ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

感情の正体

2010-08-25 06:51:37 | 松川先生のお話

 体中の気を通していくようなヨーガや仏教の修行、そして心を静めていくような修行を続けていると、心の湖が静まり、整理されてくることによって、面白いことに気づく。

 たとえば悲しみなどのネガティブな感情が出たとき。普通の人はその感情に巻き込まれるだけだが、その感情にじっと集中観察の力を向けてみる。
 ここでいう集中観察とは、その感情の理由を分析することでもなければ、単に「悲しんでいる」などと実況中継することでももちろんない。
 リアルに心を集中し、リアルに観察するのだ。言葉は要らない。実際に観るのだ。
 これは少なくとも、雑念や心の問題(煩悩)がある程度静まり、気の流れもスムーズになっていないとできないと思う。
 そしてこれに成功すると、「悲しみはただ悲しみであって、それは別に苦しいわけではない」ということに気づく。
 その単純な悲しみという感情を苦しみへと展開させているのは、自分の様々な経験から来る心の習性であり、煩悩であり、雑念であり、心のとらわれであるということに。
 

 そしてさらに集中観察の力を強めると--悲しみが歓喜に変わる。 
 悲しみ、怒り、執着--そういったネガティブとされる感情の本当の正体は、実は純粋な歓喜なのだ。

 それらが「悪い」とされるのは、ほとんどの場合はそこから悪しき「展開」を行ない、純粋な歓喜を、無明に覆われた経験から来る識別の汚れで覆い、輪廻の感情に堕落させてしまっているからだ。

 感情のエネルギーの正体、それは純粋な歓喜。
 もちろん、エネルギーさえもすべて静まれば、それはすばらしい寂静の歓喜だ。
 しかし寂静の歓喜も、エネルギーの歓喜も、どちらもすばらしいのだ。
 悪しき展開さえ行なわなければ。

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ささげる瞑想

2010-08-14 07:00:25 | 松川先生のお話



 なかなか捨てられない執着があるとき、

 やめたいと思っていてもやめられない何かがあるとき、

 「ささげる瞑想」が有効です。 

 「ささげる瞑想」とは、その名の通りの、ごく簡単な瞑想です。

 何か聖なる対象をイメージしてください。
 シヴァ神でもクリシュナ神でも、ブッダでも菩薩でも聖者でも、何でも構いません。
 それに対して、自分が執着しているものを、ささげるイメージをするのです。

 これだけです。

 これを、一日のうちに何度も行なうといいです。
 最初は、心がこもってなくて、形だけでも構いません。とにかく無理やりでもいいので、そのイメージをします。 
 毎日、数回ずつでもいいので繰り返します。

 すると不思議なことに、そのうち・・・数日か、数週間か、数ヶ月かかるかは別にして・・・いろいろなパターンで、執着が消えていきます。
 代わりにもっと精妙な歓喜が増えていきます。
 

 ・・・この日記は、だから神やブッダの力は偉大なのだ、ということを言おうとしているわけではありません。
 自分で何度もやってみて、その予想以上の効果に驚いているので、皆さんにもご紹介したいと思いました。
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クリシュナ物語の要約(4)「魔女プータナーの救済」

2010-08-14 06:30:16 | 経典の言葉・聖者の言葉



(4)「魔女プータナーの救済」


 恐ろしい魔女のプータナーは、カンサの命を受け、村や町の幼い子供たちを、殺しまくりました。
 そうしてやがて彼女は、ナンダが支配するゴークラの地へとやってきました。そして主に導かれるように、主が赤子として眠るナンダの家へとやってきたのです。
 
 プータナーは美しい人間の女性に姿を変えていたので、村の人々はプータナーを見ても誰も疑いもせず、かえってその美しさに見とれていました。

 主はその女性が魔女プータナーであると即座に見抜きましたが、眼を閉じて、じっと眠っていました。プータナーはその赤子を自らの膝の上に抱きかかえました。

 そしてプータナーは、猛毒を塗った自らの乳房を、その赤子の口に含ませました。
 すると主は、その乳房を両手で絞りながら、毒とともに彼女の生命力までも吸い取ってしまったのでした。
 生命力を吸い取られたプータナーは、あまりの苦しみのために眼球は外に飛び出し、手足を大きくばたつかせて、叫び声をあげました。
 そして本来の恐ろしい巨大な悪魔の姿を現わすと、髪の毛を振り乱して、大空に飛び立ちましたが、すぐに地上に落下し、そのまま息絶えたのでした。

 恐ろしい魔女の叫び声と、地上に落下した轟音を聞いて、驚いた村人たちがそこにやってくると、恐ろしい魔女の巨大な死体がそこに転がり、その胸の上で、ヤショーダーの赤子が、少しもこわがらずに遊んでいるのを見ました。人々は非常に驚き、あわててかけよって、赤子をその悪魔から引き離したのでした。

 ヴラジャの人々は、その魔女の死体を斧で切り刻み、薪とともに火をつけて燃やしました。
 主に生命を吸い取られたときに、その魔女はすべての罪を消されたので、彼女の死体が燃やされるときに生じた煙は、とても素晴らしい芳香を放ちました。
 その魔女は、多くの赤子の命を奪い、果ては主に毒を塗った乳房を吸わせて殺そうとしたにもかかわらず、かえって主によってその罪を浄化され、天界へと上って行ったのでした!
 この魔女でさえそのような救済を得たならば、自分が最も大切だと思うものを敬虔な思いで主にささげる信者たちが、同様の聖なる境地に達することができることは、疑いのない事実であるといえるでしょう。


 

つづく
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クリシュナ物語の要約(3)「主の降誕」

2010-08-13 15:36:12 | 経典の言葉・聖者の言葉


(3)「主の降誕」


 ローヒニーの星宿が東の空にのぼり、星々が最も吉兆な相を示した時、ついに主ヴィシュヌは、デーヴァキーの息子として、この世に出生されました。

 ヴァスデーヴァは、妻デーヴァキーから生まれた自分の息子の姿を見て、驚嘆しました。それは四本の腕に法螺貝や円盤などをもち、黄色の絹の衣を身にまとい、頭にはまばゆい王冠、耳にはラピスラズリの耳飾りなどを身につけた姿だったのです。
 その子はまさに主ヴィシュヌそのものだと理解したヴァスデーヴァとデーヴァキーは、大変喜びつつも、これを知ったらカンサが飛んできて、主ヴィシュヌを殺してしまうだろうと思うと、不安になりました。

