ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

今日のAMRITAチャンネル「アニメ・リトルクリシュナ 第三話」

2012-05-29 09:25:19 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ/リトルクリシュナ 第3話」です。
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今日のAmritaチャンネル「賛歌・イメージビデオ」

2012-05-25 08:23:53 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「賛歌/イメージビデオ」です。


曲目

1.あなただけが私の母
2.ホーリーマザー
3.バクティヨーガの歌
4.マハームニに捧げる歌
5.神のしもべに
6.Rama-Christians
7.あなたの愛に
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今日のAmritaチャンネル「アニメ・ハヌマーン 第八話」

2012-05-24 06:56:48 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ/ハヌマーン 第8話」です。
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今日のAmritaチャンネル「アニメ・リトルクリシュナ 第二話」

2012-05-21 19:39:29 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ/リトルクリシュナ 第2話」です。
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サーダナの指針の花輪(5)

2012-05-16 06:19:01 | 経典の言葉・聖者の言葉


41.
 心の純粋さは、すべての完成へと導く。
 よって、常に心を純粋に保つ努力をし続けなければならない。
 心の動きを常にチェックし、正しくコントロールし続けなければならない。


42.
 グル、聖者、貧者、病人への奉仕は、速やかに自己を浄化するための確実な方法である。
 神への愛と共なるこれらの適切な奉仕は、心の浄化のために、そして修行の進歩のために、最も重要な行為である。


43.
 サットヴァによって強化される理性の力を借りて、自己のプラーナと感覚を支配し続けなさい。


44.
 欲望の放棄、呼吸のコントロール、そして正しい思索は、心の動きを止めていく。そしてそれによって、愛欲と幻影の生起を阻止することができる。


45.
 厳格で厳しい修行をおこないなさい。それは乱れた感覚や行為の潜在要素を制御する、強力な手段である。日々恒常的に厳しい修行に励むことによって、それらの潜在要素の乱れは弱くなっていき、ついには静まるだろう。


46.
 炎の中に置かれている限り、鉄は赤く熱いままである。しかし炎から取り出されると、鉄は冷え、赤い色も失う。常に鉄を赤く熱くしておきたいならば、常に炎の中に入れておかなければならない。
 同様に、もしあなたが常に神意識を保ち続けたいならば、完全な自己の心の制御を保ち続けなければならない。
 ブラフマンの心の炎によって、あなたの心を溶かし、消滅させなければならないのである。


47.
 あなた自身を浄化しなさい。
 騒ぐ感覚意識を静まらせなさい。
 心を安らがせなさい。
 思考を黙らせなさい。
 外に向かいたがる心の習性やエネルギーを、静めなさい。


48.
 あなたが正しい方法を知るならば、心を制御・コントロールすることは、とても簡単である。
 まず、神への強い信仰が必要だ。
 そして、あなたの心と習性について分析しなさい。
 心の動きを観察しなさい。
 祈りなさい。
 あなたの習性と欠点について学び、適当な方法によってそれらを取り去りなさい。  


49.
 自分の行動と感覚に、規律を守らせなさい。
 それらを自己のコントロール下に完璧に置きなさい。
 識別智と放棄の心によって、それらを征服しなさい。
 家に住みながらも、出家修行者のような生活を送りなさい。
 困難と苦しみの中で、あなた自身を鍛え上げなさい。
 必要なものを減らしなさい。
 あなたの個人的な事や物に、多くの費用を費やさないようにしなさい。
 エゴ、欲望、渇愛、とらわれから解放された心を作り上げなさい。
 これらによってあなたは、自己の浄化を達成するだろう。


50.
 心の制御のための二つの方法がある。
 一つは、ヨーガによって外側に向かう心の傾向を封じ込めることであり、
 もう一つは、ブラフマンの熟考を通した叡智である。
 ある場合はヨーガが、そしてある場合は叡智が有効である。
 それは、修行者の好みや気質、能力やキャパシティに依存する。
 また現代においては、経済的な問題なども関わってくる。
 ヨーガは、住居、食物、そしてヨーガのための他の必需品を用意できるならば、実行できる。
 独身で、放浪生活を送れる者は、ブラフマンの熟考をおこなうことができる。
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今日のAMRITAチャンネル「アニメ・リトルクリシュナ 第一話」

2012-05-15 21:04:25 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ/リトルクリシュナ 第1話」です。
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ギリシュ・チャンドラ・ゴーシュ(1)

2012-05-15 09:36:13 | 聖者の生涯


ギリシュ・チャンドラ・ゴーシュの生涯



 私たちのような一般人にとって、偉大な聖者たちの活動の意図をはかることは、不可能であることがしばしばあります。
 人は自分の精神的キャパシティの中で判断し、時には偉人たちの行動の背景にある動機を理解しようとせずに批判することもあります。
 ブッダの伝記の中には、お釈迦様がヴェーサーリーの権力者たちからの晩餐の招待を断り、アンバパーリーという娼婦からの招待を受けたことに、権力者たちが失望したという記述があります。
 イエス・キリストの弟子たちは、イエスが社会的に軽蔑されていたサジタリアンの女性と話すのを見て驚き、シモンは、ある不道徳な女性がイエスの足に聖油を塗ることをなぜ彼が許可したのかと理解に苦しみました。
 同じように、シュリ・ラーマクリシュナは売春婦や酔っ払いたちに「道徳的嫌悪」を示していないとして非難を浴びました。
 しかし偉大な魂は、罪人たちさえ高徳な人々と同様に愛するという特徴を持ちます。
 実際に、ちょうど母親が五体満足の子よりも障害を持つ子に対してより多くの愛情を注ぐように、偉大な聖者も、自分勝手で聞き分けのない神の子供達に対してより多くの慈悲の念を抱くのです。
 結局のところ、善人が良いことをしてどれほどの栄光がそこにあるのでしょうか?
 仏陀やキリスト、ラーマクリシュナといった神人たちは、堕落者や虐げられている人々、貧困者に特別な愛情を注ぎ、彼らを素晴らしい意識状態に引き上げました。彼らは罪人を聖者に変えました。

 ギリシュ・チャンドラ・ゴーシュは、シュリー・ラーマクリシュナの救済の力によって引き上げられた蝶でした。
 ギリシュはそれまで向こう見ずで快楽的な生活を送っていました。自らを放蕩者と主張し、向こう見ずで神に対して反抗的でしたが、それでも彼は強い性格で寛大な心を持つ男でした。
 1884年12月14日に行われたシュリー・ラーマクリシュナとのある会談は、ギリシュの人生に訪れた転機をよく表しています。

師「母なる神へ信仰を持ちなさい。そうすればお前はすべてを達成できるよ。」

ギリシュ「しかし、私は罪人です。」

師「罪を絶えず繰り返して言う哀れな人が、罪人になるのだよ。」

ギリシュ「師よ、私が座るこの地面は不浄になってしまうのです。」

師「どうしてそんなことを言うんだい? たとえ千年のあいだ暗闇に包まれていた部屋であっても、明かりが灯されれば闇は一瞬で消えるだろう?」

 少し間をおいてギリシュはたずねました。

「私はどうすればよいのか、教えてください。」

師「神にお前の代理人の権限を渡しなさい。そして彼に好きなようにしていただきなさい。」
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聖者の生涯「ナーロー」④(5)

