ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

心の本性

2013-10-26 08:39:31 | 松川先生のお話


存在でも非存在でもない心の本性は、
あらゆる良し悪しから自由であり、
受容と拒絶から自由である。

受容と拒絶を欠いた心の本性は、
自然なる解放としてあらゆるものを認める。

この無気力でも興奮でもない心の本性は、大いなる平等の叡智である。

この恐れを知らない心の本性は、希望と恐怖から自由である。
それは、原初の平等の確信にとどまる叡智である。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第65話」

2013-10-25 12:47:32 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第65話」です。
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勇者の謙虚さ

2013-10-22 19:08:04 | 経典の言葉・聖者の言葉


 勇者は謙虚なので、その想念が有害な傲慢さにふくれあがることがない。謙虚さは卑屈になる事ではない。謙虚さとは嘘偽りのない純粋な気持ちになる事だ。だから勇者は内面の安らかさを感じており、自分を確認するための外側の基準点を必要としない。
 温和さの根底には輝きも存在していて、穏やかでありながらしかも光り輝いている。勇者の気づきは周囲に輝きを放っている。彼は身の回りのすべてのものに深い関心を寄せ、限りない好奇心を抱いている。それらを自分の存在を確認するための基準点としてでなく、自然からのメッセージとして見るようになる。


 ――チョギャム・トゥルンパ

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今日のAMRITAチャンネル「アニメ・リトルクリシュナ 第九話」

2013-10-21 19:10:17 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ・リトルクリシュナ 第9話」です。
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あらゆる問題は

2013-10-20 19:52:54 | 経典の言葉・聖者の言葉
 

 あらゆる問題はただ一つ、エゴのせいである。
 それを払いのけなさい。

     チェカワ
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もし

2013-10-20 11:24:53 | 経典の言葉・聖者の言葉
 
 もしわずかな人々が一致団結するなら、彼らは世界の思想の流れを変えることができるのだ。
 多くの人々を集めて世間を騒がせても、何も得られない。
 だが、もし心と信仰を持った人――熱心で、勇敢で、恐れなき信者――がほんの一握りでもいるのならば、あなたの仕事はうまく進んでいくだろう。
 あなた方それぞれが、正しきこと、仕事、そして慈善の英雄となりますように。
 神の御名を唱えることを大いに喜びなさい。
 心を憂鬱に屈させてはならない、あるいは信仰を欠如させてはならない。
 目覚めなさい。そして行動し、あなたの心と知性のすべてをもって主に奉仕しなさい。
 うぬぼれをあなたの心に入り込ませないようにしなさい。



     プレーマーナンダ
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どうして

2013-10-20 11:12:52 | 経典の言葉・聖者の言葉
どうして私が怒ったりしよう。怒りは、自分の期待が裏切られたときに生ずるものだ。私は人に何も求めていない。だから人がどんな行動を取ろうと、裏切られることもない。お前に対しても、私は自分のために利用しようと思ったことはない。お前の幸福が、そのまま私の幸福だ。


   ――シュリー・ユクテーシュワラ
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今朝の聖なる言葉

2013-10-20 07:12:02 | 経典の言葉・聖者の言葉
神の無限の慈悲に対して、一瞬たりとも疑ってはなりません。


 ――ナーグ・マハーシャヤ

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今日のAMRITAチャンネル「賛歌・イメージビデオ」

2013-10-18 07:58:21 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「賛歌・イメージビデオ」です。



曲目

1.クリシュナの家へ向かいゆかん
2.深く潜れ、おお心よ
3.我が師(日本語版)
4.放棄の翼
5.ハヌマーンチャリサ
6.ジャヤシーターラーム
7.バクティヨーガの歌
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どんな

2013-10-18 07:53:23 | 経典の言葉・聖者の言葉
どんなわずかな功徳も、師によってもたらされます。あなた方は師を生身の人間だと考えているために、成就のしるしが生じないのです。

 ――アティーシャ
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愛は

2013-10-15 19:56:30 | 経典の言葉・聖者の言葉
 愛は決して見捨てない。
 愛は決して妬まない。
 愛は耐え続ける。
 愛は優しい。
 愛はうぬぼれない。
 愛は地上における最も偉大な力である。
 愛は常に与える。
 愛は決して交渉しない。


