ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

今日のAMRITAチャンネル「ミニバクティヨーガフェスタin横浜 ダイジェスト」

2013-09-30 17:38:07 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「ミニバクティヨーガフェスタin横浜 ダイジェスト」です。
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グル・バクティヨーガ 序(2)

2013-09-30 06:22:49 | 経典の言葉・聖者の言葉




◎グル・バクティについての手紙


1942年5月1日

 祝福された求道者たちよ

 主張してはならない。それでは何も得られないだろう。
 あなたたちの霊性の師、あるいは聖者の前に静かに座り、瞑想しなさい。
 魂と魂を会話させなさい。
 それによって、あなたたちの疑念はすべて浄化されるだろう。
 あなたたちは良い霊性の経験を得るであろう。
 あなたたちは心の内で、言葉に言い尽くせない平穏と、ゾクゾクする歓喜を経験するだろう。
 これは、人生の目的に達するための真の道である。

 実践のヨーギーとなりなさい。


 ――シヴァーナンダ




1942年12月1日

マハーラニ・スワルナラタへ

 あなたは一人の医者から処方薬をもらい、二人の医者に相談し、三人の医者から荼毘に付される。
 
 しかし多くのグルを持つならば、あなたは混乱するだろう。
 あなたは何をすればいいかわからなくなって途方に暮れる。
 一人のグルはあなたに「ソーハム・ジャパをせよ」と言い、もう一人は「シュリーラームのジャパをせよ」と言い、三人目は「アナーハタ音を聞きなさい」と言うだろう。 
 あなたは戸惑うであろう。
 ただ一人のグルに忠誠を誓い、彼の指示に従うのだ。

 
 ――シヴァーナンダ




1943年5月1日

愛するマハーデーヴァへ

 悟りとは、グルの奇跡的な力によってあなたに訪れるものではない。

 仏陀、キリスト、ラーマ・ティルタ、彼らは皆サーダナーを行なったのだ。
 主クリシュナはアルジュナに、ヴァイラーギャ(放棄)を開発し、アビヤーサ(実践)を行なうようにおっしゃった。
 彼は「さあ、君にムクティ(解脱)を授けよう」とはおっしゃらなかったのだよ。

 それゆえに、悪しき観念を放棄しなさい。そうすればグルはあなたにサマーディとムクティを授けてくださる。
 精進し、純粋になり、瞑想し、そして悟りなさい。


 ――シヴァーナンダ

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◎大乗の修行のすばらしさ

2013-09-30 06:17:48 | 解説・バガヴァッド・ギーター
◎大乗の修行のすばらしさ

 またもうちょっとひねった言い方っていうか考え方すると、すべての衆生は過去か未来の自分だっていう考えがあるんです。これどういうことかっていうとね、これ壮大な考えなんだけど、いつも言うようにヨーガの壮大な考えでは、われわれの真我っていうかな――つまりここにいる、ここにいるっていうか宇宙にいるすべての生き物っていうのはもともとは純粋な真我だったんだけど、偉大なね、至高者――これはクリシュナでもシヴァでもいいけども――の慈愛によって苦しみの世界に突き落とされた。なぜかっていうと、そこで苦しみをいろいろ経験して、やはりこの煩悩とか現世っていうか、マーヤーの世界っていうのは意味がないんだと――苦しみなんだってことを悟らせて、心を成熟させて、成熟した真我に育てるための‘かわいい子には旅をさせろ’的な神の愛によってね、われわれはこの苦界に落とされたっていう表現がある。で、それによってわれわれは無始の過去から、つまり遥かな過去から錯覚のプロセスが始まったんです。
 つまりまず純粋な超ピュアだった真我が――真我っていうかわれわれの心が、まず何か経験しましたと。ちょっとけがれましたと。
 で、そのけがれによって、錯覚によっていろんなものを求めだします。
「ああ、私は金持ちになりたい。ああ、私は性欲を満足させたい」と。あるいは「私は褒められたい」と。
 求めて奔走が始まって、そこでいろいろそれが叶ったり叶わなかったり、喜んだり苦しんだりしながらどんどん輪廻に巻き込まれていきます。で、それはもちろん一つではなくて、何かやってるうちにまた次のとらわれとか欲求がやってきて、それによってもうがんじがらめになって、ウワーッてなって最終的にもう動けないような、もう苦しみとカルマにがんじがらめになった状態になります。
 ここでやっと心が、「ああ、人生って何なんだろう? 」と。本当の幸福って何なんだろうと。こういうことを求めだします。そしてそこに救済者、仏陀とかが現われればその縁ができて、「ああ、修行したいな」っていう思いになってくる。
 で、修行して、今まで散々自分をがんじがらめにしてきたカルマとか心の煩悩とかと戦って、なんとかきれいになって解脱しましたと。「さあ、私はすべてのけがれから解放された」と。「私は悟った」ってなるんだけど、このまた先もあって、また未熟な真我はまた落ちるんだね。
 完全に悟ってればいいんだけど、別のまた――これはいつも言うように、別の刺激がやってきたときに、前に経験した煩悩に対しては悟ったけど、別のタイプの煩悩がやってきたときはまた巻き込まれるんです。で、巻き込まれてまたウワーッていろんながんじがらめになって、やっぱ修行かなってなって(笑)、また修行して悟ると。これを遥かな時を費やして何度も繰り返した場合――もちろんもう一つの方法は、菩薩の道ね。菩薩の道っていうのは一回の人生でいろんな人の苦しみを背負って、そこから解脱する。だから一回でお得っていうか(笑)、一回でバーって多くの悟りを得ることができる(笑)。どっちでもいいんだけど、とにかくいろんな堕落と上昇を繰り返して、で、最終的にまったく動じない完全な仏陀、完全な解脱者になりますと。
 さあ、この偉大なる長い道のりがあるんですよ。で、われわれは今そのどっかにいるんです。そしてすべての衆生もどっかにいるんです。ということはわれわれは結局、同じ道を歩んでいるんです。
 でも、われわれよりはまだ後ろを歩んでいる人もいれば、前を歩んでいる人もいる。あるいはそれは一個人では言えなくて、あの人の中でこの部分は私よりも前を行っているけども、この部分は私よりも後ろを行っているっていう部分もあるんだね。
 で、前を行っているとか後ろを行っているとかいうのはどういうことかっていうと、それは例えば私がね、十生ぐらい前にプライドで苦しんでいたとするよ。プライドで苦しんでて、九生前ぐらいになんとか抜け出せたと。それからはあんまりプライドがないとするよ。で、今例えばYさんがプライドで凄く苦しんでいるとするよ。これはつまり十生前の自分なんです。だからタイムマシンで十生前に戻ったようなもんなんです。
 で、私よく――前も言ったことあるんだけど、例えばさ、リアルに考えてください――みなさんがね、今タイムマシンに乗って、十年とか二十年前の自分に会ったとしますよ。で、そのときの自分が今の自分に比べて、駄目駄目なとこがあったとしますよ。みなさんどうしますか? 絶対励ますでしょ(笑)? 自分だから(笑)。「おい、お前もっと頑張れ。」と(笑)。そんなんじゃ駄目だと。励ますと思うんだね。それと同じ感覚が周りの人に対してもあるんです。つまり、自分よりちょっと劣った者とか、まだ克服してない部分を見つけたら馬鹿にするんじゃなくて、「ああ、これは過去の自分だ」――と思って励ますんだね。
 さあここで問題です(笑)。もしYさんが過去に戻ってね、例えば十年前の自分に出会って、もっと今よりも物凄くプライドが高かったとするよ。で、プライドで闘争してたとするよ。で、その人を――十年前の自分を、説得したり修行させたりして、「プライドを落とせ!」と。「さあ頑張れ」ってやって、十年前の自分がかなりプライドが落ちたとするよ。そしたらどうなると思います? ――当然、今の自分も変わるんです。十年前の自分が変わったことによって今の自分も変わるでしょ? それとまったく同じことが、この世の中においても言えるんだね。
 私が例えばYさんを十年前の自分だと思って、「さあ、Yさん、こうやってプライドを落とすんだよ」って言って修行させて、Yさんがパーッて変わったとするよ。そしたらこっちもパーッて変わる(笑)。そういう法則があるんだね(笑)。だからそれは非常に大乗の修行っていうのは素晴らしい。


