ヨーガスクール・カイラス blog

True Yoga, to meet the true self.

アーサナ・呼吸法・瞑想

2010-05-29 22:24:30 | 松川先生のお話
 ①アーサナ
 ②プラーナーヤーマ
 ③瞑想

 ヨーガの三本柱ともいえるこの三つはそれぞれが互いに合い補い合う形で成立している。

 アーサナは主に身体の気道を通し、骨格を正常に戻し、内臓を浄化・強化し、神経の働きを正常化し、代謝を正常化し・・・と、あげればきりがないが、身体を本来の超健康状態に戻していく働きがある。そして自らの身体を理解し、コントロールしていく。

 プラーナーヤーマは、呼吸を深くゆったりと安定したものにし、気の流れを整え、気道を通し、生命力を強め、清浄にしていく。そしてエネルギーのコントロールを進めていく。

 瞑想は、心を清浄で透明で広大なものにしていく。そして自らの心の性質を理解し、心の仕組みを理解し、コントロールできるようにしていく。そして最後には心の本質そのものを理解する。

 
 アーサナはただの体操ではない。体の動きとともに行なう呼吸が重要である。よってプラーナーヤーマで正しい呼吸の仕方が十分にできていないと、十分にアーサナの効果を得ることは難しい。
 また、瞑想によって心の安定や観察力が身についていないと、アーサナ中に自分の身体を観察し、コントロールするというプロセスができない。

 次に、アーサナによって骨格や身体のゆがみが正常化されないと、十分な呼吸をすることはできないし、また、正常で深く十分な呼吸をするための姿勢をとることも難しくなる。
 そして瞑想により心の安定と集中力が得られることで、十分に気の修練を進めることができる。

 次に、アーサナがしっかりできていないと、正しい瞑想姿勢をとることができないので、身体のエネルギーシステムが正常に作動せず、深い瞑想に入りにくい。
 そして呼吸法によって呼吸の深さ、安定、エネルギーの流れの安定等が得られないと、やはり深い瞑想に入るのは難しい。

 
 この三つに関しては、普通は、アーサナ→プラーナーヤーマ→瞑想といった順番で段階的に進められる。
 しかし私は、少なくともアーサナと初歩的なプラーナーヤーマは同時に始めるべきだと思う。そしてもしどちらかを優先するとしたら、プラーナーヤーマを優先させるべきだと思います。

 そしてある程度それらが修習されたら、瞑想を加え、この三つをすべて欠けなく平行して進めるべきだと思います。

 そして徐々にその比重は、瞑想に重きが置かれ、アーサナは初歩に比べたら比重が少なくなっていきます。
 ある人は、途中でアーサナは熟れ落ちるでしょう。つまりその人の目的にとってアーサナは必要なくなるときがきます。
 もちろん、そうではなくてアーサナを特に極めたいという人は、アーサナをずっと中心に置くのも、それはそれでよいでしょう。
 あるいはアーサナ・プラーナーヤーマ・瞑想をずっとバランスよく行ない続けたいなら、それはそれですばらしいと思います。

 プラーナーヤーマは、アーサナに比重を置く場合も、瞑想に比重を置く場合も、あるいは三つをバランスよくに進める場合も、ある程度コンスタントに修習し続けるのがよいと思います。
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帰依・慈悲・悟り

2010-05-29 11:15:09 | 松川先生のお話



 ①ブッダや聖者や神々への信仰と帰依
 ②衆生への慈悲と救済
 ③自分自身の解脱・悟り

 この三つはそれぞれが互いに補い合う形で成立しており、単独での成立はありえない。

 まず、ブッダや聖者や神々が望んでいらっしゃるのは、我々自身の解脱・悟りと、我々が衆生に慈悲を持ち、救済することである。 
 よって、いかに言葉で、信仰だ、帰依だといっても、実際に我々が解脱し、悟り、衆生に慈悲を持ち、救済する実践をしない限り、それは本当の信仰や帰依の実践とはならない。

 次に、我々は我々自身が解脱・悟りを得ない限り、本当の意味で衆生を救うことは出来ない。
 また、信仰や帰依によってブッダや聖者や神々の祝福を得ない限り、本当の意味で衆生を救う力を得ることは出来ない。

 そして、我々は信仰や帰依による祝福無しに、解脱・悟りを得ることは出来ない。
 また、慈悲や衆生救済の実践による心の成熟・拡大がないと、初歩的な解脱・悟りは得られるが、高度な解脱・悟りの達成はできない。

 よってこの三つはすべて欠けなく平行して進めるべきなのである。
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パドマサンバヴァの秘密の教え(18)「帰依の誓い」

