ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

今日のAMRITAチャンネル「The Essence of Bhakti yoga 短縮改訂版 バクティヨーガの聖者たち」

2013-12-31 22:49:31 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「The Essence of Bhakti yoga 短縮改訂版 バクティヨーガの聖者たち」です。
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「赤い岩の宝石の谷」の物語

2013-12-31 10:15:04 | 経典の言葉・聖者の言葉



ミラレーパの十万歌


英訳:Garma.C.C.Chang
英訳からの和訳:Keisho Matsukawa




パート1 ミラレーパ、悪魔を征服し、改心させる




第一話 「赤い岩の宝石の谷」の物語



 すべてのグル方に礼拝いたします。


 あるとき、偉大なヨーギー・ミラレーパは、宝石の谷の鷲の城に滞在して、マハームドラーの瞑想修行に集中していました。
 空腹感を感じ、何か食物を調理しようとしましたが、よく洞窟の中を見ると、塩や油や小麦粉はおろか、水や燃料さえ何もないということがわかりました。
 彼は言いました。

「私はものを無視しすぎたようだ!
 外へ出て、少し薪を集めなければならないな。」

 彼は外へ出ました。しかし彼が手に小枝を集めると、突然、強い風が起こりました。その風は森の木を吹き飛ばし、彼のぼろぼろの服を引き裂くほどに強い風でした。服をつかもうとすると薪が飛ばされ、薪をつかもうとすると服が破り飛ばされました。

 ミラレーパは考えました。
「私はこんなにも長い間、ダルマを実践し、リトリートにとどまっているのに、未だ自我執着を取り除いていない! それを征服できないならば、ダルマを実践していったい何になるのだろうか。好きなように風に、薪や服を吹き飛ばさせよう!」

 このように考えて、抵抗をやめました。しかし、食料不足による身体の虚弱により、次の突風に彼はもはや絶えることができず、気絶して倒れました。
 
 彼が意識を取り戻したとき、嵐はやんでいました。高い木の枝に、自分の服の切れ端が揺れているのが見えました。現世とそのすべて事柄の無益さに関する思いが、ミラレーパを襲いました。そして強い現世放棄の思いが彼を圧倒しました。彼は岩の上に座り、再び瞑想を始めました。
 すると間もなくして、白い雲の一群が、東方のかなたにある「トウォの谷」から上昇するのが見えました。

 「あの雲の層の下あたりには、わがグルである偉大な翻訳者マルパの僧院がある。」
 ミラレーパは考えました。
 「今この瞬間、彼と彼の妻は、タントラの教えを説き、法友たちにイニシエーションを与えているだろう。
 そうだ、わがグルはあそこにいる。今そこへ行けば、会うことができるだろう。」

 グルのことを思うと、グルを求める抑えがたい強烈な切望が生じ、彼の眼は涙でいっぱいになりました。そして彼は「わがグルへの思い」という歌を歌い始めました。


 父マルパよ、あなたのことを思うと、私の苦しみは取り除かれます。
 私、乞食僧は、熱い歌をあなたに歌います。
 
 東方の赤い岩の宝石の谷の上に、
 一群の白い雲が浮かんでいます。
 その下には、後ろ足で立ち上がるゾウのような、巨大な山がそびえ、
 その近くには、飛び跳ねるライオンのような、もう一つの峰がそびえ立っています。

 トウォ谷の僧院には、大きな石の座があります。
 今、その玉座で崇められているのは誰ですか?
 それは翻訳者マルパでしょうか?
 もしそうなら、私は嬉しく、幸せです。
 私の敬意は限られていますが、あなたにお会いしたいのです。
 私の信は弱いけれども、あなたとともにいたいのです。
 瞑想するほど、わがグルへの思いは募ります。

 グルの妻ダクメーマは、一緒にいらっしゃるでしょうか?
 彼女には、実の母よりも感謝しています。
 もし彼女がそこにいるなら、私は嬉しく、幸せです。
 旅は長くとも、彼女に会いたいのです。
 沈思するほどに、あなたへの思いは募ります。
 瞑想するほどに、わがグルへの思いは募ります。

 もし集いに参加できたら、私はどれほど幸せでしょう。
 そこであなたは、へーヴァジュラ・タントラを説いていらっしゃるかもしれません。
 私の心は単純ですが、学びたいのです。
 私は無智ですが、唱えたいのです。
 沈思するほどに、あなたへの思いは募ります。
 瞑想するほどに、わがグルへの思いは募ります。

 あなたは今、口頭伝授の四つの象徴的イニシエーションを授けていらっしゃるかもしれません。
 もし集いに参加できたら、私は嬉しく、幸せです。
 私の功徳は足りませんが、イニシエーションを受けたいのです。
 私は貧しく、多くの布施はできませんが、それを欲します。
 沈思するほどに、あなたへの思いは募ります。
 瞑想するほどに、わがグルへの思いは募ります。
 
 あなたは今、ナーローパの6ヨーガを説いているかもしれません。
 もしそこにいられるなら、私は嬉しく、幸せです。
 努力は足りませんが、私は学びたいのです。
 忍耐力は乏しいけれども、私は修行したいのです。
 沈思するほどに、あなたへの思いは募ります。
 瞑想するほどに、わがグルへの思いは募ります。
 
 ウェウとツァンの兄弟が、そこにいるかもしれません。
 もしそうなら、私は嬉しく、幸せです。
 私の経験と悟りは劣等ですが、彼らのものと比べてみたいのです。
 
 深い信仰と尊敬においては、あなたから離れたことはありませんが
 私は今、あなたに会いたいという気持ちで、苦しめられています。
 この熱い思慕が私を悩まし、
 この大きな苦悩が、息を詰まらせます。
 お願いします。慈愛に満ちたグルよ、
 私をこの苦悩から救ってください。


 このようにミラレーパが歌い終えるや否や、尊敬すべきジェツン・マルパが、五色の衣のような虹の雲の群れに乗ってあらわれました。その顔はどんどん強くなる天の光輝に照らされ、壮麗な礼服を着て、ライオンにまたがって、ミラレーパに近づいてきました。

 マルパは言いました。

「わが息子、偉大な魔術師よ。なぜそのように感傷に深く浸り、必死に私を呼ぶのか。
 なぜそのようにもだえ苦しむのか。
 グルやイダムに対する永遠の帰依心を持っていないのか? 
 外側の世界の妨害想念が誘惑するのか。
 八つの現世的風が、洞窟の中で吹き荒れているのか。
 恐怖と思慕に、お前の強さを奪われたのか。
 お前はグルと三宝に奉仕をしてこなかったか。
 功徳を、六つの世界の衆生にささげなかったか。
 悪業を浄化し功徳を得る慈悲の状態を達成しなかったか。
 何があろうとわれわれは離れないことを、お前は確信しているだろう。
 ゆえに、ダルマと衆生の利益のために、瞑想を続けなさい。」


 この崇高な喜ばしいヴィジョンによって心目覚め、ミラレーパは次の歌によって応えました。


 グルの顔を見、彼の言葉を聞くとき、
 私、乞食僧は、心臓の中のプラーナによってかきまぜられます。
 わがグルの教えを思い出すと、尊敬と崇拝の念が心に生じます。
 彼の慈悲に満ちた祝福が私に注がれるとき、
 すべての破滅的な思いは止滅します。

 師よ、「わがグルへの思い」という熱い歌は、
 あなたによって聞かれたに違いありません。
 しかし、私はまだ闇の中にいます。
 どうか私を哀れみ、加護を与えてください!