◎他人に良い部分を見つけたら

 それからそうじゃなくて、自分にない良い部分を周りに見つけたら、それは逆に未来の自分だと思ったらいい。だからそれは卑屈になる必要もまったくない。
 プライドの高い人はやはり卑屈になっちゃうんだね、人の良い部分見ると。
 でもそれはさっきも言ったように、人それぞれいい部分と悪い部分があって、で、あの人の持っているこういう部分は自分の先を行っていると。つまりこの人はたぶん――例えばまたYさんでいうと(笑)、私はYさんよりもプライドはないが布施の心はYさんの方があるとするよ。ということは、「ああ、私は遥か昔に一生懸命プライドを落とす修行をやってきたけども、あんまり布施やんなかったな」と。布施やんないでずっと生きてしまったと。でもYさんはプライドをいっぱい持ってたけども、もう何生も何生も布施をやってきたと。よって今はもう何の欲望もなく人に、あるいは真理に対してすべてを投げ出せるような布施の心があると。「ああ、これは見習わなきゃいけない」と思うようにするんです。
 なぜかっていうと、われわれの心の方向性っていうのは「ああ、こっちだ」と、「ああ、こうしなきゃいけない」って思った方に向かうんだね。でもね、例えばですよ、これはすべて仮の話だけどね、もし私が物凄く貪りが強くて布施の心がないと。で、カイラスの他の人も布施の心がなかったとするよ。で、そこにYさんが現れて、Yさんだけが布施の心を持っていたとするよ。これはわたしにとって、あるいはみんなにとって凄い宝物なんです。なぜかっていうと、「ああ、そうか」と(笑)。布施というのは素晴らしいんだと。そういう発想を与えてくれるんだね。
 もうちょっと分かりやすくっていうか具体例で言うと、曖昧にね、何となく修行とかヨーガとか仏教って素晴らしいなって思ってても、実際の生活における表現の仕方とか生き方っていうのはいろいろあると思うんだよね。それは例えばこういった場所でね、法友と接すると、それぞれ法友の持っている具体的ないろんな良い部分が見えてくる。「ああ、そうか」と。ああいう感じで――ああいうときはこういう表現するのがやっぱ素晴らしいねと。あるいはああいうふうな状態のときに、こういうふうに考えるのは素晴らしいと。ああいう発想は私にはなかったと。そういうのを見かけたら、もうそれを賞賛するんです。賞賛して自分の未来の姿だと思うんです。
 その人全体を賞賛するんじゃないよ。ここら辺が難しいところなんだけど。人間ていうのはさ、錯覚があるんだね。一部分を全体だと思ってしまう。恋愛とか一番いい例だけどね。――まあ私がいつも恋愛を語るのも何なんだけど(笑)――何かきっかけがあったとしてね、例えば本当に自分が苦しんでいるときに、優しい言葉をかけてくれたとか。あるいは本当にちょっとした仕草とか。何かそれで恋愛のスイッチが入ってしまったと。そうするとすべてが(笑)――つまりたまたま相手も適当に優しいこと言ったのかもしれないし、あるいはその仕草だってたまたま何かバシッと自分に合う仕草やっただけなんだけども、それによって全肯定されてしまう。よく「あばたもえくぼ」って言うけども、すべてが肯定されると。 
 で、それの逆もあるんだね。ずっと好きだった人に何かのきっかけで「え!? やっぱこの人駄目!」ってなると、今度は全否定に走る(笑)。今度は「えくぼもあばた」ってやつだね(笑)。前までは本当にもう相手の汚いところとか見えてても「いや、これもこういうふうにいいとこなのよ」って思えてたのが、今度からは、それはいいところなんじゃないって思える部分でも全否定に走る。
 これはもういろんなね、中国の故事とかでもよくそういう話あるよね。ある王様がね、ある愛人がいて――その愛人を物凄く可愛がっていたと。で、もう何をしても許してたと。で、大事な王様の桃の園があって、愛人がその桃を食っちゃった。でもそれは「可愛いやつだ」と(笑)。で、許したと(笑)。でもその後いろいろあって、愛人が嫌いになって別れることになったんだね。で、別れた後にその王様が、「お前あのとき桃食っただろう」と(笑)。で、処罰したって話があるんです(笑)。

(一同笑)

 つまりそういうところがあるよね、人間ってね。
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◎変容の秘訣

2013-09-30 06:13:36 | 解説・心の訓練

◎変容の秘訣

 はい、そしてこの部分の最後が、

「楽・苦しみ・どちらでもないという三つの経験から生じる三毒(愛著・嫌悪・迷妄)を、空・悟り・解脱に変容させる秘訣は、これらの教えを心に銘記して、あらゆる活動に従事することです」。

 はい、これはここの章のまとめですね。つまり楽、苦しみ、どちらでもないという三つの経験――つまり、われわれの人生はその連続なわけです。これはまあ当たり前の話だけどね。われわれの人生に起きる現象っていうのは楽、つまり幸せを感じるものか――その程度は別にしてね――楽か、苦か、どちらでもないかでしょ、絶対に。それ以外はありえない。

 例えばこの供物もそうだけど、例えばですよ、Mさんがドーナツ買って来ましたと。これを食べたときの反応は、絶対この三つのどれかでしょ(笑)。うまいか、まずいか、どっちでもないか。ね。全部そう。例えば人生におけるいろんな現象があります。それはもちろんすべて楽か、苦しみか、どちらでもないか。

 で、ただそれだけなら問題ないんだけど、われわれの意識っていうのは無智なので、それに反応してそこから、ここに次に出てくる愛著、嫌悪、迷妄っていうのが出てくるんだね。これを仏教では三毒――つまり根本的な三つの煩悩といっています。

 つまりこれは、この三つは根本なんだね。この三つを根本として、そこからより細かいものが発生するわけです。つまり嫉妬とか、慢心とか、そういったより細かい煩悩の分類が始まるわけだけど、ずーっと根本をたどると、愛著、嫌悪、迷妄――古い言葉だと貪・瞋・痴っていうけどね。つまり簡単にいうと、「好きだ」っていう気持ちと「嫌いだ」っていう気持ちと「よく分かんない」っていう気持ち。この三つにわれわれは襲われる。

 つまり楽、苦しみ、どちらでもない感覚があるよね。経験があるよね。当然、楽の経験をしたときはそれに執着が生じます。もっとそれが欲しい、もっとそれが欲しい。表面的にそれを思わなくても、潜在的にそういう気持ちがインプットされます。

 いったんこれがいいって思ったら――あのさ、こういうこと言うとみんなどれくらい理解できるか分かんないけど、われわれの欲求のすべては、過去の経験を追いかけてるだけです。ただそれだけです。過去の経験と合ったときに、「OK!」と思うんです。意味分かる? 「これ、これ!」っていうのがある(笑)。そういうことを認識できるときってあるよね。認識できるときっていうのは――例えば、わたしの生まれは福島なんで、福島って喜多方ラーメンって有名だけど、わたし住んでたのは喜多方じゃないんだけど、喜多方じゃないんだけどだいたいね、福島、あの辺のラーメンってみんなああいう味するんです。あの太麺で、醤油味で、シンプルな味なんだね。で、わたしやっぱり小っちゃいころからあれ食べてきたから、あの味が好きなんですね、もともとね、ラーメンの中でね。で、例えばその喜多方ラーメン的な味がいいと思ってる自分がいたとしてね、で、でも東京に来ると違う味のラーメンがある。「これはなんかおれはあんまり好きじゃないな・・・・・・」。で、たまたまそういう同じような喜多方ラーメン的なのを口にしたときに、「ああ、これ、これ、これ」と。おれの求めてたのはこれだと。

 でもそれは自分でも分かってる。それは小さいころからそれを食べてきたからだと。つまり小さいころの記憶と、今の経験がしっかり合ったから、「これだ!」っていう感じになる。

 今の例は分かりやすいん例だけど、でも実は全部そうなんです。全部過去のどこかで経験したものを追い求めてるんだね。で、それに合ったときに、「ああ! 幸せだ!」って思うんです。

 っていうことは、すべての幸せは幻影なんだね。だって絶対的じゃないんです、これ。単に過去の――だって、最初に「幸せだ」って思ったことも錯覚なんです。錯覚なんだけど、その錯覚を追い求めてて、また合ったときに――つまり錯覚に合って、またそれを喜びだっていう錯覚が生じる。もともと錯覚なんだけど、さらに単純に過去の錯覚に合っただけなんだけど、それを喜びっていうふうに錯覚してしまう。それはみなさん自分の心を振り返ったらいいね。