2010-05-29 10:28:03 | 経典の言葉・聖者の言葉



◎帰依の誓い


 ツォギャルは、ニルマーナカーヤの師パドマカラにこう尋ねた。

「帰依の誓いはどのようにするのでしょうか?」

 師はこうお答えになられた。

「グルに礼拝し、グルの周りを回り、グルに花を捧げ、次のように言うべきであ

る。

『グルよ、わたしの言葉をお聞きください。
 十方の諸々のブッダおよび菩薩方よ、私の言葉をお聞きください。
 今この瞬間から、最上の悟りに到達するまで、
 わたし○○は、
 真に完成されたダルマカーヤのブッダ方であられる、
 最上の方々に帰依し奉ります。

 わたしは、大乗の教えであり、執着を取り除く、
 すべての平穏の中の最上であるダルマに帰依し奉ります。

 わたしは、不退転で崇高なる菩薩方のサンガである、
 すべての集いの中の最上であるものに帰依し奉ります。』


 これを三度復唱することで、あなたは帰依の誓いを得るだろう。

 礼拝し、花をまき散らしなさい。

 そして今まで述べた修行を修習し、帰依に努めなさい。

 これが、帰依の外の方法の説明である。」

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教えを修習する方法

2010-05-26 16:51:55 | 経典の言葉・聖者の言葉
教えを修習する方法

パトゥル・リンポチェ



 スートラにはこう述べられている。

「尊敬すべき息子よ、
 自分自身を病人と考え、
 教えを薬と考え、
 グルを賢い医師と考え、
 ひたむきな修行を治療と考えなさい。」


 あなたは深刻な病にかかったのだと想像しなさい。
 あなたは、すぐに腕の良い医師の下へと行くだろう。
 医師の指示に従って、あなたは、すべてのエネルギーを病を和らげるために向けながら、彼の処方する薬を慎重にとるだろう。

 ところで、自我は病人のようである。
 無始の過去から、それは、愛著、嫌悪、迷妄の毒によって生じる苦難によって苦しめられ、苦しみの大海を流転してきた。

 師は、腕の良い医師である。
 苦しみ、煩悩、カルマという病からの解放を見つけるために、あなたは素晴らしい教えという薬を飲み、師に教えられたことに基づいて行動しなければならない。

 たとえ師に頼ったとしても、もしあなたが師の指示に従って修行しないならば、あなたはまるで医師のアドヴァイスを聞かない病人のようであから、救われないだろう。
 もし素晴らしい教えという薬を「修行の実行」としてとらなければ、あなたは、枕元に使われないままになっている無数の処方薬を置き忘れている病人のようである。彼は癒されないであろう。

 今日、師の下へ行く人々、「大慈悲を持ってわたしをじっと見てください!」と師に泣きついて懇願する偉大な思いを持つ人々がいる。
 しかし、彼らは師に出会ってからもずっと、不健全な行為を蓄積し続けている。彼らは、自分たちは何もしなくても師の慈悲が彼らを拾い上げ、純粋な領域に石のように投げ込んでくれるだろうと考えている。
 彼らは、彼らの為した行為の果報から逃げられると思っているのだ。
 しかし、師の慈悲にすがるということは、師が、大いなる慈愛から、あなたにかかわるということを意味する。
 彼は、深遠なる教えをあなたに説くだろう。
 彼は、着手されるべきものと放棄されるべきものを説明するだろう。
 彼は、勝利者の言葉に従って、解脱の道を説くだろう。
 これよりどんな慈悲深いことがあるだろうか?
 さあ、そのような慈悲に出会ったのだから、あなたが解脱の道を進もうと進まないと、それはただあなた次第である。

 あなたが幸運な人間の存在を得たのだということを心に留めておきなさい。
 あなたは、為されるべきことのエッセンスを知っている。
 あなたは、行動するための能力を持っている。
 今のこのまさに瞬間は、幸福へ続く道と不幸へ続く道の狭間の境界である。
 ひとたびあなたが師の指示に従って修行に着手したならば、それはあなたが輪廻に結びつけられるか、ニルヴァーナに解脱するかという分かれ道においての、大きなアプローチとなるのである。

 あなたが死体となったそのときに、善趣への上昇と悪趣への下降の境界線にいるあなたは、馬のように素早くどちらかに引っ張られる。
 もしあなたが生きている間に十分に真理の道を修習しなかったならば、あなたは荒々しく過激なカルマの風によって背後から追いやられ、恐るべき黒い無明によって歓迎されるだろう。
 長く狭いバルドの通路に無理やり押し込まれ、気が付くとあなたは、「殴るぞ! 殴るぞ! 殺すぞ! 殺すぞ!」と叫びながらあなたを追いかけてくる、想像を絶する恐ろしさの死の王と向かい合っている。
 逃げたり隠れたりするあらゆる場所、あらゆる拠り所はなく、希望は消えたのだ。
 この完全なる恐怖の状態で、上昇と下降の境界はやってくるだろう。