 主ヴィシュヌはその後、自分のマーヤーの力によって、たちまちに普通の赤子の姿になりました。
 するとその時、ヴァスデーヴァは、主の力によって、生まれたばかりの赤子を抱き抱えて、幽閉されているこの牢屋から出て行こうという気持ちになりました。
 そのとき、ヨーガマーヤーの力により、門番たちも、都のすべての者たちも、深い眠りに落ちていきました。固く閉ざされた牢獄の門も、次々に自然に開いていき、ヴァスデーヴァは赤子を抱えたままやすやすと外に出ることができました。
 こうしてヴァスデーヴァは、ヴラジャの地にやってきました。そこでは女神ヨーガマーヤーが、ナンダの妻ヤショーダーの娘として生まれていました。ヴァスデーヴァは、自分の息子を眠っているヤショーダーのそばに置くと、ヤショーダーの娘を抱き上げて、もといた牢獄へと戻っていきました。

 ヤショーダーは、ヨーガマーヤーの力によって、自分に生まれた子供が女の子であるということには気づかずにいました。そのため、ヴァスデーヴァが自分の息子とヤショーダーの娘を交換しても、それに気づかず、ヴァスデーヴァが連れてきたその男の子を、自分が生んだ実の子であると信じて疑わなかったのでした。

 さて、ヴァスデーヴァがヤショーダーの娘を自分の息子と交換して牢屋に戻ってきた後、ヤショーダーに子供が生まれたというニュースが、カンサに報告されました。
 カンサは、ついに自分の宿敵である主ヴィシュヌが降誕したと知り、その赤子を殺すために、急いで牢屋へと向かいました。
 そこではデーヴァキーが、生まれたばかりの女の赤子を抱いていました。デーヴァキーは、その子が女の子であることを理由に、どうかこの子は殺さないでくれと、カンサに懇願しました。しかしカンサは耳を貸さず、デーヴァキーからその赤子を取り上げると、その足をつかんで、硬い石の上に、思いきり投げつけました。
 しかしその赤子は、カンサに放り投げられると、そのまま空中に飛んでいき、八つの腕をもつ、神々しい女神の姿に変わりました。そしてその女神は空中から、カンサにこのように言いました。

「ああ、愚か者よ。私を殺しても何になろう。かつてのお前の敵であり、お前を殺すお方は、もうすでにお生まれになり、他の場所にいらっしゃるのだ。それゆえお前はこれ以上、無益に子供を殺してはならぬ。」

 こう言うとその女神は、ただちに姿を消しました。

 これを見たカンサは非常に驚きました。そして同時に、心に深い懺悔の気持ちがわき起こってきました。彼は今まで自分がなしてきた残虐な行為を悔い、ヴァスデーヴァとデーヴァキーを鎖から解放すると、彼らに自分がなしてきたひどい行為の許しを乞いました。ヴァスデーヴァとデーヴァキーも、カンサが改心したことを喜び、彼を寛大な心で許したのでした。

 しかしその後、一連の出来事を知った魔族の大臣たちは、カンサ王に言いました。

「もしその女神が言ったことが事実であるならば、都や村落、その他の場所に誕生した、生まれて十日前後の子供たちを、すべて殺すべきです。
 ヴィシュヌ神をはじめとした神々などに、いったい何ができるでしょうか?
 どうかあなたのしもべである我々に、やつらすべてを滅ぼせと、命じてください。
 彼ら神々の支えはヴィシュヌであり、ヴィシュヌがいるところに、彼らのサナート・ダルマ(永遠の法)は存在するのです。
 ああ、王よ。我々は、聖典の解説者、ブラーフマナ、苦行者など、彼らをすべて殺すべきでしょう。それら聖なる者たちは、ヴィシュヌの顕現の一部であるからです。」

 一度は改心したカンサでしたが、あまり智慧のない魔族の大臣たちにそそのかされた結果、もともと持っていた悪しき心が、カンサの中に再び蘇りました。そしてカンサは部下である魔族の者たちに、世の中の正しき者たちを迫害するように命じました。
 こうして魔族の者たちは、世の中の徳ある者たちに、さまざまなかたちで危害を加えていったのでした。

 またカンサは、恐ろしい魔女のプータナーに、世界中の幼い子供たちを殺してくるように命じたのでした。




つづく
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病気と煩悩

2010-08-12 07:46:49 | 松川先生のお話




1-①もともと健康な人がいます。

1-②体中が皮膚病になりました。

1-③かくと気持ちがいいので、かきます。

1-④しかしかくと病が悪化し、治らないので、かかずに治療をしなければなりません。

1-⑤治療によって、すばらしい健康を取り戻します。



2-①もともと至福に満ちた人がいます。

2-②心が煩悩という病にかかりました。

2-③煩悩を満たすと気持ちがいいので、煩悩を追いかけます。

2-④しかし煩悩を満たしていると心の病が治らないので、煩悩を追い求めずに修行をしなければなりません。

2-⑤修行によって、すばらしい至福の心を取り戻します。



 「私は【皮膚病をかく気持ちよさ】が好きなので、皮膚病を治したくいない」というのはナンセンスでしょう。
 同様に、
 「私は【煩悩を満たす気持ちよさ】が好きなので、煩悩を捨てたくない」というのもナンセンスなのです。

 しかし、病気のない健康状態がすばらしいということは理解できても、煩悩のない心の状態が至福に満ちたすばらしい状態であるということは、体験がないのであまり理解できないかもしれません。

 しかし実際、煩悩がなければないほど、心の至福、智慧、慈愛の心は高まります。

 理論的には、煩悩はそれらすべてを阻害しているものだからです。なぜ煩悩がそれらすべてを阻害しているかって? それらすべてを阻害しているものを煩悩と定義しているからです(笑)。

