ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

新刊案内「ラーマーヤナ」

2011-01-31 08:20:50 | お知らせ

 マハーバーラタと並ぶインドの二大叙事詩の一つであり、ヒンドゥー教のエッセンスが深く刻み込まれた聖典であり、世界中の多くの物語のもととなったともいわれる、神の化身・英雄ラーマの物語「ラーマーヤナ」。
 松川慧照が、わかりやすくまとめたラーマーヤナが、新しく本になりました。

 定価1000円です。
 遠方の方は郵送もいたしますので、お気軽にお問い合わせください。




コメント

秘訣

2011-01-22 22:39:36 | 松川先生のお話


 大事なポイントの一つは、いずれかの神またはブッダに、またはそれらと同一である師に、絶対の信を持ち、帰依をすることだ。彼こそが真理であり、宇宙の根源であり、すべてのすべてであると、信じることだ。

 そして次に、すべてのあらわれが、知覚のすべてが、その自分が帰依する師や神そのものであると知ることだ。

 そのとき、愛によって、信によって、謙虚さによって、誠実さによって、忠実さによって、
 あなたの人生のすべては、真にあなたを目覚めさせる教師そのものとなる。

コメント

愛があればそれでいい

2011-01-20 21:53:07 | 松川先生のお話
君にできないことなんて何もないさ。
君が歌えない歌なんて何もないさ。
言葉にできなくても、君はこのリーラーの鍵を学ぶことができる。
簡単なことさ。

君に作れないものなんて何もないさ。
君に救えない人なんて一人もいないさ。
今は何もできなくても、どうすればいいか学ぶことができる。
簡単なことさ。

神への愛があればそれでいい。
衆生への愛があればそれでいい。
愛さえあれば、何もいらない。
愛だけが、君に必要なすべて。

悟れないことなんて何もないさ。
見ることができないものなんて何もないさ。
どこにいようが、そこがヴリンダーヴァンになる。
簡単なことさ。

神への愛があればそれでいい。
衆生への愛があればそれでいい。
愛さえあれば、何もいらない。
愛だけが、君に必要なすべて。

コメント

夢の中の友へ

2011-01-20 07:01:01 | 松川先生のお話

 人は視覚的錯覚にだまされやすい、というのは多くの人が知るところだろう。

 同様に、聴覚も、触覚も、もちろん嗅覚や味覚も、様々な錯覚による誤認をしてしまいやすいというのは、日常においてもよく経験されることだと思う。

 しかし実は最もあやふやで錯覚しやすいのは、この五感の識ではなく、第六番目の識、すなわち意識なのである。

 私たちが信じる科学も、常識も、すべてはこの意識の中での産物である。そこを出ることはできない。
 しかしなぜか我々は、五感の錯覚は自覚できても、この意識の錯覚は自覚しにくい。

 そしてこの我々にとっての諸悪の根源である意識こそが、同事に我々にとって救いの基盤ともなる。

 それには「ダルマ」との出会い、
 そしてそれを説いてくれる師や聖者との出会いが必要だ。

 そしてもし運良く出会ったら、しがみつけ。
 心を変えること、意識を変えることに全力を尽くせ。
 キーワードは、心を変えること、意識を変えることだ。
 聖なる意識、清らかな心、これを培うことに全力を尽くすのだ。

 これは、夢の中にいる友たちへの、聖者たちからの精一杯のメッセージである。
 思い出せ、神の愛を。
 キーワードは、清らかな心だ。
 心をただ聖なるものでいっぱいにするのだ。
コメント

出張ヨーガ講習会のお知らせ

2011-01-19 13:57:46 | お知らせ

 以下の日程で、出張ヨーガ講習会を開催いたします。
 参加希望の方は、お早めにメールでご連絡ください。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。


 ※神奈川・東京・大阪の方は、教室がありますので、そちらにお越しください。詳細はメールでお問い合わせください。

 ※現在講習会がない地方への出張も、要望があれば検討しますので、お気軽にご連絡ください。




1月23日(日)14:30~17:30
☆場所:仙台・スタジオカラコル
JR仙台駅から徒歩10分
http://www.chiaki-walk.com/caracol.html


2月6日(日)15:00~18:00
☆場所:名古屋・亜細亜大陸アカデミー
地下鉄矢場町駅から徒歩3分
http://ajiatairiku-academy.com/asia/access.html


2月20日(日)14:30~17:30
☆場所:仙台・スタジオカラコル
JR仙台駅から徒歩10分
http://www.chiaki-walk.com/caracol.html


2月27日(日)13:30~16:30
☆場所:札幌市男女共同参画センター・健康スタジオ1
JR札幌駅から徒歩4分
http://www.danjyo.sl-plaza.jp/index.html



☆詳細-----------------------------------------------------------------------------------



☆参加費:3000円

☆内容:クンダリニー・ヨーガ、ハタ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガなどの各種行法実践と講義。
    初心者の方でも問題ありません。お気軽にご参加ください。

☆定員:3名~20名
    ※参加希望者が定員に達しなかった場合、中止になる場合もありますので、ご了承ください。

☆予定しているメニュー:アーサナ(気を調える体操)
            気功(気を充実させる内気功)
            プラーナ―ヤーマ(各種の呼吸法)
            ムドラー(覚醒の技法)
            マントラ
            瞑想
            講義
 
