ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

スワミ・プレーマーナンダの教え(3)

2012-03-31 20:01:50 | 経典の言葉・聖者の言葉

 わたしの望みは、すべての村や街に、シュリー・ラーマクリシュナへの礼拝を根付かせることだ。彼の御名を通して、世界中を目覚めさせることなのだ。
 すべての者の中の神性が、彼の御名の力を通して顕現することを願う。

 全身全霊で奮闘しなさい。怠惰に生きるよりは、使命を果たしながら死ぬ方がよろしい。決して怠惰であってはならない。
 イライラせずに、さまざまなあらゆる救済計画を思い描きなさい。
 主は御自身の仕事をしておられる。あなたはただの道具だ。
 もし「わたしが行為者である」という理念に支配されたら、それは束縛の原因となるだろう。不朽の幸福は決して、そのような行為からは生まれない。
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聖者の生涯「ナーロー」④(3)

2012-03-31 06:39:29 | 勉強会より抜粋

◎われ以外皆わが師

 まあそんないろんな理由でね、それを断ったと。そうしたらその男が、虹の光を放って舞い上がり、そしてこの詞章をね――

『無所縁(心が働きかける対象がない)の領域において
 輪廻の束縛を
 究極の実在の無起源性によって
 断ち切らないのであれば、
 どうしてグルを見出せようか。』

っていう言葉を唱えて、消えるわけですね。

 はい、何度も言うけども、この最初の方でナーローは、そうとは思わなかったんだけどある現象を経験して、それが実はグル・ティローの現われであったということに気づいて、で、決心するわけだね。これからは何に出会ってもグルだと見て教えを乞うぞと。ね、決心するのに、何度も間違う。ね。
 これは、われわれに当てはめて考えてみると、われわれもナーローと同じ気持ちになることができます。
 これは何回か言ってるけど、昔わたしがね、好きだった「宮本武蔵」っていう小説。まあ小説っていうか実在の人物ですけど、よくわたしは小説を読んでね、好きだったんです。最近は漫画がとても流行ってるそうですけど、その宮本武蔵の――宮本武蔵の言葉だったか、作家の吉川英治の言葉だか忘れたけども――『われ以外皆わが師』っていう言葉があるんだね。これはよくヨーガのカルマヨーガにも通じる言葉だといわれてる。「われ以外皆わが師」と。ここでいう「われ以外」というのは、もちろん自分以外の他人ともいえるし、人間以外の現象も含めてね、それはわたしの人生におけるすべてのことは、すべてわが師であると。
 ここでいう「わが師」っていうのは、二つの方向性の意味があると思います。一つは単純にね、言葉通り、すべてを自分の師と考えると。すべてからいかに学ぶかっていうのが一つ。
 もう一つは、本当に師の現われなんだっていう考え方ね。それはさっき言った至高者っていう意味でもいいけども。まあ密教とかの世界では、あまりそういう神っていう言葉とか使わないから、師匠ね、グルっていうのがすごくクローズアップされるわけですが、師匠っていう意味でいったらね――つまりちょっとぶっ飛んだ考えになるかもしれないけど、こういうことです。つまり、この世には実は、この世界では実は、わたしとわたしの師匠の二人しかいないっていう考えなんだね。実は二人しかいない。で、いや、そうではなくて日常で現われるいろんなね、多様に見えるいろんな人々とかいろんな現象とか世界を自分は経験してるように思ってるんだけど、いや、それはすべて師匠が姿を変えて、自分を導くためにいろいろやってるに過ぎないんだっていう考えがある。
 もちろんこれはヒンドゥー教的に、それを神と考えてもいいよ。神が、唯一の神、ただ一人の神だけがいらっしゃって、ただ一人の神が自分を導くために、いろんな形を変え、あるいはいろんな現象を現わして、自分を導いてると。
 これはラーマクリシュナの話にはそういう話がよく出てくるんだね。例えばラーマクリシュナが神への狂喜に狂ってね、「おお神よ!」ってやってるときに、いろんな人がラーマクリシュナにそれをやめさせようとやって来た。つまりみんな理解できずにね、ラーマクリシュナのその悟りを理解できずに、「そんな狂ったようなことをするんじゃない!」みたいな、止めに来るわけだけど、ラーマクリシュナはそこで笑って「おお神よ!」と。「あなたがそんなふりしてもわかりますよ」って(笑)――つまり、「神が反対者の振りしておれを止めに来た」みたいな感じで、こう見てるんだね。
 あるいはラーマクリシュナがあるとき馬車でね、走ってたら、いわゆる遊女っていうか、街で立って客を探してる売春婦がいたわけですね。これもヒンドゥーの伝統では、そういった売春婦とかっていうのは非常にけがらわしいものと見られる。だから普通のヒンドゥー教の高い聖職者とかだったら、「ああ、見るのもけがらわしい!」ってなるんだけど、ラーマクリシュナはその売春婦を見て大笑いしたんだね。「ああ、マーよ!」と。つまり母なる女神よと。「今日は本当によく化けていらっしゃいますよね」と(笑)。「今日はそんな売春婦のふりをして、無駄ですよ」みたいな感じで(笑)、こう言ってるんだね。
 だからラーマクリシュナにとっては、もうすべてが聖なる神の現われとしか見えなかったと。
 これはもちろん大聖者だからそうなるわけだけど、われわれはまだ自然にそう見えるまではいってないが、そういう訓練をする。すべては自分の師の現われであると。




