ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

善いことばを口に出せ

2014-02-28 19:43:20 | 経典の言葉・聖者の言葉

 善いことばを口に出せ。悪いことばを口に出すな。善いことばを口に出したほうが良い。悪いことばを口に出すと、悩みをもたらす。

 すでに(他人が)悪いことばを発したならば、(言い返すために)それをさらに口にするな。(同じような悪口を)口にするならば悩まされる。聖者はこのように悪いことばを発することはない。愚かな者どもが(悪いことばを)発するからである。

 口をつつしみ、ゆっくりと語り、心が浮つかないで、事がらと真理とを説く修行僧-かれの説くところはやさしく甘美である。


ウダーナヴァルガ
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花のように

2014-02-28 19:01:25 | 松川先生のお話



 決して過去に心を残さない。

 一瞬前にも心を残さない。

 常に新鮮な意識で世界を見る。

 わざわざ過去を回想しない。リピートしない。

 もちろん、自分の心を高みに向けて鼓舞するような、神聖な意識や教えは、ひたすらリピートする。その新鮮な心の土台の上で。

 その上で、次に起こることはすべてお任せ。

 この人生すべてが、神への供物。捧げ物。

 野に咲く花のように。

 風に吹かれても人に踏まれても、ただ捧げ物としての人生を気高く生きる。
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何とおっしゃっても

2014-02-28 18:44:45 | 経典の言葉・聖者の言葉


 ハリナート(ラーマクリシュナの直弟子で、後のスワミ・トゥリヤーナンダ)は、師ラーマクリシュナが神の化身であると信じていた。それ故、師が病気になったとき、彼は師が本当に病魔に打ち負かされたのだとは信じなかった。――一切は主のお遊びなのである。

 ラーマクリシュナが咽頭癌にかかってコシポルで療養していたある日、ハリナートは師に「お加減はいかがでございますか」と尋ねた。

 ラーマクリシュナは答えた。

「ああ、非常に苦しいよ。何も食べることができないし、耐えられないほど、喉が焼け付くようなのだ。」

 しかしハリナートは騙されはしなかった。彼は師が自分の信仰を確かめているのだということを見て取った。悟った者にとっては、幸福も不幸も常に同じなはずだからである。

 ラーマクリシュナが不平を言えば言うほど、それは師が自分を試しているのだということが、ハリナートにはいっそうよく分かった。そしてハリナートは突然、叫んだ。

「師よ、あなたが何とおっしゃっても、私はあなたを無限の至福の大海とお見上げいたします!」

 これを聞くとラーマクリシュナはほほえみ、『こいつめ、私を見破ったな!』とつぶやいた。
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聖者の生涯『アドブターナンダ』(2)

2014-02-28 18:07:04 | 聖者の生涯



 また別の日、ラトゥはラーマクリシュナを訪ねてドッキネッショルにやってきましたが、そのときはちょうど、ラーマクリシュナが故郷の村に一時的に旅立っていたときでした。
 しかしその話を聞いても、師に会いたいというラトゥの気持ちは決して弱まりませんでした。ラトゥは寺院のそばにあるガートに座って泣き始めました。
 ラトゥは以前、ドッキネッショルのカーリー寺院を訪ねる者には、ラーマクリシュナは必ずお会いくださると、誰かから聞いていました。ラトゥはその信念を持って、夕方までそこに座り続けました。
 寺院の者が、何度もラトゥに、「師は故郷にお帰りになった」と言いましたが、ラトゥは、
「いや、あなたはわかっていません。」
と言って、帰ろうとしませんでした。

 1881年6月、ラーマクリシュナの甥で、ラーマクリシュナに使えていたリドイが、ドッキネッショルのカーリー寺院を去っていきました。そこでラームチャンドラは、ラーマクリシュナを心底愛していた召使の少年ラトゥを、ラーマクリシュナのもとへと送り出しました。そして二日後、寺院に来たラームチャンドラに、ラーマクリシュナ自身が言いました。
「この子がここにとどまるのを許してやっておくれ。彼はとても清らかな人間だ。」
 ラームチャンドラは喜んで了承しました。こうしてこの日からラトゥはカーリー寺院に住み、師の召使として身の回りの世話をしながら、修行に励むことになったのでした。
 