 不屈の忍耐が、グルへの最高の布施です。
 グルを喜ばせる最高の方法は、激しい瞑想修行に耐えることです!
 一人この洞窟にとどまることが、ダーキニーたちへの最高の奉仕です!
 聖なるダルマに私自身を捧げることが、仏教に対する最高の奉仕です。
 それは、私の人生を瞑想に捧げて、私の仲間である絶望的な衆生を救うことです!
 そして、死と病を愛することは、悪業の清算のための祝福です。
 禁じられた食物を拒絶することは、悟りと解脱に到達することを助けます。
 わが父であるグルの慈愛にこたえるために、私は瞑想をし続けます。

 わがグルよ、どうか私に加護を与えてください。
 この乞食僧が、この隠れ家にとどまり続ける手助けをしてください。 


 ミラレーパは意気揚々として、衣服を直し、腕に薪を抱えて、洞窟に戻りました。
 中に入ると彼は、皿ほどもある大きな目を持った、五人のインドの悪魔を見つけて、ぎょっとしました。一人は彼の寝床に座って説法をし、二人はそれを聞き、もう一人は食べ物を用意し、ささげ、残りの一人はミラレーパの本を学んでいました。
 ミラレーパは思いました。
「これは、私のことをよく思わない地元の神々の魔法による現われに違いない。私はここに長く滞在してきたが、彼らに何の布施も挨拶もしなかった。」
 そして彼は、「赤い岩の宝石の谷の神々への挨拶の歌」を歌い始めました。

 わが庵のあるこの孤独な場所は、
 仏陀方を喜ばせる地、
 成就者たちの住む地、
 私が一人住む避難所である。

 「赤い岩の宝石の谷」の上には、白い雲が流れている。
 またその下には、ツァン河がやさしく流れている。
 そしてその間を、コンドルが旋回する。

 ミツバチは、花々の香りに酔わされ、
 その間でハミングする。
 鳥たちは、大気を歌声で満たしつつ、
 木々に降りては、また飛び立つ。

 「赤い岩の宝石の谷」では、
 若いスズメたちは飛ぶことを学び、
 猿たちは飛び跳ねて遊びまわるのを好む。
 そして獣たちは走り回り、競争する。
 一方私は、二つの菩提心の修行をし、瞑想を楽しむ。

 あなた方、この地方の悪魔たち、霊たち、そして神々は、
 皆、ミラレーパの友達である。
 慈愛と哀れみの甘露を飲んで、あなた方の家に帰りなさい。
 

 しかし、インドの悪魔たちは消えず、鋭く、ミラレーパをにらみつけました。彼らのうちの二人はミラレーパの方に進んできました。一人はしかめっ面で下くちびるをかみ、もう一人は激しく歯ぎしりをしていました。残りの一人は後ろに回り、不気味で恐ろしい笑い声を発して、大声で叫びました。彼らは皆、恐ろしい顔や態度によって、ミラレーパを脅そうとしていました。
 ミラレーパは彼らの悪意を知って、激怒している仏陀の瞑想を始めて、強力なマントラを力強く唱えました。しかしそれでも悪魔たちは去りませんでした。
 次に偉大なる慈悲をもって彼らにダルマを説きました。しかしやはり去りませんでした。

 ミラレーパはついに宣言しました。
「マルパの哀れみによって、私は、すべての存在とすべての現象が、自分の心に他ならないとすでに完全に悟っている。心そのものは、空の透明さである。したがって、こんなことをして何になるのか。私はなんと愚かだったのか。これらのあらわれを、物理的に追い払おうとするとは!」

 そして敢然と「悟りの歌」を歌いました。


 四つの悪魔を克服した、父なるグル 
 翻訳者マルパに礼拝します。

 あなたの知っている私、「タクセン・カルモの息子」という名前の者は、
 三つの管を完成させながら、母の子宮で養育されました。
 赤ん坊として、私はゆりかごで眠り、
 若者として、戸口を見張り、
 成人として、高い山に住みました。
 雪の山頂の吹雪は恐ろしいけれども、私は恐れません。
 崖は険しく危険ですが、私は恐れません!

 あなたの知っている私、「黄金の鷲の息子」という名前の者は、
 卵の中で、翼と羽毛を育てました。
 赤ん坊として、私はゆりかごで眠り、
 若者として、戸口を見張り、
 成人として、空を飛びました。
 空は高くて広いけれども、私は恐れません。
 道は険しく狭いけれども、私は恐れません!

 あなたの知っている私、「魚の王ニャチェンヨルモの息子」という名前の者は、
 母の子宮内で、黄金の目を回しました。
 赤ん坊として、私はゆりかごで眠り、
 若者として、泳ぎ方を覚え、
 成人として、大海で泳ぎました。
 とどろく波は驚くべきものですが、私は恐れません。
 釣り針は多いけれども、私は恐れません!

 あなたの知っている私、「カギューのグルたちの息子」とい名前の者は、
 母の子宮内で、信仰を培いました。
 赤ん坊として、私はダルマの門に入り、
 若者として、仏陀の教えを学び、
 成人として、洞窟にひとりとどまりました。
 悪魔や霊や悪鬼は多いけれども、私は恐れません。

 雪ライオンの爪は、凍ることはありません。
 そうでなければ、三つの完全な力を持つライオンを
 「王」と呼んで何になりましょうか。

 ワシは、空から落ちることはありません。
 そうでなければ、とんでもないことです。
 鉄の塊は、石で砕かれることはありません。
 そうでなければ、鉄鋼を精錬して何になりましょう。
 私、ミラレーパは、悪霊も障害も恐れません。
 彼らに脅かされるなら、私の悟りや解脱とは何でしょうか?

 汝ら、霊と悪魔たち、ダルマの敵たちよ
 今日、私はあなた方を歓迎しよう!
 あなた方を迎えるのは、私の喜びだ!
 どうか、あわてずに、ここにいてください。
 語り合い、ともに遊ぼう。
 立ち去ることなく、今夜はここに泊っていってください。
 我々の、黒と白のダルマを戦わせよう。
 そして誰が最も遊び上手か見てみようではないか。

 あなた方はここに来る前に、私を苦しめることを誓ってきた。
 もしあなた方がこの誓いを達成せずに帰るなら、
 恥と不名誉が後に残るだろう。


 ミラレーパは毅然として立ちあがり、洞窟内の悪魔たちへまっすぐに向かっていきました。悪魔たちはおびえて、後ずさりし、失望して目をきょろきょろさせ、激しく震えました。そして渦巻きのようにともに回りながら、一つになって溶け込んで、消え失せました。

 ミラレーパは思いました。
「これは悪魔の王、妨害者ヴィナーヤカで、害を与えようと思ってやってきたのだ。嵐もまた、彼が生じさせたものだ。わがグルの慈悲によって、彼らは私を害する機会を得なかった。」