――スワミ・シヴァーナンダ

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誰かが

2013-10-15 19:24:33 | 経典の言葉・聖者の言葉




誰かが君の意見に賛成しているかいないかを気にかけるな。
君の主張を説明するだけのために不必要に言い争うな。
神聖な雰囲気が台無しになる。
人々には好きなようにさせておけ。
君は、君自身の理想にしたがって生きればよい。


――スワーミー・アドブターナンダ

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勉強会より 「聖者の生涯 ナーロー」⑥(2)

2013-10-15 11:03:22 | 勉強会より抜粋


◎決意、熱意、覚悟、求道心

【本文】

 ここに来てナーローは、今生はもう自分はティローに会うことはできないのではないかという絶望に陥り、それならば死んだ方がましだと、自殺することを決意しました。そして刃物をとり、自らの喉をかき切ろうとしたとき――色黒で、目が血走った男が現われました。彼こそがグル・ティローでした。ナーローは彼にすがり、なぜ今まで、姿を現してくださらなかったのか、と言いました。ティローパは答えました。

「お前がグロテスクな病気の女に出会ったときから、我々は離れ離れになったことはない。お前が経験したさまざまなヴィジョンは、お前の邪悪なカルマの現われである。だからお前は私を認識できなかったのだ。」

 こうしてティローは、ナーローを正式に弟子として受け入れたのでした。



 これもね、何度か話してる話ですけどね、もうさまざまな試練、その中で失敗を重ね、本当にティローになかなか会えなかったナーローは、もう自分は不可能ではないかと、自分の知性とか自分のカルマでは今生、自分に真の悟りを明かしてくれるグル・ティローに会うことは不可能ではないかという絶望に陥った。そこで、自殺を決意した。ここでみなさんは、「え? そこまでしなくてもいいんじゃない?」って考えるかもしれない。でも逆に言うと、それだけ真剣なんです。つまり「それならばもうわたしには死しかない」ぐらいの、つまりもうそれしかナーローにとっては生きる意味がないっていうかな。つまり、真の悟りにわたしを導いてくれるグルと出会えないのならば、わたしには何の生きる意味合いもない、ぐらいの真剣さがある。
 現代的なちょっと合理的な頭を持った人は、ここまで真剣になれない。そうでしょ? 例えば「ちょっと無理かな。見つからないか」と。「じゃあまた大学戻ろうか」とか(笑)、そういう軽い感じだと思うんだね。もちろんさ、修行以外のことははっきり言うと、どうでもいいっちゃあどうでもいいんだけど、修行以外の一般的なことでもそうでしょ? 例えばスポーツ選手になりたいとか、この道を成功したいと思って、でもなれなかったらやっぱり諦めたり、他の道を探したりする。それはまあ一般的なのはそれでもいいんだけども、そういうなんていうかな、ちょっと覚悟の足りなさっていうか、決意の弱さみたいなのがやっぱり――まあわたしも自分のこと振り返って反省点だけども――そういう決意の弱さっていうのが現代人にはやっぱりあると思うね。それは、現代人というか現代日本人というかな。ちょっとわたしがこんなこと言うと「お前誰なんだ」って感じになるけど(笑)、現代人はちょっと軟弱だよね(笑)。

(一同笑)