 ウッディーヤナの偉大なる師は、こうおっしゃった。

「イニシエーションが死体に与えられても
 それはすでに遅すぎる。
 彼の意識はすでに、狂った犬のように、
 中間状態の中でさまよっている。
 存在の良い状態を思い出すには、
 彼は非常に難しいときにあるのだ。」

 本当に、その境界線は、馬のように素早く渡られる。
 しかしこの境界線は、生きているまさにこの状態の今、ここにあるのだ!

 あなたが人間の身体を得たときに、上昇に向かい、健全な行為を今成就することは、そのような行為を人間以外の他の存在の状態のときに為すよりも、偉大な力となるのだ。
 しかしあなたは、不健全で、下降に向かう行為を集積してしまう大いなる能力も同様に持っている。そのように為すことは、確実に最悪の存在の深みに束縛される因となるだろう。
 よって、このチャンスを逃してはならない。

 博学な医師のような師、そして死をも癒す甘露のような素晴らしきに教えに出会ったのだから、あなたが学んだその教えを実践しなさい。
 
 今日、修行しなさい。――解脱への道を進むのだ!
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◎シャーンバヴィー・ムドラー

2010-05-25 11:05:13 | シャンバラ・ヨーガ 実践編
◎シャーンバヴィー・ムドラー


①目を開けた状態で、心を心臓に集中する。目は開いてはいるが、そこに映るものには心を向けない。できるだけまばたきもしない。

②しばらくして疲れたら、眼をつぶって瞑想してもよい。

 


◎プラーナ・アパーナ・ブラフマ瞑想


①鼻の穴の奥の方、喉ちんこの上の方、つまり脳の真下の空間にわざと引っかけるようにして、かすかな呼吸音を出しながら、ゆっくりと呼吸する。その呼吸音とその空間に意識を集中する。

②しばらくして、ぼんやりとした光が見えてきたら、呼吸への集中をやめ、その光に集中する。光が見えないうちは、①のプロセスを続ける。

③光に集中している間に、煩悩的あるいは日常的なヴィジョンが見えてきたら、教えに基づいた思索によってその無意味さやデメリットを考えることによって、そのヴィジョンを消す。つまりこの瞑想をおこなうには、しっかりと正しい教学ができていることが前提である。

④煩悩的・日常的ヴィジョンが消えたら、思索をやめ、再び無思考状態で光に集中し続ける。
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真っ裸

2010-05-24 11:21:54 | 松川先生のお話



 人は真っ裸で生まれ、すべてを置いてこの世を去る。
 この世に私のものは一つもない。
 だから何にも執着しないほうが良い。

 表面上、何かを得ているような錯覚に陥ったとき、人はそれを失うことを恐れる。
 
 死のときにすべてを失うのに、あくなき欲望を追求する。

 そしてそれら欲望・執着の裏側にある排斥・嫌悪により、人は実体のない「敵」を作り、自らを苦しめる。


 希少な確率でちょっと出会ったに過ぎない、そして死とともにいつ再び会えるかわからない、この世の友。 
 彼らを憎むのも、愛着するのも、ばかばかしいことだ。
 すぐに永遠の別れがやってくる相手に愛着する意味があるのだろうか。
 すぐに永遠の別れがやってくる相手を憎む意味があるのだろうか。
 この短い人生の中で、愛着なき慈愛をともに持つことが、真に正しいことだ。
 それが我々の「出会い」に最もふさわしい。
 ともに自己と他者の心・魂の向上を願い、そのために生き、死が来たらとらわれを残さずに、行くべきところに行こう。
 縁があったらまたどこかの生で会おう。
 願わくばいつか皆で、ブッダの世界で会おう。
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パドマサンバヴァの秘密の教え(17)「帰依の修行法」

2010-05-18 10:59:32 | 経典の言葉・聖者の言葉

◎帰依の修行法

 ツォギャルは再び師に尋ねた。

「帰依の修行の実際の実践は、どのように行うのですか?」


 師はこうお答えになった。

「まず最初に、心において、次のような強い願望を生じさせなさい。

『私は、一切の衆生を、完全なる悟りの境地に安住させよう。
 そのために、私は功徳と智慧を集積し、無明を浄化し、障害を取り除こう!
 そのために、私はまさに今この瞬間から、最上の悟りに達するまで、帰依をしよう!』

 それから、次のように三回唱えなさい。

『すべての衆生の中の最上者である、十方のブッダ方に、
 私およびすべての衆生は、まさに今この瞬間から
 最上の悟りに達するまで、帰依し奉ります!