◎何度失敗しても思い続ける

 でもね、このナーローと同じように、この話っていうのは、こういう話っていうのはみなさんも一回は聞いたことがあるかもしれない。すべてを師と見なさいと。あるいは考えたこともあるかもしれない。でもすぐ忘れるでしょ? ナーローのようにね(笑)。
 例えばある出来事があって、そこで苦しんだけども、苦しんで苦しんで、でも学んだとするよ。例えばT君がYさんになんか意地悪なこといっぱいやってきて、Yさんはもう苦しんで苦しんだけども何とか乗り越えて、で、そのときに、「ああ、やはりすべては神の現われであった」と。「T君も神の現われであった」と。「よし、これからは何があっても同じように神の現われとして生きよう」と。「すべてから学ぼう!」ってそのときは感動するんだけど、もう、一晩寝たら忘れます(笑)。一晩寝たら、今度はIさんとかが意地悪してきたら、もうまた悲劇のヒロインにこう戻ってしまうんだね(笑)。「もう、なんでわたしはこんなに……」って。これが人間の馬鹿なところで、つまりナーローでさえそうなんだから、われわれもまあ、そうなってしまうんだね。
 でもそれでも何度も何度も自分をこう引き戻してね、すべては神なんだと、あるいはすべてはグルなんだということを、何度失敗しても思わなきゃいけないんだね。
 つまり別の言い方をすると、決して自分に――例えばいろんな嫌なことやってきたり、あるいは逆に執着してしまったりとか、そういったいろんな人や対象を、実体のある対象として実体視してはならない。自分とは違う何かがボーンと現われて、それが自分に苦を与えているとか、あるいは自分に喜びを与えているとかっていう錯覚に陥ってはいけない。何度も言うけども、すべては神が現わしたマーヤーであると。ね。幻のようなものであって――もちろんそれは意味のある幻なんだけどね。つまりわたしを導こうとしている幻だと。よって、そこからいかに何かを学ぶか。ね。あるいは、いかにそれによって自分を改革し、自己改革し成長していくか――ということを考えないといけない。決して、「いや、この人はこうだからこうなんだ」っていうような、実体視したような考えをしてはいけないわけですね。 


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スワミ・プレーマーナンダの教え(2)

2012-03-30 18:47:18 | 経典の言葉・聖者の言葉

 ブラフマチャリヤーとは、誠実さと尊敬の念をもって、ジャパ、聖典の学習、瞑想、そして儀式的な礼拝を実践することを指す。
 厳格な苦行とは、言葉が心と一致することをいう。
 この状態は、規則に則ってブラフマチャリヤーを誓いつつ、少しばかりのマントラを唱えるだけで成り立つようなものだろうか?

 シュリー・ラーマクリシュナは、すべての宗教におけるすべての派の偉大な導き手であった。

 お互いの欠点を見るのではなく、親切や長所だけを見なさい。

 シュリー・ラーマクリシュナがおっしゃったように、『籾殻をはねながら、良い穀物だけとどめておく箕(ふるい)』のようでありなさい、決して良いものを駄目にし、価値のないことを押しとどめてはならないよ。

 わたしたちは、世界をラーマの顕現であると見て、自由に動かなくてはならない。
 誰かを憎んだり苦しめたりすることは、世界中に遍在するラーマを憎み苦しめることになるのだよ。

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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ・ラーマーヤナ 第28話」

2012-03-30 17:46:07 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ/ラーマーヤナ 第28話」です。
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今年は4月1日がラーマの誕生日

2012-03-29 19:32:18 | 松川先生のお話
 今年は4月1日がラーマナヴァミ、ラーマの誕生日に当たります。

 年度初めなので笑、心を入れ替えてリスタートするのにとても縁起がいいですね^^!

 インドでは、その前の新月からこのラーマナヴァミまで、至るところでラーマーヤナを読んだり、ラーマの御名を唱える声が聞こえるそうです。

 皆さんも、今日から毎日ラーマーヤナを読んだり、ラーマの御名を唱えて、聖なる日を迎えてはいかがでしょうか。

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今日のAMRITAチャンネル「賛歌・イメージビデオ ラーマ特集」

2012-03-29 16:30:40 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「賛歌/イメージビデオ」です。

今日はラーマ特集です。


曲目

1.バクティヨーガの歌
2.神のシナリオ
3.神のしもべに
4.ジャヤシーターラーム
5.シーターラーム
6.オームシュリーラム
7.あなたの愛に
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今日のAMRITAチャンネル「アニメ・ハヌマーン 第三話」

2012-03-28 16:22:59 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ/ハヌマーン 第3話」です。
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聖者の生涯「ナーロー」④(2)

2012-03-27 09:10:00 | 勉強会より抜粋

◎腸を切り刻む男


【本文】
 再びナーローが旅を続けていると、人間の死体から腸を引き抜き、細かく切り刻んでいる男に出会いました。ナーローが、グル・ティローを見なかったかと聞くと、男は、
「見たよ。でも教える前に、俺を手伝ってくれ」
と言いました。しかしナーローが断ると、男は虹の光を放って舞い上がり、こう言いました。

『無所縁(心が働きかける対象がない)の領域において
 輪廻の束縛を
 究極の実在の無起源性によって
 断ち切らないのであれば、
 どうしてグルを見出せようか。』

 男は消え、ナーローは気絶して倒れました。




 このナーローの生涯の物語は、一つのただの伝記ではなくて、修行の真髄を書いた――これは『ミラレーパの十万歌』とかもそうだけどね。伝記であると同時に奥儀書であるっていうかな、そういうものなんですが。
 実際これはあまり――例えば「心の訓練」とかああいうのはね、いろんな、ダライ・ラマを始めとしていろんな人がテーマにして出してるけれども、このナーローの生涯の話ってあんまり、まあ何冊か出てますけども、そんなに世界でも出てるわけではない。ただいくつかの本でね、いくつかの聖者とか学者がいろんな解説をしています。だから解説っていうのは一つの説です。ですから今日わたしが話す話も、一つの説ととらえてください。 
 ――っていうのは、こういったテキストっていうのは奥儀書的なものでもあるので、で、同時にみなさん自身が、『ミラレーパの十万歌』とかもそうだけどね、修行が進むたびにそのより深い意味を悟っていけばいいっていうかな、そういうものなので、あまりガチガチに、これがこういう意味で確定であるというふうに確定させる必要はない。だからあくまでも一つの説として聞いてくださいね。
 はい、ここの場面はまず、死体から腸を引き抜き、細かく切り刻んでる男に出会ったと。で、これはいつも同じパターンなんだけど、「グル・ティローって知らないか?」って言うと「見たよ」と。「でも手伝ってくれ」と。でもナーローは断るわけだね。
 はい、これをリアルにちょっとイメージしてみましょうね。てくてくとこう、グル・ティローはいないかなって歩いてたら、なんか男がいると。何やってるのかなって見たら、死体のお腹から、お腹を切り裂いてね、中から腸を引き取って、それを切り刻んでいると。「何やってんだ!」と(笑)。で、「わたしはグル・ティローっていう聖者をを探してるんですが、知りませんか」と。「いや、知ってるよ」と。「でも、その前にこれ手伝ってくれ」と。
 はい、みなさんならどうしますかね。ナーローはここで断ります。つまりそれは、単純に気持ち悪いのかもしれない。あるいは昔のインドだから、非常にね、不浄感って強いんですね、インドってね。いつも言うように、例えばインド人が例えばジュースとか回し飲みするときっていうのはこう、決して口をつけない。もう本当に習慣っていうかな、もう本当に根付いてるそういった不浄感がある。つまり人間の口っていうのは不浄であるって考えがあるから――よくわたしは高校時代とかね、柔道部とかにいたんで柔道とか練習の後とか、もう回し飲みするんだね。スポーツドリンクとかを。まあちょっと内心汚いなって思ってたけどね(笑)。みんな、だって、汗だくのさ、ハァーってこう男くさいみんなで、その人たちがプハーってこう回ってくるわけですよ(笑)。「えーっ!?」ってちょっと思っちゃうけど(笑)、でもまあいっか、って感じでこうやってたんだけど(笑)。でもインドでは、人間の口が付いたものなんていうのは非常に不浄であると。だからこの中でも前生インドとかにいた人は、結構そういうのに敏感な人もいるかもしれない。それはまあ一つの習慣なんだね。あるいは他にもね、インド独特の「これは不浄である」っていう観念があって、その不浄なるものには決して触れてはいけないし、もう触れたり――死体とかはもちろんそうですね。もういったんそれに触れたりしたら徹底的に、例えば沐浴したり、体洗ったりして浄化しなきゃいけないみたいな観念があるんだね。だから恐らくナーローも、その不浄感が強かったんでしょう。