 お前は何なんだっていわれそうだけど(笑)――わたしよくここで「現代人は……」とか言うけど(笑)、お前は現代人じゃないのかっていう気が自分でするときあるんだけど(笑)――でもまあ、自分のことを棚にあげて言うと、現代人は軟弱かなっていう気がする。それは小さい頃からの育てられ方や、あるいはいろんなね、漫画とかテレビとかの情報とかも含めて、ちょっと覚悟が足りない生き方をしているっていうか。
 人によると思いますよ。小さい頃から非常に厳しい環境で生きてきて、本当に強い覚悟や決意を持って生きてきたっていう人もいるかもしれない。それは逆に言うと、とても幸せな人だね。そういう強い心を持てたっていうのはね。でも多くの人は、そうじゃない。逆にいうと、生ぬるく生きることができる環境――それは言ってみれば、いつも言うように、ちょっと天界のカルマがあるんだけど。天界のカルマによってちょっとこう自分の、ある程度の徳の現われに溺れてしまっているっていうか。だから現代人がとても必要なのは、決意とか覚悟というのはあると思うね。
 これはナーローだけではなくて、例えばミラレーパとかもそうだし、あとお釈迦様の弟子でもそういう人がいたわけだけど。悟れないが故に自殺しようとする人とかね。そういうやっぱり強い思いね。ラーマクリシュナもそうだね。ラーマクリシュナも母なるカーリーをなかなか悟れなかったので、「もう生きてる意味はない」って言って最後に自殺しようとしたら、カーリーが現われたっていう逸話があるね。それはもちろんパフォーマンスではない。パフォーマンスとしてやるんではなくて、本当に心からの思い――逆に言うと、自殺しようとしたから、そろそろグルが「そろそろ現われてやるか」っていうんじゃないんですよ。つまりそれくらい、「もう私には死かグルか、それぐらいなんだ」っていう気持ちに、本当の意味で求道心が高まったときに、やっとグルが現われることができる環境が整うっていうかね。そういうことだね。だからそういう意味ではここで大事なのは、決意、そして強烈な求道心だね。
 何度かこの話はしてるけどね。ラーマクリシュナの言葉を借りるならば――ラーマクリシュナは熱意って言葉を使ってるけど――もっともまず大事なのは、熱意であると。熱意っていうのはつまり、ラーマクリシュナの言い方で言うと、神への熱意だね。わたしは神とお会いしたいという熱意。これが大事だと。で、この熱意は、暁の空のようなものだと。つまり、暁がくればもう太陽が出るのは決まったようなものであると。つまりその人に強烈な熱意が備わったならば、神と会えるのはもう完全に決まっていると。だから求道心、熱意、決意ね。
 あるいはお釈迦様は欲如意足という言葉を使ってますけど、欲如意足っていうのは、欲っていうのはいい意味での欲ね。強い欲求。悟りとか自分の修行を進めることに対する、すごい欲求ね。これが実はものすごく大事なんですね。






◎種明かし

 はい。で、ナーローが死を考えるほどまでに心が高まって、で、ティローが現われたと。ここでついにティローが種明かしをするわけですね。これは前から言ってきたことですけども、「グロテスクな病気の女」、つまりこれはナーローが旅をし始めて、最初に出会ったヴィジョンね。これが「グロテスクな病気の女」だったんだけど。そのときからわたしは、実はお前と離れていなんですよと。つまり、お前の心のけがれがゆえにわたしを認識できなかったと。これはみなさんピンと来るよね。アサンガとマイトレーヤの話に似てるね。これはちょっと話長くなるから今言わないけど、この「聖者の生涯」の前の方でやった、アサンガがマイトレーヤ・弥勒菩薩を瞑想してたけど、全然現われなくて、でも最後に現われたわけだけど。でもそれは、実際はずっと弥勒菩薩はそばにいてね、しかしアサンガの目が曇っていたがためにそれを認識できなかったと。
 で、これは細かい話もいっぱいあって、「嘘だと思うなら」ってマイトレーヤが言ってね、「ほらっ」て言ってマイトレーヤが着てた服を見せたんだね。そうしたらそこに唾がいっぱい付いてたんだって。「お前がおれを認識しないで唾ばっか吐くから、痰とか溜まったときに唾吐くから、全部ここにかかってる」って(笑)。「お前なんでおれが見えなかったんだ!」っていうことをマイトレーヤが言ったって話もあるんだけど(笑)。

(一同笑)