2012-05-15 06:24:08 | 勉強会より抜粋

◎輪廻を洗い清める

【本文】
 再びナーローが旅を続けていると、生きた男の腹を切り裂き、胃をお湯で洗っている男に出会いました。ナーローが、グル・ティローを見なかったかと聞くと、男は、
「見たよ。でも教える前に、俺を手伝ってくれ」
と言いました。しかしナーローが断ると、男は虹の光を放って舞い上がり、こう言いました。

『深遠な教えの水で
 輪廻を洗い清めることなくして
 どうしてグルを見出せようか。
 輪廻は、その本性は束縛にあらずとも、
 習慣を形成する思考の汚物を表わしている。』

 男は消え、ナーローは気絶して倒れました。




 はい、ちょっとね、若干似たようなまた現象ですけれども――まあこれは実際似たようだけども、ちょっと違います、この次の幻影はね。これは何かっていうと、今度は死体ではなくて生きた男――実際に生きてる男がいて、その生きた男の腹を切り裂いて、その胃をお湯で洗っていると。こういう状況ですね。そこでまたナーローはその手伝いを断るわけだけど。で、そこで出た詞章が、

『深遠な教えの水で
 輪廻を洗い清めることなくして
 どうしてグルを見出せようか。
 輪廻は、その本性は束縛にあらずとも、
 習慣を形成する思考の汚物を表わしている。』

 これはさっきとの違いは、もちろんこの男が生きているってことですね。生きた男。で、その男の腹を裂いて中の胃をね、お湯で洗ってると。
 はい、まずここで考えなきゃいけないのは、

「輪廻は、その本性は束縛にあらずとも、習慣を形成する思考の汚物を表わしている。よって、深遠な教えの水で輪廻を洗い清めなきゃいけない」

――この辺はさっきから言っていることとも繋がるけども、「輪廻の本性」っていうのは、実際は束縛でもなくけがれでもない。これはちょっとさっき言ったことと矛盾するかもしれないけど――つまり輪廻っていうのは、さっきちょっとわたしが言ったのは、「輪廻っていうのは本当は存在しないんですよ。すべてはただ過去の経験からくる束縛、過去の経験の鎖にわれわれが縛られて、輪廻っていう幻影が見えてるに過ぎないんですよ」――これがさっき言った話だね。「実際はここには何も無いんですよ」と。でも実はもう一段高いっていうか、深い教えがあるんです。それは――ちょっとこれはこんがらがるかもしれないけどね――「輪廻あります(笑)。でも、あなたが輪廻って呼んでるそれは、実はもともと完成された清浄なる仏陀の浄土のようなものですよ」と。



◎生きた男の腹を切って洗うこと

 これはね、ちょっとこんがらがるかもしれないけど、別の言い方をすると――これはさ、教えの深みの違いでもあるんだね。例えばこの世っていうのがあるよね。例えば地球っていうのがあって、われわれには人生っていうのがありますと。これをどう見るか。お釈迦様が説いた第一の教えは、いつも言うように「苦」という教えなんです。「苦」。つまりこの世は苦ですよと。ね。だって見てみなさいと。世界を見れば、多くの苦がはびこっているじゃないですかと。あるいは自分の人生をみても、多くの苦しみで一杯だと。一見ね、いいことが続いて楽しいことがあるようにみえるかもしれないが、リアルに人生っていうものを、あるいはこの世界っていうものを見てみたら、苦しみの塊であると。この世が苦しみの世界、苦しみの大陸であるっていうことをまずはしっかりと認識しなさいと――これが第一の真理だね。これはこれで正しい。よって、その苦しみから脱却しなきゃいけないわけだけど。
 で、より深い大乗仏教になってくると――この輪廻が苦しみだからニルヴァーナという素晴しい世界に解脱するんだっていうのが基本的な教えなんだけど、大乗になってくると、そもそも、実は輪廻って無いんだよっていう発想になってくる。これがさっきから言っていることだね。輪廻ってもともと無いよと。輪廻っていう実体のある苦しみの世界があってそこに縛られてるんじゃなくて、もともと無いんだよと。全部、妄想ですよ――っていう世界に入ってくる、今度はね。これは多分みなさん理解しやすいでしょう。
 で、恐らくみなさんのカルマっていうかな、カルマとか知性からいって、おそらくこの話が一番しっくりくるかもしれません。一切は実は無いんですよ。夢のようなものですよ。妄想ですよ。だから、その妄想から醒めなきゃいけませんよ。妄想から醒めたら、そこには仏陀の境地しかありませんよ――これは分かりやすいね。
 しかしもうちょっと深いところにいくと――輪廻ありますよと(笑)。でもその輪廻っていわれるものの正体は、正体そのものが実は仏陀の世界なんですよと。清浄なる悟りの世界そのものなんですよと。それをあなたは勘違いして、けがれた輪廻としてね、けがれた世界、苦しみの世界として見ているだけなんですよと。じゃあ、もともと清浄なるものをけがれたものとして、苦しみの世界としてわれわれは見ているわけだけど、で、それを清浄なるその本性の状態に戻すにはどうしたらいいのか――それがここに書いてある、「深遠な教えの水で輪廻を洗い清める」と。
 はい、「深遠な教えの水で輪廻を洗い清める」って一体どういうことなのか。これもさっきから言ってることなんですが、これが実はこの「生きた男の腹を切り裂く」という表現と大きな関わりあいがある。
 つまりこれは何なのかっていうと、この「生きた男」です。生きた男の――ちょっとこれはね、イメージ的に言うので伝わるか分からないけど、イメージ的にね、受け取ってほしいけども――生きた男の腹を切り裂き、洗わなきゃいけないんです。で、これはナーローにとっては、このヴィジョン自体は第三者的なヴィジョンなんだけど、すべて自分の心の現われと考えるならば――実際にもうちょっと分かりやすく言うならば――自分でですよ、例えば自分の腹を切り裂いて、自分の内臓を洗わなきゃいけないとか、そういう状況なんだね。
 これは何を意味しているのかっていうと――もう一回言いますよ――「深遠な教えの水で、輪廻を洗い清めなきゃいけない」――これは、さっきから何度も繰り返してる、実際にこの輪廻といわれる、苦しみばかり矛盾ばかり、あるいは激しいいろんな無常なる世界の中に身を置いて、教え通り生きる。教えによって自分の考えを浄化する――それはさっきわたしが挙げた例えみたいにね――例えば、自分を裏切った人物っていうのが登場しているわけです、すでに。それでも教えには「その相手を愛せ」って教えがある。「愛せません」と。「でも一生懸命頑張って修行して、その相手を愛せるようになりました」と。ここで、ここでいうところの輪廻の洗濯っていうかな、輪廻の洗い清めがちょっとひとつできたっていうことになる。
 つまりここで、ね、何度も言うけども、皆さんに伝えたいのは、この「生きた男の腹を切って洗う」っていう――これが何を意味しているのかっていうと、それだけわれわれの修行っていうものは、生々しく、グロテスクで、そして――何ていうかな、まあ、生々しいって言った方がいいかもしれないね――机上の空論じゃないんです。生々しいんです。生々しくわれわれは、自分のけがれっていうものを見せられて、ぶち当たって、何度も挫折しそうになりながら、その生々しい状況と戦い、乗り越えなきゃいけないんだね。これがその「生きた男の腹を裂き、中の胃を洗う」――それが輪廻の洗い清めだっていう表現ですね。
 で、もう一回言うけども、それは教えによって洗い清めなきゃいけない。だからもうちょっとまとめるとね――われわれはまず教えをしっかりと学ぶと。教えを学んで、教え通り生きようっていうまず決意を固めると。最初はいいです。最初は、ねえ、例えばこのカイラスとかもそうだけどね。最初は楽しくヨーガをやり、で、「ああ、なるほど。こういう教えなんですか」と。「じゃあ、ちょっとずつ頑張っていきます」って感じなんだけど(笑)、だんだんその人の心が、さっきも言ったように、神と強く繋がれてくると、いろんな試練が与えられてきます。あるいは、新しく試練が与えられるっていうよりも、今まで曖昧にしてきた自分のいろんな問題が、バーッと表面化してきます。で、それとぶち当たらなきゃいけなくなる。
 で、ここで、何度も言うように、教えというのは机上の空論であってはいけないので、逃げられなくなるわけだね。それを教えによって何とかしなきゃいけないっていう段階に入ってくる。
 これはね、もう個別の例は挙げられないので、みなさんそれぞれ心の中で考えたらいいと思います。わたしもね、わたしですら――わたしですらっていうか、わたしは中学生くらいからヨーガとか仏教の修行を始めてるわけだけど、わたしも最初のころはいっぱいありましたよ。いっぱいあったってのは、何がいっぱいあったかって言うと、まず教えを見ますよね。「なるほどこうか! そうか! でもこれは置いておこうかな、ちょっと」と(笑)。

