ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

一生の課題

2010-11-30 20:24:12 | 松川先生のお話

自分は傲慢だなと思う人は、
「私は人の百倍、謙虚になろう。それを一生の課題にしよう」
と、真剣に考えなさい。

自分は怒り・嫌悪が強いと思う人は、
「私は人の百倍、寛容になろう。それを一生の課題にしよう」
と、真剣に考えなさい。

自分は怠惰だなと思う人は、
「私は人の百倍、精進しよう。一瞬も怠惰な時をなくそう。それを一生の課題にしよう」
と、真剣に考えなさい。

(解脱を志す者で)自分は性欲が強いと思う人は、
「私は人の百倍気をつけて、愛欲を断とう。完全なる梵行者となり、一瞬も心にみだらな感情がわかないようにしよう。それを一生の課題にしよう」
と、真剣に考えなさい。

自分はむさぼりが強いと思う人は、
「私は人の百倍、無頓着になろう。一切を、ほんの少しも欲求せずに、誰よりも、すべてを神にお任せする人になろう。それを一生の課題にしよう」
と、真剣に考えなさい。

自分はエゴが強いと思う人は、
「私は人の百倍、他の利益を考えよう。人の百倍、自分のエゴをチェックしよう。いつも他の利益だけを考えよう。誰よりもエゴに注意しよう。一瞬もエゴの言い分を許さないようにしよう。それを一生の課題にしよう」
と、真剣に考えなさい。

自分は卑屈・否定的であると思う人は、
「私は人の百倍、神の愛を信じる人になろう。誰よりも神の愛と、自分の本性を信じる人になろう。それを貫き通そう。いつも笑顔でいよう。それを一生の課題にしよう」
と、真剣に考えなさい。




 これらは単純な話だが、
 真剣にこれらをやり続けるならば、
 素晴らしい達成をなすだろう。

 もともと欠点や短所というものは、生来的なものではなく、
 今生与えられた修行課題に他ならないのだから。
 そこに集中してアクセスすれば、
 それはその分野において大きな成長がある、幸運なるポイントなのだ。あなたの欠点というのはね。
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パドマサンバヴァの秘密の教え(42)「九つのうわべのもの」

2010-11-30 05:58:37 | 経典の言葉・聖者の言葉

◎九つのうわべのもの


 師パドマは仰った。

「ダルマの修習をうわべだけのものにさせてしまう人が大勢いる。」


 ツォギャルは尋ねた。

「どのようにですか?」


 師はこうお説きになった。

「一.信を持たずして聖典を唱えても意味がない。

 二.慈悲心を持たずして利他の行為をしても、うわべだけである。

 三.出し惜しみしながら多くを振舞っても、うわべだけである。

 四.サマヤ戒を守らずしてタントラ信者であっても意味がない。

 五.誓いを守らずして修行者であっても意味がない。

 六.瞑想せずして崇高なふりをしても、うわべだけである。

 七.修習のエッセンスのないダルマに取り組んでも意味がない。

 八.自らダルマに沿って行動しない人が他人に教えを説いても、浅はかである。

 九.自らが従えない助言を与えるのは、浅はかである。

 いずれにせよ、いわゆる学識があると自称する人達の言う事にはうんざりである。彼らはダルマの修習によって自分達の心を調御することをせず、煩わしい感情を積み重ねているだけである。彼らが言うことはすべて浅薄な話である。」
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パドマサンバヴァの秘密の教え(41)「九つの要点」

2010-11-29 19:52:04 | 経典の言葉・聖者の言葉
◎九つの要点


 師パドマはこう仰った。

「ダルマを修習しているとき、あなたは九つの要点を保持していなくてはならない。」

 ツォギャルは尋ねた。

「その九つの要点とは何ですか?」


 師はこうお説きになった。

「一.大河のようにうねりのない、清らかな信を保持しなさい。

 二.太陽のような、敵意のない慈悲心を保持しなさい。

 三.泉のような、偏見のない寛大さを保持しなさい。

 四.水晶玉のような、ひび割れのないサマヤ戒を保持しなさい。

 五.宇宙のような、偏りのない見解を保持しなさい。

 六.夜明けの空のような、鮮明と不鮮明から自由な瞑想を保持しなさい。

 七.犬や豚のような、求めることも避けることもない行為を保持しなさい。

 八.黄金の島に到着したような、放棄も達成もない成就を保持しなさい。

 九.食べ物を欲しがる飢えた人や、水を欲しがる喉の渇いた人のように、ダルマを欲しがらねばならない。

 いずれにせよ、人々はダルマの修習を一番のポイントとするのを避け、現世的な富を得ることに焦点を定めているようだ。死ぬ時には富は持って行けないのだ。よって、低い領域に落ちないように、これらを心に留めておきなさい。」
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◎六つのパーラミターの学習

2010-11-29 06:03:56 | 解説・ナーローの6ヨーガ

◎六つのパーラミターの学習

【本文】
 次に、菩薩行という荷を負うことが可能ならば、菩薩戒を受持してから、六つのパーラミターを学習することが一般的である。特に、瞑想の本質である「寂止によって心を静寂にすること」と、智慧のパーラミターの本質である「諸々の法は幻と空のごとしと悟る正観」について学習すべきである。



 ここはちょっと強烈な書き方だね。「菩薩行という荷を負うことが可能ならば」――まあ可能ならばといっても、結局はこの道に入ることになるわけだけど。つまり、慈愛と哀れみ、菩提心――これをたくさん学んでると、「そうか。わたしも菩薩の道を歩きたい」と、こういう思いが生じてくる。