 すごく面白いよね。まあそれは別として、そういう感じでこのグル・ティローも、実はずっとそばにいたわけだけど――言ってみれば、これはグル・ティローの仕掛けと言ってもいい。ナーローのカルマをもうちょっと浄化するために、あるいは自分の悪業を認識させ、そこから脱却させるために、さまざまな幻を見せて、それにはまり続けたっていうかな、ナーローは。で、それを全部乗り越えて浄化され、かつ自分の熱意が高まり――ちょっと細かいことはずーっと前回まで言ってきたので、大雑把に言うと、一つのナーローが持っていた大いなる引っ掛かりは、恐らくプライドだと思います。プライド。つまり、このダーキニーが現われるまでは、はっきり言うとナーローっていうのは――小さい頃からナーローは仏教に親しんで勉強して修行して、で、ある意味頂点に登りつめたんです。インド仏教界の頂点。もう瞑想においても学問においてもナーローにかなうものはいないっていわれるぐらいに、頂点に登りつめた。でもそこでダーキニーの示唆によって、それをあっさりと捨てて旅に出るわけだけど、しかしあっさり捨てたとはいえ、やっぱり残っているんだね。それはなんていうかな、あっさり捨てるっていうのはさ、例えばT君とかもよくいろんなものあっさり捨てるけど(笑)、結構簡単なんです、あっさり捨てるのは。表面上あっさり捨てるのはね。例えばみんなも、多分できるかもしれないよ。例えばH君が、東大のインド哲学の中村元さんみたいなね、最高の教授として、もう仏教学においては日本ではH君以上の者はいないとかいわれる者になったとするよ。その段階で例えば、「真の悟りを得るにはその座を捨てなさい」と言われたとして、ちょっと悩むかもしれないけど、でも多分捨てられると思うんです。「分かりました。捨てます」と。何でかっていうと、かっこいいから(笑)。ね。かっこいいじゃん、その方が(笑)。「えっ!? あんな地位捨てたんだ」と。かっこいいし、まあいろんな失うものはあるけども――それはちょうどね、川に飛び込むようなものだから。エイッと。例えばこの後も出てくるけど、崖から飛び降りろって例えばグルに言われたら、もちろん飛び込めない人が多いと思うけども、でも一部の、結構何割かの人は多分飛び込めると思います。もしね、自分の師匠に飛び込めって言われたら。何でかっていうと、一瞬だから。一瞬思い切ればいいから。一瞬思い切れば、エイッていけるわけです。それは学長の座を捨てるのも同じね。もちろんそれは素晴らしいことだけども、でもまあ一瞬なんだね。
 でもナーローが恐らく培ってしまった、徳があるがゆえの、智慧があるがゆえの要らぬプライドであるとか。あるいは自分の概念的理解に対する執着とか。あるいは教えに対する執着とか、そういう最後の最後のカスみたいなのは、いっぱいまだあったわけだね。だから恐らくそういったものをティローがね、本格的に弟子入りさせる前に、そういったいろんな幻影を見せてね、落としていったんじゃないかと思います。
 はい。で、ここでついにティローが正式にナーローを弟子として受け入れて、また今度は、弟子として受け入れてからの試練が始まるわけだね。
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2013-10-15 10:20:55 | 松川先生のお話
愛とはとらわれなきいつくしみ。

愛だけがすべてを溶かし、
愛だけが壁をぶち壊し、
愛だけが眼を開かせ、
愛だけが悟りを招き、
愛だけが真理を明かし、
愛だけが悪魔を去らせ、
愛だけが神の微笑を呼び、
愛だけが人々の恩に報い、
愛だけが敵に打ち勝ち、
愛だけが怒りを癒し、
愛だけが智慧を磨き、
愛だけが悩みを払い、
愛だけが苦痛を溶かし、
愛だけが神と自己を悟らせる。

こんな素晴らしいものを、なぜその手にとらないんだい?
 
きっとそれには、自己の放棄が必要だからだね。

でも保障しよう。
その放棄したものに比べ物にならないほどの恵みを、
愛は与えてくれるだろう。
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勉強会より 「聖者の生涯 ナーロー」⑥(1)

