ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

要約・ラトナーヴァリー(1) 「繁栄と至福の教え」

2010-07-28 06:13:16 | 経典の言葉・聖者の言葉
ラトナーヴァリー 第一章「繁栄と至福の教え」より


 三宝に礼拝し奉ります。


 あらゆる悪を離れ、あらゆる美徳で飾られ、すべての衆生の唯一無二の友であられる全智者に礼拝して、
 王よ、あなたにダルマが栄えますように、ひたすら善なるダルマを説きましょう。
 ダルマは、あなたのような正しいダルマの器において完成するのでありますから。


◇繁栄と至福の道――信仰と智慧

 先にダルマによる繁栄があるところには、後に至福(解脱)が現れます。繁栄を達成した人は、順次に至福へと向かうのですから。

 繁栄とは幸福であり、至福とは解脱に他ならない、と説かれています。それを達成する道は、要約して言えば、信仰と智慧です。

 信仰があればダルマを受け入れ、智慧が具わるとダルマを真実に理解します。このうち智慧が要であって、信仰はそれに先行します。

 愛欲や嫌悪や恐怖や迷妄のためにダルマに背くということがないならば、その人は信仰ある人である、と知らねばなりません。その人は至福を受ける最上の器であります。
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パドマサンバヴァの秘密の教え(38)「秘密のボーディチッタ」

2010-07-27 20:38:11 | 経典の言葉・聖者の言葉

◎秘密のボーディチッタ


 ツォギャルは師にこう尋ねた。

「秘密のボーディチッタの生起は、どのように訓練したらよいのでしょうか?」

 師はこうお説きになった。

「これには11のポイントがある。

①エッセンス

 秘密のボーディチッタの生起の真髄は、始まりより努力を超えているもの、すなわち思考と形容の制限を越えた不生の原初の純粋性を認識することである。


②定義

 それは、言葉によって示され得ることや、心によって考えられ得ることを超えたところにある故、すべての小乗には当然秘密である。


③分類

 分類すると二つのポジションがある。普遍的な純粋性を非瞑想であると主張することと、自然発生的に現存する本質を非瞑想として、原初から完全であると主張することである。あなたはこれに関してどんな偏りからも自由であるべきである。


④実行者の素質

 これに従事する者の素質としては、心は具体的な現象に疲弊しながらも、最も高い能力を持っていなくてはならない。
 ツォギャルよ、先に述べた訓練を有する者のみ、これが可能である。


⑤あなたがそれを受け取るべき相手

 あなたがそれを受け取るべき師は、ダルマカーヤのただ一つのマンダラを悟り、故に努力のない大楽の大いなる広がりの中に留まっている人であらねばならない。
 ツォギャルよ、これは大いなる完成の意味を悟った師のみが可能である。


⑥受けるための儀式

 受け取るための儀式は、完全なる叡智のためのイニシエーションである。

 あなたの汚れた日常の肉体的行為と同様に、純粋に有徳な行為も捨てなさい。身の行為を完成させた人のようであり続けなさい。

 あなたの汚れた不健全な言葉と同様に、経典や詞章を唱えることもやめなさい。そして口の聞けない人が砂糖を味わっているごとくに留まりなさい。

 あなたの汚れた輪廻的思考活動と同様に、純粋なニルヴァーナ的思考活動も止めなさい。そして心が引き裂かれてしまった人のようにありなさい。

 あなたの師の指示のみによって、あなたは言葉と形容を超えた、あなたの心の原初のダルマカーヤを認識するだろう。

 ツォギャルよ、私のこの口頭での指示は、理解すると同時に解放が起こる教えである。



⑦訓練がもたらすもの

 この訓練の目的は、輪廻を捨てなくてもそれ自体解放されているということであり、その後は煩わしい感情は自発的に叡智として完成されるということである。かくしてそれは、今現在の瞬間に悟りをもたらす本質をもっているのだ。



⑧訓練の理由

 この方法で訓練する理由というのは、あなたは偏見と偏愛から自由になる素質を備えなくてはならないからだ。



⑨訓練しないことによって起こる欠陥

 この道で自分自身を鍛えないことによる危険性は、哲学学派への偏執に陥り、本質的に束縛されるという欠陥を持つことになることだ。

 ツォギャルよ、もしあなたの訓練が宗派的偏執に陥ったならば、それは大いなる完成ではない。



⑩遵守すべきポイント

1.すべての現象の根源は、あなた自身のボーディチッタの完全なる叡智、すなわち不生の原初の純粋性の中にあるということを、唯一の生来の見解として見る。

2.このボーディチッタの完全なる叡智は、観察者や観察の対象としての構造概念は何も持っていないのだから、原初より覚醒しているとして見る。

3.覚醒しているこの状態の中で、どんなタイプの考えや観念が生じても、それは原初より空であり、それ自体が明快な覚醒であると認識する。

4.どんな外側のあらわれが生じても、それらが経験されたその瞬間から、それはどんなアイデンティティも持たず、故にそれはダルマターのあらわれ以外のものではないと認識する。

5.受容や拒否、肯定や否定から自由になり、物事と心の非二元性を本質的な大いなる祝福として経験する。

5.殊に、障害となるすべての感情と苦しみを、悟りへの聖なる道として経験する。

7.経験された瞬間、どんな実在性も持たない故に、輪廻は不生の原初からの純粋性であり、捨てられなくてもよいと認識する。

8.カーヤと智慧として経験されるすべては、あなたの心の中に存在する。故にブッダフッドは勝ち取られるものではない。

 これを実践しなさい。そうすればあなたは栄光のサマンタバドラの継承者となるだろう。



⑪失うことと保持することの境界線、損なわれたときの修復方法

 もともとあなたは過去・現在・未来において、これから決して離れていないのだから、そのような努力は必要ない。」





エピローグ

「ツォギャルよ、私はすべての経典、タントラ、聖なる書物、口頭での教えを、ボーディチッタを生起させるこれら外側、内側、秘密の方法に要約した。

これらを実践せよ!
これらを道に入れよ!
これらを深く心に刻め!
これらの意味と調和してあれ!
これらは大乗の教えの根本である。」


 師はこのようにお説きになった。


 これは「道としてボーディチッタを生起させる教え」と題された、ボーディチッタの大乗の教えである。これはモンカのセンゲ・ゾンで書かれた。



 完結。

 宝の封印をせよ。

 秘密の封印をせよ。

 委託の封印をせよ。

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パドマサンバヴァの秘密の教え(37)「内側のボーディチッタ」

2010-07-26 19:15:11 | 経典の言葉・聖者の言葉


◎内側のボーディチッタ


 ツォギャルは師にこう尋ねた。

「内側の方法でボーディチッタを生起させるとき、どのように訓練したらよいのでしょうか?」


 師はこうお説きになった。

「これについても、訓練のポイントは12ある。

①エッセンス

 そのエッセンスとは、内側の本質、つまり至高の意味においては、概念はまったく無いということに気が付いていない人たちを助けるという意図を生起させることである。


②定義

 身体または言葉による『外側の』行動に依存することがないので、それは『内側』と呼ばれている。なぜなら、それはあなたの心によってのみ発達するからである。


③分類

 二つの分類がある。大志と実践である。
 大志とは、この本質に気がついていない衆生がそれに気づきますようにと願うことである。
 ただ座ってこれをつぶやくだけでは充分ではない。あなたはすべての衆生がそれに気づくようにするための方法に力を注がなくてはならない。それが実践である。
 ツォギャルよ、あなたが二元的な固定観念から解放されない限り、その実践はかなり困難である。


④実践者の資質

 先に述べた説明に加え、この訓練を修習している者の資質は、概念的な考え方を僅かにしか持っていないことである。
 ツォギャルよ、あなたの心をしばし休養させなさい。


⑤あなたがそれを受け取るべき相手

 あなたがそれを受け取るべき師は、三つのタイプの智慧において訓練し、無我の二重の本質に気づいており、故に八つの世俗的関心事から解放されている師からであらねばならない。


