ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

解説「実写版ラーマヤナ 第二十話」

2013-01-31 20:36:29 | 勉強会より抜粋

20111023 解説「実写版ラーマヤナ 第二十話」



◎とてつもない真理へのサイン

 今日は「菩薩の生き方」の続きですが、その前にまた、今観た『ラーマーヤナ』のちょっとだけ話をすると、この場面はしばらく続く場面ですが、簡単に言うと、カイケーイーというバラタという人のお母さんの策略によって、ラーマが国を追放され、そして王位を奪われたと。それは息子バラタのためにカイケーイーがやったわけだけど、バラタはお母さんの意に反して――もちろんラーマのことが非常に大好きっていうかな、ラーマを非常に愛していたし、しかも正しくダルマに則って生きるっていう強い誠実さを持っていたから、母の煩悩によって愛する兄ラーマが追放され、自分がその代わりに王位に就くなんてことは耐えられなかったわけですね。そこで自分はそれを放棄すると宣言して、ラーマを捜しに行くわけだね。
 で、ラーマと出会って、で、ラーマに自分の想いを伝えるわけだけども、しかしラーマはそれを拒否するわけですね。つまり、自分はダルマに則って生きると。つまりこの背景には、父親であるダシャラタ王のカイケーイーとの約束があり、それを守ったっていう一つのダルマを貫いたっていう背景があったので、自分はそれをしっかりとね、父の意志を受け継ぐんだと。それから外れることはできないんだと、断固として言い張るわけだね。
 しかしバラタは――バラタは今日観ても分かったように、途中からはもう理屈がない。つまり、「あなたこそ真の継承者です」っていうのは理屈なわけだけども、途中からは理屈もなくなって、もうとにかくあなたがいないとわたしは生きていけないと。ね。わたしはあなたに対する愛でいっぱいなんだと。だから戻ってきてほしいと。あなたが追放されて、わたしがのうのうと贅沢な王様の暮らしをするなんて、絶対にできないんだと。そのような理屈を超えた愛によって訴えるわけだね。
 それに、今日観ても面白かったと思うけど、グル・ヴァシシュタっていう――このグル・ヴァシシュタっていうのは、日本ではあまり知られてないんですが、ヒンドゥー教とかヨーガの世界で非常に重要視される、ヨーガ・スートラとかと並んでね、重要視される「ヨーガヴァシシュタ」っていう経典があるんですが、この著者でもあるんだね。だから大聖者として知られる方なんですけども。この大聖者ヴァシシュタさえも、バラタの愛にちょっと頭がおかしくなってきちゃって(笑)、バラタの愛に智慧が吹っ飛んじゃって、もうどうしたらいいか分かんないってなってしまうぐらい、強烈な愛だったわけだね。
 で、ラーマの方は逆にいわゆるダルマ。ね。つまり何があってもダルマを守り通すと。これで一貫して譲らないと。この二人の――つまりラーマは、ダルマを守り通すから城へは帰らないと。バラタは、強烈な愛によってラーマを連れ戻したいと。どっちも素晴らしいあらわれであって、素晴らしい心のあらわれであって、誰にもどちらが正しいかを判別することはできないという場面だったわけですね。
 で、この後、この決着が次の話でつくわけですけども、それはまた非常に感動的な話なので楽しみにしておいてください。T君がこの編集とかしてて、わたしにスカイプで「先生! これは最高に感動です!」と(笑)。「今までで一番感動です!」っていうお知らせが来て(笑)、実際感動だったわけですけども(笑)。まあそれは楽しみにしておいてください。
 もう少し解説をすると、ここでラーマが貫こうとしていたダルマっていうのは、もちろん非常に大事なことなんですね。ダルマを貫くっていうのは。ただちょっと勘違いしちゃいけないのは、「ダルマ」っていった場合、よく普通に教えのことをダルマっていいますよね。例えば仏教の教え、ヒンドゥー教の教え、全部ダルマっていいます。
 ダルマってね、本当はすごく幅広い言葉なんだね。例えばね、われわれが持ってる観念のことも、よくダルマっていうんですね。だから善いも悪いもダルマってなっちゃうんだけど、ここでいうダルマは、もちろんもっと深い意味でのダルマです。で、このダルマを守る、ダルマ通り生きるっていうのは、何をいってるのかっていうと、例えば今日もこれから学ぶ『入菩提行論』に書かれてる素晴らしい教えっていうのは、もちろんすべてダルマなわけですけども、ただ、この言葉がダルマなんじゃないんだね。何を言いたいかっていうと、ダルマっていうのは、本当に宇宙を貫く、あるいはわれわれの生命を貫く絶対なる指針みたいなのがあって。で、これはね、言ってみれば本当は言葉ではなかなか表わせない。逆に言うと、言葉なんかいらないんです。言葉なんかいらない、われわれが本当に心を純粋化して、そこに焦点を合わせれば分かる。つまり「これしかないじゃないか」って分かる世界なんだね。それがダルマなんです。
 だからこれは不変なんです。だからこれをヨーガでは「サナートダルマ」――つまり永遠のダルマっていうんだね。
 表面的な教えっていうのは、時代や国で変わる。例えばお釈迦様は、その当時の人に合わせてこういう教えを説きました。しかし時代が下がってくるとそれが合わなくなってきたから、仏教は大乗仏教を説きましたとか。あるいはヨーガでも時代に応じて、カルマヨーガ、バクティヨーガ、いろんなのが登場しますと。でもそれは表面的なテクニックであって、じゃなくて、言葉を超えた「これしかない」っていう道筋があるんだね。それがダルマなんです。
 で、経典の言葉っていうのは逆にいうと、ストレートではないんだが、いろんな角度からなんとかあらわせるものを少しずつあらわして、それによってその中心にあるダルマっていうのを浮き彫りにしようとしてるんですね。