◎われ以外皆わが師

 まあそんないろんな理由でね、それを断ったと。そうしたらその男が、虹の光を放って舞い上がり、そしてこの詞章をね――

『無所縁(心が働きかける対象がない)の領域において
 輪廻の束縛を
 究極の実在の無起源性によって
 断ち切らないのであれば、
 どうしてグルを見出せようか。』

っていう言葉を唱えて、消えるわけですね。

 はい、何度も言うけども、この最初の方でナーローは、そうとは思わなかったんだけどある現象を経験して、それが実はグル・ティローの現われであったということに気づいて、で、決心するわけだね。これからは何に出会ってもグルだと見て教えを乞うぞと。ね、決心するのに、何度も間違う。ね。
 これは、われわれに当てはめて考えてみると、われわれもナーローと同じ気持ちになることができます。
 これは何回か言ってるけど、昔わたしがね、好きだった「宮本武蔵」っていう小説。まあ小説っていうか実在の人物ですけど、よくわたしは小説を読んでね、好きだったんです。最近は漫画がとても流行ってるそうですけど、その宮本武蔵の――宮本武蔵の言葉だったか、作家の吉川英治の言葉だか忘れたけども――『われ以外皆わが師』っていう言葉があるんだね。これはよくヨーガのカルマヨーガにも通じる言葉だと言われてる。「われ以外皆わが師」と。ここでいう「われ以外」というのは、もちろん自分以外の他人ともいえるし、人間以外の現象も含めてね、それはわたしの人生におけるすべてのことは、すべてわが師であると。
 ここでいう「わが師」っていうのは、二つの方向性の意味があると思います。一つは単純にね、言葉通り、すべてを自分の師と考えると。すべてからいかに学ぶかっていうのが一つ。
 もう一つは、本当に師の現われなんだっていう考え方ね。それはさっき言った至高者っていう意味でもいいけども。まあ密教とかの世界では、あまりそういう神っていう言葉とか使わないから、師匠ね、グルっていうのがすごくクローズアップされるわけですが、師匠っていう意味でいったらね――つまりちょっとぶっ飛んだ考えになるかもしれないけど、こういうことです。つまり、この世には実は、この世界では実は、わたしとわたしの師匠の二人しかいないっていう考えなんだね。実は二人しかいない。で、いや、そうではなくて日常で現われるいろんなね、多様に見えるいろんな人々とかいろんな現象とか世界を自分は経験してるように思ってるんだけど、いや、それはすべて師匠が姿を変えて、自分を導くためにいろいろやってるに過ぎないんだっていう考えがある。
 もちろんこれはヒンドゥー教的に、それを神と考えてもいいよ。神が、唯一の神、ただ一人の神だけがいらっしゃって、ただ一人の神が自分を導くために、いろんな形を変え、あるいはいろんな現象を現わして、自分を導いてると。
 これはラーマクリシュナの話にはそういう話がよく出てくるんだね。例えばラーマクリシュナが神への狂気に狂ってね、「おお神よ!」ってやってるときに、いろんな人がラーマクリシュナにそれをやめさせようとやって来た。つまりみんな理解できずにね、ラーマクリシュナのその悟りを理解できずに、「そんな狂ったようなことをするんじゃない!」みたいな、止めに来るわけだけど、ラーマクリシュナはそこで笑って「おお神よ!」と。「あなたがそんなふりしてもわかりますよ」って(笑)――つまり、「神が反対者の振りしておれを止めに来た」みたいな感じで、こう見てるんだね。
 あるいはラーマクリシュナがあるとき馬車でね、走ってたら、馬車で走ってたら、いわゆる遊女っていうか、街で立って客を探してる売春婦がいたわけですね。これもヒンドゥーの伝統では、そういった売春婦とかっていうのは非常にけがらわしいものと見られる。だから普通のヒンドゥー教の高い聖職者とかだったら、「ああ、見るのもけがらわしい!」ってなるんだけど、ラーマクリシュナはその売春婦を見て大笑いしたんだね。「ああ、マーよ!」と。つまり母なる女神よと。「今日は本当によく化けていらっしゃいますよね」と(笑)。「今日はそんな売春婦のふりをして、無駄ですよ」みたいな感じで(笑)、こう言ってるんだね。
 だからラーマクリシュナにとっては、もうすべてが聖なる神の現われとしか見えなかったと。
 これはもちろん大聖者だからそうなるわけだけど、われわれはまだ自然にそう見えるまではいってないが、そういう訓練をする。すべては自分の師の現われであると。