⑥受け取るための儀式

 あなた自身を、主体・客体・行為という概念の三領域から解き放ちなさい。
 すべての世俗的な活動への関心を持つのをやめなさい。
 そして口頭の真の教えを求めなさい。


⑦修行の利点

 あなたの意志は、小乗と間違った道の遥か上に上昇するだろう。
 その効果は、利己心と二元の固定観念のすべてを捨てることと、無我の本質に気づくことである。


⑧修行する理由

 ボーディチッタを生起させる内側の方法を訓練する理由は、すべての衆生を真実の道、つまり、二つの無我の本質に確立させるためである。


⑨修行しないことで生じる欠陥

 これを修行しないことの欠陥は、あなたが無我の本質から外れるだろうということである。真理を学ぶことなく心を変えられていない普通の人々や、間違った哲学学派に入った外道にとっては、個人の自我は条件付けられた五蘊、十二処、十八界としてみなされる。その上、この自我を永久であり、具体的であるとみなすことにより、それを友か敵、自分か他人として固定化する。

 ツォギャルよ、この固定化の危険性を根絶しなくてはならないのだ。
 個々の自我といった概念をもつ危険性とは、エゴや自我の実存を認識することによって、対象物が「自分ではない何か」として現われる。この二元性を認識することによって、「自我」に利益となるものを友としてみなし、「自我」を害するものを敵とみなすだろう。かような渇愛と嫌悪の経験により、あなたは様々な種類の悪業を犯してしまう。これらの行為によって、あなたは輪廻をさまようことになるだろう。

 ツォギャルよ、あなたがこの邪悪な精神を駆逐しないうちは、幸せにはなれないだろう。

 どのようなタイプの人がこの自我を放棄できるのだろうか? 一般的には、全ての仏教徒がそれを放棄している。特に声聞は、明確にそれを捨てている。言うまでもなく、大乗の道に入った我々も個々の自我に意識を固定させることを放棄している。

 声聞は部分的には法無我を認識していると言われ、独覚も完全には認識していないとも言われている。すなわち声聞は法無我を理解せず、物事の存在を間違って主張し、独覚は正確な意味を理解することなく、空である心の本質に固着された状態に住している。

 ツォギャルよ、低い哲学学派を信じることから解放されない限りは、真の意味を認識できないだろう。


 現象そのものを概念化させる危険は、そのような主張と固定観念により、混乱した感情を引き起こすことである。これらにより、あなたは輪廻をさまようことになるだろう。たとえ何カルパの間努力したとしても、それは的外れな努力である。

 どのようなタイプの人が法我を放棄するのだろうか? 
 一般的には大乗の道を行く者すべてがそれを捨てている。
 もし秘密マントラの門をくぐった者が、現象の概念化に固着するならば、それは良くない表われである。



⑩守られるべきポイント

 あなたは無我の意義において自身を鍛えるべきである。それには、二通りある。大志と実践である。

 遵守されるべき大志には三つの重要なポイントがあり、以下に述べる。

①『すべての衆生が無我の意味を常に自覚しますように!』と願う大志を途切れることなく形成する。

②他の人が無我に関して瞑想するのを昼に三回、夜に三回、歓喜する訓練をする。

③無我の意味から外れないように常に懸命に訓練する。


 次に、実践に関する守られるべき二つのポイントには、外側と内側がある。

 四つの外側の訓練を以下に述べる。

①あなたがそれを悟るまで、無我の意味を教える師や法友から自分を分離させないようにする。

②住む場所、国、地域、身分、敵、友に関しての偏愛をやめる。

③無我と空を説いている教えを学び、熟考し、瞑想する。

④自分自身を名前、家族、役割、身体などとするアイデンティティを固定させない。


 四つの内なる訓練を以下に述べる

①外側の物事に関するすべてのラベルと名前は、あなたの心の中に何の実在性もないのだから、名前を存在するものとして捉えない。

②世界とその中に存在するものすべては、実体があるように見えるが、実体は何もない。ちょうど夢や魔法のようであることを認識する。

③どんなものであれ何も存在しないのだが、昼間に三回、夜に三回、様々な対象に固定されているその心を捜し出すこと。

④名前に実体はなく、極端さも無いという意味から外れることがないこと。たとえあなたが自分の心を捜しても、何であるかまったく見つからないのだから。


 この方法で勤勉に自分を訓練することが最も大切なのだ。このように努力することで、あなたは悪霊を殲滅し、輪廻から解脱するだろう。



⑪誓いを失うことと保持することの間の境界線

 あなたがあなたの師から口頭で教えを受けた時が、内側のボーディチッタの誓いを得た時なのである。
 それを失うというのは、自我の非実在性を理解せず、通常の二元的な固定観念を追いかける時である。その瞬間にそれは失われるのだから、確実に対抗策を適用しなさい!



⑫損なわれた時の修復方法

 これまで説明してきた趣旨から外れないようにする訓練をしなさい。そうすれば、二元性に固定された結び目は自動的に解かれるだろう。」
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パドマサンバヴァの秘密の教え(36)「十のパーラミター」

2010-07-26 08:47:57 | 経典の言葉・聖者の言葉


十のパーラミター


 三番目に、十のパーラミターの行為を行ずることには5つのテーマがある。

1.全体的なエッセンスは、最上の悟りを得るための道の本質を持つことである。

2.パーラミターの定義は、あなたを輪廻の海の彼岸(パーラム)にある大いなるニルヴァーナに到達(イター)させることである。

3.その機能とは、功徳と智慧の二つの蓄積を完成させ、衆生の幸福を完成させることである。

4.概要と詳細の二つの分類がある。

 概要的分類としてはまず、布施、戒、忍辱、精進、瞑想、智慧の六つのパーラミターがある。

 布施には三つの詳細な種類がある。
①ダルマの教えを説く。
②物質的なものを与える。
③恐怖する者に対して保護を与える。

 戒にも三つのタイプがある。
①間違った行いを控える修習。
②有徳な資質を蓄積する修習。
③衆生に利益を与える修習である。
 つまり、十の悪業を控えることや、六つのパーラミター、そして四摂事によって、これらの修習が遵守される。

 忍辱にも三つのタイプがある。
①輪廻を捨てる時に経験する苦悩に無関心でいる忍辱。
②衆生に利益を与えるために困難を引き受ける忍辱。
③ダルマへの信を保つ忍辱。これは、深遠な本質への恐怖に堪えることを意味する。

 精進にも三つのタイプがある。
①大乗の教えを実践する精進。
②逆境をはね返す鎧兜のような精進。
③全智のブッダフッドを成し遂げるための、一瞬も休む事なき精進。

 瞑想にも三つのタイプがある。
①便宜的・限定的真理に焦点を合わせる瞑想。
②至高の意味の真理に焦点を合わせる瞑想。
③両方に焦点を合わせる全般的な瞑想。

 智慧にも三通りある。
①精神集中を超えて、条件付けられたものを悟る智慧。
②精神集中を超えて、内なる本質を悟る智慧。
③すべての現象は二元を越え、言葉や思考や形容を超えていると悟る智慧。


 この六つのパーラミターをあなたの心の連続体にしっかりと植え付けるためには、さらに四つのパーラミターを完成させなくてはならない。

 見返りを期待しない寛大さによって、物惜しみする性分と貧しさを克服するのは、力のパーラミターである。
 普通の人や小乗の人たちの意図を持つことなく布施をするのは、方便のパーラミターである。
 『すべての衆生の貧しさを、私が救うことができますように!』という考えをもって布施するのは、大志のパーラミターである。
 布施する者・布施の対象・布施の行為という三つの完全な純粋性をもって布施することは、完全なる叡智のパーラミターである。

 同様に、輪廻における結果を望まない修行を通して悪業を殲滅するのは、力のパーラミターである。
 八つの世俗的関心事から離れ、誓いを遵守することは、方便のパーラミターである。
 神々や人間界を自分だけのために欲するのではなく、「すべての衆生の不道徳な行ないが捨断されますように!」と願うことは、大志のパーラミターである。
 戒を守る者・その対象・戒を守ることという三つの非概念化によってそれを悟ることは、智慧のパーラミターである。

 すべての人に対して平等に振舞うことによって怒りを殲滅するのは、力のパーラミターである。
 欺瞞や偽善といった世俗的な目的を持たないことは、方便のパーラミターである。
 自分自身のためだけに神や人間の美しい身体に生まれたいと望まず、「すべての衆生が忍辱によって美しくなりますように!」と願うのは、大志のパーラミターである。
 忍辱する者・その対象・忍辱の行為という三つの非概念化によってそれを悟ることは、完全なる叡智のパーラミターである。

 自己の欠点と高い資質を心に留め、勤勉さで怠惰を殲滅するのは、力のパーラミターである。
 他の人々に信頼されることを期待するような世俗的な目的を持たないのは、方便パーラミターである。
 『すべての生き物達が怠惰を終わらせ、真実の道に励みますように!』と願うのは、大志のパーラミターである。
 精進する者・その対象・精進することの三つの非概念化によってそれを悟ることは、完全なる叡智のパーラミターである。