 経験的には・・・確かにそうだよ、というほかはありません(笑)。

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パドマサンバヴァの秘密の教え(39)「マントラの十の基礎と、他の秘密の教え」

2010-08-10 16:54:56 | 経典の言葉・聖者の言葉


4.マントラの十の基礎と、他の秘密の教え
  ――質疑応答による深遠なる助言


 グルに帰依し奉ります。

 偉大なるグル・パドマカラ(パドマサンバヴァ)は、蓮の花から生まれ、人間の子宮に汚されることはありませんでした。彼は様々な苦行を行い、生命を支配するヴィディヤーダラのレベルに達し、生と死の河を止め、そこに留まり続けています。

 彼は八万四千のダルマの道を教えました。彼は六つの世界の生き物と八つの世界の神々と悪魔の言葉を理解しました。ブラフマーのような声を持ち、すべての生き物に利益をもたらします。

 彼の心は全能の現われを備えています。彼は生起して消滅する移り変わりの本質を理解し、物事の本質と部分を別のものとはしていません。

 すべての必要な資質は彼自身から生起するため、彼はすべての高位のものの基礎であり、源です。彼はすべての生き物を従わせる手段に高い才能を持っています。

 彼の活動により諸々のスガタの心が呼び覚まされ、神々と悪魔の八つの世界の生命力と心がコントロールされます。

 パドマカラは海上のとある島で生まれ、ウッディヤーナ王国を治めました。彼は八つの火葬場で苦行しました。インドで苦行を修め、慈悲によってチベットにやってきました。彼はチベットの王の願いをかなえ、インドとチベットの王国に平和をもたらしました。

 この親切な師は、カルチェンの王妃である私ツォギャルを、私が十三歳のとき、彼の精神的配偶者として受け入れて下さいました。私は信仰心、慈悲心、利他心、忠実さ、高度な理解力がありましたが、ただの少女でした。

 百十年間(半年を一年と計算して)、師はチベットに留まって下さいました。私は師に仕え、師を喜ばせました。師は、師の心のエッセンスである口頭での教えの真髄を、すべて余すところなく私に授けて下さいました。この間、私は師の教えのすべてを責任をもって書き残し、それを貴重な宝として隠しておくことにしました。



◎十の修習の基礎

 師はこのように仰った。

「ダルマを修習するとき、あなたは十の修習の基礎を完全に訓練しなくてはならない。」


 ツォギャルはこう尋ねた。

「その十の基礎とは何でしょうか?」


 師はこうお説きになった。

「一.空高く飛翔するガルダのように、
   すべての教えを理解し、達成しなさい。
   そして真実の見解を培って、
   大いなる菩提心を決意しなければならない。

 二.水の中に入って行く象のように、
   何事にも怯えることなく、
   真実の行為を通して、堅固さを見つけなさい。

 三.暗い部屋にランプを灯すように、
   無智の暗闇を晴らすサマーディの訓練をしなさい。

 四.如意宝珠を見つけたかのように、
   習性から生じるすべての現象を解放し、
   教えを通して目的を成就しなさい。

 五.王位を継承する王子のように、
   輪廻に落ちる恐怖から自由になり、
   グルの祝福を受けて、段階的に進歩していきなさい。

 六.肥沃な土地のように、
   あなたのどんな行動も無駄にせず、
   サマヤ戒を守ることで、覚醒の土台を保ちなさい。

 七.優れた馬が手綱から自由であるように、
   ダルマのすべての局面に熟達し、学ぶことを通して、
   あなたの存在を解き放ちなさい。

 八.巣を探す蜜蜂のように、
   ダルマのすべての流派を理解し、
   すべての源は同じであると理解しなさい。

 九.商売人が利益を一つにまとめるのと同じように、
   数多くの教えはすべて一つの味であると理解して、
   それらを一つのポイントに集約しなさい。

 十.スメール山の頂上に到達するように、
   明確に疑念なく、すべての教えの意味を理解し、
   高い叡智に到達しなさい。

 これらのポイントにおいて自ら訓練することなく、博学でありたいと思っている人々は、本質的な意味において博学にはなれず、単に宗派主義の教義を多く学んだエキスパートになる。これは、これらの十の修習の基礎に習熟しなかった間違いによるのである。」
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出張ヨーガ講習会のお知らせ

2010-08-09 12:29:42 | お知らせ


 以下の日程で、出張ヨーガ講習会を開催いたします。

 参加希望の方は、お早めにメールでご連絡ください。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。


 ※神奈川・東京・札幌・大阪の方は、教室がありますので、そちらにお越しください。詳細はメールでお問い合わせください。

 ※現在講習会がない地方への出張も、要望があれば検討しますので、お気軽にご連絡ください。




8月22日(日)12:30~15:30
☆場所:仙台・スタジオカラコル
JR仙台駅から徒歩10分
http://www.chiaki-walk.com/caracol.html


9月23日(祝)11:30~14:30
☆場所:那覇市・兼次早苗バレエエクササイズスタジオ
ゆいレール県庁前駅から徒歩9分・那覇市若狭大通り(駐車場あり)


9月26日(日)14:30~17:30
☆場所:仙台・スタジオカラコル
JR仙台駅から徒歩10分
http://www.chiaki-walk.com/caracol.html




☆詳細-----------------------------------------------------------------------------------



☆参加費:3000円


☆内容:クンダリニー・ヨーガ、ハタ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガなどの各種行法実践と講義。
    初心者の方でも問題ありません。お気軽にご参加ください。

☆定員:3名~20名
    ※参加希望者が定員に達しなかった場合、中止になる場合もありますので、ご了承ください。

☆予定しているメニュー:アーサナ(気を調える体操)
            気功(気を充実させる内気功)
            プラーナ―ヤーマ(各種の呼吸法)
            ムドラー(覚醒の技法)
            マントラ
            瞑想
            講義
 
