ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

クリシュナ物語の要約(4)「魔女プータナーの救済」

2010-12-31 16:48:26 | 経典の言葉・聖者の言葉


(4)「魔女プータナーの救済」


 恐ろしい魔女のプータナーは、カンサの命を受け、村や町の幼い子供たちを、殺しまくりました。
 そうしてやがて彼女は、ナンダが支配するゴークラの地へとやってきました。そして主に導かれるように、主が赤子として眠るナンダの家へとやってきたのです。
 
 プータナーは美しい人間の女性に姿を変えていたので、村の人々はプータナーを見ても誰も疑いもせず、かえってその美しさに見とれていました。

 主はその女性が魔女プータナーであると即座に見抜きましたが、眼を閉じて、じっと眠っていました。プータナーはその赤子を自らの膝の上に抱きかかえました。

 そしてプータナーは、猛毒を塗った自らの乳房を、その赤子の口に含ませました。
 すると主は、その乳房を両手で絞りながら、毒とともに彼女の生命力までも吸い取ってしまったのでした。
 生命力を吸い取られたプータナーは、あまりの苦しみのために眼球は外に飛び出し、手足を大きくばたつかせて、叫び声をあげました。
 そして本来の恐ろしい巨大な悪魔の姿を現わすと、髪の毛を振り乱して、大空に飛び立ちましたが、すぐに地上に落下し、そのまま息絶えたのでした。

 恐ろしい魔女の叫び声と、地上に落下した轟音を聞いて、驚いた村人たちがそこにやってくると、恐ろしい魔女の巨大な死体がそこに転がり、その胸の上で、ヤショーダーの赤子が、少しもこわがらずに遊んでいるのを見ました。人々は非常に驚き、あわててかけよって、赤子をその悪魔から引き離したのでした。

 ヴラジャの人々は、その魔女の死体を斧で切り刻み、薪とともに火をつけて燃やしました。
 主に生命を吸い取られたときに、その魔女はすべての罪を消されたので、彼女の死体が燃やされるときに生じた煙は、とても素晴らしい芳香を放ちました。
 その魔女は、多くの赤子の命を奪い、果ては主に毒を塗った乳房を吸わせて殺そうとしたにもかかわらず、かえって主によってその罪を浄化され、天界へと上って行ったのでした!
 この魔女でさえそのような救済を得たならば、自分が最も大切だと思うものを敬虔な思いで主にささげる信者たちが、同様の聖なる境地に達することができることは、疑いのない事実であるといえるでしょう。

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ヨーガDVDができました。

2010-12-26 23:05:57 | 松川先生のお話
 以前から要望があった、ヨーガのDVDができました。

 ヨーガスクール・カイラスの基本クラスでやっているのと同じような、基本的なメニューを、DVDを見ながら自宅で練習できます。
 郵送もいたしますので、希望者はお申し込みください。

DVD 日々のヨーガ 基礎編1
定価1500円

収録内容
・アーサナ
・呼吸法
・ムドラー
・マントラ
・瞑想

 
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ラーマをこそ知れ

2010-12-26 09:14:14 | 経典の言葉・聖者の言葉

 『ラーマの至福を味わいたる者のみ、平和を我がものとなす』だ。この世界がなんだ。そこに何があるというのだ。金とか富とか、名誉とか安楽な生活などの中に何があるというのだ。
 おお心よ、ラーマをこそ知れ! 他の何ものを知るべきか。


 ――ラーマクリシュナ・パラマハンサ

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利己主義

2010-12-25 19:57:23 | 経典の言葉・聖者の言葉


「私たちが取り除かねばならないのは、利己主義です。私は人生において過ちを犯したときはいつも、打算的になった自我のせいだと思っています。自我が入りこまなかったところでの私の判断は、目標に向かって真っすぐに進みました。」


 ――ヴィヴェーカーナンダ
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かきくけこ

2010-12-25 19:00:35 | 松川先生のお話
悲しむな
気にするな
くよくよするな
嫌悪するな
こだわるな

神を思え
帰依を培え
空を思え
謙虚になれ
心を浄化せよ
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余談の余談