 無色界にまで至る集中力を通して注意散漫を制するのは、力のパーラミターである。
 神や人間界に対する欲望なしに、無上の悟りの本質を達成するための修行するのは、方便のパーラミターである。
 『すべての衆生の注意散漫が妨げられますように!』と願うのは、大志のパーラミターである。
 瞑想する者・その対象・瞑想することの三つの非概念化によってそれを悟ることは、完全なる叡智のパーラミターである。


 慈悲を伴った空の智慧によって、分別的概念を殲滅することは、力のパーラミターである。
 過去・現在・未来に渡ってそれを堅固にすることは、方便のパーラミターである。
 『私とすべての衆生が至高の意味の真理に気づきますように!』と願うことは、大志のパーラミターである。
 始めからあなたの心の真髄はこの智慧の本質を備えているという事実を認識することは、完全なる叡智のパーラミターである。

 ツォギャルよ、気を逸らすことなく、このように訓練しなさい。



5.十のパーラミターを修習する果報によって、低い領域から解放され、神と人間の特別なレベルに到達することで道を完全にし、速やかにブッダフッドに到達するだろう。その後、衆生を輪廻から解放する偉大な案内人になるだろう。」






⑪ボーディチッタの誓いを失うことと、保持することの境界線

 ボーディチッタの誓いを得た時とは、以下のようである。
 功徳を広く集めたのち、完全に心を純化させることにより、生き物たちの真の幸せを達成しなければならないという思いが起きる。そのとき、適切な儀式によって、ボーディチッタの誓いを得る。

 ボーディチッタの誓いを失う時とは、誤った考え方が起きたり、三宝を放棄するなど、修行に違反する時である。故に警戒を怠らず、注意深く、誠実さを保ちながら努力することが大切なのだ。



⑫損なわれたとき修復する方法

 もしあなたが根本の教えを傷つけた場合、あなたは前に指示されたように誓いを取り戻さなくてはならない。
 もしあなたが枝分の教えを傷つけたならば、あなたはそれを師または三宝の前で告白しなければならない。

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ソース

2010-07-24 21:16:56 | 松川先生のお話




 小さいころのこんな場面を覚えている。家族でレストランに食事に行ったときのこと、ウェイターが、私のズボンに、ソースか何かを少しこぼした。
 ウェイターも、両親も、それに気づいていなかった。そして私は、とっさにそのズボンのシミになった部分を隠したのだ。この出来事を、誰にも悟られないように。
 そのときの私の思いとしては、ただ単純に、これがばれたら、ウェイターさんが恐縮して悪い気持ちになるかもしれないし、私の両親に怒られるかもしれないな、それはかわいそうだ、と思ったのだ。


 それから10年ほどたち、高校生くらいのころ、同じことが起きた。一人で喫茶店にいたとき、店員が、ソースか何かを、私のズボンにこぼした。そして店員は、それに気づいていなかった。
 そのとき私は瞬間的に、
「ちょっと! こぼれましたよ!」
と、その店員に詰め寄った。
 この私の被害を、加害者に主張しなければ!という強い気持ちで。

 店員が恐縮して謝っているのを見て、私の心に、上述の子供のころの思い出がよみがえってきた。そして、
「ああ、私の心はいつの間にか汚れてしまった」と思った(笑)。
 エゴを主張するようになってしまった今の自分より、子供のころのほうがずっと強く、純粋だったと感じた。

 幸い、そのころすでにヨーガや仏教の修行を始めていた私は、これから修行によって、もっと心を浄化して行こうと思った。

 それからさらに20年近く経った。
 私の心は少なくともあの子供のころくらいには戻れただろうか。
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パドマサンバヴァの秘密の教え(35)「十善」

2010-07-24 20:42:33 | 経典の言葉・聖者の言葉
十善

 ツォギャルは師にこう尋ねた。

「対抗策としての十善はどのように修習したらよいのでしょうか?」


 師はこうお説きになった。

「十善には四つがある。

1.身・口・意の純粋な行動は、善趣への再生へと導く。

2.有徳な行為の定義とは、正しい行いがなされるとき、それが幸せの結果を生むという行為のことである。

3.十悪の反対の善を以下に挙げる。
・生き物を助ける
・途方も無く寛大である
・清楚な暮らしを持続する
・誠実に語る
・争いを和解させる
・穏やかに忍耐をもって語る
・意味のあることを語る
・すべての生き物達に慈愛を向ける
・無執着である
・カルマの法則や究極の意味の真理に疑いを持たない。

4.以下に述べることは、あなたの心の連続対の中に善を留まらせる助けとなる。
・真実の教えに信をもつこと
・正しい自尊心と無垢な誠実さを保つこと
・ギャンブルや口論を避けること
・店が並んでいる所を見て回るのを避けること
・常に誠実に行動すること
・怠惰さを取り除くこと
・不道徳な友と交わらないこと
・身・口・意における軽安を訓練すること
・四つの真理の見解を培うこと
・特にあなたの心を、ブッダの道に焦点を当てること


 ツォギャルよ、これらの方法で行為することにより、間違いなく高い領域に生まれる果報を得るだろう。

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パドマサンバヴァの秘密の教え(34)「十悪の捨断」

2010-07-24 06:22:41 | 経典の言葉・聖者の言葉
 ツォギャル師にこう尋ねた。

「これらの行いを捨てたときには、どのような結果が得られるのでしょうか?」


 師はこのようにお説きになった。

「それが成就した果報は、神や人間の世界に生まれるだろう。ブラフマ神のようにあなたの声は美しく、インドラ神のように身体は他の人のよりも美しくなるだろう。そして全世界の王者のように、多くの富を持つだろう。
 あなたは多くの学問を修め、大変な知性を備え、仏陀の法に出会うだろう。究極的には三つのレベルの悟りを得るだろう。
 そして未来の生においても、十悪を捨てることに努力するだろう。」


 ツォギャルは師にこう尋ねた。

「これらの十悪に関して、様々な条件によって悪の深刻さの違いがありますか?」


 師はこうお説きになった。

「その通りだ。違いがある。

 まず、感情に関しての分類がある。

1.怒りから出た十悪を犯すことにより、あなたは地獄の住人に生まれるだろう。

2.愛著から出た悪業によって、あなたは餓鬼に生まれるだろう。

3.迷妄から出た悪業によって、あなたは動物に生まれるだろう。


 対象に関する深刻さにおいても違いがある。

1.優れた対象に向けて十悪を犯した場合は、地獄に生まれるだろう。

2.普通の対象に向けてそれらを犯した場合は、餓鬼に生まれるだろう。

3.劣ったものに向けてそれらを犯した場合は、動物に生まれるだろう。



 とりわけ様々な種類の殺生の中でも、最も深刻な悪業の成就は、ボーディチッタを発達させていた菩薩の生命を奪うことである。

 与えられていないものを盗るという様々な種類の行為の中で最も大きな過ちは、三宝に所属するものを盗むことである。

 性的に間違った様々な種類の行為の中で最も大きな過ちは、解脱者に性行為を強要することである。

 嘘をつく様々な種類の行為の中で最も大きな過ちは、師や、サンガの尊敬すべきメンバーを欺くことである。

 無意味な話をする様々な行為の中で最も大きな過ちは、サンガに分裂を起こさせることである。

 乱暴な言葉を言う様々な行為の中で最も大きな過ちは、サンガのメンバーに対して不快な言葉を発することである。

 無駄話をする様々な行為の中で最も大きな過ちは、出家修行者や非二元の本質を瞑想修行している者の心を乱す行為である。

 様々な愛著の中で最も大きな過ちは、三宝に布施された財宝を欲することである。

 様々な邪悪な意図の中で最も大きな過ちは、五逆の罪を犯す計画を立てることである。

 様々な誤った見解の中で最も大きな過ちは、究極の意味の真理を非難することである。

 ツォギャルよ、あなたはこれらの行為を、あなたの命にかけても犯してはならないのだ。


 また、十悪を以下のように分けることもできる。

1.殺生、不和を生じさせる話、乱暴な言葉、邪悪な意図により、地獄に生まれるだろう。

2.性的に間違った行為をなすこと、与えられてないものを盗ること、貪欲さによって、あなたは餓鬼に生まれるだろう。

3.嘘をつくこと、無駄話、誤った見解を持つことによってあなたは動物に生まれるだろう。
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大きな試練をいただくために