2013-10-15 09:11:48 | 勉強会より抜粋

20100519 聖者の生涯 ナーロー⑥


◎桁違いの大聖者


 はい。今日はまたナーローの続きね。
 ナーローっていうのは一般的によくナーローパとして知られていますけども――「パ」っていうのはチベット式の言い方なので、実際は「ナーロー」といわれますね。
 で、このナーローに関しては、前から言ってるけども、相当レベルの高い話です、これはね。っていうのは――人によって見方は違うのかもしれないけど――インド、チベットにはいろんな聖者がいるよね。それはみなさんもいろんな聖者の名前を知っているでしょう。で、実際あまり仏教とかヨーガの世界っていうのは、ランキングとかしないからね(笑)。――西洋の人たちっていうのはランキングが好きで、よく変な西洋の神秘思想家が書いた適当な本とか読むと、「お釈迦様何点」とかこう書いてあって(笑)、「第何位。知性何位」とか適当なこと書いてる(笑)、自称チャネラーみたいな人が結構いるけども、もともとチベットとかインドってあんまりそういうランキングはしないので、いろんなね、聖者が並列で扱われるわけだけど、実際にはもちろんレベルの違いっていうのはかなりあると思う。
 で、まあこれはわたし個人の見解としては、やはりこのナーローっていうのは相当ちょっと桁違いの――例えばチベット系でいうとパドマサンバヴァとかと同じようにね、桁違いの聖者、大聖者なんだろうなっていう感じがするね。で、このね、ナーローっていうのはカギュー派といわれるチベットの流れの教祖的な存在なわけだけど、このナーローの次にマルパ、そしてミラレーパ、そしてガンポパと続くわけです。それは今後の「聖者の生涯」シリーズでやりますけども。これはこれから学べば分かると思いますが、ナーロー、そしてマルパ、ミラレーパ、ガンポパ――大体ね、ミラレーパあたりからわれわれがかなり共感する話になってきます。つまり、まだわれわれにも想像できる範囲の話になってくるわけだけど。そういう意味ではこのナーローっていうのは、ちょっとこうわれわれの想像や経験を遥かに超えた世界なので、一見ただこれだけ読むとわけが分からない世界になってきます。ただいつも言うように、その中からでもそのエッセンス的な部分は、今のわれわれにも役に立つところは多々あるので、そういう部分をね、学んでいけたらいいなと思います。はい。
 で、前回までの一応簡単なことをいうと、インド一の大学者として、つまりインド一の仏教大学の長として君臨した――つまりインドにおいては、彼と仏教学において並ぶ者はないとまでいわれたナーローパが、ダーキニー――つまり修行者を助ける女神が変身したおばあさんの忠告によって、そのすべての地位と名誉を捨てて、本当の悟りを自分に与えてくれるグル・ティローパを探しに旅に出るわけですね。で、その中で――実際その正体を言うと、全部グル・ティローなんだけども――ティローが現わしたいろんな幻に引っかかって、で、さまざまな試練を経験しながら、全く真のティローを見つけ出すことができずに旅を続けてきた――というのが前回までですね。で、今回やるところから、ついにティローとの遭遇のところに入っていきます。



◎純粋で揺るぎなき信

【本文】

 ナーローは落胆し、再び旅を続けました。
 広々とした草原に来たとき、彼が出会ったのは、たくさんの片目の人たち、目の見える盲目の人、耳の聞こえる耳のない人、言葉をしゃべる舌のない人、走り回るびっこの人、そして自分自身を優しくなでる死体でした。ナーローが彼らに、ティローを見なかったかと尋ねると、彼らはこう言いました。

「その人にしろ、どんな人も見たことはないよ。もしあなたが本当にその人に会いたいなら、次のようにすることだ。

 信頼と献身と確信によって
 信念の揺らぎない勇気を持つ弟子は
 ふさわしい器となる。
 精神的な人々の集いの中で
 師の霊性をしっかりとつかんで離してはいけない。
 観点には直感的理解のかみそりを用いよ。
 注意の方法には、至福と光輝の馬に乗れ。
 行為の方針としては、二分制の束縛から解放されよ。
 そうすれば、
 片目であるとは、大衆の資質のことであり、
 目が見えないとは、ものを見ることなくして見ることであり、
 耳が聞こえないとは、ものを聞くことなくして聞くことであり、
 口がきけないとは、何かをしゃべることなくして語ることであり、
 片足が不自由とは、急がずして動くことであり、
 死神の不可動性とは、無為なるものの微風(扇子であおられた風のような)
 であることを理解する
 内なる光の太陽が輝く。」