 ラトゥは愚直なまでに、ラーマクリシュナを愛し、ラーマクリシュナの言葉に従いました。
 あるとき、ドッキネッショル寺院から、カルカッタのラーム・バーブという信者の家におつかいに行く途中、酒屋があり、その酒のにおいをかいだラトゥの心は、落ち着かなくなりました。それを聞いたラーマクリシュナは、酒のにおいを避けなさい、と言いました。するとラトゥはその後、ラーム・バーブの家に行くまでに、酒屋の前を通らないために、通常なら6キロの道のりを、大きく遠回りして13キロかけて歩くようになりました。これを聞いたラーマクリシュナは、ラトゥに言いました。
「わたしは酒屋の前を通ることを禁じたのではない。酒のにおいをかぐなと言ったのだ。酒屋の前を通るのはかまわないよ。私のことを思い出しなさい。そうすれば、酒がお前を惑わすことはできない。」

 ラトゥは朝起きて一番最初にラーマクリシュナの顔を見、挨拶しなくては、一日を始めようとはしませんでした。
 ある朝ラトゥが目覚めると、何かの理由で、ラーマクリシュナがいませんでした。ラトゥは、「どこにいらっしゃるのですか?」と叫びました。ラーマクリシュナは、「ちょっと待ちなさい。すぐ行くよ。」と答えました。ラトゥは師が来るまで目にしっかりと手を当てて目をつぶっていました。そして師がやってくると、手を離して目を開けて、挨拶をしたのでした。
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熟した私

2014-02-28 16:40:21 | 経典の言葉・聖者の言葉

 お前たち、無智というのはどういうことだか知っているか。
 『これは私の家だ』『これは私の身内だ』『私が行なっているのだ』『私がやっているからこそ、これらはうまくいっているのだ』という感情だ。

 しかし、『私は神の召使だ』『私は神の信者だ』『私は神の息子だ』と感じること――それは良い態度だ。

 この『私』は、完全に消すことはできない。
 頭で考えてはもっともらしく説明するかもしれないが、次の瞬間にはもう、それは顔を出している。どこから出てくるのか誰も知らない。
 しかし、神の信者が彼を見た後までも、「彼」がその信者の内に残しておおきになる『私』は、『熟した私』と呼ばれている。それは、賢者たちの石に触れて黄金と化した剣のようなものだ。それで誰かを傷つけることはできない。


ラーマクリシュナ


Do you know what ignorance means? It is the feeling: 'This is my house; these are my relatives; I am the doer; and the household affairs go on smoothly because I manage them.' But to feel, 'I am the servant of God, His devotee, His son'-that is a good attitude.

"The 'I' cannot be effaced altogether. You may explain it away through reasoning, but the next moment it reappears, nobody knows from where. It is like a goat that still bleats faintly and jerks its legs even after its head has been cut off.

"But the 'I' that God retains in His devotee after he has seen Him is called the 'ripe I'. It is like a sword turned into gold by touching the philosopher's stone; you cannot hurt anybody with it.
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第72話」

2014-02-28 09:59:13 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第72話」です。
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天を相手とせよ

2014-02-28 06:31:25 | 松川先生のお話

人を相手とせず、天を相手とせよ。

天を相手として己を尽くし、人をとがめず、わが誠の足らざるを尋ぬべし。



西郷隆盛
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おもちゃ

2014-02-28 06:03:36 | 経典の言葉・聖者の言葉
 人望とか、学問とかいうものに忙しがっているから、神を見ることができないのさ。
 子供がおもちゃで遊んでいる間は、母親は放っておく。赤くてかわいい、子供の好きそうなおもちゃがあるからね。
 子供がおもちゃに飽きて投げ捨てて、『おかあさーん!』と言って泣き出すと、母親は料理中の鍋まで火から下ろして、子供のところへ飛んでくるさ。


ラーマクリシュナ・パラマハンサ
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聖者の生涯「ブラフマーナンダ」(1)「師との出会い」