2010-12-24 18:42:45 | 松川先生のお話

 先ほど書いた「余談3」のさらに余談ですが笑、先ほど使った写真は、何とも感動的ですね。


 これはヒマラヤを移動中に撮影した、羊飼いの写真です。
 よく菩薩、とくにマンジュシュリー(文殊)菩薩などは、「羊飼い」として表現されます。
 この写真のように、自分は一番後ろから、みんなを駆り立てて、神の世界へと連れて行くのです。
 自分の平安は一番後回しにして。
 時には皆にバカにされ、低く見られ、でくのぼうと呼ばれながらも、それをよしとして。

 しかもこの写真の羊飼い、まだ群れについて行けない子羊を袋に入れて背負って歩いています。

 このようにありたいですね。
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余談3

2010-12-24 18:17:42 | 松川先生のお話


 ヒンドゥー教においても仏教においても、魂の落下、解脱、救済といったことをわかりやすく説明するための「物語」がある。

 簡単に言えば我々はもともと完全であったのだが、何らかの理由で無明に巻き込まれ、輪廻に落ちた。本来存在しない幻である輪廻で今、もがき苦しんでいる。

 その中で一部の魂が奮闘し、修行し、自己を浄化し、輪廻を超え、魂のふるさとに帰る。
 
 さらにその中で一部の魂は、自分だけの安穏では満足できず、菩薩として、神の道具として、他の人々もこの輪廻という幻から救い出すお手伝いをする。

 こうして菩薩たちがすべての魂を輪廻から救い出すことで、この宇宙は終わる。
 菩薩は、最後の一人が救われるまでは、自分は輪廻から卒業せず、輪廻にとどまり続ける。

 これはとても美しい物語であり、ある意味で真実だろう。

 しかし、問題がある。――最後はどうなるのだろうか。

 最後、すべての魂が救われるが、実際にはすべての魂が完成して救われるわけではない。ある程度の境地で輪廻を脱却するだけなので、完全に完成していない魂は、未来において再び輪廻に落ちてしまう。

 まあそれはいい。なぜならその魂たちも、いずれは「完全に完成」するのだから。

 つまり、自分も含めてすべての魂を最終的に「完全に完成」させることが、神の道具である魂、菩薩の目的であるということになる。

 つまり最終的には「すべての魂が完全に完成」するのだ。
 その境地は、言葉に表せないのだが、すべてが一つに溶け込むとか、至高者のもとに帰るとか、一応、真実に近い言葉で表現される。

 しかし、もしそのようなゴールがあるなら、そのゴールまでのこの限定的時間的な道は、なぜ必要だったのか。
 魂の苦悩の時期があり、その後の安穏の時期がある。
 魂の苦悩の時期は限定的であり、その後の安穏の時期は永遠である。
 これはおかしくないだろうか?
 その後が永遠なら、永遠でない時期はなぜ必要だったのか。

 高度な教えでは、いや、もともとすべてに始まりも終わりもなく、もともと永遠なんだよ、と説く。
 それも真実だろう。
 ただ輪廻という錯覚に落ちているだけなんだよ、と。
 しかしこの考え方も、振り出しに戻ってしまう。錯覚だろうと何だろうと、錯覚している時期と、錯覚から抜けたその後の時期があるということだから。
 すべてが錯覚なら、今我々が苦しんでいる時期、そこから抜けようとする努力の時期、これはなぜ必要なのか?
 我々が今この瞬間も全員が完成しているとしても、自意識として苦しんでいる多くの魂がいる。これはなぜ必要なのか?

 ――私はここで別に、問題提起をしているわけではない。

 こういうことに心を向けると、うっすらと、この錯覚の世界に楔が打ち込まれ、幻影のヴェールがはがれてくるのだ。

 バクティ・ヨーガにおいてはうまいことを言った。「リーラー(神の遊戯、お遊び)」なのだと。

 実はこの辺の話は、本来は考えてはいけない話なのだ。それは、言葉で表現できる領域と、悟らなければわからない領域の、ギリギリの際だから。
 そういう意味では、教えはすべて嘘である。嘘というか、本来言葉で表現できないことを、何とか表現しようとしている。その表現の仕方は、子供向けから賢者向けまで、いろいろある。
 実際は教えは、真実に近づくほど、言葉としては矛盾してくる。その理解には知能よりも純粋智性が要求されるし、そのためには自己の心の浄化が要求される。

 考えてはいけないことではあるが、この辺の「際の話」にたまに心を向けると、自分がいかにマーヤーにとらわれていたか気づき、ハッとする。パッと手放すことができる。やばいやばい、わっはっは、と笑。

 「自分」が傷つけられた? いいじゃないか笑
 執着しているものが得られない? いいじゃないか笑
 ○○が心配だ? いいじゃないか笑
 何を、引きずり込まれてるんだ笑
 この世はもともと存在しない、どころか、その錯覚と解脱の物語さえも方便であり、神が我々を、根本的なマーヤーのヴェールで包んでいらっしゃる。

 マーヤー!
 マーヤー!
 マーヤー!