 しかし――その菩提心から菩提行に移行するわけだけど、つまりこれは『入菩提行論』の言い方をすると、「発願の菩提心」とそれから「前進の菩提心」ってやつだね。これはわたし、『入菩提行論』の解説に書いたけど、例を挙げるとね、野球選手になりたいっていう子供の例ね。わたしも小さいころ野球選手になりたいって思ってたけど、日本中に野球選手になりたいっていう子どもはいっぱいいる。でも、その決心をして具体的な道に入っている人はわずかだね。だって思うことはみんなできる。テレビとか見て、「ああ、おれも将来野球選手になりたいなあ」――でも毎日ただ遊んだりしてるだけ(笑)。じゃなくて、決心して、「よし! 絶対なる」と。そのための、例えばトレーニングを始める。あるいは、例えばその名門校に入るための努力をするとかね。これをし始めるかどうか。ここが分岐点なんです。これがつまり菩提心が菩提行に移行できるか。それがここに書いてある「菩提行という荷を負うことが可能ならば」っていうところだね。

 つまり、そこで問いかけをされるわけです。「さあ、あなたは菩提心の素晴らしさに気づきましたね。菩薩の道の素晴らしさに気づきましたね。しかし菩薩の道というのは大変な道ですよ。険しいですよ。あなたは歩けますか? 衆生の幸福をその肩に一身に背負わなきゃいけませんよ。どうですか?」――ここで、自ら結論を出さなきゃいけない。

 でも絶対、「歩きます」にならざるを得ないんだけどね(笑)。教えを学んでたら、「歩きます」と言わざるを得ないというか(笑)。これはだから意地悪な質問みたいな感じなんだけど(笑)。

 だから大乗と縁のある人は、必ずもうそういう道に行かざるを得ないんです。いろいろ泣き言とか言ってても、「やっぱり、でももうここに足を踏み入れちゃったら、それしかないんだよな」ってなってしまう。

 だからこれは通過儀礼みたいなもんだね。だからどこかでその人は決心をしなきゃいけない。いろいろ辛いこともあるけども、わたしはずっとこの道を歩いていくんだと。多くの衆生の苦悩を背負いつつ、多くの衆生を幸福にするために、自分のいろんなものを犠牲にしながら、ずーっと菩薩の道を歩いていくんだ――というような決心が必要なんだね。

 はい、そして、本格的な大乗の道として、菩薩戒――まあ菩薩の戒律とか菩薩の教えがいっぱいあるわけですが。そして六つのパーラミターね。さっき言った、布施、戒、忍辱、精進、禅定、智慧ね。これをしっかりと学びなさいと。
 
 この辺は『入菩提行論』ね、あるいは『菩薩の生き方』、この辺をしっかりと学べばいいと思います。
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◎六道輪廻のデメリット

2010-11-29 05:06:00 | 解説・ナーローの6ヨーガ


◎六道輪廻のデメリット

【本文】
 次に、六道輪廻のそれぞれの世界のデメリットを思念することによって、来世の幸福に対する渇愛の心を退けて、意を解脱に向けるべきである。


 これも分かりますね。つまり、六道のデメリットを考えるっていうのは、これはよく密教の加行で出てくるけども――つまり地獄、餓鬼、動物、人間、阿修羅、天のデメリットを考える。
 地獄、餓鬼、動物は、もちろん苦しい世界だと。それは徹底的に学んで、決して地獄、餓鬼、動物に落ちないようにしなきゃいけない。
 でもある段階の修行者で、天界を目指す修行者がいる。つまり、おれは解脱までは別に望んでいないと。でも地獄、餓鬼、動物は怖いから、来世天の神になって幸せに暮らしたいって思う人もいる。でも、ね、分かると思うけど、天も無常だと。天の神も死ぬと。天に生まれちゃったら幸せすぎて修行できないから、どんどん徳が減るだけで、で、また低い世界に落ちてしまう。これをしっかりと思索するわけだね。
 それによって結局、六道のどこに行ってもわたしは安住の地はないと。最終的には苦しみがあるだけだと。よって、わたしは天を目指すんじゃなくて解脱しなきゃいけないんだと。このような心をしっかりと思索して、自分に根付かせるわけですね。







◎菩提心

【本文】
 その後に、自己の寂静の安楽への執着を退けるために、慈愛と哀れみの根本を有する、偽りのない菩提心を浄化すべきである。



 これはもう分かりますね。その次の問題として、じゃあ天は無常なのは分かった。じゃあ解脱を目指しましょうと。でもここで生じるのは、さっき言ったヒーナヤーナ――つまり自分一人の解脱の安楽に執着して、偉大なる菩薩の道に心が向かわない場合がある。よって、そうならないようにしっかりと菩提心、あるいは慈悲、慈愛、哀れみっていうものをしっかりと学び、瞑想し、実践し、自分に根付かせなさいっていうことですね。
 つまりこれは段階的な教えなわけだね。まずはしっかりと、自分がいつ死ぬか分からないっていうことを思い起こして、この世への執着を弱めなさいと。次に、天に生まれてもそれは無常なんだっていうことを知るために、ちゃんと六道の教えを学んで、天ではなくて解脱を目指しなさいと。そして慈悲や菩提心をしっかりと学び、実践することによって、自分だけの解脱、小さな解脱への憧れを捨てなさいと。


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解説・ナーローの6ヨーガ(5)「この世への執着を退ける」

2010-11-26 17:36:04 | 解説・ナーローの6ヨーガ
◎この世への執着を退ける

【本文】
 初めに、この世に執着する心を退けないならば、それは大乗と小乗のいずれにとっても道の害である。よってまず、自分がこの世に長生きせずに死ぬことを想像する。そして死んだ後に、自分が悪趣のさまざまな状態にさまようことを想像する事によって、この世に対する執着の心を退けるべきである。



 これは読んだとおりですね。「この世に執着する心を退けないならば、それは大乗と小乗のいずれにとっても道の害である」。

 つまり大乗と小乗っていうのは、さっき言った、小乗っていうのはヒーナヤーナ。つまり自分のためだけに修行する。大乗というのはみんなを救うために修行する。で、どっちにしろ、この世への執着が強かったら駄目なんだと。この世への執着が強かったら自分一人も解脱できないし、人を救うこともできない。よって――で、ここで具体的な方法論が説かれるわけだね。