☆持ち物:動きやすい服装
     ヨガマット、または大きめのバスタオルなど(床に横になるときに下に敷けるもの)。

☆申込先:電話かメールでお申し込みください。



コメント

「自我の放棄」と「愛の完成」(3)「『私の』よりも『神の』を取る」

2011-01-17 07:50:29 | 松川先生のお話



 さて、以下は付け足しのようなものですが、実は今回一番書きたかったことでもあります。

 基本的には上記の「三つのポイントの実践」に書いた、三つのポイントを実践していけばいいわけですが、今回はもう一つ秘儀的ポイントを加えましょう。

 ただ、これは一般的にはちょっと厳しい話でもあるので、あくまでも本格的に修行を進めていきたいという人向けの話として聴いてください。

 
 これは具体的にはケースバイケースなので大まかにしかいえないのですが、

 「自分の欲求」ではなく「神や聖者の意思、好み、教え」を、あらゆる場面で選択し、供養する、ということです。

 たとえば一般的に挙げやすい例として、食べ物があります。

 まあ誰かが食事を作ってくれるような環境の場合は、それを神から与えられたものと考えてありがたく供養しながらいただけばいいのですが、そうではなくて自分で食事を作ったり、あるいは外食をするような環境にある場合、決して、自分の好きなものは選ばない実践をするのです。そして神や聖者や自分の師が好きなものを選ぶのです。
 神や聖者が好きなものというのも変な話かもしれませんが笑、聖者や神も、一応、この世における一つの個性、フォームを持っていますので、好まれるものというのがあります。それを調べて、それのみを選択するようにするのです。

 ただ、たとえば日本人の師がいる場合はいいですが、日本人の師がおらず、たとえば師がインド人で、好きな聖者も全員インド人の場合、毎日カレーを食べなければいけなくなるかもしれないので、それはあまり現実的ではないですね笑。その場合はこの方法は使えませんね笑。

 まあ食べ物というのは例としてあげやすいのであげましたが、とにかくあらゆる選択の場面において、「私はこれが好きだから」ではなく、「神がこれを喜ぶから」「師や聖者がお好きだから」「教えでこうなっているから」という観点で選ぶことを繰り返し、「私」「私の」「私が」といった選択を極力少なくしていくのです。

 また、ある選択において、どれが教えに則っているか、神の意思か、わからない場合は、心の中で神や聖者や師に尋ね、インスピレーションを受けるといいでしょう。
 もちろんそこで生じるインスピレーションには、エゴが含まれ、間違う場合もあるでしょう。
 しかしそれでも、そういうことをやらないよりは、やったほうがずっといいです。


 この教えは本当にケースバイケースなので、日々そういうことを心がけて、いろいろな場面に当てはめて、いろいろと実践してみてください。

 


コメント

「自我の放棄」と「愛の完成」(2)「三つのポイントの実践」

2011-01-13 07:53:49 | 松川先生のお話


 さて、「たった一つの方向性」として上に書いたような内容は、私も今までも何度も書いてきたし、多くの聖者方が説いていらっしゃる真理の核心だと私は確信しているし、それに気づいている人も多いだろう。

 しかし、この最終完成地点があまりにも今の自分とかけ離れているが故に、いったいどうすればいいのか、何をやったらいいのかわからない、という人がほとんどだろう。

 端的に言うならば、これも何度か書いているように、以下の三つのポイントが必要だ。

①教学
②日々の生活の中での念正智、実践
③ヨーガなどの行法、瞑想

 ①の教学というのは、正しい聖典や良い本などを、毎日繰り返し読む。それによってまず、何が「自我の放棄」と「愛の完成」につながるかを、徹底的に自分の心と頭にたたき込まなければならない。

 そしてそれを日々の生活の中で実践するのだ。教えと自分の心・言葉・行為を一致させていくようにするのだ。
 そのためにも、毎日、できれば数時間に一回、教学をし、そして日々自分の心・言葉・行為をチェックする必要がある。これを念正智という。

 ところで、この①と②の実践は、実はそれだけでは大変難しい。自分のカルマや習性というのは、そう簡単に変わるものではないからだ。
 そこで③番目の、行法や瞑想が出てくる。本当に効果のあるヨーガや瞑想は、気道を広げ、エネルギーを強め、エネルギーを上昇させ、心を浄化してくれるので、自分のカルマや習性の限界を打ち破る手助けをしてくれるのだ。


 この三つの実践を日々繰り返すといいと思います。
コメント

「自我の放棄」と「愛の完成」(1)「たった一つの方向性」

2011-01-12 16:48:08 | 松川先生のお話





 すべての”真の”道徳、宗教、修行、ヨーガ、スピリチュアリズムなどには、たった一つの方向性しか存在しない。

 その「たった一つ」の方向性は、二つの言葉によって表現される。

 それは、

「自我の放棄」

と、

「愛の完成」

である。



 「愛の完成」とは、何に対する愛か。
 一つは神仏への愛であり、
 もう一つは、自分以外の他のすべての衆生への愛である。
 この二つが高められたとき、二つは一つになる。
 神仏への愛と衆生への愛、どちらか一つを高めることでも同じ結果に達するが、
 どちらも一緒に高めた方が、結果は早い。

 
 繰り返すが、

 すべての”真の”道徳、宗教、修行、ヨーガ、スピリチュアリズムなどには、たった一つの方向性しか存在しない。
 その「たった一つ」の方向性は、二つの言葉によって表現される。
 それは、「自我の放棄」と、「愛の完成」である。

 多くのそれらの道の違いは、方法論の違いと、 
 「どれだけ極めることを目指すか」という程度の違いであり、
 方向性は同じなのである。

 逆に言えば、これと反する方向性を持つもの、
 たとえば自我を増大させていくような道徳、宗教、修行、ヨーガ、スピリチュアリズムなどというのは、
 間違いだということだ。