 ただもちろん、われわれは最初は無智なので、もちろん最初は馬鹿みたいに経典通りに従ってればいい。でもそれをやってるうちに、だんだんだんだん心の中で智慧が高まってきて、その経典がいろんな言葉やいろんな戒律とかいろんな教えで浮き彫りにしようとしてる真のダルマっていうのがだんだん見えてくる。そしたらそっちに心を合わせればいい。
 ちょっと極端なことを言うと、そっちに心が合えば、今度は表面的なことは結構どうでもよくなります。どうでもよくなるっていうのは、例えばちょっと極端に言うとね、悪いことをするのがダルマの人もいるんです。変な話ね。みんなに悪いことしろっていう意味じゃないよ。一般的に悪とされてることをするのが、今のわたしのダルマであるっていう場合もあるんですね。これは説明は非常に難しいわけだけども。
 さっきもラーマが、「ダルマとは個人的なものである」って言ってたけども、表面的な観念的なものじゃないんだね。例えば文字であらわされた何かがあって、全員にとってこれをやることがダルマっていうのはあり得ない。
 だからね、これはよく問題視されることではあるわけだけど、ヒンドゥー教には伝統的にカースト制度っていうのがある。このカースト制度っていうのは、もともとはダルマに則ったものだったんです。つまりそれぞれがそれぞれのダルマを持っていて、で、それを純粋に遂行するための制度と言ったらおかしいんだけども、カルマの受け皿としてそのカーストっていうのがあったんだね。わたしはその意味でのカースト制度っていうのは素晴らしいと思う。でも現代のカースト制度は、もちろんわたしは否定します。なぜ否定するかっていうと、現代のインド人達がもうエゴに染まっちゃってるから。
 この『マハーバーラタ』とか『ラーマーヤナ』をみると、やっぱり素晴らしいと思うね。素晴らしいと思うっていうのは、例えばまさに『ラーマーヤナ』とかそうなんだけど、登場人物が、特に中心的な登場人物たちね――例えばラーマももちろんそうだし、シーター、あと敵役である魔王ラーヴァナ――この辺がみんな分かってるんですね。この物語の全体像を。ラーヴァナも分かってるって面白いよね。自分が悪役だって分かってるんです。で、ラーマが偉大なる至高者だって分かってるんです。分かっていながら、自分の使命としてシーターをさらい、悪役を演じるわけですね。
 あるいは、『ラーマーヤナ』のより深い部分を説いた『アディヤートマ・ラーマーヤナ』っていうのがあるわけですけども、あれとかを見ると、この聖仙ヴァシシュタが、結構みんなにバラすんですね。例えば今の愛ですごく悩んでるバラタとか、あるいは自分の犯した罪で悩んでるカイケーイーとかに対して、「いや、実はラーマって至高者なんだよ」と、ね(笑)。「このすべての物語は、この地球の重くなったカルマを解消するために、神によって仕組まれたものなんだ」と。例えばカイケーイーは自分がね、ラーマ追放っていう大変な悪を犯してしまったって後悔をしていたわけだけども、「いや、そんな後悔する必要ない」と。「お前は使命を果たしただけだ」ということを言うわけですね。
 で、面白いのは、ヴァシシュタもラーマに教えを説きに来るんだけど、ラーマに教えを説きに来てラーマの前に来たら、いきなりちょっとパッとムードが変わって、「ラーマ様!」と――ヴァシシュタってラーマのグルなんです。ラーマの今生における師匠なわけだけど――最初は偉そうにしてるんだけど、いきなりへりくだって、「ラーマ様」と。「実はわたしは過去世において――神だったわけだけど――ラーマが地上にみんなを救いに降りるのを知って、ラーマにお近づきになりたいがために、あなたのグルとしての役割を受け入れました」と。「だからこうして来たんです」と。で、「わたしはこうして近くでこのリーラーに加担できることは大変幸せです」って言って礼拝をして、「そろそろじゃあ、またリーラーに戻りましょう」って言って、パッとまた偉そうになって「ラーマよ」とか言ってるんだね(笑)。
 こういう非常にスケールが大きいっていうか、人生全体がまさにリーラーであって、その中で自分のダルマ、自分のなすべき使命っていうかな、あるいは、使命とかダルマとかいう言葉に収まりきれない、われわれが本当に心を純粋化させたときに分かる、なすべき道っていうものを、いかにつかんで、いかに純粋にその道を歩くかっていうのが、このヒンドゥー教あるいはインド宗教の根底に流れてるんだね。
 これは素晴らしい人類の宝物であってね、こういう部分を見逃して、現代の多くの人がやってるように、表面的なインド哲学とか仏教哲学とかああだこうだやってもしょうがないんだね。この本当に人間という限定的な存在がね、非常に真理に近づき得た表現として、こういった物語が実はあるんですね。
 わたしも昔は、昔この『ラーマーヤナ』っていうのをあまり知らなかったとき、さらっと表面だけ読んで、ただの戦争の物語だなって思ってたわけだけど。日本の『桃太郎』もこの『ラーマーヤナ』からきてるっていわれてるんですが。『桃太郎』ってそうでしょ? 少年が猿を連れて島に鬼退治に行く(笑)。まさに『ラーマーヤナ』なんだね。でも日本の『桃太郎』には、使命とかそういう話は出てこない。あれは何が教訓なのかよく分からないけど、鬼を倒して終わるわけだけど。じゃなくて、このヒンドゥー教の例えば普通の物語――『ラーマーヤナ』にしろ『マハーバーラタ』にしろ、この大叙事詩は、世界のさまざまな物語に影響を与えたといわれています。極端に言えば、世界のあらゆる物語のひな形になってるともいわれてる。それだけいろんなストーリーが織り込まれてるんですね。でもそれは形だけ世界に伝わって、いろんな面白い物語のひな形になってるわけだけども。もう一回言うと、このラーマヤナとか『マハーバーラタ』が内蔵している、とてつもない真理っていうか、とてつもないわれわれの人智を超えた真理――人智を超えた真理に近づくためのさまざまなサインみたいなものっていうか、ヒントみたいなものっていうか――それがすごく多くちりばめられているんですね。