 「まず、自分がこの世に長生きせずに死ぬことを想像する。そして死んだ後に、自分が悪趣のさまざまな状態にさまようことを想像する」。それによって「この世に対する執着の心を退けるべきである」と。

 はい、これは分かるよね。つまり、これはこの短い文の中に、例えばカルマの法則であるとか、あるいは輪廻の考えとか全部含まれてるわけだけど、われわれがその基本的な仏教の教えを学んで、で、しっかり日々懺悔をして、そして、「さあ、明日死んだらどうするか」っていうことを考えたら、やっぱりちょっとこう心が真剣になるよね。執着してる場合じゃないぞと。ちょっと待てよ、明日死んだらどうなるんだろうか。自分の過去の悪業を振り返り、あるいは自分の今の心のいろんな欠点を振り返ると、とても高い世界には行けないぞと。いや、これは地獄に落ちるかもしれない。動物かもしれない。餓鬼かもしれない。それを考えるんだね。自分ですらそうなんだから、こんな状態の自分が人を救えるわけがない。だから死――まあこれは死と無常の瞑想だけど、すべては無常であり、今日にでも明日にでも死ぬかもしれない。このようなことを考えることで、その短い間にこの世のいろんなものにとらわれてる意味があるんだろうか、という考えだね。

 つまりこれはいつも言うように、われわれは曖昧に自分の人生のリミットを想像してるから、まあこれくらいはいいかって思ってしまう。

 例えば、まあこのみなさんの中にはそんな変な悪いものに執着してる人はあんまりいないだろうけど、そうだな、まあ、じゃあ例えば、むかーしのね、大昔だよ、大昔のTさんみたいに、パチスロに執着してた場合ね(笑)。大昔ね。修行するずっと前だけど(笑)。で、仮にですよ、今も修行してて、ある修行者がパチスロにも執着していると。その場合ね。例えばパチスロやめられないと。パチスロってどういうやるんだっけ? これはパチンコか。こう、こう? いや、こう、こう、こう(笑)?。

(一同笑)

 Tさん、詳しいね(笑)。例えばこれをやってたとして。ああ、なんかパチスロやめられねえなと。こんなところ先生に見られたらどうしようとか思いながら(笑)、まあでもそんなに悪業積んでるわけじゃないし、ね、いいだろうと。

 でもさ、ああいうパチンコとかパチスロってさ、わたしももう相当昔にちょっとだけパチンコやったことあるけど、まあ相当昔だね、本当に十数年前とか。で、わたしやっぱり徳があったのか、もしくは魔の誘惑だったのか、昔ね、パチンコ初めてぐらいにやったときに、七万ぐらいかな、なんかすごい――まあビギナーズ・ラックだね。すごい出ちゃったことがあって。それから何回か通ったことがある。でもわたしはやっぱり無常観があったのか(笑)、あんまりはまらなかったんだね。何回か通ううちに、これマイナスだなって思って(笑)。トータル的にこれマイナスになるようにできてるなって思って、はまらなかったんだけど。でもそのはまってたっていうか、一日例えばパチンコでもパチスロにちょっと手を出すと、あっという間に時間が過ぎる。でも自分では、例えば「まあ、それくらいはいいか」と思ってる。でも例えば一時間、二時間、三時間、五時間、六時間と過ぎていく。

 で、まあそれはパチスロだけじゃないよね。例えばいろんなものにとらわれて、それで日々時間が過ぎる。そういう具体的な行動に出ない場合もありだよ。出ない場合もありっていうのは、例えば街中でおいしそうなケーキを見つけて、「どうしよう。買おうかな。やめようかな……」、ずーっと考えてる(笑)。

(一部笑)

 それで修行とかもできずにずーっと考えてて。で、夕方ごろになって、「先生、今日は朝からずーっとケーキのこと考えてましたが、なんとか食べずに乗り越えました」と。でもその七時間ぐらい何やってたのと(笑)。つまり、そのケーキへのとらわれで、貴重な七時間を無駄にしてしまった。

 まあちょっと話は飛ぶけど、そういうときは食っちゃった方がいいです(笑)。食っちゃって、後悔するかもしれないけど、でもあとの六時間有効に使えるじゃないですか。まあこれはちょっと話が別の話になってるけどね。

 仮に実際にそれをやらなかったとしても、その七時間の間ケーキにとらわれていることが、わたしの人生にとってどれだけのデメリットがあるかっていうのを考えるんだね。それはだからなんとなくわれわれが八十歳くらいまで生きる気がしてるから、八十歳の中の七時間とか、あるいは八十歳の二、三日パチスロに通いづめたって、あまりどうでもいいんじゃない?って思っちゃうけど、明日死ぬって思ったらやっぱりそうは思えない。

 あと二十四時間ですよと。七時間ケーキの妄想に使っちゃったと(笑)。七時間パチスロに使っちゃったと(笑)。あと十時間しかないと(笑)。こんな馬鹿な人はいないよね。明日死ぬんだったらもちろん、二十四時間を有効的に使うでしょう。

 寝る人もたぶんいないよね。リアルに考えてみて。明日、はい、二十四時間かっきりで死にますよって言われたら、とりあえず寝るかっていう人もいないよね(笑)。もったいないでしょ(笑)、だって。

 明日があるんだったら寝るよ。寝るっていうのはさ、例えばちょっと今日は疲れたと。明日の活力のために寝ようか。これは分かる。でも明日がないんだったらどうする? 二十四時間しかないって言われたら、もちろん寝ないよね。眠くても、もちろんもったいないと。がんばるぞと。そうなるはず、当然ね。