2014-02-28 05:18:21 | 聖者の生涯







 1863年1月21日、カルカッタに近いシクラという村で、アーナンダ・モハン・ゴーシュとケラシュ・カミニの一人息子が生まれました。母のケラシュ・カミニがクリシュナの信者だったので、子供はラカール(クリシュナの友達の羊飼いの少年)と名付けられました。この母はラカールが5歳のときに亡くなりました。

 村の小学校を卒業すると、ラカールはカルカッタの中学校に入学しました。中学校ではラカールは運動クラブに所属し、そのリーダーとしてナレンという立派な少年がいました。このナレンこそ、後のヴィヴェーカーナンダでした。このようにしてナレンとラカールは、運命的に出会い、同い年の二人は大の仲良しとなりました。

 この当時、ケシャブ・チャンドラ・セン率いるブラフモ・サマージという宗教組織が、ベンガル地方の知的な人々の中に新たな宗教心を呼び起こしていました。ブラフモ・サマージの中心教義は「神は一つ」ということであり、伝統的なヒンドゥー教の多神教的な面を非難し、また寺院などにまつられる神像などを拝むことを拒否しました。
 ナレンとラカールもこの運動に参加し、その教義に従うことを署名しました。

 ラカールは学業にはあまり身を入れず、ただ唯一なる神への祈りと瞑想のみに没頭しました。
「どうしたら唯一なる神に達することができるのか」
 これが、彼の心を占める唯一の思いでした。

 ラカールは几帳面にブラフモ・サマージの礼拝の儀式に参加し、また自らも瞑想を行ない、日々絶え間なく祈りと瞑想をし続けました。

 しかしラカールの父は、学業をおろそかにして神への祈りや瞑想に没頭するラカールの態度を良く思わず、ラカールの心を世俗に向けるために、ラカールをヴィスウェシュワリという少女と結婚させました。

 しかしこのラカールの父の策略は、全く反対の結果を生むこととなりました。なぜなら、この新妻のヴィスウェシュワリの兄と母は、ラーマクリシュナの熱心な信者だったのです。

 ヴィスウェシュワリの兄であるマノモハンは、義理の弟となったラカールを、ラーマクリシュナに合わせたいと考えました。


 さて、こうしてラカールがラーマクリシュナを訪ねることになる少し前に、ラーマクリシュナは不思議なヴィジョンを見ていました。
 あるときラーマクリシュナは母なる神に、
「母よ。私は私の永遠の伴侶となる者が欲しいです。
 心が清らかで、深くあなたに帰依している少年を連れて来てください。」
と祈りました。

 その数日後、ラーマクリシュナは、カーリー寺院の境内のバンヤン樹の下に、一人の男の子が立っているヴィジョンを見ました。

 またその数日後、ラーマクリシュナは、母なる神が小さな男の子をラーマクリシュナの膝の上に乗せ、
「これがお前の息子です」
と言うヴィジョンを見ました。

 またその数日後、ラーマクリシュナは別のヴィジョンを見ました。それは、ガンガーの河面に美しい千枚花弁の蓮華が咲いており、その蓮華の上で、二人の男の子が躍っているというヴィジョンでした。そのうちの一人はまぎれもなくクリシュナであり、もう一人は前のヴィジョンで見たのと同じ男の子でした。この二人のダンスはたとえようもなく美しく、一つ一つの動きで美の大海の泡が飛び散るようでした。この聖なるヴィジョンに圧倒されながら、ラーマクリシュナは恍惚状態に入りました。
 まさにそのとき!――一艘の船が、マノモハンとラカールを乗せて、ドッキネッショルに到着しました。ラカールを見た瞬間、ラーマクリシュナはおどろきました。

「これは何ということだ!? あの子はまさにバンヤン樹の下に立っていた子だ。母が膝の上に置いて下さった子だ。たった今、蓮華の上でシュリー・クリシュナと踊っているのを見たばかりの少年だ。これが、私が母にお願いをした、心の清らかな伴侶なのだ。」

 ラーマクリシュナは、しばらく無言でラカールを見つめた後、マノモハンに、
「この子は素晴らしい可能性を持っているよ」
と言いました。そしてラーマクリシュナは、まるで旧友と再会したかのように、しばらくラカールと親しげに話をしました。