◎真のダルマ、真の愛とは

 はい、ちょっと話を戻しますが、そのダルマっていうものをラーマは貫こうとしてると。ここでラーマが貫こうとしたダルマは、もう一回言いますけども、表面的なものじゃないんです。単純に父が約束したからとかでもないんだね。この辺が難しいところで。例えばそれを皆さんが真似してね、皆さんのお父さんがなんか約束したら、「じゃあラーマも約束したから、おれはお父さんの約束を守る!」っていうのではちょっと違ってくるんだね。実はそういう表面的なものじゃない。少なくともここにおけるラーマのやるべきことはそれだったと。
 で、ラーマも言ってたように、ダルマには取引はないと。ダルマは取引ではないと。これはバラタが主張した愛も同じです。愛というのも、取引はそこには存在しないと。どちらもギブアンドテイクでもなければ、あるいは変な意味、合理的なものでもないんだね。合理でもなければギブアンドテイクでもなければ、言ってみれば論理的なものでもない。ダルマはダルマなんです。それしかないっていうのがダルマなんだね。 で、愛もまた愛なんです。ね。愛もなんの論理もないんだね。ただ純粋な心から湧き起こる――この愛の本質については、また次の回でより掘り下げられるわけですけども――純粋な、ただ相手に捧げたいと。あるいは相手の幸福を願う純粋なエネルギーであってね、この愛の本質っていうのはね。で、どちらも論理とか合理とか取引とかは全く関係ない世界なんだね。
 ここの話の話の難しいところは、ラーマもバラタも、ある意味その究極に達していたわけですね。何の論理もない、何の取引もない、純粋なダルマを貫こうとするラーマと、それから同じように何の取引もなく、エゴもなく、純粋な愛を貫こうとするバラタとのぶつかり合いだったわけですね。で、どっちが正しいんだと。ヴァシシュタさえ分からないっていうのが今日の話だったんですけど、その解決が次回お楽しみっていう感じなんですが、ちょっとだけネタバレをすると(笑)、この究極に思えた――もちろんラーマは完璧なわけだけど、究極に思えたバラタの愛にも、実はちょっとだけ曇りがあった。まあ曇りと言ったらおかしいわけだけども、ちょっとだけ穴があった。バラタの愛にね。それが次回明かされるっていうかな、次回それにバラタも気づいて、で、その結論に持ってかれるわけですけども。でもそれもわれわれから見たら全く桁違いっていうかな、桁違いの純粋で強烈な愛なんだけどね。
 バラタが示してる愛っていうのは、もちろんこれはわれわれの世界でいうと、バクティヨーガの世界です。バクティヨーガ。ちょっとこれネタバレになっちゃうんだけど、次回もちょっと出てきますが、次回シーターのお父さんであるジャナカ王っていうのが出てきて、ジャナカ王が最後裁くんですけどね。ジャナカ王っていうのは偉大な王ではあるんだけど、偉大な王であると同時に大聖者でもあってね、そのときもシヴァ神の恩寵を受けて裁きを下すわけですけども。
 そうだな、細かいことは次回にお楽しみってことにしておきますが、ある部分をバラタがね、このジャナカによって指摘されて、バラタがそれでハッとするんですね。つまり、バラタは自分で、本当に何の私心もないと。何のエゴもなく、ただラーマへの強烈な愛によってやって来て、強烈な愛によってラーマを連れ戻そうとしてると。ね。これが何の嘘偽りのないわたしの愛だって思ってたんだけども、シヴァ神の恩寵を受けたジャナカ王の言葉によってハッと目覚めるわけだね。その誰がみても純粋過ぎるほど純粋だと思っていたバラタの愛にも、実はまだ足りないものがあったと。そこでバラタはハッとして、「わたしは目覚めました」と。「わたしは間違っておりました」と。ね。「これに気づかせてくださってありがとうございます」と。そしてより完成された愛の形をとるわけですけども。
 そのときにこの前の段階で、このジャナカ王が言った言葉が――ダルマというのは、つまり宇宙を流れるこの絶対なるサナートダルマっていうのは、決して誰にも壊せないと。ね。つまりそれは絶対なる法則だから。誰かが何か考えたり言ったりして変わるもんではない。絶対に変わらない永遠のダルマていうのがあると。しかしですよ――しかし、唯一それを超えるものがあると。それが純粋なる、私心なき愛であると。で、これが例えば信仰という形をとり――つまりバクティという形をとって、帰依者が神に向かって、至高者に向かって、強烈な純粋なる至高なる私心なき愛を強烈に向けたとき――本当はそのダルマというのは神がお作りになり、神はダルマに則ったことしかやらないんだけども、その帰依者の愛が強烈であり完璧であったときのみ、至高者は自分で作ったそのダルマを、自分で曲げてしまうと。それを放棄して、信者の前に現われると。ね。これがバクティヨーガなんです。
 つまりバクティヨーガっていうのは、何度も言うけども、純粋なる私心なき愛を磨きに磨いて、それを邪魔するエゴというものを放棄しきって、その強烈な愛によって――まあ変な言い方をすれば、ダルマさえもぶち壊して(笑)、ね。今日もバラタが言ってましたけども、わたしにとっては善悪なんてどうでもいいと。ね。善悪さえもどうでもいい。正しい間違ってるなんてどうでもいい。ただあなたへの愛でわたしはいっぱいなんですと。この強烈な力によって、あらゆる法則性さえも打ち破って神が来てくださると。これがバクティヨーガなんだね。
 ダルマっていうのはすべてに浸透する、ベーシックにわれわれが守らなければいけないことなんで、当然われわれはダルマっていうものを常につかみ続けなきゃいけない。同時にバクティの道を歩む者は、今言ったそのダルマさえもぶち壊すぐらいの、強烈な愛の心――これを神に対して向けなきゃいけないんだね。
 ちょっとラーマクリシュナが面白いたとえ話を言っててね、面白いたとえ話っていうのは、お金持ちがいたとして、で、そのお金持ちの人にいろんな人が、いろいろ下心を持って近づいてくると。例えばある人はその人にお金を借りたいからうまいこと言って近づいてくると。何回か言った『杜子春』の話とかもそんな感じの話ですけどね。いろんな利権に下心をもって近づいてくる人たちがいると。でもここにそうではない、そのお金とか全く興味がなく、あるいは権力とか、あるいはさまざまな利得になんの興味もない状態で、ただそのお金持ちのその人が大好きな人がいたとするよ。で、その人に対して、その人が大好きだからある人が近づいて来て、その愛の表現とかをしたとしますよ。そうするとそのお金持ちの人は、当然その人にいろんなものを授けたいと思うんだね。あるいはその人の前に現われる。まあ変な言い方すれば、もうお金なんかどうでもいい状態で、その人を自分のそばに招き入れるかもしれない。
 これはラーマクリシュナが言ってるたとえだけどね。われわれの中にほんの小さなギブアンドテイク、あるいはほんの小さな、自分でも気づかないかもしれない合理主義、あるいはエゴ、私心みたいのがあると、やっぱりこの扉は開かれないんだね。だから全くそんなの全然関係ありませんと。ただわたしは神への愛でいっぱいなんですと。あるいはあなたに奉仕する人生を歩きたいんです、というのを至高者に向けるのが、バクティのポイントなんだね。だからラーマがあらわした真のダルマに自分を捧げる生き方、そしてバラタがあらわした真の愛に捧げる生き方、これはどちらも必要なんだね。特に皆さんみたいなバクティヨーガとか、あるいは菩薩道を歩きたいっていう人は、これはどちらも必要です。ですから表面的なことだけじゃなくて、ダルマとは何かというエッセンス、それから真の愛というのは何かというエッセンスをつかんでほしいっていうか、日々の修行でどんどん浮き彫りにさせていって、それを念正智によって忘れないようにしてほしいね。
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サーダナーの指針の花輪(311~320)