2010-07-23 21:47:54 | 松川先生のお話



 よく、

「私のこの心の汚れ、カルマを浄化してください! そのための苦しみはどんなことでも耐えます!」

と神や仏陀や師に祈る人がいる。

 これは素晴らしいことだ。

 しかしその人を見ていると、日々の小さなことでエゴを出し、小さなことで文句を言い、小さなことで心を動かし、小さなことでプライドを出し、小さなことで嫌悪している。あるいはほんの小さなことでもう真理を見失い、自分を見失ってしまう。

 こんな状態の人に、神・仏陀・師は、「心やカルマを浄化するための試練」を与えるはずがない。与えられないのだ。
 だからそのような人には、「エゴを壊さない程度の小さな試練だけがある、甘い環境」がプレゼントされる。
 彼はそれでも「俺は大きな試練を与えられた!」と感じるかもしれない。何のことはない。彼の心が苦しみを嫌悪しているがゆえに、小さな試練を『大きな試練』と感じているだけのことだ。そのような自己満足の修行からは、あまり多くの進歩は期待できない。



 逆に、真に道を求め、自己を投げ出し、帰依し、自己がまだまだであると謙虚に慚愧し、エゴを超えようと真剣に努力している人には、自然に、「心やカルマを浄化するための大きな試練」が与えられる。

 実際、そのような試練なしには、なかなか本質的な魂の進化は成し遂げられないものなのだが、道を求めていると言いつつ、そのような心構えの準備さえできていない人が多いがゆえに、なかなかそのような祝福は発動されない。

 だからもしそのような試練を望む志のある人がいるならば、まずは日々の小さなことから、エゴを抑え、文句を言わず、心を動かさず、プライドを出さず、嫌悪せず、教え通りに生きる訓練をすることだ。
 そして自己のウィークポイントを認識している人は、それを補うための修行をコツコツとおこなう。
 あるいは全体的に、基礎的な修行をコツコツと固める。
 なぜならそれら日々の修習によって身につけたダルマこそが、自己を浄化する大きな試練という祝福がやってきたときに、それを乗り越えるための大いなる武器となるからだ。

 すべてに偏在し、常に自分をごらんになっている神・仏陀・師に対して、このように日々の小さなことから、コツコツとアピールをするのだ。全力を尽くして、完璧に教え通りに生きるのだ。そしてそのアピールが認められたときに初めて、真に価値ある試練という祝福がやってきて、その人のカルマを浄化してくれるだろう。

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霊的修行について

2010-07-23 16:48:25 | 経典の言葉・聖者の言葉

霊的修行について

ツォクニー・リンポチェ




 われわれは、帰依、発菩提心、無限の慈愛、慈悲、喜、平等心の四無量心の開発から始める。
 しかし、このそれぞれは、相対と究極の様相を持つ。

 相対的帰依は、帰依の対象の中に完全なる信を置くという態度で、われわれの前の空間に帰依の対象を観想することが必要となる。
 究極的帰依は、われわれが帰依の対象と不可分である心の状態の中で安らぐことが必要となる。

 菩提心も同じく、相対と究極の二つの様相がある。
 功徳を差し出し、他者の苦しみを引き受けることが、相対的菩提心の基本である。
 究極的菩提心は、精神的構築物なく、心に形成された何ものもなく、ただとどまることである。

 その後、神の修行、たとえばヴァジュラサットヴァの瞑想が来る。
 その一番最初の修習の方法は、われわれそのものが、ヴァジュラサットヴァの形を持った神であると観想することであり、そして同時に、心の本性を認識することである。
 よって、生成と完成の段階は、同時に存在し、不可分である。
 これは、方便と智慧の合一である。
 マントラを唱えながら、われわれは、光の放射線の放射とその再吸収などの観想を用いて、すべての衆生の幸福を成就する。
 最後にわれわれは、神聖なる神としてすべての視覚を経験し、マントラとしてすべての音を経験し、原初の光り輝く覚醒としてすべての心の動きを経験する。
 しばらくの間、このようにサマーディにとどまりなさい。

 同様に、その見解の中で、しばらくマントラを唱え、寂静に安らぐということを、交互に修習しなさい。
 詠唱に疲れたら、寂静の中にただありのままにありなさい。
 寂静の中にありまのままにあることに疲れたら、マントラの詠唱を続けなさい。
 最後に、功徳を回向し、良き大志、良き願いを作り、そして無条件の献身として寂静の中に安らぎなさい。

 これは伝統的な方法であり、あなたがこの体系で一つのセッションを修習することができるならば、それは素晴らしい。
 一日に一回できれば、とても良い。
 もしそれに慣れたならば、30分より長くはかからないだろう。
 もしわれわれが速度を上げるならば、五分以内におこなうこともできるだろう!
 非常に丁寧に、ゆっくりと修習するならば、容易く二、三時間を費やすだろう。
 一般的に、二、三時間という時間は、一つのセッションに費やすのに良い時間である。
 もしわれわれが、一日に四回、二、三時間のセッションを行うならば、それは、リトリートに入っていると言われる。
 三年間の集中したリトリートの中で、二、三時間のセッションでは短すぎるならば、われわれは、三時間半、あるいは四時間、継続して一つのセッションを修習することができる。
 普通のリトリートの中では、三時間のセッションは十分に長い。



 始めにわれわれは、熱心になる必要がある。
 これについて疑うならば、過去に、他の修行者がいかにして行為したか、いかに修行したか、どれほどの困難なことに取り組んだかが記述された生涯の物語を読みなさい。
 われわれは、カギュー派やニンマ派のラマの生涯から学ぶことができる。

 霊的修行に取り組む二つの方法がある。

 もしあなたが、完全に自由になること、完全なる解脱、完全な悟りを得ることに興味があるなら、急いで、大いなる精進を持って修行しなさい。

 もう一つのアプローチは、ビタミンやダイエットのサプリメントのようなものとして霊的修行をみなすことである。
 あなたが、エネルギーが少ししかないと感じ、あるいは調子が悪いと感じるならば、座って、気分を良くするために、少し修行しなさい。
 われわれは、修行を通じてバランスをとるように試み、そして、その後、普段の活動に戻るのだ。

 これらの方法のうちのどちらに従うかは、われわれ次第である。

 わたしは個人的には、われわれが無力にも輪廻の三つの領域の中に転生する必要がなくなるように、無明をその根っこから排除した方が良いと思う。

 一方もし、過度に苦しむことなく人生を終えたいならば、もしビジネスをして豊かになること、あるいはキャリアにおいて成功することだけでは全く十分でないと感じるならば、われわれは、人生をもう少し美しくするために瞑想の持続が少しばかり必要である。それも結構なことだ。
 それはまるで、われわれの人生をダルマの磨き粉で磨くようなものである!
 ある人々は、この姿勢によって、指導者を信じる。
 彼らは、生活にいくらかの霊的なものが必要であり、完全には物質主義になれないと自分に言い聞かせるのだ。
 このように、ある人々は、われわれの平凡な人生に霊性という艶を与えるために、朝と晩に、少しばかり薬を自分に与えるのだ。
 信頼できる先生は――そう、「師(グル)」ではなく「先生」なのだ――このように教えるだろう。
 先生は、五分の瞑想のセッションで生徒に教えを説く。
 彼らは、より簡単に、より気をそそるように、より趣味にかなうように、霊的修行を行おうとし、人々の態度に合うようにダルマを曲げようとしている。
 それは、真のダルマではない。
 あなたはこの「好都合なダルマ」の類に出くわすかもしれない。
 真実の教えと、このタイプの修行を混同するという過ちを犯してはいけない。

 もちろん正しい方法で、五分間だけ修行することもできる。われわれは五分だけ修習し、われわれが誠実な態度を確立した生粋の、真の方法でそれを行い、真の集中で主要部分を修行し、その後に、真の方法で回向するのだ。
 この場合には、五分間の修行でさえも、正真正銘の真実のものとなる。

 われわれが人生を費やす他の物事はたくさんある。
 もしわれわれがダルマを修習しようとするが、本当には修習しないならば、われわれは、ブッダの教えに害を与えることになる。
 われわれは、ダルマに困惑し、人生をも無駄にすることになる。