 で、これは比喩ではなくて、本当にわれわれには明日はないんです。ないっていうか、あるかどうか分からない。何の確信もない。だからこれは『虹の階梯』とかにも書いてあるけど、あるチベットの僧たちは、明日起きたときに生きてるか分からないと考えて、普通は、普通のお寺ではランプを消すんだけど、消さなかったっていうんだね。だって明日まで生きてるか分かんないから。あるいは、ある僧はいつも寝なかった。もうフラフラになりながら夜中も修行してて、先輩のお坊さんとかに、「いや、もうちょっとほどほどにしときなさい」と。つまりたぶん先輩面して言ったんだろうね。修行っていうのはそういうもんじゃないよと。もうちょっと自分の体調を見ながらほどほどにやった方がいいよと。でもその修行者が言うには、「いや、明日死んじゃうかもしれないっていうことを考えると、もうちょっとも休んでられないんです」と。

 その人はもう本当に真剣にそれを考えてたんだね。もう明日死ぬかもしれない。休んでる暇なんかないと。ああ、疲れた。ちょっと寝て明日修行がんばるか。でも明日が来るか分からないぞと。これくらいの気持ちっていうかな、そういう気持ちを奮い立たせるために、そういう瞑想をするんだね。

 前も言ったけど、わたしは昔一時間に一回そういう――一時間じゃないかな、四時間かな、三時間か忘れたけど――に一回、そういう瞑想すると。わたしはいつ死ぬんだろうか。明日死ぬかもしれない。こういうことを真剣に考えれば考えるほど、どうでもいいことに費やす時間なんて、もうもったいなくて手が出せなくなってくるんだね。もう執着なんかどうでもいいと。あそこのケーキが食べたい?――もう明日死ぬかもしれない。そんなこと考えてる場合じゃないと。いろんなことで執着が出るのは、それは心の甘さだと。自分の人生がまるで永遠に続くかのように思っているからだと。よってまずはこの死と無常の瞑想ね。これをやることによって執着を弱めなさいっていうところですね。
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五蘊

2010-11-26 07:19:57 | 松川先生のお話


 仏教でいうところの五蘊(色受想行識)について。

 身体(色)を使って、外界との接触をし、受(感覚)が生じる。

 しかしこの感覚というのが曲者で、本来、絶対的な感覚というものはない。

 たとえばある女性が、好きでたまらない男性に肌をなでられたとき、その身体には強い快感が生じるだろう。
 しかし嫌いでたまらない男性になでられたら、鳥肌が立ち、気持ち悪く感じるだろう。
 しかし「肌をなでられた」という現象は同じはずなのだ。

 想とは想念だ。身体と感覚によるこの世の経験をしたとき、想念が生じる。

 しかしこれもまた、同じ経験をしたとしても、どういう想念が生じるかは、人によって違う。
 
 たとえば誰かに殴られたとき。ある人はそこで怒りが生じる。ある人は惨めさが生じる。あるいはカルマの法則を学んでいる人は、カルマを浄化されたという喜びが生じる。

 つまり同じ「経験」に対する、感覚と想念における価値評価が人によって違うのだ。

 そしてその価値評価を決めているのが識、すなわち識別作用と呼ばれる働きである。

 この識別作用は、固定的観念的識別作用といっていい。

 ではこの識別作用の方向性を決定しているのは? それが行である。

 行とはいろいろな意味があるのだが、まずそれは経験の残存印象といえる。

 つまり過去の様々な経験の残存印象(行)により、ものの見方の方向性(識)が固定されてしまい、それによって、経験に対して偏った感覚や想念を持つようになるのだ。

 そしてその偏った感覚や想念によってなされた経験は、また偏った経験の印象(行)として、心の奥深くにインプットされる。

 その偏った印象のインプットにより、識別作用の偏りはさらに強まり、次に経験をしたときにまた偏った感覚と想念を持つこととなる。

 この繰り返し。

 これでは生きれば生きるほど、ものの見方は偏り、正しいものの見方はできない。そして偏った印象が心の奥に大量にインプットされていくので、「こうでなければならない」「私はこうしたいんだ」「これが私だ」といったような偏った欲求や観念はガチガチに固まっていき、その人は実体のない苦しみを味わい続けることになってしまう。

 よって五蘊は、無常であり、苦しみであり、実体が無く、「私」の本質ではないのである。

 ではどうすればいいのか?

 自然に放っておいたら、


    →身体による現実世界の経験 →
   ↑               ↓
識別作用の更なる偏り    偏った識別による偏った感覚と想念
   ↑               ↓
    ←偏った残存印象のインプット← 

 
 この悪循環、悪しき偏りのループは終わることがない。

 ここで重要になってくるのが、真理の法(ダルマ)なのである。すなわちお釈迦様を初めとする聖者方が残した正しい教え、考え方だ。
 この日記を読んでいるような人は、少なからずそのような教えに触れたことがあるだろう。しかしそれはまだまだ弱い経験なので、弱い残存印象としかなっておらず、識別作用にもあまり影響を与えていないかもしれない。

 よってここですべきことは、まずしっかりと教えを学ぶこと(準備・正見)。

 次に、教えに基づいて正しく考えること(正思惟・想念の浄化)。

 次に、実際に様々な場面で、教えに基づいて行動し、教えに基づいて想念を持つ。

 たとえば、人に優しくする。そうしたら逆に悪口を言われた。そのときに、放っておいたら、観念的識別のままにしておいたら、【このやろう!】【せっかく優しくしたのに、何だ!】という怒りがわいてしまい、相手への嫌悪感という想念が生じてしまうかもしれない。
 それを意識的に止め、逆に真理の法に基づいた反応をするように努力するのだ。たとえば、【ああ、私の悪業を浄化してくれてありがとう】とか、【この人も早くこの怒りや悪口のカルマから解放されてほしいな】などと思うようにするのだ。
 このような努力は、最初は無理やりでもいい。心がこもっていなくてもいい。そのうちだんだんこもってくるから。

 このような努力を続けることで、今までとは違う、真理の法にかなった経験の印象のインプットが生じる。、
 そしてそれが量的に増大すれば、識別作用にも影響を与える。そうなったらしめたもので、その人は自然に、すべての経験を、真理の法に基づいた価値基準で受け入れ、感じ、考え、行動するようになるだろう。

