ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

今日の修行 慈悲の瞑想

2011-03-31 19:44:33 | 松川先生のお話
 今回の一連の災害で、直接の被災者ではない人たちも、想像以上に、実体のない不安にさいなまれている人が多いようです。

 飛び交う様々な肯定的・否定的情報は、もちろんそれぞれが各自の責任で判断したらいいと思いますが、
 そのベースとして、安定した精神とプラーナの状態を取り戻すのが先決です。
 すでにヨーガや仏教の修行をされている方は、師から頂いた修行などを、いつも通り淡々とこなすのが良いでしょうが、そうではない方のために、我々のヨーガ教室で教えている、簡単にできる修行や瞑想法をご紹介していこうと思います。

 まず今夕は「慈悲の瞑想」などをしてみてはいかがでしょうか。




◎慈悲の瞑想

プロセスその1

①目の前に、もう一人の自分をイメージする。
 この自分は、過去の失敗、それを悔む自分、さまざまな苦しみ、他人への憎しみ、嫉妬、愚痴など、さまざまな自分のネガティブな要素を一身に背負った自分である。

②一方、こちら側の自分は、肯定的意識、他者への慈愛など、ポジティブな要素、神聖・清浄な要素をすべて受け持った自分である。

③自分の呼吸に意識を集中する。

④自分が息を吸うたびに、目の前にいるネガティブな自分の、さまざまな悪しき要素を、黒いエネルギーとして、こちら側の清浄な自分が吸い取るイメージをする。

⑤息を吐くときには、清浄な自分から、ネガティブな自分に対して、許し、癒し、愛、幸福のエネルギーが、白い光となって、呼吸と共に注がれるとイメージする。

⑥それによって目の前のネガティブな自分は、どんどん浄化され、幸福になっていくとイメージする。
 こちら側の自分も、けがれることはなく、よりいっそう透明で清浄になっていく。


プロセスその2

①自分が愛する人を誰か一人選んで、目の前にイメージする。

②その愛する一人の人が、なんらかのかたちで非常に苦しんでいる様子をイメージする。

③愛する人が苦しんでいるのを見て、自分の心の中に、強い慈悲の心を生起させる。

④自分の呼吸に意識を集中する。

⑤自分が息を吸うたびに、目の前の愛する人の苦しみが、黒いエネルギーとなって、呼吸と共に自分の中に吸収されることをイメージする。

⑥自分が息を吐くたびに、自分の中の幸福のエネルギーが、白いエネルギーとなって、呼吸と共に相手に注がれることをイメージする。

⑦呼吸と共にこのイメージを繰り返すことで、目の前の愛する人は、苦しみから解放され、どんどん幸福になっていくことをイメージする。

⑧自分自身は、苦しみの黒いエネルギーを吸い込んでも、それによってけがれることはない。逆に、これによって自分のエゴが破壊され、純粋で透明な状態になっていくとイメージする。



プロセスその3

①プロセスその2を繰り返しながら、「愛する人」の人数を増やしていく。彼らすべてに、同様のイメージを繰り返す。この段階ではまだ「愛する人」だけでいい。



プロセスその4

①プロセスその3を繰り返しながら、目の前の人々の中に、「好きでも嫌いでもない人」を入れていく。彼らにもまた、分け隔てなく、同様のイメージを繰り返す。


プロセスその5

①プロセスその4を繰り返しながら、目の前の人々の中に、「嫌いな人」を入れていく。もし嫌いな人がいなかったら、苦手な人や、過去にいやな思いをさせられた人など、要するにネガティブなイメージを抱きがちな人を入れていく。彼らにもまた、分け隔てなく、同様のイメージを繰り返す。


プロセスその6

①目の前に、自分の想像できる限りの、この宇宙のすべての衆生をイメージする。

②息を吸うたびに、この宇宙の苦しみをすべて自分が引き受けるような気持ちで、黒いエネルギーを吸い取るイメージをする。

③息を吐くたびに、自分の中の幸福をすべてこの世界に差し出すような気持ちで、白いエネルギーを吐きだすイメージをする。

④この繰り返しにより、すべての衆生はどんどん幸福になり、苦しみから解放されていくとイメージする。また、自分自身はよりいっそうエゴが破壊され、純粋・透明な状態になっていくとイメージする。
コメント