 たとえあなたが少しだけ修行するとしても、真の方法、真の見解、真の瞑想、真の行為でそれを行うよう試みなさい。
 たとえ短い間であっても、それを真実に為しなさい。
 そうでなければ、それはやらない方が良い。なぜならばそれは、ただ意味なく自分自身を縛り付けるためにダルマを使っていることになるからだ。
 それは全くの誤った道であり、誤った姿勢である。
 霊的な人を装い、手に数珠をつけることは、無益である。
 それが自然に起こるならば、それは差し支えない。
 われわれが本当にそのようにあるならば、問題はない。
 しかしもし、われわれは瞑想し、霊的であるから、他者から尊敬されたい、もっと高く評価されたいと思っているとしたならば、それは偽りであり、誤った姿勢である。

 われわれが、新入りであろうと、上級の弟子であろうと、常に、決して思い違いをするべきではない。
 もし、他の誰かがわれわれを欺いてきたとしても、それに関しては、われわれにできることはあまりない。
 しかし、思い違いをすることは、非常に悪いことである。そうではないか?
 よって、そのようなことがないようにしなさい。



 真の修行を説く本を利用して、単なるダルマの磨き粉として使ってはならない。
 真の修行は、不明瞭さを切り開き、妄想を明らかにする。
 もう一つのタイプの修行は、困惑した状態に艶を出す。
 後者のタイプの霊的修行は、われわれの欺かれたの状態を、よりきれいに、より心地よく現す。
 ある者は、「これを三週間、一日に二回利用してください。お腹の肉が取れて、5キロ痩せると保障しますよ」と言ってエキサイティングマシーンを宣伝するように、霊的修行を宣伝する。
 同様に、「この日々の修習を、一日にたった五分だけ利用してください、そうすれば、あなたの不明瞭さが明らかになることは保障しますよ!」と言う。
 いい感じではないか。しかしそれは本当に効き目があるのだろうか?
 われわれは、これについて考える必要がある。
 思い違いをしてはいけないよ。

 われわれは、努力し、耐える必要がある。
 飽き飽きしたなら、飽き飽きすればいい。しかし、修行はし続けなさい。
 わたしは、飽き飽きすることは、非常に良いことだと感じる。
 飽きは、前進のためのより良い機会である。
 瞑想修行は、二十秒毎に、われわれの注目を集めるために、新しく、面白いものを映し出すテレビの宣伝のようになものではない。
 何か面白いものは、瞑想の中では、二十秒毎には起こらない!

 また、映画の中でもこの傾向を見ることができる。
 古い映画は、長く、長い会話を含み、そんなに出来事はない。
 昨今の場面は、数秒毎に変化し、非常に多くのアクションがある。
 人々の期待は、そのようになったのだ。
 映画のプロデューサーが、人々の欲していることに応じているのである。

 また、人々は、彼らが見る映画に欺かれているだろう。
 たくさんの若いネパール人は、男も女も、インドやアメリカの映画で描かれる役者に実に影響を受けている。
 彼らはそのように振舞おうとし、そのように着飾ろうなどとする。
 彼らは、模造品になってしまうだろう。
 このタイプの妄想は、相互の依存物であり、両サイドからの要因の一致である。

 われわれに必要なことは、自然な心を持つことだ。困惑されていず、誤解がなく、欺かれていないね。
 われわれは、不明瞭の流れを切り抜けるために、自然で、新鮮で、原初の覚醒の状態が必要だ。
 原初の覚醒は、妄想の経験をバラバラに切り刻む。それによって、それは実体がなくなる。
 また、あなたは、――全く実体のないものである――焼けたロープから作られた結び目として、不明瞭さを見ることもできる。

 悟りの基礎は、精進をそなえた幸福な心である。
 根本において不幸せであったり不安であったりするならば、もっと精進するように試みなさい。

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曼荼羅供養とグルヨーガ、前行について

2010-07-23 14:47:41 | 経典の言葉・聖者の言葉
曼荼羅供養とグルヨーガ、前行について


ツォクニー・リンポチェ



◎吉兆なる秘密の意味

 曼荼羅供養の目的は、エゴへの執着と、「自分」という何かにしがみつく概念的態度の放棄である。
 外、内、最奥の曼荼羅供養を用いて、すべてのものを捨てることは、すべてのタイプの執着を放棄することとなる。
 加えて、功徳の集積は自動的に完全になる。

 最初の曼荼羅供養は、神々の王ブラフマーとインドラが、ダルマを説いてくださるようにブッダに懇願した際に、完全なる悟りに達したブッダを求めて作られた。
 千の黄金の輪と右回りに巻かれた驚くべき希有な白い法螺貝をブッダに捧げることで、彼らは、法輪を転じ、教えを説き始めることをブッダに懇願したのだ。

 その後、チベットの王ティソン・デツェンは、自らの国にブッダのダルマを確立させるために、パドマサンバヴァをチベットに招待した。彼は、供養に添えるように四行の詩を書いた。
 王は、教えの懇願と共に、パドマサンバヴァに曼荼羅の供養をしつつ、供物として、中央チベットの三つの地域すべての王国全土を彼に捧げた。
 王国を供養しながら、王は、われわれが現在でも唱えているこれらの詩を唱えた。

「この土台は、良い香りのする水の芳香で満たされ、花が散りばめべられ、
 スメール山、四つの大陸、太陽、月で飾られる。
 これをブッダの領域だと観想することで、わたしはそれを捧げ奉る。
 それによって、すべての衆生が、その純粋な領域を楽しむだろう。」

 わたしは、ヴァジュラヤーナの教えが、自然で吉兆なかたちで、このように長い時の間、チベットに残ることができたのは、この曼荼羅の供養をした王の、吉兆なる秘密の意味のためであったと聞いた。
 
 その「吉兆なる秘密の意味」の実体とは何か?
 それは、エゴへの執着の完全なる明け渡しからなる。
 それは本質的に、「わたし」や「わたしのもの」として執着されるすべてのものを明け渡すことである、曼荼羅供養の修行についてのものである。

 また別の観点からいうならば、王は、完全に心を開いていたと言えるだろう。
 彼は、彼のものとして執着していたどんなものでも、パドマサンバヴァに捧げた。そして彼はヴァジュラヤーナの教えのために、真の供養の受け手であるグルに、自らを捧げた。
 エゴへの執着を完全に明け渡すことで、王ティソン・デツェンは、チベットに、ヴァジュラヤーナの教えの真の礎を確立した。
 彼の王国全土を捧げることは、信じられないほど勇気ある行為などというものではなかった。
 それは同様に、一時的にエゴへの執着の中に隙間を作る道である。
 もちろん、エゴへの執着は、完全に、永久に、あっという間に消し去られるということはないだろう。それは、厳しい修行によって起こるプロセスである。
 それでも、エゴへの執着の一時的な停止は、本質的に、真に優れたものである。




◎マンダラ供養の目的

 ある人々はこう言うだろう。「あなたは、スメール山、四つの大陸、太陽、月などを、それらは実際に、あなたやわたしのものではないのに、どのようにして捧げるのですか? わたしはどのようにして、それらをあなたに捧げることができるのですか? それらは王ティソン・デツェンのものでもなかったのです。なのに、彼はどのようにしてそれらを捧げたのですか?」
 このように、重箱の隅をつつくように考える必要はない。
 実際のところ、われわれの世界は、われわれに属している。
 われわれが五感を通じて知覚するものすべて、そしてわれわれの心の領域で起こるものすべては、われわれの世界、われわれの人生を構成する。そしてわれわれ自身の経験の内容として、それは、「与えるためにある、われわれもの」である。
 われわれの個人の経験は、他の誰にも属していない。よってわれわれは、われわれの世界として知覚したものすべてを捧げることができる。

 曼荼羅供養の一つの目的は、エゴへの執着を取り除くことである。
 もう一つは、功徳の集積を完成することである。
 与える行為は、与えられるものの供養だけでなく、ものの創造に費やされた努力の供養でもある。
 例えば一つのバターランプを捧げるとき、あなたは、ランプの芯に火を灯す行為だけでなく、同様に、バターや油を手に入れ、器を創り、形作られたその器のための材料を提供するなどの作業も捧げている。
 この原則は、他のタイプの供養にも適用される。
 基本的に、すべてのその取り組みは、功徳を積むものである。