 五蘊は幻影である。しかし我々は解脱するまで、この幻影である五蘊に支配され、振り回されている。五蘊=私であると思い込むほどに、強く支配されている。だからまず最初はこのような形で、五蘊の浄化をしていくべきなのである。

 そしてこの五蘊の浄化がなされて初めて我々は、サマーディにいたることができ、五蘊を超えた世界への足がかりを作ることができるのである。



※上記の内容は、何かの本に書いてあることではありません。私が個人的に瞑想で感じたことです。五蘊の説明は学者や修行者によって微妙にいろいろ違いますので、ご了承ください。それぞれがそれぞれの角度から五蘊を説いているのだと思います。しかし上記のような方向性でわかりやすく書いたものが見当たらなかったので、少し書いてみました。
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賢者

2010-11-26 06:21:27 | 松川先生のお話

賢者は不幸によって心を浄化し、
愚者は不幸によって心をけがす。

賢者は幸運によって執着を手放し、
愚者は幸運によって執着を強める。

教えやヨーガ等によって統制された心は最良の友であるが
統制されない心は最悪の敵である。

賢者は、一人のときは孤独を楽しみ、人々と共にいるときは慈愛に満ち、
称賛されたときには神の道具であることを思い出し、
非難されたときには心の訓練として感謝する。

愚者は、一人のときは寂しがり、人々と共にいるときには執着と嫌悪に満ち、
称賛されたときには慢心し、
非難されたときには卑屈になる。

賢者は、受けた恩は決して忘れず、受けた被害はすぐ忘れる。
愚者は、受けた恩はすぐ忘れ、受けた被害は決して忘れない。

さて、教えやヨーガで心を統制し、賢者になろう。
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解説・ナーローの6ヨーガ(4)「心を浄化するプロセス」

2010-11-25 20:40:10 | 解説・ナーローの6ヨーガ
◎心を浄化するプロセス

【本文】
その二:心を浄化するプロセス

 初めに、大乗のグルの定義を備えている人に対して、心身において正しく帰依すべきである。

 有暇は大変意義あるものであり、得がたいものである。
 心を浄化することによって、有暇における生き方の核心を獲得したいという大きな望みが生じる。
 その最高の核心は大乗の道に入ることであり、その入る門は菩提心そのものであり、正しい菩提心が心の連続体にあるならば、その大乗者は偽りのない者となる。しかし菩提心が言葉だけとなったならば、その大乗者も言葉だけのものとなる。
 そのように、智慧ある者は、その菩提心の妨げとなるものを順に排除してから、完全な菩提心を生起すべきである。




 まず、「初めに、大乗のグルの定義を備えている人に対して、心身において正しく帰依すべきである」。

 はい、ここもとても重要なところです。大乗のグルの定義って何だろうと。もちろん簡単にいえば、菩薩であるグルっていうことだね。

 つまり例えばさ、山にこもってて、その師匠を訪ねていったら「おれは教えを与える気はない」と。「おれは自分で瞑想して静かに死にたいんだ」と。これはもちろん大乗のグルじゃないね(笑)。極端に言うとね。じゃなくて、「多くの人を救うために、わたしは修行している」と。そのようなグルだね。

 実際これは、実は経典にはいろんな項目があります。つまり大乗のグルっていうのはこれこれこれこれの十項目を備えていてはじめて大乗のグルですよと。さらに密教のグルっていうのは、それプラスこの十項目を備えていてはじめてグルとなりますと。だからあなたが師匠を選ぶ場合はこれに気をつけてくださいっていうふうにしっかりと書かれている。

 しかしですよ――これは問題がある。以前、ある人がわたしのところに来て、こう相談に来た。それは何かというと、自分はね――まあその人は、あるチベットのラマにすごく、何ていうかな……つまりそのラマこそが自分の師匠、約束された自分と縁のある師匠ではないかっていうふうに思い始めていた。でもまだ確信がない。で、わたしにいろいろ聞いてきたわけです。つまりこういう項目があるけども、これはどうなんだろう、この一つ目はどういう意味で、とかいろいろわたしに聞いてきた。

 そこでわたしが言ったのは――そんなものはどうでもいいと。それは真にそういった聖なる師を持てない人のためのものであって、本来の師と弟子の関係っていうのは、項目を見ながら決めるようなもんじゃないんだね。そんなものは超越してる。

 だってそれはそうでしょ。いろんな偉大な過去の聖者の物語見てもそうでしょ。例えば、ね、もうその師匠を一目見ただけで涙があふれるとか、あるいは教えを聞いただけで、よく分かんないけど心が震えるとか。もう目に見えない縁みたいなのがあるんだね。それをもし感じるんだったら、もうそっちの方が優位なんです。

 だから極端なこといえばだよ、なんかすごい、本当にこの人こそはわたしの師だと思える人を見つけたと。でも項目見たら半分くらいしか当てはまってないと(笑)。でもそんな項目は破り捨ててかまわない。自分が本当に心から、この人は素晴らしいと、この人はわたしの偉大な師だって思えるんだったら、もう項目なんて関係ないんだね。

 しかしそういうこと言ってると、世の中にはいろんな悪い人がいっぱいいて、つまり全然資格がないのに威張って慢心によって人を教えようとする人がいる。で、それに騙される人もいる。よって、そういうのを防ぐために一応そういう項目を設けて、ちょっと無智な人たちがね、そういうものに引っかからないように、そういう非常に観念的なものを設けてるんだけど、本質的にはあんまり必要ないんです、そんなことは。やっぱり師と弟子の、もう言葉を超えたつながりみたいなのが、そっちの方が大事だね。

 はい、だから、その定義についてはケースバイケースだけども。あ、この人がわたしの本当のグルであって、しかも偉大な大乗の菩薩であると。そのように確信したならば、さっきも言ったように、心身によって正しく帰依をしなきゃいけないと。それがスタートなんだね。「初めに」って書いてあるように、まずその帰依の実践から始めますと。