 わたしはね、よくそういうことを観察して、つまり自己観察をして、「ああ、そうだなあ」って思ったことがたくさんある。まあ味覚がやっぱり一番分かりやすいんだけどね。例えば「ああ、これだ!」って思って、「うまいなあ」って思ってるんだけど、自分をよく観察すると、別に本当はそんなうまいって思ってないんです。これ昔の味と同じだって思ってるだけなんです(笑)。「おれが求めたのはこれだ」っていうのにビタッときたから、わーって快感が生じてるんだけど、今それをそんなにおいしいって思ってるわけじゃない。ただ「合った」って思ってるだけなんだね。実はね。

 で、すべてがそう。で、それはもちろん嫌悪もそうだね。「これが嫌いだ!」っていうインプットがあって、その「嫌いだ!」ってものとほぼ同じものが現われたときに、「うわっ! 嫌だ!」っていう思いが生じる。でもそれも、ただ過去の経験と合わせてるだけだと。

 じゃあどこが始まりなんだっていうと困るんだけどね。ここから先は本当は追及しちゃいけない。なんでかっていうと、始まりはないから。ここから先っていうのは、われわれが悟らなきゃいけないところなんだけど、輪廻っていうのは始まりがないんです。始まりがないっていうのは、ちょっとこれは説明しづらいんだけど、われわれが寝てね、夢を見ました。夢を見たときってさ、いきなり赤ちゃんから始まらないだろ? はい、寝ました。夢の世界でオギャーって生まれて、こう育ちました――にはならないよね。夢の世界でいきなり成人として登場するでしょ。それは例えば、Mさんが寝て夢を見たら、まあ今のMさんとして登場するかもしれない。あるいは全然違う人物として登場するときもあるでしょ。例えば自分がなんか王様になった夢を見るとかね。

 例えば分かりやすい例でいうとしたら、Mさんが寝て、王様になった夢を見ました。ね。「王様いつ生まれたんですか?」っていう問題がある。いつ生まれたっていえないでしょ。始まりはないんです。まあ強いていえば、夢を見始めたときから始まってるんだけど。例えば南さんが起きてね、「ああ、なんか今王様の夢見たな」と。で、また寝たとするよ。次の日に同じ世界の夢を見ることってあるじゃないですか。またあの王様になったっていう夢。そういう夢みんな見たことある? わたしはよくあるけど、世界観が同じっていうやつ。あるよね? 例えばある夢を見たときに王様で、世界観は同じなんです。その法律とか、自分の周りの登場人物とかみんな同じなんです。で、また起きて、「ああ、面白い夢見たなあ」。一週間後ぐらいにまたその世界に行くと。同じ世界観。ね。だからその夢を見たときが始まりっていえば始まりなんだけど、でも、その世界っていつ始まったの? といわれると始まりはない。ちょっと分かりにくいかもしれないけどね。

 仏陀になったら、われわれは目覚めたってことです。今われわれは寝てるんです。夢を見てるんです。この夢には実は始まりはない。始まりはないんだけど、延々としたこの錯覚の繰り返しがある。

 つまり、わたしは過去の経験にとらわれて――つまりね、わたしたちが何か経験をしたときに、これが喜びだって思うのは、これは過去の経験からなんです。過去の経験に合わせて喜びだって思ってるだけなんです。で、それによって、次何か経験したときも、またそれを喜びだって思ってしまう。で、それをまた欲求する。じゃあそれを辿ってったらスタートどこなんですか?っていったらスタートはないんです(笑)。これが、理解の難しいとこなんだけど。でもスタートはないんだね。

 とにかくその繰り返してる、迷妄の夢みたいな世界があるんです。そこにわれわれは今はまってるんです。これは恐ろしいんだね。目覚めない限り終わりもないんです。始まりも終わりもない世界なんだね、この輪廻の世界っていうのは。

 まあ、この辺は難しいから、ここから先はあんまり考えなくてもいいんだけど(笑)、とにかく考えなきゃいけないところは、われわれはこの世でいろんな経験をして、勝手に、これは幸せだとかこれは苦しいとか、勝手に判断をしてしまって、で、それによってわれわれの欲求や嫌悪、憎しみやあるいはどうでもいいっていう気持ちは増大する。どうでもいいっていう迷妄は、もう一つの意味としてはこの全体像、つまりこの流されるっていう感覚ね。あまりよく考えずに情報に流されたり、自分のカルマに流されたりすること、これ自体も迷妄っていうけどね。このようにしてわれわれは、この世の中で何も考えずに生き、そして執着や怒りや無智が増していくと。

 じゃあわれわれはどうしようもないんでしょうか。この世でカルマの流れによって普通に生きてたら、いろんな楽しいことやいろんな苦しいことがある。楽しいことがあるたびに執着が増し、苦しいことがあるたびに嫌悪が増すと。どうしようもないんでしょうか。そこで出てくるのが、この心の訓練ですよと。

 特に今挙げた、今日勉強したところ、つまり「2-A 基礎的菩提心」っていうところ全部。

 もう一回言うよ。

「あらゆる問題はただ一つ、エゴのせいである。
 それを払いのけなさい。
 すべての衆生の大きな恩を思え。
 トンレン(他者に幸福を与えることと、他者の苦しみを受け取ること)を交互に繰り返して修習せよ。
 それはまず、自分の苦しみを受け取ることから始めるべきです。
 この二つは、呼吸に乗せて行なわれるべきである。」

 この文章と、それから今日わたしが説明した、詳しい説明。これをあらゆる活動をしながら、これを心に刻みながら経験をする。そうすると今言ったように、普通はいろんな経験に苦しいとか喜びだとかいう錯覚が生じ、そこから執着や嫌悪が増す。しかしそうじゃなくて、さっきからずーっと言ってきたようなトンレン的な発想とか――つまり苦しいことがあったら、「ああ、みんなの苦しみが来てるんだからありがたい」と思うとか、あるいは「喜びはみんなに行ってくれ」って思うとか、あるいは「すべてのわたしの苦しみの原因はエゴなんだ」って思うとか、こういう教えを心に銘記しながら人生を送ってると、同じ経験をしていてもそれが執着や嫌悪や迷妄になるんじゃなくて、悟りや解脱の手助けになるんだね。

 つまり、この環境自体は変わらない。環境自体は変わらないんだけど、そこにその心の訓練、あるいはトンレン、慈悲とかいうエッセンスがチョンと注がれることによって、この世界が、われわれを迷妄に引きずり込む魔の世界ではなくて、われわれを悟らせる神の世界に変わるんです。 

 つまりこの輪廻には実は実体がない。実体がないっていうのは、繰り返すけども、われわれを悟りに導く神の王国ともいえるし、われわれを地獄に導く魔の王国ともいえる。それはただ一つ、自分の心構えで決まるんです。自分の心構えにこの心の訓練の教え、あるいはトンレンの教えが入ってたら、この世界は神の慈愛の王国です。でもわれわれのエゴが勝っていたら、あるいはそのような縁がなくてね、まだこの聖なる教えに出合う縁がなくて、エゴを肯定する生き方をしてたら、この世界は生きれば生きるほど引きずり込まれる魔の王国に過ぎない。

 だから何度も言うけども、このような教えに出合えたこと自体がわれわれにとってはとても幸福なことであって、もう滅多にないようなことなんだということを自分に言い聞かせなきゃいけないね。








◎無始の過去とは

 はい、じゃあ今日は一応ここで終わって、後は質問を聞いて終わりにしましょう。


(U)あの、さっきの話だと、過去の経験に照らし合わせて、これは幸せだっていうのをこう感じてるって言ってたじゃないですか。で、その過去の経験はまた前の過去の経験に照らし合わされてて、で、その前の過去の経験も前の過去の経験……っていうふうに無限後退していって、で、その最初はどうだったのかっていうのはたぶん「無始の過去」っていう言葉で――

 そうそうそう。無始の過去。

(U)表わされてるんですよね。

 うん。

(U)で、だけどじゃあ始めは何だったのかっていうところは、例えばチベット仏教でも、上座部仏教とかでも、その辺のことについて詳しく研究してるような、その経典とか教えっていうのはないんですか?