 いくらかの人々は、驚くほどすぐに功徳の概念を理解する。一方その他の人々にとっては、それは理解し難い。
 功徳は、何よりも確実に存在する。
 世界中の他のすべてのもののように、それは、原因と条件によって形作られる。
 すべての現象は、原因と条件によって生じる。
 自主独立性の実体は何も存在しない。
 すべてのものは、原因と条件に依存している。
 例えば、あらゆる物質的なものは、四大元素に依存している。
 特に西洋では、物質性を重要視することで、物質に非常に依存している。
 他のすべてのもののように、功徳は、原因と条件に依存している。
 功徳の集積によって、良い状況は作られるだろう。
 例えば、ダルマと出会い、修行の教えを受けるには、確実で有益な条件を必要とする。これを生じさせるためには、功徳が必要となる。



◎グルヨーガとマンダラ供養の重要性

 曼荼羅供養は、チベットの伝統における前行であるという理由で、非常に深遠なる修行である。
 わたしは個人的には、すべての前行は非常に重要だが、その中でも最も深遠なものは、おそらくグルヨーガと曼荼羅供養であるように感じる。
 それは、他のものが深遠ではないということではない。
 人々はよくわたしのところに来て、このように言う。「わたしは、礼拝、帰依の理由が分かりました。また、ヴァジュラサットヴァの修行の浄化の様相も分かりました。しかし曼荼羅供養をする意味だけが分からず、またグルヨーガも理解できません。」
 この類の発言は、それらの修行が実際にいかに深遠であるかを示している。
 エゴがそれらを受け入れるのは、容易ではないだろう。
 エゴは非常に巧妙で、エゴの土台を壊すあらゆるもの、そしてエゴが執着しているお気に入りの行為が有害だと証明するあらゆるものへの疑念をわれわれに対して持ちたがる。
 これは、全くの真実である。――自分で確かめてみなさい。
 何かがエゴに害を及ぼすときはどんなときでも、エゴは、それに疑念を持たせようとするだろう。
 われわれは最初から、このトリックを認識する必要がある。

 礼拝は、人々にとって理解し易い。
 ある人々はまるで、それを良い身体的なエクササイズであるように見なす。
 彼らはそれらは健康に良いと思っているのだ。

「おお、分かりました。礼拝は、わたしの足腰を強化してくれるのですね。
 瞑想で長い間座って腰が痛くなったら、それを直すために礼拝をやります。
 眠くてやる気がないけれど、礼拝は、怠惰さを切り刻んでくれるのですね。
 帰依は非常に重要なものであると思います。わたしたちが何を為そうとも、わたしたちにはガイダンスの類が必要なのですね。よってわたしたちは、ブッダをわれわれの導き手とし、ダルマを道やテクニックとし、サンガを法友とするのですね。わたしは完璧に帰依を理解しました。 
 そしてヴァジュラサットヴァは、慈悲深き空性の顕現であり、その本性の姿であるのですね。理解しました。マントラを唱え、この物体がわたしに溶け込むと観想するすることで、わたしは、わたし自身についてのあらゆるこの罪悪感は、なくなってしまいました。だからこれは素晴らしいことです。 
 カルマや、あらゆるこれらの事柄は、わたしはよくわかりませんが、気にしません。わたしには、確かにいくらかの心の悩み、いくらかの感情的なパターンがあります。わたしはそれらを浄化しなくてはなりません。それは理にかなっています。」

「しかし、曼荼羅供養、わたしはこれを理解できません。全世界を供養する。――それは、わたしに属してさえいないではないですか。スメール山は存在さえしていないし、七つの大陸が実際に存在しているのに、四つの大陸とは何ですか? そしてなぜ、太陽と月を供養するのですか? それは、ばかげたことです。――本当にむちゃくちゃです。
 そしてその祝福についてのことですが、わたしはそれを受けていません。そしてなぜわたしたちは、結局のところ、わたしたちのように血や肉で作られた体を持つグルに、懇願しなければならないのですか? それに何の意味があるのですか?」

 これらの疑念は、われわれが、「グルヨーガ」や「グル」というものが真に意味することを、真に理解していないから生じるのだ。
 グルとは、ただあなたが出会った特別な人というだけではない。
 グルの本質は、多くの事物に行き渡っている。
 ニルマーナカーヤ、サンボーガカーヤ、ダルマカーヤ、そして本性身であるスヴァバーヴィカカーヤとしてのグルが存在する。
 われわれの生活状況の中に、肉体を持った師として顕現するグル、そしてわれわれの経典としてグルが存在する。
 それから、われわれ自身の本質的な本性であるグルが存在する。
 われわれは、それらの様相のすべてを、グルとして理解するべきである。
 もしあなたが、木から何かを学んだならば、それは、象徴的経験としてのグルである。 
 もしあなたの妻が、あなたに何かをおこない、あなたがそこから何かを学んだならば、あなたの妻は、その状況においてはあなたのグルの顕現である。

 グルヨーガの目的は、根本のグルの祝福と、系統のグルたちの祝福を受けることである。
 自己の本性の自己認識の覚醒における認識と安定性は、生きた師による直接の伝導なしでは起こらない。
 したがって、生きた師と繋がることとグルヨーガを修習することは、重要なエッセンスである。




◎前行が必要な理由

 主要な修行の前に前行が来る理由として、とても良い説明がある。
 すべての前行の一つの様相は、何かをすり潰すためのすりこぎのようであり、あなたの怠惰さを粉砕することを意図している。
 石のすり鉢とすりこぎでアチャール(チベット式ホットソース)を作ることを想像してごらんなさい。
 このアチャールを作る際に、ガーリック、ジンジャー、チリペッパー、スパイスを続けて加え、それらを一緒にすり潰して滑らかなソースにする。
 前行も、それと同じなのだ。
 あなたはまず、すべての怠惰さが消えるまで、礼拝で、そしてヴァジュラサットヴァの修習で、そして曼荼羅供養で、そしてグルヨーガで、怠惰さを粉砕する。
 もしあなたが、効果的で綿密な方法であるそれらの修行を真に通過したならば、怠惰になる余地や、個人的な安楽にしがみつく余地は全くない。

 すべての前行が終わった後、われわれは、瞑想で一時間、五時間、六時間座れるようになっていると気づく。それは本当に、休みを取っているかのように感じる。
 「わたしは以前はこれらの修行が非常に辛かったが、今は全然辛くない。――わたしは何時間も座って瞑想することができる。」
 ――これは、怠惰さを放棄し、完全に克服したからである。

 あなたはそれは、一万回だけ繰り返すだけで十分であると考えるかもしれないが、われわれの伝統では、それぞれを十万回ずつやるのだ。
 この量をこなしたとき、怠惰になることは決してない。
 あなたが本当に辛抱して、本当に自分を駆り立て、多くの努力をしない限り、これらを終わらせることはできないだろう。
 このように、それぞれの修行を十万回ずつやることによって、「怠惰さ」は、戻ってくる勇気をなくすだろう。
 「怠惰さ」は、こう独り言をつぶやくだろう。――「ここにいると、こっぴどくやられちまうだけだ。また戻れば、おそらくまた十万回も叩かれるだろう。ならばこれ以上、この男の周りをうろつくのはやめよう。」
 ――わたしは、ここで冗談を言っているのではないのだよ。
 これは本当に真実なのだ。

 すでに自己認識の覚醒を認識した修行者にとって、前行を行うことは、すべての怠惰さを完全に消滅させ、それによって、何も残らなくなる。
 同時に、それらの修行は、功徳と智慧の集積も完全にし、すべての障害物を取り除く。
 心の本性は、それを不明瞭にするものを取り除く着実なプロセスによって、どんどんあらわにされる。
 このすべては、前行を行うことによって生じる。

 ときどきわれわれは、自分が為していることが無意味だと感じるだろう。
 どれだけ透明に、明敏に、光り輝き、慈悲深くなろうとしても、効き目がない。
 無智とネガティブな感情に、繰り返し支配される。
 これは、単に自己を見つめること以外の修行が必要なときである。
 さまざまな修行によって集積されたすべての功徳は、本行の前に、繰り返して生じる無智を引き起こすものを取り除き、激しい感情的な状態を減少させる。
 これが、実のところ、前行の要点のすべてである。

 前行を通過することによって、あなたは、すでに多くの功徳を集積し、すでに激しい感情を減少させた状態で、本行に臨むことができるだろう。
 その後あなたが、大いなる完成の境地にありのままにあろうとするときに、その状態を自然に、長い間持続させることができるということに気づくだろう。
 リクパを持続することは、もっと容易になるだろう。
 前行は、リクパの修行に取り掛かる上で、非常に効果的で、実際的な方法である。
 感情的な状態は、作られたものである。よって、適した治療法によって、それらを破壊することができるのだ。
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マハームドラー・ウパデーシャ

2010-07-23 07:57:44 | 経典の言葉・聖者の言葉





マハームドラー・ウパデーシャ

――ガンジス河のほとりで、シュリー・ティローパからナーローパに与えられたマハームドラーに関する口述。
 翻訳者チョーキ・ロドゥ・マルパにより、サンスクリット語からチベット語に訳された。




相互に出現した智慧に平伏せん!