 本当に修行が進んだとき、言葉による教えを超えた、言葉では表せない、「本当の本当」がわかるだろう。
 あえていうなら、そこには完全なる平安がある。
 しかし神の使命により、必要があればまたマーヤーのヴェールをかけられるだろう。
 それでいいのだ。
 そういうものなのだ。
 


 さて、余談はこれくらいにして、マンゴーを食べよう笑。
 哲学的思考はほどほどにしておけ。我々がこの世に縛られ過ぎないために少し使うだけにしておけ。
 我々は神への愛を成就するために、この世界にやってきたのだから。 
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クリシュナ物語の要約(3)「主の降誕」

2010-12-23 21:15:27 | 経典の言葉・聖者の言葉


(3)「主の降誕」


 ローヒニーの星宿が東の空にのぼり、星々が最も吉兆な相を示した時、ついに主ヴィシュヌは、デーヴァキーの息子として、この世に出生されました。

 ヴァスデーヴァは、妻デーヴァキーから生まれた自分の息子の姿を見て、驚嘆しました。それは四本の腕に法螺貝や円盤などをもち、黄色の絹の衣を身にまとい、頭にはまばゆい王冠、耳にはラピスラズリの耳飾りなどを身につけた姿だったのです。
 その子はまさに主ヴィシュヌそのものだと理解したヴァスデーヴァとデーヴァキーは、大変喜びつつも、これを知ったらカンサが飛んできて、主ヴィシュヌを殺してしまうだろうと思うと、不安になりました。

 主ヴィシュヌはその後、自分のマーヤーの力によって、たちまちに普通の赤子の姿になりました。
 するとその時、ヴァスデーヴァは、主の力によって、生まれたばかりの赤子を抱き抱えて、幽閉されているこの牢屋から出て行こうという気持ちになりました。
 そのとき、ヨーガマーヤーの力により、門番たちも、都のすべての者たちも、深い眠りに落ちていきました。固く閉ざされた牢獄の門も、次々に自然に開いていき、ヴァスデーヴァは赤子を抱えたままやすやすと外に出ることができました。
 こうしてヴァスデーヴァは、ヴラジャの地にやってきました。そこでは女神ヨーガマーヤーが、ナンダの妻ヤショーダーの娘として生まれていました。ヴァスデーヴァは、自分の息子を眠っているヤショーダーのそばに置くと、ヤショーダーの娘を抱き上げて、もといた牢獄へと戻っていきました。

 ヤショーダーは、ヨーガマーヤーの力によって、自分に生まれた子供が女の子であるということには気づかずにいました。そのため、ヴァスデーヴァが自分の息子とヤショーダーの娘を交換しても、それに気づかず、ヴァスデーヴァが連れてきたその男の子を、自分が生んだ実の子であると信じて疑わなかったのでした。

 さて、ヴァスデーヴァがヤショーダーの娘を自分の息子と交換して牢屋に戻ってきた後、ヤショーダーに子供が生まれたというニュースが、カンサに報告されました。
 カンサは、ついに自分の宿敵である主ヴィシュヌが降誕したと知り、その赤子を殺すために、急いで牢屋へと向かいました。
 そこではデーヴァキーが、生まれたばかりの女の赤子を抱いていました。デーヴァキーは、その子が女の子であることを理由に、どうかこの子は殺さないでくれと、カンサに懇願しました。しかしカンサは耳を貸さず、デーヴァキーからその赤子を取り上げると、その足をつかんで、硬い石の上に、思いきり投げつけました。
 しかしその赤子は、カンサに放り投げられると、そのまま空中に飛んでいき、八つの腕をもつ、神々しい女神の姿に変わりました。そしてその女神は空中から、カンサにこのように言いました。