 執着を取り除き、すべての平穏なるものの中の最上である真理のダルマに、
 私およびすべての衆生は、まさに今この瞬間から
 最上の悟りに達するまで、帰依し奉ります!

 すべての集いの中で最上である、不退転で崇高なるサンガに、
 私およびすべての衆生は、まさに今この瞬間から
 最上の悟りに達するまで、帰依し奉ります!」


 それに続いて、次のように何度も繰り返しなさい。

『ブッダに帰依し奉ります。
 ダルマに帰依し奉ります。
 サンガに帰依し奉ります。』


 次に、この懇願を三度唱えなさい。

『三宝よ、この人生への恐れから私を保護してください。
 悪趣の恐れから私を保護してください。
 邪悪な道へ入ることから私を保護してください!』


 最後に、こう唱えなさい。

『私のこの善根によって、衆生の利益のために、ブッダフッドに到達しますように!』


 このようにして、帰依の修行をすべきである。」
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懺悔と称賛

2010-05-17 19:31:53 | 松川先生のお話




 自分の悪い部分、あるいは過去の過ち、そういった部分は、ごまかさずにはっきりと認識し、懺悔すべきですね。
 懺悔というのは神や仏陀などに対して告白し、浄化を願い、そして生まれ変わることを決意し、そして浄化されたという確信を持ちます。

 そしてそれだけではなく、バランスをとるために、自分の中の良い部分に関して、自分で自分を称賛してあげるとよいでしょう。


 自分の悪い部分は覆い隠し、あるいは卑屈になる。そして良い部分に関してはひねくれて認められない。あるいは傲慢になる。これではいけません。

 悪い部分は悪いとはっきりと認め、懺悔する。良い部分は良いと素直に認め、自己を称賛する。しかしそこで止まらずに、より高みを目指して努力する。
 これらは簡単なことですが、なかなか実践は難しいですね。しかしこのようにするなら利益は大きいと思います。

 そしてこれができると、他人に対しても寛容になれます。そして他者の良い点を称賛し、学べるようになってきます。

 他人を許せないとか、称賛できないとか、嫉妬や憎しみを持ってしまう場合、それ以前に自分に対しての認識がひねくれていたり間違っていることが多いものです。その場合はまずは懺悔、そして称賛を自分に対して行なうことで、自分に対して素直に認める状態を作り、それによって他者をも認めることができるようになります。

 他人のことがやたらうらやましく見え、逆に自分に対して卑屈になる。
 あるいは、他人の悪い部分ばかりが目に付き、逆に自分に対して傲慢になる。
 このどちらも、不正確で、不利益なものの見方です。

 自分も他人も、多くの良い部分と、多くの悪い部分を持っています。そういう意味では比較はナンセンスです。まず自己を見つめ、自己への正確で素直な懺悔と称賛を繰り返す。それによってつくられた素直な心で、他人への寛容さと、称賛の心を訓練する。それはとても利益のある生き方だと思います。


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自己正当化ではなく、何を学べるか

2010-05-17 07:28:54 | 松川先生のお話



 人は常に、無意識のうちに、「いかに自己正当化するか」という方向に思考を持っていきやすい。

 特にそれは何かトラブったとき、苦境に陥ったとき、自己の安定状態がかき乱されたりしたときなどに、その傾向が出やすい。普段は非常に冷静で自分を客観視できる人も、そのようなときには「自己正当化」の罠に陥りやすい。
 この自己正当化の罠は、非常に巧妙だ。知性が高い人ほど、自分で自分をだましてしまう。もっともらしい理由をつけて、自己正当化し、エゴを被害から守ってしまう。

 常に心がけるべきなのは、「いかに自己を正当化するか」「いかに自己を守るか」ではなく、「この現象から何を学べるか」という発想ではないかと思う。 
 それによって自己(エゴ)が傷ついたり壊れたりするなら、それでいいじゃないか。すべては何かを学ぶために、魂の成長のために、神の愛としてこの人生があるなら、積極的に「ここで何を学べるか」という発想を常に適用すべきだ。

 エゴが破壊されるということは、苦しみが破壊されるということであり、また心や智慧が広がるということだ。学びを得、苦しみが減り、心と智慧が広がる。こんなすばらしいことはない。

 だから実体のない自己を守る方向に心を使わず、「何を学べるか」という人生の本義に常に集中すべきだ。そのようにして形成されていく自己こそ、価値ある自己だと思うよ。少なくとも今あなたが守ろうとしているその自己よりも。