 これは、そんなことはないと反論する人もいるかもしれませんが、
 あくまでも私の個人的見解ですので、
 参考程度にお聞きください。
コメント

1~2月のヨーガ講習会のお知らせ

2011-01-08 06:45:14 | お知らせ

 以下の日程で、出張ヨーガ講習会を開催いたします。
 参加希望の方は、お早めにメールでご連絡ください。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。


 ※神奈川・東京・札幌・大阪の方は、教室がありますので、そちらにお越しください。詳細はメールでお問い合わせください。

 ※現在講習会がない地方への出張も、要望があれば検討しますので、お気軽にご連絡ください。





1月16日(日)12:30~15:30
☆場所:高知・サンポート高知2F スガジャズダンススタジオ
桟橋通五丁目駅から徒歩2分
http://www.suga-izanai.org/elia/kochi.html


1月23日(日)14:30~17:30
☆場所:仙台・スタジオカラコル
JR仙台駅から徒歩10分
http://www.chiaki-walk.com/caracol.html


2月6日(日)15:00~18:00
☆場所:名古屋・亜細亜大陸アカデミー
地下鉄矢場町駅から徒歩3分
http://ajiatairiku-academy.com/asia/access.html


2月20日(日)14:30~17:30
☆場所:仙台・スタジオカラコル
JR仙台駅から徒歩10分
http://www.chiaki-walk.com/caracol.html




☆詳細-----------------------------------------------------------------------------------



☆参加費:3000円

☆内容:クンダリニー・ヨーガ、ハタ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガなどの各種行法実践と講義。
    初心者の方でも問題ありません。お気軽にご参加ください。

☆定員:3名~20名
    ※参加希望者が定員に達しなかった場合、中止になる場合もありますので、ご了承ください。

☆予定しているメニュー:アーサナ(気を調える体操)
            気功(気を充実させる内気功)
            プラーナ―ヤーマ(各種の呼吸法)
            ムドラー(覚醒の技法)
            マントラ
            瞑想
            講義
 
☆持ち物:動きやすい服装
     ヨガマット、または大きめのバスタオルなど(床に横になるときに下に敷けるもの)。

☆申込先:電話かメールでお申し込みください。



コメント

瞑想の障害とたとえ話と対抗策

2011-01-07 20:35:49 | 松川先生のお話


 瞑想の障害となる五つの項目。それは、
①愛欲
②憎しみ
③不精と眠気
④浮ついた心と悔やむ気持ち
⑤疑い

 この五つについて、原始仏典でお釈迦様は、借金・病気・監獄・奴隷・荒野の道という五つの例えを繰り返し出しています。
 この五つの例えが五つの障害のそれぞれに当てはまるとは書いてありませんが、私は当てはまると考えています。そこでそれらの例えにもとづいて、この五つの障害を検討してみましょう。


①愛欲--借金

 性欲、食欲、お金、その他への飽くなき執着・貪り。これらは借金のようなものです。
 何故借金なのでしょうか? それらの欲望を満たしたその瞬間は、楽しいからです。満足するからです。
 しかしふと気づくと、多額の借金が残されるように--ふと気づくと、我々の執着の苦悩は増してしまっているからです。
 清貧の賢者も、ちょっと物を集め始めたのをきっかけに、いつ守銭奴になるかわかりません。
 純粋な恋心も、そのうち独占欲が強くなり、嫉妬や寂しさなどの苦しみにさいなまれます。
 執着の修習はそれと引き換えに、大きな苦しみの種を心に植えつけるのです。これが借金です。
 
 では借金の返済とは何でしょうか?--愛欲・執着から離れること、すなわち離欲の修行です。
 心において貪り・愛欲・執着をどんどん捨て去り、浄化していくのです。
 ところで、借金が多いほど、返済は大変でしょう。
 同様に、執着の経験が多いほど、それを捨て去るのは大変になります。
 しかし有限には変わりありませんから、必ずいつかは浄化されるでしょう。
 
 実際の瞑想においては、愛欲や執着の思いがあると、当然、瞑想はできません。なぜならその執着の対象は皆、この欲の世界のものですからね。瞑想においては色界や無色界といった、欲を超えた世界に入っていかなければならないわけですから、心が欲界に縛り付けられていては、無理なのです。
 しかし、ということは、仏陀とか、神とか、この欲界を超えたものへの執着は、瞑想においてはある程度肯定されるということになりますね。その通りです。そしてその部分を強調しているのが、バクティ・ヨーガや、大乗仏教や密教で強調される帰依の修行ということになります。 


②憎しみ・怒り--病気

 怒っている人の吐く息はねずみを殺すほどの毒素を持つという実験結果を聞いたことがあります。まあこの実験の信憑性は別にしても、怒りは肉体的にも、精神的にも、大きな病を自分自身にもたらします。
 怒りによって体の気道はつまり、炎症性の病が起きやすくなります。神経や内臓は不調になり、呼吸は浅くなり、頭脳や身体中に酸素やプラーナは行き渡りにくくなるでしょう。
 精神的な問題はもっと深刻です。執着の苦しみも苦しいですが、怒りの苦しみはもっと最悪です。それは地獄の因でもあります。 
 考えてみてください。怒りの心が作る世界、イメージは、殺伐とした、どろどろした、息苦しい、闇に満ちたものでしょう。しかしそれは、誰かに対してその怒りや憎しみを向けていたとしても、実際にその怒りや憎しみの心が展開されているのは、自分の心なのです。その人は自分の心を暗く殺伐にしているだけです。そしてその心の状態によって、人は世界を見ます。その人にとっては、この世界は暗く、殺伐として見えるでしょう。
 それは実際、様々な精神的問題を生み出し、精神的に孤立感も強くなるでしょう。自分の気に入らないものを排除し、逃げ、憎み、攻撃することを繰り返すことで、その人はこの宇宙で一人ぼっちとなり、どこに行っても苦しみを感じるようになるでしょう。そう、その人はたとえ天界に行ったとしても、苦しみを感じるでしょう。逆に慈愛に満ちた人は、たとえ地獄に行ったとしても、苦しむことはないでしょう。周りの衆生への哀れみはあったとしても。--なぜなら、すべては心だからです。
 だから、憎しみや怒りに覆われているということは、まさに病にかかって苦しんでいる人と同じなんですね。