◎得がたき有暇

 はい、そして次に、「有暇は大変意義あるものであり、得がたいものである」。

 有暇っていうのはこれは何度も学んでるからはしょるけども、つまりわれわれが人間として生まれ、修行ができるっていう条件がいっぱいあるわけだね。これは何度も言ったけどね。もういろんな条件を乗り越えてわれわれは今、この人間の体を得て、いろんなものに邪魔されることなく修行ができるチャンスがある。これは大変得がたいんだと。

 そして、心を浄化することによってこの得がたいチャンス、この類まれな人生の中での生き方の核心を獲得したいという大きな望みが生じる。

 その核心の、「その最高の核心は大乗の道に入ることであり、その入る門は菩提心そのものであり、正しい菩提心が心の連続体にあるならば、その大乗者は偽りのない者となる。しかし菩提心が言葉だけとなったならば、その大乗者も言葉だけのものとなる」。

 ちょっとこれは分かりにくい書き方だけど、つまりそういうことをしっかりと考えなさいということだね。つまり、本当にわたしは得がたい――だからこれは『入菩提行論』とかをしっかり読むといいと思うけど――得がたい、本当に類まれなチャンスを得たと。さあ、このチャンスをどのように使ったら、わたしは最も有効的にチャンスを生かしたことになるんだろうか。それはまさに大乗の道に入ることだと。そしてその門――つまり核心的な、何をもって大乗の道に入ったといえるのか――それは菩提心だと。正しい菩提心が、本当にその心の連続体、つまり心のわれわれの習性の中に根付かれるならば、それは真の、偽りのない大乗といえる。しかし、菩提心とか慈悲とか言いつつ、それが全く心に根付いていなかったら、それは偽りの大乗者になってしまう。よって、その大乗の菩提心を心に根付かせなきゃいけないんだけど、その前に、その妨げとなるものがいっぱいある。それを排除しなきゃいけない。排除していって、その菩提心を根付かせていくっていうことだね。

 例えば簡単にいうとさ、当然怒りとか持ってちゃ駄目だよね。嫌悪が強かったら、人々を愛せない。よって嫌悪を捨てる必要がある。あるいは執着が強かったら偏った見方になっちゃうから、平等にみんなを愛することができない。よって執着も捨てなきゃいけないってことだね。

 もちろんその全部の煩悩を捨てることは最初からはできないわけだけど、少なくとも最初の段階でその理想として菩提心っていうのがあって、菩提心を自分の中にしっかりと根付かせるために、その邪魔となっているものを自分から捨てなきゃいけない。

 あ、おれは慢心があるなと。慢心があったら菩提心なんて身につくわけがないじゃないかと。よし、今日からわたしは慢心を捨てましょうと。わたしは嫌悪があるなと。なんだかんだ不満ばっか持ってると。こんなんで菩提心が身につくわけがないじゃないかと。捨てましょうと。こういう感じで自分の中のけがれを捨てる努力をしていって、で、現実的に、つまり理想ではなくて、本当に菩提心が心に根付くための努力をするんだね。

 だから逆にいうと、最初は根付いてなくて当たり前。例えばみなさんの中で「いやあ、わたしは本当に慈悲がないんです」っていう人がいるかもしれないけど、それは当たり前。そこからスタートするんだね。

 じゃあなぜ慈悲が身につかないんだろう。それはさっきから言ってる、いろんなエゴがあるからだと。それを少しずつ取り除けばいいじゃないかと。で、逆に菩提心をしっかり学んで、あるいは瞑想して、あるいは日々の実践でそういった慈悲の実践をしながら菩提心を根付かせてけばいいじゃないかと。これがプロセスだね。

 だからちょっとこの辺は書き方としては分かりにくいけど、ここまでのことをまとめると、しっかりとまず師匠を見つけて、師に帰依しなさいと。そして自分の与えられたこの人間の生、真理にめぐり合ったこの瞬間というのを、稀なチャンスであると考え、さあ、いかにこれを生かそうかと考えなさいと。それは自分が菩薩となり、大乗の道に入り、大乗の修行をすることこそが、この人生を生かしたことになるんだと。で、その大きなポイントは何かと。それは菩提心がいかに心に根付いてるかどうかだと。よって具体的に菩提心を根付かせるために、その邪魔である、自分の中のさまざなまけがれを日々少しずつ取り除いていきなさいということだね。プロセスとしてはね。
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法の相続者

2010-11-24 12:07:54 | 松川先生のお話

 あるとき、お釈迦様は、弟子たちにこう言いました。

「弟子たちよ。私は物質的な財産は何も持っていないので、死後、君たちに相続する物質的なものは何もない。
 しかし君たちは、私の『法の相続者』にならなければならない。
 怠ることなくつとめ励み、この清らかな法の相続者となりなさい。」

  
 この「法の相続者」とは、どういう意味でしょうか?
 それは単に、お釈迦様の教えを記憶するとか、経典を残すという意味でしょうか?
 もちろんそれも大事なことですが、それだけでは真に「法を相続した」ということにはなりません。
 弟子たちが師であるお釈迦様と同じ道を歩み、その法によって心を成熟させ、お釈迦様と同じ心の状態に少しでも近づくこと、それが真に「法を相続した」ということになります。

 そしてこの法、サナート・ダルマ(永遠の真理)とは、使えばなくなるような、金銭的な財産とは全く違います。
 それは相続者がいる限り、永遠にこの地上に輝き続ける財産なのです。

 つまり誰かが「法の相続者」となるということは、その人自身だけの問題ではなく、次の世代の多くの人々にその法の香りを振りまくことができるという、多大なる恩恵を生み出すのです。

 「ヨーガ」「仏教」「ヒンドゥー教」などの「サナート・ダルマ」に巡り会った者には、そのような心構えが必要なのではないかと思います。

 つまり何らかの形で「サナート・ダルマ」に触れる縁があったということは、それによって自分の心を、カルマを、徹底的に変えていかなければならないんだと。自分の心を、ダルマそのものにしなければならないんだと。一点のけがれもないように、ダルマによって心を薫習しなければならないんだと。その教えに書いてある通りの存在に、自分がならなければならないんだと。