ラーマクリシュナの思い出

2011-03-30 22:16:56 | 経典の言葉・聖者の言葉


「師(ラーマクリシュナ)が故郷の村にいらっしゃったとき、毎夕、師は、道を通り過ぎる人々を眺めるために、師の両親の家のそばに座っていらっしゃいました。女性たちは皆、水を貯水槽から運ぶためにその道を通らなければなりませんでした。女性たちは壺を運んでいましたが、ドアのところにいる師を見ると、壺を脇に置いて、正面の小さな中庭に座り、師が語る神の話や賛歌を聴いて、喜びのあまり一切を忘れたものでした。
 彼女たちが自分の義務を疎かにしていないかと心配して、師は彼女たちに尋ねました。ある少女は、
『私は牝牛を飼っています。あなたがいらっしゃると聞いて、私はひと月もつくらいワラをたくさん刈っておいたので、部屋はワラでいっぱいです』
と言いました。
 別の少女に対して、師は、『赤ちゃんはどうしたのだい?』と尋ねました。彼女は、
『おお、忘れていました! 私は赤ちゃんをお隣さんに預けたままです』
と叫びました。師にお会いするために、彼女は1.6キロ以上歩いてきたのです。

 ある日師は、女性たちに、
『さて、今日はあなた方が歌わなければならないよ。私は聞こう。』
とおっしゃいました。彼女たちは皆、黙っていました。誰一人あえて音を立てようとはしませんでした。しかし、そこに一人の少女がいました。師はその少女をとても愛していたので、彼女の姿が見えないときは、いつも彼女を呼びにやったほどでした。彼女は誰も歌おうとはしないのを見て、か細く甲高い、震えた声で歌を歌いました。少女たちは皆、彼女を見て笑い始めましたが、彼女が歌い終わったとき、師は大喜びしました。
『ごらん、彼女の信仰の何と偉大なこと!』
と、師は叫びました。
『私が頼んだだけで、彼女はこんなに素直に、飾ることなく歌ったのだ。あなた方の中で、彼女だけが真の信仰を持っている。』」



 ――ラクシュミー・デーヴィー(ラーマクリシュナの姪) 

コメント

平等の歌

2011-03-30 18:39:02 | 松川先生のお話

 取る・取らないを平等に見て、欲界を超える。
 好き・嫌いを平等に見て、四無量心を修習し、
 苦楽を平等に見て、最高のサマーディに至る。
 自と他を平等に見て空間を越え、
 あれこれを平等に見て、識別を超える。
 過去と今と未来を平等に見て、縁起の流れにとらわれずに時間を越え、
 想いのあるなしを平等に見て、低いニルヴァーナを超える。
 そして輪廻とニルヴァーナさえ平等に見たならば、
 無明を超えたブッダの境地に至る。


コメント

記憶の浄化と解放

2011-03-29 09:08:04 | 松川先生のお話
 たとえばさっき怒っていたのに今は笑っているとか、昨夜と今朝で性格が違うとか、そういうことはよくあることです。
 この場合、たとえば昨夜のじめじめした自分と、今朝のおおらかな自分は、全く違う存在であるとも言えるわけですが、なぜ我々はここに、昨日・今日・明日と貫かれる自我意識、アイデンティティ(自己同一性)を持つのでしょうか?

 それは「記憶」のせいであるということがいえるでしょう。
 たとえば、一週間前に親とケンカした「私」が、一昨日、学校で先生に怒られ、その「私」が昨日、友達に慰められ、その「私」が昨夜、友達に誤解され、その「私」が今朝、友達と和解し・・・というように、一貫した記憶の流れがあり、その記憶に依存するかたちで「私」というアイデンティティがあるように感じています。しかしそれはただの記憶なのです。

 ただの記憶ということは、それはただの実体のないイメージであるともいえます。こんなに不安定なことはありません。たとえば記憶の混乱、記憶の勘違いというのもあるわけですから。

 いや、個人の記憶とは関係なく、客観的な他人からの同一的認識があるではないか、というかもしれませんが、それこそ不安定というか不確実なものです。「私」という意識の中では、「客観的」とされる他人からの言葉も、自分が作り出した主観的な夢の中での一つの音に過ぎないわけですから。

 つまり「私」という夢を作り出しているものは「記憶」であるといえます。
 そしてこの「記憶」も、何か芯があるわけではありません。たとえば蓑虫の周りに木の皮などがくっついていくというようなものではなく、ただの埃に埃が積み重なっているようなものです。まさにタマネギのように、全部むいていくと、中には何もないのです。

 そのような「記憶」の積み重ねの流れに対して、まあヨーガ的な言い方をすれば「真我」が、「私」という錯覚を持ってしまっているのが、今の我々の状態です。
 よってこの記憶からの解放こそが、解脱であるといえます。 
 
 では、記憶喪失は解脱なんでしょうか笑? それは違います。記憶喪失しても、その人に特有の一定の性格や性質は残るはずです。つまりそれは、表層的ではない、もっと深い潜在意識的な「記憶」があるからです。そしてこの潜在意識的な記憶こそが、我々の性格や感情を作り上げます。