 実際の瞑想においては、もちろん、怒りや憎しみがあると、瞑想できません。その憎しみの対象が心にわいてくるというだけではなく、肉体的にも悪いプラーナに満たされた悪い状態になっていますし、精神的にも暗く殺伐とした状態なので、光や徳に満ちた色界や無色界には、とても入れないのです。
 そしてこの場合の対抗策は当然、慈愛を初めとした四無量心の心や、菩提心を培うことですね。トンレンの瞑想も有効ですし、「入菩提行論」のような経典を読むことも有効でしょうね。


③不精と眠気--監獄

 不精、怠惰さ、眠気--これらに覆われるというのは、無智のカルマですね。
 つまり、人は自分から、「よし、俺は不精になろう」とか、「よし、眠気に襲われよう」などと考えるわけではなく、過去の無智のカルマにより、あるいはヨーガ的にいえばタマスのエネルギーにより、怠惰さや眠気という監獄につながれてしまうわけです。そこはまさに暗く、動くことのできない監獄です。
 この状態でももちろん瞑想はできません。瞑想のために背筋を伸ばして座法を組むことも出来ません。心はぼーっとし、修行に向かわず、あるいは抗しがたい眠気により、集中できません。
 瞑想とは明晰な意識による精神集中ですので、この怠惰さと眠気という監獄に閉じ込められている間は、瞑想できないのです。
 これらに対しては、心を奮い立たせる教えを学んだり思索したり、あるいは経行や呼吸法その他の肉体行で体をリフレッシュさせることも必要ですね。


④浮ついた心と悔やむ気持ち--奴隷

 奴隷というのは自由がなく、常に支配され、縛られています。
 この四番目の障害というのは、簡単にいうと、過去という妄想と、未来という妄想に縛られた心、といっていいのではないかと思います。
 つまり未来のことに心奪われ、心浮つき、興奮し、うきうきしたり、逆に恐怖したりする状態。
 そして過去というすでに終わったことに心うばわれ、常に後悔したり、逆に良かった思い出を浮ついて考える状態。
 つまりこの人は、「今」という最高に新鮮ですばらしい瞬間を、自由に楽しむことがないのです。
 もう腐っている過去という思い出と、未だ未成熟な未来という妄想に、常に縛られ、自由がないのです。
 
 この状態でも、瞑想できません。なぜなら瞑想とは、この今の瞬間に心を合わせなければならないからです。
 
 これに対する対抗策はケースバイケースですが、大雑把に言いますと、まず懺悔の修行によって過去のカルマの整理と清算を行なうといいでしょうね。
 バガヴァッド・ギーターなどを読んで、カルマ・ヨーガやバクティ・ヨーガの実践に励むのも良いでしょう。
 また、過去と未来、期待と恐怖などに関する考察は、ここの日記でもいろいろ書いてきましたので、それらも参考にしてみてください。
 あるいは、整理されない情報の入れすぎがこれらの障害を生み出す場合もあります。この場合、あまり本やテレビなどを見すぎず、正しい教えの学習と思索によって心の整理をする必要もありますね。

 これらの実践により過去と未来から解放されるなら、今という新鮮な輝く世界が、瞑想者に現前するでしょう。 


⑤疑い--荒野の道

 疑いとは、真理への疑いです。
 逆に言えば、我々は何かを信じなければいけないということです。
 というより、我々は常に何かを信じているのです。
 宗教とか無宗教とかは関係ありません。
 小さいころから教えられた様々な概念、世界観を無意識のうちに--というより確信が強すぎて信じているということさえ気づかないほど信じているのが、普通の人間です。
 しかしそれらは実際は真実ではない、そして我々を悪趣へと落としかねない観念も多く混じっています。
 真理の教えとは、それらのなかにあって、我々を安全に、幸福、安らぎ、天界、そして解脱・悟りへと導いてくれる、すばらしい観念です。
 その真理の観念をよりどころとするなら、我々は安心してこの人生を渡っていけるでしょう。
 しかしそれらの真理の観念に疑いを抱くなら、我々は危険な荒野に裸で放りだされたようなものです。多くの危険と恐怖と頼りなさが付きまとうでしょう。

 ところでしかし実際に悟りを得るときには、我々は別の意味で、この荒野に裸で放り出されなければならないと私は思います。
 なぜなら、悟りのためには、真理という観念も最後には捨てなければならないからです。
 ここにおいて、なれないと非常な恐怖があります。しかしこれは必要な経験です。
 しかしこの最後のステップに至るまでは、真理という観念が必要なのです。真理という観念への強い確信が必要なのです。

 実際に瞑想するとき、実際に自分が行なっている修行への信、それを指導してくれた師への信、そしてその根本にある仏陀や聖者やその教えへの信--これらがないと、我々の心は集中されず、効果的に瞑想に入ることはできません。

 ヨーガの経典にもこうあります。

 --ヨーガ修行を成功させる第一の条件は、「我がヨーガ修行は必ず実を結ぶであろう」という確信である。
コメント

パドマサンバヴァの秘密の教え(51)「シャマタのディヤーナへの執着を避けること」

2011-01-06 09:47:55 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎シャマタのディヤーナへの執着を避けること

