し、行動してしまうという、悪しき循環の中に自然にいるわけですね。それを意識的に、真理に基づいた正しい見方をし、それを心に根付かせ、行動においてもそれを実践するという、意識的な修正作業を行なうわけです。
 そしてこれを行なうときの正智、すなわち自分の身口意の動きの絶え間ない観察と、そこに瞑想中に観察したことを当てはめていくこと。これが私が書きたかった、第二番目の、ヴィパッサナの意味です。

 現在のヴィパッサナといわれる瞑想では、この念正智でもなく、単純に、ああ、私は今歩いているとか、何何しているとか、そういう観察も行なうみたいですね。確かにそういうことが経典には書いてありますが、それはちょっと経典の読み違えではないかと思ってしまいます。立っているときも歩いているときも何をしているときも念正智しろという意味は、上記に書いたような、正しい念の植え付けと、自己の身口意のチェックと修正ということだと思います。
 といっても、その単純な、今私は歩いているとか、何々している、という観察が意味がないとは思いません。しかしそれはどちらかというとヨーガ的な観察ですね。そしてそれは、まあ、ヴィパッサナには四段階くらいあるんじゃないかと書きましたが、さらにその前段階となる初歩的な観察ですね。


 さて、この禅定の項目は、コンパクトに書こうとはしているんですが、予想以上に長くなってしまっていますね(笑)。またこの辺でいったん切って、続きは次回にしましょう。


 最後に、今回の自己チェックと修正というテーマに関して、私の好きな、チベットの「愚直者」と呼ばれたある僧の話をしましょう。
 ある朝、この僧の家に、信者たちがやってくることになっていました。そこで僧は、祭壇を清め、部屋を掃除し、いろいろなものを整えたわけですね。そうして一通り作業が終わり、一息ついて、僧は、自分の今朝の行動、心の働きを観察してみたわけです。すると、自分の今朝の行動の背景には、部屋をきれいにして、信者からより多くの布施や賞賛をもらいたいという、邪な心が潜んでいることがわかったわけです。そこでこの僧は、急いでゴミ箱を持ってきて、祭壇や部屋中にゴミをばら撒きました。そうして座って、
「くわばらくわばら、気をつけていなくては」
と、胸をなでおろしたわけです(笑)。
 そこへ信者がやってきて、びっくりしたわけですね。部屋中がゴミだらけであらされている。そこで信者が、
「一体何があったんですか? 泥棒でも入ったんですか?」と聞くと、僧は、
「そうなんだ。心に泥棒が入ったのさ」
と答えたそうです。
 その当事チベットにいたある別の聖者がこの話を伝え聞いて、賞賛してこのように言ったそうです。
「チベット広しといえども、あの僧ほどのすごい行者はいまい。なぜなら彼は、自分を悪趣に引きずり込もうと手ぐすね引いていた悪魔の頭上に、ゴミをぶちまけたのだから。」
コメント

願い

2014-05-30 08:22:36 | 松川先生のお話

 ただそこにクリシュナだけがある。
 ただそこにあなただけがいる。
 ただそこに女神様だけがいる。
 ただそこにあなただけがいる。
 既知を超え、未知を越え、今をも超えて、
 ただそこにあなただけがいる。

 これもあなたです、これもあなたです。

 手放すべきは、心の汚れ。
 希望と恐怖、思い出と後悔。

 でもそれらさえも、あなたです。

 すべてはあなたなので、
 私はすべてを受け入れて、
 ただあなたの教えを
 生きる指針として
 生きます。

 ただあなたがいらっしゃるので
 私は何も怖くはありません。
 手放すことも恐れず、
 何が来ることも恐れません。

 誠実に、簡素に
 信義を貫いて、生きて行きます。

 シャーンティデーヴァよ、あなたの祝福により、私の念正智を確固たるものにしてください。
 クリシュナよ、あなたの祝福により、私のバクティを完全なものにしてください。
 グル・リンポチェよ、あなたの祝福により、私の叡智を完全なものにしてください。

 こだわりなく、しかし無でもなく、
 燃える炎のような、神のしもべとして
 働かせてください。

 エゴのための準備をせず、 
 エゴのためのいいわけもしません。
 エゴは私の友ですが、どうしようもない悪友なので
 あなたの教えで教育するつもりです。

 エゴのことは置いておいて
 私はあなたに帰依いたします。
 この宇宙の唯一の真実に帰依いたします。
 あなたへの愛が、一瞬も後退することなく、完全であり続けること
 それが唯一の願いです。