 この後、ミラレーパは大きな精神的進歩を得ました。
 
 この物語は、悪魔の王ヴィナーヤカに関するものですが、三つの異なった意味を持つので、
「わがグルについて考える六つの方法」
「赤い岩の宝石の谷の物語」
 または、
「薪を集めるミラレーパの物語」
と呼ばれます。
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内側の安らぎに達するための教え

2013-12-29 09:47:25 | 経典の言葉・聖者の言葉


内側の安らぎに達するための教え

ミパム・リンポチェ



――すべての善き特質の基礎は、自己の心を培うことだ――



 純粋な輝きの壮麗さを有し、
 事物は真実にはどのようであるのか、そしてそれらはどのように現れるかの双方を知り、
 心の虚像物という波を静める寛大な本性である童子に、
 わたしは、恭しく敬礼いたします。
 そのように敬礼しつつ、わたしはここに、この大いなる真理に達するための助言を書こう。

 概念は、水のように不断に流れる意識の連続体を凝結させ、曇らせる。
 無始のときから今まで、それらは集積してきたが、
それらはただの苦しみの波、善の欠如、考慮に値しないもの、無用なもの、そして確実性のないものでしかなく、そこには絶望しかない。

 これらの存在するものすべての広がりの中に現れる虚構の現われは、苦しみである。
 これらの堆積に根差していることで、
 あなたは、内側の安らぎとより広い見解の良い特質も、
 ありのままの心の喜びも、わずかですら得ることはできない。
 これが、絶望の根である。

 絶えず対象の関連性を検討し、
 そしてその対象から心を動かさないように努めることによって、
 ひとたび、あなたが有害な心の習性から回避する方法を知るならば、
 心は、渦巻きが回転するように、同時に一点に流れ込む。

 神と人の世界におけるあらゆる世俗の楽しみの中で心を支配することは、戦いによっては得られない。
 もっと正確に言えば、子供が手放すように、
 欲する対象への執着を手放すことで、
 ありのままで平穏な心は、歓喜と楽しみを見つける。

 それが乱されていないときの心の海の歓喜は、
 災いの根絶の際に訪れるもののようだ。
 このようなけがれなき歓喜の光輝は、
 たとえ、あなたが何か力を持っていたとしても、得るのは難しい。
 無力なもの(相対的な力と現象)によって振り回されていて、
 誰が解脱した心の至福を経験することができようか?

 これ以上経験することはないから、
 それに達することで、すべての世界の豪華なものや豊かなものは、
 透明な海に月や星が映った現われのように見える。

 神通力などのさまざまな種類の良い事物が生起する、すべての良い特質の基礎は、自己の心を培うことである。
 訓練されていない心の中に、どのようにして良い特質が見つけられるというのだろうか?

 それ故に、この貴重な身体を得た命を
 無駄にすることは非常に容易いとはいえ、
 衆生のために、絶え間ない念正智によって、心を浄化しなさい。
 何が起ころうとも、正しい心を手放してはいけない。
 祈り、誓うことで、心を緩めずに努力しなさい。

 まず最初に、徐々に堅く結ばれた悪しき習性を解きなさい。
 そして、もっともっとその努力を広げていくことで、
 正しい習性の始まりを創りなさい。
 念正智の対象に一点に集中する心を保持しつつ、
 クリアで、乱れのない安らぎを勝ち取るまで、努力しなさい。

 徐々に、そのように慣れてきたことで、
 自らの思考を道にしつつ、
 心そのものの善と悪の特質、受容と拒絶を分析しなさい。
 どんなに長くかかっても――たとえそれだけで数ヶ月が過ぎても――
 努力し続けなさい。

 熱意があり、エネルギッシュな心と
 修行の四つの拠り所は、エッセンスである。
 念正智という鎖によって取り囲まれることで、
 不動な力によって、
 その周囲へ向かって空間を満たしながら、
 大いなる至福は、心の鏡に生じるだろう。

 客観的な対象に集中することは、
 その純粋な特質を分析することと、
 身体の感覚の流れと一体化することの両方の意味がある。
 あなたがそこで安住したならば、
 ヴィジョンや種字など、何が要素として使われても
 成功はやってくるだろう。

 この堕落した時代に、粗暴な感情は、
 心とエネルギーの流れを曇らすだろう。
 自らとぐろを巻きながら、グルグルと回る卑劣な蛇のように、
 束縛が生じ、それからその反対のものが生じるといった
 狂気じみた増減の動きが生じるだろう。
 心はそれらすべてに疲弊し、
 おびただしい拒否反応が始まるだろう。

 それが、リラックスし、心を動かされない境地にある間、
 心の本性を検討することによってのみ、
 それが集中したところに入っていくことで、
 その流れは確実に成長するだろう。
 概念という動く風に従わないことで、
 それらを捨て去る意味を知ることで、
 心の広がりは、徐々に晴れ、
 概念のジャングルは、徐々に静まるだろう。――
 心の大海は、次第に乱れなく、光り輝き、そして汚れなくなっていくだろう。
 
 これは、内側の安らぎと、より広い見解の結合である、すべての良い性質の土台である。
 安定した寂静の力によって、堅固であることによって、
 あなたは、生来的な意識の広大な領域であるより広い見解に、徐々に到達するだろう。
 
 生来的な意識の真意は、
 原初からの光輝と純粋性である。
 その自分の心の内側を理解することによって、
 そして、絶え間なく対象の関係性を検討することによって、
 意識の流れは安定する。
 これが、安らぎに到達するためのすべての教えという贈り物である。

 意識の流れが安定したことで、
 活動的な至福、光り輝く創造性と、架空の仮定からの解放は、
 さまざまな方法で生起する。
 そして、あなたが存在の原初の経験にアプローチするにつれて、
 それを理解するのは容易になるだろう。
 現代において、これはよくある瞑想法である。

 しかし、たとえあなたが心の本性を理解したとしても、
 もしあなたがその領域に慣れ親しんでいなかったならば、
 純粋なヴィジョンは現れないだろう。
 その修行は影響を残さず、
 あなたの経験は、普通の人々のそれのようになるだろう。
 これは瞑想ではない。そしてブッダはそのように説かれていない。

 他方では、もしあなたが意識の本性を理解せず、
 内側の平穏の境地に安住するだけならば、
 たとえ概念が断たれ、いくつかの良い性質が顕現しても、
 あなたは、「概念がそれらの開かれた場所にとどまることを許すことから生じる自由」という要点が分からないだろう。
 未だにしがみつき、未だに束縛され、
 あなたは受容と拒絶である輪廻の根を獲得しただけである。
 
 したがってあなたは、
 自分の本質を理解することと、確固として安定することの、双方を為さなければならない。
 これは、心を理解するための、そして修行のための、二重の基盤である。
 原初の経験の真意は、
 自ら生起する光輝の領域である。
 これは、永遠にありのままで、永遠に統合された、
 内側の安穏とより広い見解である。

 これらの数百のスートラとタントラで説明された大いなる教えは、
 多くの人々に極めて尊重されている。
 しかし、あなたの心の中に、
 ただそのようなものを呼び起こすだけでは、瞑想とはいえない。
 そのような平凡な活動は、
 少しの改善ももたらさないだろう。
 
 過度に快活な概念化の力の下で、
 あなたが、起こり得るはずの叡智と特質を見つけられないならば、
 たとえ心を何度も見るとしても、それは無意味である。
 それは、水の中の波の乱れのようであり、
 それは、大いなる疲弊だけを生み出す。

 しかし、この原初の深遠なる教えに従い始め、
 あなたの心という舵取りを制御することについてのすべてを理解することで、
 あなたは、大いなる宝を得る幸福の中で安らぎ、
 そして、自己と他者の両方のための利益を得るだろう。
 よって、早くこれを悟る努力をしなさい!