2013-01-31 08:03:12 | 経典の言葉・聖者の言葉

311.
 あなたは、大きな、広い心を持たなければならない。
 あなたは自分の富を石のように見なし、何の頓着もなく、布施しなければならない。
 それによってあなたに、非二元的なフィーリング、サマーディ、そして宇宙的な愛が花開く。


312.
 ある人々は、慈善行為をおこない、そして自分の名前が新聞で発表されることを願っている。これは慈善のタマス的なかたちである。


313.
 自分がおこなった慈善行為や、自分の慈悲心などについて、宣伝すべきではない。
 たとえ人々があなたの慈悲心を称賛したとしても、有頂天になったり傲慢になってはならない。


314.
 あなたは日々、慈悲行の機会を渇望しなければならない。
 少しの機会も逃すべきではない。
 機会を作り出さなければならない。
 自発的な慈悲行よりも偉大なるヨーガや供儀はない。


315.
 ウダラ・ヴリッティ(気前のよい、寛容な心)を開発しなさい。
 それによってあなたは、王の中の王になることができる。
 もしあなたがすべてを与えるならば、世界のすべての富はあなたのものである。
 与える者は得る。
 これは不変の、覆すことのできない自然の法則である。
 与えなさい。
 すべてを分かち合いなさい。
 最高のポジションは常に他者に与えなさい。

 
316.
 慈悲行は、相手への尊敬、自己の謙虚さ、そして喜びをもって為されなければならない。
 あなたは正しい行為で与えなければならず、慈悲行を通じて神を悟らなければならない。


317.
 苦しみを乗り越えることなく、強くなることはできない。
 苦しみを乗り越えることなく、成功することはできない。
 不幸や悲しみや迫害なくして、誰も聖者や賢者になることはできない。
 あらゆる苦しみは、その人の向上と進歩のためにあるのである。


318.
 苦しみは、忍耐力、他者への慈悲、神への信仰を増大させ、エゴイズムを取り除いてくれる。
 災難は、忍耐力と他者への慈悲を心に注ぎ込み、心を神に向けさせるための、形を変えた祝福である。


319.
 貧困は、謙虚さ、強さ、忍耐力、闘争心と粘り強さなどを育ててくれる。
 しかし贅沢は、怠惰、プライド、弱さなどの、様々な種類の悪しき習性を生じさせる。


320.
 試練とは、【彼女】が彼を崇高なる気高き超人として形作りたいときにはいつでも、【自然】が人をそこに放り投げる溶鉱炉である。
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サーダナーの指針の花輪(301~310)

2013-01-30 06:15:40 | 経典の言葉・聖者の言葉

301.
 心は、毎日磨かないと光沢を失うプレートのようなものである。
 日々の規則的な瞑想修行によって心を浄化するのを怠ると、心はけがれていってしまう。


302.
 真理を語れ。それは人を心配や悩みから解放し、安らぎと強さを与える。


303.
 真理を語ることは、最も重要なヨーギーの資格である。
 もし秤にかけるならば、一つの真理は、1000回のアシュワメーダの儀式よりも、遙かに重い。


304.
 神は真理である。
 真理を語り、思考・言葉・行為を真理によって念正智することによって、神は悟られる。


305.
 ①誠実
 ②自己の制御
 ③うらやみから来る闘争心がないこと
 ④許すこと
 ⑤謙虚
 ⑥忍耐
 ⑦嫉妬がないこと
 ⑧慈悲行
 ⑨思いやり
 ⑩平等なる慈愛
 ⑪念正智
 ⑫絶え間ない慈悲
 ⑬他者を害さないこと
 これらは、真理の十三のかたちである。


306.
 もし本当にそれが衆生の大いなる利益となる場合は、嘘をついてもよい場合もある。
 たとえば悪しき王が、正当な理由なく、ある聖者を死刑にしようとしていたとする。
 このとき、もしあなたが嘘をつくことによってその聖者が救われるとしたならば、この嘘はまさに真実である。


307.
 常に真実を語ることによって、ヨーギーは「ヴァーク・シッディ」を身につける。
 彼が考えたり話したりしたことは、すべて真実となる。
 彼は単に心に思うことによって、何でも成し遂げることができる。


308.
 「真我は、誠実の厳しい遵守によって到達できる」
 「誠実さより偉大なるものはない」
 ――これらは、聖典においてハッキリと宣言されている。
 ユディシュティラとサティヤヴラタ・ハリスチャンドラの人生を見本としなさい。彼らは自らに危険が迫る状況においても、誠実さを手放さなかったのだ。


309.
 奉仕行や布施行は、人から強請されるものではなく、自発的なものでなければならない。
 「与えること」は、あなたの習性にならなければならない。
 「与えること」が、あなたの喜びでなければならない。
 