 このようにマハームドラーのシンボルが示されて、その後、すべてが消えました。




 これを見ても分かるように――分かるようにっていうか(笑)、わけ分かんないでしょ(笑)。ね。わけ分かんなさがよく分かったと思います(笑)。ただまあ一応ね、基本的なところだけを言うと、この詞章のところをまず見ると、

 信頼と献身と確信によって
 信念の揺らぎない勇気を持つ弟子は
 ふさわしい器となる。
 精神的な人々の集いの中で
 師の霊性をしっかりとつかんで離してはいけない。

 これは基本的なところですね。信頼――つまり師に対する信頼と献身ね。そして確信を持ち、揺ぎない信念ね、揺るぎない勇気を持つ者こそが、この密教の道あるいはマハームドラーの道にふさわしい器なんだと。つまり疑いを持っている弟子、あるいは――よく最近ではいるわけだけど、「わたしは修行はしたいけども、仏陀を信じるとか、師を信じるとかそういう気持ちはありません」と。そういう人にはもう、入れない道なんだってことだね、ここはね。まず「信」――純粋で揺るぎのない「信」というのが第一の必要要素になります。




◎見解・瞑想・行為

 はい、そして次に「観点には云々」って書いてあるけども、ここはね、ちょっと翻訳があんまりこれはよくなくて、実際これは――こういう密教系の本よく読んでたり、あと翻訳したりする人は分かると思うけど――これは定型的な言葉としてよく「見解・瞑想・行為」っていう言葉があるんですね。チベット仏教とかインド密教で使われる、「見解・瞑想・行為」。それは言葉通りなんですけど、まず「見解」――世の中を、世界をどう見るかっていう見解の問題。そして「瞑想」ね。どういう瞑想するのか。で、「行為」というのは、この現世における日常の行動においてどうするのかっていう問題ね。これを「見解・瞑想・行為」といいます。で、それがいろんな修行体系によって――例えばゾクチェンにおいては見解とはこうであり、瞑想はこうであり、行為はこうである、とかね。マハームドラーにおいてはとか、あるいはパドマサンバヴァの教えでは、とかね。そういうふうに説明されるわけだね。その部分だと考えてください。
 で、まずだからこの「観点」というのは「見解」。つまり、まずこの世界をどう見るのかという部分に関して、直感的理解のかみそりを用いよって書いてある。ね。これは「あなたは直感でいいですよ」って言ってるわけではありません(笑)。あのさ――そうだね、これは実際ちょっと字が正しくないかもしれない。ここで直感って書いてあるのは、「直」に感覚の「感」で直感って書いてあるけど、どっちかというと、「直」に「観る」と書くほうの「直観」の方がいいかもしれない。これは実際のところを言うと、われわれが本当の意味で修行を進めて出てくる、言葉とか教えとか概念を超えた、直接認識的な智慧だと考えたらいいですね。逆に言うと、それがもしないとしたら、出てこないとしたら、まず修行が足りないので、まずはそれをしっかりと進めなきゃいけない。
 で、それは、かみそりって書いてあるけど、つまりまさにこれはかみそりのように切れ味が鋭い。スパッとした感じでわれわれに物の見方を教えてくれます。ただ実際にはそれは、もし仮にみなさんが一生懸命修行して、それを一度二度と経験できたとしても、すぐに消えます。すぐに消えるっていうのは、ちょうど水の上に書いた線のように、すぐに消えます。で、その瞬間はありありとした直観的理解がある。でもそれは実際には、しっかりとその境地に入り続け、それを自分の見解にしなきゃいけないんだね。
 で、注意の方法には――これはだから注意というよりは瞑想と言ったほうがいいかもしれない。「瞑想の方法には、至福と光輝の馬に乗り」と。これも実際にはそのためにいろんな修行をやらなきゃいけないわけだけど、つまり至福――つまりエクスタシーを伴う瞑想の道ね。そして光を伴う瞑想の道があります。それによって修行を進めていくんですね。実際にはこれにもう一つ加わって、無分別――この至福と光と無分別。これがオーソドックスな瞑想――密教とかでね、瞑想を進めていく道ですね。ここではだから無分別がちょっとこう省かれているというか、実際にはそれもあるわけだけど、一応ね、至福と光輝だけ挙げられているんだと思います。実際には至福と光、そして無分別を高めていくね、強めていく道が、瞑想ですよと。