 たとえば誰かに優しくされて喜んだ次の瞬間、「でもそういえば昨日、こいつはこんな嫌なことをやってきたな」と思った瞬間、喜びは消えて嫌な気持ちになったりすることがあります。これは表層的な記憶によって感情が変化したパターンですが、これと同様のプロセスが、無意識下の潜在意識においておこなわれているのです。

 よって記憶喪失になればいいというわけではなく、潜在意識も含めた記憶からの解放が解脱であり、そこにはヨーガ的にいうならば真我、仏教的にいうならばニルヴァーナ、大いなる空、心の本性といったものしかなくなるのです。

 しかしこの解脱の話は最後の話であって、その前に我々にはやらなければならないことがあります。それは記憶の浄化です。

 簡単に言えば、
・解脱には時間がかかる。
・そもそも記憶が浄化されないと、記憶からの解放はない。
・解脱しても、肉体をこの世に置いている間は、ある程度は記憶に依存する。
・菩薩道を行く場合は、ニルヴァーナを求めないので、良いアイデンティティを培わなければならない。

 以上の理由から、記憶からの解放を求めつつも、同事に、まずは記憶の浄化に励むべきなのです。

 そしてもともと仏教やヨーガの教えに出てくる「念」という言葉、これはサンスクリット語でスムリティ、パーリ語でサティといいますが、この本来の意味は「記憶」なのです。
 最近流行っている南方仏教の修行法の「サティ」では、今自分が何をしているかを自覚するという意味でのサティを推奨するところも多いようですが、私は、それよりも本来的な「正しい記憶」という意味でのサティをしたほうがいいと思います。
 たとえば「私は食べている、食べている」と自覚しながら食事をするよりも、「ブッダに供養します。神に供養します」と念じながら食事をするほうが、何百倍もメリットがある、ということです。

 この場合のサティ、スムリティ、すなわち正念、正しい記憶には、三つくらいのアプローチがあると思います。

1.神仏などのイメージの記憶の繰り返し
2.教えの記憶の繰り返し
3.経験に対する正しい認識の繰り返し

 1番目は、たとえば日本仏教でやる念仏などもこれにあたりますが、ブッダや神のことをいつも念じるということです。イメージの世界、つまり中程度の潜在意識の世界を、神聖なイメージでいっぱいにしてしまうということです。
 この修行においては当然、逆に、自分のイメージをけがすような情報はできるだけ入れない方が良いということになります。

 2番目は、実際に正しい教えを学び、何度も繰り返し学び、心に植え付けるということです。

 3番目は、実際の日常の経験の中で、学んだ教えに基づいて認識をするように気をつけるということです。
 たとえば人から悪口を言われたとき、本来の自分の「記憶」に基づいた反応では、「怒り」「悲しみ」などの反応が出てくると思いますが、それをぐっと押さえ込み、教えに基づいて、「感謝」「許し」「愛」「慈悲」などの反応を返すのです。この繰り返しによって、自分のアイデンティティを構成する「記憶」は浄化され、とても幸せな人になっていくでしょう。
 

 さらに付け加えるならば「カルマ」さえも記憶の産物だということがいえます。
 悪いことをやると苦しみが返り、善いことをすると幸福がやってくる、これがカルマの法則ですが、たとえば悪いことをやった後に苦しみの現象を起こしているのは、実は他ならぬ自分自身なのです。
 この辺は深い話になるのでこれ以上はあまり突っ込みませんが、簡潔にいえば、この世はすべて自分が作り出した夢に過ぎないということです。そしてここでいう「自分」は自由な王のような存在ではなく、「記憶」の奴隷になっているというところに、問題があるのです。
 
 ということは我々が記憶の奴隷となっていなければ、カルマの法則は関係なくなるのでしょうか? その通りなのです。
 しかしこれは、よくいわれるような、「究極的には善も悪もないんだ」などと口で言っているだけではダメです。必要なのは、善悪の認識からの解放というよりも、苦楽の認識からの解放、そして希望と恐怖からの解放です。
 これら無しに、単に善悪の認識を超えようとすると、単に悪いカルマに翻弄される、カルマの悪い人になってしまいます。
 ここにおいて必要なのは、希望と恐怖を持たず、苦しみも喜びも平等に見て、目の前にやってくることをすべて神仏の愛と見て受け入れて、なすべきことを行動するという発想です。そしてこの道がカルマ・ヨーガであり、カルマから解放される道ということになります。