☆持ち物:動きやすい服装
     ヨガマット、または大きめのバスタオルなど(床に横になるときに下に敷けるもの)。

☆申込先:電話またはメールでお申し込みください。



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原始仏教の17段階の修行

2010-08-09 11:35:00 | 松川先生のお話



 原始仏典で説かれる17段階の修行を簡潔にまとめてみたいと思います。
 出典はパーリ仏典中部経典第39経の「大アッサプラ経」です。

 お釈迦様は弟子たちに、沙門(道の人、出家修行者)によってなされるべきもろもろのこととは何か、という説法を始めます。
 そしてこの17段階の最後まで至った者こそ、沙門であり、ブラーフマナであり、ヴェーダを知る者であり、煩悩が消えたものであり、アラハト(阿羅漢)であるというのです。


1.慙愧

 慙愧とは、自分と周りに対して、恥じる心を持つことです。
 つまり、自分はまだまだである、私は何をしているのだろうか、もっと励まなければだめじゃないか、というように自分の中で謙虚に恥じ、自己を鼓舞するとともに、周りに対して、このような状態では修行者として恥ずかしい、正しく生きなければ、というように謙虚に恥じる心を持つわけです。
 この慙愧の心から、不放逸、つまり怠けずにひたすら精進する心が生じます。
 この慙愧の心を確定させることが、修行者のなすべき第一のことですが、これが十分になされたとしても、そこで終わりではなく、次にまたなすべきことがある、という感じで、順次進んでいきます。


2.身の行為の清浄

 身体を使ってなすことにおいて清浄を守ることです。
 そして、もし身の行為が清浄に保たれていたとしても、決して自分を持ち上げたり、他者を見下してはいけない、とも説かれています。
 身の清浄については、伝統的に、
◎殺生・暴力など、他の生き物を害する行為をしない
◎盗みをしない
◎邪淫をしない
の三つですね。
 邪淫をしないとは、出家修行者にとってはもちろん一切の性的行為をしないことであり、在家においては、浮気や不倫をしないということになります。


3.言葉の行為の清浄
 
 これは伝統的には、
◎嘘をつかない
◎意味のない冗談などを言わない
◎悪口を言わない
◎両舌・陰口・中傷を言わない
この四つですね。
 もちろん、これらをもっと積極的に捉え、真理を語る、真実を語る、慈愛の言葉を語る、などの実践も必要です。


4.心の行為の清浄

 これは伝統的には、
◎貪りの心を持たない
◎憎しみの心を持たない
◎誤った見解を持たない
この三つになります。これらももっと積極的に、慈愛や慈悲の心を持ち、正しい見解を持つという実践も必要です。


5.生活の清浄

 生活の清浄とは何か、経には具体的には書かれていませんので、私の見解を書きます。
 身体・言葉・心の清浄というのは、あくまでも単発的というか狙いの定められた実践項目だと思います。しかしこの生活の清浄というのは、24時間、生活のあらゆる場面を通じて、あらゆる意味で真理から外れない、正しく清浄な生活をし続けるということではないかと思います。


6.感官の門の防護

 眼・耳・鼻・舌・身体・心において、様々なものを見たり聞いたり感じたりしても、その外面や細部にとらわれないようにする。 
 これらの感覚器官を防護せずにいる者は、執着や憂いの原因となるような様々な悪しき不善の事柄が、それらの感覚器官を通じて入ってくるので、それらが入ってこないように、しっかりと感覚器官を防護する。
 お釈迦様の時代は、インドはもっと宗教的で、煩悩的刺激もほとんどなかったと思いますが、今の日本は大変ですね。普通に生活しているだけで、様々な執着や憂いの原因となるような悪しき不善の事柄が、眼や耳その他から入ってきます。
 単に感覚器官で淡々と感知するだけならいいのですが、たとえば町でかわいい娘を見かけたときに眼で追ってしまい、じっと見て、心がとらわれるとか、何かの情報を聞いたときに、その世界に心がとらわれて引きずり込まれていくとか、そういうことを戒めているわけですね。
 ヨーガ・スートラでいうとこの部分は制感(プラティヤーハーラ)にあたるのかもしれませんね。
 

7.食の量を知る

 注意深く観察しながら食事をとる。
 決して楽しみのために食事をとるのではなく、あくまでもこの身体の維持のために、そして修行の手助けとしてのみ、食事をとる。
 このようにして、もともとあった味覚のとらわれを断ち切り、また、新たな味覚のとらわれが生じないようにする。


8.不眠の努力

 日中に経行(意識を集中して歩くこと)をすることによって、座って瞑想するときに、もろもろの妨げから心を清らかにする。
 夜の初更に経行をすることによって、座って瞑想するときに、もろもろの妨げから心を清らかにする。
 夜の中更に、右脇を下にして足の上に足を乗せて、念と正智をそなえて、目覚めることを考えて、獅子の眠りにつく。
 夜の後更に起きて、経行(意識を集中して歩くこと)をすることによって、座って瞑想するときに、もろもろの妨げから心を清らかにする。

 夜の初更・中更・後更というのは、夜を三分割してその最初と中間と最後の時間のことですね。
 このころのインドと今の日本では事情が違うので一概に言えませんが、ためしに今の日本に当てはめてみると、まあ大体今の時期で、日の入り18時、日の出が5時とし、その間を夜と考えた場合、21時30分~1時30分ごろの間に寝て、1時30分~5時の間に起きなさい、ということですかね。
 そして日中と、夜と、夜明け前に、時間をとって経行をすることで、意識をリフレッシュさせ、瞑想中に寝てしまったりしないようにする。
 右脇を下にして寝るのは獅子の寝方といって、仏教で伝統的に推奨される寝方です。そして眠るときも、早く起きることを考えて、正しい思いを保ちながら眠りに入りなさいということですね。


9.念と正智を身につける

 何をするにも正智をもって行ない、常に正しい念を持ちます。
 この念と正智に関しては様々な解釈がありますが、正智とは、何をするにも常に心の覚醒を保ち続け、自己の身や言葉や心が真理から外れていないか、チェックし続けるのです。
 念とは、何を念ずるのでしょうか? 「ウダーナヴァルガ」の念について書かれた経から少し引用してみましょう。

「ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜もつねにブッダを念じている。
 ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜もつねに法を念じている。
 ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜もつねにサンガを念じている。
 ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜もつねに身体(の真相)を念じている。
 ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜も心の統一安定を念じている。
 ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜も戒めを念じている。
 ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜も捨て去ることを念じている。
 ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜も神々を念じている。
 ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、昼も夜もその心は不傷害を楽しんでいる。
 ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は怒り害しないことを楽しんでいる。
 ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は昼も夜も(俗世からの)出難を楽しんでいる。
 ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は瞑想を楽しんでいる。
 ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は遠ざかり離れる孤独を楽しんでいる。
 ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は空を楽しんでいる。
 ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は無相を楽しんでいる。
 ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は無所有を楽しんでいる。
 ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は瞑想を楽しんでいる。
 ゴータマのこの弟子たちは、よく覚醒していて、その心は安らぎを楽しんでいる。」


10.五つの障害の捨断

 一人で座して足を組み、背筋を伸ばして座ります。
 そして、心に付随する煩悩であり、智慧を弱め、瞑想の妨げとなる五項目の障害を、捨て断つ努力をします。
(1)貪欲を捨て、貪欲を去った心ですごして、貪欲から心を清浄にする。
(2)怒りを捨て、怒りを去った心ですごして、衆生を哀れみ、怒りや害意から心を清浄にする。
(3)沈うつと眠気を捨て、沈うつと眠気を去った心ですごして、光明の想を持ち、念と正智を持ち、沈うつと眠気から心を清浄にする。
(4)浮つきと後悔を捨て、浮つかずにすごして、心を静め、浮つきと後悔から心を清浄にする。
(5)真理への疑いを捨て、疑いを超越してすごして、善い事柄において疑いなく、真理への疑いから心を清浄にする。


11.第一禅定

 五つの障害を捨断し、もろもろの欲望を離れ、不善の事柄を離れ、まだ思考を伴ってはいるけれど、遠離によって生じた喜と楽がある第一禅定を成就してとどまる。
 遠離によって生じた喜と楽で、身体全体を満たす。


12.第二禅定

 思考が滅し、心が清浄となり、サマーディによって生じた喜と楽がある第二禅定を成就してとどまる。
 サマーディによって生じた喜と楽で、身体全体を満たす。


13.第三禅定

 喜びに染まらないがゆえに、平静であり、正しい念と正智があり、楽を感受する第三禅定を成就してとどまる。
 喜のない楽によって、身体全体を満たす。


14.第四禅定

 楽と苦の両方を捨て、すでに喜びと憂いを滅したので、苦も楽もなく、心の平静より生じた念が最も清浄になっている第四禅定を成就してとどまる。
 純粋清浄な心で、身体全体を満たす。


15.宿命智

 過去世を思い出す智に心を傾注し、様々な過去世を思い出す。


16.死生智

 生命あるものたちの死と再生についての智に心を傾注する。
 清浄で人間を超えた天眼を使い、生命あるものたちが、それぞれのカルマに従って、死んでは再生するのを見る。


17.漏尽智

 もろもろの煩悩を滅し尽くす智に心を傾注する。
 苦・苦の生起・苦の滅尽・苦の滅尽に赴く道を、如実に知る。
 煩悩・煩悩の生起・煩悩の滅尽・煩悩の滅尽に赴く道を、如実に知る。
 このように知り、このように見るとき、その心は欲・生存・無明の煩悩から解脱する。解脱したとき、解脱したという智が生じる。

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いいじゃないか

2010-08-08 19:54:21 | 松川先生のお話
あなたの才能、美しさ、富、
それらは神から与えられたものだと考え、
こだわらない。
喜び、感謝し、忘れよう。
次に不才能、醜さ、貧しさが与えられても
いいじゃないか。
神にお任せしましょう。

神は常に最高の祝福を与えてくださっている。
しかし我々が、ちっぽけな幸福に対して自分勝手なこだわりを持つ事で
より大きなプレゼントを得るチャンスを失っていることが
いかに多いことか。

だから神の愛を信じて、
すべてお任せしましょう。
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死を思う

2010-08-06 07:37:53 | 松川先生のお話



私は今日明日にでも死ぬでしょう。

でももし私が生きられるとしたら

それは神の意思により、何かやるべきことがあってのことだから

喜んで受け入れましょう。

しかしそれ以外のこの世への執着はいりません。

死ぬのだから。

この世が永遠に続くなら、多くのものに執着しましょう。

しかし私は死ぬのです。

だから今、すべてを捨てましょう。

人は死ぬときに、「すべてが私から去っていく」と言って嘆き悲しみますが、
今すべてを捨てるなら、永遠の幸福を発見するでしょう。

もう死ぬのだから、真剣に修行しよう。

もう死ぬのだから、何に対してもこだわりはありません。

もう死ぬのだから、人からよく見られたいという思いもありません。

もう死ぬのだから、新たな執着を作り出すような真似もしません。

もう死ぬのだから、きっぱりとエゴを振り捨てましょう。

もう死ぬのだから、何が起きるのだろうと気にしません。

もう死ぬのだから、自己のカルマを受け入れ、すべてを神の愛と見て受け入れます。

もう死ぬのだから、心のままに自然に振舞います。

もう死ぬのだから、その心を浄化・純粋化することだけに力を注ぎます。

もう死ぬのだから、素直になって、全世界に慈愛を向けます。

もう死ぬのだから、とにかく今を真剣に生きましょう。
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瞑想の準備、長い瞑想、非努力

2010-08-05 21:39:53 | 松川先生のお話


 深く瞑想に入るには、長い時間が必要になります。

 しかし最初は、そもそも長く座っても、深く入れず、単に気が散って、瞑想が嫌になってしまうだけなので、最初のうちは、瞑想をしては休み、瞑想をしては休みという感じで、短い瞑想を何度も繰り返すのもいいでしょう。

 しかし徐々に、集中力を増し、長時間の瞑想に入っていかなければなりません。

 たとえば心の湖の、20メートルくらいのところまで、20分かけて入ったとします。その後、瞑想をやめたら、それは湖から陸に上がったようなもので、また瞑想に入り、その20メートルの位置に行くまでは、また20分ほどかけなければなりません。
 20分かけて、休み、また20分かけて、休む。これを繰り返していたら、永遠に、20メートルの位置までしか行けない事になります。だからたまには、長時間の瞑想をする必要があります。あるいは可能なら、常にコンスタントに長時間の瞑想に入れるように訓練していかなければなりません。
 しかし繰り返しますが、無理はしなくていいです。準備ができていないのにただ長く座っても、意味がありません。まず瞑想の準備を整える必要があります。
 それはヨーガ的には、戒を守り、日々執着を弱め、マントラを唱え、聖典を読み、神に祈りをささげ、そして実際にアーサナやプラーナーマで心を安定させ、気の流れを安定させていくなどの方法が推奨されます。