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◎グルのディヤーナ

2010-05-17 06:19:28 | シャンバラ・ヨーガ 実践編

◎グルのディヤーナ


①自分の頭頂に、千の花弁を持つ蓮華があると観想する。これがサハスラーラ・チャクラである。

②その千花弁の蓮華の花心の上に、十二の花弁を持つ小さな蓮華がついていると観想する。

③その小蓮華は白く光り輝いている。そしてその小蓮華の花心の上に三角形があり、その三角形の中央に聖音オームが鎮座している。

④そのオームのビンドゥ(丸い点)の上に、二羽の白鳥と、一対のサンダルがあると観想する。

⑤そこに自分のグルと同一であるシヴァ神が、三つの眼を持ち、真っ白い衣を着て、真っ白い花の花輪を首にかけた姿でましますのを観想する。

⑥そしてグルの左側に、シャクティー女神が寄り添っているのを観想する。
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パドマサンバヴァの秘密の教え(16)「帰依の八つの良い特質」

2010-05-15 22:08:26 | 経典の言葉・聖者の言葉
◎帰依の八つの良い特質

 ツォギャルは師にこう尋ねた。

「帰依によって、どのような良い特質が生じるのでしょうか?」


 師はこうお答えになった

「帰依には、次の八つの良い特質がある。


1.仏教徒となる。
 三宝に帰依することで、仏教徒と呼ばれる。


2.解脱などのようなすべての誓いにふさわしい器になる。
 逆に、帰依の誓いを失えば、その上に基づいた誓いもすべて破壊されると言われている。
 さらに、一日だけの戒律から、秘密真言の誓いに至るまで、あらゆる誓いの前に、帰依をする必要がある。
 したがって帰依は、あらゆる種類の誓いにふさわしい土台をもたらすものとして知られている。


3.三宝への帰依の誓いは、過去生から蓄積されてきたカルマの闇を減少させ、終わらせる。
 一般的な帰依によってカルマの闇が減少し、特別な帰依によってカルマの闇は完全に尽きるであろう。
 また、帰依の純粋な思いがあなたの中に生じたとき、カルマの闇は徐々に現象化していき、後には完全に終わる。
 また、歩いているときも、立っているときも、横になっているときも、座っているときも、いつでも帰依の思いを持ち続けるならば、カルマの闇は完全に尽きるだろう。
 


4.膨大な功徳を有する。
 長生き、健康、壮麗で威厳のある品格、大いなる富などという現世的な功徳は、帰依に起因する。
 そして俗世間を超越した無上の悟りも、同様に帰依に起因する。



5.帰依によってあなたは、人間および人間以外の存在による攻撃の影響を受けず、この人生の障害の影響を受けなくなるだろう。
 あなたの中に純粋な帰依が生じるや否や、ナーガや悪霊のような人間以外の存在によっても傷つけられることはない。



6.帰依によってあなたは、あなたの望むものすべての成就を得るだろう。
 あなたの中に純粋な帰依が生じたとき、意志するものすべては達成され、あなたは望むものすべてを受け取るだろう。



7、帰依によってあなたは、悪趣、有害な運命、あるいは邪悪な道に落ちないであろう。
 『悪趣』とは、地獄・餓鬼・動物の世界を指す。
 『有害な運命』とは、野蛮な種族のような、真理のない場所に転生することを指す。
 『邪悪な道』とは、誤った宗教や修行のことを指す。




8.帰依は最終的に、速やかに完全なる真の悟りに導く。
 帰依によって、この一つの身体と人生の中で悟りに到達することができることが、秘密真言の大乗の教えの中で述べられている。
 これは、疑念がないならば、速やかに悟りに到達するだろうということを意味する。
 したがって、時々帰依するだけで十分であると考える誤謬を断ち切ることが必要なのである。
 昼夜絶え間なく、何度も何度も帰依の思いを呼び起こすべきである。
 それによって、確実に速やかに、完全なる真の悟りに到達するであろう。


 帰依に努めるならば、多くの教えを実践する必要はない。
 純粋な帰依によって、悟りに到達することは疑いない。」
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神のディヤーナ

2010-05-15 17:14:11 | シャンバラ・ヨーガ 実践編


◎神のディヤーナ


①自分の心臓の中に、アムリタ(不死の甘露)の海があると観想する。

②その大海の真ん中に、高貴な宝石の砂でできた島がある。

③その島には美しい花をつけた木々が生い茂り、それらの花の香りが立ちこめている。蜂がうなり、鳥が歌っている。

④この島の中央に、神聖な樹があると観想し、その樹の前に、宝石造りの聖堂を観想する。

⑤この聖堂の中央には素晴らしい椅子があり、その椅子の上に、自分を守り導いてくださっている神が座っていると観想する。

⑥そしてこの神の姿はどのようなものか、装身具や服や持ち物はどうなっているか、などと絶えず観想し続ける。
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新刊案内「真理の手紙 下」「至高者の詩 Ⅳ」