◎何度失敗しても思い続ける

 でもね、このナーローと同じように、この話っていうのは、こういう話っていうのはみなさんも一回は聞いたことがあるかもしれない。すべてを師と見なさいと。あるいは考えたこともあるかもしれない。でもすぐ忘れるでしょ? ナーローのようにね(笑)。
 例えばある出来事があって、そこで苦しんだけども、苦しんで苦しんで、でも学んだとするよ。例えばT君がYさんになんか意地悪なこといっぱいやってきて、Yさんはもう苦しんで苦しんだけども何とか乗り越えて、で、そのときに、「ああやはりすべては神の現われであった」と。「T君も神の現われであった」と。「よし、これからは何があっても同じように神の現われとして生きよう」と。「すべてから学ぼう!」ってそのときは感動するんだけど、もう、一晩寝たら忘れます(笑)。一晩寝たら、今度はIさんとかが意地悪してきたら、もうまた悲劇のヒロインにこう戻ってしまうんだね(笑)。「もう、なんでわたしはこんなに……」って。これが人間の馬鹿なところで、つまりナーローでさえそうなんだから、われわれもまあ、そうなってしまうんだね。
 でもそれでも何度も何度も自分をこう引き戻してね、すべては神なんだと、あるいはすべてはグルなんだということを、何度失敗しても思わなきゃいけないんだね。
 つまり別の言い方をすると、決して自分に――例えばいろんな嫌なことやってきたり、あるいは逆に執着してしまったりとか、そういったいろんな人や対象を、実体のある対象として実体視してはならない。自分とは違う何かがボーンと現われて、それが自分に苦を与えているとか、あるいは自分に喜びを与えているとかっていう錯覚に陥ってはいけない。何度も言うけども、すべては神が現わしたマーヤーであると。ね。幻のようなものであって――もちろんそれは意味のある幻なんだけどね。つまりわたしを導こうとしている幻だと。よって、そこからいかに何かを学ぶか。ね。あるいは、いかにそれによって自分を改革し、自己改革し成長していくか――ということを考えないといけない。決して、「いや、この人はこうだからこうなんだ」っていうような、実体視したような考えをしてはいけないわけですね。 
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スワミ・プレーマーナンダの教え(1)

2012-03-26 08:49:36 | 経典の言葉・聖者の言葉

「愛の魂の思い出/スワミ・プレーマーナンダの教え」




 スワミ・プレーマーナンダは弟子たちをイニシエートしませんでしたが、手紙の形をとって霊的な教えを与えていました。

 彼は彼の助言を求める多くの僧たちと信者たちに、勇気と智慧と愛に満ちた言葉を書き綴ったのでした。

 彼の仕事は、いつもみなに彼らの神から授かったものを思い出させ、そして神の悟りという究極の目標に向って前進することを激励することでした。

 彼が手紙を書いていたのは、1902年から、彼が亡くなる1918年までの17年間にも及びました。



1.

「ホーリーマザーとともにジャイラームバティに数日間とどまり、彼女に奉仕しなさい。それによって祝福を受けて、人生の目的を悟るのだ。
 これはわたしの真剣な願いである。
 彼女は、どれほどの忍耐と自制と寛容さで、実家での日々を過ごされたことだろう!
 これまでそのような理想的な人生が、この世界で明らかに示されたことはなかった。もしその理想があなたの人生を変革させなければ、あなたに希望はないだろう。
 ホーリーマザーに会うことは、シュリー・ラーマクリシュナに会うことに等しいのだよ。
 ただ彼女の生まれた村の中でだけ、わたしたちはホーリーマザーの真の本性を理解することができるのだ。
 ああ、彼女の本性とはどれほどのものだろう!
 あなたは彼女がどれほどの寛大な心と愛の権化であったかを理解するだろう。
 彼女を知ることで、エゴイズムとうぬぼれは完全に消し去られるであろう。
 彼女の歩んだ道とその態度を、徹底的に学ぼうとすることだ。
 彼女はすべての衆生への無限の慈悲を持っておられた。
 彼女の慈悲のほんの少しでも得ていたならば、わたしたちは完全になっていただろうに。
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シュリー・グル・ギーター(1)

2012-03-25 21:26:28 | 経典の言葉・聖者の言葉


シュリ・グル・ギーター





 オーム
 サダーシヴァ神はリシ、賢者、そしてこの賛歌グル・ギーターのマントラの授与者である。

 グルは至高者そのものであられ、神である。
 
 その種字である「ハム」、そのシャクティである「サ」、そしてその秘密のマントラである「クローム」
 ――あなたはこのマントラを使い、グルの優美さを得るためにそれを繰り返し唱えなさい。

 グルの御足の目は、ハム(個々の真我、シャクティ)とサ(遍在する真我)によって表される。
 彼は宇宙の神聖なる原因。
 彼自らの意思である彼は、世界を高めるために、さまざまな姿で顕現される。
 彼はこの上なく自由。
 彼の御姿は、神聖に顕現し、不滅である。
 彼は永遠であり、一切に遍在する。
 彼の御足を瞑想しなさい。

 わたしは、生の四つの目的の一切を悟るために、グル・ギーターの詠唱に従事する。

 学ぶべきことのすべての題目の中で、グル・ギーターは最も不可解で神聖である。
 グル・ギーターを詳述することで、われわれの耳を優しく美しく飾りたまえ。
 われわれはこれを大いなる祝福、神聖なる恩恵として受け取ろう。




シュリ・グル・ギーター


 ここにグル・ギーターをはじめる



 スータは言った。


 かつて、信仰の秘密を知るシヴァ神が、美しきカイラス山に座ってらしたとき、パールヴァティは敬意を持って彼に礼拝し、こう尋ねた。

「オーム、神々の主に帰依し奉ります。 
 おお、宇宙の至高の指導者よ! 
 おお、温和で慈悲深きマハーデーヴァよ、最も優れたる神よ! 
 グルの神秘をわたしに解き明かし、詳説してください。

 おお、主よ、汝の蓮華の御足に礼拝し奉る。
 どの道が人間が絶対性を持つ者となる道かを、お教えください。
 おお、慈悲深き偉大なる神よ!」


 シヴァ神はこうおっしゃった。

「おお、女神よ、汝は我が現れ、我そのものである。
 汝のために、わたしの愛からこれを答え、説明しよう。
 かつて、一切のローカ(世界)の利益のために、これをわたしに尋ねた者は、誰もいなかった。

 わたしは、三界の一切の神秘的な不可思議なるものを汝に解き明かそう。
 おお、美しき者よ!
 聞きなさい!