マハームドラーは表現することができない。
されどグルに帰依し苦行を全うした汝
苦難を甘受する聡明なナーローパ
我が祝福されし弟子よ
この教えを心に刻み付けるべし。

耳を傾けよ!

世界の本性に目を向ければ
夢幻のごとく無常
されど夢や幻さえありはせぬ
それゆえ、放棄を極め世俗の活動を断念せよ。

召使と親族は放棄すべし
情念と嫌悪の源ゆえに。
森の中に、隠棲のうちに、人里はなれ
一人瞑想に励むべし。
瞑想の不在なる境地にとどまり
無達成を達成すれば、マハームドラーは達成されり。

サンサーラのダルマは狭量なり。
情念と嫌悪の源ゆえに。
人の創造物に実体はなし
それゆえ、究極の実体をたずねるべし
心のダルマは超越せる心の真意を汲むことができない。
行為のダルマは無為の真意を見出すことができない。

超越せる心と無為の実現の達成の後には
心根を断ち切り、意識を赤裸々にとどめよ。
精神活動の汚水を浄化せよ。
だが、幻影を止めようとしてはならぬ。
それ自ら休息するを待つべし。
拒否も受容もあらざれば
マハームドラーのうちに解き放たれる。

密に繁れる木々さえも
その根を断てば、あまたの枝葉は枯れ果てる。
同様に、汝の心の根を断ち切れば
多様な精神活動も衰える。

幾千ものカルパに渡り蓄積された暗闇も
一条のたいまつの光が振り払う。
同様に、輝ける心の瞬時の体験は
不浄なカルマのベールを払う。

これを把握することができない知性の劣る者は
意識を集中し、呼吸に注意を向けよ。
凝視と精神集中の多様な行をもって
自然な休息が訪れるまで心を鍛えるべし。

空間を知覚すれば
中心と境界という固定概念は消滅する。
同様に、心が心を知覚すれば
精神活動はすべてやみ
無思考の状態にとどまるのみ。
至高の菩提心を悟らん。

地上から立ち昇る蒸気は雲となり
空のかなたに消えうせる。
雲の行方も、その消え去るときも
知ることはできない。
同様に、心より生ずる思考の波は
心を知覚するときに消えうせる。

空間には色も形もなく
変化も白黒の色調もない。
同様に、輝く心には、色も形もなく
白黒、善悪の色調もなし。

太陽の無垢にして輝かしき本質を
幾千ものカルパに及ぶ暗闇で翳らすことはできない。
同様に、心の光り輝く本質を
俗世の悠久なるカルパで翳らすことはできない。

空間は、空っぽといわれるが
空間を語ることはできない。
同様に、心は輝くといわれるが
命名は、その存在を明かすことはない。
空間に局所性は微塵もない。
同様に、マハームドラーの心はどこにも宿ることはない。

変わることなく原初の状態にとどまるのみ。
束縛は必ずや解き放たれる。
心の本質は空間の如し。
それゆえ、心が包括しないものはない。

身体の動きはあるがままにくつろがせ
無駄口を慎み、言葉を山彦となし
心を持たず跳躍のダルマを見るべし。

身体は中空の竹、その実体はない。
心は空間の本質、思考の宿る場所はない。
心は緩やかに休ませよ。
とどめても、さまよわせてもならぬ。
心に目的がなければ
それがマハームドラー。
これを成就すれば、至高の悟りが達成される。

心の本質は光輝なり、そこに知覚の対象はない。
瞑想の道が消え去るとき
ブッダの道が見出される。
瞑想の不在を瞑想すれば
至高の覚醒が達成される。

これは数ある見解の王
固定と執着を超越する。
これは数ある瞑想の王
そこにさまよう心はない。
これは数ある行為の王
そこに努力の影もない。
望みと恐れの消えるとき
その目的は達成される。

不生のアーラヤには習慣もベールもない。
心は不生の本質に休ませ
瞑想と瞑想後を区別してはならぬ。
幻影が心のダルマを枯渇させるとき
人はすべての限界から解き放たれ
数ある見解の王となる。

境なく深きは瞑想の至高の王。
努力なる自らあるは行為の至高の王。
望みなく自らあるは成就の至高の王。

初めには、心は荒れ狂う河のごとく
中ほどでは、とうとうと流れるガンジスのごとく
ついには、母と息子と出会いのごとく
あらゆる河川の合流のごとくなり

タントラ、般若心経、ヴィナヤ
あまたの経典や宗教の信者たち――
経本と哲学上の教義を保って学ぶものはすべて
光り輝くマハームドラーを見ることはできない。

欲望なく、心を持たず
自ら沈着し、自らある。
あたかも水面のさざなみのごとく。
その輝かしさにかげりを投げかけるのは
欲望の生起のみ。

サマヤは訓戒を思うときに破られる。
宿ることなく知覚することなく
あるいは、究極より迷い出ることなければ
汝は聖なる行者、暗闇を照らすたいまつとなる。
欲望なく、極端に走ることがなければ
あらゆる教えのダルマを見る。

努めてこれに専心すれば、俗世の牢獄から解き放たれる。
この瞑想に従えば、不浄なカルマのベールは燃え落ちる。
それゆえ、汝は「教義のたいまつ」と呼ばれる。
この教えに帰依しない無智な者でさえ
溺れ続けるサンサーラの河より
汝の力をもって救われる。

生あるものが、あの低い領界で
苦しみを耐え忍ぶのは、哀れなり。
苦しみからの解放を求める者は
賢明なるグルを探すべし。
グルの祝福に抱かれれば
人の心は解き放たれる。

カルマムドラーを求めるならば
歓喜と空の合一の智慧が現われ出でる。
方便と智慧の合一は祝福をもたらす。
それを継続し、曼荼羅を出現させ
身体の隅々にまで到らすべし。
そこに欲望の介入がなければ
歓喜と空の合一が生じる。
白髪なく、長寿を得
月のごとくに満ちてゆく。
輝きを持って、汝の力は完璧なり。
相対的シッディを速やかに達成した後は
絶対的シッディを求めるべし。
マハームドラーに関するこの教えが
祝福されし存在の心に残らんことを。


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バタ足十万回

2010-07-22 06:35:50 | 松川先生のお話
 すべての人は、四六時中、催眠術にかかっている。

 求道者とは、少なくとも、自分は催眠術にかかっているんだろうなと認識している人だ。
 そうでないと単に、「私は求道者」という催眠術にかかっているだけの人になってしまう。

 しかし実際は、道を歩むための実質的スタンスと、このエッセンス的スタンスのバランスが難しい。

 道は二つある。
 大いなる決意によって、バランスをとり続けるか、
 神への自己放棄によって、祝福を受けるかだ。

 その意味では、苦しみも祝福である。
 慢心に陥りやすい我々の無智な心に、
 神は苦難や障害という祝福の冷水をぶっかけてくださる。

 世界をぶっ壊しながら日常生活を生きるには
 大いなる祝福が必要だ。

 世界をぶっ壊すことがないなら
 修行や精神世界に足を踏み入れても、あまり意味はない。

 自分をぶっ壊して、菩薩になれ。
 エゴの道具を卒業して、神の道具になれ。

 人生は短い。
 明日は来るかわからないが、死は必ず来る。

 だから明日を考えず、今日、全部やるのだ。

 なぜなら本当のことを言うと、「今」しかないので
 「あとで」「そのうち」と考える人には、「そのとき」はやってこないのだ。

 よりどころをなくすのが悟りの道であるが
 実際には、「仏陀」「神」「師」「菩提心」などのよりどころは持つべきだ。
 なぜなら、それらなしによりどころをなくすのは、
 泳げない者がいきなり深い海に飛び込むようなものだから。

 また、上記のようなよりどころは、
 実はエゴのよりどころとはならない。
 「仏陀」「神」「師」「菩提心」などのよりどころは、エゴのよりどころの破壊者となる。
 ただし、それらと誠実に、真剣に向き合った場合に限った話ではあるが。