(一同笑)

 「この教え通り行くなら、これを何とかしなきゃいけないんだけど、ちょっと保留」と(笑)。


(一同笑)


 「今すぐには無理」と。「この問題に対して、教え通りにバッて行くのは、ちょっと今あり得ないかな?」と(笑)。「まあちょっと将来を期待して、置いとこうかな」と(笑)。そういうのがいっぱいあるんだね。そういうのがいっぱいあるんだけど、でも一生懸命頑張って教えを学んで、あるいはいろんな行法とか修行もして、自分がだんだん浄化されてくると、もう逃げられなくなってくるんだね。もうずーっと保留にしてた問題が目の前にやってきて、「あ、そろそろですか」と。でもそのころにはね、自分もだいぶ強くなってるから「対処できるかな?」ぐらいの感じになってくる。前はもう到底無理だったのが、何とかできるかもしれないなって感じが出てきて、で、ぶち当たるわけだね。
 でも、それは成功するとは限らない。そこでまた挫折っていうか、自分の悪い部分が出てきちゃって、その悪い部分に飲み込まれて後退する場合もあるね。まあそれはそれでしょうがない。そういうことを何度も繰り返して、進んだり後退したりを繰り返しながら浄化していくんだね。これが「教えによって輪廻を洗い清める」。あるいは「生きたまま内臓を取り出して洗う」ようなことですね。
 まあ、だからもう一回言うと、いってみればこういうことを言うと怖くなるかもしれないけど、修行なんてものは、生きたまま内臓を取り出して洗うようなもんなんだね(笑)。それだけ怖いし、痛いし、生々しいんです。修行っていうのはね。これはみなさん、長く修行している人は分かると思うし、これからみなさんもね、長く修行していくと分かってくると思います。そんなかっこいいものじゃない。
 例えばムドラーとかやって、終わったころには「おっ、聖者になってます」(笑)――そういうもんじゃないよね(笑)。ムドラーとかそういう修行っていうのは、準備作りにはなる。自分の意識を高めて、「さあ、高まったから問題消えます」じゃないんだよ。「高まったから、問題と対処できるかもね」っていう状態なんだね。「やっとできるかもよ」と。で、その対処するときは、何度も言うけど、生々しい。生々しいし、本当にもう自分が打ち砕かれるような気持ちのときもあるし。それは何度も言うけど、小さいころからつくってきたもの、あるいはもっと言えば過去生から、生まれる前から持ってきたもの。いろいろあるわけだね。それを最終的にはですよ、みなさんがもし仏陀になろうとしたら、オールクリアーにしなきゃいけないわけだから。一切ごまかしは駄目なんです。
 何度も言うけどさ、小乗的な「とりあえずニルヴァーナに入る」っていう場合は、別に置いておいてもオッケーです。置いておいて、とりあえず心のスイッチをオフにするっていうかな。それでパッとニルヴァーナに入るやり方はあるけども、それはまあ本質的ではない。やっぱりそうじゃなくて、完全な悟りを得たいと思ったら、生々しい、自分がずっと作ってきて、そして放っといてきたものとぶつかんなきゃいけない。
 で、これはね、普通に現実的にそういう現象が現われるっていうこともあるけども、もうひとつは、瞑想で経験することもあるね。瞑想で自分の深い生々しいドロドロとしたものと対峙してね、それを浄化する作業を瞑想でしたりとか。
 あるいはその中間的なものとしては、何か現象があるわけじゃない、現象があるわけじゃないんだけど、自分のけがれみたいなものが、何ていうかな――ちょっと言葉では表現できないような感覚として、日々感じられるようになってくるときがあります。これはこれで教えでしっかりと対処しなきゃいけないんだけどね。
 でも、とにかくすべては生々しい。いってみれば、いつも言うように、この輪廻のヴェールを一枚剥がすと、非常に生々しい状況があります。ちょっとね、今言っているのは――まあいつもこういう話はそうなんだけど、ちょっとなかなか言葉では伝えづらいことを、何とかね、こう伝えようとしているわけですけど――例えばですよ、みなさん――この中でホラー映画とか猟奇的な映画とか好きな人がもしかしたらいるかもしれないけど、もちろんそういうのはあまり見ない方がいいね。見ない方がいいけども、一応ちょっとこれは題材としてね――例えばみなさんがイメージできる限りのいろんな苦しみや、あるいは気持ち悪いことってあるでしょ? つまりいろんなそういう猟奇的なね、いろんな気持ち悪い殺人とか、あるいはそうですね、まあ事故でもいいけども、体が本当にグチャグチャにされるような事故とか。あるいはもっと人間関係的なことでもいい。人間関係的に、本当にもうあり得ないような心をズタズタにされるような出来事とかね。あるいは、もちろん実際の日々の事件とか事故のね、ニュースで挙がるようなことでも、本当に気持ち悪いような、目を覆いたくなるようなことがいっぱいある。あるいは、さっきから言ってるホラー映画とか猟奇映画とかで題材にされるような気持ち悪いシーンとかいっぱいある。あるいは、本当にちょっとカルマの悪い人っていうのは気持ち悪いのが好きなわけだけど(笑)、そういう気持ち悪い漫画とかね、いろいろあると。そのような、おどろおどろしかったり気持ち悪かったりする世界っていうのは、つまり人間が想像できるっていうことは、「ある」んです。あるっていうのは、われわれの心の中に、あるいはわれわれの瞑想世界にあるんです。で、その今普通にわれわれが想像できる「うわー、気持ち悪い」「うわー、何だこれは」「うわー……」って目を覆いたくなるようなことの百倍・千倍ほどのけがれで、われわれの心は満ちていると考えてください。で、それを教えっていう洗剤で浄化に行かなきゃいけないんだね。
 それは、自ら行かなきゃいけないんです。自ら行くっていうのは、誰かに頼めない。掃除人を雇ったりできないんだね。自分で手に教えっていう洗剤を持って、もう本当に普通だったら一歩もその部屋に入れないような、あまりにも苦しく気持ち悪い部屋に入っていって、掃除しなきゃいけないんです(笑)。これが――そうですね、ある段階からの修行だと思ってください(笑)。ね。
 ある段階からのっていうのは、さっきから言ってるように、最初のうちはそんなに深刻ではない。そんなに深刻ではないんだけども、だんだん真に迫ってくるにしたがって、そういったものとも対峙していかなきゃいけないっていうことだね。
 はい、何かシーンとしちゃってますけど(笑)――はい、じゃあここまで何か質問その他ありますか? 
 今のこのパートの説明は、前半と後半でね、ちょっとこう、レベルの違いがある。だから今最後の方に言った話、後半の話っていうのは、まあちょっと特殊な話だと思ってください。特殊っていうか、ちょっとこう秘儀的な話っていうかな。ちょっとこう、何ていうかな、一枚ヴェールを取った話だね。
 そうじゃなくて、前半に言った話の方が、現実的には大事です。つまり、日々のいろんな出来事を、教えによってね、浄化していくと。で、そこで出てくるいろんな痛みや、いろんな苦しみや生々しさに負けずに教えで浄化すると。で、教えで浄化されたあかつきには、その生々しさや苦しさや痛みっていうのは当然消えるわけだね。同じ現象が現われたとしても、全くそれが関係なくなってしまう。これも教えで浄化された状態だね。だからすべてをそのように浄化しなきゃいけないっていうことですね。
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聖者の生涯「ナーロー」④(4)