コメント

今日のAMRITAチャンネル「賛歌・イメージビデオ」

2014-05-30 07:25:50 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「賛歌・イメージビデオ」です。



曲目

1.シッダールタ
2.願い
3.放棄の翼
4.バクティヨーガの歌
5.我が師(日本語版)
6.ハヌマーンチャリサ
7.ジェイジェイマードゥルガー
コメント

信念

2014-05-28 16:57:37 | 経典の言葉・聖者の言葉

 タクルはマーと話しておられる。

「マー、信念がいるね。下手な分別は消えてなくなれ。牛の小便みたいな考えは、七回たれるところは一回にしておけ。信念がいる。子供のような信じ方だ! あそこにオバケがいると母さんが言ったら、ほんとにオバケがいると信じ込む! あそこには鬼が住んでると母さんが言えば、そのまま信じ込む! あの人はお前の兄さんだよと言われれば、125パーセント、兄さんだと思っている! この信念が欲しい!
 けれどもマー! あの連中も叱れないよ! 連中にはどうしようもないんだもの! 分別推量も一度は通らなけりゃならないからね!――あの日、どんなに言って聞かせたか、見ていなかったかい。結局何にもならなかったけど――今日もう一度……」

 タクルはマーに向かって、とぎれとぎれに哀れな声で泣きながら祈っておられる。まあ、なんという先生だろう! 信者たちのためにマーに泣きすがっておられるのだ。

「マー、あなたのところに来ている人たちの希望を、みんなかなえてやっておくれ! 何もかも捨てさせないでおくれよ、マー! でもまあ、最後にはあなたの思い通りにしておくれ!」



(「ラーマクリシュナの福音」より)


コメント

要約・ラーマクリシュナの生涯(6)「ゴダドルの少年時代」

2014-05-28 09:34:41 | 聖者の生涯



6 ゴダドルの少年時代


◎修行者たちとの交わり

 クディラムの長男のラムクマルは、クディラムの生前からすでに家計を支えていたが、クディラムの死後は、よりいっそうその責任が重くなったことを感じた。また、ラムクマルの妻も、悲しみにうちひしがれるチャンドラデーヴィーをよく助けた。

 ゴダドルは、内面はどうだったかは別にして、外面的には以前と変わらず快活でいつも楽しげであった。ときどき火葬場やマンゴー林などの人気のないところをさまよっているのが見られたが、人々は少年にありがちな落ち着きのなさ故だと考えていた。しかし実はゴダドルはこの頃から、以前よりもより孤独を愛するようになっていた。

 またこの頃からゴダドルは、村にやってくる僧や修行者たちのところへ行き、積極的に交わった。この村には、聖地プリーに行く街道に面して、修行者用の一件の家があったのだ。ゴダドルはしばしばそこを訪れ、僧や修行者たちが毎日どのような儀式をおこなっているか、どのようにして、施しで得た簡素な食物をまず彼らのイシュタ(理想神)に捧げ、その後でそれを食べるか、どのように一切を神に任せきって、重い病にも辛抱強く耐えているか、またどのように、自分の切羽詰まった要求をも、人を騒がせまいとの配慮から、口に出すのを控えるか、というようなことを観察したのだった。
 しかし彼はまたときどき、彼らに混じって、清らかな僧を装った偽善者が、どのように自分の利己的な目的のために彼らの生き方を真似しているかということも観察した。
 そしてゴダドルは日々、木や水を持ってくるといった小さなことで、彼らを助けた。修行者たちも、この愛らしい少年に心惹かれ、神への祈りや賛歌などを彼に教えた。また托鉢で得た食物を一緒に食べて楽しんだ。

 ゴダドルが修行者たちをしばしば訪ねていることを知って、チャンドラデーヴィーは最初は特に心配せず、修行者たちのために食物その他の必需品をゴダドルに持たせてやったりしていた。しかしそのうちゴダドルは、修行者の灰を体に塗って帰ってきたり、額に印をつけたり、修行者の衣をまとって帰ってきたりした。そこでチャンドラデーヴィーは、修行者がゴダドルを拐かして連れ去ってしまうかもしれないと心配し、泣き始めた。ゴダドルがいくら心配するなといっても、母をなだめることはできなかった。そこでゴダドルは母に、もう修行者たちのところへは行かないと約束し、母を安心させた。
 そしてゴダドルは最後に、修行者たちのところへ別れを告げに行った。理由を聞いた修行者たちはチャンドラデーヴィーのところへやってきて、ゴダドルを連れ去ろうなどという考えは自分たちは考えたこともない、幼い子供を両親の許しも得ずに連れ去ることは誘拐であり、そのような悪業を修行者がおこなうはずがない、と説明して、チャンドラデーヴィーを安心させた。こうしてゴダドルはまた、修行者のもとへ通うことができるようになった。