 絶対なるものはグルと相違はない。
 これは真理。
 これは真理である。
 
 これは、ヴェーダ、さまざまな他の聖典、叙事詩、マントラやヤントラの科学、秘密の詞章などによっては明かされていない真理である。

 様々な論文、そしてさまざまな分派と教義は、すでに迷妄なる衆生をさらに混乱させるだけだ。

 グルの真理を知ることなく、供儀を行い、誓いを立て、苦行を為し、捧げ物を供養し、ジャパを行い、巡礼を続ける者たちは、無智である。

 グルとは、真我、純粋意識と異なるものではない。
 これは、真理、絶対的真理を超越している。
 故に、賢者はグルを探求し、見いださなければならない。それを自らの義務と思わなければならない。

 無智を負うことで、この世に生まれた存在は、宇宙の母が秘密の叡智として身体の中に宿っていると思っているのだ。
 しかし、彼女は自らの光の中に、優美さを持って、グルの言葉を通じて正体を現す。
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アディヤートマ・ラーマーヤナ(8)「アハーリヤーの救済」

2012-03-25 10:59:13 | 経典の言葉・聖者の言葉
第五章 アハーリヤーの救済


◎スバーフの殺戮

 数多くのリシたちによって住まれ、魅力的な景色をもたらすカマシュラムとして知られる場所の森のアシュラムで一夜を過ごした後、一行は早朝に、ゆっくりと旅を再開した。
 彼らがシッダとチャラナたちが集まるシッダアシュラムに到着すると、そこに住んでいる苦行者たちは、ラーマとラクシュマナを暖かく歓迎したのだった。
 その後、ラーマは聖仙ヴィシュヴァーミトラにこのように懇願した。

「おお、聖者様よ! 御身の供儀をお始めください。
 そして、御身を悩ます凶悪な悪魔がどの方向からやってくるのかを私にお示しください。」 

 聖仙ヴィシュヴァーミトラはそれを承知し、他の場所に住む他の苦行者たちを伴って、供儀を開始した。
 正午の少し前になると、変幻自在の二人の悪魔、マーリーチャとスバーフが現れた。彼らはアシュラムに近づき、血や骨の雨を降らせた。
 その後すぐに、並外れた知性をお持ちのラーマは、矢の弦を耳まで引きつけると、悪魔に向けて二本の矢を放たれたのだ。
 それらの矢の一本はマーリーチャに当たり、彼を百ヨージャナも突き飛ばして海へと沈めた。
 二本目の炎の矢は、スバーフを突き刺して絶命させ、その間に彼の悪魔の従属たちはラクシュマナによって全滅させられたのだった。
 デーヴァたちはラーマとラクシュマナに花の雨を降らせ、彼らのケトルドラムが鳴り始め、シッダとチャラナたちは賛歌を歌ったのであった。



◎ゴータマのアシュラムでのラーマ

 ヴィシュヴァーミトラは、ラーマが受けるにふさわしい一切の名誉を彼に与えた。尊敬と愛に心動かされ、彼はラーマを膝の上に座らせ、涙で眼を溢れさせながら、彼を抱擁した。彼はラーマを弟のラクシュマナと共に、自分のアシュラムに三日間とどまらせ、熟した果物や他の食料を与え、古代の物語や逸話で彼らを楽しませたのだった。
 四日目に、聖仙はラーマに言った。

「おお、ラーマよ! 今まさに執り行われようとしている偉大なる供儀を見に行こうではないか。
 ヴィデーハの街に位置するジャナカ大王の宮殿には、マヘーシュワラによってそこに預けられた聖なる弓がある。
 そなたたちはその強大なる弓を見ることができるのだ。ジャナカ王も敬意を持ってそなたたちを歓迎するだろう。」 

 そう言うと、ヴィシュヴァーミトラは、ラーマとラクシュマナの他に、何人かの他のムニたちを引き連れて出発し、ガンガーを通って、ゴータマの聖なるアシュラムが建ち、アハーリヤーが苦行に従事した場所へと向かったのだった。その場所は、鳥や動物は一切存在せず、天界の花と果物をたくさんつけた木で満たされていた。その場所を見て、蓮華の眼をお持ちのラーマは、ムニにこのように尋ねられた。

「これは誰のアシュラムですか? ここはとても神聖で、非常に魅力的な場所のように見えます。私は、ここは花や果物をつけた木々で満たされていますが、一切の生きものが存在していないように感じます。ここにいると、私は大きな喜びに満たされるのです。これらすべては素晴らしい。おお、大聖者様! どうか、この場所とその特徴についての事実を私にお教えください。」




◎アハーリヤーにかけられた呪いと彼女の解放

 ヴィシュヴァーミトラは言った:おお、ラーマよ! 私がこの場所の古い言い伝えについて話すことをお聞きなさい。 
 ここには、ダルマの遵守者の中で最も高潔であり、世界中に名高いゴータマという大苦行者がいた。彼は、苦行によってシュリー・ハリを礼拝していた。
 ブラフマー神は、彼がブラフマチャーリヤを遵守した非常に厳格な修行に対して大いに喜び、その時代で最も美しく、同様に奉仕の規律に専心することで名高かった御自身の娘アハーリヤーを彼に授けたのだった。
 その偉大なる苦行者ゴータマは、アハーリヤーと共にこの場所に住んでいた。するとインドラ神がこのアハーリヤーに対して強い愛欲を抱き、彼女を騙して、彼女を楽しむための機会を窺っていた。
 聖仙がしばらくアシュラムから外出した時、インドラ神にとっての好機がやってきた。インドラはゴータマに変装してアハーリヤーに近づき、自分の愛欲を満足させた後、ゴータマが帰ってきたので、そこから急いで逃げた。
 インドラが自分(聖仙)の姿に変装して逃げていくのを見て、ゴータマはひどく怒り、インドラにこう尋ねた。

「おい! そこの悪漢め! 私の姿を装っているお前は誰だ?
 真実を話せ。さもなくば、間違いなく、お前を呪いによって灰に変えてしまうぞ!」

 そこでインドラはこう答えた。

「私は天界の王インドラです。私は愛欲の奴隷となってしまいました。私はあなたの許しと保護を求めます。
 私は軽蔑されるべき行為をしてしまいました、私は腹黒い輩です。」