「ああ、愚か者よ。私を殺しても何になろう。かつてのお前の敵であり、お前を殺すお方は、もうすでにお生まれになり、他の場所にいらっしゃるのだ。それゆえお前はこれ以上、無益に子供を殺してはならぬ。」

 こう言うとその女神は、ただちに姿を消しました。

 これを見たカンサは非常に驚きました。そして同時に、心に深い懺悔の気持ちがわき起こってきました。彼は今まで自分がなしてきた残虐な行為を悔い、ヴァスデーヴァとデーヴァキーを鎖から解放すると、彼らに自分がなしてきたひどい行為の許しを乞いました。ヴァスデーヴァとデーヴァキーも、カンサが改心したことを喜び、彼を寛大な心で許したのでした。

 しかしその後、一連の出来事を知った魔族の大臣たちは、カンサ王に言いました。

「もしその女神が言ったことが事実であるならば、都や村落、その他の場所に誕生した、生まれて十日前後の子供たちを、すべて殺すべきです。
 ヴィシュヌ神をはじめとした神々などに、いったい何ができるでしょうか?
 どうかあなたのしもべである我々に、やつらすべてを滅ぼせと、命じてください。
 彼ら神々の支えはヴィシュヌであり、ヴィシュヌがいるところに、彼らのサナート・ダルマ(永遠の法)は存在するのです。
 ああ、王よ。我々は、聖典の解説者、ブラーフマナ、苦行者など、彼らをすべて殺すべきでしょう。それら聖なる者たちは、ヴィシュヌの顕現の一部であるからです。」

 一度は改心したカンサでしたが、あまり智慧のない魔族の大臣たちにそそのかされた結果、もともと持っていた悪しき心が、カンサの中に再び蘇りました。そしてカンサは部下である魔族の者たちに、世の中の正しき者たちを迫害するように命じました。
 こうして魔族の者たちは、世の中の徳ある者たちに、さまざまなかたちで危害を加えていったのでした。

 またカンサは、恐ろしい魔女のプータナーに、世界中の幼い子供たちを殺してくるように命じたのでした。




つづく
  
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神への門

2010-12-23 15:38:33 | 松川先生のお話


 ヒンドゥー教の大聖地の一つ、ヒマラヤの入り口にあるハリドワール(神への門という意味)の沐浴場、ハリキパイリ。

 最大の聖地ヴァラナシのガンガーは、表面的物質的には汚すぎて、沐浴するのを躊躇する日本人も多いようだが、このハリドワールあたりまで来るとかなり水は綺麗なので、ガンガーで沐浴したいけど病気になるのが怖いと思う人は、ここに行くといいと思います。デリーからも4、5時間ほどで行けます。

 しかしここは、行ったことがある人はわかると思うが、沐浴場というには、流れが異常に、あり得ないほど早い。
 流されないように、鎖がいくつもついている。みな、その鎖につかまりながら沐浴する。

 物好きなインド人たちは、この流れの異常に速い河を、こちらの岸からあちらの岸まで泳いで渡る。
 一生懸命泳がないと、流れの速さのために、横に流されていく。何とか頑張って、かなり流されつつ、あちら側に到着する。
 私も何度も、このハリドワールのガンガーの、こちらの岸とあちらの岸を往復した。
 「何のために?」と言われると困るが笑。
 子供の頃、友達と山奥の渓谷に行き、高い崖から川に飛び込んで遊んだ感覚と似ている。
 なんだかやりたくなる笑。
 何もせずに、こちらの岸でじっとしていれば、何もなく、安全であり、安穏であり、幸福である。
 しかし流れに飛び込み、泳ぎたくなるのだ。
 それは本当に、ゆらゆらゆったりと浮かんではいられない。かなり悪戦苦闘して頑張らないと、流されてしまい、あちら側にわたれないからだ。

 我々の輪廻も、このようなものなのかなと、ふと思う。
 何もしなければ我々は真我独存状態で安穏なのだが、なぜか我々は激流に飛び込む。流されながら一生懸命努力して泳ぐ。で、あっち側にわたり、わっはっは、楽しかったね、と笑う。
 つまり我々が今悪戦苦闘しているこの輪廻の苦しみも、すべては神のお遊びであり、真我のお遊びなのではないか。
 別に遊ばなくてもいいのだが笑、つい、飛び込んでしまうのだ笑
 しかしおぼれそうになりながら泳いでいる最中に、「何でこんなことをしてるんだろう」と考えてしまうと切なくなるので、考えない方がいい笑。
 自らが選んだこの泳いでいることの充実感と、向こう岸についたときの完全な安心を、忘れずにいることだ。
 あなたが小さい子供なら、それはお母さんにいいところを見せようとして、飛び込んだのかもしれない。
 向こう岸でハラハラしつつも子供を信じて腕を広げて待っているお母さんのもとへ、一生懸命、泳ぎ切るのだ。
 別にもともとお母さんの胸にいたので、そのままでも良かったのだが笑、子供というのはそういう冒険をしたがるものなのだ笑。