・カルマヨーガによるカルマからの解放

・三つのアプローチによる記憶の浄化

・記憶の支配からの解放


 この三つの修行を頑張ってください。
コメント

恐れるものは何もない

2011-03-28 08:11:57 | 松川先生のお話


恐れるものは何もない。
恐れはすべて、君の心が作り出した幻影だ。

君が過去になしてきた、他者に対しての非難、攻撃、排他、嫌悪、
こうしたものが今、君にそのような幻影を見せているのだ。

君は教えを学んでいながら
そのような汚れた心をやめなかった。

その報いとして、君は今、実体のない恐怖や不安にさいなまれている。

しかし恐れることはない。
すべてはあのお方が動かしているだけであり、
我々はただの道具に過ぎないのだから。

君が恐れようが、期待しようが、何を思おうが、
すべてはただ、あのお方のご意思により、最善なる形でなされるだろう。

君が持つべきは恐れや期待ではなく、
至高者への愛と、
衆生への愛だ。

至高者への愛を持ちなさい。
衆生への愛を持ちなさい。
そしてそのために懸命に努力しなさい。
しかしそれすらもすべて、ただあのお方がなさっているのだ。
コメント

他の誰だと思うかね?

2011-03-26 22:36:15 | 経典の言葉・聖者の言葉

 ベナレスにおいては、サーラダー・デーヴィー(ラーマクリシュナの妻)はチメリ・プリという高齢の聖者と会いました。ゴーラープ・マーが聖者に、誰に食事を与えてもらっているのかと尋ねると、聖者は、

「マザー・ドゥルガーじゃ。他の誰だと思うかね?」

と、まるで子供のような純粋な顔をして言いました。

 これを見てサーラダーは大変感動し、喜びました。ベナレスには他にも高名な聖者と呼ばれる人たちがいましたが、サーラダーはこのチメリ・プリに会った後は、他の聖者には会おうとしませんでした。


(「ホーリーマザーの生涯」より)
コメント

墓場の歌

2011-03-25 18:36:43 | 松川先生のお話
 人生は短く、
 そして人は必ず死ぬのだ。
 だから人の目など気にせずに
 信じる道を突き進め。
 明日死んでも後悔ないように生きろ。
 もし明日も生きてたら
 もうけものだと思い、もう死んだものだと思ってこだわりなく生きろ。
 明後日も生きていたらもうけもの。
 昨日死んでたのかもしれないのだから、何も失うものはないし、
 この「もうけもの」がいつまで続くかもわからないのだから、躊躇している暇はない。
 信じる道を、なすべきことを、全力で進もう。

 君が考える「他者」「社会」「常識」は、
 皆、君の心が作り出したもの。
 世界は君が見ているようにはできていない。
 皆、ただ自分の心だけを見ている。

 だから戦うべきものは己自身。
 愛すべき者は他者。
 すべての他者を愛し得たとき、
 自己のすべては安らぎに満ちる。

 善に躊躇するな。
 信じる道に躊躇するな。
 間違いなどない。
 本当に信じているなら、少なくとも今の君にとっては、それが最善だ。
 
 しかし他者の批判はするな。
 評論家にはなるな。
 常に探求者、プレイヤーであれ。
 

 君が考える「他者」「社会」「常識」は、
 皆、君の心が作り出したもの。
 世界は君が見ているようにはできていない。
 皆、ただ自分の心だけを見ている。

 では、世界は本当は、どうなっているのか?
 君がその迷妄のメガネを外したときに、気づくだろう。
 この世にはただ、至高なる神しかいなかったと。
コメント

◎睡眠について

2011-03-25 15:15:29 | 解説・バガヴァッド・ギーター

◎睡眠について

 はい、ちょっと今日は進みが遅かったので、ヨーガに関することでもあるので、今日は一旦ここで終わりましょうかね。最後にここまでのこと、あるいは関係ないことでもいいけど質問とかがあったら聞いて終わりにしましょう。何か質問等あるかな? 

(H)眠りすぎてはならずっていうのなんですけど……(笑)。

 はい。どのくらいか? 

(H)どのくらいが適切なのかってわからなくて、例えば、昨日かな、「ああ、ちょっと気持ち悪いな、体調悪いな」って思ってるうちに眠くなってきて、「体調悪いし寝た方がいいかな」とか思って寝ちゃったんですけど、昼。そういうときに寝ないで修行した方がいいのか、あんまり寝るとタマスになっちゃうのか……。