 仏教では、瞑想の障害となる五つの障害要素を取り除くため、その対抗要素をぶつけていく方法などがとられます。
 たとえば執着を弱めるために無常や不浄について考える。
 怒りや憎しみや嫌悪を弱めるために慈悲を瞑想する。
 疑いを乗り越えるために正しい教えを学び、思索する。
 心の退縮や眠気を乗り越えるために、呼吸法、経行などの肉体行や、心を燃えさせる教えについて考えたり、あるいは聖者の伝記を読んだりする。
 未来や過去への期待や興奮や恐怖、後悔などを弱めるために、呼吸法や懺悔、あるいは具体的要因に基づいた対抗となる教えについて学び、考える。
 まあ細かくいえばもっとありますが、こういった感じの対抗策をとっていきます。

 これらによって実際に長く瞑想を続けられるようになり、それらが確定されてくると、次の段階に移行します。
 ワープできるようになるのです(笑)。

 たとえば以前は一時間くらいかかって行けていた、100メートルくらいの心の深さまで、瞬時に、あるいは数分程度で行けるようになります。 
 もちろん、そこから先に行くには、またそれなりの時間が必要になります。しかしその100メートルの深さまでは、努力が要らず、時間がかからずにいけるようになるのです。

 これは瞑想の深さについてのみならず、修行の様々な要素についてもいえます。

 たとえば私は以前、ある程度長く瞑想し、集中が成功すると、強烈な光が現われるようになりました。

 しかしある時期から、努力しなくても、少し瞑想に入っただけで、光の世界に入っていくようになりました。

 さらにある時期からは、瞑想しようとしなくても、何気なく眼をつぶっただけでも、光の世界に入るようになりました(笑)。 

 たとえば夜、暗い部屋の中で、寝ようと思って眼をつぶったとたん、強い光が発生して、電気がついたのかと思って目をあけるとやはり暗闇だった、ということがよくあります(笑)。

 つまり私にとっては、その光の世界に入るというところまでは、努力が要らなくなったのです。

 他の要素についても、ある段階まで達成すると、努力が要らなくなります。

 そういう意味では、修行は、進めば進むほど楽になります。そのある段階までは努力が要らなくなるわけですから。
 その努力が要らない、自然に身についてしまっている状態を、達成、成就、シッディといいます。

 まあ、だから、何でもそうですが、修行も、最初のころが一番大変ですね。修行が進めば進むほど、努力が要らずに使える領域が増えていくので、楽になります。しかしもちろん、そこに安住せず、さらに上を目指して努力をし続けなければいけないのですが、実質的に努力なき達成を土台に努力をするので、それは楽というか、自然に生じる努力ということもできます。

 さて、まあいつものことですが、あまり構成を考えずにつらつらと書いてみました。こういうことは論理的に組み立てて書くよりは、こういう感じで書いたほうが伝わりやすいかと思い、こんな感じで書きました(笑)。
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まいた種が

2010-08-05 06:51:12 | 松川先生のお話
まいた種が

芽となって出てきたのに

無明の眼には、それが敵に見える。

その芽を出すために頑張って種をまき、水をやってきたはずなのに

いざ芽が出てくると、それを芽と気づかず、敵と見る。

すべての現象を師と見るならば

この過ちは解消される。

すべては自らが、自らの成長のために

種をまき、出てきた芽。

それから逃げずに育て上げ

大きくなったら刈り取りなさい。

魂の成長という、真の収穫を得るのだ。
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赤い岩の宝石の谷の物語

2010-08-04 07:33:53 | 経典の言葉・聖者の言葉

ミラレーパの十万歌



パート1 ミラレーパ、悪魔を征服し、改心させる


第一話 「赤い岩の宝石の谷」の物語



 すべてのグル方に礼拝いたします。


 あるとき、偉大なヨーギー・ミラレーパは、宝石の谷の鷲の城に滞在して、マハームドラーの瞑想修行に集中していました。
 空腹感を感じ、何か食物を調理しようとしましたが、よく洞窟の中を見ると、塩や油や小麦粉はおろか、水や燃料さえ何もないということがわかりました。
 彼は言いました。

「私はものを無視しすぎたようだ!
 外へ出て、少し薪を集めなければならないな。」

 彼は外へ出ました。しかし彼が手に小枝を集めると、突然、強い風が起こりました。その風は森の木を吹き飛ばし、彼のぼろぼろの服を引き裂くほどに強い風でした。服をつかもうとすると薪が飛ばされ、薪をつかもうとすると服が破り飛ばされました。

 ミラレーパは考えました。
「私はこんなにも長い間、ダルマを実践し、リトリートにとどまっているのに、未だ自我執着を取り除いていない! それを征服できないならば、ダルマを実践していったい何になるのだろうか。好きなように風に、薪や服を吹き飛ばさせよう!」

 このように考えて、抵抗をやめました。しかし、食料不足による身体の虚弱により、次の突風に彼はもはや絶えることができず、気絶して倒れました。
 
 彼が意識を取り戻したとき、嵐はやんでいました。高い木の枝に、自分の服の切れ端が揺れているのが見えました。現世とそのすべて事柄の無益さに関する思いが、ミラレーパを襲いました。そして強い現世放棄の思いが彼を圧倒しました。彼は岩の上に座り、再び瞑想を始めました。
 すると間もなくして、白い雲の一群が、東方のかなたにある「トウォの谷」から上昇するのが見えました。

 「あの雲の層の下あたりには、わがグルである偉大な翻訳者マルパの僧院がある。」
 ミラレーパは考えました。
 「今この瞬間、彼と彼の妻は、タントラの教えを説き、法友たちにイニシエーションを与えているだろう。
 そうだ、わがグルはあそこにいる。今そこへ行けば、会うことができるだろう。」