310.
 布施や奉仕をおこなうとき、次のように考えてはいけない。
「私は大きな布施や奉仕をおこなった。
 私は天で幸せを楽しむだろう。
 私は来世、金持ちに生まれるだろう。
 布施や奉仕によって、私の悪業が浄化されるだろう。
 私のような慈悲深い人間は、他にいない。
 人々は、私が慈悲深い人間であると知るであろう。」
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サーダナーの指針の花輪(291~300)

2013-01-30 05:57:46 | 経典の言葉・聖者の言葉

291.
 次のことを、常に思い起こしなさい。
「神の恩寵によって、私は日々、より純粋に、より純粋になっている。
 この世の欲楽は、やってくるが、とどまることはない。
 この死すべき肉体は、ただの粘土のようなものだ。
 すべては終わる。
 ブラフマチャリヤーだけが唯一の道である。」


292.
 常に世界を善くあらせ、崇高な神の思いを人々に抱かせる尊い魂は、世界に大いなる恩恵を与える。


293.
 善い行いをなし、楽しげで機嫌が良く、優しい言葉を語る善き人には、敵はいない。
 もしあなたが本当に精神的進歩と救済を望むならば、あなたを傷つけようとする人や、あなたを毒殺しようとする人に対しても、親切でありなさい。


294.
 清浄は、智慧と不死に導く。
 清浄には、内的(精神的)なものと、外的(肉体的)なものの二種がある。
 精神的な清浄はより重要であるが、肉体的な清浄もまた必要である。
 内的・精神的な清浄が確立されることによって、明るく朗らかで陽気な心、精神集中力、感覚器官・行為器官の征服などを得ることができ、悟りのための準備が整う。


295.
 清浄は、ヨーギーの最高の宝石である。
 それは、聖者の最高にして最も偉大な宝物である。
 それは、献身者の最高の富である。
 

296.
 慈悲の修行、慈悲の行為、親切な奉仕、これらは心を清浄で柔軟にし、心臓の蓮華の花を上向きにし、求道者が神の光を受け取るための準備を整える。


297.
 ジャパ、キールタン、瞑想、慈悲行、プラーナーヤーマ――これらは速やかに悪業を燃やし尽くし、心を浄化することができる。


298.
 真理とは、最高の叡智である。
 大衆の支持があろうとなかろうと、真理は確固としてそびえ立つ。
 真理は永遠である。
 真理は至高に君臨する。
 真理に満ちた純粋な人々は、死ぬことがない。
 虚妄に満ちた不純な人々は、すでに死んでいる。


299.
 もしあなたが真我を悟りたいならば、純粋な心を持たなければならない。
 心が解放されていて、すべての欲望、渇愛、心配、悩み、誤謬見解、迷妄、プライド、愛欲、とらわれ、好き嫌いなどを放棄していない限り、至高の安らぎの境地、純粋な至福、不滅の境地に入ることはできない。


300.
 心は、庭のようなものである。
 庭の土を耕し、肥料をやり、雑草を取り除き、植物に水をやることによって、良い花と果物を収穫することができる。
 同様に、欲望、怒り、貪欲、誤謬見解、迷妄、プライドなどのような心の不純物を取り除き、「常に神を思うこと」という水を与えることによって、心の庭に献身の花を咲かせることができる。
 雑草は雨期に生長し、夏になると消える。しかし雑草の種は、地面の下に残っている。そして水が注がれるとすぐに再び雑草は外に芽を出す。
 同様に、心の波が表面化し、そして消えたとしても、それは微細な種の状態でサンスカーラに内在され、そして内的・外的な刺激によって再び表面化する。
 心の庭が綺麗であるとき、雑草がなく、心が純粋であるとき、あなたは深く素晴らしい瞑想の果実を得ることができる。
 したがって、まず最初に、心の不純物を清めることから始めなさい。
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今日のAMRITAチャンネル「勉強会講話 母なる神 第10回」

2013-01-30 05:48:19 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「勉強会講話 母なる神 第10回」です。
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神への門

2013-01-29 21:09:39 | 松川先生のお話


 ヒンドゥー教の大聖地の一つ、ヒマラヤの入り口にあるハリドワール(神への門という意味)の沐浴場、ハリキパイリ。

 最大の聖地ヴァラナシのガンガーは、表面的物質的には汚すぎて、沐浴するのを躊躇する日本人も多いようだが、このハリドワールあたりまで来るとかなり水は綺麗なので、ガンガーで沐浴したいけど病気になるのが怖いと思う人は、ここに行くといいと思います。デリーからも4、5時間ほどで行けます。

 しかしここは、行ったことがある人はわかると思うが、沐浴場というには、流れが異常に、あり得ないほど早い。
 流されないように、鎖がいくつもついている。みな、その鎖につかまりながら沐浴する。

 物好きなインド人たちは、この流れの異常に速い河を、こちらの岸からあちらの岸まで泳いで渡る。
 一生懸命泳がないと、流れの速さのために、横に流されていく。何とか頑張って、かなり流されつつ、あちら側に到着する。
 私も何度も、このハリドワールのガンガーの、こちらの岸とあちらの岸を往復した。
 「何のために?」と言われると困るが笑。
 子供の頃、友達と山奥の渓谷に行き、高い崖から川に飛び込んで遊んだ感覚と似ている。
 なんだかやりたくなる笑。
 何もせずに、こちらの岸でじっとしていれば、何もなく、安全であり、安穏であり、幸福である。
 しかし流れに飛び込み、泳ぎたくなるのだ。
 それは本当に、ゆらゆらゆったりと浮かんではいられない。かなり悪戦苦闘して頑張らないと、流されてしまい、あちら側にわたれないからだ。

 我々の輪廻も、このようなものなのかなと、ふと思う。
 何もしなければ我々は真我独存状態で安穏なのだが、なぜか我々は激流に飛び込む。流されながら一生懸命努力して泳ぐ。で、あっち側にわたり、わっはっは、楽しかったね、と笑う。
 つまり我々が今悪戦苦闘しているこの輪廻の苦しみも、すべては神のお遊びであり、真我のお遊びなのではないか。
 別に遊ばなくてもいいのだが笑、つい、飛び込んでしまうのだ笑
 しかしおぼれそうになりながら泳いでいる最中に、「何でこんなことをしてるんだろう」と考えてしまうと切なくなるので、考えない方がいい笑。
 自らが選んだこの泳いでいることの充実感と、向こう岸についたときの完全な安心を、忘れずにいることだ。
 あなたが小さい子供なら、それはお母さんにいいところを見せようとして、飛び込んだのかもしれない。
 向こう岸でハラハラしつつも子供を信じて腕を広げて待っているお母さんのもとへ、一生懸命、泳ぎ切るのだ。
 別にもともとお母さんの胸にいたので、そのままでも良かったのだが笑、子供というのはそういう冒険をしたがるものなのだ笑。