 あるとき見ていると、沐浴していた一人のインド人女性が、足を滑らせて激流に流されてしまった。すると即座に数人のインド人男性が慣れた感じで飛び込み、彼女を激流から救い上げた。
 救った男たちも、救われた女性も、わっはっは、良かったね、よくあることだ、という感じで談笑している。
 ああ、彼らが救済者、菩薩なのだな、と思った。

 さて我々も、泳いで流されそうになって遊んでいるだけではなく、
 どんなに体重の重い人も、泳ぎの下手な人も救えるように、
 極上のスイマーになろうではないか笑
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常に新鮮な喜び

2010-12-23 15:34:20 | 経典の言葉・聖者の言葉

 一つの宇宙を支配するほどの力を獲得しても、なお神を知らぬ事もある。霊的な高さとは、その人が外面的に発揮できる能力の如何ではなく、その人が瞑想中に感受できる至福の深さによって決まるのだ。
 神は『常に新鮮な喜び』だ。それは絶えずわき出る泉のように、常に新しく、尽きることがない。おまえが今後何年も瞑想を続けてゆく間には、神ははかりしれぬ巧妙な手段を用いておまえを惑わそうとなさるだろう。だがおまえのように、神に至る道を発見した者は、もはや神を他のいかなる幸福とも交換しようとは思わないだろう。神は何ものにも替え難いほど魅力的だ。
 地上の快楽は、すぐに飽きてしまうものばかりだ。物質的欲望には際限がなく、どこまで追いかけても満足には至らない。人は、次々と目標を変えては、自分に本当の満足を与えてくれる何ものかを追い求めているが、その『何ものか』が神なのだ。神のみが我々に永遠の喜びを与えることができるのだ。
 外のものばかりを追い求めていると、いつの間にか内なるエデンの園から迷いだしてしまう。外のものは、魂の幸福を真似た見せかけの喜びしか与えてくれない。しかしひとたび見失った楽園も、神を瞑想することによって、また速やかに取り戻すことができる。神は、我々の想像も及ばぬほど常に新鮮なのだ。だから我々は、決して神に飽きることはない。永遠を通じて無限に変化する喜びを与えてくれる神の至福に、どうして飽きることがあろう。


 ――シュリー・ユクテシュワラ
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神のご意思に

2010-12-23 09:44:23 | 松川先生のお話
 人生は、我々が自分の心を神のご意思に同調させることができるようになるまでは、悲しみに悩まされなければならない。神が正しいとされる道は、しばしば人間の利己的知性による理解を遙かに超えている。

 ――シュリー・ユクテシュワラ
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100人いれば

2010-12-23 09:07:26 | 松川先生のお話
 100人いれば、100人の人生がある。画一化する必要は全くない。

 悟りや解脱も、その最終地点は同じだとしても、途中の段階においては、それぞれの悟り、解脱、気づきがある。
 だから他から学ぶことはあっても、批判してはいけない。

 修行も、100人いれば100通りの道がある。
 だから他の道を行く者を批判してはいけないし、自分の道だけが正しいのだなどと思ってもいけない。
 ただ自分が選んだ道を、信じればいいだけのことだ。自分が行くのはこの道なのだと。
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余談2