 あなたが将来、ヨーガの先生や、ヨーガや仏教のグルやマスターになるのかどうかはあまり関係がありません。そのようなストレートな道を取らなかったとしても、もしヨーガや仏教の真髄を少しなりとも心に身につけた人物がここにいるとしたら、その存在の放つ香りは、無言のうちに、その人の周りの人に何らかの良い影響を与えていくでしょう。そしてその中の何人かは、その真理の香りを相続しようと思う者が出てくるでしょう。


 ですからまずは、自分が法の相続者となろう。
 神やブッダの道具となろう。
 もともと「自分」などはどこにもないのだから、
 ただただ自己を滅して、できるだけ純粋に法を相続しよう。
 法の相続者としての正しい「誇り」を持ち、
 その誇りによって、自己の悪習を本気で打ち砕こう。
 そのようにして、あなたが本当にダルマそのものとなるならば、
 そこには何の希望も恐怖もなく、
 慢心も卑屈さもなく、 
 ただそこには、神仏の道具となれることの喜びと、
 その香りをかいだ人たちの笑顔を見る喜びがあるだろう。
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解説・ナーローの6ヨーガ(3)「共通の準備修行」

2010-11-22 18:36:17 | 解説・ナーローの6ヨーガ
◎共通の準備修行

 はい。じゃあ次いきましょう。

【本文】
一:準備修行


一-一 共通の準備修行


その一:パーラミターヤーナとマントラヤーナの共通の道を学習すること

 まず、このナーローの六ヨーガの道において、パーラミターヤーナとマントラヤーナの両方に共通する諸々の基礎的な教えを学習するプロセスが必要である。

 そのように基礎的な教えを押さえたうえでこの修行を修習するならば、ナーローの六ヨーガ自体を成就するのみならず、顕教と密教の両方の道の要点に完全に導かれる。これがこの流儀の大きな特長であることを理解しなければならない。




 はい。ちょっとまた言葉の説明ですが、パーラミターヤーナとマントラヤーナね。

 このヤーナっていうのは、これは乗り物っていう意味です。

 大乗仏教の人たちは、単に僧院にこもって教えの研究をしたり戒律を守って日々静かに過ごしているだけの人たちをちょっと軽蔑しているような形で、ヒーナヤーナって呼んだんだね。ヒーナっていうのは劣ったっていう意味です。つまり劣った乗り物。

 劣った乗り物ってどういう意味かっていうと、彼らのやり方では、つまり僧院にこもってひたすら戒律を守り瞑想しているだけ、そんなやり方では、確かにニルヴァーナ、涅槃の世界に至れるかもしれないが、自分ひとりしか至れないと。つまりそれはまるで小さな舟を作って、よいしょよいしょと漕いで、ニルヴァーナに渡るようなものだと。自分は行けるけど、多くの人を乗せることができない。よって、そのような道っていうのはヒーナヤーナ――つまり劣った道だっていったんだね。

 それに対して自分たちがやる大乗の道こそはマハーヤーナ――マハーっていうのは大、偉大なるとか大きいっていう意味だね。つまり大きな乗り物。マハーヤーナだっていったんですね。

 ヒーナヤーナとマハーヤーナ。だから、どちらかっていうとこのヒーナヤーナっていうのは、そのような体系っていうよりは、修行者の心構えにも関わってくるといってもいいかもしれない。つまり、自分のためだけに修行する人。これはまさにヒーナヤーナなんだね。じゃなくて、わたしの修行は衆生のためにあるんだと。衆生を救うために修行するんだ。この道をマハーヤーナというんですね。

 で、このマハーヤーナに二つあると。それがパーラミターヤーナとマントラヤーナだと。

 このパーラミターヤーナっていうのは、このパーラミターっていうのは六波羅蜜のパーラミターだね。『入菩提行論』とかにも出てくる、布
施、戒、忍辱、精進、禅定、智慧だね。これはもちろん大乗仏教の基礎となる。で、もちろんこの密教も六波羅蜜をやるんだけど、この六波羅蜜を中心として、あまり危険のない、地道な大乗の道を歩く道をこのパーラミターヤーナっていうんですね。

 そうじゃなくて、もちろんこのパーラミターを土台としながら、さまざまな秘密の修行、あるいはこのマントラってありますが、マントラを唱えたり、あるいはいろんな秘儀的な瞑想法を行なったり、あるいはさっき言った、師匠に導いてもらって非常にその人に合った最短の道を行くような道、これをマントラヤーナっていうんですね。つまり密教のことです。

 だから一般的な大乗、これはパーラミターヤーナ。で、密教の道をマントラヤーナといいます。タントラヤーナっていう言葉がありますが、このタントラヤーナっていうのは、これは欧米の造語なんですね。もともとはタントラヤーナっていう言葉はないんです。タントラっていう言葉はあるよ。密教の経典をタントラっていうんだね。あるいはタントラ的な修行をタントリズムとかいったりするけど、タントラヤーナっていう言葉はもともとはない。ヨーロッパとかで作られた言葉ですね。もともとだからインドとかでは密教のことはマントラヤーナっていうんだね。

 はい、だから簡単にいうと、一般的な大乗と、それから密教のことですね。

 はい、で、その共通の道とありますが、つまり基礎はどっちも同じなんです。パーラミターヤーナもマントラヤーナもね。つまりわれわれが普段学んでるようないろいろな仏教の教えね。六波羅蜜もそうだし、いろんな戒律もそうだし、四諦の教えとか七科三十七道品とか、いろんな基礎の教えがある。それはもうどっちも同じなんだね。それプラスアルファが、マントラヤーナ、密教に出てくるだけであって、基礎的な教えっていうのは全く変わらない。それをまずしっかりと学ぶこと。これが第一ですよっていうことですね。