2010-05-15 11:28:51 | お知らせ
新刊案内です。


「真理の手紙 下」

 大乗仏教哲学の祖ともいえるナーガールジュナが、友人である王様に宛てた手紙「スフリッレーカ」の解説の下巻です。仏教の全体像が簡潔な言葉でわかりやすく解説されています。


「至高者の詩 Ⅳ」

 「バガヴァッド・ギーター」を松川慧照が解説した大好評のシリーズ、いよいよ最終巻です。



 各1000円です。遠方の方は郵送もいたしますので、お気軽にお問い合わせください。
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生きているうちに

2010-05-15 09:56:15 | 松川先生のお話
 中沢新一氏の師匠であるケツン・サンポ師の伝記「知恵の遥かな頂」はなかなか面白い本ですが、その中で個人的にとても心に残る一節があります。
 彼は生涯いろいろなラマに師事するのですが、その中の一人、ヨンジン・リンポチェというラマとの別れの場面です。当事、中国共産党軍のチベットへの武力制圧が激しさを増し、有名な高僧たちも次々と投獄や弾圧を受けていました。この時期、ダライ・ラマを初め、多くの高僧がインドへ亡命を始めており、若き日のケツン・サンポも、ヨンジン・リンポチェ師に「一緒にインドに行きましょう」と誘うのですが、ヨンジン・リンポチェ師は、「わしはもう年寄りだ。人の世にはもう必要のない人間だ。だから、中国の友人たちが何をしでかそうと、わしはここを出ないよ」と言って、それを断り、長い独居修行に入るのです。
 お互いにこれが今生の別れになるだろうことを予見していた二人は、そこで最後の会話を交わすのですが、ヨンジン・リンポチェ師はケツン・サンポに向かって、最後にこのように言います。

「この人生に執着があると、死ぬときには後悔が生まれる。死の時に決して後悔などしないように、生きているうちに、全力を尽くしておくのだよ。」

 そしてこの
「生きているうちに、全力を尽くしておくのだよ」
という言葉を、最後にリンポチェは、何度も繰り返したといいます。

 単純ですが、心にしみるメッセージですね。

 もちろんこの文脈では、リンポチェがケツン・サンポに言った全力とは、悟りのために、あるいは菩薩になるための修行に全力を尽くせ、ということでしょう。

 しかし普遍的なメッセージとしては、まだ悟りを求めていない人であっても、悔いのないように、あらゆることに全力を尽くして生きろということでしょう。
 何が正しいのか、今何を自分はやるべきなのか。それは皆、ずっと模索し続けていくことでしょう。しかし今の選択が正解か不正解かは別にして、とにかく全力を尽くすべきです。そしてそれによってのみ、自分の道がはっきりと見えてくるでしょう。
 生きているうちに。--死はいつ来るかわからないからですね。

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四つの悪魔

2010-05-14 16:28:45 | 経典の言葉・聖者の言葉

四つの悪魔

マチク・ラブドゥンマ



 聞きなさい、わが息子よ。わたしは、悪魔の本性をあなたに説こう。
 われわれが悪魔と呼ぶものは、非常に、非常に、巨大で、すべて黒く染められている。
 誰がそれを見ても、真に恐怖し、頭から爪先まで身震いする。
 だが悪魔は、実際には存在していないのだ。

 事の真実はこうだ。
 ――解脱の達成を妨害するものはどんなものであれ、悪魔である。
 愛する優しい血縁者でさえも、彼らがあなたの修行の邪魔をするならば、悪魔となりうる。
 それらすべての中で最も強大な悪魔は、永久で独立する本質として自我を信じることである。
 もしあなたが、この自我への執着を壊さないならば、悪魔は、あなたを高揚させたり、下落させたりし続けるだけであろう。
 よってあなたは、賢明に、熱心に、この「自我を信じる」という悪魔を破壊する修行をしなければならない。

 それから、このエゴへの執着と関係して起こる三つの他の種類の悪魔がいる。よって、全部で四つの、破壊されねばならぬ悪魔がいるのだ。
 それらは、有形の悪魔、無形の悪魔、快楽の喜びの悪魔、主観性の悪魔と呼ぶことができよう。 
 しかしそれらすべては、自我を信じることに関係している。