 すべての努力の大いなる重要なポイントは、
 この自己の心を培う修行だけである。
 この如意宝珠というこの素晴らしい船は、
 絶えず、その偉大性と、言葉では言い表せない特質の中にとどまるだろう。

 この意味を正確に理解するという幸運によって、
 この心のヨーガの中に忠実にとどまることで、
 すべての活動から解放され、心は、一つの点になるだろう。
 すべてのものが、この真に意味ある教えの悟りを得ますように。

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サーダナーの指針の花輪(301~310)

2013-12-29 09:30:31 | 経典の言葉・聖者の言葉

301.
 心は、毎日磨かないと光沢を失うプレートのようなものである。
 日々の規則的な瞑想修行によって心を浄化するのを怠ると、心はけがれていってしまう。


302.
 真理を語れ。それは人を心配や悩みから解放し、安らぎと強さを与える。


303.
 真理を語ることは、最も重要なヨーギーの資格である。
 もし秤にかけるならば、一つの真理は、1000回のアシュワメーダの儀式よりも、遙かに重い。


304.
 神は真理である。
 真理を語り、思考・言葉・行為を真理によって念正智することによって、神は悟られる。


305.
 ①誠実
 ②自己の制御
 ③うらやみから来る闘争心がないこと
 ④許すこと
 ⑤謙虚
 ⑥忍耐
 ⑦嫉妬がないこと
 ⑧慈悲行
 ⑨思いやり
 ⑩平等なる慈愛
 ⑪念正智
 ⑫絶え間ない慈悲
 ⑬他者を害さないこと
 これらは、真理の十三のかたちである。


306.
 もし本当にそれが衆生の大いなる利益となる場合は、嘘をついてもよい場合もある。
 たとえば悪しき王が、正当な理由なく、ある聖者を死刑にしようとしていたとする。
 このとき、もしあなたが嘘をつくことによってその聖者が救われるとしたならば、この嘘はまさに真実である。


307.
 常に真実を語ることによって、ヨーギーは「ヴァーク・シッディ」を身につける。
 彼が考えたり話したりしたことは、すべて真実となる。
 彼は単に心に思うことによって、何でも成し遂げることができる。


308.
 「真我は、誠実の厳しい遵守によって到達できる」
 「誠実さより偉大なるものはない」
 ――これらは、聖典においてハッキリと宣言されている。
 ユディシュティラとサティヤヴラタ・ハリスチャンドラの人生を見本としなさい。彼らは自らに危険が迫る状況においても、誠実さを手放さなかったのだ。


309.
 奉仕行や布施行は、人から強請されるものではなく、自発的なものでなければならない。
 「与えること」は、あなたの習性にならなければならない。
 「与えること」が、あなたの喜びでなければならない。
 

310.
 布施や奉仕をおこなうとき、次のように考えてはいけない。
「私は大きな布施や奉仕をおこなった。
 私は天で幸せを楽しむだろう。
 私は来世、金持ちに生まれるだろう。
 布施や奉仕によって、私の悪業が浄化されるだろう。
 私のような慈悲深い人間は、他にいない。
 人々は、私が慈悲深い人間であると知るであろう。」
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タイ・バーホーさん

2013-12-28 11:28:40 | 松川先生のお話



 12月23、25日と、関西のバーンスリー(クリシュナが吹いている横笛)の第一人者のGUMIさんとともに、初対面のタイ・バーホーさんが、バクティヨーガのイベントに参加してくださった。

 タイ・バーホーさんは世界的なタブラ奏者。インドの人間国宝的存在であるザキール・フセインの愛弟子&マネージャーを務め、また自身も、サウンドトラックを担当した映画がアカデミー賞ドキュメンタリー部門を受賞したり、今年のグラミーにノミネートされたクリシュナダースのパートナーを8年間務めたりなど、数々の功績を残している。

 そんなタイさんのことは、今年の秋までほとんど知らなかった。我々のヨーガ教室と交流のある(というより我々の一員といってもいい笑)GUMIさんとタイさんがセッションを行うまでは・・・

 タイさんのことを知ってからも、特にタイさんを呼ぼうとは考えていなかったが、いつの間にか話が進み、タイさんを呼ばなくてはならない流れになってきてしまった笑。最初は内輪でクリスマスのイベントをしようと計画していたが、これまた自然にもっと大きなイベントを企画する流れになり、急きょ、年末に「バクティヨーガ・フェスタ1IN横浜」が開催されることになったのでした。

 こうしてGUMIさんとともに数日間にわたって、我々と交流を持ってくださったタイさん。そのタブラの腕が素晴らしいのはいうまでもないが、なぜこのような自然なかたちで我々と縁ができたのか。

 タイさんの話は、「愛」「オープンハート」などの心に訴える精神的な話、そして神秘体験や夢の体験などのスピリチュアルな話も多く、またあの笑顔、そして温かい人柄から、「愛にあふれたスピリチュアルなミュージシャン」という印象を一見受ける。

 しかし本当はそれだけではない、というか「それではない」感じがした。

 そして、人伝えにではあるが、世界的に評価を受けているタブラが、彼の中の重要性としては三番目に過ぎないということを聞いた。
 二番目が瞑想、そして一番は、彼のルーツとも関係のある、彼の祖父から教わり、子供のころからおこなっているネイティブアメリカンの修行なのだそうだ。
 これを聞いて、「なるほど、それだったのか」と思った。

 ネイティブアメリカンの修行が、シャーマニックな要素は別として、その本質が東洋のヨーガや仏教、特にチベットのゾクチェンやオーストラリアのアボリジニの修行などと共通性があるということはよく指摘される。

 それらはそれぞれ方法は違えど、唯一の「それ」に何とか触れようとする。

 われわれのヨーガ教室も、クンダリニーヨーガ、バクティヨーガ、そして仏教の菩薩道や密教などのスタイルをとりつつも、結局のところは言葉も概念も越えた「それ」へ触れること、いつも触れていることを目的の一つとするものである。

 そういう話は実際にはタイさん自身とは一切しなかった。しかしタイさんが我々のヨーガ教室の仲間を「素晴らしい」と絶賛してくれて、我々もタイさんに何とも言えない魅力と親近感を感じたのは、「オープンハート」や「愛」といった世界だけでは語れない、もっと深い共通の目標をお互いに感じていたからなのかもしれない。

 何はともあれこの忙しい年末の数日間、タイさん、GUMIさん、ありがとうございました^^

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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第67話」

2013-12-27 16:36:41 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第67話」です。
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25日祭典前のひととき

2013-12-26 14:12:59 | お知らせ



25日の祭典前のリハーサル&ティータイムでの楽しいひととき。
タイさんは何度も「みなさんはオープンハートで素晴らしい」と言ってくださっていました^^
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12・25 キリスト&ホーリーマザー&母なる女神祝賀祭