 あるとき見ていると、沐浴していた一人のインド人女性が、足を滑らせて激流に流されてしまった。すると即座に数人のインド人男性が慣れた感じで飛び込み、彼女を激流から救い上げた。
 救った男たちも、救われた女性も、わっはっは、良かったね、よくあることだ、という感じで談笑している。
 ああ、彼らが救済者、菩薩なのだな、と思った。

 さて我々も、泳いで流されそうになって遊んでいるだけではなく、
 どんなに体重の重い人も、泳ぎの下手な人も救えるように、
 極上のスイマーになろうではないか笑
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あいうえお

2013-01-29 19:39:55 | 松川先生のお話

甘えるな
イライラするな
うらやむな
偉ぶるな
恐れるな

愛にあふれた心で
今を生きよ
海のように広い心で
永遠なるあのお方に
おまかせしなさい

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今日のAMRITAチャンネル「アニメ・リトルクリシュナ 第五話」

2013-01-28 16:20:25 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ・リトルクリシュナ 第5話」です。
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今日のAMRITAチャンネル「勉強会講話 約束のサイン 第46回」

2013-01-27 17:18:56 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「勉強会講話 約束のサイン 第46回」です。
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今日のAMRITAチャンネル「聖典朗読 入菩提行論 第一章~第五章」

2013-01-26 21:35:11 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「聖典朗読 入菩提行論 第一章~第五章」です。
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今日のAMRITAチャンネル「賛歌・イメージビデオ」

2013-01-25 18:32:27 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「賛歌・イメージビデオ」です。


曲目

1.放棄の翼
2.ハヌマーンチャリサ
3.マハームニに捧げる歌
4.我が師
5.神のしもべに
6.ハリオームタットサット
7.クリシュナの家へ向かいゆかん
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サーダナーの指針の花輪(281~290)

2013-01-24 21:03:44 | 経典の言葉・聖者の言葉

281.
 ヨーギーは、純潔を守ることと完全な禁欲によって、神的エネルギーを蓄積することに常に専念する。


282.
 禁欲の誓いを守らない者は、怒り、嫉妬、怠惰、恐怖などの奴隷になってしまう。


283.
 欲望を完全に根絶した者、彼自身がブラフマンなり。


284.
 結婚し、家庭を作る義務を持っている者にとっても、禁欲の維持の徹底は矛盾する不可能なことではない。
 たとえばもし子供が一人でも生まれたならば、妻との間に一線を引きなさい。
 そしてもう彼女を自分の妻と見るのをやめ、自分の母と見るのだ。


285.
 ブラフマチャリヤーとは性的器官の制御だけを指すのではなく、他のすべての感覚器官・行動器官の制御もまた含んでいるのである。


286.
 完全に自分の心を支配し続ける修行は、肉体的および精神的なブラフマチャリヤーをキープするための最高の修行である。


287.
 主の御名を唱えること、サートウィックな食物、サットサンガ(師や法友と集い学ぶこと)、聖典学習、プラーナーヤーマ、祈り、キールタン、ヴィチャーラ(正しい吟味)、ヴィヴェーカ(正しい識別)・・・・・・これらの実践によって、性欲と性的衝動の根絶に成功するだろう。


288.
 時々は独居することによって、ブラフマチャリヤーの適切な理解が可能となる。


289.
 常に腰布やふんどしなどだけを身につけなさい。
 これはブラフマチャリヤーを助け、あなたを健康で豊かで賢くする。


290.
 この世は苦しみであること、外的対象は実在でないこと、そして妻や子供への執着が束縛を生むことを、忘れずにいなさい。

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シュリーラーマチャリタマーナサ(3)「悪人の恩恵」

2013-01-24 21:02:28 | 経典の言葉・聖者の言葉

「悪人の恩恵」


 わたしはまた、大恩ある人にさえ無法な敵対行動をとる悪人たちにも敬意を捧げる。悪人は、他人の幸せをつぶすことを自分の利益と思いこむ。人の不幸を見て喜び、他人の幸せには悲しみを覚える。悪人どもは、月をかじって月食を起こす悪魔ラーフに見立てられる。ヴィシュヌ神とシヴァ神という御威光という名の満月をやたらと食いかじる。ヴィシュヌ神とシヴァ神の御威徳がたたえられるところでは、どこであれ必ず邪魔だてをする。そのうえ、他者を誹謗することにかけては、千本の腕を持つ勇士サハスラバフにまさる勇猛を発揮し、アラ探しには千個の眼を光らせて狂弄する。幸福な生活をギーに例えれば、悪人の心はハエに相当する。ギーのなかに落ちこんだハエは、ギーを駄目にするばかりではなく自らも死んでしまう。悪人は身を滅ぼしてでも、幸せを妨害しようとする。

 他人を焼くことにかけては猛炎にまさり、怒りにおいては閻魔大王をも凌ぐ。罪悪と背徳の資産を蓄えることにかけては、財福の神クベーラの上をいく。悪人の増長は、万人の幸福を損なう点で、不吉の兆候とされる彗星の出現と変わらない。そこで、彼らは一年に六ヶ月間眠るラーヴァナの弟クンバカルナのように、ひたすら眠り続けてくれることが望ましい。

 雹は作物を荒らしまわったあと、自らも溶けてなくなる。悪人も他人の幸せを破壊するためならば、好んで身をほろぼす。荒々しい口調で他人の非を咎め、怒りの言葉を撒き散らす悪人を、わたしは千の口を持つ竜王様を敬うように崇めたたえる。また他人の悪事を聞くために一万の耳を欲しがる悪人を、神の賛歌を聞くために一万の耳を求めたプルトウ王と同じにみなして敬意を捧げる。

 わたしはスラ(酒)をニク(愛好)する者、つまり酒に溺れる酔漢に対しても、天帝インドラと同じように敬愛を捧げる。天使の軍隊スラニクは、天帝インドラにとって実に心強い味方である。悪人たちは千の眼で他人の弱点を探し、天帝インドラの三叉鉾にも劣らぬ苛酷さで人の罪をなじる。敵、味方、中立を問わず、他人の幸せの話を聞くとイライラして心が燃えあがる。そのような悪人どもの本性を承知のうえで合掌礼拝し、愛をこめて恭謙の意を表明する。

 わたしはいま、一方的に悪人どもに恭謙の意を示したが、彼らにはなんの影響もないだろう。どんなに深い愛情をこめて飼育しても、カラスはカラスである。カラスが肉食をやめることがあろうか?