 これはマハームドラーの修行の勉強会でもよく言っているけども、まずわれわれが良い瞑想に入れているかどうかの基準は、この三つです。つまり、そこに至福感、エクスタシーがあるか。そして、光、輝くような光があるか。それもだから相対的にね、どれくらい――例えば「瞑想で気持ちいいですか?」「いや、別に気持ちよくないです」。あるいは「いや気持ちいいですよ」と。「じゃあどれくらい気持ちいいですか?」と。「なんか本当に清々しい感じです」――じゃなくて、もう本当にのた打ち回るようなエクスタシーの場合もあるし、あるいはその時期が過ぎ去ると、静かなんだけども本当に、ちょっとこの世から意識が外れてしまうような、静かだけども強いエクスタシーとかね。そのエクスタシーの段階がある。あるいは、光もそうですね。ぼんやりとした光。あるいは強いんだけど瞬間的な光。あるいは一方向から差す光。あるいはそうじゃなくて、すべてが光に包まれるとかね。で、その光の強さもいろいろ段階がある。そして無分別というのもそうですね。心が止まった状態。止まったってどういう形で止まっているんですかと。例えば完全に体が固定され、心もバシッと止まるわけだけども、その継続時間とかね。あるいはその意識の鮮明さであるとか、そういったもので段階がある。だからこの三つがバロメーターになるわけだね。
 それは何回か言っているように、その人の修行要素のどこが足りないとかどこが優れているとかあるわけだけど、それによってこの三つが、まあバランスが普通は悪い。例えばある人は、エクスタシーはあるが光がないと。ある人は光があるがエクスタシーがない。あるいはある人は心は止まるが、光もエクスタシーもないとかね。これはそれぞれのバランスがあるわけですね。で、それを全部こう高めていかなきゃいけない。
 で、よく修行の本とか見ると、エクスタシーに捉われてはいけないとか、光が見えても捉われてはいけないとか書いてある。それは確かにそうなんだが――でね、そういうことを言う人もよくいるわけですね。修行によってその歓喜状態が来たり光が見えたりしても、そんなのは意味がないですよって言う人もいるわけだけど、それはその次の段階で言う話なんだね。まずそれも起きてないのに「意味がない」って言ったら、それはただの物知らずであって、実際にはその段階をしっかりと経験しなきゃいけない。経験し高めた上で、それにこだわらず捉われず――それは一つの道ですからね――その道を通ることによって、ゴールに達さなきゃいけない。
 いってみれば、よく言われるように、いかだは道であって、いかだはゴールではない。でもいかだ作らなきゃしょうがないから(笑)。ね。この話知ってるよね。ある人が旅をしていて、川を渡るときにいかだを作る必要があった。そこで一生懸命苦労していかだを作って、いかだに乗ってね、本当にその激流の中を苦労して渡って、なんとかあっち側にたどり着いたと。でね、ゴールはその川を越えてさらに、山を越えたところにゴールがあるんですよ。でもある男はそこで「おれはすごいいかだを作って、このいかだによってこの激流を渡ることができた!」と。それにもう執着してしまって、それから先の山道もいかだを背負って歩いたと。ね(笑)。これは非常にばかばかしいと。で、それに対してお釈迦様とかは、「それはもう終わったんだから、いかだに執着してはいけない」と。「いかだに意味はないんだ」っていう教えを説くわけだね。でも多くの人は、まだ川を渡ってないんです。渡ってないのに、知ったかぶりして、「いかだは意味がない」と言ってる。この場合この人は、どうなりますか?――溺れ死にます(笑)。ね。その状態でもし瞑想世界に入ったら、溺れ死にます。だからその境地、つまり瞑想の境地を深め、瞑想がいらない境地になるまでは、当然そのオーソドックスな瞑想のさまざまな段階っていうのはしっかりと通過していく必要があるんですね。それは細かく言えばいろいろあるわけだけど、大雑把に、大まかにその一つのバロメーターとされるのが、今言った光、そして歓喜、そして無分別というやつですね。
 はい、そして「行為の方針としては、二分制の束縛から解放されよ」。
 はい、行為。つまり日常の行為ね。日常においての心がけること。これはまさに、いつも読んでる『バガヴァッド・ギーター』の「得ることと失うこと、快と不快、称賛と非難などの二元対立を超え」、これがまさにそうですね。つまりわれわれは常にこの二元性の中に生きているわけだけど、この世に生きこの世で活動しながらも、できるだけ二元性に巻き込まれないようにね、生きると。これが行為の一つ方針ですよっていうことだね。はい。ここまでは比較的分かりやすいですね。