 それらに帰依して修行を続けると、
 あるとき、世界は破壊され、よりどころを失うだろう。
 つまり、足場がなくなるのだ。
 しかし帰依ができていると、
 足場はないが、自分が命綱に守られているということに気がつく。
 つまり、そういうことなのだ。
 その祝福と庇護のもとで、
 「よりどころがないこと」の真の意味を悟るのだ。
 自分がなくなってしまうのに、
 堅固なるものに守られていることに気づくのだ。
 それなしでは駄目なのだ。
 そのとき、君が帰依していたそれらは、
 その本当の顔を見せるだろう。

 君がその無相なる海を自由に泳ぎ回る力をつけたとき、
 そのとき初めて、命綱が不要になる。
 君が皆の、島となるのだ。
 皆の浮き輪となるのだ。
 
 そのために、まずは陸の上で、バタ足の練習から始めよう。
 決して浮き輪やビート板を離さない訓練をしよう。
 そして時が来たら、まずは足がつくプールくらいでもいいので
 大地を蹴って、勇気を持って飛び込め。

 しかし実際は君は怖がるばかりで、飛び込むことはできないだろう。
 でも心配するな。 
 神々や君の師が、突き飛ばしてくれるから(笑)。
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今の瞑想

2010-07-20 18:02:02 | 松川先生のお話

 今、この瞬間に意識を集中する。

 このような瞑想をしてみてください。

 気を抜くと、すぐに心は過去に引きずられます。

 一瞬前も、過去ですから。

 時の流れに心を合わせず、その奥にある不変の真実を発見します。

 一瞬でもそれを発見すると、心は光り輝きます。

 発見したものを持続させるには、集中力が必要です。

 発見された真実は、集中力がないと、すぐに「真実のような姿をした幻影」に姿を変えます。

 集中力というか明晰な意識があればいいのですが、それらを阻害するのが雑念、煩悩です。

 雑念や煩悩の正体こそまさに、「過去に引きずられる心」なのですが。

 あるいは、未来に心引きずられる場合もありますが、正確にはこれは、未来ではありません。未来をイメージさせるような過去の情報に心を引きずられているだけです。

 真の未来は、今この瞬間に集中することでしか、現われません。

 まあ、それも今の瞬間の連続にすぎないので、未来といえるかどうかわかりませんが。

 さあ、今この瞬間に集中しましょう。

 成功すると、心は光り輝き、身体は歓喜に満ち、悩みや不安や妄想は消えます。

 しかしそれを現出させる、そして持続させるためには、簡単にいうと集中力が必要なのです。

 集中力の極限状態をサマーディといいます。

 簡単にいうと、仏教やヨーガの一つの理想は、24時間、サマーディに入れということなのです。

 それができたなら、その人がどのような職業に就き、何をしていようとも、その人は聖者です。

 それができたなら、修行さえいりません。
 でもできないので、修行が必要です。

 真実への集中力を阻害する「心の幻影」を物理的に打ち砕くために、ヨーガなどの修行が有効です。

 光を強め、雑念を除くために、カルマの法則にのっとった「正しい生き方」が必要です。

 そして慈愛の心を育てることは、実は最も有効です。

 さあ、小さなことにとらわれず、
 自分がもともと持っていた、あの無限の心を取り戻しましょう。
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パドマサンバヴァの秘密の教え(33)「三つの精神的な悪徳」

2010-07-19 06:20:15 | 経典の言葉・聖者の言葉


 三番目には、三つの精神的な悪徳がある。

☆愛著

 最初は愛著である。これは喜ばしい対象への執着である。

 分類すると以下のタイプがある。

1.あなたの所有物を与えることをためらう。

2.他人の所有物を自分の物にしたいと望む。

3.自分のものでも他人の物でもない物だが、素晴らしい物に執着する。

 ツォギャルよ、物質的なものに対して所有者であろうとすることに執着するな。
 ダルマの実践者で非永続性を理解しない者には幸せはないのだ。




 この行為は四つの完成させる条件によって完成し、以下の三つの結果となる。

1.成就の結果は、三つの低い領域に生まれるということだ。

2.たとえ人間に生まれたとしても、常に飢餓と渇きに苦しむ不快なところに住まうことになる。

3.未来の生においても貪欲さを楽しむであろう。

 ツォギャルよ、故にこれらの行動を捨てることが大切なのだ。




☆邪悪な意図

 二番目の精神的悪徳とは、邪悪な意図のことであるが、つまり敵意ある態度のことである。
 分類すると以下のようになる。

1.怒りから発する邪悪な意図

2.憤慨から発する邪悪な意図

3.嫉妬から発する邪悪な意図

 ツォギャルよ、自分と他人を傷つける精神的な行為をなしてはならない。
 この行為は四つの完成させる条件によって完成し、以下の三つの結果となる。

1.成就の結果は、三つの低い領域に生まれるということだ。

2.たとえ人間に生まれたとしても、他者はあなたに不当な敵意を持ち、あなたは常に敵に会い、訴訟沙汰を経験するだろう。

3.未来の生においても悪意のある気持ちを起こすだろう。

 ツォギャルよ、もしあなたが邪悪な意図を止めないなら、小乗も大乗もどちらも行ずることはできない。




☆誤った見解

 三番目の精神的な悪徳は、誤った見解である。

 分類すると以下のようになる。


1.永続性や虚無主義といった、真理と反する信条を持つ誤った見解

2.間違った霊的な行や儀式を最重要とする間違った見解

3.五蘊は自分であると信じる誤った見解


 ツォギャルよ、法と非法の違いを理解する人はほとんどいない。

 この行為は四つの完成させる条件によって完成し、以下の三つの結果となる。

1.成就の結果は、三つの低い領域に生まれるということだ。

2.たとえ人間に生まれたとしても、未開の偏狭の部族のいるようなところに生まれるだろう。そこでは三宝という名さえ聞かないだろう。

3.誤った見解をもつ習慣的傾向がすべての見地において強固となり、未来においても間違った見解を好むようになるだろう。



 ツォギャルよ、高貴な人はすべてこれらの十悪を非難し、これらを正しく学んだすべての人は、これらを捨てるのだ。これらは、特別な華麗さや神と人間の富を手にいれようと求める人でさえも犯さないのだ。ゆえにこれらを捨てなさい。
 善と悪を識別せずに仏陀の教えに入っている人は大勢いる。善なる行為と間違った行為の果報をよく知っていながら悪しき行いを犯すことは、動物と何ら異ならない。

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ヨーガ講習会のお知らせ

2010-07-17 06:35:54 | お知らせ


 以下の日程で、出張ヨーガ講習会を開催いたします。

 参加希望の方は、お早めにメールでご連絡ください。

 皆様のご参加を心よりお待ちしております。


 ※神奈川・東京・札幌・大阪の方は、教室がありますので、そちらにお越しください。詳細はメールでお問い合わせください。







7月18日(日)13:00~16:00
☆場所:京の山杣人工房「空」
JR京都駅から徒歩5分 下京区総合庁舎となり
http://somabitoqo.exblog.jp/i11/


7月25日(日)12:30~15:30
☆場所:愛媛県松山市・Lスタジオ
伊予鉄城南線勝山町駅から徒歩3分
http://www.chaikuro.net/rentalspace/l_studio.php?catid=16


8月1日(日)13:30~16:30
☆場所:新潟市民芸術文化会館りゅーとぴあ・第五練習室
JR白山駅から徒歩10分
http://www.ryutopia.or.jp/access.html


8月22日(日)12:30~15:30
☆場所:仙台・スタジオカラコル
JR仙台駅から徒歩10分
http://www.chiaki-walk.com/caracol.html






☆詳細-----------------------------------------------------------------------------------



☆参加費:3000円


☆内容:クンダリニー・ヨーガ、ハタ・ヨーガ、ラージャ・ヨーガなどの各種行法実践と講義。
    初心者の方でも問題ありません。お気軽にご参加ください。

☆定員:3名~20名
    ※参加希望者が定員に達しなかった場合、中止になる場合もありますので、ご了承ください。

☆予定しているメニュー:アーサナ(気を調える体操)
            気功(気を充実させる内気功)
            プラーナ―ヤーマ(各種の呼吸法)
            ムドラー(覚醒の技法)
            マントラ
            瞑想
            講義
 
☆持ち物:動きやすい服装
     ヨガマット、または大きめのバスタオルなど(床に横になるときに下に敷けるもの)。

☆申込先:℡またはメールでお申し込みください。



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