「名は何というのか?」

「ラカール・チャンドラ・ゴーシュです。」

 「ラカール」という名を聞くと、ラーマクリシュナは深く感動し、つぶやきました。
「ラカール! ヴリンダーヴァンの羊飼いの少年――シュリー・クリシュナの遊び相手だ!」

 そして最後にやさしい、愛に満ちた声で、
「ぜひまた遊びにおいで」
と言いました。

 ラカールは、初めてラーマクリシュナと会って、特別な喜びの感情と、愛と、そして強烈な魅力を感じました。寺院を出てからも、「ぜひまた遊びにおいで」というラーマクリシュナの優しく美しい声が、胸の中でこだまし続けていました。

 ラカールは家に帰り、学校に行きましたが、ラーマクリシュナのことしか考えられず、早くまたラーマクリシュナに会いたくてたまりませんでした。
 そして数日後、ラカールはひとりでラーマクリシュナをたずねました。ラーマクリシュナは大変喜んで、言いました。
「なぜもっと早く来なかったのか。私は待っていたのだよ。」

 ラカールは何と答えていいかわからず、ただラーマクリシュナをじっと見つめていると、また前にも感じたような、恍惚とした喜びがこみ上げてきました。

 こうしてラカールは次第に足しげくラーマクリシュナのもとへ通うようになり、時には何日もラーマクリシュナの部屋に泊まりこみました。ラーマクリシュナのもとにいる間はラカールは全く世間を忘れ、神の意識に没入するのでした。

 ラカールの父親は、さまざまな方法で、ラカールの心を世俗の生活へと引き戻そうとしました。ドッキネッショルへ行ってはならぬと厳しく命じましたが、まるで効果がないと知ると、ついに彼はラカールを家の中に閉じ込めました。ラカールは師のもとへ行きたいと強く熱望し、それを知ったラーマクリシュナは、ラカールの霊的修行の過程に横たわる障害が取り除かれるよう、熱心に母なる神に祈りました。
 
 数日後、父親が仕事に打ち込んでいる隙を見て、ラカールはついに家を抜け出し、ラーマクリシュナのもとへと走りました。その後、父親はそれに気づきましたが、ある訴訟事件のために法廷に出なければいけなかったので、数日間はどうすることもできませんでした。
 数日後、やっと暇ができると、父親はラカールを連れ帰ろうと、ドッキネッショルにやってきました。父親がやってくるのを見ると、ラカールは恐れて隠れようとしましたが、ラーマクリシュナはそれを許しませんでした。そこでラカールは師に促されて、父親に会い、愛と尊敬をこめて挨拶をしました。
 すると奇跡が起こりました。あれほど執拗に反対していた父親が、もはやラカールに帰宅を強要することなく、ただラカールを時々自分のところへよこしてくださいと、ラーマクリシュナにお願いしたのでした。




つづく
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聖者の生涯『アドブターナンダ』(1)

2014-02-28 05:05:36 | 聖者の生涯


 ラーマクリシュナ・パラマハンサは、カルカッタの北にあるドッキネッショルという田舎町のカーリー寺院に住んでいました。その熱情と霊的修行が最高潮に達したとき、ついに彼は明智を得たのでした。
 
 完全な悟りの境地に達したラーマクリシュナは、約束された弟子や信者たちを待ち望むようになりました。彼はよく、寺院のテラスに立って、
『お前たちはどこにいるのだ? 早く来ておくれ! でないとこの肉体はいつまで持つかわからない。』
と大声で叫んでいたといいます。

 そして実際に多くの弟子や信者たちが集まり始めました。その最初に集まり始めた弟子の中に、ラームチャンドラ・ダッタがいました。

 ラームチャンドラには、ラトゥという名の召使の少年がいました。あるときラトゥは、ラームチャンドラが、ラーマクリシュナの教えのいくつかを他の人に説いてあげているのを耳にしました。

『神は人の心の中をご覧になる。その人が何者か、どこにいるのかは気にしない。神を慕う人、神以外の何ものも求めない人、そのような人に神は自らを現わされる。純真で清らかな心を持って神を求めなければならない。心から神を慕わなければ、神を見ることはできない。人は一人で神に祈り、神を思って泣かなければならない。そうして初めて、神は恵みを与えてくださる。』