◎目の見える盲目の人

 はい。問題は次の部分。これがね、ナーローが経験したことでもあるわけど、つまり草原に来たら、たくさんの片目の人たち――目の見える盲目の人、耳の聞こえる耳のない人云々って書いてあって、それに対応する詩が述べられるわけだけども。これはですね、一言で言うと、説明不可能です(笑)。ただしこれは、そうですね、わたしもある種の深い瞑想に入ったときに、これと似たようなことをネットとかに書いた覚えがあります。つまり、こう表現するしかないような経験があるんだね。あるいは領域があるっていうか。つまりこれはなんていうかな、言葉にしてしまうと、ちょっとレベルが下がってしまうというか、悪い意味でちょっと遠ざかっちゃうんだけど、でもあえて言葉にすると、こういうなんていうかな、矛盾を含んだ――つまり相反する二つの意味を持った言葉でしか表現できないことがあるんだね。例えば「目の見える盲目の人」と。何ですかそれはと(笑)。盲目といった段階で目が見えないはずなのに(笑)、「目の見える盲目」。でもそう言うしかない境地があるんだね。で、これはある程度それを経験した人は分かる。つまり「やっぱり目の見える盲目だよな」っていうその(笑)、「そうだよね」っていう(笑)、分かるんだけど、そうとしか言えないっていうかね。だからなんだっていうことが言えない世界ではあるんだけど。でもこれはだからわれわれが本当に――さっきのT君の質問じゃないけども、過去・現在・未来とか、あるいは輪廻であるとか、がっちりはまったこの幻の世界から、ちょっと頭とか足が外れ始めてきたときに感じることに似ているね。
 ちょっとこうなんていうか、ベースからちょっと外れちゃうんです。ベースから外れるっていうのは――あのね、恐らくここにいるみなさんが思い描いている、例えば修行が進んだときの経験とか、例えば修行が進んだらこうなるんだろうなとか、あるいは高い世界のことね。例えば、神の世界に行ったらこういう感じかなとか、それは全部この輪廻の夢の中にはまってる意識での経験、イメージだから。全部そういう意味では外れています。本当の意味の高い世界とか、本当の意味での悟りの世界っていうのは、そのイメージの範囲外にあります。で、それはなかなか表現不能っていうかな。無理矢理表現しようとすると、このわれわれのいる世界の言葉ではちょっとこう矛盾に満ちた言葉にならざるを得ないというか。そういう言葉でしか表現できない世界なんだね。で、これがマハームドラーのシンボルと書かれていますが、まさにそうなんですね。マハームドラーというよりも、深い輪廻を超えた世界のシンボルというかね――は、そういう形でしか表わせないと。


(T)先生、目が見えないっていうのは、この物理的な肉体の目が見えないと内側の身体の目が見えてくるとか、そういうあれじゃないんですか?


 そうじゃないね。あのね、そういうふうにその、解説する人もいるかもしれない。でも、そういうレベルの話じゃないんだね。


(T)僕、仏教の六神通のところのあたりの話してるのかなって一瞬思ったんですけど、天眼通と天耳通と、あと、えっと天耳通……神と喋るほうのやつが、口がきけない……


 まあ、あのね、例えばこの経典っていうのは、もともとインド・チベットに伝わっている経典で、日本ではあまり有名じゃないけど、欧米とかチベットとかではいろんな人が解説してるんだね。で、その中ではもちろん今T君が言ったような解説をしている人もいるかもしれない。でもわたしはそれは全然違うと思うよ。うん。そういうレベルの話でないと。いいですか?(笑)


(T)はい(笑)。


 はい(笑)。じゃあ次いきましょう。
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