2013-12-26 14:00:13 | お知らせ


23日の横浜・みなとみらいホールでの「バクティヨーガフェスタ」に引き続き、25日には横浜教室で、ヨーガ教室の生徒さん向けの祭典が行われました。23日に引き続いてグミさんとタイさんにも参加していただき、非常に感動的&盛り上がった人時となりました^^

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2014年カイラスオリジナルカレンダー

2013-12-26 10:28:34 | お知らせ
お待たせしました! 2014年のカイラスオリジナルカレンダーができました。

神様の絵、聖なる言葉、満月と新月、そしてインドの主要な神様関係の祝祭日などが入っています。

壁掛けが2000円、卓上版が1000円です。

郵送も行なっていますので、ご希望の方はメールでお申し込みください。郵送の場合は送料は80円です。

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12・23 バクティヨーガ・フェスタIN横浜

2013-12-26 05:32:22 | お知らせ



12・23に横浜で行われた「バクティヨーガ・フェスタIN横浜2014 バクティヨーガ・トワイライト」は、多くの人に参加していただき、感動のうちに幕を閉じました。

基本予約不要の無料イベントだったので、「あまりお客さんが来なかったらどうしよう」「たくさん来すぎて入れなかったらどうしよう」など様々な心配がありましたが笑、ふたを開けてみると、ちょうど会場のキャパにぴったりの来場者数で、本当にすべては神の采配であるなと感じました^^

ヨーガ、チャイとラドゥ、インド古典音楽、讃美歌、キールタンなど、盛りだくさんのプログラムがあっという間でした。

来ていただいたみなさん、ありがとうございました^^
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勉強会講話「聖者の生涯 ナーロー」⑥(3)

2013-12-22 17:41:07 | 聖者の生涯




◎真の早道


【本文】

 ナーローがティローに受け入れられるまでに経験したさまざまな試練は、ナーローの「十二の小さな試練」と言われます。そしてこの後、いよいよ「十二の大きな試練」と呼ばれる試練が、ナーローに与えられることになります。


 ティローは、ナーローに教えを与えることなく、一年間、蓮華座で座って一人で瞑想し続けました。ナーローはティローの周りを敬意を持って回り、教えを懇願しました。

 ティローは、「教えがほしいなら、ついて来い」と言って、歩き出しました。

 二人はある大きな寺の屋根に上りました。そしてティローは言いました。
「もしわしに弟子がいたならば、そいつはここから飛び降りただろうな。」
 これが自分に与えられた指示だと気付いたナーローは、躊躇せずにそこから飛び降りました。
 ナーローは全身を地面に打ち付けられ、瀕死の重症を負いました。ティローは神秘的な力で傷を癒すと、さまざまな基本的な教えを与えました。




 まず、ティローはナーローを弟子として受け入れたわけだけども、全く教えを与えず、一年間一人で瞑想し続けたと。ナーローはその間中――実際にはナーローはもちろん奉仕してたわけだから、ティローのいろんな食事の世話とかいろいろしてたと思います。で、それ以外はずっとティローの周りをね、つまり右繞の礼としてこう回って、ぐるぐる回りながら懇願ね――つまり「どうかわたしに教えをお与えください」と懇願してたと。いいですか、それを一年間ですよ(笑)。
 よく密教っていうのは早い道、つまりスピーディな道だといわれる。でも、スピーディな道といっても別に、師匠に弟子入りして、「よし弟子入りしたか」と。「じゃあこの瞑想法やりなさい!」っていって、それをやったら三日で悟りましたとか、そんな虫のいい話ではないね(笑)。例えば『八十四人の密教行者』とか読んでも分かるけど、例えばこの教えで十二年で悟りましたとか、六年で悟りましたとか――まあ悟りのレベルはそれぞれ違うと思うんだけど、そういうのが書かれている。つまりそれは、さっきも言ったけども、本来ならば何回も宇宙が生じては滅して辿り着くぐらいの境地を、十二年ぐらいでいっちゃうんです。そういう意味でのスピーディなんだね。だからちょっと言ってるレベルの桁が違うっていうか。しかし、そういう意味ではスピーディなんだが、やってることは非常になんていうかな、さっきの言い方すると、現代人のわれわれにとっては厳しい世界です。
 まさにだからこの話を読むと、われわれにとってはね、「え!?」と思うかもしれないけど、こんなの当たり前なんです。インドとかの――これは密教だけじゃなくて、ヨーガの世界もそうです。ヨーガの世界でも、例えば弟子入りして、一年間何も教えてもらえず、懇願し続けると。これはもう当たり前の世界なんだね。
 最近はそうではない。最近はそうではないっていうのは、最近よく、チベットが崩壊してチベット仏教の聖者とかが欧米とかに布教に行ってる。あるいはヨーガがブームになって、ヨーガのいろんなヨーギーが欧米に出向いてね、で、非常に簡単に弟子を取り、で、簡単にセミナーとか開いて、どんどんどんどん深い教えを与えたり瞑想法を与えたりして、いろんなステージも与えたりする。「あなたにはこの大聖者なんとかなんとかっていう称号を与えましょう」とかね。それははっきり言うと「布教」――つまり浅く広く教えを広めるっていう意味でそういうことやっているんだろうけども。あるいは欧米人の場合ね、特に東洋人特有の、この教えで説かれるような師弟関係、あるいはじっくりと一つのことを成し遂げていくっていう発想が薄いので、それでパッパッパッパとやっているのかもしれません。
 これはいろんな聖者方――聖者っていうかな、リンポチェとかいう人もよく言ってる。例えばチベット仏教の本来のスタイルでは、例えばヴァジュラサットヴァのマントラを十万回唱える。曼荼羅供養を十万回やって、あるいは発菩提心の詞章を十万回唱え、五体投地を十万回やって、あるいはグルヨーガのマントラを十万回唱え、その後に、やっと本格的な瞑想に入りましょうと。これが本来のチベットのやり方ですけども、でも現代のね、欧米人とかはそんなことできないから。そういうことやったら誰も仏教の修行やらないから、現代においてはそういうのやらなくていいですよって言ってるリンポチェとかも結構いる。
 でもみなさん分かると思うけど、そんなことないよね。できる、そんなこと。例えばKさんとか、ヴァジュラサットヴァ二十万回唱えているんだっけ(笑)? 二十万回ぐらい唱えてるし、この中にも何人かヴァジュラサットヴァは十万回唱えている人いるし、五体投地も十万回やっている人はいます。回数にしたらね。チベット人のお坊さんの五体投地ってけっこうゆったりやってるから。ゆったり、ゆったりこうやってるんだね。だから時間にしたらかなり時間がかかってしまうっていうか。それから発菩提心の詞章も十万回唱えている人はここに何人もいるだろうし、それはやる気があれば当然それくらいはできるんだね。
 で、そういったオーソドックスなものだけじゃなくて、まさにこのナーローの話にあるように、例えば一年でなくて三年間とかね。例えばこういう話よく聞いたことあるよね。弟子が師匠に弟子入りを懇願して、で、例えば三年間通い続けたとかね。三年間通い続けたけども、師匠は「駄目だ、お前は弟子入りさせない」と言って、で、三年間毎日毎日師匠の家の前に行って座り続けたとかね。で、やっと許してもらって、とかね。そういった話は日本でも中国でも、チベット、インドでもよくいろんな世界であるわけだけど。いろんな武道の話とかね、職人の話とか。で、そういったメンタリティっていうのは、実際やっぱり修行には必要なんだね。で、それが実際には早道っていうか。そういうすべてを投げ打って、「わたしにはこれしかないんです」と。 
 例えばもう一回ここをリアルに考えると――いいですか、リアルに考えてくださいよ。わたしに偉大な悟りをもたらしてくれると期待して、やっと受け入れてくれたティローが、ずーっと黙ってるんですよ(笑)。で、ナーローは一日中回っているんですよ。一日中回って、「どうかわたしに教えをお与えください、教えをお与えください」と。みなさんだったら、何日でギブアップする? ね。三日経っても、ずっと黙っているんですよ。多分食事はしたでしょう。食事のときだけで、あとはずーっと瞑想してる。ね。ぐるぐるぐるぐる回ると。三日経っても駄目、一週間経っても駄目だと。一ヶ月、ね。半年と。半年も頑張れないかもしれないね、普通はね。でもナーローは全くそれは関係なかったっていうか。つまり打算がなかったんだろうね。ただ単純に純粋に、このグルが自分に悟りを与えてくれるんだと。ただ純粋に懇願し続けると。