2012-05-15 06:08:32 | 勉強会より抜粋




◎究極の実在の無起源性

 はい、で、ちょっとこの個別の話が入ってきますが、ここでの問題はまず死体っていうのがありますね。そしてその死体から腹を切り裂き、腸を出してると。
 このイメージっていうか、この現象が何を現わしてるのかっていうのは、実際には複合的な意味があると思います。つまり単純にね、「はい、これはナーローの心の現われですよ」っていう一つの意味ではなくて、さまざまな複合的な意味を現わしてると考えてください。で、そのうちのいくつかを言いますね。
 一つはこの詞章との関係でまず――

『無所縁(心が働きかける対象がない)の領域において
 輪廻の束縛を
 究極の実在の無起源性によって
 断ち切らないのであれば』

っていう詞章が続いてるね。これと、この死体から腸を引き抜き細かく切り刻むっていう現象は、同じというかリンクすると考えられますね。
 つまり何を言ってるのかっていうと、この死体が現わしているものっていうのは、実際には二つ考えられます。一つは、まさにここにある無所縁、心が働きかける領域がないといわれるものです。
 つまり何を言ってるのかっていうと、無所縁――所縁っていうのはちょっと難しい仏教語だけども、対象みたいなものですね。つまりさっきから言ってる話にも繋がりますけども、実はこの世界には、一切対象はないと。でも対象がないっていうことは主体もないんだけどね。だから主体も客体も実際はない。しかしわれわれは、それがあるような錯覚をしている。
 で、この実際はなんの対象もないっていうこと自体が、一つはこの死体によって現わされてる。
 しかし何の対象もないのに、われわれは縛られてしまってるんだね。実際はどこにも何も存在しないのに、われわれは縛られてしまってる。よって、その縛ってる紐みたいなのを、断ち切らなきゃいけない。それが、この現象としてはね、刃物でこう切り刻んでるわけだけど、そうじゃなくて究極の実在の無期限性によって断ち切ると。ね。
 この「究極の実在の無起源性」っていうのは、これは言葉にするしかないので、こういう感じになっちゃうんですけども――つまり起源のない、あるいは始まることのない究極の実在っていうかな。まあこれは空性の悟りといってもいいんだけど。つまり空性の悟りを磨いて、それによって何の実体もないのにわたしを縛り付けているこの輪廻の鎖みたいなものを断ち切らなきゃいけませんよ、というのが一つのメッセージだね。



◎裏の意味

 もう一つ、裏の意味があります。もう一つ裏の意味っていうのは――なぜナーローはこのようなヴィジョンの経験をしなきゃいけなかったのか? ナーローがここで問題とされている、ナーローの心のけがれっていうのは一体何なのか?――それがこの死体というアイテムによって現わされています。それは何なのかというと、死体というのはもちろんもう死んでいます。死んでいるっていうのはつまり、過去のものです。過去のもの。つまり、われわれをこの輪廻という、本当は何もないはずのものに縛り付けている大いなる要因は、すべて「過ぎ去った経験」なんだね。それはもうすべて終わってる。
 これはさ、小さな例えではみなさんよく分かると思うんだよね。小さな例えっていうのは、例えばT君がちょっとこう何かいいことやってね、いいことっていうか何かあることを達成して、みんなから褒められたとするね。みんなに大称賛を受けたと。「わあ、すごいね!」――で、T君がすごい慢心に陥ったとするよ。「おれはすごいなあ!」と。で、その日が終わって、次の日はまた別のいろんな出来事が起きるわけだけど、T君はその昨日の褒められたっていうことにずっと執着してると。それによって慢心が高まり、真実が見えなくなる。「あれ? T君、なんか今、真実が見えてませんね」と。「何でですか?」「いやあ、昨日みんなから褒められちゃったんで、ちょっと慢心が出てしまった」と。ね。「でもそれ、昨日のことでしょ?」と。ね。
 全部そうなんだね。例えば小さいころにこういうふうに意地悪されたんで、こういうことがすごく嫌いになるとかね、いろいろあるよね。それはだって、全部過去のこと、過ぎ去ったこと。でも考えてみたらわれわれは、すべて過ぎ去ったことに縛られまくってるんだね。
 ナーローの場合は、この時点でインド一の大学者っていう地位を捨てて、グル探しに出かけてるわけだけども、ここでナーローがこのようなヴィジョンを見たっていう背景には、実際にはまだ完璧にナーローが過去の幻影というかな、過去のとらわれっていうものを、おそらく捨てきれられていなかったんではないかといわれています。
 つまりどういうことかというと、わたしは偉大な――ナーローって王族の出身といわれてるんですけども――偉大な王族の息子であって、で、わたしは多くの誰もかなわないほどの仏教の教えの理解があり、そしてインド一といわれる学者の地位にわたしはあったんだと。で、それを捨てて今、より高いものを与えてくれるグル探しに出かけてるっていう、すごくこう過去の積み上げてきた自分のアイデンティティみたいなものにね、それにまだものすごくとらわれてる。もちろん表面上は捨ててるわけですよ。それはもう素晴らしいわけだよね、つまり真の悟りを与えてくれる師匠を探すために、大学の地位をすべて捨てると。これは素晴らしいよね。その行為は素晴らしいんだけど、でも心はまだそのようなアイデンティティを大事にしてる。それはいろんな端々のナーローの発言とか態度で分かるんだね。つまり、わたしは偉大な学者なんだから、そういうやり方はできないとかね。そういうちょっとプライドを持ちつつ師匠探しを続けるわけだね。
 それはだから何度も言うように、われわれのレベルからすると、もう本当に薄いちょっとした最後に残ったようなプライドなのかもしれないけども、そのようなまだ過去を引きずってるような――つまりそれはもう死体なのに、死んでいる過去のものなのに、それにものすごい縛られてる状態があったのかもしれない。これがこの表現だね。一切は、ね、何度も言っているように、実体がないんですよ。一切は過去の幻ですよ。ね。いってみれば夢みたいなものだね、いつも言うようにね。
 輪廻っていうのは、輪廻っていうかわれわれが今経験してるこの世界っていうのは、すべて夢です。夢みたいなものです。つまり夢っていうのは、過去の経験からくる幻影みたいなものだよね。つまり、起きてるときに例えばハイキングに行って山で楽しく遊んだりしたと。そうするとその経験によって、その夜またハイキングの夢を見るかもしれない。でもそれは実体がないっていうか、単なる過去の経験を引きずってることにすぎないよね。で、これと全く同じなのが、このわれわれの現実といわれてる世界もすべてそうなんだと。われわれが過去を引きずって現われた幻影だと。