◎有形の悪魔

 まず最初に、有形の悪魔といわれるものを考えてみよう。
 目は、色と形を見る。
 楽しみであると判断される色形は、魅了する性質を創り、不快と判断される色形は、嫌悪を生み出す。
 同じことが、耳が音を聞くとき、鼻が匂いを嗅ぐとき、舌が味を味わうとき、そして身体が触覚の感覚を経験するときに起こる。
 快の感覚の対象は魅惑し、不快の感覚の対象は嫌悪感を抱かせる。
 そして、あなたは渇愛か嫌悪によってとらえられるのだ。わたしはあなたに「それらは悪魔だ!」と伝えるだろう。

 それらが真実であるかのように、この対象を渇愛することと嫌悪すること、この感覚の経験への取り付かれたような考え方――これらは、感覚を持つ存在の苦しみと不幸の原因となる様相にほかならない。
 それらは、絶えず続いて存在する欲求不満の流れに、すべての存在を縛り付ける。
 よって、それらは悪魔と呼ばれる。
 そしてこれらの悪魔は、快・不快の感覚の対象は実在でリアルであると信じることであるから、それらは有形の悪魔と呼ばれる。
 わが息子よ、そのような快いものや悪いものへのすべての渇愛やとらわれは悪魔である。そのような渇愛やとらわれを破壊しなさい!
 
 わが息子よ、さらに深くこれを熟考しなさい。――われわれが見る色や形は、存在としてそこにあるとはいえ、その存在にほかならないものは、それ自体は真実ではない。
 存在するとはいえ、この構造には、不変のエッセンスがない。
 あなたはこう理解しなければならない。――本質的にあらゆる形の真の受容や拒絶は存在し得ないのだ!
 真には、あなたは形の現われを止めることはできないが、ただの現われであるものにすがる必要はない。
 現われに過ぎないものに夢中になることをやめることによって、あなたは、色・形から来る障害から解放されるだろう。
 そして、音、匂い、味覚、身体的感覚から来る障害からも同様に解放されるだろう。

 あなたが、形あるものがいかにして悪魔であるか、あなたがどのようにしてそれらから自身を解放させることができるかを正確に理解することを、わたしは望む。




◎無形の悪魔

 この系統の息子であるあなたよ、よく聞きなさい。次にわたしは、無形の悪魔について、そしてそれらがどのように作用するのかについて述べよう。
 注意して聞きなさい。そしてそれを堅く心に留めておきなさい!

 それらは感覚の対象としては実在的に現れないので、われわれはそれを無形の悪魔と呼ぶ。
 もっと正確にいえば、それらは、心そのものの中に生じる多種多様の快・不快の経験である。
 われわれを怖がらせたり苦しめる経験を、われわれは悪と呼ぶ。一方、快活的で、情熱的で純粋な経験を、われわれは神と呼ぶ。
 あなたが、自分の心をそれらのどちらかに巻き込ませるならば、感情的に不安定になることに縛られるだろう。
 感情は具体的に存在しておらず、形あるものとして実体を顕現しないとはいえ、それらのためにあなたがあちらこちらに奔走するように、それらはやはり、あなたを害するための確かな力である。

 よって、この場合もやはり、それらは悪魔と呼ばれる。
 そして、それらが不変の本質がなく、有形のものとして存在していないがゆえに、それらは無形の悪魔と呼ばれる。

 そして実際には、そのまさに始まりから、われわれが神と呼ぶ善も、われわれが悪魔と呼ぶ悪も、有徳あるいは悪徳の性質にひどく取り付かれた心そのものでさえ、本当は、ずっと、髪の毛の先ほども存在していなかったのだ!
 それらは、あらゆる土台から解放されたただの非実在に過ぎない。

 あなたは、どのような感情の執着も抑制してはいけない。
 良いか悪いかのどのような経験が生起しようとも、あなたの意識からそれらを無理やり引き出そうとしてはならない。
 それらから派生する思考に巻き込まれるべきでもなく、概念にはまり込んでもいけない。
 どんな思考や記憶が心の中に生起しても、ただそれらをあるがままにするのだ。

 すべての精神的な活動は、ただ心の大いなる広がりのきらめく輝きだけなのである。
 この心は、大海のようである。
 波はその水面で押し寄せるが、大海そのものは、決してどこへも行かない。
 そのように、どんな快・不快の事物が生起しても、それらについて思考することによって、それらをより荒立ててはならない。
 もしそれらをほっておくならば、無形の悪魔は、自分自身で消えて行くだろう。