◎師や神の仕掛け

 はい、そして、ついに一年経ってティローが「教えが欲しいならついてこい」と言って――これは有名な話ですけども――二人で一緒にね、大きな寺の高い屋根の上に登って、「もしわたしに弟子がいたならば、そいつはここから飛び降りただろうな」って言うんだね。ティローパは大体こういう感じで何気なく言うんだね。「さあ、飛び降りろ!」って言うんじゃなくて、「おれに弟子がいたら……飛び降りたんだろうけどな……」みたいな感じで言うんだね(笑)。
 で、ここで大事なのは、躊躇せずに飛び降りたってことです。つまりこれはね、この「飛び降りただろうな」っていう言葉にも、ある意味罠がある。なぜかというと――分かるよね? つまり、言い訳がきく罠なんです。
 ちょっとね、話がずれるけども――これは、まさに師と弟子の物語だけども、こういう感じで師と弟子の間のやり取りの場合もあるし、そうじゃなくていつも言うように、修行者と神のやり取りの場合もあるんだけど――こういう形で、仕掛けがよくかかります。で、この仕掛けっていうのは、まさにこのナーローの話、今の話で分かるように――いつもですよ、いつも、逃げ道が用意されるんです。あるいは言い訳がきくようにできてるんです。本当に純粋に誠実な心で考えたら――これは師とのやり取りにしろ、神とのやり取りにしろ――「あっ、この状況は、わたしが今これやらなきゃいけないんだな」っていうのは分かるんだけど、でも言い訳がきくようにできてるんです。例えば「先生のさっきの言い方は、『やれ』じゃなくて『やったら?』だったから、じゃあやんなくてもいいのかな?」とかね。ちょっとこういろんな言い訳がきくようにできてるんだね。で、それが罠なんです。で、その言い訳の方に、つまりエゴの方に逃げると、そこでの仕掛けは失敗してしまう。あるいは自分のけがれが増大してしまうっていうかな。
 ちょっとこれは説明しづらいんだけども、もう一回言いますよ――ちょっと説明はしづらいけどストレートに言うと、みなさんが本当の意味でバクティヨーガや、あるいはグルヨーガといわれる、師と弟子、あるいは神と修行者の純粋な信の関係ね――に入ると、師匠やあるいは神や仏陀から、みなさんの修行を進めるためのさまざまな仕掛けがやってきます。で、その仕掛けに対する正しい答えは、ただ一つ。いかに誠実にそれに対応するかなんだね。 
 あの、間違えるのはしょうがないですよ。智慧がなくて間違うのはしょうがないんだけど、じゃなくて、誠実に読み取れば、実は分かる場合がほとんどです。しかしわれわれは、本当は心の奥では分かってるんだが、実はその正解を取るとつらい場合が多いので、ね(笑)、心の中で逃げ道を探すんですね。
 で、もう一つ言いますね。もう一つ言うと、じゃあ逃げた場合どうなるんですか?――失敗です。失敗することによって、そうですね、いろんなパターンがある。失敗して、そこで屈折し、けがれが増大するパターンもあるし、あるいは単純に失敗してまたやり直しの場合もある。
 じゃあ、この人が失敗したこの課題を乗り越えるにはどうすればいいですか?――それは、自分が逃げたそのポイントを、ちゃんと超えるしかないんだね。
 つまり何を言いたいかっていうと、必ず最後はそこを越えなきゃいけない、逃げずに。で、それに多くの場合、最後にやっと気づきます。最後にやっと気づくっていうのはどういうことかっていうと、つまり、まず逃げ道があるように見える。で、逃げるんですね。で、失敗する。ああ、この逃げ道は駄目であったと。大失敗、堕落であったと。で、また一生懸命頑張ってると、同じような仕掛けが来ます。で、なんとなく本当は正解が分かってるんだけど、またやっぱりそれ嫌だから(笑)、次の逃げ道を探す。そうするとあるんです、次の逃げ道が。で、そっちへ逃げると、でもそれも実は失敗であったと。これを繰り返すうちに、とうとう最後に、逃げ道がないっていうことが分かるんだね。そこでその――最初からそれを取れば良かったんだけど、その最も自分のエゴが嫌がる正解の道を、最後に取らざるを得なくなる。
 でもね、今言ったパターンは、これね、聞いてて分かると思うけど、時間かかるでしょ? だから一番いいのは、最初から覚悟決めることなんです。実は分かってるから。これだなって分かってるから。まさにこのナーローのように。つまり、ナーローはこの時点で、言われたときに、つまりティローは何気なく言っただけだったんだけど、「わたしに弟子がいたら飛び降りただろうな」――ここで直感的に、「あっ、おれに言ってるんだな」って分かった。でも、一応言葉面だけとったら、弟子がいたらっていう仮定であると。「飛び降りただろうな」ってなんか感想……(笑)。だからおれへの指示じゃないのかもなっていうふうに考えたくなるわけだね。だって飛び降りるのは誰だって嫌だから。だからそっちの方の希望的観測に逃げたくなるわけだけど、でもナーローはもうそんなのは超えていたわけですね。そんなのものは、妥協しないと。常にグルへの誠実な想いを取り続けると。で、そこでパッとこう飛び降りたと。
 これは前にも言ったけど、「あるヨギの自叙伝」に書いてある、ババジとババジを訪ねてきた弟子の話も同じような話があるよね。ババジっていうのはヒマーラヤに――今も住んでいるかどうかは知らないけど、ヒマーラヤに住んでいて、で、少数の弟子と共にヒマーラヤをあっちこっち行ったり来たりしてると。で、ヒマーラヤ山中を歩いて旅するときもあるけども、大抵はテレポーテーションするっていうんだね。ある所にいて、パッと消えて別のところに現われたりとかするっていう話があって。で、ある男がヒマーラヤ中を探してついにババジを見つけたっていうんだね(笑)。見つけた時点で「すげえ!」って思うんだけど(笑)、見つけたと。で、見つけて、自分の思いをすごくババジにバーッと言うわけだね。「わたしはもう本当にあなたなしでは生きていけません」と。「ずーっと探してきました」と。「どうか弟子入りさせて、あなたの弟子の一行のお仲間にわたしも入れてください!」ってこう懇願するわけだけど、ババジは冷たく、「お前の今の状態では、弟子入りさせることはできない」って言うんだね。で、そこでその男は、「もうわたしはあなたの弟子になれなければ、もう生きていくことはできません!」って言うんだね。そこでババジは冷たく、「じゃあここから飛び降りなさい」って言うんです。そしたらその男は、まさにナーローと同じように、全く躊躇せずに、それを命令と考えて飛び降りたんだね。そしてババジは飛び降りた後に弟子に命じてね、彼の死体を拾ってきなさいと。その弟子が崖の下に行ったら、もう完全に体がばらばらになった肉片があったわけだけど、その肉片を持ってきて、ババジがそれを神秘的な力で甦らせて、で、その男は肉体ではなくて、新たな精神的なっていうかな、霊的な体で甦ったわけだけど。それに対してババジが「さあ、これでお前は弟子になれる」と。つまり「お前のあのけがれた肉体の状態では弟子入りできなかった」と。これもだから、彼のものすごい決意と、それからこだわりのなさっていうかな、その誠実さを表わしてる。
 はい。ただこれはさ――なんて言うかな――ここにいる人たちはいろんな人がいるだろうし、あるいはこれは後々にこの話も本になったりすると思うので一応言っとくけども、全員がこういう道を行けというわけではない。これはあくまでも密教の道だからね。密教の中でも、特に最も崇高なというかな、最も難しい道の一つですね。だからそれは、その道をわれわれも歩むんだって思う人は、当然これを自分の目標としてね、ナーローのようになることを目標にしてもいいし。で、そう考えない人は、一つの修行のタイプというかスタイルというか、やり方なんだぐらいに考えていてもいいと思います。