 いや、それは程度問題だからさ、体調が本当に悪かったらそれは休んだ方がいいときもあるけど。あと会社とかある場合ね。そのためにある程度休んだ方がいいかもしれないけど、Hちゃんの今の状況ってのは最も恵まれた、修行に没頭できる日々があるから、その場合はね、極限を目指した方がいいね。もう極限的に自分を追い込むと。
 だから現代の場合はさ、全てはカルマなんですよ。例えばHちゃんがそういう修行をできる状況に今あるっていうのは素晴らしいカルマであって、逆にそうじゃなくて会社に行かなきゃいけないってのもそれはその人の今修行を一番進めるカルマなんだろうけど。Hちゃんは今のカルマっていうのは修行のカルマだから、それは追い込んだほうがいいね。
 で、基準を言うならば、これは理想だけども、あまりエネルギーをロスしない生活をしてる場合は、三時間睡眠ぐらいでいいです。で、会社とかに行ったりとか、あるいは私みたいにいろんな人に接してエネルギーを振りまいてる場合は五時間ぐらいだね。理想はね。八時間は寝すぎです(笑)。一般的なね。
 ただこれは環境によって変わってくるからね。例えば仕事の内容とか家族とかいろんな環境において変わるから一概には言えないけど。
 私個人のことを言うと、私は修行いっぱいできたときとかは三時間ぐらいだね、平均ね。で、普通は五時間とか長いと六時間とか。例えば勉強会とかあっていっぱいちょうどその日にいろんな事が重なって修行ができなくて凄い疲れると、たまに七、八時間寝ちゃうときもあるけど、それはたまにだね。平均は五時間ぐらいが多くて、調子良いと三時間寝るとか。本当に修行に没頭できてたら三時間ぐらいでいいと。
 修行ってのは結局さ、さっき言った極端な意味のない苦行は駄目なんだけど、修行自体は結局自分との戦いだから、やっぱり極限を目指すべきだね。あまり自分に甘えずに。

(H)(笑)

 まあHちゃんは礼拝を四時間やったとか、そういう精進の素養はあるから、だからHちゃんってスイッチがあるんだろうね。入ると凄いけど、怠惰な方にスイッチが入るともう何もできない(笑)。それもだからさっきから書いてあるように、自分の心のコントロールっていうのがヨーガだから、常にいい状態を作り上げて安定できるようにできたらいいね。

(H)そこで甘えないこととかが、それ自体修行に……

 そうそうそう。全ては自分との戦いなので。うん。……(笑)

(H)厳しい……。

(一同笑)

 それは厳しいよ(笑)。あの、物事って何でも厳しいと思うんだよね。例えば一般的なね、スポーツで勝利を得ようとしても――私、柔道とかやってたけど、大会とかで勝とうと思ったらやっぱり相当厳しい練習が必要で。あるいは例えば社会で成功しようと思ったら、当然それも厳しい勉強とか厳しく仕事に励むのは必要で。でも修行者がやろうとしてることっていうのはそんなものとは比較にならないものを得ようとしてる(笑)。その社会の成功とかスポーツの優勝とかじゃなくて、悟りを得ようとしてるんだから(笑)。これはそれ相当のものすごい厳しさがあって当たり前なんだね。
 しかしそれくらいの気持ちでいると、そんな厳しくないです(笑)。そうか、そんな世俗の成功なんか比較にならないことやろうとしてるんだから、もう体を八つ裂きにされても耐えなきゃいけないくらいの凄い厳しいことをおれはやるぞって頑張ると、「あれ? 修行ってそんなに厳しくないな」って思う(笑)。うん。相対的な問題だけどね。でも常に自分を極限に追い込もうっていう姿勢は必要だね。
コメント

存在の幻影

2011-03-25 06:45:10 | 松川先生のお話
存在の幻影は
何とも不可思議で
想像しがたく
はまっている者がその全容を理解するのは
想像することすら難しい

しかし真剣な生き方=カルマ・ヨーガの実践と
各種の修行や教えの学びなどにより
うっすらと見えてくる。
上記二つのうち、どちらが欠けてもダメだ。

存在の幻影は
確定したものではない。
よってつかみにくい。
基準点がなく、
こうと言えず、
概念を超えている。
だからこの文章を読んでも
その真意が伝わる人はほとんどいないだろう。
しかし何らかの目覚めのきっかけとなる種が、
こういう文章から、読み手の心に蒔かれる。