 聖人と悪人、この両者の足をわたしはともに崇めたたえる。人に悲しみを与える点では両者とも同じであるが、そこにはまた違いもある。聖人は離別するとき命を奪わんばかりの苦しみを残して去り、悪人は出会った当初から死にまさる苦痛を与えはじめる。

 聖人と悪人はつれだって、この世に生まれてくる。とはいえ、蓮華と蛭のように、両者の役割はおのずと異なる。蓮華は見たり触れたりする人を幸せにするが、蛭は触れるが早いか血を吸いだす。

 聖人は不死の良薬アムリタに似て人を死苦から解放して彼岸に渡すが、悪人は麻薬のような錯誤、陶酔、惑乱を生んで、魂を狂わせる。良薬も麻薬も世間という名の深海から生まれた薬という点では一致する。

 聖人も悪人も、おのおのの所業にもとづいて、因果応報の果実をうける。良薬と毒薬、涼風と熱火、ガンガーとカルムナシ川、高徳の士と凶暴の徒、――これらの徳不徳、善悪吉凶の判別は一目瞭然であるが、人はみなそれぞれの因縁にふさわしい果実を自ら好ましいと思うのである。聖人は善果のみに、悪人は悪果だけに心を引かれる。

 良薬の真価は生かすことにあり、毒薬は殺すことで本領を発揮する。悪人の罪業と背信、聖人の徳行と慈愛の深さは、ともに深海に似て底までたどりつくことはできない。ここにあげた徳行と罪業の事例はほんの一部にすぎない。聖人の徳行も悪人の罪業も、その本質を理解しなければどうにもならない。聖人も悪人もともに、創造神ブラフマー様の産物に違いないが、経典には徳行と罪業を明瞭に区別する。同時に、古書経典は、ブラフマー神の創造された徳と罪とは常に表裏の関係にあるとも説く。

 福楽と悲苦、聖と俗、貴と賤、善と悪、生と死、王侯と乞食、聖職者と屠殺業者、無欲の行者と妄執の徒、聖河と罪の川、カーシー国とマガダ国、天国と地獄――これらはいずれも創造神ブラフマー様の創造の産物という点で変わりがないとはいえ、教典は両者をつねに並べて説くことを忘れない。

 創造神ブラフマ様は、生命体・非生命体、動不動の万有で構成される現象を、善と悪を織り交ぜた世界に造りあげられた。そのなかで、聖者は悪の水を避けて善の水だけを飲む白鳥に例えられる。創造神から白鳥に似た識別力を与えられるとき、人はひたすら善事のみを求めるようになる。因縁、本能、幻影などの影響によって、聖人もときに道を誤ることがある。そんなとき、聖人はすぐに過ちを認めて悪事を離れ、ふたたび名声をとり戻す。悪人もよい縁に恵まれて善事をなすこともあるが、持ち前の不純な性情は、けっしてなおることはない。

 世間には浄らかな法衣をまとう偽善者が、聖僧と紛らわしい服装ゆえに敬われることがままある。しかし、偽善者にはいつの日か必ず破滅が訪れる。ちょうど、カーラネーミー、ラーヴァナ、ラーフなどの悪魔が、しまいに身を滅ぼしたように、欺瞞は最後には通用しなくなる。いかに姿形は醜怪であっても、熊の王ジャーンバヴァットやハヌマーンがそうであったように、真の聖者はやがて世間から尊敬される。

 「良縁には善果、悪縁には悪果が伴う」――この道理は、経典でも世俗でも常識である。土埃も風に吹かれるときは空に舞いあがるが、低地に向かう流水に落ちればしまいに泥沼になる。信仰深い人の家に飼われる鸚鵡や九官鳥は『ラーム、ラーム』と神の称名を繰り返し、性悪な人間の家に飼われるものは、のべつ幕なしに悪口雑言をまくしたてる。悪縁によって真っ黒な煤となる煙も、良縁に恵まれれば経典を記録する神聖な墨汁に変わる。同じ煙が火水風の交わりを得て、大地を潤す恵みの雨ともなる。遊星、薬草、水、風、衣服などすべて、縁の善し悪しに従って良くも悪くもなる。賢くて思慮深い人は、この道理をよく弁えるがゆえに、そのような事態にも心騒ぐことがない。

 月の満ち欠けには、白月と黒月がある。前半も後半も日数は同じであるが、創造主はこれに、光り輝く半月シュクラ、暗闇の半月クリシュナという、別々の名称をなぞらえる。

 現世に存在するかぎりの有魂無魂の生命や物体、森羅万象いっさいにラーマ神が宿っておられることを認めたうえで、わたしは合掌してラーマ様の蓮華にも例うべき御足を礼拝する。善霊、悪霊、天人、人間、天龍、鳥類、死霊、祖霊、音楽神ガンダルヴァ、歌神キンナラ、悪魔ニシャチャルなどに敬意を捧げて、「なにとぞ、わたしにお慈悲を賜りますように…」と、お願いする。

 卵生、湿生、実生、胎生の四種に分けられる八万四千の種族は、それぞれに水、陸、空に住んで世界に満ちている。わたしはそれらいっさいの生類をシーター様、ラーマ様の分身とみなして、合掌礼拝して敬意を捧げる。