◎快楽の喜びの悪魔

 わが息子よ、次に、快楽の喜びの悪魔の作用について分析してみよう。
 確かな心の境地は、喜びや活力のような、心を夢中にさせる特質を生み出す。
 そのような経験に魅了され、世俗的な人々は、それらを生じさせる状況を永遠に追求している。
 例えば、富と名誉を集め、多数の取り巻きを招く者達がいる。
 あるいは、悪霊を支配するために守護神を観想したり、苦しみと病を緩和するために魔法の言葉をぶつぶつとつぶやく者達がいる。
 彼らは、神、悪魔、人間たちをたまらなく魅了する身口意の放射力を開発する。
 そして彼らの信者たちは、彼らを、食物、富、享楽、そして、無量の奉仕と名誉であふれされる。 
 結果的には、そのような喜びや快楽は、解脱への道を妨害する膨大なプライドや慢心を引き起こす。

 その上、これらの快楽の喜びの悪魔といわれるものは、架空の心の投影に基づいているだけである。
 真実には、どんなものが現れようとも、どれだけそれが現れようとも、そのような客体をつかむ主体は、本当は存在しない。
 現われも、心も、その二つの間の相互作用も存在しない。
 心の中に生じる喜びも、幸福も存在せず、それらを引き出す客体も、髪の毛の先ほどさえも、絶対的ないかなる存在も持たないのだ!

 あなたは、このすべてが幻影や夢のようであると理解することができるだろう。よってそれを心に深く刻みなさい。
 これは、たかが夢のような、幻影的な性質に巻き込まれる愚かな心に過ぎない。
 これをあなたの内側の経験にしなさい。そしてあなたは、たとえそれが心によって客体化されているとしても、実際には全く何も存在していないその過度な興奮から完全に解放されるだろう。
 すべてのものの際限のない空性という偉大性に信を持ち、すべての現象は幻影であり、夢のようであると悟りなさい。
 夢と幻影をあなたの道としてとらえなさい、そして、快楽の喜びの幻影の悪魔を破壊しなさい。
 そしてあなたは、幻影や夢のような人生の真の意味を発見するだろう。





◎主観性の悪魔

 わが子よ、四つ目の悪魔は、主観性の悪魔である。
 すべての他の悪魔の根は、主観の中で出会う。よって、根源であるそれを断ち切ることが最も重要である。

 この主観性とは、自我を信じることである。
 自我を信じることは、人生の正しい航路を踏み外すすべての原因である、あらゆる悪魔の根なのだ。
 われわれが自己でないものを自己であると取るや否や、心は感情に動かされて不安定になる。
 われわれが主観と呼ぶものは、生起するあらゆる楽や苦を取ること、そしてそれが究極的な真実であるとしてとらわれること、という意味である。
 
 われわれが「わたし」そして「わたしのもの」としてとらえる内側と外側のこの現象界のすべての実在物を観察して、この主体的な場に引き込まれる客体と、この客体を場に引き入れる主体の双方は、全く何も存在していない、という高度な理解を得ることによって、その実相は認識される。
 
 あなたが解脱に達するのを邪魔し、現われを真実として錯覚させる、これらすべての悪魔を排除しなさい。
 もはや楽や苦の経験を追いかける主体がなくなったとき、知覚と欲求のすべての架空の心の判断が消滅したとき、心が為さなければならないと仮定するあらゆることは、はがれ落ちるだろう。


 さあ、あなたはおそらく、この自我へのとらわれを崩壊させる方法について、少しは理解できただろう。
 あなたは、感情の無制限の流出を阻止し、内側と外側の執着から解放されなければならない。
 あなたは、いかなるものへの執着の中にも真実はないと、はっきりと認識しなければならない。
 あなたが、現象を真実に存在すると誤解することを止めたとき、あなたは、究極的な真理の本質は、広大で空っぽな空(そら)のように非存在であると理解するだろう。
 そしてあなたは、主観性の悪魔と、それらと共に感情の不安定性さから生じるすべての悪魔を破壊するだろう。

 簡単に述べると、自我が真実として存在するならば、悪魔も同様に存在する。
 自我が存在しないならば、悪魔も同様に存在しない。
 そして、存在しない自我への障害や妨害は存在し得ないだろう。
 恐怖は存在しない。――最初から最後まで、おびえは存在しない。

 生来の意識は、あらゆる種類の制限から解放される。
 意識を、知られるものすべてに広げることで、あなたは四つの種類の悪魔の各々からの解放という果実を味わうだろう。


 これで、四つの悪魔の目録と、それらを破壊し、自我が解放された自由に達する方法の教えを終了する。
 この教えは、短く、シンプルな概要に過ぎないが、わたしにとって息子のようであるあなたと、それを聞く幸運を持つすべての者よ、この教えをあなた方の心に浸透させなさい!
 早く、熱心に、この教えに没頭しなさい。
 あなたの中に、受容力のある慈愛の心を生じさせなさい、そして他者の幸福のために、あなたの意識を広げなさい。

 これが、わたしが伝えなければならないことである。
 
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