 そこで、怒りで眼を赤くしたゴータマは、彼に呪いの言葉を発したのだ。
 ゴータマは激怒してこのように呪いをかけた。

「おお、悪しき者め! 女性の生殖器を楽しむ輩め! お前の身体に千の女性性器をつけて醜くなるように呪ってやる。」

 このように天界の王インドラに呪いをかけた後、彼は彼の庵に入り、そこで恐怖で震え、合唱して礼拝しているアハーリヤーを見つけた。ゴータマは彼女にこう言った。

「おお、堕落した者め! お前など、このアシュラムの中で石に変わってしまえ。
 昼夜一切の食べ物も飲み物もなく、雨、太陽、風のような天候の厳しさにさらされながら、お前はここで厳格な苦行を実践し、一切の存在のハートに住まう至高者ラーマを瞑想しなさい。私の庵であったこの場所は、今後いかなる生きものも存在しなくなるだろう。
 お前がこの状態で数千年過ごした後、ダシャラタの息子シュリー・ラーマが、弟のラクシュマナを引き連れてこの場所に来られるだろう。彼が、お前が今呪いによって変えられるだろう石にその御足を置かれるとき、お前は罪から解放されるだろう。それからお前は偉大なる信仰心を持ってラーマを敬愛し、彼の周りを回り、彼の前でひれ伏するだろう。呪いの影響から解放されたなら、お前はまた、私に奉仕する機会を得るだろう。」

 そう言うと、ゴータマはそこから出て行き、最も偉大なる山ヒマラヤの上に住居を定めた。その日から、おお、ラーマよ、この場所にあらゆる生きものは見られなくなり、アハーリヤーは、今この瞬間まで、一切の食物を受けないという耐え難い苦行を守り抜き、お前の御足の塵に触れることをずっと待っていたのだ。さあ、ブラフマーの娘でありゴータマの妻であるアハーリヤーを浄化して下さい。

 そう言うと、ヴィシュヴァーミトラはラーマの手をつかんで、アハーリヤーが石の姿で立ち、厳しい苦行を遵守している場所に連れて行った。ラーマがその御足をその石の上に置くや否や、彼は、アハーリヤーがそこから現れて、彼の前に立っているのを見たのだった。
 そしてラグ族のラーマは、アハーリヤーに挨拶をして、御自分の名を彼女に名乗った。それからアハーリヤーは、黄色の絹の衣を纏い、四本の腕に法螺貝、円盤、矛、蓮華を誇らしげに示し、弓と矢を装備し、蓮華のような眼と魅力的な微笑をたたえた御顔を明かし、胸にシュリーヴァスタの印をつけ、エメラルドのような光彩の輝きを持って十方を照らしていらっしゃるマハーヴィシュヌとしての御姿で、ラクシュマナと共にいらっしゃる、ラグ族の最高者ラーマを見たのである。そのようにして、アハーリヤーはラーマの御姿を見たのだ。
 ラーマを見て、アハーリヤーは歓喜の涙を流した。ゴータマの言葉を思い出し、彼女はラーマをナーラーヤナ御自身であると悟ったのである。その聖女は、眼を涙で溢れされ、水と他の供物をもって、正式な形でラーマに礼拝をした。それから彼女は、彼の前に完全にひれ伏して倒れこみ、起き上がってから、もう一度蓮華のような眼をお持ちのラーマを見て、身体全体に鳥肌を立たせ、感情で息が詰まった声で、賛歌をもって彼を称賛し始めたのだった。



◎アハーリヤーの賛嘆

 アハーリヤーは言った:全宇宙の内在者よ! 私は、あなたの蓮華の御足の塵に触れられることで祝福されました。
 あなたに関するすべてのことは、真に素晴らしいのです。おお、ラーマよ! あなたの人間の御姿のみが世界を惑わすのです。なぜなら、十分な至福の中に浸り、自らの存在で全宇宙を埋め尽くす超越的魔術師であるあなたは、特別の現れをおとりにならず、化身として、普通の手と足を有する人間として活動しているからです。
 蓮華の御足の塵をお持ちのあなたは、ガンガーの水を、ブラフマー神のような偉大なる存在でさえをも聖別してしまうほど神聖にします。そのようなあなたが、今私が物質的な眼で見えるように、ここに存在していらっしゃいます。これは明らかに稀な幸運であり、言葉によっては述べることができず、過去に為した私の善行から生じたものです。
 この上なく素晴らしい美しさを持つ身体を示され、蓮華の花弁のような大きな眼を持ち、手に弓をお持ちのラーマとしての人間の御姿で今化身されたシュリー・ハリの他に、私の心が礼拝を捧げるお方はいないのです。
 シュルティの探求の常なる対象である蓮華の御足をお持ちの御方、創造神ブラフマーの誕生の地であるへその蓮華をお持ちの御方、俗物の破壊者である主シヴァの千の御名の中で最も愛されるラーマという聖名をお持ちの御方――そのシュリー・ラーマチャンドラを、私は心の中で瞑想いたします。
 ナーラダやバーヴァ(シヴァ)のような神々、蓮華から生まれたブラフマー、そして同様に、霊性の至福の流れの涙のほとばしりで胸を濡らした学問の女神サラスヴァティーによって、ブラフマローカ(ブラフマーの世界)で讃えられし化身においての使命をお持ちの御方――そのシュリー・ラーマに、私は帰依し奉ります。
 魅力的なラーマは、至高者そのもの。彼は永遠者であり、すべてを明らかにする自性光明の意識であるすべてに遍在する存在。彼は終わりなき第一原因。世界を祝福するために、彼は今、人の心をうっとりさせる美しき御姿をおとりになられました。
 彼は、宇宙の創造、維持、破壊の原因を生じさせる唯一者。彼は自由、そして完全。彼は、彼が彼のマーヤーの三グナ、つまりラジャス、サットヴァ、タマスのそれぞれに彼御自身を反映させているときに、ブラフマー、ヴィシュヌ、マヘーシュワラというそれぞれ異なる御名をおとりになるのです。
 ああ、ラーマよ、あなたに礼拝し奉ります! あなたの蓮華の御足は、シュリーの御胸に永遠に抱かれるのです。あなたは昔、その御足のほんの少しの動きで、世界を御創りになられました。あなたの御足は、狭苦しい自己を伴ったアイデンティティを放棄した聖仙方によって瞑想されるほど、神聖なのです。
 あなたは一切の世界の起源。いえ、それどころか、あなたはその完全性において世界そのもの。そして同様に世界の支えであられるのです。あらゆる二次的存在に関わることがないゆえ、あなたは超越者であり、唯一者なのです。
 ああ、ラーマよ! あなたは音の象徴オームによって示されますが、同様に、言葉によって言い表すことのできる範囲を超越した一切に遍在される御方です。あなた御自身の中の存在の完全性を理解されるあなたは、客観性と絶対性の双方であられるのです。
 この多様性を計画するあなたのマーヤーの御力によって、唯一者であるあなたは、一切として顕現されるように見えます。――根本原因であるプラクリティ、それは類型化として展開し、世界をそれらの生産物とし、苦しみと楽しみを創造的な活動の果報とします。そしてそのような果報を生み出すものはさまざまな種類の行為(カルマ)なのです。
 あなたのマーヤーに惑わされた人々は、マーヤーの至高者としてのあなたのアイデンティティを認識せず、あなたのただの人間だと思ってしまいます。
 空のように、あなたは内にも外にも一切処すべてに遍在しております。純粋で、無執着で、不変なるあなたは、純粋意識、そして純粋実在としてのみ述べることが可能である、永遠なる、けがれなき、不滅の存在です。
 ああ、一切に遍在する御方よ! 愚かで無智な私は、如何にして実際に、真に、あなたを知ることができましょうか? ゆえに、おお、ラーマよ、私は心からの帰依を持って、百度もあなたに礼拝し奉ります。
 おお、主よ! 私がどこにいようとも、いつでも、私があなたの蓮華の御足への遮られることなき信仰心を持つことができますように。
 すべてを導きたもう至高なる魂である、あなたに礼拝し奉ります! 
 一切の帰依者を愛してくださる、あなたに礼拝し奉ります! 
 一切の感覚の征服者である、あなたに礼拝し奉ります! 
 一切のジーヴァに住みたもう、あなたに礼拝し奉ります!
 生死の輪(輪廻)からジーヴァを救済される御方、二のない一なる御方、百万の太陽のように光り輝く御方、手に弓と矢を誇らしげにお持ちになる御方、青き雲の光沢を持たれる御方、魅惑的な金色の衣で着飾れし御方、如意宝珠がちりばめられた耳飾りを身に付けし御方、そして、蓮華の花弁のように大きく、美しい眼をお持ちの、弟のラクシュマナと共におられるラーマに礼拝いたします。