 これらの言葉を聞いて、ラトゥは強い感銘を受けました。時々、ラトゥが毛布に包まって横たわりながら、そっと涙をぬぐっているのが見られました。しかし彼は自分がなぜ泣いているのかを、誰にも打ち明けませんでした。

 ある日曜日、ラームチャンドラがラーマクリシュナのもとへ行くとき、ラトゥもついていきました。こうして初めてラトゥはラーマクリシュナに会ったのです。
 ラーマクリシュナはラトゥを見ると、ラームチャンドラに言いました。
『ラーム、お前がこの子を連れて来たのかい? どこで彼を知ったのかね? 彼には尊い印がある。』

 その後、ラーマクリシュナに深く帰依するようになったラトゥは、ラームチャンドラの家で召使として働くことに困難を感じるようになってきました。ラーマクリシュナはラトゥに言いました。
『この場所に来たために自分の仕事を怠るようになってはいけないよ。ラームはお前に住まいや、食べ物、服、お前の必要なものを何でもくれる。ラームの家の務めを怠るのは良くない。恩知らずにならないように気をつけなさい。』

 お叱りを受けて、ラトゥの目に涙がにじみました。ラトゥは言いました。
『私はこれ以上仕事に就きたくないのです。私はここにとどまってあなたにお仕えすることだけを望んでいます。』
『しかしお前がここにとどまったら、誰がラームの家族のために働くのか? ラームの家族は私の家族でもあるのだよ。』
 ラトゥはとうとう泣き出して、言いました。
『私はあそこにはもう帰りません。ここにいたいのです。』
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それは

2014-02-27 18:16:26 | 松川先生のお話

 それは、盲信の中にも、論理の中にもない。

 浄信の中に、真理の中にある。
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聖者の生涯「ヴィヴェーカーナンダ」(1)

2014-02-27 17:23:12 | 聖者の生涯







 ナレーンドラ(後のヴィヴェーカーナンダ)の家系は、カルカッタの古い王族の一つでした。
 ナレーンドラの祖父のドゥルガーチャランは弁護士で、莫大な遺産を相続し、妻と息子にも恵まれていましたが、あるとき、すべてを捨てて出家しました。
 その後のあるとき、ドゥルガーチャランに執着していた妻は、ドゥルガーチャランを探しに、2、3歳になる息子を連れて、ヴァーラーナシーを訪れました。ヴァーラーナシーに着くと彼女は、毎日ヴィシュワナート寺院を訪ね、祈りを捧げました。ある雨の日、道路が滑って、彼女は寺院の前で転びました。するとちょうどそばを通りかかった僧がそれに気づき、駆け寄り、丁寧に起こすと、怪我がないか調べてくれました。そして二人の目が合ったとき、ドゥルガーチャランと妻は、お互いに気づいたのでした。一切を放棄したドゥルガーチャランは、直ちにその場を立ち去り、二度と振り向くことはありませんでした。

 このドゥルガーチャランが残した息子であるヴィシュワナートは、成長すると、カルカッタ最高裁判所の弁護士になりました。かなりの収入があったにもかかわらず、父譲りの性格で、友人や困った人に対して大変寛大で、自分のために貯蓄や節約をすることはできませんでした。援助に値するかどうかを検討することなく、誰に対しても手を差し伸べました。
 その中には、怠惰で無益な生活を送っている者や、ドラッグや酒に溺れている者もいましたが、ヴィシュワナートは誰に対しても平等に援助の手を差し伸べていました。
 後にナレーンドラが成長したころ、こうした役立たずに金銭的援助をして養っている父を非難したことがありました。それに対してヴィシュワナートは答えました。

「人生に降りかかる災難が、今のお前にどうして理解できようか? 彼らの苦しみの深さを感じたら、酒に頼って一瞬でも悲しみを忘れようとする不幸な人たちに同情することだろう。」