2010-12-23 08:35:04 | 松川先生のお話


 なんだ、もとから完全じゃないか。

 ということは問題は?
 認識だ。
 意識だ。
 この間違った認識の意識だ。

 世界はもとから完全であり、歓喜に満ちている。

 言葉を超え、概念を超え、イメージを超え、
 それをつかまなければならないが、

 まずはそれに飛び込むための安全装置として
 言葉で、概念で、イメージで、教えをしっかり身につけるのだ。

 走れ、全力で走れ。
 でもリラックスして。深刻に重く考えすぎる必要はない。

 リラックスしつつ、
 できる範囲で全力疾走するのだ。

 走ったら、わっはっはと、気持ちよく笑え。
 で、また走れ。

 そのうち、サムサーリングハイが起こり、気持ちよくなるだろう笑

 何もする気が起きないときは
 ただ「神よ」「仏陀よ」「わが師よ」と唱え、祈りなさい。

 
 あまり権威的に教えを捕らえすぎたり、
 あるいは占いを信じすぎたりすると、
 自分で自分に限界を作り、
 修行していない人よりも悪い、堅い堅い堅物になってしまうので、気をつけなさい。

 自分は仏陀の子であり、
 神の子であり、
 何にも制約されない、自由なる魂であり、
 そもそも真理とは何にも制約されないのだということを、思い出しなさい。
 
 自信を持って、自己を壊しなさい。

 悪魔は、君が一番引っかかりやすいところを巧妙について、
 粗雑な世界に意識を引きずり落とす。
 真実の追究が、いつの間にかエゴの追求にすり替わる。
 偉大な賢者さえも、この罠にひっかかる。
 だから十分用心しなさい。
 心の広がり、光を失わないようにしなさい。
 神を思って涙が流れる、その心を大切にしなさい。
 重要なのは、神の祝福。
 ただ神の祝福によってのみ、
 真実は姿を現す。

 さて、余談はこの辺にして、
 ただ神だけに心を合わせよう。

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余談

2010-12-23 08:34:02 | 松川先生のお話





 学ぶ教えや経典は、少なめにしなさい。
 そしてそれらに関しては、完全に信じなさい。
 完全に受け入れなさい。
 利己的知性やエゴのいいわけを介在させるな。

 しかし同時に、真実は言葉も概念も超えているということを、忘れないようにしなさい。

 もしこの人生が君の考えているようなものならば
 生きている価値はない。

 死んで終わりなら、なぜ生まれたのか。
 解脱して終わりなら、なぜ輪廻に落ちたのか。

 真実には、何も終わることはなく、
 始まってもいない。
 しかし、始まっていないわけでもない。

 真実には道もないが、
 真実の道を行かねばならぬ。

 バクティ、信愛の道が最もお勧めだ。
 君の愛する神仏を、すべてをかけて愛し、従うのだ。

 始まりも終わりもなく、進化の過程もない。
 ならばそれは道といえるのか?
 それでも修行者は、道を行くのだ。
 道、真実、教え、師、神、
 それらが、真実に到達する幻影。
 幻影の中でも最高の幻影だからだ。

 煩悩は心を曇らせる。
 とらわれは、大切なことをわからなくさせる。
 怒り・嫌悪は、一切の真実を忘れさせる。
 だからそんなものは捨てて、
 目を開けてみよう。
 世界は文字通り無限だ。

 こちらに、捨てるべき輪廻はなく、
 あちらに、到達すべきニルヴァーナもない。
 しかし、何もないわけでもない。

 言葉に取り込まれるな。
 いつの間にか真実を見失うな。
 悪魔の罠に気をつけろ。
 
 心を内に向けなさい。
 それは真の意味で外に向けるということでもある。 
 非現実的な、あなたのいうところの現実を見過ぎるなということだ。

 さて、余談はこの辺にして、
 今日もまた、修行し、教学し、懺悔し、念正智し、瞑想しよう。
 菩薩として、神の道具として生きよう。

 

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生き方

2010-12-22 21:42:29 | 松川先生のお話





 生まれによって清らかになるのではない。
 生き方によって清らかになるのだ。

 権威によって祝福があるのではない。
 生き方によって祝福があるのだ。

 教えの知識によって清らかになるのではない。
 教え通り生きることによって、清らかになるのだ。

 教えの知識や権威で、心が広くなるのではない。
 他人の幸福を願うことで、心は広くなるのだ。

 空の論理を学んで、空を悟るのではない。
 自分と他人の区別をなくしていくことで、空を悟るのだ。

 人から称賛されることで、偉大になるのではない。 
 人を称賛することで、偉大になるのだ。

 生まれによっても、権威によっても、知識によっても、聖水や石やその他のグッズによっても、お祓いやヒーリングによっても、スピリチュアルな思い込みによっても、人は清らかになることはない。
 人はただ生き方によって清らかとなり、神の祝福を得るのだ。



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