 わが身の知識の乏しさは承知のうえで、「恩愛の鉱山ともいうべきあなた方がこぞって、このトゥルシーダースをしもべと心得られて、どうか正しい方向にお導きください」と、敬虔の念をこめて祈願する。
 
 さて、わたしはこれから比類なく尊いラーマ神王行伝について説くつもりだが、もとよりわたしの詩才は乏しく知識は貧しい。それにひきかえ、ラーマ様のご威徳は限りなく広大である。心力と知識の蓄えは、寄る辺なき孤児にも劣るのに、望みは王侯にもまさる。人格は卑賤、願望は尊貴、不死の良薬アムリタを求めながら、現実には乳酪を精製したあとの水っぽい残滓チャチさえもままならない。善男善女の諸兄弟よ! 身のほど知らずの無謀さには目をつぶっていただき、この未熟な試作を、しどろもどろの幼児語を親が面白がって聞くように、どうか愛情をもって聞いてくださるようお願いする。

 そうは言っても、気短な人、ひねくれ者、気むずかし屋、他人への誹謗を身の飾りと心得る悪念の持ち主、そのような人々はきっとわたしの無謀を腹をかかえて笑うだろう。味わい豊かな傑作であれ、砂にも劣る味気ない駄作であれ、自作の詩に愛着を感じない者はいまい。それにひきかえ、他人の試作を素直に喜ぶような広い心の持ち主は、世間に稀である。

 諸兄弟よ! この世には、ちょっと雨が降ればすぐに溢れて洪水になる池や川のように、自分の利益にのみ執着する人があまりに多すぎる。月の満つるのを見てさざ波を立てて喜ぶ海のように、他人の利益を無心に喜べる人物はきわめて少ない。才能の乏しさも顧みずに、わたしは途方もない大きな目標に挑んでいる。それでも、この物語を聞けば善人はきっと幸せを感じ、悪人は必ず嘲笑うだろう。

 悪人に嘲笑されるのは、むしろ功徳になる。甘美な郭公の鳴き声でさえ、カラスは悪しざまにののしる。ちょうど鷺が白鳥を、蛙がほととぎすを笑うように、心の汚れた悪人は純粋な言葉を嘲笑うものだ。詩に興味を持たず、ラーマ様の御足に愛情を捧げない者にとって、この詩は恰好の笑いの種を提供するだろう。第一は詩句の組み立ての稚拙、第二は知識の貧困、これらの理由でこの詩は笑いに値する。もちろん、笑ったとしても彼らには何の罪もない。神の御足に愛情を寄せず、理解力にも欠ける者は、この物語を聞いても面白くとも何とも感じないだろう。世俗の悪論に惑わされない人、つまりヴィシュヌ神とシヴァ神の御足に平等に敬愛の念を注ぎ、両神に対していささかの偏見も、上下貴賎の差別意識も持たない信者なら、この物語を甘美に感ずるはずだ。

 性質が穏やかで心の優しい諸兄弟よ! 願わくば、この物語をラーマ信仰という名の宝玉によって創られた美術品とみなして、善意をもって鑑賞してくださるよう希望する。わたしは詩人でもなければ、説話文学の名手でもない。学問や芸術にも、とんと無謀の野人である。世間には無数の詩がある。豊富な語彙、字義、修辞学、韻文の多彩な構成、深い詩想、情感、音調、さまざまな秀作愚作がひしめきあう。この種の詩に関する知識は、わたしには何一つないことを、ここに誓書にしたためて率直に告白する。
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サーダナーの指針の花輪(271~280)

2013-01-24 20:43:09 | 経典の言葉・聖者の言葉

271.
 正しい努力によって、あなた自身を救済しなさい。
 グルはあなたを正しく道案内してくれるが、グルの導きに従ってヨーガの一つ一つの階梯に歩を進めるのは、あなた自身である。


272.
 好機がやってこないと不満を言ってはいけない。
 精神一到何事か成らざらん。
 あなたが本当に誠実に努力するならば、好機は自ずからやってくる。
 主の恩寵は、正しく努力する者にそそがれるのである。


273.
 プララブダ(今生経験しなければいけないカルマ)とプルシャールタ(個々の行為の努力)は、同一である。
 過去世のプルシャールタの結果が、今生のプララブダなのだから。
 それは、果てしなき鎖の連続である。
 正しい努力は、常にあなたに幸せな果報の収穫を与える。
 マールカンデーヤが不死を得たのも、サヴィトリーが夫をヤマ(死王)の手から取り戻したのも、努力によってであった。
 プララブダを単なる運命論としてとらえると、それは人にあきらめをもたらす。それは精神的・霊的進化の道における最悪の敵である。
 そのようなあきらめは、求道者を非常に弱めてしまい、意志力は彼から去っていってしまう。
 

274.
 あなたの運命について、決して考え込むな。
 運命は、人の思い、習性、そして人格によって形成される。
 あなたは、正しい努力によって、あなたの思うように運命を形作ることができるのだ。
 真実には、人は彼自身の運命の創り手なのである。

 
275.
 「ヨーガヴァシシュタ」を学ぶならば、あなたは、人が努力によって永遠の境地を達成できるという教えを見いだすだろう。
 プララブダは、人が一つの生から別の生に運んでくる、肉体及びそれに関係するものである。
 主ブッダも、このように強調した――「正しい努力のみが、成功をもたらす。」


276.
 ブラフマチャリヤー(禁欲行)は、人生におけるあらゆる仕事を成功させるための主要な鍵である。
 それは精神的/霊的進歩においては絶対的に必要である。


277.
 無智なる者のひどい病気(欲望)を根絶し、求道者をブラフマンの境地に確立させるために、ブラフマチャリヤーは強力な万能薬となる。


278.
 ブラフマチャリヤーとは、思いと言葉と行為における禁欲の誓いであり、それは人を真我の悟りやブラフマンの悟りへと導く。


279.
 精力は、思考、知性、生命、そして意識のエッセンスである。


280.
 一回の性行で無駄に排出されるエネルギーは、十日間の肉体労働で消費される肉体的エネルギー、または三日間の精神作業で費やされる心的エネルギーに等しい。
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今日のAMRITAチャンネル「アニメ・ハヌマーン 第八話」

2013-01-23 21:11:36 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ・ハヌマーン 第8話」です。
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