◎経験に引きずられる無智

 で、問題は、この過去を引きずって現われた幻影であるこの世界で、またわれわれはいろんな経験をするわけだね。それがまた新たな原因となって、また次の夢を見だしてしまう。この繰り返しにすぎない。ね。すべては過去の幻影ですよ。じゃあ過去の幻影を取り払ったら何があるんですか?――そこには何もない。何もないっていうか、もちろんヒンドゥ的な言い方をしたら真我しかない。ね。真の自分っていうかな。仏教的にいったら、心の本性といわれる光り輝く唯一の実体しかない。
 この「唯一の実体」っていうのは、便宜上「唯一の実体」っていう言葉を与えるしかないんで与えてるだけで、実際にはわれわれが頭で、今の概念で理解できるものではない。でも一応そういう表現をしないとしょうがないっていうだけなんだけどね。実際にはそのような概念とかでとらえられる世界っていうのは、一切存在しないと。すべては過去の記憶っていうかな、過去の経験によって縛られているだけなんだと。それを、「すべては実体がないのである」っていう刃物によってスパスパとこう切り刻んでいかなきゃいけない。
 これはみなさんに当てはめて言うと、みなさんが修行をしていく中でね、神からのそういった恐らく仕掛けが来ることがあるかもしれません。つまり、自分の過去の経験からくる――まあだいたいそうだけどね。過去の経験からくるいろんなプライドを掻き立てられたり、あるいは逆にすごく嫌悪が出たりとか、いろんな現象が起きると。で、それを、「いや、そこでわたしが今慢心を持ったり、嫌悪してしまうのは、単に過去の経験に引きずられているだけである」と。「それはすべてもう意味がない」と。全く意味がない。ね。人間っていうのは過去の経験に引きずられるがゆえに、目の前のものをありのままに見ることができない。ね。そういう経験ってみなさんもあるでしょ? 
 まあ、ちょっとこういう話っていうのはなかなか例えをあげづらいので、分かりやすい例えで言うけども。そうですね、例えばある会社の部長がいるとして、その部長が過去の経験でね、過去の経験っていうのはいろんな部下との付き合いによって、すごく好き嫌いがあったとするよ。たとえばこの部下は自分にいろいろ尽くしてくれて、いろいろ何か過去に貢物をしたりとかね(笑)、いろいろやってきたから、「こいつはいい奴だ」と。「こいつはおれは目をかけている」と。で、もう一人の部下はすごく自分に反発したりとかね、いろいろしてくるから、「こいつはあまりもう好きじゃないな」みたいに思ってたとするよ。でもまあそれはそれで仕事は別だって頭では考えてたとするよ。はい、あるとき、その嫌いな方の部下が――じゃあその好きな方の部下をAさんとして、嫌いな方をBさんとしたら――嫌いな方のBさんがある企画をあげてきたと。でもそれを何かの手違いでAさんからあがってきたと勘違いしたとするよ。で、その企画が素晴らしいものだったとするよ。で、それに目を通したときに「これはすごい」と。「これをやればこの会社は発展する」と。「さすがAだ!」と思ったとするよ。で、その直後に、「あ、それBさんでした」ってなったときにその部長は、「あ、Bだったの?」って思ってもう一回見直す。そうすると、「やっぱこれ穴があるな」と(笑)。
 ここで言いたいのは、明確に「おれはBが嫌いだからこれはやらない」って言ってるんじゃないんです。本当にそう思っちゃってるんです。本当にBだって分かった途端に穴が見えてきて、「はい、こんなのはもう論外だ」ってなっちゃうんだね(笑)。これが、経験に引きずられるわれわれの無智。
 つまりこれは一つの会社のたとえなわけだけど、このような部長がいる限りこの会社は発展しない。つまり経験に引きずられる部長ね(笑)。これちょっと極端な話だけども、経験に引きずられずに、その人が好きであろうが嫌いであろうが、冷静な目でその企画の妥当性を考えてね、本当にそれが会社のためになるかどうかを判断しなきゃいけないわけだよね。その会社の話でいったらね。
 それと同じことがわれわれの人生においてもいえるわけだね。本当の意味でわれわれの魂にとって、何が本当の意味での利益があり、何が不利益であるのかっていうのを、われわれは分からなくなってしまってる。すべてもう本当に、過去の経験によって判断するようになっちゃってる。で、そこでわれわれがラッキーだったのは、ね、ここにいるみなさんがラッキーなのは、教えに出合ってると。教えっていうのは、過去の経験関係なく一つの指針を与えるわけだね。教えっていうのは、過去の経験が関係ない。つまり過去の経験からいうと、わたしはここでこういう態度をとってしまいたいが、でも教えではそれはいけないって書いてある。教えではこういうときはこう考えなきゃいけないって書いてある。よって、過去の経験とか関係なく教えに自分を合わせる作業、これがわれわれの修行のスタートなわけですね。