 上座部仏教ではないだろうね。チベット仏教とかヨーガでは、何ていうかな、便宜的にいってるのはある。まあただね、そうだな、本当の本当の最初まではいっていない。

 どういうことかっていうと、われわれが例えばニルヴァーナとかから落ちる最初をいってるのはある。でも、その前もあるんだね。例えば、じゃあニルヴァーナから何で落ちるんですかと。それは、例えばヨーガでいったら、三グナの影響があって、あるいは仏教でいったら例えば如来がね、未熟な魂を成長させるために落とすんだと。その落とし方が煩悩とかで誘惑すると。で、何で誘惑されるのかっていうと、そのニルヴァーナに入る前――つまり彼らはニルヴァーナに入る前の迷妄の経験がある。つまり彼らは、ニルヴァーナに入る前にどっかでまた迷妄だったんです。迷妄だったのが、解脱してニルヴァーナに入った。でも解脱したんだけど、それは完全な解脱じゃないから、ただ煩悩を止めてただけだったと。で、止めてた煩悩をまた刺激される。っていうことは、ニルヴァーナに入るさらに前の経験があったっていうことなんだね。

 じゃあその前はどうなんだろう――と、また始まってしまうというか(笑)。だからそこは、誰も言ってないんです。言ってないっていうよりも、何で言ってないかっていうと、言えないんです。

 何でかっていうと、ニルヴァーナっていうのは一元の世界――つまり非二元といってもいいけど。でもこの、経験をして、執着が出て、とかいう世界っていうのは二元の世界、輪廻の世界だね。つまり本来は一元から二元のシフトっていうのはありえないんです。二元は二元なんです。一元は一元なんです。だからここら辺が、あんまり頭で考えてもしょうがない部分なんだね。悟らなきゃいけない部分なんだけど、理屈でいうとそうなんです。

 だから始まらないものは永遠に始まらないんです。始まったものは終わるんだけど。でも始まるっていうことは、始まってなかったわけでしょ。始まってなかったものは始まらないはずなんです。「何で始まってんの?」って話がある(笑)。つまり、一元と二元は永久に交わらないし――っていうよりも二元自体が実は幻なんだね。だから言葉にすると非常にわけが分からなくなってくんだけど(笑)。


(U)始まってるんだけど、始まってないんだよって気づくことですよね?


 うん。だから究極的に言っちゃうと、実は何も始まってないんです。だから今言っていることも全部夢の中のことであって、全部仮のことなんだね。でも仮っていっちゃうとみんな勘違いする人が出てくるから、「え? じゃあ輪廻とかカルマは仮なの? じゃあおれは何やってもいいんだ」っていう人が出てくるから(笑)、それは違うと。もう完全にその仮の中にわれわれははまっちゃってるから。

 だから答えとしては、ちょっとショッキングかもしれないけど、あなたは過去においてこういう苦しみを味わいましたね、喜びを味わいましたね、それによって今こういう執着が出てますね――これは真実なんだけど、究極的には嘘なんです(笑)。本当は何もなかった。

 だからもうちょっと誤解を恐れずに言えば、そういうことがあったような錯覚に陥ってるんです。ちょっとそれは究極的にいうとね。でも本当はそういうふうに考えちゃいけない。われわれは今その中に入っちゃってるから、それは実際にあったって考えた方がいい。でも本当は何もなかったんです(笑)。ここら辺が難しいところなんだね。 

 だからそれが、今日も最初に言ったんだけど、勝義諦と世俗諦ってやつだね。つまり究極の真理をいってしまうと、実は何もなかったってなっちゃうんだけど、そればっかり考えちゃうと、われわれはこの世において正しく生きることができなくなる。だからまずはこの迷妄の中で、二元の世界の法に則って正しく生きるっていうことを続けなきゃいけない。

 だから便宜上、ある程度までのこの方便の法則を受け入れるんだね。つまり輪廻というのはあって、過去世もあって、このようにしてわたしの心は形成されてきたっていうのを実際に受け入れて、その中で正しく生きる訓練をする。

 しかし究極的にわれわれが悟るときには、「あ、あれ全部本当はなかったのか」ってことになる。

 それはさっき言ったように、二元と一元は決して交わらない。二元と一元は決して交わらないっていうよりも、もう一回言うけども、二元って本当はどこにもない――っていうのが答えだね。ちょっと難しいけどね。

 だからお釈迦様とかはその有名な――いわゆる無記だね。そういうその究極的なところにいくと、もう何も言わないんです、お釈迦様は。「聞くな」と(笑)。つまりそれは言ってもしょうがないっていうか、言葉では表わせない世界だからね。そこで惑わしてもしょうがない。

 ただ密教とかヨーガっていうのは、結構ギリギリのところまでいくんです。言っちゃうんだね、ギリギリのとこまで。つまり言葉で表わすことっていうのは、前も言ったけど、円周率みたいなもんで、結局そのπ【パイ】っていうのはピタッといかない。もちろんさ、円周率は最終的にピタッといくかどうか分かんないともいわれるけど、まあ、いかない。いかないものを――なんか現代の小学校では円周率を「三」とか表わす、三しか教えないっていってるけど、三・一四なら三・一四で、そこで切っちゃってるのがお釈迦様。で、密教とか仏教は、結構いってるんです(笑)。十万桁ぐらいいってる(笑)。十万桁ぐらいいってるんだけど、でも最後まではいけない。つまり二元から一元までいけないのと同じで、言葉では結局最後まで表わせないんだね。でも一応われわれの希望に応えて、われわれが納得できるような結構なとこまでいっちゃってるんだね。説明しちゃってるっていうか。

 でもそれも、まだ究極の真理ではない。究極の真理は悟るしかない。

 で、そういうことっていうのは、頭の片隅には置かなきゃいけないんだけど、じゃなくてわれわれは、何度も繰り返すけど――そうですね、頭の中の六〇~七〇%は、この世における真理に標準を合わせた方がいい。つまりさっきから言ってる、わたしの苦悩というのは幻影なんだと。それは過去の経験に照らし合わせて、苦や喜びを味わってるに過ぎないと。よって、そういうものは意味がないと。で、それはエゴが原因だと。よって、慈愛や慈悲やトンレンの瞑想によってそういうのを破壊しなきゃいけない――これによってわれわれの、まず第一段階で、いつも言ってるけど、悪夢がいい夢に変わります(笑)、まずね。われわれは悪夢を見てる。悪夢がいい夢に変わります。つまりまだ夢からは脱してないんだけど、幸せになります。

 こう寝てて、「ああ夢だなあ」「幸せな夢だなあ」ってなってきます。

 で、最終的にそこから脱却します。

 つまり、騙されたと思ってやってみろと。騙されたと思ってトンレンやってみろと。それが一番早いと。これがこの心の訓練の教えなんだね。

 だからそうだね、この心の訓練の教えっていうのは、まさにそういう教えです。「騙されたと思ってやってみ」と。パッと大聖者が現われて、「おまえ、いろいろ教え学んでるけど、騙されたと思ってこれやってみ」と(笑)。「これ、すごいよ」と。「早いよ」と(笑)。これが心の訓練の教えなんだね。

 もちろんわれわれに縁があれば、こういうのを読んでね、「ああ! なんかよく分かんないけどたぶんこれは真実だ」と思って実践する。あるいはそこまでの縁がなくても、それを教えてくれる師匠とかに信があれば、あるいは仏教そのものに信があれば、わたしは無智でよく分かんないけど、師匠が言うならそうなんだろうと。あるいは仏教で伝統的にそういわれてるんだったら信じますと。これも素晴らしいね。

 こうやって、よく分かんないんだけどそれを一生懸命やってるうちに、これは本当に素晴らしい教えなので、スイッチが入って、さっき言ったように自分の輪廻の夢がよい輪廻の夢に変わり始め、最終的には目覚めるための足がかりができる。これがこの教えですね。

 だから何度も言うけども、この種の教えっていうのは、もちろん『入菩提行論』もそうなんだけど、こういった種の教えっていうのは、われわれが本当に出合うことの難しい、エッセンス的な教えともいえるんだね。