存在の幻影は
正体を見抜かれそうになると、すぐに隠れる。
しかしそれは、別に、ヴェールをはいで、パッと見て、見えるような、そういうものでもない。

お釈迦様がおっしゃった、
「善をなせ、悪をなすな、心を浄化せよ」
――これは完璧なアドヴァイスだ。
方法論として、素晴らしく的をついている。

そして聖なるものへの信、帰依。
これらがわれわれを、目覚めへと誘う。

存在の幻影は、
言葉と概念を武器とする。
純粋な信が、その武器を破る。

神は、我々を目覚めさせるために
揺さぶる。
揺さぶらないと目覚めないからだ。

世に頭が良い人は多いが、智慧ある人は少ない。
無智な人々の、疑いの言葉に耳を貸すな。
神を信じ抜け。
そうすることで、その揺さぶりが、目覚めをもたらす。

たとえ100回地獄に落とされても、神を信じ抜け。
コメント

真の満足

2011-03-24 20:03:25 | 解説・バガヴァッド・ギーター

◎真の満足

【本文】
『風のないところにおいた灯火が、決して揺らぐことのないように、
 心を統一させたヨーギーの瞑想も、真我に安定して微動だにしない。

 ヨーガの実習によって心を完全に支配し得たとき、真の平安は得られ、
 自己の中に真我を見出すことができたとき、真の満足を味わうことができる。

 その境地にある人は、普通の感覚ではなく純粋で完全なる叡智によってそれを味わうこととなり、
 真理から決して離れることはない。

 これに勝るものはないというこの至高の境地に達すれば、
 たとえいかなる困難にあおうとも、ヨーギーの心は少しも動揺することがない。』


 はい。これはヨーガ修行の瞑想の達成の境地だね。
 まず『風のないところにおいた灯火が、決して揺らぐことのないように』。
 つまり最初は――これも結果を言っていることだけども、逆にわれわれが目指さなきゃいけないとこだね。瞑想においては一点集中が非常に必要です。これはだから何の瞑想でもそうだよ。例えばマントラ唱えてるんだったら、心がざわついてていろんなこと考えながらマントラ唱えるのも全く効果がないとはいえない。しかしわれわれが目指すべきところっていうのは、マントラを唱えているときは完全にマントラに没頭すると。で、マントラと一体化する。あるいは礼拝してるときはもう完全に礼拝に一体化する。
 で、瞑想で何かの瞑想してるんだったら完全にもう、例えば神の瞑想しながらこっちでは違うこと考えてて、心の中でいろんな独り言が始まっている。「でも神は瞑想してるんですよ」――こんなんじゃ駄目なんです。全神経を神だけに集中する。全神経をマントラだけに集中する。やってることに全てを――もうそれ以外何も私は認識できません、というぐらいに。
 これはお釈迦様の話でこういうのがあるよね。お釈迦様がある瞑想をしてたら、お釈迦様の前をね、凄い戦争の集団の、戦争するための馬車とか馬とかがバーッて通り過ぎた。で、それから雷が鳴ってバーッとお釈迦様の前に落ちた。で、しばらくして弟子達が行って、お釈迦様大丈夫でしたかと。そうしたらお釈迦様が瞑想から覚めて、「うん? 何かあったのか」と(笑)。つまりあまりにも自分の瞑想に集中してたから、雷の音とか馬車が走っているのに全く気づかなかった。そんだけ集中しなきゃいけないんだね。
 あるいはこういう話もあります。ミラレーパの、さっき言ったミラレーパのある高弟がいて、この人が最初に――まあこの人は凄く瞑想の素質がある人だったんだけど、この人がミラレーパのもとに最初弟子入りしたときに、ミラレーパは最初――弟子入りっていうかちょっと最初ミラレパの所に寄っただけだったんだけど、ミラレパは彼に、「じゃあお前はこういう瞑想をしなさい」って言って一個の瞑想を教えて、で、彼は「家に帰る前にちょっと洞窟のところで瞑想してみるか」っていって、ある洞窟で瞑想に入ったと。で、数日後、数日間経って彼のお父さんお母さんがミラレーパのところにやって来て、うちの息子見ませんでしたかと(笑)。あなたのところに数日前に行ったまま帰ってきてないんです、と。いや、彼はちょっと来たけどすぐ帰ったよと。で、捜索した結果、ある洞窟で瞑想している彼を見かけたわけだね。で、みんなで怒って、お前何で数日間も帰らないんだと。で、彼は、「え? 何言ってるんですか」と。「私はちょっと瞑想していただけですよ」と。で、パッと空を見たら――午後に瞑想を始めてたんだけど、空を見たら午前中の太陽だったと。で、混乱して、一体何が起こったんだと(笑)。
 つまり彼の集中力があまりに凄かったがために、三日間を瞬間に感じてたんだね。グーッとあまりに集中しすぎてて三日間経ってたんだけど、まだ数分しか経ってないと思ってた。だからそれだけの没頭っていうか、それだけの全神経をそれだけに向けた集中力が瞑想には必要なんだね。
 もちろん何度もいうけど、まだ未熟な段階でちょっと瞑想の真似事っぽいことをいろいろやるのはマイナスとはいわない。それはもちろんプラスです。でもそれで私は瞑想が終わったんだとか瞑想をかなりしてるんだっていうふうには思わない方がいいかもしれない。本当の瞑想っていうのはもうちょっと高いところにあるんです。
 つまり何度も言うけども、それだけに心が集中して他のものは一切目にも耳にも入らないような状態を作り上げなきゃいけないんだね、本当はね。
 はい。で、それを達成してそれが真我に安定したとき、それは全く微動だにしないというわけだね。そしてそれによって心を完全に支配し得たときは真の平安が得られますよと。そして自己の中に真我を見出すことができたとき、真の満足を味わうことができると。これはもう基本的なところだね。
 われわれは外的なものに満足を見出そうとするんだけど、さっきも言ったように外的なものって無常だから、決して満足することはありません。一つを得れば失いたくないと思うし、もっと得たいと思う。あるいは嫌なものを経験すればそれを避けたいと思う。だから外的なものってのは常に移り変わり、自分の心がそれに翻弄される限り、永遠の完全なる満足ってのはありえない。
 そうじゃなくて内側にもともとあるんだと。君が外側に求めているものとは比較にならないような完全なる平安が内側にあるんだよと。で、それを発見した者にとっては、全く壊れない平安、壊れない満足がやってくるってことだね。
 はい、『その境地にある人は、普通の感覚ではなく純粋で完全なる叡智によってそれを味わうこととなり、真理から決して離れることはない』と。この辺は結果を言ってますね。
コメント