 師パドマはこう仰った。

「ダルマを修習しているとき、修行が小乗に向うのを避けることが大切である。」

 ツォギャルは尋ねた。

「それはどういう意味ですか?」


 師はこうお説きになった。

「歓喜、輝き、無思考の三つのシャマタの状態に執着することを避けるのはきわめて重要だ。もしあなたがそれらの状態に執着すれば、あなたは声聞や独覚になることを避けられない。

 チベットの人々は、帰依の修習を最低の教えと見なしている。
 僧院には、精神修養の訓練がない。
 大乗の修行をしていると言っている者にも、菩提心はない。
 タントラの修行者はサマヤを守っていない。
 ヨーギー達は本当の瞑想を経験していない。
 こんな状態では、どんなシッディ(成就)も得ることは難しいだろう。」
コメント

完璧

2011-01-05 08:20:25 | 松川先生のお話

この世界が、本当に、百パーセント、何の例外もなく、神の意思により成り立っており、
神は真に、百パーセント、我々を愛してくださっているので、
この身に起きることはすべて、百パーセント、完璧であると、
真に確信することができるようになるまでは、
我々には不安や恐怖や失望や落胆がつきまとうようだ。
我々は無智なので、すぐにエゴの方を取ってしまう。

自分で作った苦楽の檻に、目の前の現象を閉じ込めるな。

現象は神の愛なので、すべて完璧。
問題はこちら側の心。

これを真に受け入れるのは大変な勇気が必要だが、
そのための訓練、手ほどき、リハビリを、
神は毎日、我々にほどこしてくださっている。
この目が再び、神の姿を見ることができるように。
この体が再び、神の道具として働けるように。
コメント

至高者のしもべ

2011-01-05 08:17:55 | 松川先生のお話
空だけど、帰依と慈悲。

一切は空であるが、
私がなすべきことは、帰依と慈悲。

私は至高者のしもべとして、なすべき事をなすために生まれてきたのだから、
我らが大将である至高者の御心や、正体などを探る必要はない。
ただ使命に殉ずるのみだ。

真理への探求心は必要だが、
哲学的思索に集中しすぎると、真実を見失う。
ある程度は「空」や「ブラフマン」の理解も必要だが、
それよりももっと重要なのは、

至高なる者への帰依

一切衆生への慈悲

使命の遂行。

神や仏陀や師を思って涙を流したり、心が震えたことが一度でもある者は、
それを大事にしろ。呼び戻せ。その灯火を消すな。燃え上がらせよ。

衆生への慈悲に涙を流したり、心が震えたことが一度でもある者は、
それを大事にしろ。呼び戻せ。その灯火を消すな。燃え上がらせよ。


それを補佐するのが、日々のヨーガ修行と、聖典の教学。


われは至高者のしもべ。
常に最高の道具となれるように自己を磨き、
ただ使命に殉ずるのみだ。
コメント

忍耐・快活・勤勉

2011-01-03 21:07:01 | 経典の言葉・聖者の言葉
 医学校に入りたての頃、学生には傷口のうみを洗ったり、死体を解剖したりする仕事がある。これを嫌い、早々に医科大学を辞める学生もいる。これは重大な過ちである。
 最初は誰でも慣れないものである、しかし勉学を続けていき、病理学、薬学、手術、病理解剖学、細菌学を学ぶ。後半の勉強はとても興味あるものになり、楽しみになってくる。

 多くの人は、心の集中という修行を、難しく考えて、途中でやめてしまいがちだ。これは前記の医大の学生と同様に、大きな誤りを犯している。肉体意識を克服しようとしている修行の当初は、困難で嫌なものに見える。暗中模索の格闘をしているようなものである。感情や考えは飽くことを知らず次々と現れては消える。しかしこの戦いを繰り返すうち、三年経てば心は冷静になり、純粋で強くなり、大きな喜びを得る。世界中の楽しみを全部合わせても、瞑想の喜びに匹敵するものはない。
 絶対に修行をやめてはならない。
 頑張って続けなさい。
 『忍耐』『快活』『勤勉』があれば、いつか必ず成功する。
 諦めてはならない。精神集中の妨げになる障害物を、深い内省で探し出し、一つずつ忍耐と努力で取り除いていきなさい。

 いつも快活で、心にムラがなく、心が集中していたら、あなたはヨーガに上達し、心の純粋さが増していると思うが良い。


――スワーミー・シヴァーナンダ
コメント

聖者の生涯 「ミラレパ」

2011-01-03 18:53:45 | 経典の言葉・聖者の言葉



ミラレパ


 ミラレパはお金持ちのお坊ちゃんとしてチベットに生まれました。幼名をトゥーパガといいました。
 父と母と妹との四人家族で、その地方で名の知れた大富豪でしたが、ミラレパが七歳のころ、父が他界しました。
 父は遺言を残していたにもかかわらず、貪りの強い叔父と叔母が、一家の財産をすべて奪い取りました。そしてそれのみならず、残されたミラレパの一家を、奴隷のように扱ったのです。
 昨日まで良い服をして良い暮らしをしていたミラレパ一家は、今やぼろをまとい、奴隷のように働き、物乞いによって食を得るという暮らしになってしまったのです。
 復讐を誓ったミラレパの母は、ミラレパに魔術を習いに行かせました。ミラレパは母の望みどおりに魔術を習得し、魔術によって叔父叔母の子供や親戚や仲間たち35人を殺し、復讐を果たしたのでした。叔父と叔母だけは見せしめのために生かしておきました。
 