 はい、じゃあ今日はこれで終わりにしましょう。おつかれさまでした。

(一同)ありがとうございました。
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「人に生まれる」

2013-09-30 06:04:00 | 解説・入菩提行論

【本文】

 一切の衆生の救済を求めて、これまでに無量の仏陀が過ぎ去られた。しかし、私は自己の過ちによって、その救いの対象に入らなかった。

 今日においてもなお、これまで繰り返しありしように私があるとすれば、悪趣、病、死、切断などの苦しみを必ず得るだろう。

 如来の光臨、信仰を持つこと、人として生まれること、善を反復修習するに適した状態――かような条件は極めて得がたい。(今を逃したら)私はいつまたこれを得るであろうか。

 食に恵まれ災厄のない健康な日々もまたそうである。生命の刹那は当てにならず、身体は借り物に等しい。

 かような私の行状をもってしては、人間の生を再び得ることはできがたい。もし人間に生まれることができなかったら、悪のみが生ずる。どうして浄善が生じよう。

 現在善をなすに適しているのに、私はそれをなさない。(とするならば将来)悪道の苦痛に精神が錯乱するとき、どうしてそれを私がなしえよう。

 善をなさずに罪悪を重ねれば、百千万カルパの永き間、善趣はその声すらも断たれる。

 ゆえに世尊は、人間の身体は極めて得がたいと説かれた。それは大海に浮かんだくびきの穴に、(盲目の)亀が首を入れる(確率)に等しい。

 わずか一瞬おかした罪悪からも、一カルパの間無間地獄に落ちる。無始以来のカルパに渡る罪悪が(私に)ある以上、何が善趣について説かれえようか。

 また、カルマの報いを受けただけでは、解脱を得ることはできない。報いを受けている間に、また新しい罪悪をなしてしまうから。

 (人間界に生を受けるという貴重な)機会に恵まれながら、もし私が繰り返し善を修習しなかったならば、これにまさる欺瞞はなく、またこれにまさる愚かさはない。

 もし私がこれをわかっていて、しかも愚かさのために意気消沈する(すなわち修行や善の実践に励まない)なら、ヤマ(閻魔)の死者が改めて私を追い立てに来た場合に、私は永く苦しむことになろう。

 耐え難い地獄の炎は、私の身を永く焼くであろう。後悔の炎は、実践規律を守らなかった私の心を永く焼くであろう。

 かろうじて私は、はなはだ得がたいこの功徳の土台(人間の生)を得た。よくそれを知りながら、私はかの地獄に再び連れ戻される。
 あたかも呪文によって惑わされたように、私はこれについて思考力を欠く。誰が私を惑わしたか、誰が私に憑いたかを知らない。


【解説】

 原始仏教においても大乗仏教や密教においても、お釈迦様以前にも多くの仏陀が現われ、この輪廻で苦しむ衆生を救ったとされています。そう、お釈迦様も、その前の仏陀も、多くの衆生を、この輪廻から解脱させたのです。
 しかし、あれ?・・・でも私たちはまだこの輪廻にいますね(笑)。つまり偉大な力を持つ多くの仏陀方が、全力で衆生を救ってきたにも関わらず、我々はその救いの対象から漏れ、まだ輪廻の中にいるのです! どれだけ我々はカルマが悪いというのでしょうか・・・
 ・・・という反省を、シャーンティデーヴァはしています。もちろん、シャーンティデーヴァのような偉大な菩薩は、実際はそうではなくて菩薩の修行として輪廻にとどまっているのだと思うのですが、シャーンティデーヴァはあくまで謙虚に、自分は徳がなく悪業が多いから、多くの仏陀が過ぎ去ってもまだ輪廻にいるのだと自省しているわけです。もちろん我々もそのように自省しましょう。

 この章のこの部分は、「人間界に生まれ、修行できるチャンスを得たこと」の貴重な価値が、延々と説かれています。これは現代のチベット仏教でも重要視されて繰り返し学ばれるテーマです。
 如来がこの世に降り、まだその教えが残っている時代に、我々が人間として生まれ、仏陀や教えに信仰を持ち、そして善や修行を修習するに適した条件を得るというのは、ものすごく稀な出来事なのです。
 しかし、今現在、あるいは今生生まれてから今までの自分の行ないを振り返ったとき、来世も再び人間の生を得ることは難しい、とシャーンティデーヴァは反省します。シャーンティデーヴァがどうだったかは別にして、現代のように悪業多き時代においては、これはなおさらのことです。
 我々は今、善をなし、修行をするのに非常に適した状態にあるのです。にもかかわらず我々が善をなさず、修行をしないとしたら――将来、悪趣に落ちたとき、どうして修行できるでしょうか。良い状態のときに為せないことを、悪い状態のときに為せるわけがない、ということですね。

 そして我々が人間として生まれる確率は、恐ろしいほど低いのです。
 現代の宗教家や精神世界の人たちは、楽天的に来世のことを話しますが、お釈迦様の教えを素直に受け取るなら、この地上の人間の99パーセント以上は、死後、悪趣(地獄・動物・餓鬼)に落ちるといえます。
 ここにも出てくる亀とくびきのたとえ話は、お釈迦様がお説きになり、その後の大乗仏教でもよく使われる話です。それは――我々は大海の底に住んでいる盲目の亀です。盲目というのは、我々が無智に覆われていることをあらわしています。そしてその大海の海面に、くびき、つまり輪っかのようなものが浮かんでいます。このくびきは、風に吹かれ、無作為に海面をあっちこっちへと動いています。そしてこの盲目の亀は、百年に一度だけ、空気を吸い込むために海面に上がってくるのですが、そのとき偶然に亀の頭がその浮いている輪っかの中に入る確率――それはありえないほど低い確率ですが――それが、我々が人間として生まれ、仏陀の教えに巡り合う確率だというのです。
 つまり六道輪廻といいますが、我々はほとんど、下の三つの世界である地獄・動物・餓鬼の三つの世界を輪廻しているのです。そして本当にたまに人間に生まれるわけですが、そのときに仏陀の真理の教えがある確率もまた少ないわけです。だから私たちが今、人間として生まれ、仏陀の教えに出会っていることの奇跡をもっと認識しなければいけないというわけですね。

 そんなものすごい確率でラッキーな生を得ているのに、我々はその自覚がなく、悪業ばかり犯して生きてきました。今死んだなら、再び悪趣に落ち、また気の遠くなるほど永い間、チャンスはめぐってこないでしょう。
 確かに今生、いろいろな苦しいこともあったでしょう。しかしそれだけでは、過去の悪いカルマは浄化されない、といいます。なぜならその苦しみのさなかに、心に嫌悪や憎しみや執着を持ったり、実際にそれを口に出したり行動に移したりして、更なる新たな悪業を積んでいるからです。悪業の循環が終わらないのです。

 といっても――たとえこういうことを頭で理解していても、私たちは修行を怠け、悪業を犯し続けてきました。そしてこれからもそうするでしょう!――なぜか、この点において我々は、思考力を欠くのです。まるでそれは、呪文で惑わされているかのようだ、とシャーンティデーヴァは言います。しかし別に誰かが呪文で惑わしたわけでも、何かに憑かれたわけでもないのです。すべては自分の無智の故です。しかしそれは本当に、呪文でもかけられたか、何かに憑かれたかのように、我々は頭でわかっていながら、修行せず、善をなさず、悪業を積み、貴重な人生を無駄にし、悪趣に落ちていくのです!--
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今日のAMRITAチャンネル「勉強会講話 解説・シクシャー・サムッチャヤ 第13回」

2013-09-29 21:16:02 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「勉強会講話 解説・シクシャー・サムッチャヤ 第13回」です。
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◎すべては心の鏡