理想の追求

2011-03-24 17:37:22 | 松川先生のお話
我々は、おいしいものを食べるために生まれてきたわけじゃない。
欲望を叶えるために生きてるわけじゃない。
自分をけがすためにこの人生があるわけじゃない。
言い訳のために貴重な時間があるわけじゃない。

だから、理想を追い求めよう。
理想を貫く努力をしよう。
心を折らずに、何度もトライしよう。
仮に折れても、柳のように、しなやかにまた立ち上がろう。

自分を甘やかすな。
もちろん、ガチガチに凝り固まる必要はない。
ユーモアをもって、楽しく、日々生きればいい。
しかし大切なことを忘れるな。
他のすべてを捨てても、理想を追求せよ。
覚悟を決めて、楽しみながら。
コメント

◎真我に心を安住させるとき

2011-03-24 05:59:38 | 解説・バガヴァッド・ギーター

◎真我に心を安住させるとき

【本文】
『修行者が、自分の心の働きを統御して、真我にのみ安住させるとき、
 彼の心はすべての愛欲や物欲から解放され、真に至高者と合一することができる。』


 はい。これも非常にゾクチェンあるいはマハームドラーの見解と非常に近い。つまり最初はね、「ああ、この愛欲や物欲をどうしよう?」と。これはこういうふうに考えようかな、ああいうふうに考えようかなっていうのも必要なんだけど、究極的には至高者――それはシヴァ神でもいい。クリシュナでもいい。あるいは形のない心の本性でもいいし、あるいは自分の好きな聖者でもいい。あるいはね、自分の師匠でもいいよ。やりやすい対象でいい。それに対して、その完全なる対象に対して常に心を向けてたならば、愛欲とか物欲とか怒りとかそのようなものは全部吹っ飛んでしまうんです。そんなものはもう入る余地がなくなってしまうというか。
 ちょうどこれはよくいわれるように、夜になると蛍が光を発しているが、太陽が昇ったら蛍の光なんて見えなくなってしまうと。だから至高者に心を集中し、至高者の光に包まれているときっていうのは、自分の愛欲とか物欲とかそんなものは全く関係なくなるというか、姿を消すわけだね。
コメント

クンダリニー・ヨーガの歌

2011-03-23 21:07:36 | 松川先生のお話

 徳、
 戒律を守ること、
 過去の悪業の浄化として苦しみに耐えること、
 経験のある師の導き、
 正しい行法、
 神の祝福、
 これらがそろったときに、クンダリニー・ヨーガは成功する。

 特に性的禁欲は、クンダリニー・ヨーガには不可欠だ。
 その生命エネルギーを、様々な修行により、上昇のエネルギーに変えるのだ。
 結節を破り、気道を浄化し、
 真にクンダリニーを上昇させるのだ。

 クンダリニーの上昇、アムリタの発生
 これらが本当に生じるには、
 神の祝福が不可欠だ。
 しかし普通は、ここでいう神の祝福に、人間の心身は耐えられない。
 だからまずしっかりと基礎的修行を努力するのだ。

 クンダリニーが本当に上昇し、アムリタが発生すると、
 えもいわれぬエクスタシーが発生する。
 それはセックスなど足元にも及ばない歓喜だ。

 もしそれが生じないとしたら、これまでのプロセスで何かが足りない、または間違っている。
 よって修正せよ。

 エネルギーをイメージで回すだけでは意味がない。
 また、本当に回すことができたとしても、そのエネルギーがけがれていたら、かえって害になる。
 よって各種の修行を疎かにせず、心とカルマの浄化を疎かにせず、
 正しく修行に励むのだ。