◎すべての過去からの解脱

 さあ、教えに自分を合わせようと。合わせようと。で、そこで核心にせまってくると、当然すごい葛藤が起きるわけだね。ちょっとしたことなら教え通り生きられるけど、本当にもう――例えばですよ、この中にはそういう人はいないかもしれないけど、実際よく聞く話としてね、「先生、実はこういうことがあって、この人に裏切られて本当に許せないんです」と。「本当にもう、彼を許すなんてことはもうあり得ない」と。でも実はこれはちょっととても嬉しい話なんけど、これはちょっと誰とは言わないけどね、ある人が――ある人ってこのカイラスの生徒さんの一人ですけどね、今言ったようなことをずーっと言ってる人がいてね、ずっと言ってるっていうのは、実は過去にものすごいひどい目にあったことがあって、「その人はもう絶対許せない」ってずっと言ってて、でもちょっとこの話するとだんだん誰か分かってくるかもしれないけど(笑)、その人の素晴しいところは、そんなにね、もう本当に「先生が言ってる、自分に害を与えたものを愛せとかね、全くもうぼく理解できないんです!」とか言ってるんだけど、でも「わたし毎日『入菩提行論』読んでる」とかね、「毎日『心の訓練』を読んで、理解できないけど頑張ってるんです」とか言ってるんだね。つまりそれは非常に縁があるんだね。つまり頭では全く『入菩提行論』で説かれてるような「敵を愛せ」とかね、全く理解できない。しかし、毎日読んでるんです。つまりもう完全に縁がある、真理の法とね。
 で、この間その人が――そうですね、そういうことを言っててもう一年以上は経ってたんだけど、この間来て、「先生、実はこの間ふと、初めて、許そうかなと思いました」と言ってきたんだね。これは素晴らしいことで、つまりそれがカルマに教えが打ち勝った瞬間ですね。これはだからその人はもともと教えとの縁があって、頭では理解できない、表面的には理解できないんだけど、この教え――例えば『入菩提行論』というのは素晴しい秘儀だよと。あなたの心に真の利益を与えるカギだよっていうのを、おそらくうっすらと潜在意識が理解してたんでしょう。だから例えば毎日それを読むと。で、それによって、もちろん時間はかかったけども、大いなるカルマの転換が起きたわけだね。
 だって「絶対許せない」から今は「許そうかな」って、それは非常に大きいというかな。そういった葛藤を通り抜けて教えをとったときに初めて、さっきから言ってる例えで言うとね、自分を縛り付けてた輪廻の幻影の紐みたいなものが一つバラっと切れるわけだね。
 で、こういうのをわれわれはいっぱい持ってるわけです。いろんな過去の幻影に縛り付けられてる。だから、すべての過去から、われわれは解脱しないといけない。だから赤ちゃんじゃなきゃいけない(笑)、言ってみればね。過去関係ないんです。
 これは一つの理想――あの、今すぐそうなれるっていうことはないけども、一つの理想のイメージとして言いますよ。理想のイメージとしていうと、みなさんは、今生まれたばかりの赤ちゃんです。ね。過去一切関係がないんです。表面的な責任とかは、ちゃんと果たさなきゃいけないよ。仕事ほっぽらかして、「わたしは過去関係がない」とか言ってたら(笑)、単に会社に迷惑かけるだけだからね。それは駄目ですよ。そうじゃなくて、感情的な問題っていうかな、精神的な問題としては、一切過去は関係がない。「それ一体なんですか? 何のことですか?」と。



◎一切にこだわらない

 もうすべてが――これはね、これは実は瞬間瞬間やるのが理想なんです。今パッと生まれたばかりの赤ちゃんですと。で、次の瞬間にまた生まれてる。つまり一瞬一瞬わたしは新生してると。決して古くなることがないっていうかな。これは心の問題でですよ。だから決して引きずらない。
 引きずらないっていうのは、例えば誰かがね、わたしにバーッて意地悪なことしてきたとしても、一瞬後にはもう忘れている。忘れてるっていうか、頭では覚えてたとしても、心は全く引きずられないっていうかな。だから当然正しい判断ができるわけだね。これがまあ理想といえば理想です。
 ただし、それはもちろん無理です。すぐには――っていうのは、瞬間瞬間新しくなれないどころか、もう何十年も前の――まさに死体だけどね――古い過去の幻影に縛られ続けてるんだね。もっといえば過去生から、生まれる前からの幻影にわれわれはもうがんじがらめになってるんだね。だからそういったものを一つ一つ断ち切っていかなきゃいけないんだね。
 で、もう一回言うと、修行者っていうのはね――もちろん修行者じゃない人もそうなんだけど――特に修行者にとっては、毎瞬毎瞬、一瞬一瞬がリスタートなんだね。つまり一瞬一瞬、はい、また今から始まりますと。今から始まりますと。連続なんだね。
 だから決して、前に何かにも書いたけども、手遅れっていうのはあり得ない。よく言葉として使うけどね。「わたしはもう手遅れです」とか(笑)。「わたしはもう終わった」とか(笑)。そういう言葉ってあるけども、それはあり得ないんだね。終われないから(笑)。終われないし、遅れもないっていうか。常に新しく始まってるからね。そういう意識を常に持ってたらいいね。
 また別の言い方すると、つまり、こだわらないっていうことです。一切こだわらない。自分のこともそうだし、他人のことも含めてね。例えば自分が過去にこういう失敗をしてしまったとか、あるいは逆にこういう成功をしたんだとか、一切こだわらない。一瞬一瞬、新たな気持ちで現象にぶち当たると。あるいは他人に対しても、この人は昨日こういうことをしたとか、あるいはこういうことをやってくれたとか、そういうことに一切こだわらない。もちろんこだわらないで無関心になるっていう意味じゃなくて、そこにおいてね、いつも言う四無量心とか菩提心を発揮しなきゃいけないわけだけど、他人に対してはね。こだわらずにただみんなの幸福を願うと。「やあ、みんなが幸福であればいいじゃないか」という気持ちだけを持ち続けて、誰かが自分に何かしたとか、あるいは自分が過去にこういう目にあったとか、そういうことには一切こだわらないと。これは一つの実践的なメリットのある考え方だね。
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◎初心者向けの瞑想とは