 逆に言うと、そのような基礎的な、しっかり教えを学ばずに密教の道に入ろうとしても、それは非常に危険がある。だからまずはしっかりと基礎的な仏教のね、修行の学習をしなきゃいけないっていうことだね。

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パドマサンバヴァの秘密の教え(40)「十の不成功」

2010-11-19 22:25:52 | 経典の言葉・聖者の言葉

◎十の不成功


 師はこのように仰った。

「あなたは、これら修習の十の基礎を習熟しないと、ダルマの修習において成功しない。」


 ツォギャルは尋ねた。

「それはどのようにでしょう?」


 師はこうお説きになった。

「一.もし、真実の見解を通して、菩提心の決意をしないなら、
   どこに暮らそうが、心は安定しないだろう。

 二.もし、真実の行為を通して、堅固さを培わないなら、
   見解と行為を統合させることができないだろう。

 三.もし、サマーディによる訓練の仕方を知らないと、
   ダルマターの本質を認識できないだろう。

 四.もし、グルから口頭の教えを受けないならば、
   正しい修習の仕方を知ることはできないだろう。

 五.もし、グルの祝福を受けて段階的に進歩しないならば、
   ダルマの修習には不適格な者になるだろう。

 六.もし、サマヤ戒を守ることを通して覚醒の土台を保たないならば、
   地獄の領域に種を植えることになるだろう。

 七.もし、教えを学ぶことによって自分の存在を解放しないならば、
   ダルマの香りを味わうことはできないだろう。

 八.もし、すべての教えの源を同じとみなさないならば、
   宗派主義を越えられないだろう。

 九.もし、それらを一つのポイントに集約しないならば、
   ダルマの根本を理解することはないだろう。

 十.もし、高い叡智に到達しないならば、
   ダルマの本質を認識できないだろう。

 ダルマの修習において自ら訓練をしていない、いわゆる『霊性の師』は、ダルマが宗派の限界を超えていることを理解していない。彼らはひどい偏見によって互いを攻撃する。すべての乗り物はそれぞれが正当であるのだから、論争に巻き込まれてはいけない。安らかでいなさい。」
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新しいTシャツができました

2010-11-18 20:55:37 | お知らせ


 ヨーガスクール・カイラスオリジナルの新Tシャツができました。

 後ろは最初に作ったものと同じ、ヴァジュラサットヴァのマントラがチベット語で書かれています。

 前にはクリシュナの象徴である孔雀の羽が書かれています(松川の手書きです)。そして「Here is Vrindavan」の文字。聖地ヴリンダーヴァンが胸の中にあるということを忘れないようにという願いを込めてです^^。


 定価3000円で、長袖と半袖があります。
 色もサイズも各種あります。
 郵送もしますので、お問い合わせください。


※色は以下の通りです


半袖

バイオレット  
オーシャンブルー 
フラミンゴピンク 
コーラルピンク     
ケリーグリーン 
ベビーピンク     
白地に文字がマゼンタ
白地に文字がエメラルドグリーン


長袖・男性用

ターコイズブルー
ライトグリーン
白地に文字がマゼンタ
白地に文字がエメラルドグリーン
  

長袖・女性用

ショッキングピンク  
シャーベットグリーン 
シャーベットピンク  
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すべてを魅了するクリシュナよ

2010-11-16 11:46:03 | 松川先生のお話
「すべてを魅了するクリシュナよ」


作詞:松川慧照
作曲:lilly
歌:松川慧照、門田みち子、久保仁美

(歌入り)
http://yoga-kailas.com/audio/subetewo.mp3
(曲のみ)
http://yoga-kailas.com/audio/subetewo-k.mp3
(PV)
http://www.youtube.com/watch?v=6kvUQDNC9W0



 すべてを魅了するクリシュナよ
 偉大なヨーギー、至高の真我よ
 衆生のために降臨される、慈悲深き主よ

 あなたに栄光あれ
 ヴァスデーヴァのやさしき御子よ
 私は今からあなたのすばらしさを語るためだけに
 この口を使います


 今まで多くのヨーギーが
 多くの修行のその果てに
 すべてをあなたにゆだねて、悟りを得た

 この宇宙はあなた以外はすべて幻
 私は今からあなたの教えを聞くためだけに
 この耳を使います

 あなたに栄光あれ
 ヴァスデーヴァのやさしき御子よ
 私は今からあなたのお仕事をおこなうためだけに
 この身を使います

 輪廻もニルヴァーナも超越した至高者よ
 私は今からあなたの御足を思うためだけに
 この心を使います

 祝福をお与えください
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クリシュナよ、私のすべてよ

2010-11-16 11:39:16 | 松川先生のお話


「クリシュナよ、私のすべてよ」


作詞:松川慧照
作曲:lilly
歌:松川慧照、門田みち子、久保仁美

(歌入り)
http://yoga-kailas.com/audio/krishnayo.mp3
(曲のみ)
http://yoga-kailas.com/audio/krishnayo-k.mp3







 あなたは限定的な神ではなくて
 すべてに偏在する真の勝者

 すべての神々があなたの現れと
 真の智者はいう

 あらゆる仏陀や神を
 体から放つ
 あらゆる仏陀や神の
 根本グルよ
 

 あなたはすべての宇宙の作り手
 すべての衆生を救うのもあなた

 ああ、クリシュナよ
 ああ、クリシュナよ
 ああ、クリシュナよ

 ゴーパーラよ
 ゴーパーラよ
 ゴーパーラよ
 
 ゴーヴィンダよ
 ゴーヴィンダよ
 ゴーヴィンダよ

 すべての根源よ
 すべての力よ
 すべての王よ


 私のすべてをかけられる神よ
 すべての魂の守り神よ

 あなたの存在は
 あなたの僕たちに
 智慧と力与える

 クリシュナよ
 クリシュナよ
 私のすべてよ

 ゴーヴィンダよ
 ゴーヴィンダよ
 ゴーヴィンダよ

 すべての根源よ
 すべての力よ
 すべての王よ
  
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