 アムリタを真に発生させ、チャクラを満たし、浄化する。
 最終的にはすべての気道が浄化され、至福に至る。
 そしてエネルギーは中央の気道に集中する。

 内側に神の身体が生まれ、自在を得る。
 神の祝福とエネルギーの力によって、智慧と慈愛を得る。
 
 この道は、最も速い道だが
 本当のやり方を知らないと、何の効果もなく、
 また、間違えると危険な道。
 バクティ・ヨーガ、カルマ・ヨーガなどと共におこなうことで、
 危険なく、速やかな達成を得るだろう。
コメント

◎常に至高者と共に

2011-03-23 04:24:19 | 解説・バガヴァッド・ギーター
◎常に至高者と共に

【本文】
『至高者と結ばれた状態で食べ、至高者と結ばれた状態で体を動かし、至高者と結ばれた状態で行為をし、
 至高者と結ばれた状態で眠り、至高者と結ばれた状態で目覚め、そしてヨーガを実践すれば、苦悩はすべて取り除かれる。』


 はい。これは素晴らしいね。素晴らしいけどね、実はここ、もともと日本語訳してるもののテキストではちょっと違う表現になっちゃうんだけど、原文を見て私がこういうふうに変えたんだけど――至高者、つまり、それはまあそれぞれのカルマがあるからクリシュナでもいいし、あるいは仏陀でもいいし、あるいはミラレーパでもいいし、何でもいいんだけど、完全なる至高者のことを常に心に思い、私はそれに完全に合一しているんだという意識のもとに食べ、動かし、行為をし、眠り、目覚め、そしてヨーガを実践しなさいと。これは素晴らしいね。
 だから常に私は一緒にいるんだと。例えば食事をしてるときっていうのは、私が、さっき言ったように「私」っていう思いを抱いてしまうと、苦しみに放り込まれる。そうじゃないと。私は至高者と完全に一体化しており、至高者に食べさせているという思いで食事をすると。で、何をするにも至高者っていうものを心から離さない。
 これは前回とかも言ったけど、密教で言うところのマハームドラーとかゾクチェンの世界と非常に近い。あの世界っていうのは、常に心の本性から集中を逸らすなっていうんだね。その心の本性っていうのと、この至高者っていうのは全く同じです。表現が違うだけでね。この宇宙の本質にある完全なる実体というか――まあ実体っていってもちょっと違うんだけど、実体としかいいようのない唯一の完全なるものがある。それから一切心を離さずにすべての行動を行なうと。そしてヨーガ修行に励むと。そういうことやっている人っていうのは、苦悩はすべて取り除かれると。
 しかし、われわれはここでね、こういう勉強していながら、「ああ、そうなんだ」と思いながらも、ちょっと一歩歩くと、至高者からエゴの方に心がシフトするんです(笑)。で、「ああ私は……私は……私は……」って始まって、気づいたらもう苦悩の中に放り込まれている。だからこれはわれわれが日々目標としないといけないところだね。
コメント

カルマ・ヨーガの歌

2011-03-22 19:09:41 | 松川先生のお話
 すべては自己のなしたカルマの果報
 そして同事に、すべてはただ神の愛。

 カルマヨーギーは、言い訳をしない。
 後悔をしない。
 ただ全力で、目の前のことにぶつかるのみ。
 その結果については、神にお任せである。

 全力でぶつかれ。
 後のことは考えるな。
 以前のことも考えるな。
 今をただ、子供のような素直な心で、全力で楽しめばよい。

 素直になれ。 
 柔軟になれ。
 言い訳をするな。
 誠実になれ。
 動け!
 止まるな!
 神の道具になれ!
 前進の途中で、前のめりになって死ね。

 そしてまた生まれ、
 また走り出せ!

 男らしくあれ。
 無限の愛をもって
 ただ皆の幸福をねがえ。
 自分のことは一番最後に考えよう。
 それこそが主の御子、カルマヨーギーだ。

 カルマヨーギーは、融通無碍。
 何にもとらわれず、何にも邪魔されない。
 表面的には、力強く、すべての障害を打ち砕いて進んでいるように見える。
 しかし彼は実は、ただ神の道具として遊んでいるだけ。
 
 カルマヨーガの最中には、実際、多くの困難と障害が待ち受けるだろう。
 何度倒れても立ち上がれ。
 何度失敗しても突き進め。
 千回失敗したら、もう一度トライするのだ。
 諦めない限り、破れない壁はない。

 真に融通無碍になるまでは、懸命の努力が必要だ。
 いつ終わるかわからぬ人生、
 もったいぶらずに、全力を出せ。
コメント