2012-05-15 05:27:16 | 解説・バガヴァッド・ギーター

◎初心者向けの瞑想とは

(K)初心者に一番向く瞑想の方法を教えてください。

 初心者に一番向く瞑想? それはいろいろある(笑)。いろいろあり過ぎて……うん、いろいろあるね。例えば今日やったのもそうだけども、もし周りを気にしなくていいんだったら、今日の最後にやったような「オーム」――これをひたすら唱えると。これは正確に言うと「アー」と「オー」の中間ぐらいの音を「ウ」に変化して、最後は鼻から「ンー」。これを一息で長く唱えて。これはもうひたすら繰り返す。これは一つあるね。これはさっき言ったように、やってるときは全てがもうマントラしかこの世にないぐらいの気持ちで集中する。これが一つ。
 それから別パターンとしては、眉間なり、眉間か心臓がいいね。まあ頭頂でもいいか。頭頂・眉間・心臓。このどこかにただ集中する。でもこれは相当集中力がないと難しいけど。
 あとその前段階としてはさっきも言ったように、ヨーガでは外的な何かに集中するんです。それは画鋲でもいい。あるいはね、ロウソクでもいいです。あるいは神様の絵でもいいです。で、小さいほうがいいね。その焦点はね。だから小さいものに対して目を開けて、その場合はただグッと集中する。これもいいですね。
 あとは今日も最後にやった慈悲の瞑想とかも素晴らしいね。みんなの苦しみを吸い取って自分の幸福を与えると。この場合はこの慈悲の瞑想をやると非常に自分が、やってる本人が、心が幸福になります。これはだからさっきの集中によって心の奥に入るっていうのと全然別系統で、そうじゃなくてさっきの話でいったらいい心を作る瞑想だね。つまりエゴってのを逆転させようとしているんです。エゴっていうのはもう遥かな昔から、おれが幸せでありたいと。みんなは不幸であれと。これがエゴの正体なんです。それを逆転させる瞑想なんだね。だからこれは心の本性に行くっていうよりは、自分を幸福にするための瞑想と言ってもいい。
 だからさっきも言ったようにさ、瞑想の種類はいろいろあるんだけど、ポイントは集中力です。あるいはここにも書いてあるようにしっかり座法を組んで、蓮華座が組めれば一番いいけど、組めなかったとしても何らかの安定する座法を組んで、腰を入れて背筋を伸ばして肩の力を抜いて、自分の課題にただ集中すると。で、それができない人が多くなってきた。よって、ああ、何で瞑想できないのかねと。ああ、心が安定してないんだねと。呼吸が浅いねと。よし、じゃあ呼吸法から始めるかと。で、呼吸法が発達したんです(笑)。で、呼吸法はいいんだけどちょっと体がイライラして、あるいは体がもうダルくて駄目ですと。じゃあアーサナやるかと(笑)。だからアーサナが発達したんです。
 だから現代ではただ、「はい、瞑想」ってやるよりは、気功でもいいんだけど、アーサナとか気功とか呼吸法で、肉体とか神経とか呼吸とかエネルギーを十分に慣らしておいて、良い状態を作って瞑想したほうが効率はいいね、ただ瞑想だってやるよりは。
 だから初心者のうちはアーサナ、呼吸法、特に呼吸法が大事です。アーサナとか呼吸法とかに時間をかけて最後にちょっと瞑想するぐらいでいいかもしれない。だんだんね、その割合が逆転してくるんです。最初は例えばアーサナ五・呼吸法五・瞑想一ぐらいだったのが、だんだんアーサナ三・呼吸法五・瞑想二とかなっていって、最後のほうではアーサナ一ぐらいで、呼吸法三ぐらいで、瞑想六とかだんだん逆転してくる。だから最初から別に、瞑想、瞑想ってやんなくてもいいかもしれないね。
 あとはKさんはさっき自分でも言ってたけども、いろんな雑学が多いと。これは確かに瞑想の邪魔になります(笑)。情報の――私もそうだったんだけど、整理されない情報がいっぱい入ってると瞑想できないんです(笑)。ウニャウニャウニャウニャいろいろこう、あってね(笑)。心を統一しなきゃいけないから。
 だからちょっと今日は時間なくてあまり言わないけども、仏教とかでも瞑想の障害って五つありますよといっていて、その五つの障害を取ることから始めた方がいいです。つまり、それがあるのに瞑想だって頑張るよりは、自分はなぜ瞑想できないのかなって――ちょっと今簡単に言うとね、一つは執着。二つ目は怒りの心。三つ目は疑いの心。で、四つ目がこれは掉挙って言うんだけど、心が興奮している状態。で、この心の興奮っていうのはいろんな理由があるんだけど、その一つが情報の入れ過ぎなんです。情報を入れ過ぎてると心がざわついて瞑想できないです。最後が怠惰さとか眠気とかだね。これもいろんな理由がある。で、その理由を探して、対治って言うんだけど、デメリットを潰していくっていうようなことを最初にやった方がいいんだね。それで自然に瞑想に入れるようになってくる。いいですか。はい。

 じゃあ今日はこの辺で終わりにしましょう。ありがとうございました。

(一同)ありがとうございました。
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すべてが導き

2012-05-14 20:12:58 | 松川先生のお話

大いなる罠は、成功と失敗。
そして、称賛と非難。
快楽と苦痛。

しかし、消極的に生きる者は、罠にさえも至れず、
罠を超えることもできない。

積極的に堂々と生き、
かつ、自我の非存在性を理解せよ。

どこに「私」がいるのだ?

成功と失敗、称賛と非難、快楽と苦痛などは、
自我意識を強める大いなる罠となり得ると同時に、
自我の非実体性を発見する大いなるチャンスともなる。

ここには私はいない。
あそこにも私はいない。
しかし日常は流れ続ける。
ただ神のリーラーとして。

真理を求め、神の僕として自己を純粋化しようと努力していると、
自我意識は薄まりつつも、神の意思を実感できるチャンスが与えられる。

ここに私はいない。
どこにも私はいない。
しかし神を思い、涙がこみ上げる。

泣いているのは誰か?
歓喜しているのは誰か?
それを考えるだけで
至福に包まれる。



この肉体など、すぐに終わる。
あなたが今持っている物は、一瞬の幻。
あらゆる経験を、神への捧げ物とする。

成功と失敗、称賛と非難、快楽と苦痛などの経験により、
心の構想力は展開し、希望と恐怖が回転し、
根拠のない「私」意識が強まる。

投げ出せ。
バクティ・ヨーガ、神の僕となること、すべてが神の愛であること、
これらの教えに出会ったあなた、これらの教えを少しでも理解できたあなたは、
大変恵まれている。
なぜならこれは非常に優れたヒントだから。
出会うことの希な、理解できることの希な、ヒントだから。

投げ出すのだ。
もともと「私」などいない。
誤解を恐れずに言えば
ただ一人の神しかいないのだ。


苦難や非難を受けることは、悪いことではない。
それは時に、重大な幻影のヴェールを壊してくれる。
しかしそのためには、日々、真剣に生き、
誠実に、自己の道を進むことが必要だ。
自己を島とするということは、決して、自己のエゴをよりどころとするということではない。
誠実に、自己の歩む道を、自信を持って堂々と歩むということだ。


投げ出せ。
投げ出すのだ。
菩薩になればいいじゃないか。
この人生を、菩薩行に捧げるのだ。
菩薩の教えを学び、堂々と、その通りに生きるのだ。
そうすれば、何も怖いものはない。


悪いカルマが多くあると、実際に多くの否定的現象が生じるので、
しばらくは、上記のようなことを日々認識するのは、少し難しいかもしれない。
だからこそまずは、日々、教学、善行、戒律、懺悔、忍辱などの実践に励むのだ。
そして心を強くしなさい。
真の精神世界、仏教、ヨーガの道は、強い心でないと進めない。
今、心が弱いなら、強くなればいい。
強くやさしい人になるんだ。