 グルのことを思うと、グルを求める抑えがたい強烈な切望が生じ、彼の眼は涙でいっぱいになりました。そして彼は「わがグルへの思い」という歌を歌い始めました。


 父マルパよ、あなたのことを思うと、私の苦しみは取り除かれます。
 私、乞食僧は、熱い歌をあなたに歌います。
 
 東方の赤い岩の宝石の谷の上に、
 一群の白い雲が浮かんでいます。
 その下には、後ろ足で立ち上がるゾウのような、巨大な山がそびえ、
 その近くには、飛び跳ねるライオンのような、もう一つの峰がそびえ立っています。

 トウォ谷の僧院には、大きな石の座があります。
 今、その玉座で崇められているのは誰ですか?
 それは翻訳者マルパでしょうか?
 もしそうなら、私は嬉しく、幸せです。
 私の敬意は限られていますが、あなたにお会いしたいのです。
 私の信は弱いけれども、あなたとともにいたいのです。
 瞑想するほど、わがグルへの思いは募ります。

 グルの妻ダクメーマは、一緒にいらっしゃるでしょうか?
 彼女には、実の母よりも感謝しています。
 もし彼女がそこにいるなら、私は嬉しく、幸せです。
 旅は長くとも、彼女に会いたいのです。
 沈思するほどに、あなたへの思いは募ります。
 瞑想するほどに、わがグルへの思いは募ります。

 もし集いに参加できたら、私はどれほど幸せでしょう。
 そこであなたは、へーヴァジュラ・タントラを説いていらっしゃるかもしれません。
 私の心は単純ですが、学びたいのです。
 私は無智ですが、唱えたいのです。
 沈思するほどに、あなたへの思いは募ります。
 瞑想するほどに、わがグルへの思いは募ります。

 あなたは今、口頭伝授の四つの象徴的イニシエーションを授けていらっしゃるかもしれません。
 もし集いに参加できたら、私は嬉しく、幸せです。
 私の功徳は足りませんが、イニシエーションを受けたいのです。
 私は貧しく、多くの布施はできませんが、それを欲します。
 沈思するほどに、あなたへの思いは募ります。
 瞑想するほどに、わがグルへの思いは募ります。
 
 あなたは今、ナーローパの6ヨーガを説いているかもしれません。
 もしそこにいられるなら、私は嬉しく、幸せです。
 努力は足りませんが、私は学びたいのです。
 忍耐力は乏しいけれども、私は修行したいのです。
 沈思するほどに、あなたへの思いは募ります。
 瞑想するほどに、わがグルへの思いは募ります。
 
 ウェウとツァンの兄弟が、そこにいるかもしれません。
 もしそうなら、私は嬉しく、幸せです。
 私の経験と悟りは劣等ですが、彼らのものと比べてみたいのです。
 
 深い信仰と尊敬においては、あなたから離れたことはありませんが
 私は今、あなたに会いたいという気持ちで、苦しめられています。
 この熱い思慕が私を悩まし、
 この大きな苦悩が、息を詰まらせます。
 お願いします。慈愛に満ちたグルよ、
 私をこの苦悩から救ってください。


 このようにミラレーパが歌い終えるや否や、尊敬すべきジェツン・マルパが、五色の衣のような虹の雲の群れに乗ってあらわれました。その顔はどんどん強くなる天の光輝に照らされ、壮麗な礼服を着て、ライオンにまたがって、ミラレーパに近づいてきました。

 マルパは言いました。

「わが息子、偉大な魔術師よ。なぜそのように感傷に深く浸り、必死に私を呼ぶのか。
 なぜそのようにもだえ苦しむのか。
 グルやイダムに対する永遠の帰依心を持っていないのか? 
 外側の世界の妨害想念が誘惑するのか。
 八つの現世的風が、洞窟の中で吹き荒れているのか。
 恐怖と思慕に、お前の強さを奪われたのか。
 お前はグルと三宝に奉仕をしてこなかったか。
 功徳を、六つの世界の衆生にささげなかったか。
 悪業を浄化し功徳を得る慈悲の状態を達成しなかったか。
 何があろうとわれわれは離れないことを、お前は確信しているだろう。
 ゆえに、ダルマと衆生の利益のために、瞑想を続けなさい。」


 この崇高な喜ばしいヴィジョンによって心目覚め、ミラレーパは次の歌によって応えました。


 グルの顔を見、彼の言葉を聞くとき、
 私、乞食僧は、心臓の中のプラーナによってかきまぜられます。
 わがグルの教えを思い出すと、尊敬と崇拝の念が心に生じます。
 彼の慈悲に満ちた祝福が私に注がれるとき、
 すべての破滅的な思いは止滅します。

 師よ、「わがグルへの思い」という熱い歌は、
 あなたによって聞かれたに違いありません。
 しかし、私はまだ闇の中にいます。
 どうか私を哀れみ、加護を与えてください!

 不屈の忍耐が、グルへの最高の布施です。
 グルを喜ばせる最高の方法は、激しい瞑想修行に耐えることです!
 一人この洞窟にとどまることが、ダーキニーたちへの最高の奉仕です!
 聖なるダルマに私自身を捧げることが、仏教に対する最高の奉仕です。
 それは、私の人生を瞑想に捧げて、私の仲間である絶望的な衆生を救うことです!
 そして、死と病を愛することは、悪業の清算のための祝福です。
 禁じられた食物を拒絶することは、悟りと解脱に到達することを助けます。
 わが父であるグルの慈愛にこたえるために、私は瞑想をし続けます。

 わがグルよ、どうか私に加護を与えてください。
 この乞食僧が、この隠れ家にとどまり続ける手助けをしてください。 


 ミラレーパは意気揚々として、衣服を直し、腕に薪を抱えて、洞窟に戻りました。
 中に入ると彼は、皿ほどもある大きな目を持った、五人のインドの悪魔を見つけて、ぎょっとしました。一人は彼の寝床に座って説法をし、二人はそれを聞き、もう一人は食べ物を用意し、ささげ、残りの一人はミラレーパの本を学んでいました。
 ミラレーパは思いました。
「これは、私のことをよく思わない地元の神々の魔法による現われに違いない。私はここに長く滞在してきたが、彼らに何の布施も挨拶もしなかった。」
 そして彼は、「赤い岩の宝石の谷の神々への挨拶の歌」を歌い始めました。