2013-09-29 15:34:05 | 解説・バガヴァッド・ギーター

◎すべては心の鏡

 で、もうちょっと前段階の話で言うと――これはよく大乗仏教でよく言われるように、すべての衆生っていうのは自分の心の現われに過ぎないっていう見方もできる。つまり例えばここに一人の人がいて、これはいつも言っている話だけどね――例えばこの今何人かの――八人ぐらいのメンバーがいて、そうだな、例えばRちゃんとT君がやってきて、それ以外の六人のことを見たときにね、この六人のいる世界、この雰囲気とかをどう見るかっていうのは、RちゃんとT君ではまた全然違う。今カイラスにいる人ってみんな似てるから――というかそりゃ似るだろうけど(笑)。でも細かく言えば違う。世界の見え方が違うんだね。
 人間てさ、特に日本人てさ、共通項を求めたがるから――「ねえねえ、Cちゃん、あの人こうだよね」とか言って相手が「そうだよね」って言うと、納得して「ああ、そうだよね」って、こういうのが好きなんだけど(笑)、でもそういうやりとりがなかったら、本当はみんな、世界って見え方結構違うんです。われわれは小さい頃から共通項を求め合ってるから、だんだんだんだん合ってきちゃうんです。「ああ、そうだよね」って感じで世の中も同じように見えてるんだけど(笑)、本当は違うんだね。スタートから。
 もちろん人間だから似てるっていうのはあるんだけど。同じ人間のカルマを持っているからね。でも本当はそれぞれ見え方が違う。
 で、その見え方の違いっていうのは何かっていうと、これもいつも言うように、自分の中にあるものしか見えないんです。もうちょっと別の言い方すると、自分の中に強くあるものは強く見える。だから人に不満ばっかり言う人っていうのは、自分の中にそれと同じようなけがれがたくさんあります。例えば人のプライドが気になる人っているよね。ああ、あの人何であんな言い方するのと。プライド高いねと。そう言っている人こそが、プライドがかなり高い。
 例えば誰かがね――例えばYさんがちょっと偉そうな言い方をしたとして、例えば私が「ええ!? 何だあの言い方!」って思って、でもCちゃんはまったく思わないと。「え? 別に何とも思わない」と。で、例えばTさんはちょっとだけ思ったと。「まあそういう感じもするけど、別にそんな気にする必要はない」と。この三者っていうのは、プライドの高さの程度によって変わってくる(笑)。
 じゃあYさんは本当はどうなのかっていうと、それはまた別問題なんだね。Yさんは本当にプライドが高いのかもしれないし、別に高くなくてちょっとそういう表現をしただけなのかもしれない。でもプライドっていう一つのポイントに反応するんだね。持ってる人がね。
 だから私がもしプライドが凄く高かったら、Cちゃんから見たらYさん全然プライドないのに、私からはプライドの塊に見えるんです。で、それが別の人にとっても同じことが言えるから、私にとってこの世界は「みんなプライドが高いな」ってなるんです(笑)。これがすべては心の鏡だってことだね。


◎修行が進めば幸福に

 だから結局――じゃあ自分に無いものは見えないのかっていうと、見えないんです。だから自分の中にプライドがもし仮にゼロの人がいるとしたら、その人にとっては世の中にプライド高い人いないねと(笑)。そういうことになるんです(笑)。
 ただ、救済者の場合は別だよ。救済者の場合は、仏陀とかの場合は、全智者とか世間解とかいうように、自分はもうゼロなんだけど、人を救うために人のことを完全に観察して、それによって悪い部分を治してあげるっていう作業があるからそれは別なんだけど。個人の修行っていう意味で言ったら、自分のけがれがなくなればまったく他者にけがれは見ることもできなくなる。
 だからその人はある意味ハッピーだね。だから修行っていうのは一つ言っておくと、修行進めば進むほどハッピーになります(笑)。ハッピーになるっていうのは、楽しくて幸せになるはずです。
 ダライ・ラマ法王とかやっぱそういう感じがするよね。ダライ・ラマ法王とか話してるところ見てるとね、一人で笑ってる(笑)。何かあまり面白くないこと言ってるんだけど、楽しそうにずっと笑ってたりして、――ああ、心がだいぶ解放されてるんだろうな(笑)――あまりないんだろうね、人に対するけがれた意識とかね。やっぱり修行進むとそうなってくる。だからそういう考え、そういう思想もあるね。
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今日のAMRITAチャンネル「賛歌・イメージビデオ」

2013-09-27 05:58:29 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「賛歌・イメージビデオ」です。


曲目

1.放棄の翼
2.神への信仰に没頭してさまよえ
3.我が師(日本語版)
4.ハリオームタットサット
5.願い
6.ハヌマーンチャリサ
7.バクティヨーガの歌
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要約「スートラ・サムッチャヤ」(5)「菩薩に対する善と悪の大きさ」

2013-09-22 06:08:33 | 経典の言葉・聖者の言葉



◎菩薩に対する善と悪の大きさ


 シュラッダーバラーダーナヴァターラームドラー(信力入印法門経)には、こう説かれている。

「三千大千世界にいるすべての衆生を杖で打ったり、刀剣で切りつけたり、すべての財産を奪うことよりも、たった一人の菩薩に対して軽蔑し、怒り、悪心や不愉快な心を生じさせることの方が、はるかにその罪は重い。

 また、多くの小乗の解脱者の命を奪うことよりも、菩薩に対して軽蔑したり、怒ったり、悪口を言ったり、危険にさらしたりすることの方が、はるかにその罪は重い。

 また、十万の世界のすべての衆生を暗闇の中に閉じ込めることよりも、菩薩に背を向け、菩薩に従順でなく、彼を見ようともしないことの方が、はるかにその罪は重い。

 また、ある国のすべての人々を殺し、すべての財産を奪うことよりも、菩薩を非難することの方が、はるかにその罪は重い。」



 また、ニヤターニヤトガティムドラーヴァターラ(入定不定印経)には、こう説かれている。

「たとえば十万の世界のすべての衆生の目が見えなくなったとして、彼らを救うために自分の目を布施することよりも、信を持って菩薩のお顔を見ることの方が、はるかにその功徳は大きい。

 また、たとえば十万の世界のすべての衆生が牢獄に繋がれていたとして、彼らすべてを牢獄から解放することよりも、菩薩に信を持ち、そのお顔を見、讃嘆することの方が、はるかにその功徳は大きい。」
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要約「スートラ・サムッチャヤ」(4)「大悲」

2013-09-22 06:03:30 | 経典の言葉・聖者の言葉



◎大悲


 ボーディサットヴァピタカ(菩薩蔵経)には、まず大悲(衆生を苦しみから救いたいという大いなる哀れみの心)があり、それに続いて菩提心が現われると説かれている。
 また、大悲の心を持つ者は、自己の過失を厳しく観察し、他人の過失に対しては寛大でなければならないとも説かれている。


 ヴィーラダッタグリハパティパリプリッチャーには、こう説かれている。

「ここに偉大なる覚醒を成就せんと欲する菩薩がいる。彼らは一切の衆生に大慈悲心を起こし、自分の身の回りのことや生活にとらわれるべきではない。
 たとえば財産、穀物、家、妻、子供、食物、飲み物、衣服、馬車、家具、香水、香、花などにとらわれを持ってはならない。
 なぜならば、たいていの衆生は、彼らの身の周りの品や生活にとらわれ、悪業を作り、悪趣に落ちるのである。
 もし彼らに対して大悲の心を発するならば、菩薩は自分の身の周りの品や生活にとらわれず、喜びが生じ、一切の衆生に思いを向け、布施等の一切の善法に精進するのである。
 菩薩は大悲をもってその本性とするのである。」


 また、ラトナメーガ(宝雲経)には、次のように説かれている。

「菩薩が十の法を具足するとき、大悲をもってその本性とするのである。十の法とは何か。

 ①衆生の苦悩、保護する者のいない人、救済されない人、帰依するよりどころのない人などを見て、菩提心を起こす。

 ②菩提心を起こすことで、衆生のためにダルマターを得るために努力し、精進し、あらゆる難行に着手する。

 ③ダルマターを得て、実際にもろもろの衆生に利益を与える。

 ④貪欲な衆生たちに布施行を行なわせる。

 ⑤戒を破る者たちには戒を守らせる。

 ⑥心が傷ついている人には忍辱を行なわせる。

 ⑦怠け者には精進させる。

 ⑧心が乱れている人には禅定をさせる。

 ⑨悪知恵を持つ人を見たときには本物の智慧を持つように勧める。

 ⑩衆生の苦悩ははかりしれないので、誹謗され妨害されても、菩提行から退かない。

 菩薩がこれらの十の法を具足するとき、彼は大悲をもってその本性とするのである。」


 
 ダラニーシュワララージャパリプリッチャー(ダラニ自在王問経)には、こう説かれている。

「ああ、これらの衆生は、大いなる輪廻の奴隷である。すなわち、彼らは妻や夫や子供に愛著し、自由がなく、自己を向上させない人たちである。
 そのような彼らを、自由で、自己の向上を喜ぶところに赴くようにさせるために、彼らに法を説こうとして、衆生に菩薩の大悲を起こすのである。」
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今日のAMRITAチャンネル「賛歌・イメージビデオ」

2013-09-20 05:07:37 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「賛歌・イメージビデオ」です。