◎隠されたスイッチ

 はい。とにかくナーローは、一見よくわけが分からないこのティローの指示に、ある意味盲目的に、何も考えずに従い、そして体が打ち付けられ瀕死の重傷を負うわけだけども、ティローによって癒され、そこで教えを説かれる。これはこの後も全部同じパターンなんですけど――ティローがまず、ある何気ない指示をして、その指示にナーローが従い、それによってひどい目に遭うと。ひどい目に遭って、ティローがそれを治して、で、そこで教えを与えるんだね。これがこのティローの流儀の、このマハームドラーの伝授の仕方なんです。
 どういうことかっていうと、ちょっとこれも説明しづらいんだけども――つまり現象を使って、現象によってあるショックを与えます。あるその人のカルマを浄化するような、あるいは心のある部分を破壊するような――つまり爆弾をバーンと仕掛けて、ある部分を破壊したあとに、やっとそこで教えを与えるんだね。なぜかというと、その爆弾によって穴を開けないと教えが入らないからなんです。ストレートに言うとね。だからその仕組みがこの高度なマハームドラーの師と弟子の間ではなされるんだね。
 で、だからその一つ一つの出来事っていうのは、まさにこのティローとナーローの間でのみ通用したものであって、別の師弟関係では全然通用しません。別の仕掛けが必要になる。だからこれをね、馬鹿な人がただこれだけ読んで、真似しても全然駄目だよ。例えば「じゃあおれもナーローみたいになろう」って言って、高い所に登って、パーッて飛び降りても(笑)、それは悟れないよ(笑)。じゃなくて、全然違うような――これは前も言ったけどさ、もう本当にこの世レベルでは全く意味が分からないようなスイッチが、いろんなところに隠されているんです。これはもう全く何だか分からないよ。もうそれは予想を絶する、想像を絶することです。想像を絶するっていうのはつまり、分かりにくいことです、はっきり言うと。われわれこういうの学んじゃってるから、けっこう――これが来たら多分分かりやすいでしょ? 例えばM君とね、屋上に一緒に行って、「M君、おれに弟子がいたら飛び降りるだろうけどな」と(笑)。

(一同笑)

 これ分かりやすいよね。ピーンと来て、「あっ! まるでナーローみたいだ! やった、おれもナーローみたいになれる!」(笑)。

(一同笑)

 これ分かりやすいよね(笑)。分かりやすい。でも、もっと分かりにくいんです。「えっ、何でそんなこと言うの?」とか「何でそんなことしなきゃいけないの?」とか。あるいはそれが修行だとか指示だとか、もうよく分からないような状況で、仕掛けが来るんです。だからこれは非常に分かりづらい。それはだから、分かりづらいからちょっと例も挙げられないんだけど(笑)。
 そうですね、例えば……とにかくその具体的な例は別にして、例えばみなさんが一見、それが悟りとは何も関係ないんじゃない? それはちょっとわたしにとって苦しいことだけども、全然かっこよくないし、悟りとも関係がないし、あるいはそれは自分はやりたくないことであるというようなことが、神の指示あるいは師の指示としてやってくる場合もある。で、それを例えば師の意思であると、あるいは神の意思であると受け取って、それを乗り越えたときに、みなさんの中で何か――それは霊的に、物理的に、そして精神的に壊れるものがあるんです。で、そこで初めて、適用できる教えがあるんです。
 これは映画の「マトリックス」の世界にとても近いんだね。マトリックスの世界に近いっていうのはどういうことかっていうと、つまりわれわれの世界っていうのはいわゆる幻影だってよく言うわけだけど、つまりコンピュータのプログラムのような世界にわれわれは生きているわけだね。まさにあのマトリックスの映画みたいに。で、このプログラム――幻影ではあるけども、一応の法則性に則ってこの世界はできてる。で、その中に、その幻影を少しずつ解いていくキーがいろいろ隠されてるんです。それが――ちょっとわたしもマトリックスの映画とか忘れちゃったけど、例えばあのマトリックスの映画の中でね、マトリックスといわれる仮想空間から現実に戻るための、何かスイッチだったり、例えば薬を飲んだりとか、あるいは繋がる電話があったりとか、何かいろいろ隠されているわけだね。で、そういうのがこの世界にもあるって考えてください。
 で、それは予想だにしないところにあります。予想だにしないところって例えば――そうだな、例えばM君が、M君は今坊主だけど、例えばM君が髪が長いとしてね、まあ前長かったわけだけど、それに執着してたとするよ。「おれはこの髪、けっこう似合う」とか思ってたとするよ(笑)。で、そこでわたしが何気なくね、「夏だからそろそろ坊主にでもしたら?」って言ったとするよ。それが実は仕掛けかもしれない。で、そこでM君は「あっ、先生が言ったからしようかな」とも思うけども、でも自分のかっこよさに執着していた場合ね、「いや、夏だから剃るって、それは合理的じゃないんじゃないですか?」とか言って(笑)。あるいは「無料体験の人が坊主だとビックリするんじゃないですか」とかいろいろ理屈をつけて(笑)、それを回避しようとする。でもそれは、その時点ではさ、それに例えばわたしが何気なく「坊主にしたら?」って言って、それをしなかったとしても、別にそれはたいした問題ではないと思うよね。でも実は、坊主にすることでM君の悟りのスイッチがカチャッと入る場合があるんです(笑)。これは一例ですよ。うん。一例だけど、それによってカチャッと入る場合があります。つまりいろんなところにそのスイッチが隠されている。で、それはもちろん、分かりやすくいうと、実は説明もできるんです。なぜそれが必要なのか。でもそれは、つじつま合わせなんだけどね。つじつま合わせであって、本当は実は、もうちょっと――何て言ったらいいかね――論理を超えたものなんだね。ちょっと不思議な話なんだけどね。論理を超えてるんですけど、でも実は論理で説明できるんです。つまり何を言いたいかっていうと、その説明できる論理っていうのは実は、こじつけなんです。本当は論理を超えてるんだね。うん。でもその論理を超えたものっていうのはわれわれは受け入れ難いんだね。「何でそうなるんですか?」ってなるじゃないですか。だから一応は説明できるようにはなっている。だからこのナーローに対するティローの仕掛けも、説明できると思います。もし哲学的に説明しようとしたら。でもそれは実は要らないんだね。だからあんまり深い説明は突っ込まれていないっていうか。ちょっと難しい話だね、やっぱりね。
 はい。で、ここではまず、最初の段階なので、ナーローは試練を与えられたあとに、基本的な教えをね、いろいろ教わりましたと。
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「心の本性と、瞑想の修習」①