 しかしこの復しゅう成功の後、ミラレパの中に、悪業を犯してしまった後悔の念と、真理を求める強い思いがわきあがってきました。そして魔術の師匠の紹介で、ミラレパはまず、ゾクチェンの師匠であるロントン・ラガのもとに弟子入りしました。
 ロントン・ラガは、ゾクチェンの教えを説明する際、「恵まれたカルマを持つ者は、この教えを聞くだけで成就を得る。瞑想の必要さえない」という表現を使いました。これには深い意味があったのですが、まだ教えを理解していなかったミラレパはこの言葉を文字通り受け取ってしまい、
「恵まれたカルマの私は、瞑想しなくても成就できるのだ!」
とうぬぼれてしまい、瞑想もせずにただ寝て時を過ごしました。 
 見かねたロントン・ラガは、ついにミラレパにこう言いました。
「お前はここに来たとき、自分を大罪人だと言ったが、それは正しかったようだな。私にはお前を成就させることはできない。
 さて、ロタクという地にマルパという偉大な師が住んでいる。その方の下へ行け。お前は彼とカルマ的な縁があるのだ。」

 マルパという名前を聞いた瞬間、ミラレパの髪の毛は逆立ち、戦慄が走り、目から自然に涙が溢れ出しました。前世からの縁がよみがえったのです。 
 こうしてミラレパはマルパのもとへ行きました。マルパも、実は夢の予兆で、ミラレパが自分に約束された偉大な弟子であることがわかっていました。しかし同時にミラレパが積んでしまった悪業の重さもわかっていたので、マルパはミラレパにわざと冷たくつらく当たり、ミラレパの悪いカルマを落とそうとしました。 
 マルパは教えを求めてきたミラレパに、教えを与えることなく、過酷な建築作業の重労働を命じました。たった一人で、巨大な建築物を建てさせ、それが完成間近というところでぶっ壊させ、また別のところでやり直させる、ということを繰り返しました。ミラレパは肉体的にもボロボロになりましたが、精神的にも、達成感を味わう直前で壊させられるということで、ボロボロになっていきました。
 苦悩を感じ、挫折しそうになったミラレパに対し、マルパは彼の師であるナーローの修行時代の話をしました。ナーローは師であるティローの過酷な指示をすべて忠実に守りぬき、解脱を得たのです。それは火の中に飛び込ませるとか、高い塔から飛び降りさせるとか、すべてが今ミラレパが受けている試練よりも過酷なものでした。マルパはこの話をし、
「お前にはこの方法は難しいだろう」
と言いました。ミラレパはこのナーローの話を聞いて信が増大し、涙を流し、これからマルパの師事にはすべて従おうと決意しました。

 マルパのミラレパいじめは、それからもいっそうひどくなっていきました。建築作業の試練だけではなく、たとえば弟子たちが集まって教えを受ける場において、ミラレパだけを排除し、みなの前でののしり、暴力を振るうなどして、ミラレパを精神的に追い詰めました。
 あるときは過酷な重労働で、ミラレパの背中に大きな傷ができました。それを見かねたマルパの妻ダクメーマは、マルパに懇願してミラレパに休みを与えてくれるように頼みました。数日間、ミラレパは休みを与えられ、その間、ダクメーマがおいしい食事でミラレパを癒してくれました。数日後、傷が治りつつあるのを見て、マルパはミラレパに、仕事に戻ることを指示しました。そしてミラレパに布を渡して、「これを使って傷口に泥が入らないようにして、石や材料は体の前で運べ」と言いました。ミラレパはこれを師の命令と考え、言われたとおりに、その布で傷口を守りつつ、重い石や材料を体の前で運びました。マルパはミラレパに対して厳しい態度の演技をしていましたが、このミラレパの姿を見て、「言われたことすべてにこのように忠実に従うとは、稀なことだ」と、密かに涙を流しました。

 しかしマルパが与える試練がどんどん厳しくなり、ついに耐え切れなくなったミラレパは、密かにマルパのもとを去っていきました。
 行く当てもなく放浪しているとき、ある老人に、文字が読めるなら、報酬をあげるから、仏典を読んでほしいと頼まれました。それはアシュタサーハスリカー・プラジュニャー・パーラミターでした。その中に出てくるサダープラルディタの物語を読んで、ミラレパは心を動かされました。サダープラルディタは、師に供養する供物を集めるために、自分の肉を切って売ろうとまでした菩薩でした。ミラレパは、「サダープラルディタなら、教えを受けるために、自分の心臓さえも差し出しただろう。しかし私は、何も差し出していない」と考え、マルパの下へ戻る決心をしました。

 戻ってきたミラレパを見て、マルパは内心喜びましたが、また冷たい態度で接しました。ミラレパは再び絶望に陥りますが、ミラレパを哀れに思っていたダクメーマが、ミラレパに秘策を授けます。それはマルパの手紙を捏造して、マルパの弟子であるゴクパのもとに送り込み、ゴクパから教えを授けてもらうという案でした。ダクメーマは、マルパがなぜミラレパに試練を与えているかという深い意味が理解できなかったので、人間的な哀れみから、ミラレパに助け舟を出してしまったのです。
 こうしてミラレパは再びマルパのもとを去り、ゴクパのもとをたずねて、ダクメーマが捏造したマルパの手紙を見せ、ゴクパに教えを請いました。ゴクパはその手紙を信じてミラレパに秘密の瞑想法を授け、ミラレパは瞑想修行に入るのですが、マルパの祝福がなかったために、その瞑想は全く効果を生みませんでした。
 そしてそのころ、マルパの息子のために建てられた塔の完成記念の宴が開かれることになり、ゴクパのもとにも招待状が来ました。そしてそこには、「私のものである悪人も一緒に連れてくるように」と書いてありました。そこでミラレパも一緒にマルパのもとへと向かいました。
 宴の席において、マルパは、なぜ許可なくミラレパに秘密の瞑想法を教えたのかと、ゴクパをしかりました。そしてそれがダクメーマの仕業であることがわかると、マルパは怒り狂い、ダクメーマを叩こうと立ち上がりました。ダクメーマは部屋に逃げ、鍵をかけて隠れました。
 この一連の騒ぎの間中、ミラレパは心臓が張り裂けそうでした。
「自分は悪業多く、教えを受ける良いカルマがない。それどころか、自分の存在によって、ダクメーマやゴクパにまで迷惑をかけている。私のようなものは死んだほうがましだ。来世こそは、信仰に値する者として生まれ変わりますように!」
 こうしてミラレーパは、刃物で自分の喉を切り、自殺しようとしました。しかしゴクパが間一髪それを止め、言いました。
「時が来ていないのに自ら命を断つのは、大きな罪になる。この試練を耐えれば、必ずマルパは教えを与えてくれる。マルパが与えてくれなかったら、私が与えることもできる。だから死ぬなどということは考えるな。」
 このように涙ながらにミラレパの自殺を押しとどめました。
 