◎聖糸を身につける

 ゴダドルがまもなく満九歳になろうとするとき、兄のラムクマルは、ヒンドゥー教の伝統である聖糸授与式(ウパナヤナ)の準備を始めた。
 この少し前に、鍛冶屋のカーストに属するドニがゴダドルに、もし聖糸授与式のときに彼女から布施を受け、彼女を『母』と呼んでくれるなら、とてもありがたい、と言った。ゴダドルは彼女の信仰と愛情に心を打たれ、その願いを叶える約束をした。貧しいドニは、少年の約束を信じて、力の及ぶ限りお金や品物を蓄えて、その日がくるのを待っていた。
 あるときゴダドルはこの約束をラムクマルに話したが、ラムクマルは、そのような伝統に反することはしてはいけない、と言って反対した。ゴダドルは反対されてもドニとの約束を守ることを主張し、そのような約束を破る不誠実な人間は、そもそも聖糸を帯びる資格はない、と主張した。
 結局、クディラムの友人だったダルマダース・ラーハーの仲裁によってラムクマルが折れ、聖糸授与式は滞りなく行われ、約束通りにドニは布施をおこなった。彼女は、自分の人生に神の恵みが与えられたと考えて歓喜した。


 
◎バーヴァ・サマーディ

 その年のシヴァラートリー(年一回行われるシヴァ神の大祭)の夜、ゴダドルは断食をし、強烈な信仰心をもって、すべての神々の源泉である大神シヴァを礼拝していた。そして礼拝の四分の一が終わり、ゴダドルがシヴァの瞑想にふけって座っていると、突然、友人たちがやってきた。彼らの言うところによると、近くのシーターナート・パインの家で、シヴァの栄光を物語る芝居が上演されることになっているのだが、シヴァを演じる役者が突然、病気になってしまったので、代わりにゴダドルにシヴァの役をやって欲しいとのことだった。ゴダドルは最初、礼拝の妨げになるという理由で断ったが、友人たちは、もしシヴァの役を演じるなら、その間中、ずっとシヴァのことを思わなければならない。それは礼拝と同様によいことだ、と主張して、ゴダドルを説得した。
 ついにゴダドルは承諾し、シヴァに扮して、パイン家でおこなわれる芝居の舞台に上がった。もつれた髪と、ルドラークシャの数珠、そして体中に灰を塗ったゴダドルは、その瞬間、シヴァの思いに深く没入し、バーヴァ・サマーディと呼ばれる状態に入り、外界の意識を失った。ゴダドルがいつまでも意識を回復しないので、結局その夜の芝居は中止になった。
 このとき以来、ゴダドルはときどき、この種の忘我状態に入った。瞑想をしたり、神々を称える歌や音楽を聴いたりしている内に、自分を忘れ、外界も忘れ、バーヴァ・サマーディに入るのだった。
 そしてその状態から覚めた後に、尋ねられると、そのように通常の意識を失っている間中、神の姿を拝して、信じがたいほどの喜びを経験していたのだ、と説明した。
 その後、ゴダドルは頻繁にこの状態を経験する内に、これに慣れ、自分の意志でこの状態を制御できるようになった。
コメント

グル・バクティヨーガ(39)「グルの瞑想」

2014-05-28 08:16:59 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎グルの瞑想


 早朝4~6時に、グルの御姿を瞑想しなさい。それによってあなたは、彼の恩寵を得るであろう。

 あなたの前に、グルのお写真を置きなさい。そして瞑想の座法で座り、その写真に静かに集中し、彼の蓮華の御足、脚、御手、御胸、首、頭、御顔、眼などに、順に心を集中させていきなさい。
 それから今度は眼を閉じたままで、同じようにしてその写真を観想しようと試みなさい。
 このプロセスをもう一度繰り返しなさい。
 このようにすれば、あなたは良い瞑想ができるだろう。