2013-12-21 18:20:00 | 安らぎを見つけるための三部作・1「心」


第11章 心の本性と、瞑想の修習





 このようにしてあなたが、すべてが平等であるということを理解したとき、
 それはあなたが根源的な境地に安住するための絶対的な原理になるでしょう。


 ここにおいて、智性のキャパシティーが段階をおって拡大していくプロセスの説明が必要になります。



 ――高度で智性的な観察力を持った人は、
 根源的な領域の直接的経験を通じて、解放されるでしょう。

 そこに教化する主体も、教化される客体も存在しないことを理解したとき、
 顕現と根源の二元性から解放された心の本性は、もう探索される必要はありません。

 ――そして、あらゆるバイアスから解放された純粋な意識、
 それは、清らかな川の流れのようです。


 すべてのものが本質的に解放されているサマンタバドラの浄土は
 時間化されておらず、
 「これはそれ」という認識にとらわれておらず、
 特徴、大きさを持たず、
 しかし、広大な場所に自ら存在しています。

 それは無始の過去から存在していて、
 そのままの、その範疇にとどまり続けるでしょう。

 そこには、迷妄も、迷妄に至らせる場所もなく、
 努力する必要もなく、何かの興味に巻き込まれることもないでしょう。

 かつて、高度な智性的観察力を持った人は、
 達成も、達成していないことも存在しないと、観察されたのです。

 彼は、このステージに至るために長い時間は必要なく、
 今、この瞬間に、完全なるブッダになるでしょう。

 このステージは、広大で、空のようにすべてを包含しています。




 劣った人々、智性の低い人々は、
 このステージに至るために、努力をしなければなりません。

 彼らは、自分は完全に寂静に至ったと確信できるまで、
 さまざまな瞑想のメソッドを修めなくてはなりません。


 特に、輪廻という架空の存在へと導かれる悪しき観念
 これから自由になるために、メソッドとして精神集中の修行が伝授されます。

 それによって、心は極端な執着から解放され、
 智力のキャパシティを広げる識別智が生じるでしょう。


 寂止によって、悪しき感情は粉砕され、
 正観によって、跡かたもなく根絶されるでしょう。


 もともと、高度な智性的観察力を持った人にとっては、
 悪しき観念は溶けて、そのまま法身になるのです。

 ――もし、善も悪も存在しなかったならば、
 悪への対抗策を修める必要もなくなるでしょう。

 心の本性の光明で、すべての二元性が合一し、
 善悪の観念が完全におさまるとき、
 二元を超えた彼の直接的な理解は、空のように広がるでしょう。

 しかし智性が低い人がそれを実際に成し遂げるには、
 まずその前に、寂止の探索によって、あらゆることに直面して、
 心の安定に到達しなければなりません。

 その後、正観をそなえた個々の内観の修習によって、
 外側と内側、顕現と心は、絶対的自由を経験させられるでしょう。

 そこに至るためのモチベーションを高めるために、
 まず、智性のキャパシティーの段階的進化を知ることが必須となるでしょう。
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バクティヨーガ・トワイライト ミニCM

2013-12-10 10:19:55 | お知らせ
「バクティヨーガフェスタIN横浜 バクティヨーガ・トワイライト」のミニCMができました!

イベントの詳細はHPをご覧ください。
http://www.bhaktiyoga-festa.com/
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新曲「チャイタニヤ・チャイタニヤ」

2013-12-08 10:13:21 | お知らせ




「チャイタニヤ・チャイタニヤ」


 この曲は数か月前に、チャイタニヤの誕生日を祝う祭典のために作った曲です。
 その日一日だけのために作ったということもあって、特に正式には発表せず、また、編集も完全には完成していない状態のまま、数か月が過ぎていました。

 しかしたまに聞くととても良い曲で、人気も高いので、まだ編集は未完成状態ですが、アップしてみました。よかったらお聞きください^^


「チャイタニヤ・チャイタニヤ」


作詞 松川慧照
作曲 田中由里

演奏 田中由里
   高橋拓也
   三浦裕幸
   中野ゆうた
歌  松川慧照

録音・編集 高橋拓也



チャイタニヤ チャイタニヤ
チャイタニヤ チャイタニヤ
チャイタニヤ チャイタニヤ マハープラブ
聖なる世界をつくりしお方よ
チャイタニヤ チャイタニヤ マハープラブ

クリシュナ クリシュナ
クリシュナ クリシュナ
クリシュナ クリシュナ マハープラブ
神への愛に狂いしお方よ
チャイタニヤ チャイタニヤ マハープラブ


チャイタニヤ チャイタニヤ
チャイタニヤ チャイタニヤ
チャイタニヤ チャイタニヤ マハープラブ
聖者社会のみんなのあこがれ
チャイタニヤ チャイタニヤ マハープラブ

クリシュナ クリシュナ
クリシュナ クリシュナ
クリシュナ クリシュナ マハープラブ
神への愛に狂いしお方よ
チャイタニヤ チャイタニヤ マハープラブ


ゴーランガ ゴーランガ
ゴーランガ ゴーランガ
ゴーランガ ゴーランガ マハープラブ
全部忘れて 神に没入
ゴーランガ ゴーランガ マハープラブ

ラーデークリシュナ
ラーマ クリシュナ
クリシュナ クリシュナ マハープラブ
神の喜び 愛の歓喜よ
チャイタニヤ チャイタニヤ マハープラブ マハープラブ マハープラブ



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清らかなる聖なるハリを瞑想せよ

2013-12-05 10:32:10 | 経典の言葉・聖者の言葉


 おお、我が心よ、
 清らかなる聖なるハリを瞑想せよ、
 けがれなき者、あくまで純粋な魂を。
 彼の光、比べるものなく
 その姿、いと麗しく
 信者の胸を喜ばす。

 新しき この無上の愛に
 百万の月も色あせる。
 ああ、かの光、稲妻とひらめき
 身も心も 震えおののく。

 かの君の 蓮華の御足を
 我が胸に しかと抱きぬ
 安らけく 愛のまなざし
 懐かしく 優しきものよ

 神の甘露の水に
 信愛の衣まといて
 いざ浸れ
 永遠の喜び
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