 このように、ラグ族の子孫として降誕された永遠なる御方ラーマの御前で賛嘆し、周りを回り、礼拝した後、彼女は彼の前に立った。そして彼に許可をいただくや否や、夫である聖仙ゴータマに会うために、去っていったのだった。
 このアハーリヤーの賛嘆を信仰心を持って学ぶ者は、一切の罪から解放される。彼は、至高なるブラフマンに到達するであろう。
 この賛嘆を、心をラーマに結びつけて学ぶならば、子供を望む女性は、たとえ子供を生むのに障害があったとしても、一年以内に子供に恵まれるだろう。
 ラーマの恩寵によって、一切の者の願いは叶えられるだろう。
 聖者を殺生すること、ふしだらな行為に耽ること、偸盗、飲酒、両親や兄弟に向けての残虐な行為、常に五感の快楽に耽ることなどのさまざまな罪深き行為を犯している者でさえも、心をラーマに結び付けて、信仰心を持ってラーマを瞑想し、毎日この賛嘆を唱えるならば、解脱を得る。いわんや、善行を為す者においておや!
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聖者の生涯「ナーロー」④(1)

2012-03-23 16:30:09 | 勉強会より抜粋

20100313 聖者の生涯「ナーロー」④




◎智慧の完成を超えて

 はい、もう一回ね、ちょっと前提的なことをいうと、このナーローの話っていうのは、ナーローが、インド一の大仏教学者の地位までのぼりつめたナーローが、あるね、お婆さんの姿をしたダーキニー――つまり修行者を助ける女神の勧告によって、「お前はまだ表面的な教えしか理解していない」と。「本質的な真の意味っていうものを理解していない」っていう勧告を受けて、その真の意味を理解するために、グル・ティローといわれる聖者を探しに旅に出かけるわけだね。で、その旅の途中でさまざまな――いってみればちょっと幻影的な出来事に出合い、その度ごとにさまざまな教訓を得て、いろんな失敗もしたりして次に向かうというのを繰り返されると。
 で、この話っていうのは、じゃあナーローが大学の学長の地位を捨て、グル探しに旅立ったときっていうのはどういう段階かっていうと、これは一説によると、六波羅蜜つまり六つのパーラミターの、智慧の段階にあったといわれています。これはどういうことかっていうと、よくいわれる六つのパーラミターね――つまり、布施・戒・忍辱・精進・禅定・智慧という段階があるわけですが、これは六波羅蜜といわれるわけですが、この六つのパーラミターというのは――日本ではよくこの六波羅蜜という言葉が有名ですけども、実際にはこの後もあって、この後に方便、それから誓い、力、そして最後が叡智――ジュニャーナというんですが――完全な叡智といわれる四段階もプラスされて、実際には十段階なんだね。
 この第六段階の智慧っていうのはこれは、この智慧のことを般若っていいます。つまり般若波羅蜜多だね。般若心経の般若波羅蜜多。この般若波羅蜜多が、智慧のパーラミター、つまりある達成段階であることは間違いない。でもまだ菩薩の最後の段階ではない。でもこの智慧の段階に達したナーローが、より高い完全な叡智の段階に達するためには、グル・ティローが必要だっていう話なんだね。だからものすごい高度な話をしてるわけですね。
 われわれはまだその智慧の段階までも至ってないわけだから、まずは頑張って、布施・戒・忍辱・精進・禅定・智慧を修めていかなきゃいけないわけだけど。