 しばらくすると、マルパの心は穏やかに静まっていました。そしてゴクパがいかにミラレパを勇気づけたかの話を聞くと、マルパは涙を流し、「秘密の道を行く者たちはこのようでなければならぬ。まさに彼はそのような者たちだ」と言い、ミラレパやゴクパや他の弟子たちを集めました。
 そしてその席で、ついにマルパはすべての種明かしをしたのでした。ミラレパがここにやってくる前から、夢の予兆により、ミラレパが偉大な約束された弟子であることはわかっていたこと、しかしその悪業を落とすために様々な試練を与えたこと。そしてマルパはミラレパに九つの塔を建てる試練を与えたのですが、ミラレパは八つの塔を建て、九つ目は完成させることなくゴクパのもとに逃げてしまったわけですが、もしミラレパが九つの塔を完成させていたら、その時点で、完全にミラレパの汚れは消え、完全な解脱を果たしたであろうこと、よってほとんどの罪は消し去られたが、最後で逃げてしまったために、わずかながら汚れが残ったことなどを説明しました。
 そしてここにおいてついにマルパはミラレパを正式に弟子として受け入れ、
「教えを授けよう。望み通り瞑想させ、幸福にしてあげよう」
と言いました。
 ミラレパは夢ではないかと疑うほど喜んだのでした。

 マルパに正式に受け入れられたミラレパは、教えの伝授を受け、洞窟にこもって瞑想修行に明け暮れました。そこにおいてミラレパの素質が開花し、悟りと解脱のプロセスをどんどんと進めていきました。
 そんなあるとき、ミラレパは、故郷に残してきた母や妹やその家が、悲惨な状態になっているという夢を見ました。いてもたってもいられなくなったミラレパは、マルパのもとへ行き、少しだけ故郷に帰りたいという願いを告げました。
 マルパは、象徴によって真実を読み取る力に優れていたのですが、ミラレパがこの願いを懇願しにやってきたときの様々な状況を読み取って、もし今ミラレパを行かせたなら、マルパとミラレパはもう一生会えなくなるが、その代わりこのカギュ派の系統の教えはチベット中にあまねく広まることになるだろう、ということを知りました。よってマルパは衆生のために、ミラレパを行かせることにしました。マルパはミラレパに、他の弟子には教えなかった秘密の教えを授け、「故郷には一週間以上いてはいけない。その後は洞窟から洞窟をさまよいながら修行せよ」と言って、ミラレパを送り出したのです。

 ミラレパが故郷に着くと、そこには夢で見たとおりの悲惨な状態がありました。母は貧困の中で死に、家はボロボロになり、妹は乞食となって放浪に出ていたのです。
 これを目の当たりにしたミラレパは、この世の無常性についての確信をよりいっそう強め、瞑想修行に生涯をささげることを決意しました。「もしほんの少しでも現世的な思いが私にわいたなら、守護神よ、そのときは私の命を絶ってください」という恐ろしい誓いを何度も繰り返しながら。
 ある人は、ミラレパがマルパのもとで教えを受けてきたと聞いて、ミラレパもマルパと同じように、妻を持ち、家庭を持ち、多くの弟子と信者に囲まれながら教えを説いていく道を歩くといいでしょう、と助言しました。しかしミラレパはそれに対して、
「それはライオンのしぐさをウサギがまねるようなもので、破滅をもたらす」
と答えました。ミラレパはあくまでも、マルパの指示通り、生涯、何も持たずに洞窟から洞窟をさまよいながら修行していく道を選んだのです。

 食物をあえて探しに行くこともせずに洞窟で修行していたミラレパの食事は、洞窟の周りに生えていた、食用に適さない草だけでした。そのため、ミラレパの体はガリガリにやせ、体は緑色になったといいます。
 あるとき、ミラレパの婚約者だった女性と、ミラレパの妹が、肉と酒を持って、ミラレパの洞窟を訪ねてきました。ミラレパは厳しい修行によって解脱寸前にあったのですが、厳しい食生活によるエネルギー不足により、「熱のヨーガ」の解脱に必要な心身のエネルギーが足りない状態でした。しかしこの肉と酒の供養を受けることにより、身体にエネルギーが生じ、気道は通り、一気に修行が進んだのでした。
 このようにしてミラレパは、「熱のヨーガ」や「マハームドラー」の修行をひたすら進め、稀に見る大成就者となっていきました。そしてミラレパの特徴は、なんと言ってもその美しい歌にありました。
 もともとインドやチベットの密教では、悟りの境地を、即興の歌であらわす伝統がありましたが、ミラレパはこの能力に非常に長けていました。ミラレパの歌は真理の真髄を絶妙に表現し、人々の心を打ち、またその歌声も非常にきれいだったといいます。
 またミラレパは大神通力者でもあり、弟子の前では、様々なものに変身したり、空を自由に飛んだり、いろいろな神通力を見せましたが、他の人にはそれを秘密にしておくようにと忠告していました。
 