 ナレーンドラの多芸多才な能力は、子供時代から、様々な分野で発揮されました。ナレーンドラの記憶力は超人的で、たった一度聞けば、どんな本でも記憶でき、決して忘れませんでした。
 そのため、彼の勉強の仕方は一風変わっていました。彼は家庭教師を雇っていましたが、家庭教師が来るとナレーンドラは、静かに座るか、または横たわりました。家庭教師はその日勉強すべき箇所について一通り講義すると、そのまま帰っていきました。それだけでナレーンドラは、家庭教師が講義したすべてを暗記し、理解したのでした。
 また、ナレーンドラは日々自分の好きな本を読み、試験の直前になって、集中的に試験勉強をしました。あるときナレーンドラは、試験の2、3日前になって、幾何学についてほとんどわからないことにきづきました。そこでナレーンドラは集中して徹夜で勉強し、24時間で幾何学の本四冊を習得したのでした。
 
 また、父親の影響で、貧者への哀れみの心は、ナレーンドラにも深く染み付いていました。小さなころから、乞食に乞われると、母親に無断で、母親の着物や家庭用品などを乞食に与えてしまうのでした。これにきづいた母親はナレーンドラを叱って、乞食から品物を買い戻しました。
 これが何度も続いたので、ある日母親は彼を二階の部屋に閉じ込めました。それでも、通りで乞食が大声で施しを求めだすと、ナレーンドラは、母親の高価な着物を、窓から乞食に投げ与えたのでした。

 ナレーンドラの母のブヴァネーシュワリーは、ナレーンドラの生来の美徳を発達させる役割を果たしました。ある日、彼が学校で不当に扱われていると母に語ったとき、彼女はナレーンドラに言いました。
「ねえ、かまわないじゃないの? 自分が正しいと思ったら。結果など気にしないで、いつも正しいことに従いなさい。真実を守るためには、しばしば、不正とか嫌な結果に苦しまねばならないでしょう。けれども、いかなる境遇にあっても、真実を忘れてはなりません。」



つづく
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我が師(抜粋)(2)

2014-02-27 06:11:15 | 経典の言葉・聖者の言葉


 ついに、寺院で働くことは彼にとっては不可能になりました。彼はそこを去り、近くの小さな森に入ってそこで暮らしました。この時期について、彼は後にたびたび私に、日がいつ出ていつ沈むのか、自分はどのようにして生きているのか、自分には全くわからなかった、と話しました。彼は完全に自分のことを忘れ、食べることを忘れました。この期間中、一人の身内の者が愛深く彼を見守っていまして、この人が彼の口中に食物を入れ、彼はそれを機械的に飲み込んだのです。
 昼と夜がこのようにして過ぎました。一日が終わって夕方、聖堂の鐘の音と歌声が森に聞こえてくると、これは若者を深く悲しませました。彼は、
「また一日がむなしく過ぎた。それでもあなたはまだ来てくださらない。母よ、この短い人生のもう一日が過ぎたのに、私はまだ真理を知ることができません。」
と言って泣くのでした。魂の苦悩の中で、彼は時折地面に顔をこすりつけて泣きました。そこで発せられる祈りはただ一つ、
「どうぞ私にお姿を見せてください、あなた宇宙の母なる神よ! 私には他の何も要らず、ただあなたが必要なのだということをおわかりください!」
 真に彼は、自分の理想に忠実であろうと欲しました。彼は、母なる神は、一切のものを彼女に捧げきらなければ決して来てはくださらない、ということを聞いていました。母は誰のところにでも来たいと思っていらっしゃるのだが、人々は彼女を欲しがらない。彼らはあらゆる種類の愚かな小さな偶像に祈りたがり、母では無しに自分の快楽を欲しがっているのだ。彼らが他のものに振り向かず、心魂を傾けて真に彼女を求めるなら、その瞬間に彼女は来てくださるのだ、ということを聞いていました。そこで彼は、この理想の、身をもっての実戦を始めました。彼は、物質の面でも正確に実践したいと思いました。わずかの持ち物の全部を捨て、金銭には絶対に手を触れない、という誓いを立てました。