曲目

1.我が師(日本語版)
2.深く潜れ、おお心よ
3.放棄の翼
4.あなただけが私の母
5.願い
6.ハヌマーンチャリサ
7.あなたの愛に
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今日のAMRITAチャンネル「アニメ・リトルクリシュナ 第八話」

2013-09-18 16:32:29 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ・リトルクリシュナ 第8話」です。
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(4)サンジヴィニの秘法

2013-09-15 06:07:30 | 要約・マハーバーラタ


(4)サンジヴィニの秘法


 天界(デーヴァ)と阿修羅(アスラ)は、定期的に激しい戦争を繰り広げるといわれています。

 あるとき、この両者の長い戦争が続いていました。
 天界・阿修羅ともに、それぞれ精神的指導者がついていました。天界にはプリハスバティ師、阿修羅界にはシュクラ師という賢者がついていました。天界と阿修羅界は戦争をしていましたが、このプリハスバティ師とシュクラ師は、ともに賢者としてお互いを認め合っていました。

 この二人の賢者はお互いに同じくらいに偉大な賢者だったのですが、阿修羅界の側についているシュクラ師のみが持っている秘法がありました。それは死んだ者をたちまちのうちに生き返らせることができる「サンジヴィニの秘法」でした。この秘法があるために、阿修羅の側は、殺されても何度も生き返り、これによって戦況は阿修羅界有利に運んでいました。

 そこで天の神々は一計を案じ、プリハスバティ師の息子であるカチャに、シュクラ師に弟子入りして、何とかしてサンジヴィニの秘法を伝授してもらってきてくれ、と頼みました。カチャは了承し、シュクラ師のもとへ行って、弟子入りを懇願しました。シュクラ師は、プリハスバティ師に敬意を表していたので、その息子であるカチャの弟子入りを、喜んで認めました。

 シュクラ師には、デーヴァヤーニーというかわいい一人娘がいました。カチャは、シュクラ師に一生懸命仕えるとともに、デーヴァヤーニーのためにも一生懸命尽くしたので、デーヴァヤーニーはカチャに恋心を抱くようになっていきました。

 ところで阿修羅たちは、カチャがシュクラ師に弟子入りしたといううわさを聞いて、これはきっとシュクラ師のサンジヴィニの秘法を盗みに来たに違いないと思い、カチャを暗殺してしまいました。カチャに対して強い愛着があったデーヴァヤーニーはこれを大変悲しみ、父のシュクラ師に懇願したので、シュクラ師はサンジヴィニの秘法で、カチャを生き返らせました。

 同じことが何度も繰り返され、そのたびにカチャは生き返ってくるので、阿修羅たちは一計を案じました。カチャを暗殺し、その死体を焼き、その灰を酒に混ぜて、その酒をシュクラ師に飲ませてしまったのです。

 またもやデーヴァヤーニーが、カチャを生き返らせてくれるようにシュクラ師に頼みましたが、シュクラ師は次のように言いました。
「娘や、これは困ったことになった。阿修羅たちの策略によって、私はカチャの死体を焼いた灰を飲んでしまった。今、カチャの身体を復活させたとしたら、カチャは私の腹を割いて出てこなければいけないので、私のほうが死んでしまうだろう。つまり、私が死ぬことによってのみ、カチャを生き返らせることができるというわけじゃ。」

 しかしデーヴァヤーニーにとっては、カチャを失うことも、父を失うことも、どちらも耐え難いことでした。そこで思索した結果、シュクラ師はカチャに次のように言いました。
「カチャよ。デーヴァヤーニーのために、私はお前を生き返らせなければならぬし、同様に私自身も死ぬことはできぬ。
 そこでたった一つの方法は、お前が私の腹を突き破って生き返った後、今度はお前が私を生き返らせてくれ。そのためにお前にサンジヴィニの秘法を伝授するしかない。」

 こうしてシュクラ師は、まずカチャの意識だけをよみがえらせて、カチャに「サンジヴィニの秘法」を伝授すると、カチャの身体を生き返らせました。カチャはシュクラ師の腹を突き破って出てくると、約束どおり、今度はカチャが「サンジヴィニの秘法」を使い、シュクラ師をよみがえらせました。

 カチャはシュクラ師に礼をして、「あなた様は無智な私に多くの知識を授けてくださったので、私の父親も同然でございます。さらに私はあなた様の腹から出てきましたので、あなた様は私の母親も同然でございます。」と言って敬意を表し、以前にもましてシュクラ師にかいがいしく尽くしました。

 数年後、いよいよカチャが天界に戻るときがやってきました。カチャがシュクラ師に別れを告げ、出発しようとしたとき、デーヴァヤーニーが、自分を妻としてもらってくれるよう、カチャに懇願しました。しかしカチャは、
「シュクラ師は、私にとって父であり母であるような方です。私はシュクラ師のお腹から出てきたので、私はあなたの弟のようなものなのです。だから私はあなたと結婚することはできないのです。」
と言って、やんわりと断り、去っていきました。シュクラ師は、悲しむデーヴァヤーニーを慰めました。

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(3)アンバー姫の復讐

2013-09-15 06:03:20 | 要約・マハーバーラタ
(3)アンバー姫の復讐


 シャーンタヌ王が王位を退いたあと、約束どおり、シャーンタヌ王とサティヤヴァティーの間に生まれた長男であるチットラーンガダが、ハスティナープラの新たな王になりました。

 しかしこのチットラーンガダ王は、ガンダルヴァ(音楽をつかさどる、鳥のような姿の神)との戦いで殺されてしまいました。

 そこで次男のヴィチットラヴィーリヤが正当な王位継承者となりましたが、彼はまだ未成年であったため、成年に達するまで、彼に代わってビーシュマ(デーヴァプラタ)が王国を治めました。

 ヴィチットラヴィーリヤが青春期を迎えたとき、ビーシュマは、彼のために花嫁を探そうと思いました。
 そしてカーシー国(現在のヴァラナシ)の三人の王女たち(アンバー、アンビカー、アンバーリカー)が、婿選びの催しをするという話を聞きつけて、ビーシュマはカーシー国へと向かいました。

 カーシー国の三人の王女たちは皆、その美貌と教養の高さで有名だったので、近隣諸国の多くの王子たちがその催しにやってきていました。

 しかし王子たちは、ビーシュマの姿を見つけると、大変落胆しました。ビーシュマは自分ではなく異母弟のヴィチットラヴィーリヤの嫁を探しに来たのですが、王子たちはビーシュマ自身が嫁を探しに来たと勘違いしたのです。そしてビーシュマの戦士としての強さは大変知れ渡っていたので、王女をかけて強さ比べになった場合、誰もビーシュマにはかなわないだろうと、王子たちは落胆したのでした。

 悔しさのあまり王子たちは、ビーシュマに対する侮辱の言葉を口にしました。
「このビーシュマという老人は、自分がもう年をとりすぎていることも、一生独身を通すと誓ったことも、忘れちまったんじゃないか? ちぇっ、やなこった!」

 これを聞いたビーシュマは激怒し、王子たちに決闘を申し込みました。そして圧倒的な強さですべての王子に打ち勝ったビーシュマは、三人の王女たちを自分の馬車に乗せて、ハスティナープラへと走り始めました。

 しかし馬車がわずかに進んだところで、一人の男が馬車の前に立ちはだかりました。それはサウバラ国の王であるシャルヴァでした。
 実はシャルヴァ王は、カーシー国の王女の一人であるアンバー姫と、以前からお互いに愛し合っていたのです。そこでアンバー姫をかけて、ビーシュマとシャルバ王の一騎打ちが始まりましたが、またもや圧倒的強さでビーシュマがシャルバ王を打ち負かし、ビーシュマは王女たちを連れて、ハスティナープラへと帰っていきました。

 ハスティナープラに到着したビーシュマは、三人の王女とヴィチットラヴィーリヤ王子の結婚式を執り行なうことにしました。
 しかしアンバー姫は、ビーシュマに異議申し立てをしました。自分はもともとシャルヴァ王と愛し合っており、それを知っていながら力づくでこのように連れ去ってくるとは、クシャトリヤ(武士)の道に反するのではないか、という言い分でした。

 アンバー姫の言い分を聞いてもっともだと思ったビーシュマは、付き添いをつけて、アンバー姫をシャルヴァ王の元へと送り届けてあげました。そして、残ったアンビカーとアンバーリカーの二人の王女と、ヴィチットラヴィーリヤ王子の結婚式を執り行なったのでした。