 わが庵のあるこの孤独な場所は、
 仏陀方を喜ばせる地、
 成就者たちの住む地、
 私が一人住む避難所である。

 「赤い岩の宝石の谷」の上には、白い雲が流れている。
 またその下には、ツァン河がやさしく流れている。
 そしてその間を、コンドルが旋回する。

 ミツバチは、花々の香りに酔わされ、
 その間でハミングする。
 鳥たちは、大気を歌声で満たしつつ、
 木々に降りては、また飛び立つ。

 「赤い岩の宝石の谷」では、
 若いスズメたちは飛ぶことを学び、
 猿たちは飛び跳ねて遊びまわるのを好む。
 そして獣たちは走り回り、競争する。
 一方私は、二つの菩提心の修行をし、瞑想を楽しむ。

 あなた方、この地方の悪魔たち、霊たち、そして神々は、
 皆、ミラレーパの友達である。
 慈愛と哀れみの甘露を飲んで、あなた方の家に帰りなさい。
 

 しかし、インドの悪魔たちは消えず、鋭く、ミラレーパをにらみつけました。彼らのうちの二人はミラレーパの方に進んできました。一人はしかめっ面で下くちびるをかみ、もう一人は激しく歯ぎしりをしていました。残りの一人は後ろに回り、不気味で恐ろしい笑い声を発して、大声で叫びました。彼らは皆、恐ろしい顔や態度によって、ミラレーパを脅そうとしていました。
 ミラレーパは彼らの悪意を知って、激怒している仏陀の瞑想を始めて、強力なマントラを力強く唱えました。しかしそれでも悪魔たちは去りませんでした。
 次に偉大なる慈悲をもって彼らにダルマを説きました。しかしやはり去りませんでした。

 ミラレーパはついに宣言しました。
「マルパの哀れみによって、私は、すべての存在とすべての現象が、自分の心に他ならないとすでに完全に悟っている。心そのものは、空の透明さである。したがって、こんなことをして何になるのか。私はなんと愚かだったのか。これらのあらわれを、物理的に追い払おうとするとは!」

 そして敢然と「悟りの歌」を歌いました。


 四つの悪魔を克服した、父なるグル 
 翻訳者マルパに礼拝します。

 あなたの知っている私、「タクセン・カルモの息子」という名前の者は、
 三つの管を完成させながら、母の子宮で養育されました。
 赤ん坊として、私はゆりかごで眠り、
 若者として、戸口を見張り、
 成人として、高い山に住みました。
 雪の山頂の吹雪は恐ろしいけれども、私は恐れません。
 崖は険しく危険ですが、私は恐れません!

 あなたの知っている私、「黄金の鷲の息子」という名前の者は、
 卵の中で、翼と羽毛を育てました。
 赤ん坊として、私はゆりかごで眠り、
 若者として、戸口を見張り、
 成人として、空を飛びました。
 空は高くて広いけれども、私は恐れません。
 道は険しく狭いけれども、私は恐れません!

 あなたの知っている私、「魚の王ニャチェンヨルモの息子」という名前の者は、
 母の子宮内で、黄金の目を回しました。
 赤ん坊として、私はゆりかごで眠り、
 若者として、泳ぎ方を覚え、
 成人として、大海で泳ぎました。
 とどろく波は驚くべきものですが、私は恐れません。
 釣り針は多いけれども、私は恐れません!

 あなたの知っている私、「カギューのグルたちの息子」とい名前の者は、
 母の子宮内で、信仰を培いました。
 赤ん坊として、私はダルマの門に入り、
 若者として、仏陀の教えを学び、
 成人として、洞窟にひとりとどまりました。
 悪魔や霊や悪鬼は多いけれども、私は恐れません。

 雪ライオンの爪は、凍ることはありません。
 そうでなければ、三つの完全な力を持つライオンを
 「王」と呼んで何になりましょうか。

 ワシは、空から落ちることはありません。
 そうでなければ、とんでもないことです。
 鉄の塊は、石で砕かれることはありません。
 そうでなければ、鉄鋼を精錬して何になりましょう。
 私、ミラレーパは、悪霊も障害も恐れません。
 彼らに脅かされるなら、私の悟りや解脱とは何でしょうか?

 汝ら、霊と悪魔たち、ダルマの敵たちよ
 今日、私はあなた方を歓迎しよう!
 あなた方を迎えるのは、私の喜びだ!
 どうか、あわてずに、ここにいてください。
 語り合い、ともに遊ぼう。
 立ち去ることなく、今夜はここに泊っていってください。
 我々の、黒と白のダルマを戦わせよう。
 そして誰が最も遊び上手か見てみようではないか。

 あなた方はここに来る前に、私を苦しめることを誓ってきた。
 もしあなた方がこの誓いを達成せずに帰るなら、
 恥と不名誉が後に残るだろう。


 ミラレーパは毅然として立ちあがり、洞窟内の悪魔たちへまっすぐに向かっていきました。悪魔たちはおびえて、後ずさりし、失望して目をきょろきょろさせ、激しく震えました。そして渦巻きのようにともに回りながら、一つになって溶け込んで、消え失せました。

 ミラレーパは思いました。
「これは悪魔の王、妨害者ヴィナーヤカで、害を与えようと思ってやってきたのだ。嵐もまた、彼が生じさせたものだ。わがグルの慈悲によって、彼らは私を害する機会を得なかった。」

 この後、ミラレーパは大きな精神的進歩を得ました。
 
 この物語は、悪魔の王ヴィナーヤカに関するものですが、三つの異なった意味を持つので、
「わがグルについて考える六つの方法」
「赤い岩の宝石の谷の物語」
 または、
「薪を集めるミラレーパの物語」
と呼ばれます。



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新刊案内「パドマサンバヴァの秘密の教え 第一巻 限りなき永遠の真理」

2010-08-01 07:57:24 | お知らせ

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