 グルの御姿を瞑想している間、あなたは、狂喜、恍惚、身震い、平安、歓喜を得るであろう。

 世俗的な人々との交際、過食、自己主張、ラジャス的な性質、眠り、情欲、怒り、貪り等はすべて、グルを瞑想する障害となる。

 グルの御姿の瞑想において最も障害となるのは、眠り、心の揺れ、潜在的な欲望の生起、空想にふけること、怠惰、病、修行上のプライドである。

 グルは、すべての吉兆な特質の住処である。

 師は、弟子にとって人生の究極の善である。

 グルへの献身は、生、老、死を破壊する。

 グルへの献身は、主の恩寵を勝ち取る唯一の手段である。
コメント

グル・バクティヨーガ(38)「グルの恩寵」

2014-05-28 06:00:08 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎グルの恩寵


 あなたは、グルの恩寵を通じて、いや、グルの恩寵を通じてのみ、心を制御することができる。

 あなたは、グルの恩寵によってのみ、サマーディに確立され得る。

 感覚的快楽への冷静さ・無執着・無関心なしでは、グルの恩寵を得ることはできない。

 感覚は、心と連携しなくては、何もすることができない。そしてその心は、グルの恩寵によってのみ制御され得る。

 師の導きの下で暮らしていれば、弟子の心は、感覚的喜びから離れる。
 
 サットヴァは、グルや聖者との交際、聖典の教学、サットヴァ的な食物、主の御名の復唱などによって増大する。

 ラジャス的な人は、全身全霊を込めてグルに奉仕をすることができない。

 グルの御名を唱えることは、心を内側に向ける。

 ブラフマー・スロートリヤ(聖典を理解する者)、そしてブラフマー・ニシュタ(ブラフマンの叡智を得た者)であるグルの下で聖典を学びなさい。そうしてのみ、あなたはモークシャ(解脱)を得るだろう。

 ブラフマチャーリンの主な務めは、師への奉仕である。
コメント

グル・バクティヨーガ(37)「グルセーヴァ(グルへの奉仕)のヨーガ」

2014-05-27 18:01:11 | 松川先生のお話

◎グルセーヴァ(グルへの奉仕)のヨーガ


 グルセーヴァ・ヨーガとは、グルへと明け渡された無私の奉仕のヨーガである。

 グルへの奉仕は、人類への奉仕である。

 グルセーヴァは、心の不純性を取り除く。それは、強力なハートの浄化機である。ゆえに、強い気持ち(バーヴァ)を込めて、グルに奉仕しなさい。

 グルへの奉仕は、神聖なる光、叡智、恩寵を受け入れるための器としての心を作る。

 グルへの奉仕は、心を広げ、すべての障壁を破壊する。
 グルへの奉仕は、心を純粋にするための効果的なサーダナーである。
 
 グルへの奉仕は、心を力強く、隙がないように保つ。

 グルへの奉仕は、慈悲、謙虚さ、忠実さ、慈愛、信、献身、忍耐力、自己犠牲などのような神聖なる徳を開発する助けとなる。

 グルへの奉仕は、嫉妬、嫌悪、自分が他者よりも優れているという発想を破壊する。

 グルに仕える者は、「私」と「私のもの」という感覚を克服する。

 グルに仕える弟子は、本当は(真の)自分自身に仕えているのである。

 グルセーヴァ・ヨーガの実践には、言葉に表せない歓喜と安らぎがある。

 グルにお仕えするために生きなさい。

 朝4時に起きなさい。この時間帯は、グルの御姿を瞑想するのに適している。

 弟子は、グルの家に住むときには、一切の不満を持つことなく、すべてに満足して生活を送らなければならない。彼は自制を完全なものにしなければならないのだ。

 弟子は、グルの前では静かに、優しく、誠実に語らなければならない。品のない言葉や辛辣な言葉は使ってはならない。

 弟子は、グルについての陰口を言ってはならない。

 グルの陰口を言う者は、ラウラヴァ(叫喚)地獄に落ちる。

 食べるために生きる者は罪びとであるが、グルに奉仕をするために食べる者は、真の弟子である。

 グルを瞑想する者は、ほんのわずかな食物しか求めない。
コメント

こだわらない。とらわれない。聖を思う。

2014-05-26 22:58:40 | 松川先生のお話

こだわらない。
こだわらずに、一瞬一瞬、生まれ変わる。
一瞬前にもこだわらずに、一瞬一瞬、最高の自分であろうとする。
これがまず第一になすべきことです。

そして、とらわれない。
過ぎ去ったことには決してとらわれない。
別に、この世の楽しみを捨てろとはいわない。自然にもたらされた喜びは楽しんでかまわないが、
頭の中で、こうなりたいとか、こうでなきゃ嫌だとかいう、欲望にとらわれない。
また、こうなったら嫌だというような、嫌悪にもとらわれない。
これが第二になすべきことです。