 一方、愛するシャルヴァ王の元へやってきたアンバー姫は、シャルヴァ王に事の次第を説明して言いました。
「私は最初からあなた様を私の夫と心に決めておりました。ビーシュマも理解し、私をあなたの元へと送り届けました。どうか私を娶ってください。」

 しかしシャルヴァは、こう答えました。
「私は多くの人々が見ている前でビーシュマと戦い、負け、ビーシュマはあなたを連れ去っていきました。私は完全に面目を失ったのです。ですから今さらあなたを自分の妻として迎えるなどということはできません。ビーシュマの元へ帰り、彼の言うとおりになさってください。」

 そこでアンバー姫はハスティナープラに戻り、ビーシュマに事の次第を説明しました。ビーシュマはヴィチットラヴィーリヤ王子に、アンバー姫も嫁にもらうように勧めてみましたが、ヴィチットラヴィーリヤ王子は、他の男のことを思っている女とは結婚はできぬと言って、アンバー姫を拒絶しました。

 そこでアンバー姫は、今度はビーシュマに、責任を取って自分をもらってくれるように言いましたが、生涯独身の誓いを立てているビーシュマは、もちろん断りました。

 諸国の他の王子たちも、事の成り行きを知っているため、アンバー姫を嫁にもらおうという者はおりませんでした。こうして、美しさの誉れ高いアンバー姫は、誰も貰い手のいないまま、六年間もつらい日々をすごしました。

 そしてアンバー姫は苦悩のうちに、自分の青春の日々と人生を台無しにしてくれたのはすべてあのビーシュマのせいだと逆恨みし、ビーシュマに対する激しい憎悪で燃え上がりました。そしてビーシュマと戦って殺し、仇を討ってくれる戦士を捜し求めましたが、無駄でした。ビーシュマの圧倒的な強さは、諸国に知れ渡っていたからです。

 ついにアンバー姫は、自ら厳しい荒行に入り、スブラーマニヤ神の加護を求めました。するとスブラーマニヤ神がアンバー姫の前に現われ、決して枯れない蓮の花輪をアンバー姫に与えて、こう言いました。
「その花輪を首にかける者が、ビーシュマの敵対者となってくれるであろう。」

 そこでアンバー姫は再びさまざまな戦士たちを訪ねましたが、誰もその花輪を受け取ってくれる者はいませんでした。最後に彼女はドルパダ王の元へ行きましたが、彼もそれを拒否したので、アンバー姫はその花輪をドルパダ王の城の門にかけて、立ち去りました。


 次にアンバー姫は、当時、ビーシュマにも匹敵するほどの最高の勇者といわれていたパラシュラーマの元を訪ね、事情を話しました。パラシュラーマは、アンバー姫を哀れに思い、ビーシュマに戦いを挑みました。
 ビーシュマとパラシュラーマの戦いはほぼ互角で、なかなか勝負がつきませんでしたが、最後にはやはりビーシュマが勝利したのでした。


 悲しみと怒りで憔悴しきっていたものの、わずかにビーシュマへの復讐の思いだけで生きながらえていたアンバー姫は、一切の人間的試みが失敗した今となっては、シヴァ神の恩寵に頼るほかはないと考え、ヒマラヤに入って激しい修行に打ち込みました。するとやがてシヴァ神が現われ、アンバー姫が次に生まれ変わったとき、ビーシュマを殺すであろう、と告げました。

 アンバー姫は喜びましたが、来世が待ちきれなくなり、自ら火の中に飛び込んで自殺したのでした。

 こうして死んだアンバー姫は、ドルパダ王の娘として生まれました。ドルパダ王の城の門には、アンバー姫がかけた、あの蓮の花輪がまだかけられていました。恐怖のために、誰も手をつけられずにいたのです。
 生後数年たって、アンバー姫の生まれ変わりであるドルパダ王の娘は、この蓮の花輪を見つけると、自らそれを取って、自分の首にかけました。ドルパダ王は娘の無鉄砲さに驚くとともに、ビーシュマの怒りを恐れ、娘を森に追放してしまいました。
 彼女は森で苦行を積み、やがて男子に変身し、シカンディンという名の武士として知られるようになったのでした。
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(2)ビーシュマの誓い

2013-09-15 05:43:54 | 要約・マハーバーラタ

(2)ビーシュマの誓い



 シャーンタヌ王が、ガンガー女神との間にできた八番目の息子デーヴァプラタを城に連れ帰って皇太子の座につけてから四年ほどたったある日のこと、王がヤムナー河の土手を散策していると、いきなり、あたりの空気が神々しい甘い香りに満たされました。王がその香りの源を探っていくと、そこには女神のように美しい、サティヤヴァティーという女性がいました。ある賢者が、身体から神々しい芳香が発するようにというサティヤヴァティーの願いをかなえてやったために、彼女はいつも身体からそのような香りを発するようになっていたのでした。

 シャーンタヌ王は、ガンガー女神に去られてからというもの、自分の肉欲を抑制し、苦行者のように生きていましたが、この美しくかぐわしいサティヤヴァティーを見た瞬間、再び激しい肉欲が復活してしまいました。そして王は、サティヤヴァティーに求婚しました。

 サティヤヴァティーは、
「私は漁夫の頭の娘です。私を妻にしたいなら、どうぞ父に承諾を取ってください。」
と答えました。そこで王は、サティヤヴァティーの父親に会いに行き、サティヤヴァティーを后として迎えたいという願いを伝えました。

 サティヤヴァティーの父親は抜け目のない男で、王にこう答えました。
「王様、たしかにこの娘をあなた様に嫁がせるのは、大変な光栄でございます。
 ただし、ひとつだけお約束をしてほしいのでございます。この娘から生まれる子供を、あなた様の次の王にさせると約束してほしいのです。」

 情欲に駆られてほとんど気がおかしくなりかけてはいたものの、シャーンタヌ王は、この約束を受けることはできませんでした。なぜなら、それは本来王位を継承する権利のあるデーヴァプラタ王子をのけ者にすることになってしまうからです。そこで王は、城に帰り、一人で思い悩んでいました。

 やさしく聡明な息子であるデーヴァプラタは、最近、父が思い悩んでいる姿を見て、何があったのかと王に尋ねましたが、シャーンタヌ王は、本当のことを言うのは恥ずかしいので、適当なことを言ってはぐらかしていました。しかし聡明なデーヴァプラタは独自に調査をし、父が思い悩んでいる本当の原因を知ったのでした。

 デーヴァプラタは自らサティヤヴァティーの父親のところに行き、こう言いました。
「私は、王位第一継承者としての自分の権利を放棄することを誓おう。そしてサティヤヴァティーが生む子供を次の王にさせることを約束する。だからサティヤヴァティーとシャーンタヌ王の結婚を認めてほしい。」

 サティヤヴァティーの父親は、これを聞いてこう答えました。
「ああ、あなた様は、これまでいかなる王族もなさったことのないことをなさいました。あなた様こそ、真の英雄でございます。
 私は、あなた様が約束をお守りになるであろうことに関しては、いかなる疑いも持っていません。しかし、あなた様にご子息ができたとき、彼らもまた王権を放棄するようになるとは思えないのでございます。あなた様のご子息が力ずくで王の座を奪い取るようになるのではないかと、こうした懸念が、私の心をさいなむのでございます。」

 サティヤヴァティーの父親のこのようなややこしい懸念を聞かされたとき、父親の望みをかなえてやりたい一心のデーヴァプラタ王子は、腕をまっすぐ天に上げ、ついに次のような最高の誓いをしました。

「私は決して結婚せず、一生純潔を守ることをここに誓う!」


 デーヴァプラタ王子がこの誓いを宣言したとき、神々は、彼の頭上にたくさんの花を降らせました。 
 そして、「ビーシュマよ! ビーシュマよ!」という声が、空中に響き渡りました。
 「ビーシュマ」というのは、ものすごい誓いを立ててそれを成し遂げる人を意味します。このときからデーヴァプラタ王子は、人々から「ビーシュマ」というあだ名で呼ばれるようになりました。


 こうしてシャーンタヌ王はサティヤヴァティーと結婚し、チットラーンガダとヴィチットラヴィーリヤという二人の息子をもうけたのでした。
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