・・・中略・・・

 彼が思ったもう一つのことは、色欲はもう一つの敵だ、ということでした。人は魂です。魂に男女の区別はありません。性の観念と金の観念とが、自分が母を見ることを妨げる二つのものである、と彼は考えました。この全宇宙は母なる神のあらわれであり、彼女はあらゆる女性の身体に宿っておられます。
「あらゆる女性は母のあらわれだ。どうして女性を、性的な角度からのみ見ることができようか。」
 ――これが彼の思うところでした。あらゆる女性は彼の母だったのです。彼は自分を、あらゆる女性のうちに母しか見ない境地にまで持っていかなければなりません。そして彼は自分の生涯にそれを実行したのです。
 これは、人の心をつかむ恐ろしい渇望です。後年、この人自らが私にこう言いました。
「我が子よ、仮にある部屋に金貨の詰まった袋が置いてあり、その隣の部屋に盗賊がいるとせよ。おまえ、その盗賊が眠れると思うか? 眠れない。彼の心は、どのようにして隣の部屋に入り、あの金貨を我が物としようかと思い続けるだろう。それなら、人が、これらすべてのあらわれの背後には一つの実在がある、そこには神がいらっしゃる、決して死なない者が、無限の至福なる者が存在する、その至福に比べたらこれらの感覚の楽しみは単なるおもちゃに過ぎない、と聞かされたとき、それを得ようと努力もしないでのんびりとしていられると思うか? たとえ一瞬間でも、彼がその努力をやめることができるかね? いや、彼は渇望に狂気するだろう。」
 この神聖な狂気が、若者をとらえたのでした。
 当時、彼は師を持たず、何かを話して聞かせる人もなく、誰も彼もが、彼は気が狂ったのだと思っていました。これが世間普通のことなのです。もし人が世間の虚飾を捨てると、我々は、彼は気が狂った、と言われるのを聞きます。しかし、このような人こそが地の塩なのです。このような狂気から、我々のこの世界を動かした力は生まれました。そしてこのような力からのみ、世界を動かそうとする未来の力は生まれるでありましょう。
 このようにして日は、週は、月は、真理に到達しようとする不断の努力のうちに過ぎました。若者はヴィジョンを、素晴らしいものを見始めました。彼の本性の秘密が、彼の前に開かれはじめました。次々と、ヴェールが取り除かれて行きました。母なる神自らが師となって、若者が求めている真理へと彼を導き入れたのです。
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マハーシヴァラートリー

2014-02-27 05:44:47 | 松川先生のお話

 今日は、一年で最大のシヴァの祭典、マハーシヴァラートリーの日です。

 私たちのヨーガ教室では、昨夜、一足早く、マハーシヴァラートリーの祭典をおこないました。

 最初から最後まで鳥肌が立つような祝福を感じる、素晴らしい一夜でした^^

 今夜はみなさんも、シヴァ大神に供物をささげ、「オームナマシヴァーヤ」のマントラを唱えたり歌ったりして過ごしてみてはいかがでしょうか。



おお、シャンブーよ!
御身の善行や偉業の物語から流れ出し
わが罪の塵を洗い流し
そしてわが心の運河に流れ込み
この輪廻をあてもなく彷徨う悲劇からの休息を与える
シヴァの至福の波に栄光あれ。

(シヴァーナンダ・ラハリ)
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わが師(抜粋)(1)

2014-02-26 17:18:36 | 経典の言葉・聖者の言葉


「わが師」(抜粋)

 スワミ・ヴィヴェーカーナンダ

1896年2月24日 ニューヨークにて



 「徳が衰え悪徳がはびこるときには必ず、私は人類を助けるために降りてくる。」
 ――バガヴァッド・ギーターの中で、クリシュナはこのように宣言しています。我々のこの世界が、発展のためか状況の変化のために新たな調整を必要とするときには必ず、一つの力の波動がやってきます。そして人間の活動は霊的と物質的の二面に渡っていますから、調整の波も両方の面にやってきます。
 その一方である物質的な面の調整は、近代以後、主としてヨーロッパが基礎となっておこなわれてきましたし、他の一方である霊的な面の調整は、世界の歴史を通じてアジアが基礎となってきました。
 今日、人類は、霊性の面におけるもう一つの調整を必要としています。物質的な思想がその輝きと力強さの極みに達している今日、物質への依存度が強まるにつれて人が自分の神性を忘れ、単なる金儲けの機械に成り下がりつつあるように思われる今日、一つの調整が必要なのであります。その声はすでに発せられ、その力は、増大しつつある物質主義の雲を吹き払うために来ようとしています。その力はすでに活動をはじめ、遠からず、人類に再び、その本性への目覚めをもたらすでありましょう。しかも再び、その力の発祥の地はアジアでありましょう。