一瞬一瞬、こだわらずに最高の自分であろうとする。
そして、あらゆることにとらわれない。
その上で、あなたの好きな神・仏陀・聖者などのことを、いつも考えてください。

まずはこれだけでも毎日続けたならば、とても自由で幸せになるでしょう。
コメント

隙間

2014-05-26 20:27:26 | 松川先生のお話


これでいいんだろうかとか
どう思われるだろうかとか
どう思われたいとか
「私とは?」とか
そんなものさえ何もない世界

しかしそこは何もないわけでもあるわけでもなく
しいて言えば光舞う、純粋意識


そこに到達すると
一切の関係性は消える
それを維持できるなら解脱者であり
彼がそのまま肉体を捨てれば、輪廻から解放される


しかし真実には輪廻もニルヴァーナもなく
解脱も束縛もない
そのような悟りに、彼は行く

ただし、一部の者は、その真実を知りつつも、この世に残る。
またこの二元の関係性の世界に戻ってくる。
ある者は衆生への強烈な慈悲によって、
ある者は主への奉仕の思いによって、
そしてある者は主そのもの、アヴァターラであるがゆえに
この世に残る。

そして彼らは、この関係性の世界を楽しむ。
バクティと四無量心で
この世の苦楽、浮き沈みを楽しむ。
そしてある者はまたこの世界に巻き込まれ、
ある者は、巻き込まれたように見えても、真実には決して巻き込まれることなく、この世を生きる。
それは彼らの悟りの器の広さによって違う。

主のアヴァターラ、あるいは器の広い解脱者や菩薩やバクタたちは、
無数の世界に化身を飛ばし、使命を遂行している。
初心の菩薩やバクタは、一つの世界だけでいっぱいいっぱい。
そして毎生毎生、主への奉仕と他者への慈悲だけのために人生を捧げ続けることで
目覚めと眠りを繰り返し、その器は広げられていく。

この世は妄想の世界。
ゆえに真実には善悪も良し悪しもないが
この妄想の世界にからめとられている者たちは、善悪をしっかり認識し、善を積み、悪を避けなければ、ここから脱出するとっかかりがない。


そして主を、あるいは聖師を、
観念を超えた目で、善悪も良し悪しも、苦楽も正邪も、すべてを超えた絶対者として見なければならない。
観念的にであっても、そのような目線を持たなければ、
たとえ善を積み、悪を避けていたとしても、
その土台から、真実の世界への梯子は、かかることはない。


そして観念ではなく、本当に主や聖師が、愛おしく、美しく、輝かしい唯一者として見えてきたならば
彼はすでに解放されつつある。



「その世界」においては、問いも答えもない。
しかし主は、慈悲によって、二元の世界にいる者の問いに答える。
主の慈悲と、信者の浄信が、
一見相容れることのない、この二つの世界をつなぐ。


コメント

グル・バクティヨーガ(36)「礼拝の条項」

2014-05-26 19:04:47 | 経典の言葉・聖者の言葉


第4章「グル・バクティの開発」



◎礼拝の条項


 純粋な心で、結果を求めず行うグルへの礼拝は、悟りの因となる。

 恐怖や悲しみからの守護を授けてくださる師の蓮華の御足に近づきなさい。

 あなたの心は、神である師の蓮華の御足に置きなさい。

 あなたの手は、グルの家の掃除や礼拝に使いなさい。

 グルと弟子の関係は、非常に、非常に神聖である。

 グルにお仕えする者は、すべての徳を得る。

 あなたの目は、神である師のお写真を見ることに使いなさい。

 あなたの頭は、サットグルの聖なる御足を礼拝することに使いなさい。

 ああ! グルの蓮華の御足への奉仕に専念しなさい。グルへの奉仕の妨げとなる主な障害物――色欲、執着、プライドなどを放棄しなさい。

 信仰を持って、何も望まず、グルを礼拝しなさい。――そうすればあなたは、彼の恩寵を得るだろう。

 あなたの所有物、善き行い、苦行などを、師に捧げなさい。そうしてのみ、あなたの心は純粋になり、彼の恩寵を受けるに相応しくなる。

 グルや聖者の御足の塵で、あなた自身を浄化しなさい。そうしてのみ、あなたの心は浄化されるだろう。――そうしてのみ、あなたはバクティを磨くことができるであろう。

 愛と尊敬を持って、聖者やグルにお仕えしなさい。彼らを神の権化と見なしなさい。そうしてのみ、あなたはバクティを開発できるだろう。
コメント