 こうしてミラレパは、チベットで知らない人はいない、高名な大成就者となっていきましたが、有名になっても歳をとっても、寺に安住したりすることはなく、山の洞窟で瞑想をし続けました。多くのチベット人がミラレパの出家の弟子や在家の信者となり、多くの弟子が解脱と悟りを果たしました。

 ミラレパが83歳のころ、ミラレパの人気をねたむ一人の高名なゲシェ(大学者僧)がいました。彼はゲシェはミラレパが自分に挨拶を返さなかったことに腹を立て、恥をかかせてやろうと、みなの前でミラレパに論争をいどみました。しかしミラレパは観念的な言葉を重ねて論争をすることの無意味さを説き、次のような歌を歌いました。


栄光あるマルパ訳経法師の御足に礼拝いたします。
願わくば教義や教条の論議から除きおかれますよう。

我が師の祝福は私の心に染み通ります。
心は決してもろもろの気晴らしを求めて横道にそれはしませんでした。

愛と哀れみについて瞑想したので、
自他の間の一切の区別を忘れてしまいました。

我が師について瞑想したので、
勢力と権力を有する者たちのことは忘れてしまいました。

己から分かちがたいものとして、守護神を瞑想したので、
粗雑な感覚の世界のことは忘れてしまいました。

口伝の最勝の真理を瞑想したので、
弁証法の書物のことは忘れてしまいました。

純粋な意識を保ち続けたので、
過ちを犯す無明の知識は忘れてしまいました。

心の本質的な性質が3つのカーヤであると瞑想したので、
希望と恐れの思いを忘れてしまいました。

この生と来世について瞑想したので、
生と死の恐怖を忘れてしまいました。

独居の喜びを味わったので、
友や親族の意見を探し求める必要を忘れてしまいました。

己の意識の流れへと一つ一つの新しい体験をあてがったので
教義の論争に係わることは忘れてしまいました。

不生、不滅、無住を瞑想したので、
個別の目標のこれやあれやの一切の定義を忘れてしまいました。

現象の認知はダルマカーヤであると瞑想したので、
すべての心の作り出した瞑想を忘れてしまいました。

自由にして創出されざる境地(ダルマカーヤの心の状態)に心を保ったので、
偽善の慣習を忘れてしまいました。

体と心において謙虚に生きたので、
強者の尊大さと傲慢さを忘れてしまいました。

この身の内側に僧院を作ったので、
外側の僧院のことは忘れてしまいました。

言葉を超えたものの意味を受け入れたので、
言葉で遊ぶ方法は忘れてしまいました。



 この歌を聴いてもゲシェは納得せず、ミラレパを非難しましたが、聴衆は皆ミラレパの側につき、逆にゲシェが恥をかかされました。
 この一件によりゲシェはいっそうミラレパを恨むようになり、こう考えました。
「この無学なミラレパという男は、ブッダの教えにそむいた風変わりな言行をし、虚言によって人々から多くの布施や供物を奪っている。それに対して私は正統な仏教の教えに通じており、一番の金持ちで勢力を持っているにかかわらず、ミラレパは私の宗教的学識を認めず、私のことを犬よりも価値のない者のように見ている。これをやめさせるために、何か一計を案じなければならない。」
 そしてゲシェはなんと、ミラレパの暗殺を計画したのです。
 ゲシェは自分の愛人に、成功したらトルコ石をプレゼントし、正式に結婚しよう、と約束をし、ミラレパに毒入りのヨーグルトを持っていかせました。ミラレパは彼女からヨーグルトを受け取ると、こう言いました。
「それで、報酬のトルコ石は首尾よく手に入れたかね?」
 ミラレパが本当にすべてを見抜く力を持っていることを知った彼女は、ミラレパに懺悔し、自己の罪を後悔しました。しかしミラレパはあえてその毒入りヨーグルトを飲みました。その毒を飲もうと飲むまいと、すでに自分に臨終のときが迫っているのをミラレパは知っていたのです。そしてこの縁によって、このゲシェを救済しようとミラレパは考えたのです。
 ゲシェは最後までミラレパの神通力を疑っていましたが、最後は実際にミラレパが神通力と深い悟りを持っていることを悟り、そしてひどい病の苦しみをミラレパに与えてしまったことを後悔し、ミラレパに懺悔し、彼の信者となりました。今後は邪な行いをやめ、死ぬまで帰依に専念することを誓ったのでした。

 この出来事のしばらく後、ミラレパはこの世を去りました。ミラレパには「太陽ようなの弟子」といわれたガンポパと、「月のような弟子」といわれたレーチュンパという二大弟子がいましたが、二人ともミラレパの臨終に立ち会うことはできませんでした。レーチュンパがそこに到着すると、すでにミラレパの遺体は荼毘に付されていました。レチュンパは悲しみにもだえ苦しみ、祈りの詩を唱えました。その帰依の力は大変強かったので、ミラレパは再び生前のような姿でそこに現われ、レーチュンパに最後の教えを説いた後、再び消えていきました。

 ガンポパはミラレパの死を知りませんでしたが、レーチュンパがミラレパの形見を渡すためにガンポパを探し出し、ミラレパの死を告げました。ガンポパはそれを聞くとショックのあまり気絶してしまったといいます。その後、ガンポパはミラレパから受けた教えとカダム派の教えをミックスし、カギュ派の教えを体系化し、チベットに広く広めていきました。

コメント