◎至高者とのゲーム

 ただね、ここで言いたいのは、レベルは全く違う、レベルは全く違うけども、ナーローに起きてる現象自体は、レベルの違いこそあれ、われわれにも起きる――というよりも、すでに起きている現象であるといえます。だからそういう意味で参考になるんだね。ナーローほど高度ではない。あるいはナーローほど極端ではない。しかし、この一連の物語で示される現象は、すでにわれわれに起きています。というよりも、その連続だということだね、われわれの人生っていうのはね。
 もうちょっと噛み砕いていうと、これは何なのかっていうと、ここではね、仏教とかヒンドゥー教とかあまり関係なくざっくばらんに言うけども、まあ仏教ではあまり神という言葉は使わないんだけども、ざっくばらんに言うと、われわれと神との間の――ここで神というのは至高なる存在ね。クリシュナのような、そのような至高なる存在との間の、まず結びつきっていうのがあります。これはつまり、一生懸命過去生から神を想い続けたとか、修行したとか、供養をいっぱいしたとか、それによってその結びつきが強まってくると、その至高なる存在っていうのは、われわれをいろいろな形で導きだすんだね。いろいろな形で仕掛けをして、幻影を見せたり、あるいは自分のけがれに気づかせたりして、いろんなことを行ないます。このようなわれわれと至高者との、目に見えない、形のない、まさに遊戯ですね、リーラーといわれる、ゲームのようなものが始まるんだね。
 で、ここにおいていわゆるグルといわれる存在、つまり生身の体を持った師匠といわれる存在は、その仲介役を果たします。仲介役というよりも、ちょっと別の言い方すると、つじつま合わせといってもいいのかもしれない。つじつま合わせっていうか、つまり何なのかっていうと、本来はその至高なる存在と修行者とのストレートな関係でもいいんだけど、その場合二つの問題が生じます。二つの問題っていうのは、まず一つ目の問題は、それが修行であると理解しにくい場合がある。本当はそれは、その人にとってのすばらしい気づかせるための出来事なんだけども、それが一般の普通の日常で起きてくると、ちょっと理解しにくい場合がある。そこで例えば師匠っていう存在が登場して、例えば師匠から与えられる何か課題であったりとか、あるいは師匠に帰依することによって生じるいろんな問題であるとか、そういう形で神の課題が現われるので、「あ、これは修行である」っていうふうに認識しやすくなるんだね。それが一つ目の意味というかな、師匠が必要な意味ですね。
 で、もう一つの問題点は、師がいない場合、これはいつも言ってるように、逃げ道ができるんだね。逃げ道ができるっていうのはつまり、神がストレートに自分にある課題を与えてくれたときに――まあこれもね、本当に自分の心が誠実で強かったら問題ない。しかし、われわれの心は弱いので、逃げ道を探します。で、これは非常に実体がないというか、とらえどころのない話なので、そのとらえどころのない試練とか課題から逃げても、別に誰も文句言いません。別にね。例えばTさんが「あ、これはまさに神の課題だ」と思って、自分でうーってやってても、それはみんなに関係ないから(笑)、Tさんが、「やっぱりもうわたしこれやめた! 逃げる!」と思っても、他の例えば同僚とか友達からは、「え? 何言ってんの?」と。「全然関係ないよ」っていう世界なんだね。でも例えばそこに師匠とかがいて、あるいは自分の尊敬する聖者とかがいて、はっきりと「はい、あなたこれやりなさいよ」とかね、あるいはもうはっきりと、もう本当に目に見える現象としてそういう設定がなされてると、そこから非常に逃げ出しづらくなるんだね。
 まあ、そういう意味がある。そういう意味があるから、師っていうのは必要になってくるんですけど、でも実際問題としては、その修行者とね、それから至高なる存在とのやりとりというかな、ゲームなんだね。




◎われわれの人生でも

 で、これはもう一回、何度も言うけども、実際みなさんみたいに修行の道に入ってる人にとっては、そのレベルの違いこそあれ、ナーローが経験したようなさまざまなこういったことっていうのは、実際起きています。もちろん、修行してない人にも起きています。しかし修行していない人の場合は、さらにレベルが違うと思ってください。
 っていうのはその、ここでいう「修行していない人」っていうのは――まあ修行してないっていうよりも、あまりまだ真実とかを志向してない人ですね。例えば真実を知りたいとか、あるいは悟りたいであるとか、あるいは自分を本当の意味で向上させたいとか、そういう段階にまだ入ってない人は、神のそういったいろんな仕掛けも当然まだゆるい。ゆるいっていうか、どちらかというとそれはそっちの方向に持っていくような仕掛けがいろいろこう続きます。で、そうじゃなくて本気でその人が、「いや、わたしはもうこの人生、神を悟るためだけに使いたい」とかね、あるいはそこまでいかなくても、「わたしはいろいろ人生あるけども、一生懸命修行して、真実をこの目で見てみたいな」とかね、そういう気持ちが自分の中の何割かでも出てきた人にとっては、神は、まあいってみれば「よし、その段階に来たか」と。「よし、じゃあそういうシステムを発動させましょうか」っていう感じになってくるんだね。
 こういう関係性が――もう一回言うけども――レベルは違うけども、このナーローが経験してきたことと同じことを、われわれは日常的に経験しています。ここで日常的に経験してるって言ってるのはつまり、おそらくみなさんはそのほとんどを気づいていない。ね。これはこのナーローの話見れば分かるでしょ? ナーローもほとんど気づかないんです。客観的に物語として読むとね、「なんでまたはまってるの?」と。「なんでまた気づかないの?」って感じがするんだけど、もうはまってるときは気づかないんだね。
 ただわれわれの場合は、こんなにナーローほどダイナミックな話ではない。そうじゃなくて、非常に日常的な人間関係の中で、あるいは自分の人生のいろんな出来事の中で、われわれはこのナーローがはまってるような、何度もいうけど、レベルは違うけどもいろんな神が与えた仕掛けにはまるんだね。その中でいろんなことに気づきながら、自分を成長させていかなきゃいけない。
 もちろん必ずしもそれで成長できるとは限らない。神が与えてくれた気づきのためのチャンスの連続ではあるんだが、そこで例えば自分の心が弱かったり、あるいは不誠実だったり、いろいろすると、当然それを見間違えてね、どんどん悪化していく可能性もあります。もちろん大きな意味でいうと悪化さえも神の計画ともいえるんだけども、でもまあ悪化せずにどんどんどんどんこう進んで行ければ、それは一番すばらしいね。
 はい、だからちょっとそういうね、前提を持って聞いてくださいね。つまり何度も繰り返すけれども、レベルは違うが同じことがわれわれの人生に起きているんだってことですね。
 はい、じゃあそういう観点でね、読んでいきましょう。
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今日のAMRITAチャンネル「実写ドラマ/ラーマーヤナ 第27話」

2012-03-23 07:53:27 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「実写ドラマ/ラーマーヤナ 第27話」です。
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今日のAMRITAチャンネル「賛歌/イメージビデオ」

2012-03-22 17:09:11 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「賛歌/イメージビデオ」です。


曲目

1.Rama-Christians
2.バクティヨーガの歌
3.あなたの愛に
4.ホーリーマザー
5.深く潜れ、おお心よ
6.我が師
7.神のしもべに
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今日のAMRITAチャンネル「アニメ・ハヌマーン 第二話」

2012-03-21 08:07:04 | 今日のAMRITAチャンネル
 今日のAmritaチャンネルは、「アニメ/ハヌマーン 第2話」です。
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