 ・・・中略・・・

 私は、インドにおいて右のような波を起こした一人の人の生涯を、皆さんにお話ししようと思います。

 ・・・中略・・・

 1836年2月18日、ベンガル地方の一僻村に住む貧しい両親のもとに一人の男の子が生まれたのは、インドに様々の種類の改革運動が始まった頃でした。父も母も、非常に敬虔な、正統派のブラーミンでした。

 ・・・中略・・・

 来る日も来る日も、彼は泣きながら、
「母よ、あなたがいらっしゃるというのは本当ですか? それとも詩に過ぎないのですか? 至福の母は詩人やだまされた人々の想像なのですか? それとも、そういう実在があるのですか?」と尋ねるのでした。
 彼が書物の、いわゆる教育の、影響を受けていないことはすでに申しあげました。それだけにいっそう、彼の心は自然であり健康であり、それだけにいっそう、彼の思いは純粋であって、他者の思想を飲み込むことによって薄められてはいませんでした。

 ・・・中略・・・

 とにかく、この思い――神は見ることができるか否かという――は、彼の胸中で日増しにつのり、彼はついに、他のことは考えることができなくなりました。もはや祭祀をまともに行うこともできませんでした。細かい手順を正しく追うことができなかったのです。しばしば、神像の前に供物を置くことを忘れました。時折灯明を振るのを忘れるかと思うと、他の一切を忘れて何時間も座り続けるのでした。
 そして、かの唯一の思いが毎日彼の心を占めていました。
「あなたがいらっしゃるということは本当ですか、おお、母よ、なぜあなたは話をなさらないのですか? あなたは死んでいらっしゃるのですか?」
 ――おそらく皆さんの中の何人かは、生涯のうちに、退屈で生気のない、様々の抽象的な推論に飽き飽きし、結局は何の得るところもなく、一種の知的アヘンの吸引に過ぎぬ書物の勉強に飽き飽きし――アヘンは時刻を決めて吸わないと死ぬ――これらに疲れ果てて、心の底から泣き叫ぶ瞬間のあるのを覚えておいででしょう。
「この宇宙間に、私に光を見せてくれる者はいないのか? あなたがいらっしゃるなら、私に光を見せてください。なぜ、あなたはお話しにならないのですか? なぜあなたは出てきてくださらないのですか? なぜ大勢の使者ばかりよこして、ご自分で私のところに来てはくださらないのですか? この争いと対立の世界で、私は誰に従い、誰を信じたらよいのですか? もしあなたが平等にすべての男と女の神でいらっしゃるのなら、なぜあなたの子供のところに来て話しかけ、彼がお待ちしているかどうか、見てはくださらないのですか?」
 ――まあ、深く意気消沈したときには、我々すべての心にこのような思いが浮かぶものです。ところが、我々の周囲には実に誘惑が多く、次の瞬間には我々は忘れているのです。一瞬間、天国の扉は開かれそうに思われました。一瞬間、我々は輝く光明の中に飛び込むかと思われました。しかし、動物人間がまたしても、これらすべての天使のようなヴィジョンをふるい落とすのです。我々は落下する。もう一度動物人間、繰り返し繰り返し、食べて、飲んで、死んで、死んで、飲んで、食べるのであります。 
 しかしここに、例外的な心があります。それはそう易々とは紛らわされず、途中でどのような誘惑にあっても、一度惹きつけられたものは見放さない心、生命は滅びなければならぬものであることを知って、真理をこそ知ろう、と欲する心であります。そのような心は言います。――生命は高貴な克服の中で死なせるがよい。このより低い人間に打ち勝つよりも高貴な克服、この生死の、善悪の、難問の解決よりも高貴な克服があろうか、と。
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