そして、投げだそう。
菩薩行に、そして神の僕であることに、
この人生を投げ出すのだ。

すべては神の愛。
だから安心して進もう。



さあ、今日を境に、きっぱりと、
自己と他者に不利益なことは、やめよう。
疲れたら、しばらく倒れるのは仕方がないよ。
しかしまたすぐに立ち上がり、
自己と他者に利益のある道を、全力で進め。
人はいつ死ぬかわからないのだから、
今夜死ぬのだと考えて、
最高の生き方を選択するのだ。



私を苦しめてくれるものに、感謝します。
私を導いてくれるものに、感謝します。
すべての現象に、感謝します。
その背後にいらっしゃる、唯一のお方に、すべてを捧げて帰依いたします。
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サーダナの指針の花輪(4)

2012-05-12 20:40:53 | 経典の言葉・聖者の言葉

31.
 不死の境地と永遠の至福は、のんきな成り行き任せの冒険心で得られるものではない。不断の正智と激しい努力をし続けることが必要である。


32.
 身体において、精神において、日々教え通り生きることにおいて、そして霊的な修行において、あらゆる面で強き者こそ、理想的な魂である。彼は修行の道において簡単に成功を成し遂げることができるだろう。


33.
 心が純粋な人だけが、すべての源であるブラフマンを悟りたいという渇望を持つ。
 そのような人には、世俗的な欲望がない。そして過去世および今生においての、世俗的な行為から解放されている。
 また、そのような人は、はかなく壊れやすいこの世の外的な対象に、嫌悪感を抱くようになる。


34.
 もしヨーギーが注意深く正智しないならば、またもしヨーギーが禁戒と歓戒をしっかりと守らないならば、彼はマーラの誘惑によって、無意識のうちに理想から離されてしまうだろう。


35.
 欲望と自己中心癖に満ちた心は、修行の道には全く不適当である。


36.
 嫌悪・憎しみは、ヨーガを志す者にとって最も致命的な悪である。
 そして愛は、修行者の生命の軸である。


37.
 アラ探しや他者への批判が習性となっているような人は、修行の道において少しも前進することはない。


38.
 不誠実で、自制力の弱い人は、修行の道において成長することは非常に難しい。
 またそのような人は、直感的な帰依心や、微妙な真理を直観的に理解する智慧も、非常に鈍い。


39.
 自己を浄化することは、永遠の至福の国に至るためのパスポートである。
 神的生活を送ることは、自己の浄化と自己の制御なくしては不可能である。
 自己の制御は、エネルギー、ヴァイタリティ、心身の活力と、精神力を増大させる。


40.
 水面の波がおさまるときに、湖の底を明らかに見ることができるように、
 心の波がおさまるとき、あなたは真我を見ることができる。
コメント

サーダナの指針の花輪(3)

2012-05-12 10:42:39 | 経典の言葉・聖者の言葉

21.
 バクティ・ヨーガの修行者は、大いなる純粋な心をそなえていなくてはならない。
 ジュニャーナ・ヨーガの修行者は、大いなる落ち着き、平静さ、静けさ、安らぎ、冷静さ、不動心をそなえていなくてはならない。
 カルマ・ヨーガの修行者は、自分と他者の心を一つにすることを学ばなければならない。


22.
 ヨーガの道を志す者は、希望、欲望、そして貪りの心から自由でなければならない。

 
23.
 苦楽にとらわれない不動の心を持つ者は、永遠の境地に到達するに最もふさわしい者である。


24.
 その布が真っ白で、そして汚れていないときだけ、染料で自由に好きな色に染めることができる。
 同様に、快楽への欲望がないとき、心の不純物が破壊されたとき、そして心が穏やかなときだけ、賢者の教えは心の中に入り、そして心を変えることができる。


25.
 心優しく、親切で、短気ではない人、
 大らかであり、柔軟で、謙虚な人、
 そして常に愛と謙虚さを伴った奉仕によって他者の心を自分の心とする人、
 このような人こそが幸福であり、平和であり得ることができる。


26.
 自分の楽しみと安楽を無視して、常に他者を助けようとする者は、真に高尚なる修行者である。


27.
 苦難、試練、失意、艱難の中にあるときも、神に対する揺るがぬ信を持ち続けなければならない。全くどうすることもできないと思えるときでも、希望と救いが内側からわき上がってくるのを感じることだろう。


28.
 完璧な離欲・無頓着、厳しい自己管理、完全な自制・克己は、最高の真理の達成のために、不可欠なものである。


29.
 次のような人は、ヨーガの道を志すにふさわしい人である。 
 奉仕によって自分自身を浄化した人。
 自己の感覚をコントロールした人。
 グルと聖典の言葉を信じる人。
 救済の四つの手段を獲得した人。
 
 ※救済の四つの手段
 1.実在と非実在の識別
 2.放棄
 3.六つの徳(寂静、修習、離欲、忍耐、信、集中)
 4.渇仰


30.
 誠実さ、正直、優しい気性、親切、慈愛、慈悲、博愛、許す心、善行、奉仕――これらは、ヨーガの道を志す者にとって最も必要な要素である。


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サーダナの指針の花輪(2)

2012-05-11 20:10:24 | 経典の言葉・聖者の言葉

11.
 ヨーガ修行は心を浄化し、智慧を高める。
 すべてが一味平等であることと悟ること、それがヨーガである。


12.
 今の時代においては、ジャパこそが、あらゆる修行の中で最高の修行である。またそれは、最も簡単な修行でもある。
 神の名を繰り返し唱えることで、あなたの人生の柱、そして命綱が作られることになるだろう。


13.
 「オーム・タット・サット」は、最も素晴らしいマントラである。人はこのマントラを唱えることでシッダとなることができる。このマントラを繰り返すことで、死の征服者にもなれるのだ。


14.
 人がサティヤ・ユガ(黄金の時代)に瞑想によって到達したその境地に、トレータ・ユガ(銀の時代)には供儀によって、ドワパラ・ユガ(銅の時代)には礼拝によって、そしてカリ・ユガ(鉄の時代)には主の御名を繰り返すことによって、到達することができる。


15.
 この世の感覚的な楽しみが、はかなく、幻影であり、中身がなく、価値がないということを悟った人々は、修行の道を歩むのにふさわしい人々である。


16.
 真に悟りを渇望する者は、あらゆる状況において、完全に誠実でなければならない。


17.
 ヨーガの道を志す者は、謙虚でなければならない。
 シンプルでなければならない。
 優しくなければならない。
 気高くなければならない。
 寛大でなければならない。
 慈悲深くなければならない。
 親切でなければならない。


18.
 堅固なる帰依の心は、修行者を、永遠なるものとの接触へと導く。


19.
 修行し、忍耐し、そして鉄のような意志を持つならば、神の道を歩くことができる。


20.
 燃えるような放棄の心や、燃えるような解脱への希求心を持つことなく、様々な修行をおこなったとしても、現世的欲望や、無明から生じる執着の強い力によって、跳ね返されてしまうだろう。


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今日のAMRITAチャンネル「アニメ・ハヌマーン 第七話」

2012-05-10 07:20:30 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ/ハヌマーン 第7話」です。
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